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232.祝うて三度でご出棺~別れの言葉はサヨナラじゃなくて~

亡くなる十日ほど前だったか、
がん患者によく見られる皮膚の突起が
義父の額の真ん中にもくっきりと表れるようになった。
義父は自身のそれを指しながら
「お釈迦さんみたいやろ」
と子どもみたく笑った———。


コロナ騒ぎの緊急事態宣言により、全てに自粛が叫ばれるなか、
女房の父が静かにあの世へ旅立った。
葬儀は三密を避けるため、ごく身内だけで執り行うことになった。

その通夜を済ませた夜に女房の兄貴・つまり義兄が
電話でぼくにこんな提案を持ち掛けてきた。

「親父を陽気に送り出してやりたいと思いますねん。
それで、出棺の時に兄さん(ぼくの方が年上なのでお互いに兄さんと呼び合うようになった)
大阪締めの音頭をとってもらえませんか?」。

大阪締めとは、天神祭りの船渡御のとき、
船が行き交う際に行う手打ちである。

「打ちま~ひょ(パンパン)、もひとつせ(パンパン)、祝うて三度(パパン、パン)!」。


いくらなんでも葬儀に「祝うて三度」というのはどうかとぼくは躊躇した。
しかし、義兄は「親父を送り出すに、その方がきっと相応しい、親父も喜んでくれる」
と言って譲らなかった。


義父と400
リノベーション工事中の自宅を眺めながら、義父とのツーショット。



義兄とのそんなやりとりのなかで脳裏に浮かんできたのは、
闘病中にも関わらず、長期入院を拒み一時帰宅しては
パソコンの前に坐る義父の姿であった。

公認会計士であり、会社経営も担っていた義父は
後に残された者が困らないようにとずっとキーボードを打ち続けていた。

そればかりか、「(自分が生きている間に)
あいつには何をしてやったらええかなぁ
」と
他人のことばかり気遣っていた。

ぼくに遺してくれたのは稽古場だ。

義父は若くして独立したが、
自宅長屋のひと部屋を事務所に置いたものだから
電話応対中に赤ん坊の泣き声が響いて困ったのだという。

「これではプロとしての仕事はできまい」と一念発起した義父は
別に事務所を借り、後年は一階を事務所にした三階建て家屋を構えた。

このことから、ぼくにも
稽古や仕事に集中できる場を持つべきと考えてくれていたようだ。

昨年に閉所した一階の会計事務所スペースを貸すので、
ぼくたち家族の住居兼稽古場にリノベーションしてはどうか、というのは
義父からの提案だった。
ステージ4の癌で余命一年の宣告を受けた直後のことだ。

リノベーションが終わり、
引っ越しが完了したのは義父の亡くなる三日前。

寝たきりになった義父に稽古場で落語を聴いてもらう夢は叶わなかったが、
義父は苦しい息のなかで
「(死ぬまでに)間に合うて良かった」と何度も口にしたという。




地鎮祭400
リノベーションは大阪天満の「シンプルハウス」さんにお願いした。その地鎮祭にて。
車椅子に座ってピースサインをしているのが義父。



思い起こせば、義父は家の設計図を前に
ぼくにこんなことを言っていた。

「このスペースやったら落語会もできるわな。
30人は入るやろか。色んな人が集うサロンみたいになったらええな。
完成したら紅白の幕を吊って、
チンドン屋を呼んで…」。

またこんなことも。
「これはあくまでひとつのステップや。
ここで終わったらあかん。いずれここから飛び立ってもらいたい」



花團治新居400
新しくなった外壁。手前が稽古場で、奥が住居。



自分の死を目前に、常に冷静に、己のことより周囲の者に気を配る。


……見事な生き様、死に様だった。
親父さんは人生を全うした。
きっとええとこへ行きはる。
あの世への良き門出やんか、祝って送り出してやったらええやん。

…そんな思いがふつと沸いてきた。

「兄さん、やっぱり大阪締めやね」


「祝うて三度」の手打ちが葬儀会場に響いた。
義父を乗せた車が静かに動き出した。


花團治、黒紋付き、横から300
筆者(撮影:坂東剛志)



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。


※花團治公式サイトはこちらをクリック!





231.黒子に魅せられて~家とブロマイドとぼく~

歌舞伎の「黒子」は、役者の後ろの方で、
姿勢を低くして目立たぬように早変わりのサポートをしたり、
小道具を渡したり…。
全身を黒で包んで現れているものは、
「存在しないことにする」という約束事。
客も「見えていないもの」として見ている。

一昨年からぼくの落語教室に通ってくるある男性は、
45歳前後だろうか、ぼくより確か一回りほど年下である。
飄々とした雰囲気で、演じる落語も可笑しみに溢れている。
「笑わせてやろう」とか「聞かせてやろう」という
押し付けや我欲がまるでなく、
その油の抜けた感が彼の魅力に繋がっている。
聞けば、彼は数名のスタッフを抱える写真スタジオの経営者で、
彼自身カメラマンだという。


坂東さんスタジオ400
ブロマイド撮影現場


ぼくのなかで写真家といえば、
土門拳、篠山紀信、荒木経惟…といった
個性的な面々を思い浮かべてしまうが、
彼はそのどれにも当てはまらなかった。

ある時、ぼくは彼に
「“どんな写真を撮りたい”とかある?」
と聞いてみると、
彼はやはりいつものように飄々と
「いやぁそれがあんまりないんですよ」と応えた。
ぼくのなかで彼と、
彼の作品に対する興味がますます膨れ上がり、
去年の暮れ、
年賀状に使うぼくのブロマイド写真の撮影を依頼した。

その打ち合わせの段になって、
初めて彼は自分が撮影したという数冊の写真集を見せてくれた。
しかし、その表紙に彼の名前はなく
冊子の末尾に撮影スタッフとして小さく名前が記されているだけ。
その被写体は日本中の誰もが知っている劇団の女優だった。
そんな彼はぼくと打ち合わせをしながら、
「花團治は人からどう見られたいのか」
「どう撮ればこの人は活きるのか」を探っていた。

彼が言った
「どういう写真を撮りたいとか、あんまりないんですよ」
と言った言葉の真意が見えたような気がした。
彼は写真家として黒子に徹していた。


2020年賀300
今年の年賀状



ところで、ぼくはこのたび
女房の実家の一階を間借りして住むことになった。
元々事務所として使用していたスペースだったので、
住居用にリノベーションする必要があった。
それでいくつか施工会社を当たってみて、
これはと思うところを選んだ。
決めた理由は納期の問題も大きかったが、
その会社のオフィスのセンスや
そこで働くスタッフの雰囲気や応対が決め手だった。
特に最初のヒアリングを担当してくれた代表の方など、
着ているものから持ち物、
爪の先まで存在自体がおもてなしのような人だった。

現場は若いスタッフに引き継がれることになったが、
彼らも一貫して代表同様、聴き上手、相槌上手で
「寄り添ってくれてるなぁ」という印象を持った。
もちろん言いなりで動いているわけではなく、
こちらの想像を超えた多くの提案もしてくれた。

門灯400
「こういうのもあるんですが…」とさりげなく示された門灯は、
ぼくの一門の紋である「花菱」だった。




写真家もリノベーション会社もプロとしての黒子だった。
自身の主義や主張にとらわれるあまり、
クライアントの思いとかけ離れてしまう職人や
業者をたくさん見てきたが、
このたびは両者とも見事に寄り添ってくれて心より感謝している。

だからだろうか、最近は歌舞伎を観ながら
「黒子」にばかり目がいってしまうぼくである。

花團治新居400
この春から女房の実家の一階を間借りして、マスオさんすることになりました。


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。


※花團治公式サイトはこちらをクリック!




230.コロナ狂騒曲~ぼやきたいのはやまやまですが…~

この原稿を書いている今(3月5日現在)、
世間ではコロナウイルスの話題で持ち切りだ。
今回の件で天満天神繁昌亭もなんばグランド花月も
二週間ほどの休館を決定した。
ぼくのところへもキャンセルの電話があとを引かない。
この状況がいつまで続くのやら…ぼくとしては不安で仕方がない。
同業者も連日SNSでぼやいている。
「毒性はさほど強くなく致死率は低い」という報道もたびたび目にする。
ぼくも「騒ぎすぎちゃうか⁉」と感じている。

しかし、がん闘病中の身内を持つ者としては、
今複雑な心境でいる。
免疫力が低下した者にとってコロナウイルスはまさに死活問題である。

先日、見舞いに行った際も、
もしぼくが知らないうちに
コロナウイルスの運び屋になっていたら
どうしよう?
という不安がよぎった。


花團治、黒紋付き正面、300
筆者(撮影:坂東剛志)


このたびのウイルスで一番怖いのは、
陽性であっても反応がほとんど出ず、
罹患に気づかず出歩く者の存在だという。
「もしコロナウイルスに罹っていても別に死ぬわけじゃなし」と、
どこ吹く風で出掛ける者も結構多いと聞くが、
それはぼく自身にも言えることだった。

しかし、がんと必死に闘っている身内を前にそんな自分を恥じた。

所詮、「別に死ぬわけじゃなし」は自分目線でしかなかった。
「自己責任」という言葉もよく聞くが、
他人にうつしてしまっては「自己責任」とは言えまい。
ましてや、すでに重篤な病人にうつしたなら尚更だ。
休校やイベント自粛に関して、
政府の説明不足や方法についてモノ言いたいところだが、
結論としては致し方ないと思っている。
経済にも大きな打撃を与えているが、
されど今回の自粛要請で救われた人もきっといる。


「自分の窮状ばかりを口にする」
「自身のおかれた立場でしかモノを言わない」。

ぼくだって同じ輩の一人。

反省の意味を込めてささやかながら、
キャンセル続きには決してぼやくまいと決めた。
それぞれの主催者の判断に敬意を表したいと思う。

その代わり、演じられる場があれば粛々と高座に上がるつもりだ。
もちろん体調に異変を少しでも感じたときは早々と辞退する。

暗い話を続けてしまったが、ぼくはこの騒動のなかで
市井の人々のたくましさや強さを感じる場面にも出会った。

たとえば、
キャンセル多発覚悟で開催した先日の落語会は思いのほか大入り。
他の寄席でもいつも以上の動員だった。
自粛ムードのなか居場所を失った方が来場してくれたのだろうか。
また、ぼくの知人が営む高級食材専門のECサイトでは
いま注文が殺到しているのだという。
これは、自宅におこもり状態になった人々が
せめて食事だけでも豊かにしたいという気持ちの表れかもしれない。
いろんなところでそれぞれの光景。


……このたびのコロナウイルス問題に際し、
正義・正論は
それぞれの立ち位置によって様々

だということを改めて思い知った。



文華ツーショット300
コロナウイルスが騒がれ始めた頃、開催した落語会では補助席も埋まる大盛況をいただきました。
(向かって左:桂文華、左:ぼく)





◆以下の会を、予定通り開催させていただきます。
  体調が少しでも不安な方は無理をなさらずにお願いします。


愚か塾20200314400

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229.左利きが抱えるもの~”甘夏とオリオン”の世界にたゆたう~

かつて左利きは縁起が悪いとされ、
矯正するべきという考え方が当たり前だった。
今もご年輩のなかには左利きの者に対して
「何で親は治さなかったのか」と
半ば憐れむような言い方をする人がいる。

かくいうぼくも元は左利きだった。
ぼくの母は血を見るのが
何よりも怖かったぼくの左手の甲にヨードチンキを塗りつけ、
なるべくぼくに左手を使わせないようにした。
その結果、ぼくはペンやお箸を持つ手は右利きになった。
しかし、消しゴムを使うのはなぜか左手でないと消せないし、
何か新しいことを始めるときも自然と左利きになってしまう。
例えば初めて野球のバッターボックスに立ったときがそうだった。
級友から「お前、ひょっとしてぎっちょ(左利き)か?」と
からかわれたことを覚えている。あまり良い気はしなかった。

今では身体的特徴を揶揄しているという理由から
「ぎっちょ」という言葉は放送禁止用語である。
しかし、左利きは日本では今もマイノリティ(社会的少数者)だ。
自動販売機や自動改札、トイレ…
街で見かけるあらゆるものが右利き用にできている。


花團治、黒紋付き、横から300
筆者(撮影:坂東剛志)




最近刊行された本で『甘夏とオリオン』という小説がある。
女性落語家が女性ゆえにその偏見と闘いながら成長していく物語だ。

甘夏とオリオン400


この小説ではいくつかの落語がモチーフとして使われていて、
そのひとつに『一文笛』という咄がある。

スリの腕前だけでなく、弁でも騙し上手な秀は
仲間内からも一目置かれている。
貧乏長屋の駄菓子屋で子どもたちが
一文笛を買い求めてはしゃいでいるなか、
それすら買えない男の子を不憫に思った秀は、
その姿に自分の幼い頃を重ね、
思わずその一文笛を駄菓子屋からくすねて
男の子の懐に入れてやった。

それが元でその子は泥棒と間違えられ、
ついには井戸に身を投げ意識不明の重体。
責任を感じた秀は「スリを廃業しよう」と
右手の人差し指と薬指を匕首で切断してしまう。

後日、寝たきりの子どもを助けるには大金が必要と聞いた秀は、
医者から財布を抜き取って兄貴分のもとへ。
「兄貴、この金を使ってくれ」
「スリにとって大事な指を落としながら、よくもそれだけの仕事ができたな」
「わい、ぎっちょやねん」。

……子どもの左利きを矯正することが当たり前だった時代に、
親から何ら治されることもなかった秀の「ぎっちょ」。
それは彼が底辺の世界にいたということを示している、
と著者の増山実氏は主人公の甘夏に言わせている。

増山氏と400
『甘夏とオリオン』著者の増山実氏(右)とぼく


これはぼくの勝手な推測だが、
秀はその「ぎっちょ」ゆえにスリ名人になれたのかも知れない。
着物の形状からいっても左利きの方が有利だ。
それに、秀という男は言葉巧みに人を操る名人。

最下層の民から芸能が生まれたように、
世間一般から少し外れたところにいるからこそ人と違った見方が生まれ、
洞察力にも長けていったのではないだろうか。
もちろん「スリ名人」は褒められたものではないが、
過酷な出自を乗り越えて、したたかに、しなやかに生きる秀の姿に、
数ある上方落語の中でも
ひときわ魅力あるキャラクターになっているように思われるのは、
ぼくが「ぎっちょ仲間」だからだろうか。

ぼくの娘は現在1歳8か月で、最近になっていたずら描きをするようになった。
その手がいつも左利きだ。

さて、これは矯正するべきか。今、本気で悩んでいる。

もりうた、大阪城で走る400
大阪城公園を走るわが愛娘


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。

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毎日新聞、笑われるから500




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228.あの娘を好きになったワケ~態は口ほどにモノを言う~

ずいぶん前の話になるが、俳優スクールで授業をしていた時のこと。
マンツーマンではなく大勢を相手に
落語の台詞を口移しで稽古をつけていた。
その時、ぼくはある一人の女子学生の佇まいが
気になって仕方がなかった。

全員正坐をしていたのだが、
彼女の様子はまるでコンビニの前で深夜たむろしているような、
ぼくの目にはかなりダラしない姿に映った。
腰骨も後ろに倒れ、しかも身体が横に歪んでいるような恰好だった。
「やる気のなさを身体で表現してみよ」と言われれば
きっとこうなるであろう。
愛らしい顔立ちなのにもったいないと感じたぼくは、
彼女に腰骨を立てて正坐するよう指導した
(よく『背筋を伸ばせ』という人がいるがあれはどうもいただけない。
肩など余計なところに力が入り不自然な姿勢になるからだ)。

