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215.指南・考~導く方向・見つける方法~

師匠のもとに入門してまもない、まだ芸名すらもらっていない頃だった。
師匠の鞄を持って新幹線の新大阪駅まで同行することになった。
駅につくと、二番弟子の桂蝶太兄(昭和63年没、享年36)が待っていた。
師匠とはそこで別れたのだが、そのあと兄弟子と二人で喫茶店に入った。
今思えば、師匠がわざわざ兄弟子を呼び寄せたのであろう。
蝶太兄は芸界のしきたりについて色々教えてくれた。
挨拶の仕方に始まって、誰を「師匠」と呼び、誰を「兄さん」と呼ぶのかなど、
事細かに教示してくれた。そんななかで一番印象に残っているのはこんなひと言だった。

「うちの師匠は
いちいち教えることの少ない人やからな。
まぁ、これまでの学校とは違うんやから、
しっかり自分で盗んでいかなあかんで」
 

それに、蝶太兄によると師匠は天才肌で
感覚的に何でも器用にこなしてしまう人なので
「なぜ弟子がそれをできないか?」については少し疎いところがあるという。
「野球選手に例えるなら長嶋さんかな」とも言った。


春蝶、立ち切れ、縮小版
撮影:後藤清



ぼくが入門してちょうど10年目、師匠が亡くなると
今度は筆頭弟子の桂昇蝶兄がよく稽古をつけてくれるようになった。
それは生前、師匠につけてもらった咄のおさらいから始まった。
兄弟子はぼくにこう言った。

「あのなぁ、お前、師匠の咄を
ちゃんと聞いてなかったやろ?
師匠はそんなふうにしてたか?」


兄弟子の稽古は息の詰め方や声のピッチに至るまで実に丁寧に教えてくれた。
それは「春蝶(先代)落語」の分析でもあった。
目から鱗の連続にぼくはただただ感嘆するばかりだった。


春蝶の家族と共に
師匠のご家族と共に撮った写真はこれ一枚きりである。
奥さんが「あんたも入りなさい」と言ってくれたので写真に納まることができた。
師匠の右手の男の子が現・三代目春蝶。



あれは「天満天神繁昌亭」という落語専門の定席小屋ができてすぐの頃だから、
今から12年程前のことだ。
高座を下りてきたぼくを同門の春駒兄(平成25年没、享年62)が舞台袖へと手招きした。

「あのな、あそこの台詞やけど、
なんで押すねん。
引いたらもっとウケるのに。
お前さんは肝心なところで押してしまうやろ。
引きが大事やで」。


そのあと、春駒兄はニヤリとしながらこう付け加えた。

「…ということを、ぼくは春蝶兄から学んだ」


春駒遺影
桂春駒(享年62)



そんな兄弟子らに共通していえるのは、
それらの「春蝶(先代)落語論」が手取り足取り教えてもらったわけではなく、
それぞれが自ら気付いて導き出したものであった。

誤解のないように断っておくが、
うちの師匠が「教える」ことにいい加減だったわけではない。

「自分で考えさせる」ということに一貫していたのだろう。

それは弟子の叱り方に見てとれる。
まず弟子の失敗に対して懇々と説教を加えることはしない。
自分の何が悪かったかを述べさせ、これからどう改めるかを聞き、
最後に「次はないぞ」の言葉で締めくくるのが常だった。

かつてぼくがウェブ上の編集学校に学んだとき、
そこでは「指導」でも「教育」でもなく「指南」という言葉を使っていた。
おそらくこれに近いものがある。

※ウェブ上の編集学校(イシス編集学校)


「指南」の語源は、古代中国における「指南車」というものに由来している。
馬が引く車の上には仙人のような人形を取り付けられていて、
その人形が方位磁石によって常に南を指さすという仕掛けが施されていた。
その車のことを「指南車」という。そこから転じて「導く」ことを「指南」と言うようになった。

師匠は弟子が進むべき「方向」を示唆する存在。まさに「指南車」。
あれこれ悩ませることで具体的な「方法」は自ら導き出させる、

そんな意図がこの言葉には含まれているような気がする。



「これまでの学校とは違うんやから、
しっかり自分で盗んでいかなあかんで」

お盆が近いからなのか、ふと蝶太兄のことを思い出した。


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」の連載コラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。


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214.「笑われる」ぼくが、「笑わせる」喜びに目覚めた瞬間~二代目春蝶とWヤング・平川幸雄師匠との共通点とは?~

小学校時代のぼくは
とかく劣等感の塊だった。

寝小便たれは治らず、勉強もスポーツもからきしダメ。
授業中は窓の外をボーっと眺めていることが多かった。
当然、担任からもよく叱られた。


ある日のホームルームのこと。終礼の挨拶をするため、
その日の当番が「起立」と声を掛けた。
皆は一斉に椅子から立ち上がった。
しかし、ぼくはそれが聞こえているにも関わらず
一人じっと椅子にすわり込んだまま。

とにかくボーっとした子だった。

級友の一人が「森くん(ぼくの本名)がまだ立っていません」と報告した。
そのとき、担任が吐き捨てるように言った。

「放っておきなさい。
森くんは普通の子じゃないんやから」


以来、ぼくの夢は「普通の子になる」になった。


花團治、阿弥陀池しんねこ
撮影:相原正明


ところで当時、ぼくの唯一の楽しみといえば
土曜日の午後から続けて放送されるお笑い番組だった。
ぼくに限らず、大阪の子どもにとって土曜日は特別の日だった。
学校が終わると一目散に家に戻り、
「吉本新喜劇」「松竹新喜劇」「お笑いネットワーク」
このラインナップは大阪人にとって必須科目のようなもので、
これらによって大阪人としてのアイデンティティを
確立していったといっても過言ではない。
とりわけぼくが夢中になったのは
吉本新喜劇での「花紀京岡八朗」による掛け合いや
松竹新喜劇「藤山寛美」の阿呆ぶりだった。
また、「木村進」のイッヒッヒという独特の笑い方をマスターすることで
一種のステイタスを得ることができた。

そんなある日のこと、クラスで
「お楽しみ会」というものが催されることになった。
それはクラスメイトそれぞれが何か一芸を披露するというもので、
内容は合唱でもお芝居でも何でも良かった。

「では、気の合った者同士でグループを作りなさい」という
担任の号令と共に皆が動き出した。
「グループができたところから座りなさい」という声と共に
皆が床に座り出した。ぼくは内心とても焦っていた。
誰もぼくをグループに入れようとしてくれない。

とうとう全員が座ったと思った、とその時、もう一人だけ
ぼくと同じようにポツンと立ちつくす子がいた。ぼくは彼に言った。

「一緒にやれへん?」「ええよ」

彼もまたぼくと同じように仲間外れの身の上だった。
そのとき、ぼくが彼に提案した演し物は漫才だった。
「じゃあ、ぼくが台本を作ってくるからね」

当日、本番を終えたぼくは
これまで味わったことのない興奮に包まれていた。

「人を笑わせるって気持ちがいい」

いつも他人から「笑われる」ことしかなかったぼくにとって、
「笑わせる」ことができたことは人生における大きな転機となった。

このとき見よう見まねでさせてもらったのが「Wヤング」の漫才だ。
「お笑いネット―ワーク」でのぼくの一番のお目当ては
「平川幸雄・中田軍治」のコンビだった。

「最近は野菜の値段も上がってきてねぇ。
……わし、こないだレジの姉ちゃんに言うたった。ええ加減にシイタケ!」
「ほんまにキュウリ(急に)上がってきたね」
「アスパラ(明日から)どうやって生きていったら」
「ホンマ、菜っ葉(なんぼ)でも洒落出てきますね」
「そんな洒落でもエノキ茸(ええのんか)?」
「いっぺん屁こいたろか、ピーマン」「白菜(は、臭い)」……


ぼくらの世代でこの漫才を知らぬ者はいないだろう。
自尊心の芽生えとともに劣等感から解放してくれたこの漫才は、
ぼくにとってまさに記念碑である。

今はYouTube等でかつての演芸を見ることができる。
あの頃の懐かしい映像を見ながら思い出すのは、
一緒に楽しむ母や弟の笑顔であり団らんの風景。
テレビは家族みんなで見るものだった。
そこから「お茶の間」という言葉が生まれた。
笑いはときに誰かを傷つけることもあるが、
あの頃のお笑いは誰もが安心して笑っていられた。


高校いっちょもみざくら
ぼくが高校の落語研究会に入部したのは、当時、先輩から「漫才で一人で演るのが落語やねん」と誘われたのが最初のきっかけだった。今となっては「よくぞ誘いこんでくれた!」と感謝している。



あれは5年ほど前だったか、
ぼくはとうとう憧れのWヤングの平川幸雄師匠とご一緒する機会に恵まれた。
舞台袖でぼくは思わず直立不動に固まってしまった。
「あ、あの、わたしは春蝶(先代)の弟子で……」と言ったとき、

幸雄師匠は「ああ、春蝶やんなぁ。
ぼくと春蝶やんは生年月日が同じやねん」

と気さくに語り掛けてこられた。

春蝶、立ち切れ、縮小版
二代目桂春蝶(撮影:後藤清)


それからまたずいぶん経ち、つい先日は大阪ミナミのとあるバーにて。
ぼくはここには必ず一人で来るようにしているが幸雄師匠も同様だった。
たまたま居合わせた客と気さくに会話を交わす師匠の姿。
この日、ぼくは小学生の頃に師匠の漫才に救われたことや
人生の道をつけてもらえたことのお礼をようやく伝えることができた。

平川師匠と400
平川幸雄師匠とぼく(ミナミのとあるバーにて)



……桂春蝶(先代)と平川幸雄という、
ぼくにとって大恩人であるお二人は共に
「昭和16年10月5日生まれ」だった。



二人の誕生日が一緒やなんて、
これがホンマの生誕のへきれき!


チャンチャン。


この原稿は、『大阪保険医雑誌』に連載中のコラム『花團治の落語的交遊録』をもとに加工修正したものです。



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213.野球嫌いなぼくが何故「虎キチ」師匠に入門を乞うたか?~アカン奴ほど愛おしい~

ちょうどこの原稿を書いている最中、
世間では連日ワールドカップの話題で持ち切りである。
しかし、ぼくはこの手の話がどうも苦手だ。
それはおそらく少年期のトラウマからきている。
ぼくは大の運動音痴で、ことに団体球技の類となると
身体中が緊張して動けなくなる。
野球では大きなフライに誰もがアウトを確信した瞬間、
ぼくがポトリと落としてしまうのがお決まりだった。
いつもそんなふうだから、いつしか級友たちは
ぼくを野球やサッカーに誘うようなことはしなくなったし、
授業の一環などでぼくと同じチームになった者はあからさまに嫌な顔をした。
そんなことがトラウマとなって、
いつしか球技そのものから距離を置くようになっていった。

とよなかエッセーカラー【400】
※過去ブログ『生まれ故郷~負の想い出より~』はここをクリックしてお読みください。



ぼくの師匠の二代目春蝶は言わずと知れた
大のタイガースファンであった。
30年程前の大阪では阪神タイガース関連の番組ともなると
まず真っ先に名前が挙がるのはうちの師匠だった。
タイガースの勝ち負けに一喜一憂する姿を入門する前から幾度となく見ていた。
そんな師匠のもとに野球嫌いのぼくが入門を乞うた。
このことを不思議に感じる人もいるだろうが、
ぼくが猛烈に師匠に惹かれたのは師匠が「阪神ファン」だったからこそだと、
今になって分かった気でいる。

春蝶の家族と共に
師匠の家族と共に撮った写真はこれ一枚きりである。
奥さんに促されるように収まったように記憶している。師匠の家に住み込みの時代。
師匠とお揃いのセーターを着た少年が、師匠の長男・濱田大助(現・三代目春蝶)


春蝶とツーショット
左:ぼく、右:三代目春蝶


昭和59年、二代目春蝶はディスコメイトレコードから
『たのんまっせ!阪神タイガース』という曲を発表している。

強かったなあ、あの時の阪神は、十一連勝!と、喜んでいたら、あと八連敗。
そこが、また阪神らしいところかねえ。
勝つ時はムチャクチャ強いけど、肝心な時にはよう裏切られるねん。思たら、
昭和48年最終戦、巨人に勝ったら優勝やいう時に9対0の完敗。
あの時は三日間寝込んでしもうた。あの悔しさ分かるか。
選手は替っても、ファンは死ぬまで阪神ファンやねん。
そこんとこ分かるんやったらホンマに頼んまっせ!。



「判官贔屓」という言葉があるがまさにこのことだ。
落語というものはどこか「判官贔屓」である。
落語は愚かや恥ずかしさの連続であり、
それを受容するところに落語の存在価値がある。


二代目春蝶、ノック、たかじん、ざこば
関西テレビ『男の井戸端会議』の収録
左から二代目春蝶、横山ノック、やしきたかじん、桂ざこば
(写真提供:三代目春蝶)


例えば師匠がよく演じた「昭和任侠伝」(桂音也・作)。
映画のなかの高倉健が演じる任侠道に生きる男に憧れ、
自らもそうありたいと願うがことごとく失敗を繰り返す咄。
「刑務所に入ったら箔が付く」と思い込んだ男は路上に店を構える八百屋から
バナナを一本盗もうとするがたちまちのうちに取り押さえられる。
店の大将は男を押さえながら怒るでもなくこう言う。
「…誰やと思たらお前、角の八百屋の子やないか。…家にぎょうさんバナナあるのに」。

「しゃあないやっちゃ」と呆れつつも男の行為をどこかオモシロがっている。

『替り目』という咄を現代版に焼き直した『悪酔い』では、
虚勢を張りつつも女房の尻に敷かれる亭主。

人間のダメさ加減を蔑むのではなく、むしろ愛おしく見る眼差し。
このことは師匠が阪神ファンであることと全く符合している。
ぼくは師匠の「弱者=小市民を応援する姿」に惚れたのだ。

ぼくがいくらドジを踏んでも、師匠から
あからさまに嫌な顔をされたことは一度だってない。
それどころか「何をしとんねん」とぼやきつつ、
むしろほんの少し暖かい笑みを浮かべることすらあった。
ぼくはこの受容にどれほど救われたことか。
この感性がペーソスのもとであり、師匠の咄そのものであった。

花團治、動楽亭1-400
撮影:相原正明


人は誰もが強い者に憧れる。
常勝チームには多くのファンがつく。当たり前である。
しかし、その一方で弱いチームを応援し続ける人もいる。
今年のワールドカップは
ベルギー代表に惜しくも負けてしまったが堂々の16位だった。
勝者の雄叫びや勝利に歓喜する様もいいが、それよりも

敗者の弁に深みを感じたり、
敗けた者への賛辞の声
の方が心に響いてくる

…と思うのは、ぼくが負け戦の常連だからだろうか。



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」の連載コラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



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212.6月15日に思うこと~大阪大空襲と花團治~

もっともっと、落語をしたかった。
「初代」も「二代目」も
きっとそう思っていたに違いありません。


今から73年前の今日、昭和20年6月15日。
先代(二代目)花團治(花次改め)は、襲名した翌年、
「第四次大阪大空襲」によって命を落としました。

ご遺族の方によると、防空壕の入り口あたりで
亡くなっていたらしいとのことです。

二代目花團治500
二代目花團治



ちなみに、初代の花團治は「吉本興業専属第一号」でした。
そんな栄えある名跡にも関わらず、
なぜ「花團治」は70年もの間、途切れていたのでしょう。


初代花團治500



「花團治」代々については、
芸能史研究家の前田憲司先生が調べて下さってます。


以下が二代目花團治の経歴です。

大正4・5年頃に初代花團治へ入門し、花次と名付けられる。
修業時代があけて落語家として活動を始めた頃に、
上方落語界は吉本が統一することになり、
大正15年には若手落語家が中心となったグループ「花月ピクニック」の
メンバーとなって活躍し始める。
花月ピクニックには、後の五代目笑福亭松鶴や初代桂小春團治らがいた。
しかし、昭和初期になると、落語の衰退期と重なる不運に遭い、
漫才重視の方針から、花次も桂金之助と軽口のコンビを組まされる。
兄弟子の花柳も桂花咲とコンビを組まされた。
その後は、若手落語家が中心となって結成された吉本のバラエティ一座
「喜劇民謡座」に加入して幹部となり、一座の人気俳優となるも、
落語への愛着は捨てきれず、昭和12年に結成されていた楽語荘へ加入。
師匠の没後に五代目松鶴の勧めで、二代目花團治を昭和19年に襲名したが、
翌年6月の大阪空襲で亡くなった。
得意ネタとして『黄金の大黒』『いかけや』などがある。


二代目喜劇民謡座400
「喜劇民謡座」のパンフレット。「花次」の名が確認できる。


▶桂花團治公式サイト「桂花團治代々について」




「吉本興業」の歴史と重ねがら、「花團治」を追ってみたいと思います。
↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓

▶大正元年(1912) 
・吉本吉兵衛・せい夫妻が『第二文芸館』(今の天満天神繁昌亭の前の駐車場あたり)で寄席経営を始める。
・初代花團治が吉本興業と専属契約を結ぶ。(専属第一号)

▶大正2年(1913)
・吉本興業が「芦辺合名社」を名乗る。


初代花團治チラシ
「花團治」の治が「次」となっていますが、もともと「団治」名は、
歌舞伎役者の名前を真似てつけられたもので、元は「次」だったらしいです。



▶大正3年(1914)
・吉本が寄席を次々と買収、チェーン化に乗り出す。

▶大正5年(1915)
・吉本が「吉本興業部」を名乗る。
・初代花團治のもとに、二代目花團治が入門、花次を名乗る。

▶大正10年(1920)
・初代桂春團治が吉本の専属となる。

▶大正15年(1925)
・花菱アチャコが千歳家今男とコンビを組み、吉本の専属に。
・「花月ピクニック」が結成、二代目花團治(当時は花次)も加入。


二代目花月ピクニック400
蔵:前田憲司

二代目花月ピクニック2-400
蔵:前田憲司

二代目花月ピクニック3-400
蔵:前田憲司
手前から三人目の男性が二代目花團治。その横の女性を挟んで花菱アチャコの姿が確認できる。


▶昭和3年(1928)
・吉本の漫才師が48組となる。

▶昭和5年(1930)
・エンタツ・アチャコがコンビ結成。
・漫才の人気の高まりと共に、落語は隅に追いやられ
 落語家も「軽口」と称し、漫才を演じるようになった。


▶昭和11年(1936)
・五代目笑福亭松鶴が私財を投げうって『上方はなし』を創刊

上方はなし400
「上方はなし」の復刻本。

▶昭和12年(1937)
・五代目笑福亭松鶴が『楽語荘』を設立。
 初代・二代目共に、五代目松鶴に誘われ参入。


当時のメンバーは以下の通り。
二代目笑福亭福圓、二代目笑福亭福松、初代桂春輔、六代目笑福亭松鶴、
三代目笑福亭枝鶴、橘ノ圓都、笑福亭圓歌、四代目笑福亭松竹、三代目桂米團治、
二代目桂米團治(後の四代目桂米團治)、三遊亭志ん蔵、笑福亭鶴蔵、笑福亭小枝、
初代桂花團治、二代目桂花團治、二代目三笑亭芝楽、橘家圓坊、桂三八、
初代桂南天、二代目桂談枝、桂小米喬、二代目林家染之助、二代目林家染三


▶昭和16年(1941)
・太平洋戦争勃発

▶昭和19年(1944)
・弟子の花次が二代目桂花團治を襲名

▶昭和20年(1945)
・二代目花團治、
「第四期大阪空襲」により死亡。



ピース大阪400
大阪城公園にある「ピース大阪」には、当時の様子が生々しく再現されています。

▶「ピース大阪平和センター」のサイト




「初代花團治」は吉本興業の専属第一号でしたが、
漫才ばかりがもてはやされる寄席に嫌気がさし、
芸界から身を引きました。
五代目松鶴に誘われて落語家に復帰したのは、
廃業から17年後、「初代花團治」晩年の頃です。


「二代目花團治」は吉本バラエティー「喜劇民謡座」の幹部でしたが、
落語への思いが強く、五代目松鶴率いる「楽語荘」に参入しました。
花次から二代目への襲名も五代目松鶴の薦めによるものでした。


しかし、二代目花團治は襲名して一年後。
戦争の犠牲となりました。



……初代も、二代目も、もっともっと、
落語をしたかったに違いありません。
そう思うと、この名前が持つ重さを感じずにはいられません。
「花團治」の名を継いだ者として、
存分に落語ができる時代に生まれたラッキーな落語家として、
悔いのない落語家人生を全うしたいと思うのです。合掌。

2018年6月15日、三代目桂花團治




花團治の会4の400

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211.ハロー効果~座布団までの歩み~

落語家のある師匠がこんなことを言われてました。
「売れてる奴は高座に現れた瞬間から顔が違う」

そういえば、あるマジシャンも
舞台へ出るときの心得についてこう言われてます。

「ステージの上手(かみて)から出るときは、
最初の一歩は右足を出します。
下手(しもて)から出るときは左足を出します」

ちなみに、客席から向かって舞台の右手を上手といい、
左手を下手といいます。
つまり、身体をひねらず観客に向かい合う形で出ることで
「自分のより広い部分をお客に見せる」ことができる
というのです。
なるほどこの逆の出方をすると、
観客に目につくのは演者の肩と横顔ということになります。
足の出し方ひとつで観客に与える印象が
大きく変わってくるものです。

最初に観客の気持ちを引き付けることを
我々は「ツカミ」と呼んでいますが、
これは舞台に現れる最初の一歩から始まっているのです。

四代目襲名いざ初舞台400
四代目春團治(襲名披露公演)


ところで、講演の講師として呼ばれることが多いのですが、
主催者からよくこんなお願いをされます。
「壇上に上がられましたらまず先生の紹介をさせて頂きますので、
その間そのまま立っていてもらえますか?」
でも、そのたびごとに
「できれば紹介の間は舞台袖に待機して、
出囃子と共に登場させてもらうというわけにはいきませんでしょうか」と
やんわりお断りしています。
自分に対する歯の浮くような賛辞を
観客のいる前でどんな顔をして聞いていたらいいものやら……。
何より危惧するのは、それによって生じる「間延び」です。
先に申した「ツカミ」どころではありません。
むしろ「ダレ場」になってしまいます。
お客の前に身をさらしてからのしばらくがどれほど重要なことか、
冒頭の例で明らかでしょう。
もちろん紹介の間のウェイティングを逆手に取って
「ツカミ」に変えるという方法もありましょうが、
未熟な私めにはまだまだ……。
それをご理解頂きたいのです。

イシス3
「編集学校」で講義する花團治

▶謎掛けのつくり方(要素・機能・属性)


また、こんなアクシデントもよくあります。
こちらが座布団に座って高座で喋りだしてからの
スタッフによるマイクの位置調整。
事前に音響チェックは済ませていたはずなのですが、
おそらく後方の観客から「聞こえない」というクレームでも入ったのでしょう。
喋っているすぐ目の前で作業されるのは目障りこのうえない。
でも、こういう時ほど舞台上の演者は気をつけていなければなりません。
つい不愉快な顔をしてしまいがちですが、
その表情も観客にはばっちり見られています。
そんな怪訝な表情が高座に影響しないわけがありません。
ですから、よほど時間が掛かりそうなときは
一旦舞台袖に戻って出直すか、
その音響チェックもパフォーマンスとして見せてしまうかです。

高座座布団400

最近よく「ハロー効果」という言葉を耳にします。
主にビジネスの世界で使われているようですが、
「ツカミ」の問題ともよく似ています。
「ハロー」とは「後光がさす」の後光、聖母の光背や光輪のこと。
喋りだすまでの第一印象
です。
どれほど良いプランを持ってプレゼンテーションに臨もうが、
ここで失敗すると相手の印象には残らないもの。
ぼくは現在、「若手落語家グランプリ」の予選審査員をしていますが、
登場の雰囲気でつかんでしまう人は
不思議と良い結果を残す傾向にあるようです。
舞台袖から出囃子と共に小走りに登場する落語家もいれば、
舞台に顔を見せてまず深々とお辞儀をしてから座布団に歩み寄り、
坐ってまた改めて深々とお辞儀という落語家もいます。
どれがいいとは一概には言えませんが、
評価の高い落語家は登場の仕方ひとつとっても
それぞれ自身の型を持っています。


うちの師匠もよく言ってました。
「(どんな世界も)プロというもんには
すべからく理屈があるんや」

彦八まつり総踊り400

ぼちぼち連お稽古風景たま400

落語家の多くが美しい所作を身につけるため、日舞のお稽古に勤しんでいます。
(上:上方落語家ファン感謝デー”彦八まつり”での総踊り、
下:西川梅十三師匠に稽古をつけてもらう笑福亭たま)


舞台袖から座布団までのほんのわずかな距離ですが、
ここにもちょっとしたこだわりがあります。
今度、寄席に来られた際は「座布団までの歩み」
にも是非ご注目ください。

個人的には、
「いよいよわての出番だ!笑わしまっせ!」
といった、笑福亭福笑師匠の登場が好きです。

繁昌亭花團治襲名福笑400
左から、繁昌亭の恩田支配人、笑福亭福笑、桂一蝶、ぼく、桂梅團治、桂春雨
(繁昌亭「花團治襲名披露記念ウィーク」の楽屋にて)


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する月刊「リフブレ通信」の連載コラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。

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花團治の会4の400

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茨木ワークショップ2018の500
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210.「月亭可朝」と「若井はやと」の伝説~誰が喋ってもオモシロイ台本でウケてもオモシロないがな~

月亭可朝師匠が亡くなられた。
ギター漫談で売り出し、自ら作詞・作曲した「嘆きのボイン」は
80万枚のヒットを記録。トレードマークはちょび髭とカンカン帽だった。
(ちなみに、このカンカン帽はまとめて大量に購入していたそうだ。
「お客が欲しがりよんねん。帽子にサインしてあげてしまうもんやから
何ぼあっても足りへん」とおっしゃっていた)


『嘆きのボイン』

1.ボインは 赤ちゃんが吸うためにあるんやで
お父ちゃんのものと違うのんやで
ボインというのは どこの国の言葉
うれしはずかし 昭和の日本語
おっきいのんが ボインなら
ちっちゃいのは コインやで
もっと ちっちゃいのんは ナインやで

2.何で 女の子だけボインになるのんけ
腹の立つこと 嫌なこと しゃくな出来事あった日は
男やったら酒飲んで 暴れまわって憂さ晴らし
女の子なら何とする 胸にしまってガマンする
女の子の胸の中 日頃の不満がたまってる
それがだんだん充満してきて
胸がふくれてくるんやで

3.上げ底のボインは 満員電車に気をつけとくなはれや
押されるたんびに 移動する
いつの間にやら 背中へ回り
一周回ってもとの位置
これがホンマの「チチ帰る」やおまへんか
こらホンマやで


可朝師匠とぼく400
可朝師匠とぼく。2015年。上方落語協会情報誌『んなあほな』の取材にて(撮影:桂坊枝)

とにかくサービス精神旺盛な方だった。
選挙に出馬したこともあった。
公約は「一夫多妻制の確立と、風呂屋の男湯と女湯の仕切を外すこと」
どこまで人を食った人だろう。
また、無類の博打好きで、破天荒な私生活ばかりがクローズアップされた。
世間では落語をするイメージが薄いかもしれない。
けれども、ぼくは可朝師匠の『算段の平兵衛』『住吉駕籠』
といった古典落語が好きだ。
うちの師匠(故・二代目春蝶)は
『犬の目』という咄の稽古を可朝師匠からつけてもらったと言っていた。
うちの師匠の洒脱で肩の力の抜けた語り口はきっと可朝師匠の影響であろう。
実際、うちの師匠と可朝師匠は若い頃、
かなり頻繁につるんで遊んでいたらしい。
(待ち合わせは、市電が走っていた頃の寺田町の停留所だった)

それでとうとう博打好きまで乗り移ってしまった。


二代目春蝶、ノック、たかじん、ざこば
左から、二代目春蝶、横山ノック、やしきたかじん、桂ざこば。関西テレビ『男の井戸端会議』の収録。
(提供:三代目桂春蝶)



可朝師匠には今も幕内で語り継がれている伝説の舞台がある。
それは賭博の罪で長らく謹慎生活を送ったあとの久々の高座だった。
「いったいどんな咄をされるんだろう」と舞台袖には
多くの芸人が固唾を飲んで見守ったという。
座布団に座ってのまず第一声は「ホンマにホンマでっせ」だった。
これは可朝師匠の決まり文句でギャグのようなフレーズである。
これだけで客席はおおいに沸いた。そして次の言葉も「ホンマにホンマ」。
続けて「いや、ホンマだんがな」。
可朝師匠が口を開くたびに笑いが止まらない。
そのあともずっと
「ホンマにホンマ」「ホンマやでぇ」……
とうとう可朝師匠はこのフレーズだけで高座を押し切った。
腕時計を見ながら「時間が来たさかい」と扇子を仰ぎつつ
舞台袖に戻っていく後ろ姿に万雷の拍手が贈られた。


可朝の本400


このエピソードで思いだすのは、若井はやと師匠(2008年没)のことだ。
ぼくは出番をご一緒するたびよく飲みに連れてもらった。
元々「若井ぼん・はやと」というコンビで売り出し、
「横山やすし・西川きよし」の師匠方とは所属事務所は違えど
若手の頃からライバル関係にあった。
コンビ別れしてからのはやと師匠はピン芸人として、
道頓堀の『浪花座』という劇場の舞台によく上がっていた。
当時の浪花座は客入りも悪く、
500強の客席に50人足らずということも。
どこか場末の雰囲気さえ漂っていて、
舞台に上がった芸人が次から次と全くウケずに下りてきた。
ぼくもそのうちの一人だった。

「どうや蝶六(ぼくの当時の芸名)、今日のお客さんの雰囲気は?」
「すんません。(お客さんが)固まってる上から重しを置いてしまいました」

全く受けない高座を謝ると、はやと師匠は「そうか」と
ニヤッと笑顔を見せたかと思うと、「俺にまかせておけ」とばかり
余裕綽々と舞台に上がっていった。もちろん客席は爆笑に次ぐ爆笑。

若井はやと、若井やるき400
若井はやと師匠と、弟子の若井やるき(提供:若井やるき)


このあと立ち飲み屋で、はやと師匠はぼくにおっしゃった。

「今日のわしのネタの内容を覚えてるか?」

ぼくが返答に困っていると、それを見透かしたようにはやと師匠はこう続けた。

「内容なんかなかったやろ?
……朝起きて、歯磨いて、新聞に目を通して
……これといった内容なんてなかったはずや」


「けどずいぶんウケてはりました」

「そやねん。内容が無くてもウケさせられるねん。
若手はな、ネタの内容ばっかりにこだわりよんねん。
わしの今日の漫談を活字に起こして読んでみ、
オモシロいこと、何もあらへんで」。

若井ぼんはやと
若井ぼん・はやと(左がはやと師匠)



可朝師匠もはやと師匠もまさに「間」の妙技だ。
最後に、はやと師匠はこう付け加えられた。

「誰が喋ってもオモシロイ台本で
ウケてもオモシロないがな」。


……オモシロイ話をオモシロくない咄にしてしまうぼくには、
とても耳の痛いひと言だった。合掌。



※この原稿は熊本のリフティングブレーン社が発行する『リフブレ通信』に連載させて頂いているコラム
「落語の教え」のために書き下ろしたものです。




月亭 可朝:昭和13年(1938年)3月10日ー平成29年( 2018年)
神奈川県横浜市出身(同県三浦郡葉山町生まれ)、本名は鈴木 傑(まさる)。
昭和43年(1968年)4月のなんば花月での「桂小米朝改め月亭可朝」襲名披露において
「葬式調アングラ襲名」と銘打ち、舞台上に設けられた「桂小米朝の葬儀会場」で
笑福亭仁鶴が読経すると棺桶の中から可朝が飛び出すという奇抜な趣向を演じ、
これ以降自身のアクの強いキャラクターを押し出すようになっていく。
政治家に立候補したこともあったが、この時の公約は
「一夫多妻制の確立と、風呂屋の男湯と女湯の仕切を外すこと」。
もちろん落選。享年80。


若井はやと:昭和19年(1944年)8月14日 -平成20年(2008年 )12月8日。
昭和37年(1962年)に若井はんじ・けんじ門下となり、若井ぼんとのコンビで、
昭和43年(1968年)に上方漫才大賞新人賞、
昭和52年(1977年)上方漫才大賞奨励賞を受賞。
「しっつれいしました」などのギャグや、
ぼんの出っ歯を売りにしたハーモニカの芸で人気を博すも、
昭和60年(1985年)に解散。その後は、浪花座などで漫談を続けた。
息子は「親指ぎゅー太郎」の名で、芸人として活動中。享年64。




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209.命懸けの道成寺~能はロックだ!?~

”大鼓”と書いて”おおつづみ”と読みます。
「カーン」という乾いた音色が特徴ですが、
実はこの楽器、「世界で一番硬い楽器」だそうです。

”小鼓”は「ポンポン」と水を含んだような音ですが、
”大鼓”は乾いた高音。
”小鼓”はたえず息を吹きかけたりして湿らせた状態にします。
時折、舞台上で革にハァーしてる姿を見受けます。

余談ですが、モノを冷ますときの息はフゥーで、
温めるときの息はハァーですよね。
ちなみに飲酒検問のときはハァーで、フゥーはNGです。
フゥ―は吐くときに周りの空気を巻き込んでしまうので、
口のなかの湿気をそのまま与えるためにもハァーなんでしょうね。
だから、小鼓の革にもハァー。

一方、”大鼓”は革が乾いている状態でないとイイ音は鳴らない。
能楽堂の楽屋では年中”火鉢”を見かけますが、
これは革を乾燥させるためにあるそうです。

乾きて高鳴る大鼓・湿りて響く小鼓
大鼓と小鼓は、まるで夫婦のような関係ですね。

小鼓と大鼓400
右が小鼓、左が大鼓。(撮影:相原正明)


ところで、ぼくは夜間高校で「芸能鑑賞」という授業を受け持っています。
ある時、いつも眠そうな学生が、
目をランランと輝かせて
授業の教材ビデオを食い入るように見つめていました。
モニターに映し出されていたのは、
能『道成寺』”乱拍子”のくだり。


熊野参詣に訪れた若僧に、ある女が一目ぼれ。
しかし、その思いは若僧には受け入れてもらえず、
ついに女は蛇に化け、
寺の鐘のなかに隠れた若僧を焼き殺してしまいます。
その後、寺が新しく鋳造した鐘を納めようとした際、
一人の白拍子が舞を奉納させてほしいと申し出ます。
その白拍子、実はあの時蛇に化けた女性で、
いまだその思いをたぎらせ、障害を為そうと鐘のなかに籠ります。
クライマックスは、女をその鐘から追い出そうとする僧の祈りと、
再び蛇に姿を変えた女の情念との一騎打ち。
笛、小鼓、大鼓と、シテの激しい舞。

道成寺蛇
『道成寺』絵巻より


学生たちはこの場面にすっかり釘付け。
特に、ダンス好きな学生やバンドを組んでる学生の反応が
もう半端じゃありませんでした。

「サブイボが立ちました」
「なんかロック魂を感じるわぁ」

という感想まで飛び出しました。

蛇と女と鐘400
『蛇と女と鐘』福井栄一著(技報堂出版)