腰骨を立て、顎を少し引き気味にした彼女は
それだけでずいぶん印象が変わった。
一番驚いていたのは周囲にいた学生たちで、
特に男子がどよめいた。

以来、彼女は自信をつけたのか
日を追うごとに変化していった。


後日、「アドバイスのおかげでオーデションに受かりました」という
嬉しい言葉をもらった。

放送芸術学院授業風景
声優スクールでの授業風景



落語はご承知の通り、一人で
何人もの登場人物を描き分けてストーリーを展開していくが、
人物の描き分けは台詞の言い回しに限ったことではなく、
ちょっとした姿勢や所作がモノを言う。

武士であれば、腰骨を立てた状態で
両手を正坐した足の付け根に近いところに横に向けて置く。
そうすることで肘を張った形になり、
ちょっと威張ったような感じになる。
出入りの職人さんなら、膝頭のあたりで
足と足の間に手を滑り込ませるように置けば、
自然と前屈みになりいかにも木股を履いた感じに見える。
丁稚なれば身体を前に倒し、手慰みをしながら上目遣いで相手を見る。
商家の御寮人は腰骨を立てた方が凛と映って「らしく」なる。

落語というものはステレオタイプとデフォルメ
で成り立っているのだ。


はづかし小学校1
小学校で落語体験講座


落語家の多くが日本舞踊を習うのは、
こういった「態」の感覚を身につけるためでもある。
例えば、女性の演じる方ひとつ取っても
「相手に胸を当てにいくように歩いてごらん」というアドバイスひとつで
うんと色っぽく化けたりもする。

梅十三門弟繁昌亭400
上方落語協会「西川梅十三門弟会」繁昌亭にて
後列中央がぼく



また、気持ち穏やかな時とそうでない時の態の違い。
中身がないのに態度ばかりデカい人の態。
ファッションや身だしなみ以外の外見を落語は「態」によって表現していく。
高座では見られる側の我々落語家も、
客席のお客の表情や姿をしっかり観察している。

大勢のなかにそこだけポッと灯りが灯ったように見えるのは、
決まって姿勢の美しい女性だ。
なかには自宅のリビングでくつろいでいるような、
椅子から少しはみ出してだらけているおじさんも目につくが、
そういうのはこちらのモチベーションが下がりそうなので
そこは出来るだけ見ないようにしている(とはいえ、
実は気になって仕方がないのだが)。

花團治戎橋をわたり20181108国立
東京・国立演芸場にて(撮影:相原正明)


ぼくが今の女房に惹かれたのは、
ある仕事で共に電車移動している時だった。
何気に腰掛ける姿勢の美しさに惚れたのだ。

聞けば、彼女も以前はだらけて座っていたらしいが、
ある時、目の前に座る女性の姿勢のだらしなさが目について、
ふと自身はどうかと振り返ったのだという。
よくぞ気がついた!



「人は見かけによらない」という言葉は、
言い換えれば「人は見かけで判断している」ということ。
見かけは顔かたちや髪型、服装に限らない。
時には顔より雄弁になる“態”。
ぼくの態は周りに何を語っているだろうか。
知りたいような、怖いような……。


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。




ねやがわ語楽舞500
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梅十三一門会500
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文華二人会500
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227.初高座の想い出~師匠のペップトーク~

失敗はむしろ喜ばないかん。
失敗したということは
それだけ広い道を
歩くことになるんやから。



誰が言ったか忘れたがそんな言葉を覚えている。
ぼくもうちの師匠(先代桂春蝶)から
「失敗するな」という言い方をされたことがなかった。
「あれはダメ」「これはするな」と言われたことも記憶がない。
その代わりよく言われたのは
「常にアクションをせい!」だった。


花團治20181108春蝶パネルと
先代春蝶の写真を挟んで、左が現・春蝶、右がぼく。(撮影:相原正明)


ぼくの初高座は弟子入りしてわずか半年後のこと。
ほとんどの咄家は50名も入ればいっぱいになるような
小さな会場で初高座を迎えているが、
ぼくの場合は師匠の判断であえて1000人は入ろうかという
大ホールでのデビューとなった。師匠の独演会である。

それまで味わったことのない拍手の波に挑むように、
ぼくはその大舞台に立った。座布団に座ってふと顔を上げた時、
ぼくの目に飛び込んできたのは高座を照らす大きなライトの光。
おかげで目の前は真っ黄色。ようやくその照明に目が慣れた頃、
ぼくの目に映ったのはいかにもつまらなさそうに
ぼくを見つめる男性の顔だったことは今でも忘れられない。
後でこの時の音源を聞いてみると、お世辞にも上手いとは言えないが、
初高座にしてはなかなか堂々とした話しぶりだった。


坂東愚か塾花團治2
桂花團治(撮影:坂東剛志)


高座を終えて楽屋に戻ってきた時、
師匠のマネージャーのO氏が師匠にこう言った。
「初高座をこんな大舞台で堂々と演るなんて、
こいつは心臓に毛が生えてますな」。
しかし、これには伏線があって、ぼくの初高座に対し
最後まで反対していたのはこのO氏だった。

「まだ高座にも上がってない奴が、
師匠の大切な大舞台に出てコケ(失敗)たらどないすんねん。
師匠のことを大事と思うなら、君の方から断らんかい!」。

ぼくもO氏の言うことは尤もだと一旦は辞退を申し出たのだが、
師匠は「わしが決めたことやから堂々と出たらいい」と言ってくれた。
そんな経緯があったものだから、
当日はできるだけO氏と目を合わせないようにしていた。
ただでさえ大舞台のプレッシャーに潰されそうになっているというのに、
O氏の「お前、大丈夫か」「ホンマに出る気か」という視線が冷たく突き刺さった。
ちなみに、この時チラシにぼくの名前は記載されておらず、
もしその時出演を取りやめたとしても何の障りもなかった。

坂東愚か塾花團治1
桂花團治(撮影:坂東剛志)

いよいよ出番というその直前、師匠がぼくの耳元でこうささやいた。

あのな、ウケようとか
上手にやろうなんて考えるなよ。
・・・かわいい奴やなぁでも、
元気な奴やなぁでも、
何でもかめへん。
何か印象をひとつだけ残せたら、
今日はそれで良しや!



ぼくは師匠のこの言葉に救われた。
もし、あの時「台詞を間違うなよ」とか、
「ちゃんと笑いを取らなあかんで」などと言われてたら、
余計にガチガチになって高座の上できっと絶句していただろう。


こいけなおこ喜楽館1
桂花團治(撮影:こいけなおこ)


……そんな思い出を行きつけのバーで
カウンター越しのマスターに語っていたところ、
たまたま隣に居合わせたお客から
「それはまさにペップトークですな」
という言葉が返ってきた。

ペップトークとはスポーツの試合前に監督やコーチが
選手を励ますために行う短い激励のスピーチ。
Pepとは英語で、元気・活気・活力という意味がある。

その男性の趣味は草野球だという。
例えば、バッターボックスに向かう選手に
「低めに手を出すな」と伝えるのと
「好きな球を狙っていけ」というのでは結果がまるで違ってくる。
当然、良い結果を生み出すのは後者だ。

「ミスしてはいけない」という気持ちが
かえって失敗に繋がってしまうことは、ぼくも実感としてよくわかる。

「ミスするな」の代わりに「丁寧にいこう」
「逃げるな」ではなく「前に進め」


というのがペップトークの流儀。

ひょっとしてうちの師匠もペップトークを意識していたのだろうか。
なかでも究極は、ぼくが同期に先に越されて
ひどく落ち込んでいた時にかけてくれたこの言葉。

ヒーローちゅうもんはな、
最初必ず挫折しよんねん。

▶過去ブログ「ヒーローの条件」


おかげでぼくは広い道を歩きつつ、
落語家を辞めずにいる。そして、今もヒーローを夢見ている。




※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。




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226.注文の多い落語塾~「愚か塾」の扉を叩く前に~

花團治が主宰している落語塾「愚か塾」。
個人宅での小さな小さな私塾ですが、
おかげさまでここ2、3年は常に定員オーバーで、
欠員待ちも15名前後、という状況です。
それだけ多くの方が落語に魅力を感じてくださっているのは
嬉しいかぎりですし、現塾生のほとんどが2年以上続けて
熱心に通ってくださっていることに
花團治は心から感謝しております。

だからこそ、新たに「愚か塾」に興味をもってくださった方にお尋ねします。
「花團治の落語を生で聞かれたことがありますか?」
「花團治がブログなどで表明している考え方・姿勢に共感できますか?」

芸事を学ぶ際は、師匠に対するリスペクトが必須です。
師匠によって、教える方法や内容が全く異なるからです。

愚か塾稽古風景1-500
「愚か塾」稽古場・師匠が見守っています。


「『落語教室・大阪』で検索したらヒットしたから」
「他に落語教室が見つからなかったから」
という方は、まずは花團治の落語を生で聞いてから、
入塾申し込みをするかどうか検討してください。

「落語談義をしたいから」
「いずれはアマチュア落語家として活動したいから」
という方は、他の落語教室をお探しください。

多くの落語家がそうであるように、
花團治も意地とプライドを持って落語と接しています。
「@@師匠のあのネタをやりたい」
「オチなど、ところどころ創作したい」
という方に指導する時間は持ち合わせておりません。

「落語家のくせに、エラそうに。単なるお稽古事の教室なんだから、
基本的なことや小咄をチャチャっと教えてくれたらそれでいいのに」
そうかもしれません。

花團治は、とても不器用な落語家です。

愚か塾、大喜利2
「愚か塾」発表会・恒例の大喜利


自身が落語によって救われたという実感を持っており、
落語の奥深さやおもしろさを塾生の皆さんと共有し、
一緒に学びを深めていきたいとの思いから愚か塾を開いています。

・ 人前に立つ自信を得たい
・ 声を出す機会を持ちたい
・ 自分を変えてみたい、新しいことをはじめたい
・ 吃音や上がり症で悩んでいる。
・ プレゼンテーションが上手くなりたい
・ 落語の稽古を通じて、日々の活動や仕事・生活を
より有意義なものにしていきたい

と言った声に応えるべく、覚悟を持って取り組んでいます。

この思いの熱さを、セーブすることができません。
指導に熱が入るあまり、終了時間が23時近くになることも
しばしばあります。
(もちろん、途中でお帰りいただいて大丈夫です)

お伝えできることは花團治自身が学び、感じ、納得したことのみです。
花團治が演じないネタや、他師匠のやり方のネタを教えることはできません。

「落語コンテストやライブでウケる演目を習いたい」
「創作落語をチェックしてほしい」
「普段のお稽古はあまりでられないが、発表会だけは出たい」
というリクエストもお応えできません。

数年習ったらアマチュア落語家として活動したい、という方の
サポートもできません。
アマチュアでも、落語を公の場でする際には
落語家としての行儀作法の習得が必要です。
しかし、愚か塾ではそこまでお教えすることができないからです。
その行儀作法を知らないまま高座に上がることを、
花團治は認める事ができません。


花團治宣材400





「三代目花團治」襲名後、おかげさまで多くのご依頼をいただくようになり、
月4回の愚か塾稽古日を確保することも難しくなってきました。
だからこそ、貴重なこのお稽古日を、
一緒に学びあえる方々とのみ共有したい。
「チャチャっと教えてくれたらそれでいい」という方に
心を乱されたくないのです。

落語の敷居は限りなく低く広く、誰でも楽しめる芸能です。
それは間違いありません。
ただ、花團治の落語塾の門は決して「誰でもOK」ではない。
そこを間違えないでいただければ幸いです。


・・・長々とすみませんでした。

ここまでお読みいただき、
「花團治の落語が好きで、習いたい」という稀有な方は、
ぜひ下記に目を通した上で、「花團治公式サイト」の
お問合せフォームより「体験入塾希望」とご連絡ください。
※ 体験稽古にご参加いただき、
ご自身に合うかどうかをお確かめいただいた上での入塾となります。
体験稽古の場での入塾勧誘などは一切行いませんので、
じっくりご検討の上、メールにて入塾するかどうかの返答をいただければ結構です。

愚か塾集合写真2019400
「愚か塾」塾生たちと共に



◆「愚か塾」稽古について◆

花團治の落語観に基づいて稽古を進めていきます。
また、稽古は花團治による口移しを基本とします。
塾生全員、まず「東の旅」の発端の叩きの部分と
「明礬丁稚」をマスターした後、個々の稽古に入ります。
個々の稽古は、基本として一人10分程度です。
年に1〜2回、発表会を予定しています。

[月 謝] 5,000円(月2回)
[稽古日] 月に4回、設けますので、そのうちから2回をお選びください。
      (原則として月・水曜日。一回つき最大15名)
[時 間] 19時〜 (玄関開錠18時50分、21時半終了予定)
[必要なもの]録音機器
[禁止事項]
・ 裸足での入室
・ 宗教や政治団体などへの勧誘
・ 商品等のセールス
・ 他の稽古人の中傷・批判行為
・ 他の落語教室・落語サークルに同時所属
・ 無断でのコンクール・落語イベント参加

【注意事項】
・ 稽古日のご連絡は前月の20日前後となります。
・ 3か月以上の無断欠席が続く場合、もしくは4ヶ月以上お休みとなる場合は、一旦退塾とさせていただきます。
・ 愚か塾からの連絡事項はすべてメールで行い、稽古日選択はネットサービス(「調整さん」サイト)を使用します。
(メール発信元:info@hanadanji.jp)
電話での対応は基本的には行いませんので、メールおよびネット環境をご準備ください。
・ お稽古日は各日最大人数15名に設定します。希望日が集中した場合は申し込み先着順とします。
・ 風邪等、体調不良の場合は、他人へうつる可能性がありますので、
なるべく参加をご遠慮ください。(その場合、同月内の他のお稽古日に振替可能です)
・ 愚か塾は個人宅での私塾なので、カルチャーセンターのような設備や対応はもちろん不可能です。子どもの声や生活音・生活臭などが気になるかもしれませんが、花團治家族の最大限の協力によって塾を続けることができていることを、どうかご理解ください。

【卒業制度について】
前述のとおり、愚か塾では「アマチュア落語家として活動したい」という方の入塾を基本的にお断りしております。
しかしながら、長年お稽古に励まれた上で、もっと自由に落語を楽しみたい!という思いを抱かれた場合、それを否定する気持ちは全くありません。
「お稽古した落語に創作を加えて発表してみたい」
「ボランティア活動で老人ホームなどで披露したい」
「落語仲間と自主公演をしたい」
という方に関しては、入塾3年以上であれば退塾ではなく「卒業」という形で喜んで送り出し、あらたな屋号で色々な活動をしてほしい、というのが花團治の願いです。
ただ、「愚家」など花團治と直結する屋号での活動には花團治の責任が伴いますので、花團治がすべてのチェックをする余裕が無い以上、「愚か塾」の屋号で
自主活動することを容認・サポートできない旨、ご理解ください。


フレイムハウス外景2の400
「愚か塾」の前に、まずこちらの教室にお越しになりませんか。「一回完結型」。
こちらはどなた様もお気軽にご参加いただけます。  ↓
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春蝶生誕祭2019500
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225.揺れる~大人ブランコのススメ~

昭和37年、ある日の夕方。駅近くの児童公園。
それまで元気に走り回っていた子どもたちの姿は
もうそこにはなかった。
そんな公園の片隅に一人ポツンとブランコに揺られながら
じっと遠くを見つめる青年がいた。
それにしても誰もいない公園で大人の一人ブランコは
何とも孤独である。

青年はこの界隈ではちょっとした有名人で
公園でのこの行動がよく目撃されていた。
「落語家さんのお弟子さんらしいで」という情報も
知れ渡っていた。「修行って厳しいんやろな」と皆が噂しあった。
「彼は涙をこぼしていた」と証言する人もいた。