さて、つい先日のことです。
奈良の大和郡山でのイベントで
上方文化評論家・福井栄一先生とご一緒した際、
打ち上げの席上、『道成寺』の話題で盛り上がりました。

花團治「あの能の鐘の舞台装置って、結構重たいもんなんですか?」
福井「鐘自体は細い竹を編んで上から布を貼るんですが、軽すぎるとブラブラ揺れてしまうので、縁に鉛の重しを入れて調整するんです。それに、鐘入りのあとで使用する鬼女の面とか、装束、小道具などが仕込んであるから、総重量は80キロ以上にはなるでしょうね。それが数メートル上から落下してくる」
花團治「ぼくが謡を教わっている水田雄晤先生の父上は、鐘に挟まって大けがをされたそうです」
福井「鐘が下に落ちるタイミングや位置が悪いとシテの命に関わります。頸椎を損傷して半身不随になった方もおられるし…。鐘の中での着替えも、暗く狭い中で短時間で行わねばならず、シテのストレスは相当なものです。」
花團治「道成寺って、数ある能のなかでも、特にシテは大変そうですね」
福井「能楽師はこの曲を披くことでようやく一人前とみなされるんです。能楽師にとっての博士論文みたいなものでしょうか」


上田市長、三川、ぼく、福井500
左から、大和郡山市の上田清市長、上方唄の三川美恵子師、ぼく、上方文化研究家の福井栄一先生。



……聞けば聞くほど、大変な労力と気力を要する曲です。
実は近日、水田雄晤先生が、この『道成寺』に臨まれます。
水田先生は過去に二回、脳梗塞に襲われながら、
必死のリハビリで克服されました。
その先生が、父上が大けがをされた因縁をもつ演目を
敢えて選んだのは、それが父上の十三回忌追悼公演だからです。
いろんなプレッシャーを押し切って、
水田先生は『道成寺』を披く!と決められたのです。

(能楽師が初めてその能を勤めることを”披き=ひらき”と言います)

水田雄悟の舞
舞を舞われる水田雄悟先生。(撮影:相原正明)

水田雄吾とぼく400
水田先生とインタビューをするぼく。能楽のことをいつも分かりやすく丁寧に教えて下さいます。
(撮影:相原正明)

能とオペラ出演者400
この日の公演は、能とオペラの共演でした。高校の芸能鑑賞会にて。(撮影:相原正明)


今回の『道成寺』の背景には
作品以上のドラマがあります。


公演日の5月20日、ぼくはあいにく高座があり
駆けつけることはできませんが、
水田先生が全身全霊で演じる「道成寺」を、
一人でも多くの方に観ていただきたいです。

イマドキ学生達を唸らせる「ロックな能」。
魂の熱演をぜひご覧ください。





水田13回忌500


水田13回忌500裏面




お薦めの写真↓
▶「能とオペラの共演」
(相原正明つれづれフォトグラフ)
是非、こちらをクリックして
迫真の舞台風景をごらんください。



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208.映画『福井の旅』と『男はつらいよ』~はみ出しものの視点から~

その兄弟子は、もうどうしようもない落語家だった。
平気で仕事に穴をあける、朝から酒浸り、
自分勝手、飽き性、協調性ゼロ……
とにかくだらしがないこと、このうえない。

でも、どこか憎めない。

ある日、そんな兄弟子から弟弟子のもとへ一本の電話。
「とにかく福井まで来てほしい」という。
それだけ言うなり、プツッと電話を切った兄弟子。
大阪でラジオのレギュラー番組を持ち忙しい弟弟子は、
「何でぼくが福井にまで……」と訝りながらも、
兄弟子を放っておけずに
サンダーバードで一路、北陸へ。

その弟弟子、実は密かに悩みを抱えていた。
そこそこ売れっ子だったはずが、
仕事はどんどん減る一方なのだ。
それは彼の傲慢さが原因なのだが、
彼はそのことに気づかず……。

……と、これは映画『福井の旅』のエピローグ。

ちなみに、ぼくは弟弟子の役である。


福井の旅画像400


映画『福井の旅』の出演者の多くは、
福井の駅前で店を営むおっちゃんやおばちゃんたちで芝居未経験の人ばかり。
それゆえ、監督の木川剛志氏は
それぞれが演技することなく素のままでいられるよう脚本を練った。
その演出は出演する者の人柄や面倒見の良さを浮き彫りにしていった。
出演交渉もその場で行うなど、一見行き当たりばったりのようにも見えたが、
ディレクター的視点も併せ持つ木川氏の頭の中には
すでにどういう人に出演してもらうかは構築されていたに違いない。
人懐っこい笑顔でお願いされると誰も断れず、
映画撮影の場はいつも和やかな空気が流れていた。

木川剛志とビリケン400
木川剛志監督。通天閣の展望台にて。


ところで、話は変わるが、
渥美清演じる「フーテンの寅」さんは、
全国を渡り歩く一匹狼のテキ屋。
自由を愛し、己より他人の幸せを優先した。
そんな寅さんがつぶやく言葉がイイ。

“例えば日暮れ時、農家のあぜ道を
一人で歩いていると考えてごらん。
庭先にりんどうの花がこぼれるばかりに咲き乱れている
農家の茶の間。灯りが明々とついて、父親と母親がいて、
子供達がいて賑やかに夕飯を食べている。
これが・・・これが本当の
人間の生活というものじゃないかね、君。

俺はな、学問つうもんがないから、
上手い事は言えねえけれども、
博がいつか俺にこう言ってくれたぞ、
自分を醜いと知った人間は、決してもう、醜くねえって・・・”

映画『男はつらいよ』より



映画『福井の旅』の兄弟子と、
映画『男はつらいよ』の寅さんに共通していえることは、
どちらもいわば世間からの「はみ出し者」だということ。

世間とは少し離れたところにいればこそ、
客観的に社会を眺めることができる。
だから誰かの悩みや弱さ、
社会の歪みなどに対して人一倍敏感になる。
芸人であれば、それが笑いに繋がっていく。


花團治、道楽亭、うそっ?
桂花團治、ジャンジャン横丁『動楽亭』にて。(撮影:相原正明)


さて、『福井の旅』での「はみ出し者」兄弟子には
弟弟子の何が見えていたのだろうか?
なぜ弟弟子を福井に呼び寄せたのか、
そして、福井に来た彼はどう変わっていくのか…?

この先は、ぜひ本編をご覧ください。

露の都師の怪演もとい快演、そして
福井の駅前で商売を営む人々の、
無作為の演技もぜひ観てほしい。
福井というまち、
そして福井に住まう人々に、きっと逢いに行きたくなるはずだから。

『福井の旅』では第17回「長岡インディーズムービーコンペティション」で「観客賞」。
和歌山を舞台にした『替わり目』では
「第9回商店街映画祭」のグランプリ」と「串田監督賞」のW受賞。


まずは、下記アドレスをクリックして「予告編」から
露の都師匠の快演もこちらで一部だけですが、ご覧頂けます。↓
▶短編映画『福井の旅』予告編Youtube


おもちゃ映画ミュージアム、5木川氏を迎えて

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【映画の美術製作をしていた祖父と、
建築設計士の父】


監督の木川剛志は、1976年、京都市上七軒の界隈の生まれ。
上七軒といえば京都五花街のひとつで西陣地区。
機織りと三味線の音が響くなかで氏は育った。

氏の父は建築設計士で、
その影響からか氏自身も大学で建築を学ぶようになった。
卒業後はスリランカの建築家・ジェフリー・バワ氏に憧れて
現地の設計事務所で修行を重ね、
その後も中国やアメリカの大手設計事務所勤務など世界中を駆け巡るが、
最終的にはロンドン大学大学院を経て研究者の道を選んだ。
現在も和歌山大学観光学部准教授として教鞭をとる傍ら、
「観光映像」にこだわり続けている。


氏の祖父も映画界に携わっていて、
第一映画や新興京都、大映に属する美術制作の職人だった。
溝口健二監督「浪華悲歌」(1935)、黒澤明「羅生門」(1950)、
渡辺邦男「忠臣蔵」(1958)などに参画している。

◆木川剛志について(和歌山大学研究者総覧)←クリックしてご覧ください


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207.叩きとバランス~相撲と合気道に落語を教わった~

先日の大相撲三月場所(大阪場所)中、
ある相撲部屋で行われたちゃんこ鍋会に参加させてもらった。
最近、整骨院通いをしていることもあって、
アスリートの身体の使い方や「バランス」に興味津々のぼくが
力士達を質問攻めにすると、一人の力士が懇切丁寧に教えてくれた。

「相撲もバランスなんですよ」

相撲は単に力技ではなく、
いかに相手のバランスを崩して勝利に導く頭脳戦の側面もあるのだ。
小兵であっても大きい力士をひょいと倒せるのは「バランス」の為せる技が大きい。

中川部屋にて3-400

中川部屋にて2-200
中川部屋の大阪宿舎にて


ところで、ぼくの主宰する落語塾では「叩き」の実習を必修にしている。
張り扇と小拍子と呼ばれる木切れで、
座布団の前に置かれた見台と呼ばれる小机を
小刻みにパンパン叩きながら台詞を言うというものだが、
大阪の落語家の多くは手習としてまず初めにこれを落語「東の旅」で身につける。

「漸うと上がりました私が初席一番隻でございます(パパパパン)
お次が二番隻(パパパパン)三番隻に四番隻(パパパパン)
五番隻にお住持に旗に天蓋、銅鑼に妙鉢、影灯篭に白張りと……」


口が回るようにもなるし、
リズム感を養うためにもこれはとてもよく出来たテキストである。
しかし、最初からそう簡単には身につくはずもなく、塾生全員が悪戦苦闘している。

見台と膝隠し


そんななか、塾生の一人がこんなことを言いだした。

「師匠は叩くとき、
動かすのは手首から先だけで、
身体は全く動かないんですね」


腕や肘を使わず、手首を起点にして動かすことで、
身体を揺らすこと無く安定した姿勢を保つことが出来ることに気がついたらしい。
ちなみに彼は合気道の達人である。合気道も「手首」が肝心だという。
合気道との共通点に気付いた彼の「叩き」は急激に上手くなった。
それに、ぼくもまた彼のこの言葉におおいに気がつかされた。

確かに「叩き」はリズム感を養うだけでなく、
声を発しやすい身体づくりにも繋がっている。
見台を叩くときの姿勢は腰がちゃんと据わっていなければならない。
また、叩く手の位置によって自然に胸が開くようになるが、
この姿勢を習得することの有効性は
発声に関する多くのプロが口にすることだ。
そんなことを思ううち、
「叩き」ほど語り手の身体をつくるに適したものはないと思えるようになった。

愚か塾、打ち上げ
『愚か塾』の塾生たちと、稽古場にて。


冒頭の力士も「肩に力が入るようではいけない」ということを言っていた。
そう言えば、以前こんな記事を目にしたことがある。
横綱の白鵬が名誉会長を務める少年相撲大会が東京・両国国技館で行われ、
小学3年生の部に出場した白鵬の長男・真羽人君(9)が大会初勝利を挙げたのだが、
出番前に父である白鵬から「ジャンプをして肩の力を抜くように」とアドバイスを受け、
それが勝利につながったという内容だった。

「叩き」とて、肩に力が入っていては小刻みに自然に叩くことはまず不可能である。
「リラックスした緊張」という言葉がある。
これはサッカーのゴールキーパの例が分かりやすい。
どこにボールが飛んでくるかを見極める集中力も必要だろうし、
瞬発的に動くしなやかな身体も欠かせない。


お相撲さんが「四股」「てっぽう」「股割り」「すり足」で身体を作っていくように、
それぞれの世界に伝統的な基本トレーニングというものが存在する。
それらに共通するのは、同時に身体の無駄な力をそぎ落としていくということである。

山岡先生と2-400
整体に通うようになって、身体のバランスがとても気になるようになりました。(大阪鴫野・城東整骨院にて)


桂枝雀師匠は生前、
「笑いは緊張の緩和である」ということをよく言われた。

聴き手にある思い込みをさせておいて、ヒョイと意表をつく。
相手に息をつめさせておいた後、あるきっかけで「なぁんだ」とフッと息を抜かせる。
つまり相手をズッコケさせる。
それによってこちらの目的が果たせる。

落語は笑いにつなげるため、相撲は相手を倒すため、
目的こそ違えども両者はどこか似ている。
そのためにもしっかりプロとしての身体の使い方を習得する必要がある。

花團治、動楽亭1-400 撮影:相原正明

……あぁ、もっと稽古しなくっちゃ!



※この原稿は熊本のリフティングブレーン社が発行する『リフブレ通信』に連載させて頂いているコラム
「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



春團治まつり2018チラシ

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206.祝・四代目春團治襲名~まるでコント?!な三代目&四代目の思い出~

今年の2月11日、大阪道頓堀の松竹座で行われたのが、
「四代目春團治襲名興行」。
1033席ある会場が昼夜二回公演ともに超満員となりました。

襲名興行の目玉といえば、やはり「襲名口上」です。
口上では、襲名する本人は舞台中央に正座で床に手を付き下を向いたまま、
横に居並ぶ諸先輩や仲間の挨拶を黙って聞いていなければならないという決まりがあります。
歌舞伎や文楽の襲名口上は厳かに行われることも多いようですが、
こちとら落語家。当人が公開されたくない失敗談などが次々と公にされ、
言い返すことも出来ずに「針のむしろ」となります。

春之輔改め、四代目春團治も然り。
っていうか、これほどプライベートで
様々なエピソードを持った方もいないでしょう。
(文章にできない+ぼくが怒られそうなので、ここでは控えておきます…)

四代目襲名、口上3400

下を向いたまま、言われ放題の四代目さん。
でも、その様子に、ぼくは後輩ながら、
四代目師匠の周囲からの愛されぶりを感じずにはいられませんでした。

四代目さんはイジられ上手なんです。


四代目襲名口上1の400
舞台でプライベートをネタにさんざんイジられる四代目春團治師匠。
六代文枝師匠や、きん枝師匠の追及に場内割れんばかりの笑い。


四代目襲名、文枝、愛之助、400
四代目春團治襲名披露公演の楽屋にて

四代目襲名、生喬400
袴の紐を結べない若手を手伝う笑福亭生喬さん。
後輩の面倒見がめっちゃエエことでも知られています。
(四代目春團治襲名披露公演の楽屋にて)




四代目襲名、タージン400
「何でも手伝うから言うてや!」というタージンさんには、ワインの袋詰めをお願いしました。
(四代目春團治襲名披露公演の楽屋にて)

四代目襲名、坊枝400
坊枝さんとぼくのツーショット。横に玉三郎丈からの祝い花が見えます。


……あれは三代目春團治師匠の御長男・一茂さんの経営するスナック
「無礼行」でのことでした。
その日は、一門の集う落語会の打ち上げだったと思います。
最後の仕上げは一茂さんの店でということになったのですが、
どういう趣向なのか、席が足らないということもあって、
三代目が四代目(当時・春之輔)に、
「春之輔、君はカウンターの中に入りなさい」と命じたのです。


「ちゃんと、皆さんの水割りを作るようにな」


「…蝶六くん(ぼくの前名)のグラスも空いてるよ」と三代目春團治師匠。
春之輔師匠は「へぇ」と言いながら、ぼくのグラスを取りました。
普通なら、20年近い後輩のぼくの世話をやくなんて考えられないこと。
ぼくが恐縮してると、三代目が茶目っ気たっぷりの笑顔で
「いや、いいんだ。今日はこの男にやらせるから」

ぼくの水割りができると、間髪入れず、
「福矢くんのも空いてるよ」
またも「へぇ」と言いながら、彼のグラスを取る四代目。
その「へぇ」の声や様子の可愛らしいこと。

「ほれ、ぼくのも空いてる」
「へぇ」
「小春團治くんのも空いてる」
「へぇ」
「壱之輔くんのも」
「へぇ」
「今度はこっち」
「へぇ」
「次はあっち」
「へぇ」「へぇ」「へぇ」……

我が弟子の水割りまでいそいそ作る春之輔師匠。
店内はもう笑いが止まりません。
それはまるでコント。まさに名コンビでした。

ツッコミを入れながら
場を盛り上げる三代目師匠。

ぼくにとってはじめてみた光景でした。

春之輔師とのれん前400
2015年、ぼくの襲名の際のツーショット(左が四代目春團治)(撮影:相原正明)


でも、今になって思うんですよね。
四代目師匠はイジられているのではなくて、
わざと「イジらせていた」のかも…と。

後輩のぼくが言うのも何ですが、
これほど周囲にイジられて絵になる人もいませんし、
イジられているときの本人の表情もどこか楽しそうなんです。

そんなわけで、今度の池田での襲名公演も、
どんなイジられ方をするのか、
師匠方の毒舌と四代目の表情に興味津々です。

滅多に見られない光景ですので、よろしければぜひ、ご来場下さい。

四代目襲名チラシ500



春團治まつり2018チラシ


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205.談論のすすめ~ディベート反対のためのディベート~

小中学校などに落語ワークショップで招かれるたび、
頻繁に聞かされるのが「子どもたちのコミュニケーション力低下」についてである。
と同時に、「自分の意見がはっきり言えない」ということもよく耳にする。
そういった背景が、まだ一部の学校だけとはいえ
ディベート教育の導入にも繋がっているのだろう。

ワークショップ(渡邉隆・撮影)縮小版
撮影:渡邊隆

「ディベート」とは、自分と意見が異なる相手と議論して説得させることを指すが、
小学生の頃に吃音症を経験しているぼくとしては何だか腑に落ちない思いでいる。
かつてぼくは落語家でありながら、ある小さな広告代理店に籍を置いていた。
友人である代表に頼まれ商品開発やイベントの企画会議に出席するうち、
いつしかぼくのデスクまで用意され、
落語会の制作もその代理店で行ってもらうようになったのだ。


そこでの会議にはひとつのルールがあった。
それは「相手の批判をしない」ということ。
どんなにつまらないと思うアイデアであっても絶対にそれを否定してはならない。
とにかく誰もが自由に話せる雰囲気がそこにはあった。
いわゆる「ブレスト(ブレインストーミング)会議」である。

「おおっ、それはオモシロイな!それならこういうのはどうだろう?」。
一人のアイデアに他の誰かが被せていく。
この繰り返しが予想外の企画を生み出した。

はづかし小学校、落語演じる蝶六
小学校で落語を演じる桂蝶六(現・桂花團治)