やがて青年はブラウン管に登場し、
この界隈だけでなく多くの世間が知ることになる。
この青年こそ、後にぼくの師匠となる二代目桂春蝶であった。

ぼくはこの師匠の若かりし頃の話を、
近所で和菓子屋を営む女将から聞いた。

ブランコセピア400



ブランコと言えば、黒沢明監督の映画『生きる』を思い出す。
『生きる』とは胃がんを宣告された役所勤めの主人公が
様々な困難と闘いつつも目的を成就させたのちに死んでいくという物語。
この映画の冒頭は胃カメラの写真と共にこんなナレーションから始まる。

「これはこの物語の主人公の胃袋である。幽門部に胃ガンの兆候が見えるが、本人はまだそれを知らない。……これがこの物語の主人公である。しかし今この男について語るのは退屈なだけだ。何故なら彼は時間を潰しているだけだからだ。彼には生きた時間がない。つまり彼は生きているとは言えないからである」



このあと、彼は意を決してある決断をする。
それが元となって良からぬ連中に命を狙われたりもする。
「命がいらねえのか」と凄まれる場面でニヤッと笑い返す主人公は
何とも不気味で格好良い。
ブランコのシーンが出てくるのは終盤近くだ。
主人公演じる志村喬がブランコに乗りながら「ゴンドラの歌」を口ずさんでいる。

いのち短し恋せよ乙女
あかき唇あせぬ間に
熱き血潮の冷えぬ間に
明日の月日はないものを


志村喬生きる400


『生きる』の上映は昭和27年。
映画好きの春蝶のこととて当然この映画も観ていたに違いない。

20歳になって咄家に入門した師匠は
ブランコに乗りながら自身を主人公になぞらえ、
「どう生きるべきか」を問い続けていたのだろうか。

そう言えば、志村喬の風貌はどことなく師匠とも似ている。


志村喬400
志村喬


春蝶、立ち切れ、縮小版
二代目桂春蝶(撮影:後藤清)



一説によると
「ブランコはかつて幼児だった自分に
やすらぎを与えてくれたゆりかごの代わり」
ということらしい。

だから、大人ブランコは漕ぐというよりもただ揺られるだけなのだという。

今も子どもの姿が見えない日が暮れ前か早朝の時間帯、
スーツ姿の男性を見かけることがある。
あるいは夜中の若い女性。失恋なのか、
夫婦喧嘩でもしたのだろうか。
ある日、ぼくも試しに子どもたちがはけた近所の公園のブランコに腰掛けてみた。
キーコキーコという鉄の触れ合う音が妙に心地良い。

サビ鉄の匂いも何故だか脳を刺激するようだった。
いつしかただ揺られるではなく強く漕ぎ出していた。

なんだか無心になっていた。
びっくりするぐらい空が高く見えた。

以来、ぼくは考えに行き詰るたび公園に通うようになった。

すっかりブランコのお得意さんになった。

「いのち短し恋せよ乙女
あかき唇あせぬ間に
熱き血潮の冷えぬ間に
明日の月日はないものを」の鼻歌も忘れない。

二代目春蝶が若かりし頃、師匠宅をそっと抜け出しては
ブランコに揺られていた意味が少しわかったような気がした。





※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。





花團治の会5チラシ
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春蝶生誕祭2019500
▶チケット発売開始は2019年8月5日(月)です(全席指定)


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224.すべてはアフターのために~神管寄席後記~

興奮と感動からの学びは
子どもの目の色を変える。

先日、その瞬間を目の当たりにする機会に恵まれた。
神戸でクラシックの演奏会があって、
ぼくはその語り部として参加させてもらった。
曲の合間に作品の時代背景や
その曲の風景を落語風に紹介していくのだが、
公演を無事に終え、ホッとしながら楽屋で着替えをしていると
モニターに小学生10余名と楽団員らの姿が映し出された。
気になって舞台に駆け付けると、
それぞれの奏者が子どもたちにマンツーマンで教えている光景があった。

神管寄席ナビゲーター

神管寄席400
神戸市室内管弦楽団の演奏するムソルグスキー「展覧会の絵」のナビゲートを務めさせて頂いた。


初めて楽器に触れるのか、
おそるおそるといった表情の子どもたちもいて、
彼女らは高揚しつつバイオリンやヴィオラの弦に弓を当てていた。
チラシにはワークショップがあるとは一行も書かれていなかったが、
お客様をお見送りする際の呼び掛けで
興味を持った子どもたちが自発的に参加しているらしい。

今回の演奏会は「子どものための~」と銘打っているわけでも何でもないが、
休日の昼間ということもあって親子連れがちらほら見受けられた。
言うまでもなく楽団の演奏はとても素晴らしいものだった。
それに感動した子どもたちがその直後に初めて楽器に触れ、
しかもその演奏家からじかに手取り足取り教えてもらえるのである。
興奮して当たり前である。当初は鳴らすことさえ困難だった楽器が、
わずかの時間に簡単な演奏ができるぐらいにまでなった。
関係者の一人がぼくにこう耳打ちした。
「この試みはね、楽団員たちが自発的に始めたものらしいですよ」

神管寄席カーテンコール
いつもなら下げを言い終わってすぐに引っ込むが、クラシックではカーテンコールがつきもの。
これは何度やっても気恥ずかしい。こればかりは慣れるまで時間がかかりそうだ。



落語にとって偏った先入観ほど余計なものはない。
小学校に出向いて落語を聴いてもらうという活動はずいぶん前からあるが、
おそらく落語初体験であろう彼らに対して
それなりの緊張感と責任をもって臨むべしということは、
ぼくも肝に銘じているつもりだ。
これまでに数えきれないぐらいの体験学習をやらせてもらったが、
いつも気にかかるのは担当の先生による前説だ。
「落語は江戸時代に発祥した芸で日本の古典芸能のひとつ。
昔、生國魂神社の境内において…」云々。
たいていは5分以内で終わってくれるが、なかには15分以上のことも。
それが落語への良いツカミになってくれるならいいが必ずしもそうとは限らない。
ますま子どもたちから落語が遠かる結果を招くこともある。

ぼくが登場する頃には「どれほど難しくて高尚な芸能か」と
すっかり身構えた子どもたちの姿。
そうなると、まずその気持ちをほぐす行程から入ることになる。
「先ほど先生からオチという説明があったよね。
オチはクイズの答えのようなもんです」
いくつかのトンチクイズで「なるほど」とか「そんなアホな」という感覚を
じゅうぶんに堪能してもらったところで、
「さて、次はどんな答えでしょう?」とようやく落語に入ることになる。

はづかし小学校1
小学校での落語ワークショップ




薀蓄を語るなら落語の楽しさを満喫してもらってからに限る。

同じ情報や知識を伝えるにも編集や構成次第。

落語のみならず、
講師を務める大学の授業でもぼくはそれを怠り、
ずいぶん苦い目に遭ってきた。
その点、冒頭に紹介した管弦楽団の取り組みは
クラシックのすそ野を拡げるということにおいても申し分のない試みだった。

「ひょっとしてこの日の演奏は
すべてこの瞬間のために
あったのではないか」
とさえ思えてきたのだった。



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。




さて、次はヴィヴァルディ!
関西チェンバーオーケストラとヴィバルディ
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神管寄席記事




223.壁に耳あり障子に目あり、弟子の背後に師匠あり~師匠はいつだって見守ってくれていた~

ぼくが落語家の世界へ入門した頃は
携帯電話やスマートフォンなど存在せず、
ポケットベル登場よりも以前のこと。

師匠(先代春蝶)の鞄持ちをしていると、
その立ち居振る舞いについて
師匠のマネージャーからいろいろ指導を受けた。

師匠が公衆電話の前に立つときはメモと筆記用具を携え、
十円玉をたんまり用意してさりげなく後方に控える。
あくまでさりげなくというのが基本だった。

師匠が楽屋にいるときは
呼ばれてすぐに走ることのできる場所を確保した。
師匠の目に入り過ぎても良くない。
かといって、目の届かない場所では用を為さない。

いかにも「私は仕事をしています」といった
アピールも師匠は嫌がった。
その代わり、いつもぼくの行動を見ていないようで見ていた。

三代目桂春團治一門口上400
二代目桂春團治三十三回忌追善興行(厚生年金会館)
前列右端が先代桂春蝶、一番後列の右から三人目がぼく。
(蔵:前田憲司)



ぼくが初めてラジオのパーソナリティーを務めたのは
入門してわずか半年後のことだった。
月曜日から金曜日までそれぞれ違う若手がスタジオに入ったが、
その半年後に番組が打ち切りになった。
ところが、その時の若手陣は皆が次のレギュラーにありついた
…たった一人を除いては。その一人がぼくだった。

とても悔しかったのを今でも覚えている。
ぼくは師匠の家に住み込みだったので、
何食わぬ顔で内弟子としての用事をこなしていた。


そんな時、ぼくが部屋で一人落ち込んでいると
師匠が階下からトントンと二階に上がってきて、
扉の向こうから声を掛けてきた。

「あのなぁ、ヒーローちゅうもんはな、
最初は必ず挫折しよんねん」


これだけ言うと、師匠はまた下に戻っていった。

師匠はぼくを
いつも見守ってくれている


胸がいっぱいになり、涙が止まらなかった。


花團治20181108春蝶パネルと
師匠の写真を挟んで、左が三代目春蝶、右がぼく。
(撮影:相原正明)




弟子を見守っていたのは、何もぼくの師匠に限ったことではない。
例えば、桂小春團治師匠。
小春團治師匠はぼくの師匠の弟弟子で、
落語家の家系図でいえばぼくの「おじさん」ということになる。

落語家初のブロードウェイ公演を成功させたり、
Newsweek日本版の特集で「世界が尊敬する日本人100」にも選ばれたりするなど
華々しい経歴の持ち主。
上方落語界きっての知性派で創作落語の雄としても知られている。

そんな小春團治師匠のもとに治門という弟子が入ってすぐの頃のこと。
一座に加えてもらったぼくがお寺での落語会に同行して
太鼓など鳴り物の準備をしようとした矢先、
小春團治師匠がぼくにこう言った。

「蝶六(当時のぼくの芸名)、
お前は動かんでええ!
…君らがやってしまうと
いつまで経っても彼(治門)が
仕事を覚えられへんやないか」


そう言って小春團治師匠は彼の視界に入らぬよう廊下の隅にへばりつき、
まるで忍者のように姿を隠して彼の仕事をじっと見守っていた。
その不審きわまりない姿にぼくは笑いをこらえるのに必死だった。
いつもクールでダンディな師匠だから余計に可笑しかった。

「あいつはな、歳がいってからこの世界に飛び込んだから時間がないねん」

その時、限られた内弟子生活のなかで
必ず彼を一人前にしてやろうという師の強い親心を感じた。


小春團治、2018国立演芸場400
桂小春團治(撮影:相原正明)


我が師匠の先代春蝶が亡くなって早や28年を迎えようとしているが、
兄弟子と会話をしていると今だふと口にする言葉がある。

「そんなことしてたら師匠にどやされるで」

「どこで師匠が見てるかわからへんがな」


師匠はもうこの世にはいないのだが、本当にそんな気がするのである。
でも、大きく道を踏み外すこともなく今日に至っているのは
この意識があればこそかも知れない。

師匠の目は永遠。

「見張る」でなく「見守る」


うちの師匠はいつもこうだった。




※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



神管寄席500
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賑わい座2019-500
落語と利き酒2019500
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222.初めてあぐらをかいた日~師匠からのお免状~

師匠(先代桂春蝶)のもとに入門して、
まもなく10年を迎えようかという頃だった。
ぼくはその日、師匠の家で晩酌のお相手をしていた。
当然、師匠の前ではしっかり正座の姿勢である。
とその時、師匠がおもむろに切り出した。
「蝶六(ぼくの前名)はうちに来てどれぐらいになる?」
「かれこれ10年近くになります」

「そうか・・・足を崩したらどないや」

ぼくは一瞬耳を疑った。
これまで師匠の前で足など崩したことがない。
躊躇していると、もう一度師匠は繰り返した。
「ええから、足を崩さんかい」
「は、はい。ありがとうございます」

もしこれがドッキリカメラだったらどうしよう…などと考えながら、
ぼくはまず姉さん坐りになった。
「遠慮せんとあぐらかいたらええねん!」

そのあと、ぼくはしっかりあぐらをかかせてもらい、
「まぁ呑みぃな」と差し出された師匠の盃を
なんともぎこちなく受けたのであった。


春蝶の家族と共に
師匠の家に住み込み時代(中央が先代春蝶、その右隣に現・春蝶)


入門してからのぼくは三年間、師匠の家に住み込みをしていたが、
その頃、よく兄弟子らが師匠のご機嫌伺いにやって来た。
兄弟子らは一線を超えない程度に
タメ口混じりに師匠と談笑するのが常であった。
それは師弟を超えて本当の親子のようで、
ぼくには羨ましくてしょうがなかった。

ぼくはといえば、年季が明けてからも師匠の前ではいつもガチガチ。
「いつかあんな感じで師匠と話ができたらいいな」という思いは
ずっと心の片隅にあった。
そんなぼくにとって師匠の言いだした「足を崩さんかい」は
大きな免状であり、
弟子としてようやく正式に認められたような心持ちになったのだ。

これを機に師匠との新しい付き合い方が始まるのではとおおいに期待をした。

でも、その翌年に師匠は他界した。

20181108二代三代春蝶とぼく
先代春蝶の遺影を挟んで、左が現・春蝶、右がぼく(撮影:相原正明)



内弟子生活には様々な規制があった。
酒や煙草の禁止はもちろん、
外での用事を済ませたら真っすぐに帰って来なければならない。
それでいて休みは年に二日程度。師匠はぼくにこう言った。

「ツライやろ。けど、今はバネを巻く時期や。
ここを出たら目いっぱいに弾けたらええんや」

しかし、意外にぼくはその生活にさほど辛さを感じなかった。
朝のご飯の支度や犬の散歩などはルーティンワークにしてしまえば
ツライという気持ちなどさらさらなく当たり前の範疇だった。
二十歳過ぎの若者にとって、見るもの聴くもの全てが新鮮で毎日が刺激的だった。
弾け損ないのぼくはどうやらバネがユルユルのまま年季明けしてしまったらしい。


20181108三代春蝶と対談
先代春蝶の想い出ばなしに花を咲かせる現・春蝶(左)とぼく(撮影:相原正明)


師匠の言うことは時を経て変わっていく。
前に言っていたことと全く正反対のことを言われるなどざらにある。
例えば、入門時に「どんどん声を前に出せ」と言われていたのが、
ある時期を境に「そんなに声を張る奴があるかい!」となる。
当初は「わしの真似をせぇ」が、
途中から「わしの真似をしてどうするねん!」となったり……。

でも、それは師匠がぼくのことを
ずっと見てくれていたということに他ならない。

芸能玉手箱201801花團治
(撮影:相原正明)


最近になって、昔はとても怖くモノも言えなかった落語家のある先輩と
二人で酒を酌み交わすことが増えた。
気がつけばぼくも芸歴36年。昔とは違った付き合い方がある。
「兄さん、それはおかしいのと違いますか?」なんてことを
あの頃は口が裂けても言えなかったが、今なら少しは突っ込める。
もちろん、そこにはわきまえなければならない結界というものがある。
それを間違うと「お前が言うな!」と叱られるが
畏まり過ぎるのもかえって相手に気を遣わせることになる。
時間を掛けながら関係の距離を詰めていく過程が
人間関係の面白さであり難しさかもしれない。

もし今、師匠が生きていたら、
ぼくは師匠とどんな会話をしただろうか。

「親父、酒の飲みすぎはあきまへんで!」

一度ぐらいは師匠をたしなめたかったなぁ。





※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



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221.勘違いな「コミュ力」~お喋りにご用心~

聴衆のなかには必ず相槌上手な人がいるものだ。
「ほぉ」「なるほど」「そんなあほな」
……黙っていてもそういうシグナルを適確に送ってくれる人がいる。
話し手にとってこれほどありがたい存在はない。
なかには腕組みの姿勢で口をへの字に不貞腐れたような態度で臨む聴衆もいるが、
そういう人に限って終演後に名刺を携えて寄ってくるから始末に負えない。
つい「壇上からも見えているんですよ」
ということを言いたくなる。
それにしても相槌というものは頃加減がムツカシイ。


イシス、扇子と膝


先日、落語を習いたいと相談に来られた男性と話していた時のこと。
その方は過剰に相槌を打つ方だった。
おそらく相手に返事を返さねばという意識が強いのであろう。
相槌だけでなく、そこへ絶えず持論を挟み込んでくるので話がなかなか前に進まない。
その方曰く「職業柄、人前で喋ることには慣れてるんです」。
具体的な仕事までは聞かなかったが、
おそらく落語でそのスキルを高めようと思ったのであろう。
お喋り上手を自負する人ほど
得てして聞くのが下手だ。


イシス、これでもか



「笑いは緊張の緩和である」と言ったのは
古くはドイツの哲学者カントであった。
人は笑うとき=すなわち緩和されたときに息を吐くものである。
逆に緊張したときに息を詰める(吸う)。

例えばこんな小咄。
JRのとある駅に置かれていた投書箱に向かって叫んでいる男性を見かけた。
不審に思ってその理由を聞いてみた。「だってこの投書箱に書いてあるから」。
その投書箱にはこう書かれていた。「あなたの声をお聞かせください」。
ジョークとしてオモシロイかどうかはさておき、
この小咄を演じるときの咄家の呼吸はこうである。
「こう書かれていた」と言って軽く息を吸う、
次に「あなたの声を~」では息を吐きながら言う。
一方、聴き手はどうだろう。
「こう書かれていた」で「何と書かれていたのか」を考えつつ息を詰め(緊張)、
「あなたの声を~」を聴いて
「あぁなんだ、そういうことか」と息を吐きつつ笑う(緩和)のである。
つまり、話し手と聴き手の「吸う」「吐く」がぴったり一致してこそ笑いが生まれる。
「イキが合う」とはまさにこのことだ。


イシス、大久保さんと


落語家としてよく質問されるのが
「どうすればコミュニケーション力を高められるか」という悩み。
むしろこちらが教えて欲しいぐらいだが、
多くのセミナー講師が口にする
「話し上手は聴き上手」というのはもっともなことだと思う。
相手に寄り添う気持ちがなければ会話が一方通行だ。

また、「どうすれば人前で緊張せずに話せるか」という質問も多いが、
そういう時には「深呼吸」というのも理にかなっている。
「意識しながら深呼吸すれば「気」の塊のようなものが
ドンと肚の底に落ちるのが実感できるだろう。

舞い上がっている人や興奮してがなり散らしている人を見れば
「肩から上」で喋っているのが見て取れるように、
落ち着いている人は「肚の底」で喋っている印象がある。
落ち着きのある人はすべからく「イキが深い」。
例えは悪いが、大親分とチンピラの違い。

「イキが深い」人は
「イキの浅い」人にも合わせることができるが、

その逆はどう考えても在り得ない。
そう考えると「イキが合う」云々の前に、
まずは「イキを深く」持って相手の話を「聴く」ことが大事だなぁと思う。



イシス、その道中の



さて、冒頭に紹介したくだんの男性だが
持論をひけらかせるだけひけらかして帰られた。
それほど自信があるにも関わらず、
なぜぼくのもとに相談に来たのか未だ謎が残るが、
彼には全く悪気はなく、ひと言で言うなら「聞く耳を持たない」人ということだろう。

ぼくは相槌さえ打たせてもらえなかった。




※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。

※今回の写真は、イシス編集学校で講演を行った際のものを使わせていただきました。



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220.独りよがりなお喋り~”習う”って、羽に白いと書くんやで~

少し前の話だが、家人の治療のことである病院を紹介され、
そこで手続きに関する説明を受けることになった。
小部屋に通されるとずいぶん慣れた調子で担当の看護師が喋り始めた。
もう毎度のことなんだろうか、かなりの早口である。質問を挟む余地もない。
こちらに息を継ぐ暇も与えない。何か質問をしようものなら、
咎められるようなバリアさえ感じた。
何より彼女の語り口の独特な抑揚はひどく耳障りだった。
何とか話についていこうと努めるも全くの無駄で、
気がついた時には説明が一通り終わっていた。
「ご理解いただけましたか?」の問いかけにさすがに「はい」とは言えず、
「もう少し噛んで含むようにゆっくり言ってもらえないか」とお願いをした。
結果は同じことだった。
幸いにも看護師が喋った内容がそのままプリントされたものがあったので、
それを自宅に持ち帰って読むことにした。

看護師にとってはルーティンワークでも、ぼくにとっては人生初のこと。
もっと寄り添ってくれてもいいのではとぼくの憤りは増すばかり。
でもよくよく考えると、ぼくも人に同じようなことをしていないかと心配になってきた。

花團治、芸能玉手箱1-500
筆者・桂花團治(撮影:相原正明)



ぼくは落研(落語研究会)出身者である。高校生になって落語と出会い、
それからカセットテープの音源を元に見よう見まねで落語を演じてきた。
まず身につけたのがいわゆる落語口調。
独特の節回しに身を委ねるように来る日も来る日も同じ台詞を繰り返した。
発表会を観に来た級友たちは褒めてくれたものの、
感想は皆一様に「よくあれだけ長い台詞を覚えたなぁ」とか、
「まるで落語家みたいやなぁ」といった内容だった。
落語の内容に関することは誰一人として口にしない。
「オモシロイ!」や「また聴きたい」に及んでは皆無に近かった。
ぼくは次の日からまた同じように落語口調に身を委ねたが、
実はこの我流がかえって良くない結果に繋がっていたことを、
その時はまだ知るよしもなかった。

いっちょもみざくら
高校の落研時代



春蝶(先代)のもとに入門してしばらく経ったある日のこと。
師匠に稽古してもらう様子を横で聞いていた兄弟子の一人がぽつりとぼくにこう言った。
「お前、落研出身か?」。
褒められたとばかり思ったぼくはすかさず「はい、そうです!」と快活に応えた。
「やっぱり!…口調が落研やもん」。
そのときはあまり気にも留めなかったがこれはぼくを暗に批判していた。

師匠からは「“習う”ってどう書くか、知ってるか?
……そうや。“羽が白い”と書くねん」
という言葉をもらっている。

つまり、ぼくは師匠を忠実に真似ないばかりか、
学生の頃から身に沁みついた落語口調に寄りかかっていた。
それにそうした方が台詞自体は覚えやすく喋っていて気持ちも良かった。
落語を演るというより、”落語家のモノマネ”芸をしていたに過ぎなかった。
このことに気がついたのは、
ぼくが他人に落語の稽古をつけるようになってからのことだ。

春蝶、立ち切れ、縮小版
二代目(先代)桂春蝶(撮影:後藤清)



今、ぼくはとある公民館で落語サークルの指導を行っている。
ここに来るまで見よう見まねで覚えてきた人も多く、これが意外に苦労する。

かつて師匠はぼくに対し同じように思ったであろう。
沁みついた口調に寄りかかって大きな声を出していれば確かに気持ちが良い。
時折カラオケなどで自分の声に酔いしれる人を見かけるがあれによく似ている。
それを聴く者が心地良いかというとそうとは限らない。
本人の気持ち良さと反比例することがほとんどである。
あの看護師の独特の口調はいったい何だったのだろう。
きっと何度も同じ言葉を繰り返すうち、
それが独特のメロディとなって本人の身に沁みついたのだろう。

メロディを伴いながら物ごとを暗記するというのは決して悪いことではないが、
相手に伝える場合は別だ。自身の楽章を作ったはいいが、
そこに相手の気が入る隙間を一切作らなかった。

あのとき感じたバリアはそこから来ていた。
言うまでもなく、落語もまた聴き手ありきの芸である。
一方通行になってはいないか。独りよがりになってはいないか。

まずは自身の落語音源のチェックからだ。

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筆者が主宰する落語教室「愚か塾」の稽古風景。いつも師匠が見守ってくれています。

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※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」の連載コラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



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219.繊細なコロス~2018M-1グランプリより~

 テレビで『M-1グランプリ』を観た。
結成15年までの漫才師のなかから日本一を決めるコンテストである。
現在の世相が色濃く反映されていてとても興味深いものであった。

今、パワハラやセクハラといった言葉を聞かない日はない。
それだけ世間は「言葉」というものに敏感である。
例えば、相方に対して「お前はハーフ顔やな」と持ち上げるように言いながら、
そのあと「東南アジア系のハーフやけどな」と落とすやり方。
以前ならドッと笑いが起きたかも知れないが、おそらく何割かのお客は引いたであろう。
自らのハゲやデブといった容姿を笑いにするといった自虐も諸刃の剣である。
過剰な自虐に対して審査員の一人も苦言を呈した。


花團治戎橋をわたり20181108国立
2018年11月8日、国立演芸場『花團治の宴』(撮影:相原正明)



人種や容姿、性といった話題は世間のみならず「取り扱い注意」である。
「笑い」の向こうには
少なからず傷つく者がいる。


一方、「殺す」という笑いにそぐわない言葉を使いながらも
嫌悪感を感じさせることなく高得点を獲得したコンビもいた。
何を言っても品があるのだ。世相に対する読みの深さゆえなんだろう。
トーンも含めたニュアンスなど言葉の扱いが実に丁寧で配慮に富んでいた。
個人的には、オシッコやウンコを持ち出しても
決して汚く感じさせることのなかった故・三代目春團治師匠を思い出した。


ブログ:福團治、ぼく、春團治
左から、福團治師匠、ぼく、三代目春團治師匠(撮影:相原正明)


『持参金』という咄がある。
出世を前にした商家の番頭が女中に手を出してはらませてしまったというので、
それを金物屋の佐助さんという人に相談したところ、
「こんなことが旦那さんの耳に入るとよくないので、
その女性をすぐにでも宿下がり(奉公人を故郷元へ帰すこと)させてしまいなさい。
持参金をつけてやれば誰かがもらってくれるでしょう」というヒドイ話。

ぼくも若手の頃に覚えたものの、
かなり後味悪くひとつ間違えばクスリともしない時も多々あった。
東京のある寄席では禁演落語のひとつとされているらしい。
そのことを耳にしたぼくは、最近あえて東京の別の寄席でそれを試みることにした。
ただし、覚えたての頃には考えてもみなかった問題意識が今は少なからずあるつもりだ。
当然、演じ方だって違う。

番頭が女性を引き受けてくれる男性に対して
「傷のこと(お腹に子どもがいること)は承知かい?」と問いかけるのだが、
それに対して「男の腹に子どもがおったら傷でっせ。
女の腹のなかに子どもがおって何が傷でんねん」

以前のやり方よりかなり憤ってみせた。

「出戻り」「シングルマザー」といった、
世間が一見あまり良しとしないようなことに対して
「それの何が悪いねん!」
としっかり居直ってみせるのも落語の役目である。

東京での反応はすこぶるイイものであった。
「何故この演目が禁演なんでしょうか?」という言葉も頂いた。
手前味噌で申し訳ないが、どのスタンスに立つかで
作品はおおいに変わるということを示せたように思う。


花團治見台20181108国立
2018年11月8日、国立演芸場『花團治の宴』(撮影:相原正明)


八百屋の店先で見られるような、
「おっちゃん、これ何ぼ?」「ほな500万両貰っときまひょか?」というような
つまらなくともほのぼのとした、相手と自分をつなぐ
平行(ヨコ)につなぐ
コミュニケーションの笑い
もあるが、
「笑い」の多くは
どちらかが優位に立つ垂直(タテ)の笑いである。

笑うことで心身ともに元気になれるがときに傷つくこともある。
「毒にも薬にもならない」という言葉があるように、
この手の「笑い」は常に毒のリスクを伴う。


花團治横顔20181108国立
2018年11月8日、国立演芸場『花團治の宴』(撮影:相原正明)


歴史を紐解けば、「芸能者」は社会という組織からはみ出さざるを得なかった、
落ちこぼれの民から生まれたという史実に突き当たる。
はみ出しているがゆえに大衆を外から客観的に見ることができた。
同時に彼らはその立ち位置ゆえに繊細であった。


「昔の漫才の方がおもしろかった」というご年配も多いだろうが、
こと言葉への意識という点において、
若手の漫才は年々「繊細にパワーアップ」して感心させられっぱなしである。




※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
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218.思いやりの破門~死に際に見せた師匠の流儀~


「お前ら三人ともみんな出ていけ!
わしは弟子なんかいらん」

それまでにも何度か「破門」をくらっていたが、
この時ばかりはこれまでとは違う何かしら重みを感じた。


師匠(先代桂春蝶)の芸にはどこか哀愁みたいなものがあって、
「これでもか」と押して笑いを獲りにいくのではなく、
フッと零れ落ちるさりげないひと言に可笑しみがあった。
いわゆる浪花の代名詞のようなコテコテとは対極で、
ある評論家は師匠のそれを指して「引きの芸」と称した。

また、師匠の生前の咄のマクラ(本題へ導入するための世間ばなしや小咄)には
自虐的ともとれる内容が多々見受けられた。


20181108二代三代春蝶とぼく
東京・国立演芸場にて、当代春蝶とともに先代春蝶について語らせていただきました。
2018年11月8日、花團治の宴にて (撮影:相原正明)


「この間、弟子に稽古つけましてな。口移ししますねん。
わたしと同じように喋ってもらいますねんけど、
わたし、弟子に言いましてん。
『お前は何でそんなに下手くそやねん』。
そしたら弟子が『わたし、師匠の通りにやってますねん」

…それを語る師匠の何ともいえない表情が聴衆の笑いを誘った。
ちなみに、この弟子とはぼくのことである。

また、こんなマクラも印象に残っている。
「(客人の前で)あんまり弟子が無口なもんやから、
ちょっとぐらい何か喋ったらどうやと言うたら
『わたし人前で喋るの好きやないんです』。
それで弟子入りの理由を聞いたら、
口下手が解消できたらいいなぁと思いまして。
…なんやうちをカルチャーセンターみたいに思うてる」

ここでも弟子を馬鹿にするのではなく自虐的な笑いだった。

20181108三代春蝶と対談
当代春蝶の言いたい放題に場内大爆笑。彼と舞台上で対談するのは初めて。(撮影:相原正明)



春蝶の家族と共に
後列左端が内弟子時代のぼく、その前が三代目桂春蝶。
二代目春蝶のご家族と共に。


自身に起こったちょっとした不幸や残念、災難を
あたかも第三者のように見立て笑い飛ばすことを
「当事者離れの笑い」というが、
師匠はこれに長けた人だった。
不摂生がたたったのか、師匠は51の若さであの世に旅立ってしまった。


亡くなる半年前には大阪ミナミの繁華街でその姿があちらこちらで目撃されている。
「うちの店にフラッと入って来ましてな、
ずいぶん久しぶりでこちらもびっくりしたんやけど、
『マスター、えらい世話になったなぁ』と言うて、
チップだけ置いて出ていかはりましてん」

思えば、弟子全員が理不尽ともいえる冒頭の「破門」をくらったのもこの頃だった。
このとき感じた違和感は、「破門」を言い渡した後の師匠の言葉からもきていた。

「どうしても咄家を続けたいと
いうのやったら、(三代目)春團治に
預かってもらえるように、わしから頼んだる」



三代目春團治は師匠の師匠にあたる人だ。
師匠は我々が路頭に迷わぬように考えてくれていたのだろう。
それでも結局、弟子三人は今まで通り師匠の弟子として残ることになったが、
その頃すでに師匠は自分の残りわずかな時間と懸命に向き合っていたのである。
そのうえで、自分の家族や周囲の行く末ばかりを案じていたのであろう。