はづかし小学校、答える子ども
落語の下げとは、頓智クイズの答えのようなもの。
そこで、子どもたちにクイズを出してそれに回答してもらう。
ただし、ここでは全てが正解。くだらない方がオモシロイのである。



「上方落語協会」には寄席運営や普及活動などを目的に
いろんな委員会が設けられているが、
ぼくはそのうちの「情報誌編集委員会」「若手育成委員会」の二つに属している。
他は知らないが、少なくともぼくが属する委員会の風景は
会議というより井戸端会議といった方が相応しい。
「ああだ」「こうだ」と言いながら脱線の連続で笑いが絶えない。
それでいていつの間にかしっかりと着地している。
先述の広告代理店での会議もそうだが、
「三人寄れば文殊の知恵」とはまさにこのことである。

んなあほな会議4002
上方落語協会情報誌『んなあほな』の編集会議。
会議の大半は、もうどうでもいいようなハナシです。


冒頭に述べた「ディベート」についてまず頭をよぎるのは
「何をくだらないことを言ってるんだ」
と一蹴されたらどうしようという焦り。
それに、たとえ相手を言い負かせると分かった場合でも
「相手に恥をかかせてはいけない」という思い。

そういう時は「……なるほどそうですね。
ぼくも賛成です。でも、こうも考えられるのでは……」という手に出るのがぼくの常だ。

つまり、結果的に相手が導き出した結論として成立するように
持っていくようにしている。
自分の意見として通るか否か、勝ち負けなどは二の次である。
これは商人特有の「下駄を預ける」手法と似ているかも知れない。
「今日は何曜日やったかいな?」という客の質問に対して
「〇〇曜日です」と言い切るような応え方を大阪商人はしない。
「はて、今日は〇〇曜日と違いますか?」と問い掛けの形にして返すのが大阪商人。
客の方が「そうやった。今日は〇〇曜日やった」。
結論を相手に委ねることで相手に恥をかかせないといった商人の配慮であり知恵である。

劇作家の平田オリザさんはこう言っている。

「ディベート(討論)は、
話す前と後で考えが変わったほうが負け。
ダイアローグ(対話)は、
話す前と後で考えが
変わっていなければ意味がない」


花團治、阿弥陀池しんねこ
桂花團治(撮影:相原正明)

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ちなみに、ブレスト(談論)では思いも寄らぬ考えが生まれたりするものだ。
平田オリザさんの言葉を元に言い換えるなら

「ディベートは、
どちらか一方の考えに落ち着くが、
ブレストは、予期せぬ考えにたどり着く」

といったところだろう。


また、「ディベートはどちらか一方の勝利だが、
ブレストは参加した全員の勝利」
ということもいえる。




人前に立つことに恐怖を覚えた小学生の頃のぼくが、
もしも無理やり授業で「ディベート」の場に立たされていたら
……想像しただけでゾッとする。

ますます吃音が悪化していたに違いない。
そんなわけで、「ディベート」も有意義だとは思うが、
その前にまず「ブレスト」の方をぼくは薦めたい。


この原稿は熊本のリフティングブレーン社が発行する『リフブレ通信』に連載させて頂いている
コラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。

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204.象引物語~泣いたり笑ったり、怒ったり……とかく桂福車は忙しかった~

お練り、福車3
桂福車、2015年花團治襲名お練りにて(撮影:相原正明)
2018年2月1日没、享年56


桂福車に関する逸話は快挙にいとまがない。
例えば、「上方落語協会」の会長選を巡る総会の席。
それまでは理事会で決められた案を
協会員全員の賛同を得て決定するという選び方に異を唱え、
「会長は協会員全員による投票で決めるべきだ!」と声高に訴えたのは彼だった。
これにより、初の協会会長選挙で誕生したのが桂三枝(現・六代文枝)会長である。
今の「上方落語協会」が単なる親睦団体から
公益社団法人にまで発展していった背景には彼の功績も大きい。

思い立ったら自身の損得など全く意に介さず意見を言うのが彼の性分だった。
彼と立ち上げた新作落語の会でも運営を巡ってずいぶん対立したが、
落語家の先輩や作家さん方に言いにくいことなど、
全て彼が代弁してくれるので、
代表を務めていたぼくとしてはずいぶん助かった。

一番搾り、福車3
倒れ込む福車、殴りかかるぼく、それを止める森乃福郎(”落語一番搾り”結成時)


一番搾り、福車1
手前から森乃福郎、ぼく、桂福車(”落語一番搾り”結成時)




通夜の席で、ある方がぼくにこう言った。
「何か困ったことがあると彼によく相談してね。
そのたびに彼は大きな声で代弁してくれる。
いつも壁になって守ってくれました」



居酒屋に入ると、勝手に唐揚げにレモンをしぼったといっては
後輩への説教が始まった。
「あのな、こんなものは勝手に掛けたらいかんねん。ちゃんと先に断るべきやろ!」

社会派落語家と言われるだけあって政治経済についてもよく勉強していた。
最近では過労死をテーマにした『エンマの願い』が
マスコミでも多く取り上げられ話題になった。

落語会の打ち上げで、その主催者やスポンサーと
ささいなことで対立、大モメすることも多々あった。
自分が正しいと思うことには一直線だった。


「損得」も「忖度」も
「長いものに巻かれる」という言葉も
彼の辞書にはなかった。



常に何かに憤っていたというイメージが強い彼だが、
その一方でこんな表情も見せた。
30数年前、ぼくの最初の結婚披露宴のとき、
お互いに駆け出しだったにも関わらず、彼の持ってきた祝儀が
同期の落語家のなかでも破格だったので、そのお礼を言うと
「兄さんにはどれだけ世話になってますねん。こういう時しか返すとこがありませんやん!」
このときの彼の顔は、かなり照れ臭そうで、
これ以上染まり様がないくらい真っ赤だった。
とてもシャイな男なのだ。

お練り、福車2
ぼくの襲名お練りのときには、必死になってその船を動かしてくれていた。



涙もろい一面もあった。
ぼくが福車の涙を初めて見たのは、
彼が新作『象引物語』(作・ぶうち古谷)を演じていたときのことだった。
内国勧業博覧会跡地の開発が進むなか、
北の大火をきっかけに、
動物たちが、本町にあった「大阪府立動物檻」から、
大阪市立天王寺動物園へ移動させられるという場面。
頑としてそこを動こうとしない象の団平に、
一人の調教師が語りかけるというシーン。
「お前と(象の)常盤が恋仲やったことはぼくも知ってる。実はぼく、常盤に会いに東京浅草の花屋敷に行ってきたんや。あいつも寂しがってたで。お前のことを話すとこれを渡してくれって……彼女の胴掛けや」

彼は涙目どころか、
声を震わせて泣いていた。
ぼくも思わず舞台袖でもらい泣きした。

けれども、彼はずっとこれを悔いていた。

「演じる人間が泣いてしまうやなんて
兄さん、ぼくは咄家失格ですわ」

この日、彼は打ち上げでもずっとそのことを言い続けていた。
よほど悔しかったのだろう。


すぐに泣いたり、怒ったり、
真っ赤になって照れたり……
うるさい奴っちゃと思ったこともあったが、
……とかく彼は忙しい男だった。


一番搾り、福車2
左からぼく、福車、福郎(”落語一番搾り”結成時)


生前、ぼくが彼に「これ、ええ咄やな」というと、
「兄さんも演んなはれ」と言って薦めてくれたのが『象引物語』。
このたび、ぼくも22年ぶりに口演させていただくことになりました。

稽古するたび、彼のあの涙を思い出します。

2018年2月1日没、享年56。……合掌。


花菱の会、追悼桂福車
この日は、「桂福車独演会」が予定されていましたが、
急きょ、彼もレギュラーメンバーとして属していた「花菱の会」で会を催すことになりました。

▶詳しくはこちらをクリックください。
「桂福車この高座を見よ」」




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203.努力って嫌な言葉ですな~芸の歪みは身体の歪みから~

うちの師匠(二代目春蝶)は
「努力」という言葉が嫌いな人だった。

「そんなに頑張って喋らんでもええがな」というぼくへのダメ出しは
もはや口癖に近かった。
「もっと普通に喋らんかい」とも言われた。
師匠の追悼CDアルバムのリーフレットのなかには
師匠のこんなエッセイが紹介されている。

「出来ないのか、好きでないのか”力仕事”と名の付くものが、まったく苦手である。従って、こじつけやないが”努力”という言葉は大嫌いである。第一、2文字の中に”力”というのが2つも入っている。人間努力をすれば、何でもできる、一流になれる。まったくのウソではないか。ある素質、天分の上に努力をすれば開花されることもあろう。ファーストクラスに生まれかわることもできよう。思うに、これは先人があまり甘えないようにするための激励しったではなかろうか。それよりも、気楽に純粋に生きた方がずっと楽しい。いっけん、こちらの方がやさしそうにみえるが、こちらもなかなかむつかしいものですよ!努力しながら生きるか、気楽に人生を送るのか。ひとつ諸兄氏”リキ”まないで考えて欲しいですな」(原文ママ)


そんな師匠にぼくが肩凝りで悩んでいることを打ち明けると、
師匠は不思議そうにこう言った。

「わしな、今まで肩こりというものを
経験したことがないねん」


春蝶落語集リーフレット


あれから20数年経っても今だ肩凝り持ちのぼくは、
最近、近くの整骨院に足繁く通うようになった。
先生に言われるまま、腕を伸ばしたり曲げてみたり……
痛みの原因を突き止めるのにさほど時間は掛からなかった。
何らかの理由で首の骨の間が詰まっていたのだ。
それが神経を圧迫して左肩全体の痺れに繋がっていた。
数回通ううちにその痛みもすっかり取れ、
今は身体全体を整えるための施術に入っている。

院長である山岡洋祐先生は学生時代にはラガーマンとして活躍、
その怪我の治療をきっかけに整体に興味を持つようになったのだという。

山岡先生と400
大阪鴫野にある「城東整骨院」にて、院長の山岡洋祐先生と。

「城東整骨院」の公式サイトはこちらをクリック!


施術を受けながらいろいろ会話を交わすうち、
先生から「ヒモトレ」を薦められた。
これはバランストレーナーの小関勲氏が考案したトレーニングメソッドで、
ヒモ一本で身体のバランスを整えていくというものだ。
小関巌氏が武術研究家の甲野善紀氏と共に著した『ヒモトレ革命』のなかにこんなくだりがある。

小関「一般的にトレーニングとは補ったり、強化したり、増やしたりすることが共通認識としてありますが、その前提には足りない、弱い、少ないという潜在的な枯渇感がある。この枯渇感を満たしたいがために、ちゃんと”やってる感”が必要なんでしょうね」

甲野「”やってる感”というのは、不足している、弱い、少ないという貧困さから来ていますから、自分が元々持っている自然な働きに気付くという方向にはなかなか目がいきませんよね」

小関「ヒモトレで”なにもしていない”感覚があるということは、体にかかっている負荷が全身に散り、全身が連動してちょうど良く動いている証拠。その状態が理想なんです。余計な力が出ていないからこそ、身体に負荷がかかっていないんです。実際にアスリートたちが良いパフォーマンスを発揮できた時は、いかにも”やっている”という身体的な実感はないそうです

ゆるひも体操の本

……ぼくにも身に覚えがある。稽古で生じる喉が枯れそうな感覚。
これがまさに”やってる感”であった。
ぼくはこの感覚を覚えては満足していた。
先述の「そんなに頑張って喋らんでもええがな」という師匠のダメ出しは全くこれに符合している。

山岡先生は「これも受け売りですが」と断りながらこうも言われた。

「努力はいいんですが、
努力感というのが良くないですね」


うちの師匠も確かに努力は重ねていた。
でも、本人のなかに努力しているという感覚はなかったのだろう。
高座も普段も変わらぬ自然体があの飄々とした語り口に繋がったし、
余計な力を入れないという習性が「肩凝り知らず」にも繋がった
のだろう。

ぼくはこの整骨院で施術以上のものをいただいた。
身体が歪めば芸も歪み、身体が解放されれば力みからも解放される。
もしぼくがこの先、芸人として大きく化けることあれば
「その陰に山岡先生あり」と言えるだろう。

戦後のからだとことば、野口体操の本
山岡洋祐先生のお話を伺ううち、ぼくの愛読する『教師のためのからだとことば考』とも繋がっているように思えた。
そこで山岡先生に一冊進呈したところ、後日先生から『野口体操』の本を頂いた。
今、読みかけているところだが、「力を抜けば力が出る」の項に触れ、今いたく感動している。



この原稿は熊本のリフティングブレーン社が発行する『リフブレ通信』に連載させて頂いている
コラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。

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おもちゃ映画4、500
西洋や日本の無声映画、また、狂言、落語を通して、それぞれの身体性にも触れていきます。
ゲストの金久寛章氏は、舞台俳優であり、狂言師でもある。
『劇団四季』の研究所にも籍を置いていたこともあり、今回のテーマにはぴったりの講師。
もちろん、落語や狂言の上演もお楽しみいただきます。
座席は30席ほどしかないので、どうかお早目のご予約を願います。

上記イベントの詳細は、下記をクリックくださいませ。↓
第4回『花團治の咄して観よかい』



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202.客いじりのある高座風景~言霊から漫才まで~

寄席の高座でその場のお客をネタにしたり、直接話しかけたりすることは
「客弄り(いじり)」といってあまり好まれることではない。
寄席のお客は芸を楽しみに来ているのであって、
そういう対話を目的に来ているのではないというのがその主な理由。
おまけに寄席の出番はあらかじめそれぞれの持ち時間が決まっているので、
「客弄り」はタイムオーバーの原因にもなる。

花團治、下から突く
筆者の高座風景(撮影:相原正明)


ずいぶん前になるが、その日の夜間高校での授業テーマは「言霊」だった。
演じる落語はぼくのなかでは「正月丁稚」と決めていた。
縁起を担ぐ商家の旦那とその奉公人のやり取りを描いた咄。

本題に入る前にまず世間話などから入るのは寄席と同じで、
この日はその頃流行っていた『トイレの神様』(2010年有村花菜)
という歌のことをマクラにした。

夜間高校に集う学生は10代から70代までと年代もバラバラなら国籍も様々。
「八百万の神といってあらゆるものに神が宿ってるというのが
日本古来の考え方なんやな」という説明に一人の学生が反応。
彼女は「神様はひとつ。神様がたくさんいるなんて、
とってもクレージー!」
と強く主張し始めた。

桃谷400
10代から70代までが通う夜間高校。
老若男女。国籍も思想も違う者同士が机を並べる空間は、学びの場としてはある意味、理想的だ。



ところ変われば品変わる。
「言霊」にしてもそうだ。例えば、これから飛行機に搭乗しようというときに
「落ちたら怖いなぁ」なんてことを言われれば
「そんな縁起でもないことを言うんやない。もし本当に落ちたらお前のせいやぞ」
などと返す人が多いのではなかろうか。
けれどもそんな因果関係は科学的に認められない。
こういう会話がなされること自体、
日本が「言霊」の国
であることを示している。

プロ野球のイチロー選手が交わした契約書にもそれが如実に表れている。
オリックス時代に交わした契約書とマリナーズとの間に交わしたそれとでは
書類の分厚さがまるで違ったものだったという。
マリナーズの契約書では、もしものトラブルに関してなど、
想定されるあらゆる事象についての項目が微に入り細にわたり記されていたらしい。

花團治の会3、花團治1
筆者の高座風景(撮影:相原正明)

さて、そんな話題で盛り上がったのち、いよいよ「正月丁稚」を聴いてもらうつもりで
「縁起担ぎ」や「祝祷芸」について触れ始めたときだった。
一人の年配女性が門付け芸の思い出を語り出した。
「うちは小さい時分は三河におったさかい、萬歳ちゅうのがよう来てたで。
……そやねん。今の漫才と違うねん」。

その昔「まんざい」は「萬歳」であって「漫才」ではなかった。

「漫才」という字を当てたのはエンタツ・アチャコが全盛の時代、
後に吉本興行の社長となった橋本鐵彦氏が命名したというのが定説になっている。

「萬歳」はお目出度い文言を並べながら囃し立てる音曲の芸だった。
今の「しゃべくり漫才」はその「音曲漫才」の音曲の合間のしゃべくり部分が独立したものだ。
当時、エンタツ・アチャコのしゃべくり漫才に初めて接した客のなかには

「いつまでも喋ってばかりやなくて
真面目に萬歳をやったらどうや」

と野次を飛ばすものもいたらしい。

……とそんな話題になったとき、
今度はそれまで眠そうにしていた一人の10代がしっかり起き出した。
どうやら「漫才」という言葉に反応したらしい。

「漫才作家の秋田實先生は
小さい子どもからお年寄りまで
家族で楽しめる漫才を創ったわけや。
それがお茶の間に繋がって……」



それからは年配の方々を中心に思い出の漫才ばなしが繰り広げられ、
「正月丁稚」を演じるには少々時間が足りなくなった。
「ちょうどここに、いとしこいし先生の漫才ビデオがあるから、
今日はこれを観て授業を終わろうと思います」。

この日、落語は結局演らず終いとなってしまったが、
お客が能動的にハナシを拡げてくれる
夜間学級ならではの高座(講座)時間
が、ぼくは嫌いではない。



※この原稿は、熊本のリフティング・ブレーン社が発行する社報誌『月刊リフブレ通信』に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。




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201.知らないことからアハ体験~落語の授業にて~

自分が「知っていて当たり前」
と思っていることが、
相手にとって当たり前とは限らない。


大学・高校などでぼくが講師を務める「落語の授業」では、
幾度となくそういう場面に直面してきた。

桃谷400
夜間高校の授業風景。10代から70代までが集っている。

例えば、『道具屋』という落語。
夜店の古道具屋を覗いた客が笛に指を突っ込んだところ、
指が抜けなくなってしまった。
「抜けないなら買ってもらわなければ仕方がない」という店主に
客が値段を尋ねたところ、法外な値段を吹っかけられた。
「人の足元を見やがって」と言う客に、
店主が「いいえ、手元を見ています」。
……この咄を聞いた学生から寄せられたのが、
「なぜ店主は客の足元を見たんですか?」という質問。