余名いくばくもない女性がフィアンセの将来を憂いて
別れを切り出すという展開が映画にもあったが、これにも符合している。


20181108国立楽屋
手前から、桂小春團治、三代目春蝶、ぼく、柳家花ごめ(撮影:相原正明)

先述した「当事者離れ」は自身を客観的に見つめることにも繋がっているが、
師匠は自分の死期すら客観的に見つめていた。
「自分を笑う」ということは、自分を相手より低い位置に持ってくることであり、
同時に弱者の立場に立つということでもある。

少なくとも「相手を笑う」ばかり考える輩にはできない芸当だ。
加えて、自分を離れたところから客観的に眺めるということ。
だからこそ、師匠は自分の死に向き合いながらも
周囲の行く末を案じずにはいられなかったのだろう。
今になって師匠の優しさが身に染みてよく分かる。
昨今は自身の主張を通せる者がデキル人として持てはやされる風潮だが、
自身を「阿呆だ、馬鹿だ」と笑い飛ばせる、相手よりへりくだれる人を
もっと評価していいのではないだろうか。
こういう人ほど物ごとを客観的に見ている。

「前へ前へ」の気持ちで歩むということも大事だが、
「一歩引いて」俯瞰的に見るということ
大事なんじゃないか。

あの頃、師匠はどんなことを考えていたのだろう。
師匠の見た風景が気になっている。

20181108国立幕
『第3回・花團治の会』終演、東京・国立演芸場にて(撮影:相原正明)


20181108柳亭市若お茶子

お茶子を務めてくれたのは、柳亭市若くん、市馬師匠のお弟子さんです。



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
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西川梅十三門弟会2018500


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217.顧客ファースト~まずは目の前のお客様から~

先日、うちの家内が意気揚々と帰ってきた。
家内はいわゆる「美容室ジプシー」というやつで、
『ホットペッパービューティー』というサイトを見ながら
色んな美容室を渡り歩いている。

初来店のときはクーポンが使えても
二回目以降は使えず値段が高くなるということがほとんどらしく、
そんなことも彼女を「美容室ジプシー」化させる要因の
ひとつになっているらしい。
しかし、今度ばかりはこれまでと少し様子が違っていた。
帰ってくるなり第一声が「今度からずっとここにするわ」。
確かに他所に比べてあか抜けているような気もする。
ちなみにこのお店は美容室の激戦区にも関わらず、
近隣の他の店に比べて少し割高である。
しかもクーポンによる値引きもほとんどしていない。
彼女はそんな強気なところが気になって店の門をくぐった。
その点について店主は、こんなふうに応えたという。

「クーポンで新規のお客さんを開拓することはできるけど、
それをするぐらいなら、今ファンでいてくれるお客さんの方を大事にして、
むしろこちらへ還元すべきだと思うんですよ」


ぼくはふと新聞勧誘のおじさんを思い出した。
新規客にはいろんなサービスをチラつけて購読をせまってくるが、
従来の顧客はほったらかしという印象がある。


敦賀、花團治
撮影:相原正明(敦賀落語の会にて)


ところで、寄席の楽屋に「つ離れ」という符丁がある。
これはお客が十名を超えた状態のことで、
「一つ二つ…」と数えて九つまでは”つ”の字がつくが、
それ以降はつかないところからこう呼ぶようになった。
ぼくが若手の頃は毎度のようにこの言葉を耳にした。
それほど一部を除いて落語会は客入れに苦心していたのである。
ぼくの場合、お客さんがたった一人ということもあった。


……三年前の春、ぼくは池田にあるアゼリアホールの舞台にいた。
蝶六から花團治への襲名だった。
ざこば師匠や文枝師匠も駆けつけてくれたこともあって会場はおおいに盛り上がった。
会場は1200名を優に超していた。
ホールの担当者が以前建具屋さんだった経験を活かして席を増設してくれていた。
もちろん、ぼくにとってこれほどの晴れ舞台は初めてだった。
お茶子さんがぼくの名ビラを返しただけで場内はどよめいた。
この時、ぼくの脳裏に浮かび上がってきたのは
まさしくあの頃「つ離れ」しない客席にいた方々の顔だった。
駆け出しのころからお付き合いのあるご贔屓さんの顔が浮かび上がってきた。
なかでもマンツーマンで落語をさせてもらった時のお客様だけは忘れられない。
そのお客様とは今も懇意にさせてもらっているが、その時がぼくとの出会いだった。

「あの時はホンマに辛かったでぇ、
(会場を)出るに出られへんしな」

そのお客様はどういう気持ちでいてくれているのだろうか?喜んでくれているだろうか?
そんなことばかりが脳裏をよぎった。
この襲名披露の日、この方はずいぶん大勢の友人に声を掛けてくれ、
その後、その友人らと共に祝賀会と称して大宴会を楽しんだのだという。

襲名会場20150426

花團治襲名披露口上
撮影:相原正明(2015年4月26日、花團治襲名披露公演、池田アゼリアホール)



さて冒頭の美容院の話から家内はこう続けた。

「あの(花團治)襲名でこれまで支えてくれてた人たち、
きっと最高に嬉しかったと思うわ。
あの方々のためにも襲名して良かったんと違う?
……今一番大事なことは、次にどんな喜びをファンに
提供するかということじゃないかしらん?」

ほんの少しの躍進とて
まるで自分ごとのように喜んでくれるご贔屓様の存在は本当にありがたい。
それぞれのご贔屓さん方が落語会に自分の知人や友人を引き連れて来てくれるし、
場合によっては自らが落語会を主催してくれたりした。
俗に「口コミ」というが、
この効果は新聞の広告やチラシ一万枚配るよりも絶大であろう。
これまで落語家を続けて来られたのもこういう方々がいればこそであった。
新規開拓ももちろん大事だが、まずは目の前のお客様を大切に

…一軒の美容室がとても大事なことを思い出させてくれた。


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」の連載コラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。




花團治の宴3-500

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朝日、二代目春蝶生誕祭
朝日新聞に、先日開催された「二代目春蝶生誕祭」の模様が掲載されました。








216.やるかやられるか~師匠と弟子の奇妙な関係~

若手の頃、ぼくはよく師匠の前座を
務めさせてもらっていた。
それも師匠とぼくと一席ずつという現場が多かった。
師匠は番組のレギュラーも多く、
まるでパズルのピースを埋め込むような
スケジュールで、ギリギリに現場到着
ということも少なくなかった。
その日もぼくは、
まだ楽屋入りしていない師匠を気にしながら
高座に上がった。
予定では、いつも通り演じて下りたとしても、
師匠は出番に何とか間に合うはずだが、
どんなアクシデントに見舞われないとも限らない。
もし間に合わない場合は、高座のあと、
師匠の姿が現れるまで、
小咄や漫談でつなぐというのが、
いつもの倣いになっていた。


春蝶、立ち切れ、縮小版
師匠の二代目春蝶 (撮影:後藤清)


……その日もまた、ぼくの一席が終わったとき、
師匠の姿は袖にはなかった。
ぼくは覚えているだけの小咄や漫談を披露しつつ
汗だくになって時間をつないだ。
30分は経っただろうか、
少なくともぼくにはそう思えた。
ようやく師匠の姿を袖に確認したとき、
ぼくはその場に倒れ込みそうになった。

「……というわけで、ようやく春蝶の準備が整いました!
ただいまより、桂春蝶の登場です!!」

袖に引っ込んだぼくは安堵する間もなく、
今度は別の理由でおおいに焦り出した。
なぜなら、師匠は
ぼくが今喋った小咄をしようとしていたからだ。
それを伝える術もなく、
師匠はぼくが今演った同じ話を始めた。

っていうか、ぼくが
師匠のオリジナルの小咄を勝手に先に喋ったのだ。



訝る客席。師匠もすぐにそれに気付いた。

「……という話を、
うちの弟子が最近ようやりまんねん」

怪訝な空気は爆笑に変わった。

師匠が下りてくるなり、ぼくは走り寄った。
まず謝った。
「し、師匠、すんまへんでした」
それに対して師匠は何も応えず、
別の話題に切り替えた。

「腹減ったなぁ、
うどんでも食いに行こかぁ」


焦りまくる弟子に対し、それ以上の言葉はぶつけない。
それが師匠だった。


春蝶の家族と共に
師匠の家族と共に(後列右端がぼく)



続けて全く同じ咄を聞かされたお客は
一瞬対応に困ったかもしれない。
それを話術と機転で爆笑に変えた師匠は
見事としか言いようがなかったが、
こういう事態はよく起こりうる。

例えば、ある大手芸能社に所属するタレントが
「うちの会社、ギャラを9割も抜きまんねん」
ある催しで、この話題を漫才師が喋るのを
ぼくは3組続けて聞いたことがある。
鉄板ネタにも思えないが。

花團治、動楽亭、こいけなおこ400-1
桂花團治(撮影:こいけなおこ)



ところで、ぼくの場合、
苦し紛れにやってしまった失態だったが、
過去には、師匠が、
後から出る我が弟子が用意していた演目を
あえてわざと演ってしまうという例もあった。

江戸期の終焉から明治にかけて活躍した、
近代落語の祖『三遊亭圓朝』という名人がいた。
あまり落語をご存じでない方も
「牡丹灯篭」『真景累ヶ淵』といった演目は、
耳にしたことがあるだろう。
落語で「怪談」ものといえば、まず『三遊亭圓朝』。
他にも『芝浜』『死神』といった名作を
遺している。

『圓朝』といえば扇子と手拭のみで表現する、
いわゆる「素ばなし」のイメージが強いだろう。
しかし、『圓朝』が世に売り出すようになったのは、
道具立てで演じる「芝居噺」がきっかけだった。
(『圓朝』は一時期、歌川國芳の門人として絵師を志していた。
その画才を背景道具に存分に発揮することができたと思われる)



三遊亭圓朝の明治、表紙


ある席において、いつものように
『圓朝』は芝居噺を演じる予定で、
それを演じるための道具を
前もって舞台に仕込んでいた。
ところが、その前に出演した
師匠の『二代目三遊亭圓生』は、
弟子が予定していた演目を
「素ばなし」の形でわざと先に演じた。

それで仕方なく、『圓朝』はその道具を使いながら、
急きょ全く別の演目に変えて演じたという。

この時、『圓朝』はこう思った。
師匠も、誰も、演らない自分だけの咄をつくろう。
かくして、『圓朝』は数多くの傑作を
世に生み出したことになった。
それが先述の『牡丹灯篭』であり、
『真景累ヶ淵』『芝浜』『死神』であった。

『二代目圓生』のそれは、
師匠の愛か、
あるいは単なるパワハラだったのか?


ともあれ、『圓朝』は
師匠の仕打ちがきっかけとなり、
後に「近代落語の祖」と呼ばれるまでになった。



『圓朝』は『二代目圓生』に対し、
「何と理不尽な」とそのとき思ったかも知れない。
でも、人を恨むでなく、そのエネルギーを
自分のステージを上げることに費やした。


二代目春蝶は、本当は内心
どう思ったかは知らないが、
弟子の不出来を責めるでなく、
そのアクシデントを笑いに変えた。

・・・『三遊亭圓朝の明治』を読み終え、
あの時の苦い経験が蘇ってきた。



春蝶生誕2018-500
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215.指南・考~導く方向・見つける方法~

師匠のもとに入門してまもない、まだ芸名すらもらっていない頃だった。
師匠の鞄を持って新幹線の新大阪駅まで同行することになった。
駅につくと、二番弟子の桂蝶太兄(昭和63年没、享年36)が待っていた。
師匠とはそこで別れたのだが、そのあと兄弟子と二人で喫茶店に入った。
今思えば、師匠がわざわざ兄弟子を呼び寄せたのであろう。
蝶太兄は芸界のしきたりについて色々教えてくれた。
挨拶の仕方に始まって、誰を「師匠」と呼び、誰を「兄さん」と呼ぶのかなど、
事細かに教示してくれた。そんななかで一番印象に残っているのはこんなひと言だった。

「うちの師匠は
いちいち教えることの少ない人やからな。
まぁ、これまでの学校とは違うんやから、
しっかり自分で盗んでいかなあかんで」
 

それに、蝶太兄によると師匠は天才肌で
感覚的に何でも器用にこなしてしまう人なので
「なぜ弟子がそれをできないか?」については少し疎いところがあるという。
「野球選手に例えるなら長嶋さんかな」とも言った。


春蝶、立ち切れ、縮小版
撮影:後藤清



ぼくが入門してちょうど10年目、師匠が亡くなると
今度は筆頭弟子の桂昇蝶兄がよく稽古をつけてくれるようになった。
それは生前、師匠につけてもらった咄のおさらいから始まった。
兄弟子はぼくにこう言った。

「あのなぁ、お前、師匠の咄を
ちゃんと聞いてなかったやろ?
師匠はそんなふうにしてたか?」


兄弟子の稽古は息の詰め方や声のピッチに至るまで実に丁寧に教えてくれた。
それは「春蝶(先代)落語」の分析でもあった。
目から鱗の連続にぼくはただただ感嘆するばかりだった。


春蝶の家族と共に
師匠のご家族と共に撮った写真はこれ一枚きりである。
奥さんが「あんたも入りなさい」と言ってくれたので写真に納まることができた。
師匠の右手の男の子が現・三代目春蝶。



あれは「天満天神繁昌亭」という落語専門の定席小屋ができてすぐの頃だから、
今から12年程前のことだ。
高座を下りてきたぼくを同門の春駒兄(平成25年没、享年62)が舞台袖へと手招きした。

「あのな、あそこの台詞やけど、
なんで押すねん。
引いたらもっとウケるのに。
お前さんは肝心なところで押してしまうやろ。
引きが大事やで」。


そのあと、春駒兄はニヤリとしながらこう付け加えた。

「…ということを、ぼくは春蝶兄から学んだ」


春駒遺影
桂春駒(享年62)



そんな兄弟子らに共通していえるのは、
それらの「春蝶(先代)落語論」が手取り足取り教えてもらったわけではなく、
それぞれが自ら気付いて導き出したものであった。

誤解のないように断っておくが、
うちの師匠が「教える」ことにいい加減だったわけではない。

「自分で考えさせる」ということに一貫していたのだろう。

それは弟子の叱り方に見てとれる。
まず弟子の失敗に対して懇々と説教を加えることはしない。
自分の何が悪かったかを述べさせ、これからどう改めるかを聞き、
最後に「次はないぞ」の言葉で締めくくるのが常だった。

かつてぼくがウェブ上の編集学校に学んだとき、
そこでは「指導」でも「教育」でもなく「指南」という言葉を使っていた。
おそらくこれに近いものがある。

※ウェブ上の編集学校(イシス編集学校)


「指南」の語源は、古代中国における「指南車」というものに由来している。
馬が引く車の上には仙人のような人形を取り付けられていて、
その人形が方位磁石によって常に南を指さすという仕掛けが施されていた。
その車のことを「指南車」という。そこから転じて「導く」ことを「指南」と言うようになった。

師匠は弟子が進むべき「方向」を示唆する存在。まさに「指南車」。
あれこれ悩ませることで具体的な「方法」は自ら導き出させる、

そんな意図がこの言葉には含まれているような気がする。



「これまでの学校とは違うんやから、
しっかり自分で盗んでいかなあかんで」

お盆が近いからなのか、ふと蝶太兄のことを思い出した。


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214.「笑われる」ぼくが、「笑わせる」喜びに目覚めた瞬間~二代目春蝶とWヤング・平川幸雄師匠との共通点とは?~

小学校時代のぼくは
とかく劣等感の塊だった。

寝小便たれは治らず、勉強もスポーツもからきしダメ。
授業中は窓の外をボーっと眺めていることが多かった。
当然、担任からもよく叱られた。


ある日のホームルームのこと。終礼の挨拶をするため、
その日の当番が「起立」と声を掛けた。
皆は一斉に椅子から立ち上がった。
しかし、ぼくはそれが聞こえているにも関わらず
一人じっと椅子にすわり込んだまま。