ご承知の通り、「足元を見る」とは「相手の弱みにつけ込む」という意味だが、
なるほどこれが分からなければ、オチを聞いてもチンプンカンプンになるだろう。


ここでのぼくの授業の目的は
まず「学び」そのものを楽しいと感じてもらうことだ。
幸いなことに「落語の授業」には「これを教えなければならない」という
決まったカリキュラムがない。
それに、落語には自身が虜になった時がそうであったように、
腑に落ちた(=分かった)ときの快感がある。

ちなみに、ぼくが初めて生で聴いた落語は
高校の先輩が演じた『壺算』という咄だった。
ずる賢い男が瀬戸物屋で店員を上手く騙して壺を安く買い取るという話だが、
最後に店員が算盤をはじきながら訳が分からなくなって
「計算が分からなくなってしまいました」と泣き出してしまう。
それを見た男が「それがこっちの思う壺(企んだ通り)や」。

……ぼくはこの落語初体験の時、先輩に対して思わずこんな言葉を発した。

「よく分かりました!」

これに対して先輩は少し怪訝な表情を見せたが、
ぼくにとってこの「分かりました」は
「嬉しい」や「気持ちイイ」と同義語
だった。

冒頭に紹介した『道具屋』でチンプンカンプンだった学生も
「足元を見る」意味を理解するなり、とても嬉しそうな顔で応えてくれた。
最近流行りの言葉でいえば「アハ体験」にはまったということだろう。

「知らない」ことは「アハ体験」のタネ。

この快感さえ覚えれば「学び」の意欲は勝手に伸びていくと確信している。

敦賀、花團治
撮影:相原正明(敦賀落語の会にて)


授業では「謎掛け」を作って遊ぶこともある。
当初は「難しすぎてできるわけない」と消極的だった学生も
「方法」さえ知れば驚くほどはまってくれる。

「謎掛け」はまずそのお題から関連する言葉を抜き出すところから始めるが、
漠然と考えてもなかなか浮かんでこない。
そこで持ち出すのが、以前ぼくが『イシス編集学校』で学んだ
「編集工学」の手法の応用。

イシス卒門式、校長と
ぼくの憧れ「イシス編集学校」校長・松岡正剛先生と。



与えられたお題に「要素・機能・属性」という三つのフィルターを掛けて
言葉を引っ張り出すというものだが、意外にこの方法が役立つ。

テーマなしに作文を書くのがムツカシイのと同様である。
例えば、「リンゴ」というお題であれば、

要素として「芯、種、赤い、リンゴ追分……」、
機能として「リンゴジュース、デザート、歯茎から血……」、
属性として「青森、無農薬、箱入り……」といった具合。

後は抜き出した情報に当てはまる言葉を考えれば意外に簡単である。
「リンゴとかけて武士道と解く/その心は、真ん中に芯が通っています」
「リンゴとかけて信号と解く/その心は青いと思えば黄色くなったり赤くなったり」
「リンゴとかけて四谷怪談と解く/その心はお岩け~」
「リンゴと掛けて18番と解く/その心はコースの最後に楽しみます」……。

※過去ブログ【謎掛けのつくり方】はこちらから

このときスラスラ解きだした学生が自慢げにぼくにこう言った。
「俺は自分でアホやと思ってたけど、
意外にそうでもないかな?」

それに対してぼくはこう応えた。
「その通り!
君は方法を知らんかっただけや!!」


勉強嫌いな学生の多くは、ぼく自身がそうであったように、
「何でこんなことも分からないのか」というような、
先生から浴びせられる心ない言葉からそうなっていることが多い。



いかに「アハ体験」に繋げていくか。

これはもう「落語の授業」に課せられた任務である。

イシス3
イシス編集工学研究所で開催された落語講座にて


※この原稿は、熊本の人材派遣会社「リフティングブレーン」社が発行する社報誌「リフブレ通信」に
掲載された連載コラム「落語の教え」に加筆したものです。





おもちゃ映画ミュージアム20171110
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大和郡山・感謝御礼落語会
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フレイムハウス外景2の400
月に一度、大阪北浜にある「フレイムハウス」にて落語講座を開催しています。
ここでは全員での落語の声出しの他、落語に関するあれこれを語らせて頂いてます。
一回完結型なので、初めての方もお気軽にご参加できます。
今後の予定は、11月15日(水)、12月13日(水)です。


▶「フレイムハウス落語講座」の詳細はここをクリック!


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200.センセ、着物って逆さに着たらアカンの?~落語の授業にて~

今年も夜間高校で「落語の授業」が始まりました。
10代から70代までの学生たち。
そこで投げかけられる素朴な疑問の数々が、
ぼくにとっては戦々恐々、また毎度の楽しみなのです。

桃谷授業風景

例えば、ぼくの雪駄を見た学生が、
「センセ、そのスリッパ、
サイズ小さいんと違う?」


雪駄というものは、足のかかとが少し出るぐらいでちょうどいいのですが、
馴染みのない学生には奇異に映るらしい。

「雪駄って、こんなもんやで」と返すものの、
これでは全く答えになっていない。


結局、家に持ち帰り、次回までの宿題ということになります。

よく「チャラチャラ音を鳴らして小粋に歩く」なんてことを言いますが、
あれは足の先に鼻緒を引っ掛けた形で、かかとは重視せずに歩くからこそ、
イイ音が鳴るのであって、鼻緒と鼻緒の間に指をギュッと入れて、
なおかつ、踵から歩くようにすると、とてもあの音は出せません。

そう言えば、吉田拓郎の『我が良き友よ』の歌詞に
「下駄を鳴らして奴が来る 腰に手拭ぶら下げて」というくだりがありました。


それに、江戸時代までの日本人は、
右手と右足を同時に出す「ナンバ」で歩いていた。
着てみればよくわかるが、着物は「ナンバ」でないとどうも具合が悪い。
「ナンバ歩き」は、極端にいえば、つま先立ち・すり足で歩いている状態。
機能的にかかと部分を支えるものは全く必要なく、見た目の美しさからも
「かかとがちょっとはみ出るぐらいが粋」ということらしい。


襲名宣伝、林幸治郎
石橋商店街を練り歩く「ちんどん通信社」。歩き方にもこだわりがある。



またあるときはこんな質問。

「センセ、着物の着方って決まってるの?」
「どういうこと?」
「着物の重ね方って、逆にしたらアカンの?」
「逆にしたら死んだ人やんか」と別の学生。

「それにしても何でやろな。
この方が懐に手が入れやすいのは確かやけど……」
「なら、左利きの人は逆でもええんと違う?」

畳みかけてくるなぁ、コイツ。


これも、さっそく家に帰って調べてみた。


着物を右前に着ることが定着したのは、
奈良時代の養老三年(719年)に出された「衣服令(えぶくりょう)」という法令に
「初令天下百姓右襟」(庶民は右前に着なさい)という一文以降とのこと。

この背景には中国の思想の影響があったんやそうですな。
「左の方が右より上位」であったことから、位の高い高貴な人にだけ左前は許され、
庶民は右前に着ていたとか。
それにならった聖徳太子がこれを日本でも普及させたというのです。

左前に着ると、どうも動きにくいということがありますが、
当時の高貴な人々は労働的な動作は必要がなく、
左前でも支障がなかったのでしょう。
庶民は労働の必要性からも、自然と右前になったというのが真相らしい。


ちなみに「右に出る者はいない」という言い方がありますが、
これは「家来側から見て」右に立つ者が優位ということ。
左に落とされると、つまり「左遷」ということになります。

また、「運が悪くなること、商売が傾くこと」を「左前」と言います。

鶴瓶、大看板400
そういえば、繁昌亭の前に立つ「まねき」も向かって一番右側が大看板。
序列でいえば、鶴瓶→学光→花團治→きん太郎の順になります。



数年前には、『トイレの神様』という歌がヒットしましたが、
当時、授業の初めにこの話題で盛り上がりました。
その日のテーマは「芸能と神事」。

一人の女性がフフッと笑いだしたので、
気になって問いかけてみると、
フィリピン出身でキリスト教信者だという彼女はこう言った。

「トイレの神様なんてクレージー。
神様は一人に決まってるじゃん」


日本では八百万(やおよろず)の神が当たり前だが、
キリスト教は一神教である。

なるほど、それぞれが色んな思いでこの曲を聴いているんだなぁ。


……とまあ、夜の学校はいつもこんな感じ。


さて、今年はどんな質問が飛び出すことやら。
90分の授業が全部で20コマ。
また眠れない日々が続きそうです。


おもちゃ映画ミュージアム20171110
知的オモロに盛り上がってみたいと思います。乞うご期待くださいませ。


▶『第二回・桂花團治の咄して観よ会』
の詳細はここをクリック!



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199.春蝶兄さんが生きてはったらなぁ~四代目桂春団治とぼくの因縁~

春之輔師匠は、ぼくにとって高校の大先輩でもあります。
落語家の系図でいえば、ぼくの師匠(先代春蝶)のすぐ下の弟弟子で、
ぼくの叔父貴にあたります。
ぼくが入門して間もない35年前、
なぜか事あるごとに春之輔師匠は
うちの師匠から呼び出されては小言をくらっていました。

「お前にしっかりしてもらわな困るんや!」


いっちょもみざくら
ぼくの高校時代。舞台上の右から4人目がぼく。
当時、大阪府立の豊中、箕面、桜塚の落語研究会が集まって合同の寄席を開いていました。
ぼくは桜塚高校落研の16代目部長でした。春之輔師匠は2代目部長。
ちなみに、初代部長がSF作家のかんべむさしさんです。


現在、春之輔師匠は「上方落語協会」副会長として、
協会運営や後進の指導、大阪の定席小屋『天満天神繁昌亭』に関する交渉ごとなど、
他の師匠方が嫌がる仕事を自ら引き受けて尽力されていますが、
先日こんなことを口にされました。

「春蝶兄さんが生きてはったらなぁ、
わしがこんなことまでしなくてよかった」


ブログ:春之輔師匠と
二年前、ぼくが襲名の際にはゲストのスケジュールや出演交渉など方々に頭を下げて回って下さいました。
このときもやはり「春蝶兄さんが生きてはったらなぁ」とよく口にされていたのを覚えています。
うちの師匠の代わりを務めて下さってたんですね。本当に感謝しきりです。
(撮影:相原正明)


そんな春之輔師匠も来春「四代目春團治」を襲名されます。
つい先日はこんなことを漏らされました。

「春蝶兄さんが生きてはったらなぁ、
兄さんが春團治になってたのは
きっと間違いないねん」


でも、35年前のあのやり取りを想えば、
うちの師匠はいずれこうなることを予感していたのかもしれません。

ここに一枚の写真があります。
これは二年前、ぼくが春之輔師匠から指導いただいている場面です。
この写真を見るたびに35年前のことを想いだします。
その場にたまたま居合わせた硬直している後ろ姿の前座さんが、
当時のぼくの姿にぴったり当てはまります。
うちの師匠と春之輔師匠もこんな感じでした。

春之輔師匠からお小言1
繁昌亭の楽屋にて (撮影:相原正明)


いつの頃からか、
春之輔師匠の後ろに亡き師匠がいるように思えてならないのです。
今回もゲストを快く引き受けて下さって感謝の気持ちでいっぱいです。


春之輔師匠からお小言2
繁昌亭の楽屋にて (撮影:相原正明)



花團治の宴2500

~東京独演会に際して~
ぼくの師匠の先代春蝶は、いわゆるステレオタイプで語られるようなコテコテの大阪人とは真逆の人でした。洒脱な雰囲気を持っていて、「もっと東京に出てくればよさそうなものを」と周囲から言われつつ、とうとう東京ではあまり演じることなくあの世に行ってしまいました。演芸プロデューサーの澤田隆治先生には「東京には魔物がいる」と言って東京進出を断ったようですが、真相のところはわかりません。ぼくが東京で会を催すようになってある方からこう言われました。「あなたは“いわゆる大阪特有の匂い”がしないところがいい」。その方がぼくのどこをどう指しておっしゃったかは、自分ではよく理解できぬままですが、先代春蝶の雰囲気に憧れるぼくにとって、嬉しいお言葉でもありました。しかし、大阪はコテコテばかりじゃなく、粋(すい)ではんなり(花なり)という一面もあるのです。そこで、今回は大阪落語界のなかでも特にそういう雰囲気をお持ちのお師匠はん方にゲストをお願いしました。ぼくが思う「上方」の良さを少しでもお伝えできれば幸いです。  三代目 桂花團治


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襲名、春之輔
桂春之輔(撮影:相原正明)


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春蝶生誕祭2017バーナー
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198.せぬひまがおもしろい~はたしてぼくは待ちぼうけのとき、どんな顔をして立っているのだろうか?~

これも職業病だろうか?他人の佇まいというものがつい気になってしまう。
電車のなかで前の座席に座るおじさん、コンビニのレジで順番を待つ学生、
オープンカフェでくつろぐOL、客席で落語に聴き入るご婦人……。
シャーロックホームズさながら
その人の職業や趣味、普段の生活などを想像してしまうのである。
駅の改札近くで待ち合わせをしている男性はひょっとして恋人との待ち合わせだろうか。
それにしても颯爽と立つその姿は同性のぼくが見ても惚れ惚れする。
次の瞬間、恋人が現れて爽やかな笑顔が拝めるかもしれない。
そう思うと、しばらくその場から離れたくない。

敦賀、花團治
桂花團治(福井県・敦賀落語会にて) 撮影:相原正明


先日、落語家によるお祭り「彦八まつり」のステージにて
日舞教室の発表が行われた。
稽古人は落語家や下座三味線のお姉さん方。
ぼくもその一人として参加したのだが、
今回が初参加のぼくは手順が飛びはすまいか、
ちょっと自信がなかったので横に熟練者を据えてもらうことにした。
おかげで手順を間違うことなく無事を得たのだが、
それを見ていた知人から手厳しい批評を受けることになった。

「横の人が上手いので、
花團治さんとの違いがよく分かりましたよ」


聞けば、ぼくも確かに手順通りに踊っていたには違いないが、
ポーズが決まってなくて所作が流れていたり、
立ち姿ひとつ取っても横の人とは雲泥の差であったという。
ところどころに緊張のゆるみを感じたらしい。
無論、そのポーズの間の動きひとつも手順の内に違いないのだが。

彦八、日舞
『彦八まつり』特設ステージにて日舞の披露(2017年9月2日)



かつて初めてミュージカル劇団の芝居に客演として舞台に立たせてもらったとき、
まず困ったのは標準語の台詞よりも台詞のない時だった。

つまり、そこにどのように立っていればいいのかという問題。

手を腰に当てた方がいいのか、あるいはブランと下げたままがいいのか。
舞台の上では一挙手一投足全てが意味を持つ。
一人何役もする落語家にとって、
言葉を発さず演技に参加するということが
これほどムツカシイものかということをこの時思い知らされた。



以前、桂米團治師匠とホテルのバーでワインを飲んでいたとき、
傍らにいたぼくのマネージャーがうっとりした眼差しでこう言った。

「これほどグラスを
綺麗に自然に持つ人は初めて見ました」

確かにぼくがトイレに立ってテーブルに戻る際、
遠目に見ても米團治師匠のその様子はとても絵になっていた。


落語の登場人物は属性や役職などをその言葉遣いもさることながら態で表す。
手を正座した膝のどこに置くか、腰骨を立てるか、前屈みに座るのか……

例えば、手の平を腰の付け根あたりで横に置くようにして肘を張り、
腰骨をしっかり立てると構えたようにすれば武士が表現できる。

米團治師匠の場合、品のある御大家の若旦那がはまり役である。

また、ぼくの写真を撮り続けて下さっている写真家の相原正明さんは、
桂春之輔師匠が落語を演る際の指先の美しさに魅入られたという。
なるほどふとした仕草を捉えた写真でも、その指先は美しく揃い、
そこはかとない色気を感じさせる。

※ 『写真家・相原正明がとらえた春之輔』はここをクリック!
美しい画像でご覧いただけます。


敦賀、春之輔
桂春之輔師匠(敦賀落語の会にて)  撮影:相原正明


敦賀、襲名
三代目桂花團治襲名記念口上(左から、桂治門、桂春蝶、桂花團治、桂春之輔) 撮影:相原正明

ところで、能を幽玄の世界にまで導いた世阿弥の教えにこんな言葉がある。

「せぬひまがおもしろい」


見所の批判に云はく、「せぬ所が面白き」など云ふことあり。これは為手の秘する所の案心なり。まづ二曲を初めとして、立ち働き・物真似の種々、ことごとくみな身になすわざなり。せぬ所と申すは、その隙(ひま)なり。このせぬ隙は何とて面白きぞと見る所、これは油断なく心をつなぐ性根なり。舞を舞ひやむ隙、音曲を謡ひやむ所、そのほか、言葉・物真似、あらゆる品々の隙々に心を捨てずして用心をもつ内心なり。この内心の感、外に匂ひて面白きなり。かやうなれどもこの内心ありと他に見えて悪かるべし。もし見えば、それはわざになるべし。せぬにてはあるべからず。無心の位にて、我が心をわれにも隠す案心にて、せぬ隙の前後をつなぐべし。これすなはち、万能を一心にてつなぐ感力なり。


何もしないときのおもしろさ。
何もせず、じっとしている間にこそ現れる芸の本質について説いている。

確かに、能を鑑賞に行くと役者が立っているだけで
その存在感に圧倒されることがよくある。

いい役者はそこにいるだけで絵になる。
冒頭に紹介した駅の改札近くの男性然りである。

ぼくが手本とする師匠や先輩方はすべからくそこに居るだけで絵になる人である。
ことに、ぼくの師匠である先代春蝶はお世辞にも姿勢がいいとは言えない人だったが、
常に何とも言えない良いオーラを醸し出していた。

「何もしていないときにどう魅せるか」

これがぼくにとって目下課題のひとつである。


はたしてぼくは待ちぼうけのとき、
どんな顔をして立っているのだろうか。
百年の恋も醒めるようなことに
なっていないだろうか。



※ この原稿は熊本の(株)リフティングブレーン様の社報誌「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」をもとに加工したものです。




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197.不足は創造の源~落語と映画と土団子~

1970年代、ぼくが少年の頃、土団子が流行った。
これは泥んこ遊びのひとつで、
泥を丸めて作った玉にきめの細かい砂をまぶして固め、
それを手のひらで磨いて硬くしていく。
濡らしては固め、乾かせては濡らしの作業を繰り返すうち、
やがてそれは艶々と輝き始め、見事な金の玉へと変貌する。
こうして出来上がった玉を今度は友だち同士で競い合った。
高いところから相手の団子目指して落とすのだ。
それぞれが団子に向いた上質の土の在り処や、
それを制作する際の秘伝を持っていた。
また、丹精込めて作った団子を
友人のそれと交換して友情の証しとすることもあった。

ポンという遊びも流行した。
牛乳瓶の蓋を机の上に置き、
手のひらで叩いてひっくり返すという競技。
まさにポンッという擬音がぴったり。
相手の蓋をひっくり返せば自分のものになったし、
そうやって集めた蓋はそれぞれにとって大切な宝物になった。


これは個人的なことだが、当時、
布団に潜れば「妄想」という愉しみも待っていた。
父親にひどく叱られたときは、父親が怪獣になった。
ぼくの名は宇宙からやってきたヒーロー「モリリンモンローマン」。
(本名の”森”から自ら命名)
布団のなかで、ピシュンピシュン、ボカーン!と擬音を発し続けた。
父親はぼくが放つビーム光線で見事木っ端みじんに吹き飛ばされた。



演芸ジャーナリスト・やまだりよこさんの著に、
六代桂文枝師匠の少年期についてこんなエピソードが紹介されている。

遊園地も公園もなく、おもちゃも持たない少年は木切れなどその辺にあるものでさまざまな遊びを生み出したという。工夫して、なんでもないものを面白いものに変える。(中略)「友達が来たら、友達に帰って欲しくなくて、いろんなことを考えて、いろんな遊びを考え出した。なんとか引き止めるためにいろいろ考えたり笑わせたりもした。今思うと、これが、僕の笑いや創作の原点だったのかもしれない」(『桂三枝論』やまだりよこ著・ヨシモトブックス・2012年より)


高価な玩具を買ってもらえなくったって、
遊びの材料はそこらあたりにたくさん転がっていた。
工夫すればいくらでも生まれた。


「不足」は創造の源である。


桂文枝とウクレレボーイズ
桂文枝とウクレレボーイズ。
落語家のお祭り『彦八まつり』に向けて、鈴木智貴氏(右から二人目)を講師に迎えバンドの練習。






落語はご承知の通り、演者の言葉や所作をヒントに、
お客が頭のなかに映像を描いていくという芸能。
具体的な映像の代わりに、「想像」が無限の愉しさを生み出す。

先日、京都の壬生にある『おもちゃ映画ミュージアム』を訪ねた。
明治から大正にかけて、お金持ちの家庭では、
ブリキ製の手回し映写機を楽しんでいたのだという。
その映像は劇場で公開済みのもので、
要らなくなったフィルムは、デパートなどで
短く切り売りされていた。
昭和の初期は、無声映画からトーキーに切り替わる時代。
映画会社にとって、昔のフィルムは無用のものだった。
そんなフィルムを「おもちゃ映画」と呼んでいる。

『おもちゃ映画ミュージアム』にはそんなお宝が900本。
映写機も200点。しかも個人で運営されている。

おもちゃ映画ミュージアム、3

おもちゃ映画ミュージアム、2
四条大宮から徒歩8分。
京都・壬生馬場町の町家を改装した『おもちゃ映画ミュージアム』



確かに、モノクロの無声映画は、
現代の超リアルな映像と音によって作られる
圧倒的な臨場感には欠けるかも知れない。
しかし、そこには思わず引き込まれる想像の愉しみがある。
それは、言葉と所作だけで楽しむ落語とどこか似ている。

もちろん活弁士を伴った無声映画も楽しい。
それぞれの活弁士が無声の映像にどう色付けしていくか。
これも愉しみのひとつであろう。

同様に、役者の表情と動作から言葉を読み取る作業も、
これまた、すこぶる愉しい。

映像が不足する落語と、
言葉が不足する無声映画。
両者は相反しているようで、
実はよく似たところがある。


「想像」や「創造」は、
人間に与えられた最高の娯楽、だとぼくは思う。

そんな遊戯を愉しむひとときになればと、
今回、以下のような催しを企ててみた。

おもちゃ映画ミュージアム20170929

※二回目以降も、講談師、歴史小説家、狂言師・・・・・・をゲストに迎えて映画談義を愉しむ予定です。



おもちゃ映画ミュージアム、4
左から林幸治郎(ちんどん通信社代表)、青木美香子(歌手)、
太田文代・太田米男(おもちゃ映画ミュージアム)、ぼく

◆林幸治郎氏についての過去ブログはここをクリック


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『おもちゃ映画ミュージアム』サイトをご覧ください。




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196.先代桂春蝶「最後の晩餐」~刺客?となった笑福亭福笑~

口さがない楽屋雀たちは、
笑福亭福笑師を指して、
「先代春蝶にとどめを刺した張本人」
だと噂する。


花團治襲名、繁昌亭、集合写真、福笑師匠
左から恩田繁昌亭支配人、笑福亭福笑、桂一蝶、桂花團治、桂梅團治、桂春雨。
花團治襲名記念公演(繁昌亭)にて。2015年5月。



故・二代目春蝶にとって最後の晩餐は平成4年大晦日の夜となった。
リビングで宴席の片づけをしていると、
「蝶六さん!救急車!!」
師匠の奥さんがありったけの大声でぼくに叫んだ。

師匠はトイレのなかで大量の吐血をしていた。

受話器を手にしたぼくはとりあえず119番。
同時に、すぐに家を出られるようにと
小銭入れの中身を確認した。
ひょっとして、ぼくも救急車に乗り込むことになるかも知れない。
携帯電話のない時代、誰かに連絡を取ろうと思えば
まず必要になるのが公衆電話用の小銭だった。
あの頃、10円玉は携帯電話やスマホと同じぐらいの意味があった。

ぼくがそうやって意外に落ち着いていられたのは、
師匠が救急車で運ばれるのは年中行事みたいなもので、
「いつもことだからまたすぐに戻って来られるだろう」
ぐらいの安心があったからだ。
でも、病院に着いて一日二日と経つうちに、
今度ばかりはどうもこれまでと様子が違うことを確信した。

それでも、病院内ではぼくや兄弟子らは努めて明るく振舞った。
それはマスコミ対策ということもあったし、
師匠の病状がかなり悪いということになると、
レギュラーを外されたり、師匠の今後の仕事の方にも
きっと影響が出るだろうと兄弟子らと決めたことだった。
どこでどう嗅ぎつけたか、新聞記者がぼくらを執拗に追いかけた。
「どうですのん、春蝶さんの容体は?」
「へえ、すぐに退院しはると思います。今も師匠と落語会の打ち合わせしてましてん」
全くの嘘だった。
師匠は会話どころか、酸素マスクを被せられ、
身体中チューブだらけで身動きできない状態だった。

春蝶、立ち切れ、縮小版
故・二代目桂春蝶。撮影:後藤清


話は戻って、最後の晩餐の夜、
師匠宅にいたのは師匠の家族とぼくだけだった。
例年通りなら、家族と一門が揃って除夜の鐘を聴くというのが、
お決まりだったが、その年に限って兄弟子らは不在だった。
「年明け早々に伺います」との返事だった。

リビングでは河豚鍋が湯気をあげていた。
「蝶六、アイツに電話をしてくれ」
こういう時、師匠が「アイツ」と呼ぶのは、
福笑師匠に決まっていた。
大晦日の晩にも関わらず、
福笑師匠は奥さんの運転する車ですぐに飛んでこられた。


師匠と弟子だけならたいがいポーカーや株といった遊びになるが、
福笑師匠がおられるときは、不思議とそうはならなかった。

芸談はもちろんのこと、社会情勢から人権問題、
ときには恋愛論などなど……酒を交わしながら二人の会話は多岐にわたった。
その頃、師匠はジャーナリストでもある「落合信彦」の小説にはまっていて、
50歳を過ぎてから夜間大学にわざわざ国際政治学を学びにいくほどだった。
そんな会話についていける咄家はそういない。

春蝶が「おれは河原の枯れすすき~」と
『船頭小唄』を口ずさめば、
福笑師は『加川良』を
しみじみアカペラで披露した。


二代目春蝶、ノック、たかじん、ざこば
関西テレビ『男の井戸端会議』の収録。左から桂春蝶、横山ノック、やしきたかじん、桂ざこば


ところが、最後の晩餐となったこの時ばかりは、
いつもとは全く様子が違っていた。
福笑師が言葉を投げかければ、それに対して、
すぐに必ず何かを返すはずの師匠がずっと黙ったきり。
ようやく口を開いたとて、その言葉と言葉の間に長い空白。
当然、酒もほとんど進まない。

「兄さん、今日は疲れてまっせ。休みはった方が…」
「ほなそうするわ。今日はおおきに」
珍しく師匠は、素直に福笑師のその言葉に従った。
でも、何か伝えたかったに違いない。
福笑師が帰る間際、師匠はずいぶん寂しそうだった。

春蝶のお墓2
石碑に刻まれた「春蝶」の文字は、生前、師匠がこよなく愛読した司馬遼太郎先生の筆によるもの。


最近になって、福笑師とこのときの話になった。

「あの日、ぼくが
嫁はんの車に乗って(春蝶宅から)帰る時や。
途中で救急車とすれ違ごたんや。
あれはきっと
春蝶兄さんを迎えに来たんやなって直感したな。
…やっぱりそうやったんか」


また、最後の晩餐では二人のこんなやり取りもあった。

「春蝶兄さん、今日はあんまりモノ言いまへんな」
「……福笑、人はな、世間というものが
見えてくれば見えてくるほど
寡黙になるもんやねん」



はたしてこれは
言葉が上手くでないということの照れだったのか、
あるいは、何かの悟りからでた言葉だったのか。
……今となってはわからない。


さて、「二代目春蝶生誕祭」を、
今年も師匠の誕生日10月5日に開催します。
生きてはったら満76歳、
喜寿のお祝いです。

ゲストには笑福亭福笑師匠。
そんなわけで、この続きは「繁昌亭」で。


二代目春蝶生誕祭2017-500
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195.”離見の見”と”目前心後”~駅ナカ・デイパック禁止令~

最近とみに気になるのが、
大きなデイパック(リュック)を背負いながらスマホに夢中になる人の姿。
背中に荷物を負えば両手が開くのでスマホを操作するには都合がいい。
しかし、そのぶん満員電車内など周囲はかなり不愉快な思いをしている。
当人が向きを変えるたび、
思わずデイパックに頬を打たれそうになっている人。
ましてやこれが駅のホームの上だったりすると危ないことこのうえない。
当人の知らないところで自身が加害者になっているということが多々ある。
いっそのこと「駅ナカデイパック禁止令」という
お触れを出せばいいのにとさえ思う。
とはいうものの、かくいうぼくも
キャリーケースで他人を躓かせてしまったり、
ずいぶんひどいことをしてきた。
「お前がいうな」と言われたら返す言葉もない。

花團治の会3、花團治1
撮影:相原正明


落語家に入門してすぐの頃である。
ぼくは師匠の鞄持ちとしてある落語会に同行した。
そこの楽屋は四畳半の和室ひとつしかなく、
5名ほどの咄家がところ狭しと窮屈そうに坐っていた。
そのなかにようやくスペースを見つけて
我が師匠の衣装を包んだ風呂敷を開けていると、
先輩の一人から
「蝶六くん、春團治師匠に尻を向けてどないすんねん」と窘められた。
「す、すみません」と向きを変えると、
今度はその反対側から「今度はわしに尻を向ける気かいな」。
その後も「次はわしに向けるのか」という言葉が矢継ぎ早に浴びせられた。
ぼくがどう向きを変えようとも必ず誰かに尻を向けることになる。
もうどうしていいかわからない。
その場でグルグル向きを変えながら焦るぼくに
楽屋一同は大盛り上がりだった。

その時、そっと助け船を出してくれたのが春團治師匠だった。
「こんな狭い楽屋なんだから……そこを空けてやりなさい」と
楽屋の一番入り口に近い隅っこをぼくの作業スペースに設けてくれた。
今もあったかいエピソードとしてぼくの脳裏に残っている。

春團治を送る会、繁昌亭
この日は繁昌亭で春團治師匠の法要があり、一門が黒紋付・袴姿で並んだ。
こういう日は特に楽屋が混雑する。


末廣亭の楽屋
東京新宿「末廣亭」の楽屋は「繁昌亭」以上に狭い楽屋だった。


末廣亭の楽屋番さん
「末廣亭」には出番のない若手の楽屋番さんだけで10名以上が働いていた。



能を確立した世阿弥の教えに「離見の見」という言葉がある。
「己の姿を俯瞰的に見るべし」という舞台上での心得事のひとつだ。
また、 「目前心後」という教えもある。
「目の前や横にばかり気をとらわれず、自分の背後にも気を配れ」
という意味である。
こうすることで芸に深みが出る。

あの落語会の楽屋では
師匠方はこのことをぼくに教えたかったのかも知れない。
キャリーケースで人を躓かせてきたぼくは、
すでにそれだけで舞台人として失格ということになる。

天神祭り能船
天神祭の船渡御に参加する能船。ちょうど「土蜘蛛」の上演中。



そう言えば独身時代、
ぼくは当時付き合っていた彼女に
背中を見せ続けたという理由でずいぶん怒られた。
それは行きつけの店のカウンターで
たまたまぼくの横に座った知人男性と話に夢中になるあまり、
その反対に座る彼女のことを
ぼくはついほったらかしにしてしまったのだ。

つまり、彼女はずっとぼくの背中ばかり見ていたことになる。

「なんだか自分のことを拒絶されているような気がして」
と彼女は言った。
まさに「目前心後」の欠如だった。


「一事が万事」というが、
デイパックやキャリーケースで他人に迷惑をかけ続けている人も、
彼女を背後にほったらかしにする人も、
他のことでもきっと同じようなことをしている。
それに相手を不愉快にすることの大半は
自分の気づかないところで起こっている。

「なんでアイツばかりが優遇されるのだろう」と羨む前に、
まずはそんなところから見直すべきだろう。

「離見の見」や「目前心後」を心掛けるべき。
……いや、これは自分に言い聞かせている。

満員列車に揺られながら。


この原稿は熊本の(株)リフティングブレーン様の社報誌「リフブレ通信」に連載中のコラム
「落語の教え」をもとに加工したものです。



花團治の宴2500
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二代目春蝶生誕祭2017-500
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194.叱るむつかしさ・叱られるありがたさ~落語の授業にて~

その瞬間、ぼくは
「ああ、またやってしまった」と後悔した。


出講するマスコミ系の専門学校で、
思わず学生の一人を怒鳴りつけてしまったのだ。
事の発端はこうだ。
ぼくの授業は最初に皆で大道芸の口上を口にするのが決まりで、
その日もかなり大きく発声していた。
とその時、他のクラスの学生の一人が焦った表情で教室に入って来た。
「教室の前でドラマのロケをやっていますので静かにしてください!」。
あちらも実習ならこちらも授業である。
おまけに事前の連絡も無し。そんな一方的な言い分に従う義務はない。

しかし、そこはこれ以上事を荒げるのも大人げないと口をつむった。

「分かりました。ではどれぐらい時間を要するのかな?」と尋ねた。
一旦、外へ出た彼がまた戻ってきて「一分間です」と答えた。
ぼくは「分かりました」と言って、声を抑えながら授業を続けた。
それから十分近くが経過した。

その教室はガラス張りなので外の様子がよく見える。
カメラなど機材がどんどん撤収されていった。明らかにロケは終わっている。
ぼくは教室の外へ出て、アシスタント役らしい先ほどの彼にところへ駆け寄った。

「もうロケは終わったよな?」「はい、終わってます」
「じゃあ、ひと言、言いに来なあかんのと違うか?」。
それでも彼がキョトンとしているので、ぼくはついつい怒鳴ってしまったのだ。

「あのな、こちらは君が言いに来るのを
待ってたんやで。
『ロケは無事に終わりました。
ご協力ありがとうございました』
ぐらいのことが言えんか!」。

蝶六、仁王変顔
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沸点に達した怒りを一旦クールダウンするべく、
ぼくはそのまま一旦教室を離れ、
教務課に足を運び事の次第を説明し、
思わず怒鳴りつけてしまったことを報告した。
幸いなことに教務課の先生方は
「よくぞ叱ってくれました。後はこちらで本人にもフォローしておきます」
と言ってくれたので、
ぼくも心を鎮めて授業に戻ることができた。


ぼくがここまで怒ってしまった背景には苦い思い出があった。
かつてぼくも情報番組のレポーターとして走り回っていたことがある。
街頭などでロケの都合上、
通行人の足止めをするのはアシスタントディレクター(AD)の役目だった。

ほとんどのアシスタントさんは第三者である通行人に対して丁重にお願いするのだが、
あるロケでのADは違った。「ここ、通らないでください!」と上から目線で言うのだ。

当然、相手はぶ然とした表情でこちらを睨みつけてくる。
そのため、時にはぼくが代わりに頭を下げに行くこともあった。

特にこういうロケは周囲の協力無しではなりたたない。
撮影の技術を習得するのはもちろん大事なことだが、
マナーや礼儀をわきまえないでどうするんだ!という思いが強くあった。


教室に戻ったぼくは授業を中座したことを学生らに詫びた。
事の成り行きは彼らも見ていたのでいつもと違う緊張感が漂った。
「まあ、ぼくもたまには怒鳴ることもあるということや」というぼくの言葉に彼らは神妙だった。