とにかくボーっとした子だった。

級友の一人が「森くん(ぼくの本名)がまだ立っていません」と報告した。
そのとき、担任が吐き捨てるように言った。

「放っておきなさい。
森くんは普通の子じゃないんやから」


以来、ぼくの夢は「普通の子になる」になった。


花團治、阿弥陀池しんねこ
撮影:相原正明


ところで当時、ぼくの唯一の楽しみといえば
土曜日の午後から続けて放送されるお笑い番組だった。
ぼくに限らず、大阪の子どもにとって土曜日は特別の日だった。
学校が終わると一目散に家に戻り、
「吉本新喜劇」「松竹新喜劇」「お笑いネットワーク」
このラインナップは大阪人にとって必須科目のようなもので、
これらによって大阪人としてのアイデンティティを
確立していったといっても過言ではない。
とりわけぼくが夢中になったのは
吉本新喜劇での「花紀京岡八朗」による掛け合いや
松竹新喜劇「藤山寛美」の阿呆ぶりだった。
また、「木村進」のイッヒッヒという独特の笑い方をマスターすることで
一種のステイタスを得ることができた。

そんなある日のこと、クラスで
「お楽しみ会」というものが催されることになった。
それはクラスメイトそれぞれが何か一芸を披露するというもので、
内容は合唱でもお芝居でも何でも良かった。

「では、気の合った者同士でグループを作りなさい」という
担任の号令と共に皆が動き出した。
「グループができたところから座りなさい」という声と共に
皆が床に座り出した。ぼくは内心とても焦っていた。
誰もぼくをグループに入れようとしてくれない。

とうとう全員が座ったと思った、とその時、もう一人だけ
ぼくと同じようにポツンと立ちつくす子がいた。ぼくは彼に言った。

「一緒にやれへん?」「ええよ」

彼もまたぼくと同じように仲間外れの身の上だった。
そのとき、ぼくが彼に提案した演し物は漫才だった。
「じゃあ、ぼくが台本を作ってくるからね」

当日、本番を終えたぼくは
これまで味わったことのない興奮に包まれていた。

「人を笑わせるって気持ちがいい」

いつも他人から「笑われる」ことしかなかったぼくにとって、
「笑わせる」ことができたことは人生における大きな転機となった。

このとき見よう見まねでさせてもらったのが「Wヤング」の漫才だ。
「お笑いネット―ワーク」でのぼくの一番のお目当ては
「平川幸雄・中田軍治」のコンビだった。

「最近は野菜の値段も上がってきてねぇ。
……わし、こないだレジの姉ちゃんに言うたった。ええ加減にシイタケ!」
「ほんまにキュウリ(急に)上がってきたね」
「アスパラ(明日から)どうやって生きていったら」
「ホンマ、菜っ葉(なんぼ)でも洒落出てきますね」
「そんな洒落でもエノキ茸(ええのんか)?」
「いっぺん屁こいたろか、ピーマン」「白菜(は、臭い)」……


ぼくらの世代でこの漫才を知らぬ者はいないだろう。
自尊心の芽生えとともに劣等感から解放してくれたこの漫才は、
ぼくにとってまさに記念碑である。

今はYouTube等でかつての演芸を見ることができる。
あの頃の懐かしい映像を見ながら思い出すのは、
一緒に楽しむ母や弟の笑顔であり団らんの風景。
テレビは家族みんなで見るものだった。
そこから「お茶の間」という言葉が生まれた。
笑いはときに誰かを傷つけることもあるが、
あの頃のお笑いは誰もが安心して笑っていられた。


高校いっちょもみざくら
ぼくが高校の落語研究会に入部したのは、当時、先輩から「漫才で一人で演るのが落語やねん」と誘われたのが最初のきっかけだった。今となっては「よくぞ誘いこんでくれた!」と感謝している。



あれは5年ほど前だったか、
ぼくはとうとう憧れのWヤングの平川幸雄師匠とご一緒する機会に恵まれた。
舞台袖でぼくは思わず直立不動に固まってしまった。
「あ、あの、わたしは春蝶(先代)の弟子で……」と言ったとき、

幸雄師匠は「ああ、春蝶やんなぁ。
ぼくと春蝶やんは生年月日が同じやねん」

と気さくに語り掛けてこられた。

春蝶、立ち切れ、縮小版
二代目桂春蝶(撮影:後藤清)


それからまたずいぶん経ち、つい先日は大阪ミナミのとあるバーにて。
ぼくはここには必ず一人で来るようにしているが幸雄師匠も同様だった。
たまたま居合わせた客と気さくに会話を交わす師匠の姿。
この日、ぼくは小学生の頃に師匠の漫才に救われたことや
人生の道をつけてもらえたことのお礼をようやく伝えることができた。

平川師匠と400
平川幸雄師匠とぼく(ミナミのとあるバーにて)



……桂春蝶(先代)と平川幸雄という、
ぼくにとって大恩人であるお二人は共に
「昭和16年10月5日生まれ」だった。



二人の誕生日が一緒やなんて、
これがホンマの生誕のへきれき!


チャンチャン。


この原稿は、『大阪保険医雑誌』に連載中のコラム『花團治の落語的交遊録』をもとに加工修正したものです。



春蝶生誕2018-500

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213.野球嫌いなぼくが何故「虎キチ」師匠に入門を乞うたか?~アカン奴ほど愛おしい~

ちょうどこの原稿を書いている最中、
世間では連日ワールドカップの話題で持ち切りである。
しかし、ぼくはこの手の話がどうも苦手だ。
それはおそらく少年期のトラウマからきている。
ぼくは大の運動音痴で、ことに団体球技の類となると
身体中が緊張して動けなくなる。
野球では大きなフライに誰もがアウトを確信した瞬間、
ぼくがポトリと落としてしまうのがお決まりだった。
いつもそんなふうだから、いつしか級友たちは
ぼくを野球やサッカーに誘うようなことはしなくなったし、
授業の一環などでぼくと同じチームになった者はあからさまに嫌な顔をした。
そんなことがトラウマとなって、
いつしか球技そのものから距離を置くようになっていった。

とよなかエッセーカラー【400】
※過去ブログ『生まれ故郷~負の想い出より~』はここをクリックしてお読みください。



ぼくの師匠の二代目春蝶は言わずと知れた
大のタイガースファンであった。
30年程前の大阪では阪神タイガース関連の番組ともなると
まず真っ先に名前が挙がるのはうちの師匠だった。
タイガースの勝ち負けに一喜一憂する姿を入門する前から幾度となく見ていた。
そんな師匠のもとに野球嫌いのぼくが入門を乞うた。
このことを不思議に感じる人もいるだろうが、
ぼくが猛烈に師匠に惹かれたのは師匠が「阪神ファン」だったからこそだと、
今になって分かった気でいる。

春蝶の家族と共に
師匠の家族と共に撮った写真はこれ一枚きりである。
奥さんに促されるように収まったように記憶している。師匠の家に住み込みの時代。
師匠とお揃いのセーターを着た少年が、師匠の長男・濱田大助(現・三代目春蝶)


春蝶とツーショット
左:ぼく、右:三代目春蝶


昭和59年、二代目春蝶はディスコメイトレコードから
『たのんまっせ!阪神タイガース』という曲を発表している。

強かったなあ、あの時の阪神は、十一連勝!と、喜んでいたら、あと八連敗。
そこが、また阪神らしいところかねえ。
勝つ時はムチャクチャ強いけど、肝心な時にはよう裏切られるねん。思たら、
昭和48年最終戦、巨人に勝ったら優勝やいう時に9対0の完敗。
あの時は三日間寝込んでしもうた。あの悔しさ分かるか。
選手は替っても、ファンは死ぬまで阪神ファンやねん。
そこんとこ分かるんやったらホンマに頼んまっせ!。



「判官贔屓」という言葉があるがまさにこのことだ。
落語というものはどこか「判官贔屓」である。
落語は愚かや恥ずかしさの連続であり、
それを受容するところに落語の存在価値がある。


二代目春蝶、ノック、たかじん、ざこば
関西テレビ『男の井戸端会議』の収録
左から二代目春蝶、横山ノック、やしきたかじん、桂ざこば
(写真提供:三代目春蝶)


例えば師匠がよく演じた「昭和任侠伝」(桂音也・作)。
映画のなかの高倉健が演じる任侠道に生きる男に憧れ、
自らもそうありたいと願うがことごとく失敗を繰り返す咄。
「刑務所に入ったら箔が付く」と思い込んだ男は路上に店を構える八百屋から
バナナを一本盗もうとするがたちまちのうちに取り押さえられる。
店の大将は男を押さえながら怒るでもなくこう言う。
「…誰やと思たらお前、角の八百屋の子やないか。…家にぎょうさんバナナあるのに」。

「しゃあないやっちゃ」と呆れつつも男の行為をどこかオモシロがっている。

『替り目』という咄を現代版に焼き直した『悪酔い』では、
虚勢を張りつつも女房の尻に敷かれる亭主。

人間のダメさ加減を蔑むのではなく、むしろ愛おしく見る眼差し。
このことは師匠が阪神ファンであることと全く符合している。
ぼくは師匠の「弱者=小市民を応援する姿」に惚れたのだ。

ぼくがいくらドジを踏んでも、師匠から
あからさまに嫌な顔をされたことは一度だってない。
それどころか「何をしとんねん」とぼやきつつ、
むしろほんの少し暖かい笑みを浮かべることすらあった。
ぼくはこの受容にどれほど救われたことか。
この感性がペーソスのもとであり、師匠の咄そのものであった。

花團治、動楽亭1-400
撮影:相原正明


人は誰もが強い者に憧れる。
常勝チームには多くのファンがつく。当たり前である。
しかし、その一方で弱いチームを応援し続ける人もいる。
今年のワールドカップは
ベルギー代表に惜しくも負けてしまったが堂々の16位だった。
勝者の雄叫びや勝利に歓喜する様もいいが、それよりも

敗者の弁に深みを感じたり、
敗けた者への賛辞の声
の方が心に響いてくる

…と思うのは、ぼくが負け戦の常連だからだろうか。



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」の連載コラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



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212.6月15日に思うこと~大阪大空襲と花團治~

もっともっと、落語をしたかった。
「初代」も「二代目」も
きっとそう思っていたに違いありません。


今から73年前の今日、昭和20年6月15日。
先代(二代目)花團治(花次改め)は、襲名した翌年、
「第四次大阪大空襲」によって命を落としました。

ご遺族の方によると、防空壕の入り口あたりで
亡くなっていたらしいとのことです。

二代目花團治500
二代目花團治



ちなみに、初代の花團治は「吉本興業専属第一号」でした。
そんな栄えある名跡にも関わらず、
なぜ「花團治」は70年もの間、途切れていたのでしょう。


初代花團治500



「花團治」代々については、
芸能史研究家の前田憲司先生が調べて下さってます。


以下が二代目花團治の経歴です。

大正4・5年頃に初代花團治へ入門し、花次と名付けられる。
修業時代があけて落語家として活動を始めた頃に、
上方落語界は吉本が統一することになり、
大正15年には若手落語家が中心となったグループ「花月ピクニック」の
メンバーとなって活躍し始める。
花月ピクニックには、後の五代目笑福亭松鶴や初代桂小春團治らがいた。
しかし、昭和初期になると、落語の衰退期と重なる不運に遭い、
漫才重視の方針から、花次も桂金之助と軽口のコンビを組まされる。
兄弟子の花柳も桂花咲とコンビを組まされた。
その後は、若手落語家が中心となって結成された吉本のバラエティ一座
「喜劇民謡座」に加入して幹部となり、一座の人気俳優となるも、
落語への愛着は捨てきれず、昭和12年に結成されていた楽語荘へ加入。
師匠の没後に五代目松鶴の勧めで、二代目花團治を昭和19年に襲名したが、
翌年6月の大阪空襲で亡くなった。
得意ネタとして『黄金の大黒』『いかけや』などがある。


二代目喜劇民謡座400
「喜劇民謡座」のパンフレット。「花次」の名が確認できる。


▶桂花團治公式サイト「桂花團治代々について」




「吉本興業」の歴史と重ねがら、「花團治」を追ってみたいと思います。
↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓

▶大正元年(1912) 
・吉本吉兵衛・せい夫妻が『第二文芸館』(今の天満天神繁昌亭の前の駐車場あたり)で寄席経営を始める。
・初代花團治が吉本興業と専属契約を結ぶ。(専属第一号)

▶大正2年(1913)
・吉本興業が「芦辺合名社」を名乗る。


初代花團治チラシ
「花團治」の治が「次」となっていますが、もともと「団治」名は、
歌舞伎役者の名前を真似てつけられたもので、元は「次」だったらしいです。



▶大正3年(1914)
・吉本が寄席を次々と買収、チェーン化に乗り出す。

▶大正5年(1915)
・吉本が「吉本興業部」を名乗る。
・初代花團治のもとに、二代目花團治が入門、花次を名乗る。

▶大正10年(1920)
・初代桂春團治が吉本の専属となる。

▶大正15年(1925)
・花菱アチャコが千歳家今男とコンビを組み、吉本の専属に。
・「花月ピクニック」が結成、二代目花團治(当時は花次)も加入。


二代目花月ピクニック400
蔵:前田憲司

二代目花月ピクニック2-400
蔵:前田憲司

二代目花月ピクニック3-400
蔵:前田憲司
手前から三人目の男性が二代目花團治。その横の女性を挟んで花菱アチャコの姿が確認できる。


▶昭和3年(1928)
・吉本の漫才師が48組となる。

▶昭和5年(1930)
・エンタツ・アチャコがコンビ結成。
・漫才の人気の高まりと共に、落語は隅に追いやられ
 落語家も「軽口」と称し、漫才を演じるようになった。


▶昭和11年(1936)
・五代目笑福亭松鶴が私財を投げうって『上方はなし』を創刊

上方はなし400
「上方はなし」の復刻本。

▶昭和12年(1937)
・五代目笑福亭松鶴が『楽語荘』を設立。
 初代・二代目共に、五代目松鶴に誘われ参入。


当時のメンバーは以下の通り。
二代目笑福亭福圓、二代目笑福亭福松、初代桂春輔、六代目笑福亭松鶴、
三代目笑福亭枝鶴、橘ノ圓都、笑福亭圓歌、四代目笑福亭松竹、三代目桂米團治、
二代目桂米團治(後の四代目桂米團治)、三遊亭志ん蔵、笑福亭鶴蔵、笑福亭小枝、
初代桂花團治、二代目桂花團治、二代目三笑亭芝楽、橘家圓坊、桂三八、
初代桂南天、二代目桂談枝、桂小米喬、二代目林家染之助、二代目林家染三


▶昭和16年(1941)
・太平洋戦争勃発

▶昭和19年(1944)
・弟子の花次が二代目桂花團治を襲名

▶昭和20年(1945)
・二代目花團治、
「第四期大阪空襲」により死亡。



ピース大阪400
大阪城公園にある「ピース大阪」には、当時の様子が生々しく再現されています。

▶「ピース大阪平和センター」のサイト




「初代花團治」は吉本興業の専属第一号でしたが、
漫才ばかりがもてはやされる寄席に嫌気がさし、
芸界から身を引きました。
五代目松鶴に誘われて落語家に復帰したのは、
廃業から17年後、「初代花團治」晩年の頃です。


「二代目花團治」は吉本バラエティー「喜劇民謡座」の幹部でしたが、
落語への思いが強く、五代目松鶴率いる「楽語荘」に参入しました。
花次から二代目への襲名も五代目松鶴の薦めによるものでした。


しかし、二代目花團治は襲名して一年後。
戦争の犠牲となりました。



……初代も、二代目も、もっともっと、
落語をしたかったに違いありません。
そう思うと、この名前が持つ重さを感じずにはいられません。
「花團治」の名を継いだ者として、
存分に落語ができる時代に生まれたラッキーな落語家として、
悔いのない落語家人生を全うしたいと思うのです。合掌。