DSCF5950 (2)
お笑い芸人コースの面々。彼らの中から必ず明日のスターが生まれてくることだろう。それぞれの表情に特徴があってオモシロイ。
彼らはそれぞれ自分の持ち味を理解している。将来が楽しみだ。



「あ、それから言うとくけどな、これから君らも現場に行って叱ってくれる先輩にはどんどん甘えていきや。見込みを感じてくれるから叱ってもくれる。反対に優しすぎるスタッフには注意が必要やで。レギュラー番組を切るときなんか、番組プロデューサーは妙に優しかったりするもんや」「え、先生もそんな経験あるんですか?」「あるある。いっぱいある。みんな満面の笑みで冷たく切りよんねん」。

ようやく学生らにいつもの笑みが戻った。
その晩、ぼくはバーでたまたま隣り合わせた年配の知人にこの話をした。

「ほうでっか?けどよろしいな。若い者は叱ってもらえて。わしなんか、叱ってくれる人なんか、もう誰もおりまへんで。師匠、すまんけどいっぺんわしも叱ってもらえまへんか?」。


……アハハと笑いながら、ぼくはその言葉に切なさと優しさを感じた。



この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンの発行する社報誌
『リフブレ通信』に連載中のコラム『落語の教え』をもとに加筆したものです。


0724花團治500
 ※残り28席(7月14日現在)

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浅田飴、落語と狂言500
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花團治の宴2500

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193.楽しい「声」で賑わいを~落語と狂言のワークショップin大阪福島さばのゆ温泉~

浅田飴、落語と狂言500
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言葉の掛け方ひとつで患者の様子が変わるんです。
演劇人の一人として、
いかに言葉が大事か、思い知らされました。


以前、狂言師の金久寛章が大学の看護学生を前にこう言った。


青山狂言、金久近くから
大学で狂言演習を指導する金久寛章


彼は大阪芸術大学の舞台芸術学科を卒業後、
『劇団四季』に入団したものの、すぐに緑内障を患い、
三か月の入院を余儀なくされている。
そこで彼は看護師さんと患者の会話に耳を傾けるようになった。
言葉のトーン、温度、色合い、香り……
まるで味わうように、じっと耳を澄ませ続けたのだという。
その後、彼は狂言の世界に飛び込んだ。

◆この話の続きは、こちらをクリックして過去ブログから

大須狂言、金久&花團治、やい聞くか!
狂言『柿山伏』 山伏:金久寛章・畑主:桂花團治


このたびの『落語と狂言のワークショップ』では、
落語や狂言の上演のほか、
コトバのベクトル、声を出すための身体づくり、気持ちの置きどころ、
息のツメ開き、コミュニケーションなど。
また、参加者全員で落語の一節や狂言謡の唱和したり……
ちなみに「浅田飴」のお土産付き。



→ 今回のワークショップについて、下記の過去ブログも是非ご参照ください。

◆病いはコトバから~看護と狂言~

◆落語と狂言はさも似たり

◆督促に学ぶ落語の効用~督促OL修行日記より~

◆声のチカラ~落語と能とオペラと~

◆宛先のないコトバは届かない~みなさん・あなた・わたしというベクトル~

◆落語はビジネスに活きる~愚か塾の場合~


※大阪青山大学研究紀要「狂言を教育に活かす~古典演劇教育の実践を通して」金久寛章

※大阪青山大学研究紀要「喜六の処世術」ほか 桂花團治



大阪福島『さばのゆ温泉』への行き方。
さばのゆ道程1
まずは、JR東西線『新福島』で下車して、2番出口を上がります。

さばのゆ道程2
エスカレーターでどうぞ。

さばのゆ道程3
地上に上がるとセブンイレブンがありますので、それを尻目にそのまままっすぐ。

さばのゆ道程4
「浄正橋西」の看板が見えますので、そこを左に。

さばのゆ道程5
向こうに高層マンション、左手奥にお店の灯が見えます。

さばのゆ道程6
Curry & Cafe 般°若 (ぱんにゃ)さんに迷わず飛び込んでください。
お店に入ってすぐ右の階段を上がって2階が『さばのゆ』です。
「新福島駅」から地上に上がって、ここまで約3分。

さばのゆ道程7
腹ごしらえをしてから臨まれる方は、ぜひ般°若さんのカレーをば。病みつきになりますよ。




さばのゆ店内
上の写真は「さばのゆ温泉」のサイトから拝借。朗読する松尾貴史さんです。


会場の様子は下記をクリックください。畳み敷の和室です。
お問い合わせ・お申込み等も「さばのゆ」へお願いします。
◆大阪さばのゆ温泉のサイトはここをクリック!




その他、落語会出演情報はこちらの「花團治サイト」をご参照ください。
◆「桂花團治サイト」はここをクリック!




192.芸人の危機管理~アドリブとは備えのことなり~

あれは30年以上前、タクシーでの移動中だった。
師匠がポソッとこんなことを漏らした。

「あいつなぁ、普段は腐った魚みたいな目ェしとるのに、
こういうことがあると俄然イキイキしよる」

あいつとは、師匠のマネージャーのこと。
こういうこととは、仕事上のあるトラブルのことだった。


この時はダブルブッキング(同じ時間帯に仕事が重なること)だったが、
マネージャーのトラブル処理は目を見張るものがあり、
臨機応変に動いてはみごとにトラブルの火種を消していく。
本来ならアクシデントを起こさない方が優秀なマネージャーなのだが、
あまりの手腕の鮮やかさに、このマネージャー氏だけは、
アクシデントの数だけ評価に繋がっていた。

突発的な対応にこそ、人の真価があらわれるものだということを
ぼくはこのマネージャーから教わった。

春蝶の家族と共に
師匠(先代春蝶)の家族と共に。右後ろがぼく、その前の少年が現・三代目春蝶。


ところで、ぼくは毎年、天神祭の船渡御の案内人として
船に乗り込んで司会を仰せつかっている。
ある年の天神祭。
出航してしばらく、それまで雲ひとつなかった空が、
急に曇り出し、ポツリと雨粒が落ちた。
そこからザアザア降りに変わるまではあっという間だった。
いわゆる通り雨である。
屋根のない船、そのうえ乾杯を終えて
乗客が弁当を広げたその瞬間を狙ったかのようなタイミング。
雨はすぐに上がったものの、
口にすることなく水びたしになった弁当を前に乗客は怒り心頭。

皆の視線は
一斉に司会であるぼくに注がれた。


とその時、思い出したのが天神祭の儀式であった。


古来、船渡御は人の形にくり抜いた紙と鉾を大川に流し、
それが漂着した地を御旅所強調文として、
そこまで御霊を送るというのが習わしだった。
今は地盤沈下の影響もあって
船渡御のコースは天神橋と飛翔橋の間と決められているが、
この「鉾流し神事」の儀式自体は今も続けられている。
この人型の紙を流すのは
「身に降りかかった悪事災難をこの神に託して流す」という
意味合いも含まれている。


そこで、ぼくはこの儀式を引き合いに出してこう続けた。


「ただいま雨に遭われたということは、
紙に託さずして、
悪事災難を洗い流していただいた
ということになります」


もちろんこれは全くの作り話。

この時ばかりは「ふざけるな!」という声を覚悟したが、
意外にもノリの良いお客様方で、
「なるほど、そう考えたら、これは最高の天神祭やないかい!」
という声にも助けられ、船のなかは大盛り上がり。

実はこれ、「もしも船渡御が途中でひどい大雨に見舞われたら」
というリスク管理の観点で、事前に準備していたコメントのひとつだった。

芸人の大先輩から聞いた忘れられない言葉がある。

芸人にとってのアドリブというのは
単に即興ということやない。
頭のなかにたくさんの引き出しを持って、
その場に応じた引き出しを
的確に開ける能力。
これをアドリブと言う。



天神祭船2

天神祭船3
天神祭り船渡御の模様


……天神祭りが近づくたびにこの大先輩の言葉と、
師匠のマネージャーの対応力を思い出し、
つい、ぼくは自身のアドリブばなしを自慢したくなる。

「アドリブとは備えのことなり」



この原稿は、「大阪保険医雑誌」に連載中のエッセイ『落語的交遊録』から抜粋、補筆したものです。





第三回「花團治の会」では、大川の船遊びを舞台にした「船弁慶」を、
桂文也師に演じていただきます。

0724花團治500
※一階席は完売しました。二階席のみのご案内となります。

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浅田飴、落語と狂言500
こじんまりした会場です。どうかお早目のご予約を。

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花團治の宴2500

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花團治の会3、花團治1
撮影:相原正明
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191.復幸を目指して~熊本地震復興支援『笑顔を届ける落語会』後記~

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そのとき、ぼくの目に
「復幸」という文字が飛び込んできた。

それは校長先生の背にプリントされた文字だった。

広安西小学校、復幸
5月19日・20日の二日間、
ぼくは益城、広安、木山、御船、大津、西原と熊本県下の仮設住宅や小学校を『笑顔を届ける落語会』で回らせていただいた。
益城町立広安西小学校もそのひとつ。




ある統計によると、震災が原因とみられる自殺者は3年後、4年後に
多く見られるそうだ。
1995年の阪神淡路大震災の際、
ぼくが被災者の住む仮設住宅を訪れたのは震災から一年後。
その時、ボランティアスタッフの言葉が今も記憶に新しい。

「(震災)直後は芸能人もマスコミも大勢押しかけてね。
けど今は誰も見向きもしない。寂しいもんです」。

スタッフはこう続けた。

「震災直後はとにかく皆が“生きる”ことに必死だった。けれども、とりあえずは仮設といえど住むところが確保され、風呂やトイレ、食事などの心配もしなくていいようになった。そんなときなんです、心の中にポッカリ穴が開くのは…」。

今こそ色んな芸能の方にも来て欲しいというのが彼の主張だった。
ぼくが慰問の継続にこだわるのはこの体験が元になっている。
だから、どうしても今年も熊本に行きたいと願い、
熊本商工会議所青年部のメンバーもおおいにそれに応えてくれ、
去年に引き続いて会場の調整から舞台設営、ぼくの交通や宿泊まで何もかもやってくれた。

広安西小1
熊本県益城町立広安西小学校にて。
昼休みの自主参加にも関わらず大勢の子どもたちが参加してくれました。


広安西小2

熊本サイン攻め400
口演が終わってサインコーナー。ぼくにとってかなりのサプライズでした。



仮設団地の集会所はどこも大きな笑いに包まれた。
しかし、それはぼくの芸云々の問題ではなく、
とにかく一緒に笑うことが彼らの目的だった。
自宅のテレビでバラエティーを見ながら笑うのも良いが、
ひとつの空間で笑いを共にするということがどれほど大切か。
共に笑うということは価値観を共有するということ。
このことが絆を深め、孤独を遠ざける。


「まず外に出て来てもらうことだと思うんですよ」
「部屋にこもりっぱなしで孤独な方もきっと多いはず」
「復興は始まったばかりです」

……商工会議所のメンバーとも何度もそんな話を繰り返した。

熊本仮設400
熊本の仮設団地にて

熊本握手
「久しぶりに腹抱えて笑ったよ」と集まったお客様たち。ぼくもたくさん元気をもらった。


熊本仮設トラック400
落語会の設営はこのトラック一台に集約されている。
高座にするビールケースや座布団、毛氈、パイプ椅子まで。
スタッフも慣れたもので到着から設営完了に要する時間はわずか15分足らず。


熊本仮設のぼり400
スタッフのなかでもとりわけ屈強な二人と。幟の横で撮ると、まるで相撲の巡業のようだ。


さて、冒頭に申し上げた熊本益城町立広安西小学校での公演である。
ここでは昼休みを利用して生徒が行き交うエントランスが会場ということもあり、
決して演じやすい環境ではなかったが、
それでも多くの子どもたちが耳をダンボにして付き合ってくれた。
壁一面には全国から寄せられたメッセージが貼られていた。

「復幸」という文字について、校長がこんな話をしてくれた。
「これは長岡花火大会の会場で目にした文字なんです」。
震災直後に災害支援にあたってくれたフェニックスという
ボランティア団体からの招待を受け、
校長は16名の小学生らと共に長岡を訪れている。

「復旧や復興の取り組みが一日も早く進むことを願う。これはもう言うまでもありませんが、熊本地震で受けた心の傷や痛みを乗り越えて、どこを目標にしてがんばっていくのか?それを考えさせてくれるのがこの言葉なんです。地震前まで当たり前と思っていた幸せに気づくこと。もっと幸せな社会を作っていこうという想い。それらがこの文字には集約されています」。

「復旧」とは堤防や道路など壊れたものを元通りすること。
「復興」とは元のような活気のある地域を取り戻していくこと。
なるほど「復幸」にはそれらを含めたさらなる思いが込められている。
それに大人や専門家のみならず子どもたちも共有できるのがこの言葉だ。
例えば、広安西小学校では
「おはよう」「ありがとう」「大丈夫?」と声にすることが
「復幸」に向けた第一歩とし、常に徹底している。。

今回の慰問も実に多くのことを考えさせられた。
「復旧」「復興」というより、
「復幸」が『笑顔を届ける落語会』に課せられた使命なんだと思う。

熊本商工会青年部の皆さんと来年の実施を約束し、熊本を後にした。

熊本鶴橋400
熊本県益城町立広安西小学校に全国からの応援メッセージ。
大阪・鶴橋小学校からのものもありました。


この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する月刊社報誌『リフブレ通信』に連載中のコラム「落語の教え」を加工したものです。



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広安西小学校1



190.喜六になりたい~ロールモデルとしての落語~

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花團治、下から突く
撮影:相原正明


落語に出会った頃のぼくは決して良き観客ではなかった。
当時、通っていた高校近くのお寺で定期的に落語会が開かれていた。
その最前列に席を取り、中入りになると
ありったけの知識をこれ見よがしに周囲の客に
無理やり聞かせて悦に入るのがぼくの楽しみだった。

いっちょもみざくら
高校3年生の頃。左から二人目がぼく。


「〇〇の落語は△△師匠の型そのままやな」
「こういう笑いの取り方は邪道やな」
「あいつはきっと伸びるに違いないで」。

……エラそうに、
いっぱしの評論家気取りだった。


そのときは周囲の迷惑を顧みるなどさらさら考えてもいなかった。
しかし、たまたま他の客のそういった言動に対し、
ふとぼくが「あいつ、嫌な奴やな」と漏らした際、
同席していた落語仲間が「お前も全く同じやで」と
すかさずぼくに突っ込んだ。
そこで初めてぼくは己の愚行に気がついたのである。

観客としてではなく、演者としてのぼくも「嫌な奴」だった。
落語研究会に入部し、校内で数多く落語を披露する機会を得たが、
そこでぼくは「拍手をくれた方のみ御礼申し上げます」というような
本職の物言いを真似たりした。
そんなぼくに先輩からこんなお叱りが飛んだ。

「そんなひねくれたこと言うて、君のニン(人柄)に合うてないし、
何か嫌な感じやで」


落語を演じるようになって、
クラスの人気者どころか
煙たがられる存在になっていくのを感じた。


高校卒業式
高校の卒業式


師匠の元に弟子入りして落語を本職とするようになって数十年。
嫌な観客・嫌な演者が何たるかを身にしみて実感しつくしたぼくにとって、
自宅の稽古場で主宰する落語塾は落語を教えるだけでなく、
過去の反省・失敗を伝えるための場でもあった。

愚か塾、大喜利1


しかし、スタート時は何をどう伝えていいかもまるで手探り状態。
自信の欠片もなかった。
そんななかでも、続けていくに連れて
耳にするようになった「落語によって人生が好転した」という
塾生の報告はぼくに大きな自信を与えてくれた。
自分に自信が持てず人前に出ることが苦手だったかつての塾生は
「ちゃんと人の目を見て話せるようになり、
社内での新入社員研修を任されるようになった」
と手紙を寄せてくれた。

また、ある男性は
「ギクシャクしていた部下とのコミュニケーションが改善されました」
嬉しそうにぼくにそう語ってくれた。
これまでの「上から目線」ではなく、
相手を受容する心持ちで話すように心がけたのだという。

「あるときは甚兵衛さんのごとく、
あるときは喜六のごとくですね」

と彼は言った。


喜六とは上方落語に登場する愚か者の代表格。
おっちょこちょいで慌て者、いつも失敗ばかり繰り返すが
彼の周囲は笑いが絶えず、誰からも愛される人物。
相手を優位に立てる天才でもある。
甚兵衛さんはその喜六をたしなめながらも
優しく見守る町内のご隠居だ。

落語を稽古するということは
すなわち登場人物をロールモデルに置くこと。
これは愚か塾の大きな目的に掲げてはいたが、
その方針に確信を与えてくれたのはまさしく塾生たちだった。

高校時代、事あるごとに注意をしてくれた先輩や顧問の先生の教えが
今ここに活きている。

愚か塾、打ち上げ
主宰する『愚か塾』の塾生たちと。



落語の愛好家には本職やアマチュアに関わらず二通りある。

ひとつは
斜交いな嫌味な眼差しばかりが身についた者。
もうひとつは、
どんな愚か者も受容の眼差しで接しようとする者。


ぼく自身は明らかに前者からのスタートであり、
まだまだ後者には至っていない。
落語を聴くのに理屈はいらないが、
せめて落語は自身を豊かにするものであってほしい。

今回は落語を演じる者として反省の弁を述べてみた。


この拙文は、熊本の(株)リフティングブレーン社さんの発行する社誌『リフブレ通信』の原稿に加筆したものです。



※ただいま「愚か塾」では、定員を超えたため、新規募集は行っておりません。


神能殿500
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0724花團治500
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189.悪事も善事も千里を走る~見てる人は見てるもんです~

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「若手コンテストを見ました。真剣勝負の場なのにそれを審査する立場の者が普段着のまま舞台に立つというのはいかがなものか。見ている人は見ています」


今、ぼくは上方落語協会で「若手育成委員会」に所属している。
若手のための深夜寄席やコンテストの運営をするのが
その主な業務内容だが、先日、ぼくのもとに
とある新聞記者から冒頭のようなメールが届いた。