2018年6月15日、三代目桂花團治


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211.ハロー効果~座布団までの歩み~

落語家のある師匠がこんなことを言われてました。
「売れてる奴は高座に現れた瞬間から顔が違う」

そういえば、あるマジシャンも
舞台へ出るときの心得についてこう言われてます。

「ステージの上手(かみて)から出るときは、
最初の一歩は右足を出します。
下手(しもて)から出るときは左足を出します」

ちなみに、客席から向かって舞台の右手を上手といい、
左手を下手といいます。
つまり、身体をひねらず観客に向かい合う形で出ることで
「自分のより広い部分をお客に見せる」ことができる
というのです。
なるほどこの逆の出方をすると、
観客に目につくのは演者の肩と横顔ということになります。
足の出し方ひとつで観客に与える印象が
大きく変わってくるものです。

最初に観客の気持ちを引き付けることを
我々は「ツカミ」と呼んでいますが、
これは舞台に現れる最初の一歩から始まっているのです。

四代目襲名いざ初舞台400
四代目春團治(襲名披露公演)


ところで、講演の講師として呼ばれることが多いのですが、
主催者からよくこんなお願いをされます。
「壇上に上がられましたらまず先生の紹介をさせて頂きますので、
その間そのまま立っていてもらえますか?」
でも、そのたびごとに
「できれば紹介の間は舞台袖に待機して、
出囃子と共に登場させてもらうというわけにはいきませんでしょうか」と
やんわりお断りしています。
自分に対する歯の浮くような賛辞を
観客のいる前でどんな顔をして聞いていたらいいものやら……。
何より危惧するのは、それによって生じる「間延び」です。
先に申した「ツカミ」どころではありません。
むしろ「ダレ場」になってしまいます。
お客の前に身をさらしてからのしばらくがどれほど重要なことか、
冒頭の例で明らかでしょう。
もちろん紹介の間のウェイティングを逆手に取って
「ツカミ」に変えるという方法もありましょうが、
未熟な私めにはまだまだ……。
それをご理解頂きたいのです。

イシス3
「編集学校」で講義する花團治

▶謎掛けのつくり方(要素・機能・属性)


また、こんなアクシデントもよくあります。
こちらが座布団に座って高座で喋りだしてからの
スタッフによるマイクの位置調整。
事前に音響チェックは済ませていたはずなのですが、
おそらく後方の観客から「聞こえない」というクレームでも入ったのでしょう。
喋っているすぐ目の前で作業されるのは目障りこのうえない。
でも、こういう時ほど舞台上の演者は気をつけていなければなりません。
つい不愉快な顔をしてしまいがちですが、
その表情も観客にはばっちり見られています。
そんな怪訝な表情が高座に影響しないわけがありません。
ですから、よほど時間が掛かりそうなときは
一旦舞台袖に戻って出直すか、
その音響チェックもパフォーマンスとして見せてしまうかです。

高座座布団400

最近よく「ハロー効果」という言葉を耳にします。
主にビジネスの世界で使われているようですが、
「ツカミ」の問題ともよく似ています。
「ハロー」とは「後光がさす」の後光、聖母の光背や光輪のこと。
喋りだすまでの第一印象
です。
どれほど良いプランを持ってプレゼンテーションに臨もうが、
ここで失敗すると相手の印象には残らないもの。
ぼくは現在、「若手落語家グランプリ」の予選審査員をしていますが、
登場の雰囲気でつかんでしまう人は
不思議と良い結果を残す傾向にあるようです。
舞台袖から出囃子と共に小走りに登場する落語家もいれば、
舞台に顔を見せてまず深々とお辞儀をしてから座布団に歩み寄り、
坐ってまた改めて深々とお辞儀という落語家もいます。
どれがいいとは一概には言えませんが、
評価の高い落語家は登場の仕方ひとつとっても
それぞれ自身の型を持っています。


うちの師匠もよく言ってました。
「(どんな世界も)プロというもんには
すべからく理屈があるんや」

彦八まつり総踊り400

ぼちぼち連お稽古風景たま400

落語家の多くが美しい所作を身につけるため、日舞のお稽古に勤しんでいます。
(上:上方落語家ファン感謝デー”彦八まつり”での総踊り、
下:西川梅十三師匠に稽古をつけてもらう笑福亭たま)


舞台袖から座布団までのほんのわずかな距離ですが、
ここにもちょっとしたこだわりがあります。
今度、寄席に来られた際は「座布団までの歩み」
にも是非ご注目ください。

個人的には、
「いよいよわての出番だ!笑わしまっせ!」
といった、笑福亭福笑師匠の登場が好きです。

繁昌亭花團治襲名福笑400
左から、繁昌亭の恩田支配人、笑福亭福笑、桂一蝶、ぼく、桂梅團治、桂春雨
(繁昌亭「花團治襲名披露記念ウィーク」の楽屋にて)


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する月刊「リフブレ通信」の連載コラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。

▶「リフティングブレーン」公式サイト


花團治の会4の400

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茨木ワークショップ2018の500
茨木クリエイトセンター「落語ワークショップ」の詳細はこちらをクリックしてご覧ください。


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210.「月亭可朝」と「若井はやと」の伝説~誰が喋ってもオモシロイ台本でウケてもオモシロないがな~

月亭可朝師匠が亡くなられた。
ギター漫談で売り出し、自ら作詞・作曲した「嘆きのボイン」は
80万枚のヒットを記録。トレードマークはちょび髭とカンカン帽だった。
(ちなみに、このカンカン帽はまとめて大量に購入していたそうだ。
「お客が欲しがりよんねん。帽子にサインしてあげてしまうもんやから
何ぼあっても足りへん」とおっしゃっていた)


『嘆きのボイン』

1.ボインは 赤ちゃんが吸うためにあるんやで
お父ちゃんのものと違うのんやで
ボインというのは どこの国の言葉
うれしはずかし 昭和の日本語
おっきいのんが ボインなら
ちっちゃいのは コインやで
もっと ちっちゃいのんは ナインやで

2.何で 女の子だけボインになるのんけ
腹の立つこと 嫌なこと しゃくな出来事あった日は
男やったら酒飲んで 暴れまわって憂さ晴らし
女の子なら何とする 胸にしまってガマンする
女の子の胸の中 日頃の不満がたまってる
それがだんだん充満してきて
胸がふくれてくるんやで

3.上げ底のボインは 満員電車に気をつけとくなはれや
押されるたんびに 移動する
いつの間にやら 背中へ回り
一周回ってもとの位置
これがホンマの「チチ帰る」やおまへんか
こらホンマやで


可朝師匠とぼく400
可朝師匠とぼく。2015年。上方落語協会情報誌『んなあほな』の取材にて(撮影:桂坊枝)

とにかくサービス精神旺盛な方だった。
選挙に出馬したこともあった。
公約は「一夫多妻制の確立と、風呂屋の男湯と女湯の仕切を外すこと」
どこまで人を食った人だろう。
また、無類の博打好きで、破天荒な私生活ばかりがクローズアップされた。
世間では落語をするイメージが薄いかもしれない。
けれども、ぼくは可朝師匠の『算段の平兵衛』『住吉駕籠』
といった古典落語が好きだ。
うちの師匠(故・二代目春蝶)は
『犬の目』という咄の稽古を可朝師匠からつけてもらったと言っていた。
うちの師匠の洒脱で肩の力の抜けた語り口はきっと可朝師匠の影響であろう。
実際、うちの師匠と可朝師匠は若い頃、
かなり頻繁につるんで遊んでいたらしい。
(待ち合わせは、市電が走っていた頃の寺田町の停留所だった)

それでとうとう博打好きまで乗り移ってしまった。


二代目春蝶、ノック、たかじん、ざこば
左から、二代目春蝶、横山ノック、やしきたかじん、桂ざこば。関西テレビ『男の井戸端会議』の収録。
(提供:三代目桂春蝶)



可朝師匠には今も幕内で語り継がれている伝説の舞台がある。
それは賭博の罪で長らく謹慎生活を送ったあとの久々の高座だった。
「いったいどんな咄をされるんだろう」と舞台袖には
多くの芸人が固唾を飲んで見守ったという。
座布団に座ってのまず第一声は「ホンマにホンマでっせ」だった。
これは可朝師匠の決まり文句でギャグのようなフレーズである。
これだけで客席はおおいに沸いた。そして次の言葉も「ホンマにホンマ」。
続けて「いや、ホンマだんがな」。
可朝師匠が口を開くたびに笑いが止まらない。
そのあともずっと
「ホンマにホンマ」「ホンマやでぇ」……
とうとう可朝師匠はこのフレーズだけで高座を押し切った。
腕時計を見ながら「時間が来たさかい」と扇子を仰ぎつつ
舞台袖に戻っていく後ろ姿に万雷の拍手が贈られた。


可朝の本400


このエピソードで思いだすのは、若井はやと師匠(2008年没)のことだ。
ぼくは出番をご一緒するたびよく飲みに連れてもらった。
元々「若井ぼん・はやと」というコンビで売り出し、
「横山やすし・西川きよし」の師匠方とは所属事務所は違えど
若手の頃からライバル関係にあった。
コンビ別れしてからのはやと師匠はピン芸人として、
道頓堀の『浪花座』という劇場の舞台によく上がっていた。
当時の浪花座は客入りも悪く、
500強の客席に50人足らずということも。
どこか場末の雰囲気さえ漂っていて、
舞台に上がった芸人が次から次と全くウケずに下りてきた。
ぼくもそのうちの一人だった。

「どうや蝶六(ぼくの当時の芸名)、今日のお客さんの雰囲気は?」
「すんません。(お客さんが)固まってる上から重しを置いてしまいました」

全く受けない高座を謝ると、はやと師匠は「そうか」と
ニヤッと笑顔を見せたかと思うと、「俺にまかせておけ」とばかり
余裕綽々と舞台に上がっていった。もちろん客席は爆笑に次ぐ爆笑。

若井はやと、若井やるき400
若井はやと師匠と、弟子の若井やるき(提供:若井やるき)


このあと立ち飲み屋で、はやと師匠はぼくにおっしゃった。

「今日のわしのネタの内容を覚えてるか?」

ぼくが返答に困っていると、それを見透かしたようにはやと師匠はこう続けた。

「内容なんかなかったやろ?
……朝起きて、歯磨いて、新聞に目を通して
……これといった内容なんてなかったはずや」


「けどずいぶんウケてはりました」

「そやねん。内容が無くてもウケさせられるねん。
若手はな、ネタの内容ばっかりにこだわりよんねん。
わしの今日の漫談を活字に起こして読んでみ、
オモシロいこと、何もあらへんで」。

若井ぼんはやと
若井ぼん・はやと(左がはやと師匠)



可朝師匠もはやと師匠もまさに「間」の妙技だ。
最後に、はやと師匠はこう付け加えられた。

「誰が喋ってもオモシロイ台本で
ウケてもオモシロないがな」。


……オモシロイ話をオモシロくない咄にしてしまうぼくには、
とても耳の痛いひと言だった。合掌。



※この原稿は熊本のリフティングブレーン社が発行する『リフブレ通信』に連載させて頂いているコラム
「落語の教え」のために書き下ろしたものです。




月亭 可朝:昭和13年(1938年)3月10日ー平成29年( 2018年)
神奈川県横浜市出身(同県三浦郡葉山町生まれ)、本名は鈴木 傑(まさる)。
昭和43年(1968年)4月のなんば花月での「桂小米朝改め月亭可朝」襲名披露において
「葬式調アングラ襲名」と銘打ち、舞台上に設けられた「桂小米朝の葬儀会場」で
笑福亭仁鶴が読経すると棺桶の中から可朝が飛び出すという奇抜な趣向を演じ、
これ以降自身のアクの強いキャラクターを押し出すようになっていく。
政治家に立候補したこともあったが、この時の公約は
「一夫多妻制の確立と、風呂屋の男湯と女湯の仕切を外すこと」。
もちろん落選。享年80。


若井はやと:昭和19年(1944年)8月14日 -平成20年(2008年 )12月8日。
昭和37年(1962年)に若井はんじ・けんじ門下となり、若井ぼんとのコンビで、
昭和43年(1968年)に上方漫才大賞新人賞、
昭和52年(1977年)上方漫才大賞奨励賞を受賞。
「しっつれいしました」などのギャグや、
ぼんの出っ歯を売りにしたハーモニカの芸で人気を博すも、
昭和60年(1985年)に解散。その後は、浪花座などで漫談を続けた。
息子は「親指ぎゅー太郎」の名で、芸人として活動中。享年64。




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209.命懸けの道成寺~能はロックだ!?~

”大鼓”と書いて”おおつづみ”と読みます。
「カーン」という乾いた音色が特徴ですが、
実はこの楽器、「世界で一番硬い楽器」だそうです。

”小鼓”は「ポンポン」と水を含んだような音ですが、
”大鼓”は乾いた高音。
”小鼓”はたえず息を吹きかけたりして湿らせた状態にします。
時折、舞台上で革にハァーしてる姿を見受けます。

余談ですが、モノを冷ますときの息はフゥーで、
温めるときの息はハァーですよね。
ちなみに飲酒検問のときはハァーで、フゥーはNGです。
フゥ―は吐くときに周りの空気を巻き込んでしまうので、
口のなかの湿気をそのまま与えるためにもハァーなんでしょうね。
だから、小鼓の革にもハァー。

一方、”大鼓”は革が乾いている状態でないとイイ音は鳴らない。
能楽堂の楽屋では年中”火鉢”を見かけますが、
これは革を乾燥させるためにあるそうです。

乾きて高鳴る大鼓・湿りて響く小鼓
大鼓と小鼓は、まるで夫婦のような関係ですね。

小鼓と大鼓400
右が小鼓、左が大鼓。(撮影:相原正明)


ところで、ぼくは夜間高校で「芸能鑑賞」という授業を受け持っています。
ある時、いつも眠そうな学生が、
目をランランと輝かせて
授業の教材ビデオを食い入るように見つめていました。
モニターに映し出されていたのは、
能『道成寺』”乱拍子”のくだり。


熊野参詣に訪れた若僧に、ある女が一目ぼれ。
しかし、その思いは若僧には受け入れてもらえず、
ついに女は蛇に化け、
寺の鐘のなかに隠れた若僧を焼き殺してしまいます。
その後、寺が新しく鋳造した鐘を納めようとした際、
一人の白拍子が舞を奉納させてほしいと申し出ます。
その白拍子、実はあの時蛇に化けた女性で、
いまだその思いをたぎらせ、障害を為そうと鐘のなかに籠ります。
クライマックスは、女をその鐘から追い出そうとする僧の祈りと、
再び蛇に姿を変えた女の情念との一騎打ち。
笛、小鼓、大鼓と、シテの激しい舞。

道成寺蛇
『道成寺』絵巻より


学生たちはこの場面にすっかり釘付け。
特に、ダンス好きな学生やバンドを組んでる学生の反応が
もう半端じゃありませんでした。

「サブイボが立ちました」
「なんかロック魂を感じるわぁ」

という感想まで飛び出しました。

蛇と女と鐘400
『蛇と女と鐘』福井栄一著(技報堂出版)

さて、つい先日のことです。
奈良の大和郡山でのイベントで
上方文化評論家・福井栄一先生とご一緒した際、
打ち上げの席上、『道成寺』の話題で盛り上がりました。

花團治「あの能の鐘の舞台装置って、結構重たいもんなんですか?」
福井「鐘自体は細い竹を編んで上から布を貼るんですが、軽すぎるとブラブラ揺れてしまうので、縁に鉛の重しを入れて調整するんです。それに、鐘入りのあとで使用する鬼女の面とか、装束、小道具などが仕込んであるから、総重量は80キロ以上にはなるでしょうね。それが数メートル上から落下してくる」
花團治「ぼくが謡を教わっている水田雄晤先生の父上は、鐘に挟まって大けがをされたそうです」
福井「鐘が下に落ちるタイミングや位置が悪いとシテの命に関わります。頸椎を損傷して半身不随になった方もおられるし…。鐘の中での着替えも、暗く狭い中で短時間で行わねばならず、シテのストレスは相当なものです。」
花團治「道成寺って、数ある能のなかでも、特にシテは大変そうですね」
福井「能楽師はこの曲を披くことでようやく一人前とみなされるんです。能楽師にとっての博士論文みたいなものでしょうか」