このときの審査員とはつまりぼくのことである。
言い訳がましくなるが、その日は客席からの審査だけで
ぼく自身は舞台に上がる予定ではなかった。とはいえ、
急きょ舞台に上がる可能性があることはじゅうぶんに考えられたはずである。
ぼくとしたことが……。
翌日、すぐさまくだんの記者に御礼の電話を入れたのは言うまでもない。

このとき、ふと思い出したのが
日本テレビ『笑点』でもおなじみの林家たい平さんのことだった。
たい平さんはたとえラジオの収録であっても
きちんと着物に着替えて臨む人である。
そういう「了見(=考え)」がある方の目に留まって
大きなチャンスに繋がり、今に至っている。


若手グランプリ40002


ところで、これはずいぶん前の話になるが、ある俳優スクールで授業の終わりに
学生の一人を呼びつけてこんな説教をしたことがある。

「君な、ずっと頬杖ついて聞いてたやろ、あれはあかんで!」。
すると彼はこう応えた。
「けど、ぼくはちゃんと聞いてました。先生にはそう見えないだけ、ぼくはしっかり先生の授業を受けていました」。

そのとき、ぼくはつい声を荒げてしまった。

「あのな、君の将来の夢は何や?俳優になることやろ?俳優というたら他人に見られる仕事やで。自分のなかでは真面目にやっていると思っていても、他人から不遜な態度に見られているようではあかんのと違うか?」

つまり、あのときのお小言がしっかりブーメランとなって
我に返ってきたということである。


2009年BAC授業風景400
声優スクールでの授業風景 2009年



そう言えば、うちの師匠(二代目桂春蝶)のこんな言葉を覚えている。

「あのな、芸を身につけるのは、そらもう大事なことやけど、この世界で生きていこうと思ったら、評判を大切にせなあかんで」


春蝶、立ち切れ、縮小版
二代目桂春蝶 平成5年1月4日没 (撮影:後藤清)



ついこの間、落語会のあとに
笑福亭鶴瓶師匠の呼びかけで打ち上げをすることになった。
鶴瓶師匠の中学校の同級生もわざわざその場に駆けつけてくれて、
皆で焼肉を囲むなか、その方が鶴瓶師匠の当時の思い出を語ってくださった。

「駿河(鶴瓶師匠の本名)は昔っからほんまにエエ奴やねん。みんな、こいつにずいぶん救われたんちゃうかな」


鶴瓶兄と焼肉400
鶴瓶師匠の横でまるで大御所のようにひときわオーラを放っているのが鶴瓶師匠の同級生・木村さん


数々のステキなエピソードはおそらく他でもずいぶん披露されているのだろう。
悪事も善事も千里を走る。
良いことも悪いことも人の口から口へと伝染していく。
鶴瓶師匠は上からも下からも評判が良いということはもう言わずもがな。

日頃の「了見」が全てと感じた次第。



この原稿は熊本のリフティングブレーン社さんの社報誌「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」をもとに加筆したものです。


落語と利き酒の会500
先代馬生師匠の次女で、池波志乃さんの妹さんがプロデュースする人気の会に、上方落語から初めて参加させていただくことになりました。

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188.繊細な鬼瓦~六代目松鶴師匠の思い出~

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あんさんとこのお弟子さん、
お借りしましたで。


六代目笑福亭松鶴師匠はうちの師匠(二代目桂春蝶)にそう耳打ちした。
豪快なことで知られる松鶴師匠だが、
誰よりも繊細な方だった。
若手一人一人にまで細かく目を配っておられた。

松鶴400
六代目笑福亭松鶴師匠(昭和61年9月5日没) 写真:笑福亭松鶴(三田純市著・駸々堂)より



NHK大阪放送局がまだ馬場町にあった頃のこと。
落語番組の収録のため、ぼくは師匠の鞄持ちでお伴した。
師匠の着替えを手伝うのも弟子の役目。
「ぼちぼちかな」。
そう思ったぼくは、舞台袖から師匠の楽屋へと急いだ。
そのとき、ぼくの目に飛び込んできたのは、
早々と一人で着替えを始める上方落語会のドン、
松鶴師匠の姿だった。
松鶴師匠の出番はうちの師匠の次。
だから、本来ならもう少しゆっくりでも構わないのだが、
ぼくは迷わず松鶴師匠の楽屋に飛び込んだ。

「あんさんは自分の師匠の着替えがあるやろ。
せやから、わしは(放っておいて)ええさかい、
早よ師匠のとこへ行きなはれ」と松鶴師匠。

しかし、そういうわけにはいかない。
松鶴師匠は、春蝶にとっても大先輩であり、
春蝶自身が敬愛する師匠の一人。

「いえ、大丈夫ですから」と言いつつ、
ぼくは松鶴師匠の着替えを手伝った。
でも、内心は穏やかでなかった。
叱られることはもう間違いない。

松鶴師匠の着替えを済ませると、
ぼくは慌てて我が師匠の楽屋へと向かった。

案の定だった。

師匠はぼくの顔を見るなり
「どこへ行っとんじゃ。
肝心なときにおらんとアホンダラ!」

ぼくはただ平身低頭に謝るしかなかった。
もちろんぼくにも言い分はあった。
でもこういうときの言い訳はご法度である。

春蝶、立ち切れ、縮小版
二代目桂春蝶(平成5年1月4日没) 撮影:後藤清


やがてサゲを言い終えた師匠が高座を下りてきた。
師匠についてまわるとき、
ぼくはいつも緊張しっぱなしだったが、
このときばかりはいつにも増して硬直していた。
ビクビクしながら師匠の着替えを手伝った。

でもそのとき、意外や意外。
師匠のぼくを見る眼差しが
なぜか妙に優しいことに気づいた。
高座に上がる直前とは明らかに違っている。


その理由を教えてくれたのは、
たまたまその場に居合わせた桂春若師匠だった。
春若師匠は、「舟行き」という出囃子がジャンジャンと響くなか、
松鶴師匠が高座に上がる直前、うちの師匠とすれ違いざま、
そっと耳打ちした、その一言を聞いていた。

「さっき、あんさんとこのお弟子さん、
お借りしましたで」


春蝶の家族と共に
二代目春蝶の家族と共に(右後ろがぼく。その前に現・春蝶)


そう言えば、ラジオのなかでこんなやり取りがあった。
それは「六代目松鶴追悼特集」だった。
「松鶴師匠からイロイロ教えていただいたでしょうが、
なにか心に残っている言葉はありますか?」
この質問に対して、うちの師匠はこう応えている。

「そうでんな。
己のことしか考えられんような奴は、
咄家やめたらええねん、
ちゅう一言ですかな」


当時20歳のぼくが見た、この世界の大人たちは、
みんな繊細な人ばかりだった。


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らくごカフェ20170405の500
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さばのゆ20170406の500
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187.おしゃべりはやめて~弟弟子のこと、愚か塾のこと~

花團治宣材ピンク300
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今から33年前、ぼくが先代春蝶の家に住み込みだった頃、
師匠のもとに一人の入門志望の若者がやってきた。

「人前で話すのが苦手で、
なんとかそれを克服したいんです」。

彼は大真面目な顔で弟子入りしたい理由を語った。
「絶対、師匠はこいつを弟子に取らないだろう」と思っていたら、
意外にもすんなりとぼくの弟弟子として迎えられた。

「うちは話し方教室やないねやさかい」
自嘲気味に笑う師匠の表情は今もよく覚えている。
でも、それは決して突き放すような言い方ではなく、
「けったいなやっちゃなぁ」と相手を受け入れる微笑みでもあった。


結局、彼は落語家を廃業してしまったが、
今になって思えば、彼はとてもイイ奴だった。
なにより聴き上手なところが彼の長所だった。
ことあるごとにぼくの愚痴の聞き役になってくれた。
そんな彼が廃業して一度だけぼくの自宅を訪ねてくれたことがある。
「兄さん、ぼくね、師匠のところでの修行生活が、
今になってものすごく役立ってるんですよ」。
目をキラキラさせてそう語ってくれた。

師匠は出しゃばったことの嫌いな人だった。
抑制のきいた喋りは「引きの芸」に繋がったし、
ペーソスあふれる芸風を生みだした。
そんな師匠だからこそ、
彼のそういう立ち居振る舞いに
何かを感じ取ったのかもしれない。


二代目春蝶、ノック、たかじん、ざこば
左から二代目春蝶、横山ノック、やしきたかじん、桂ざこば


一方、師匠のもとに入門してすぐの頃のぼくは
「ぼくはぼく、師匠は師匠やから自分のやり方を見つけなあかん」と、
どこか粋がっているようなところがあった。
落研出身でもあったぼくは稽古してもらっている尻から台詞を変えたり、
他の師匠のくすぐり(ギャグ)を勝手に付け加えたり……
ついには師匠にこんなことを言わせてしまった。

「あのな、習うっていう字はな、
羽に白いって書くんやで」


春蝶の家族と共に
先代春蝶一家と共に(後列右がぼく、その前に現・三代目春蝶)



現在、ぼくが主宰する「愚か塾」という落語教室には
10代から70代まで職種も年齢もバラバラな25名が通ってくれている。
発足しておよそ10年。これまでにおよそ70名が入塾したが、
そんな経験から言わせてもらえば、
自らを口下手だという人の方が比較的飲み込みが早い。

饒舌だからといって咄がイイとは限らないし、
「話し上手は聴き上手」というごく当たり前のことを
塾生たちがいつも気づかせてくれている。

愚か塾、大喜利1
発表会での大喜利風景


例えば、営業職にありがちなのが、
ぼくがアドバイスをしている途中にも関わらず、
「ああ、それは〇〇ということですね。はい!分かりました!」と、
自分で強引に結論づけて終わらせてしまうタイプ。
少し違うかなと思いつつもつい言葉を飲み込んでしまうというのは
ぼくの悪い癖である。
そんなとき、他の塾生がぼくの表情を横から盗み見て
可笑しそうにフッと笑っている。

また、こんな方も過去に何名かおられた。
「(他の)〇〇師匠のやり方が面白かったので、
そちらの音源で演ってもよろしいか」という受講生。

まるであの時のぼくではないか。


愚か塾、ぴっける
愚家ぴっける君。彼にとっての初高座だったが、
今春より教育ボランティアとしてザンビアに渡航することになった。


愚か塾、もねこ
愚家花もねこさん。こちらも初高座。なんともいえないイイ味出してます。


「愚か塾」では稽古を終えると
塾生たちと酒を酌み交わすことがある。
「酒のうえだから」という逃げ口上もあるが、
むしろ酒席でこそその人の性分がよく表れる。

他人の話を横からすぐに取ってしまう人。
妙な相槌で相手の話のリズムを狂わせる人。
持論の展開ばかりで他人の話を聞こうとしない人。
知ったかぶりで胴を取ろうとする人。あるいは慇懃無礼……


って、これらとてぼく自身がずっと注意され続けてきたことだが、
過去にはうちの塾にもそういう方が何名かおられた。
こういう体質は咄を演じていてもすぐに表れるもので、
しっかり咄の「間」が取れなかったりする。

単なるお喋りは話し上手ではない。


愚か塾、打ち上げ
発表会のあとの打ち上げ。
稽古場では代々の花團治と先代春蝶が見守ってくれている。


◆「愚か塾」については、ここをクリック!

……教えることは教わることだと痛感する日々。
ぼくには弟子こそいないが、塾生という存在がそれに代わってくれている。
今在籍する塾生はみんな「傾聴」の人々だと感謝している。
それにしても、ぼくの元・弟弟子。
あのまま続けていたらきっとイイ咄家になっていただろうなぁ。
機会あらば是非一献傾けたい。



この原稿は熊本の人材派遣会社・㈱リフティングブレーンの発行する『リフブレ通信』に
連載中のコラム「落語の教え」を加工したものです。


テレマンと落語400
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※春は「落語講座」開講のシーズンです↓↓↓
◆4月から神戸・新長田「ビブレホール」にて桂花團治の落語入門が開講します。詳しくはここをクリックくださいませ。(講座名:落語で検索)
◆4月より開講する「繁昌亭落語家入門講座」21期生を募集中です。詳しくはここをクリックくださいませ。
◆花團治の主宰する「愚か塾」は定員を超えたため、キャンセル待ちとさせて頂いておりますが、4月頃から見学体験を再開する予定です。詳しくはここをクリックくださいませ。


186.わからんけどわかった~古典芸能はアタマに気持ちイイ!~

花團治の会3、清水1、400
2017年1月16日、天満天神繁昌亭にて(撮影:相原正明)



「わからんけどわかった」


これまであちらこちらに落語を出前させてもらったなかで
もっとも印象に残った一言です。

それは京都のある小学校でのこと。
「これまでに落語を生で聴いたことある人は?」というぼくの問いかけに、
100名近くいるうちのおよそ半分がサッと手を挙げた。
「へぇ、誰の落語?」と尋ねると、
その手が皆、ぼくを指さした。
「そうか!?……毎年ここは5年生と6年生対象だから、
去年の5年生は、今年の6年生なんだ」

そんなことも忘れて高座に上がったぼくがうかつだった。
小学校での落語はたいてい『動物園』『饅頭こわい』を演じているが、
今日は違う演目をせねばならない、と
咄嗟に口をついて出た咄が『牛ほめ』だった。
家の普請(建築)を褒めるという、落語好きにはおなじみの一席。
しかし、現代にはなじみの薄い単語も多い。

「庭が縮緬漆喰、上り框が桜の三間半節無しの通り門。上へあがると畳が備後表のヨリ縁、天井が薩摩杉の鶉杢。それから奥へ通ると南天の床柱、萩の違い棚、黒柿の床框……」

咄嗟とはいえ、何という選択をしてしまったんだろうと
後悔するも、時すでに遅し。
すっかり咄に入っていて、もう後戻りはできなかった。

しかし……
子どもたちはぼくの心配をよそに腹を抱えて笑っていたのです。

オチを言ったあと、彼らに感想を求めてみた。

「どうや?」
「うん、めちゃ面白かった」
「わからんコトバがあったやろ?」
「うん、あったあった。いっぱいあった」
「それでもオモシロかった?」
「うん、わからんけどわかってん」


そうか!多少わからないコトバがあったとしても、
それを前後の内容から想像して補う「想像力」というチカラが、
人間には備わっている。
そんな当たり前のことに改めて気づかされた瞬間でした。

花團治の会3、花團治1
2017年1月16日、天満天神繁昌亭にて(撮影:相原正明)


一人の男の子が発した「わからんけどわかった」は、
ぼくが初めて生の落語に触れた時のことをも思い出させてくれました。
それは、ぼくが高校に入学して落語研究会を見学に訪れたときです。
先輩の一人が『壺算』を演じました。
一席語り終え、「どうやった?」と尋ねられました。
そのとき、ぼくはこう応えました。
「うん、(内容が)よくわかった」。
その先輩は少し怪訝そうな表情をしていましたが、
ぼくにとっては「知的快感」をくすぐられた瞬間でした。

オチのところで「ああ、そうくるか!!!」という、
なんともいえない快感。とても心地良いものでした。
加えてこんなぼくにでもストーリーが理解できたということは、
このうえもない喜びでありました。
それが「よくわかった」というコトバに集約されたのでした。
このときの何ともいえない快感がぼくを落語の道へと誘ったのです。

花團治の会3、花團治2
2017年1月16日、天満天神繁昌亭にて(撮影:相原正明)


ところで、先日『第二回・花團治の会』(@天満天神繁昌亭)での狂言。
『蝶六の会』では、全15回のうち10回以上も狂言を務めてきましたが、
2年前に花團治を襲名して以来、この場で狂言を演るのは初めて。
ぼくが狂言をかじっていることを知らないお客さまも多かったでしょうし、
狂言という芸能に触れるのが初めてという方が大半だったと思います。

狂言はムツカシイと感じている方が世間には多いかもしれません。
でも、その多くはきっと「食わず嫌い」なんだと思います。

花團治の会3、清水3、400
2017年1月16日、天満天神繁昌亭にて(撮影:相原正明)

当日は相方の狂言師・金久寛章氏の好リードや、
感度の良いお客様のおかげもあって、
盛況のうちに終えることができました。
お見送りの際には、お客様から、ぼくの演じた狂言について、
多くのお言葉を頂戴することができました。

「二人のコンビネーション、最高!絶妙の間やった」
「ムツカシイと思ってたけど、全然そんなことなかった」
「狂言って”お笑い”やったんやねぇ」
「落語より狂言の方が演ってて楽しそうでしたね」


ちなみに最も嬉しかったのは一番上のコメント、
複雑な思いにさせられたのは最後のおコトバです。

花團治の会3、清水2、400
2017年1月16日、天満天神繁昌亭にて(撮影:相原正明)


ひょっとして、狂言の台詞のなかで意味不明に思われたコトバも、
いくつかあったかもしれません。
でも、人間の脳は、そんなわからないコトも、
「想像力」で補いつつ、たとえなんとなくであっても、
そこから先に進むことができます。
これはおそらくコンピュータには真似できないことでしょう。
そんなわけで
「わからんけどわかった」

ぼくはこのコトバに深い含蓄を感じてやまないのです。



花團治の会3、咲くやこの花学生集合500
当日は、市立咲くやこの花高校・演劇科の学生たちが多く参加してくださいました。
彼らの活気あふれる大きな笑い声が会場の盛り上がりを大きく後押ししてくださいました。



◆今回のブログに使わせていただいた写真は全て写真家・相原正明先生によるものです。
ここをクリックして「相原正明つれづれフォトブログ」も併せてお楽しみくださいませ。



※春は「落語講座」開講のシーズンです↓↓↓


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さばのゆ20170406の500
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プロフィール

蝶六改メ三代目桂花團治

Author:蝶六改メ三代目桂花團治
落語家・蝶六改め、三代目桂花團治です。「ホームページ「桂花團治~蝶のはなみち~」も併せてご覧ください。

http://hanadanji.net/

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