上田市長、三川、ぼく、福井500
左から、大和郡山市の上田清市長、上方唄の三川美恵子師、ぼく、上方文化研究家の福井栄一先生。



……聞けば聞くほど、大変な労力と気力を要する曲です。
実は近日、水田雄晤先生が、この『道成寺』に臨まれます。
水田先生は過去に二回、脳梗塞に襲われながら、
必死のリハビリで克服されました。
その先生が、父上が大けがをされた因縁をもつ演目を
敢えて選んだのは、それが父上の十三回忌追悼公演だからです。
いろんなプレッシャーを押し切って、
水田先生は『道成寺』を披く!と決められたのです。

(能楽師が初めてその能を勤めることを”披き=ひらき”と言います)

水田雄悟の舞
舞を舞われる水田雄悟先生。(撮影:相原正明)

水田雄吾とぼく400
水田先生とインタビューをするぼく。能楽のことをいつも分かりやすく丁寧に教えて下さいます。
(撮影:相原正明)

能とオペラ出演者400
この日の公演は、能とオペラの共演でした。高校の芸能鑑賞会にて。(撮影:相原正明)


今回の『道成寺』の背景には
作品以上のドラマがあります。


公演日の5月20日、ぼくはあいにく高座があり
駆けつけることはできませんが、
水田先生が全身全霊で演じる「道成寺」を、
一人でも多くの方に観ていただきたいです。

イマドキ学生達を唸らせる「ロックな能」。
魂の熱演をぜひご覧ください。





水田13回忌500


水田13回忌500裏面




お薦めの写真↓
▶「能とオペラの共演」
(相原正明つれづれフォトグラフ)
是非、こちらをクリックして
迫真の舞台風景をごらんください。



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208.映画『福井の旅』と『男はつらいよ』~はみ出しものの視点から~

その兄弟子は、もうどうしようもない落語家だった。
平気で仕事に穴をあける、朝から酒浸り、
自分勝手、飽き性、協調性ゼロ……
とにかくだらしがないこと、このうえない。

でも、どこか憎めない。

ある日、そんな兄弟子から弟弟子のもとへ一本の電話。
「とにかく福井まで来てほしい」という。
それだけ言うなり、プツッと電話を切った兄弟子。
大阪でラジオのレギュラー番組を持ち忙しい弟弟子は、
「何でぼくが福井にまで……」と訝りながらも、
兄弟子を放っておけずに
サンダーバードで一路、北陸へ。

その弟弟子、実は密かに悩みを抱えていた。
そこそこ売れっ子だったはずが、
仕事はどんどん減る一方なのだ。
それは彼の傲慢さが原因なのだが、
彼はそのことに気づかず……。

……と、これは映画『福井の旅』のエピローグ。

ちなみに、ぼくは弟弟子の役である。


福井の旅画像400


映画『福井の旅』の出演者の多くは、
福井の駅前で店を営むおっちゃんやおばちゃんたちで芝居未経験の人ばかり。
それゆえ、監督の木川剛志氏は
それぞれが演技することなく素のままでいられるよう脚本を練った。
その演出は出演する者の人柄や面倒見の良さを浮き彫りにしていった。
出演交渉もその場で行うなど、一見行き当たりばったりのようにも見えたが、
ディレクター的視点も併せ持つ木川氏の頭の中には
すでにどういう人に出演してもらうかは構築されていたに違いない。
人懐っこい笑顔でお願いされると誰も断れず、
映画撮影の場はいつも和やかな空気が流れていた。

木川剛志とビリケン400
木川剛志監督。通天閣の展望台にて。


ところで、話は変わるが、
渥美清演じる「フーテンの寅」さんは、
全国を渡り歩く一匹狼のテキ屋。
自由を愛し、己より他人の幸せを優先した。
そんな寅さんがつぶやく言葉がイイ。

“例えば日暮れ時、農家のあぜ道を
一人で歩いていると考えてごらん。
庭先にりんどうの花がこぼれるばかりに咲き乱れている
農家の茶の間。灯りが明々とついて、父親と母親がいて、
子供達がいて賑やかに夕飯を食べている。
これが・・・これが本当の
人間の生活というものじゃないかね、君。

俺はな、学問つうもんがないから、
上手い事は言えねえけれども、
博がいつか俺にこう言ってくれたぞ、
自分を醜いと知った人間は、決してもう、醜くねえって・・・”

映画『男はつらいよ』より



映画『福井の旅』の兄弟子と、
映画『男はつらいよ』の寅さんに共通していえることは、
どちらもいわば世間からの「はみ出し者」だということ。

世間とは少し離れたところにいればこそ、
客観的に社会を眺めることができる。
だから誰かの悩みや弱さ、
社会の歪みなどに対して人一倍敏感になる。
芸人であれば、それが笑いに繋がっていく。


花團治、道楽亭、うそっ?
桂花團治、ジャンジャン横丁『動楽亭』にて。(撮影:相原正明)


さて、『福井の旅』での「はみ出し者」兄弟子には
弟弟子の何が見えていたのだろうか?
なぜ弟弟子を福井に呼び寄せたのか、
そして、福井に来た彼はどう変わっていくのか…?

この先は、ぜひ本編をご覧ください。

露の都師の怪演もとい快演、そして
福井の駅前で商売を営む人々の、
無作為の演技もぜひ観てほしい。
福井というまち、
そして福井に住まう人々に、きっと逢いに行きたくなるはずだから。

『福井の旅』では第17回「長岡インディーズムービーコンペティション」で「観客賞」。
和歌山を舞台にした『替わり目』では
「第9回商店街映画祭」のグランプリ」と「串田監督賞」のW受賞。


まずは、下記アドレスをクリックして「予告編」から
露の都師匠の快演もこちらで一部だけですが、ご覧頂けます。↓
▶短編映画『福井の旅』予告編Youtube


おもちゃ映画ミュージアム、5木川氏を迎えて

◆「咄して観よ会」の詳細はこちらをクリック!


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【映画の美術製作をしていた祖父と、
建築設計士の父】


監督の木川剛志は、1976年、京都市上七軒の界隈の生まれ。
上七軒といえば京都五花街のひとつで西陣地区。
機織りと三味線の音が響くなかで氏は育った。

氏の父は建築設計士で、
その影響からか氏自身も大学で建築を学ぶようになった。
卒業後はスリランカの建築家・ジェフリー・バワ氏に憧れて
現地の設計事務所で修行を重ね、
その後も中国やアメリカの大手設計事務所勤務など世界中を駆け巡るが、
最終的にはロンドン大学大学院を経て研究者の道を選んだ。
現在も和歌山大学観光学部准教授として教鞭をとる傍ら、
「観光映像」にこだわり続けている。


氏の祖父も映画界に携わっていて、
第一映画や新興京都、大映に属する美術制作の職人だった。
溝口健二監督「浪華悲歌」(1935)、黒澤明「羅生門」(1950)、
渡辺邦男「忠臣蔵」(1958)などに参画している。

◆木川剛志について(和歌山大学研究者総覧)←クリックしてご覧ください


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207.叩きとバランス~相撲と合気道に落語を教わった~

先日の大相撲三月場所(大阪場所)中、
ある相撲部屋で行われたちゃんこ鍋会に参加させてもらった。
最近、整骨院通いをしていることもあって、
アスリートの身体の使い方や「バランス」に興味津々のぼくが
力士達を質問攻めにすると、一人の力士が懇切丁寧に教えてくれた。

「相撲もバランスなんですよ」

相撲は単に力技ではなく、
いかに相手のバランスを崩して勝利に導く頭脳戦の側面もあるのだ。
小兵であっても大きい力士をひょいと倒せるのは「バランス」の為せる技が大きい。

中川部屋にて3-400

中川部屋にて2-200
中川部屋の大阪宿舎にて


ところで、ぼくの主宰する落語塾では「叩き」の実習を必修にしている。
張り扇と小拍子と呼ばれる木切れで、
座布団の前に置かれた見台と呼ばれる小机を
小刻みにパンパン叩きながら台詞を言うというものだが、
大阪の落語家の多くは手習としてまず初めにこれを落語「東の旅」で身につける。

「漸うと上がりました私が初席一番隻でございます(パパパパン)
お次が二番隻(パパパパン)三番隻に四番隻(パパパパン)
五番隻にお住持に旗に天蓋、銅鑼に妙鉢、影灯篭に白張りと……」


口が回るようにもなるし、
リズム感を養うためにもこれはとてもよく出来たテキストである。
しかし、最初からそう簡単には身につくはずもなく、塾生全員が悪戦苦闘している。

見台と膝隠し


そんななか、塾生の一人がこんなことを言いだした。

「師匠は叩くとき、
動かすのは手首から先だけで、
身体は全く動かないんですね」


腕や肘を使わず、手首を起点にして動かすことで、
身体を揺らすこと無く安定した姿勢を保つことが出来ることに気がついたらしい。
ちなみに彼は合気道の達人である。合気道も「手首」が肝心だという。
合気道との共通点に気付いた彼の「叩き」は急激に上手くなった。
それに、ぼくもまた彼のこの言葉におおいに気がつかされた。

確かに「叩き」はリズム感を養うだけでなく、
声を発しやすい身体づくりにも繋がっている。
見台を叩くときの姿勢は腰がちゃんと据わっていなければならない。
また、叩く手の位置によって自然に胸が開くようになるが、
この姿勢を習得することの有効性は
発声に関する多くのプロが口にすることだ。
そんなことを思ううち、
「叩き」ほど語り手の身体をつくるに適したものはないと思えるようになった。

愚か塾、打ち上げ
『愚か塾』の塾生たちと、稽古場にて。


冒頭の力士も「肩に力が入るようではいけない」ということを言っていた。
そう言えば、以前こんな記事を目にしたことがある。
横綱の白鵬が名誉会長を務める少年相撲大会が東京・両国国技館で行われ、
小学3年生の部に出場した白鵬の長男・真羽人君(9)が大会初勝利を挙げたのだが、
出番前に父である白鵬から「ジャンプをして肩の力を抜くように」とアドバイスを受け、
それが勝利につながったという内容だった。

「叩き」とて、肩に力が入っていては小刻みに自然に叩くことはまず不可能である。
「リラックスした緊張」という言葉がある。
これはサッカーのゴールキーパの例が分かりやすい。
どこにボールが飛んでくるかを見極める集中力も必要だろうし、
瞬発的に動くしなやかな身体も欠かせない。


お相撲さんが「四股」「てっぽう」「股割り」「すり足」で身体を作っていくように、
それぞれの世界に伝統的な基本トレーニングというものが存在する。
それらに共通するのは、同時に身体の無駄な力をそぎ落としていくということである。

山岡先生と2-400
整体に通うようになって、身体のバランスがとても気になるようになりました。(大阪鴫野・城東整骨院にて)


桂枝雀師匠は生前、
「笑いは緊張の緩和である」ということをよく言われた。

聴き手にある思い込みをさせておいて、ヒョイと意表をつく。
相手に息をつめさせておいた後、あるきっかけで「なぁんだ」とフッと息を抜かせる。
つまり相手をズッコケさせる。
それによってこちらの目的が果たせる。

落語は笑いにつなげるため、相撲は相手を倒すため、
目的こそ違えども両者はどこか似ている。
そのためにもしっかりプロとしての身体の使い方を習得する必要がある。

花團治、動楽亭1-400 撮影:相原正明

……あぁ、もっと稽古しなくっちゃ!



※この原稿は熊本のリフティングブレーン社が発行する『リフブレ通信』に連載させて頂いているコラム
「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



春團治まつり2018チラシ

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206.祝・四代目春團治襲名~まるでコント?!な三代目&四代目の思い出~

今年の2月11日、大阪道頓堀の松竹座で行われたのが、
「四代目春團治襲名興行」。
1033席ある会場が昼夜二回公演ともに超満員となりました。

襲名興行の目玉といえば、やはり「襲名口上」です。
口上では、襲名する本人は舞台中央に正座で床に手を付き下を向いたまま、
横に居並ぶ諸先輩や仲間の挨拶を黙って聞いていなければならないという決まりがあります。
歌舞伎や文楽の襲名口上は厳かに行われることも多いようですが、
こちとら落語家。当人が公開されたくない失敗談などが次々と公にされ、
言い返すことも出来ずに「針のむしろ」となります。

春之輔改め、四代目春團治も然り。
っていうか、これほどプライベートで
様々なエピソードを持った方もいないでしょう。
(文章にできない+ぼくが怒られそうなので、ここでは控えておきます…)

四代目襲名、口上3400

下を向いたまま、言われ放題の四代目さん。
でも、その様子に、ぼくは後輩ながら、
四代目師匠の周囲からの愛されぶりを感じずにはいられませんでした。

四代目さんはイジられ上手なんです。


四代目襲名口上1の400
舞台でプライベートをネタにさんざんイジられる四代目春團治師匠。
六代文枝師匠や、きん枝師匠の追及に場内割れんばかりの笑い。


四代目襲名、文枝、愛之助、400
四代目春團治襲名披露公演の楽屋にて

四代目襲名、生喬400
袴の紐を結べない若手を手伝う笑福亭生喬さん。
後輩の面倒見がめっちゃエエことでも知られています。
(四代目春團治襲名披露公演の楽屋にて)




四代目襲名、タージン400
「何でも手伝うから言うてや!」というタージンさんには、ワインの袋詰めをお願いしました。
(四代目春團治襲名披露公演の楽屋にて)

四代目襲名、坊枝400
坊枝さんとぼくのツーショット。横に玉三郎丈からの祝い花が見えます。


……あれは三代目春團治師匠の御長男・一茂さんの経営するスナック
「無礼行」でのことでした。
その日は、一門の集う落語会の打ち上げだったと思います。
最後の仕上げは一茂さんの店でということになったのですが、
どういう趣向なのか、席が足らないということもあって、
三代目が四代目(当時・春之輔)に、
「春之輔、君はカウンターの中に入りなさい」と命じたのです。


「ちゃんと、皆さんの水割りを作るようにな」


「…蝶六くん(ぼくの前名)のグラスも空いてるよ」と三代目春團治師匠。
春之輔師匠は「へぇ」と言いながら、ぼくのグラスを取りました。
普通なら、20年近い後輩のぼくの世話をやくなんて考えられないこと。
ぼくが恐縮してると、三代目が茶目っ気たっぷりの笑顔で
「いや、いいんだ。今日はこの男にやらせるから」

ぼくの水割りができると、間髪入れず、
「福矢くんのも空いてるよ」
またも「へぇ」と言いながら、彼のグラスを取る四代目。
その「へぇ」の声や様子の可愛らしいこと。

「ほれ、ぼくのも空いてる」
「へぇ」
「小春團治くんのも空いてる」
「へぇ」
「壱之輔くんのも」
「へぇ」
「今度はこっち」
「へぇ」
「次はあっち」
「へぇ」「へぇ」「へぇ」……

我が弟子の水割りまでいそいそ作る春之輔師匠。
店内はもう笑いが止まりません。
それはまるでコント。まさに名コンビでした。

ツッコミを入れながら
場を盛り上げる三代目師匠。

ぼくにとってはじめてみた光景でした。

春之輔師とのれん前400
2015年、ぼくの襲名の際のツーショット(左が四代目春團治)(撮影:相原正明)


でも、今になって思うんですよね。
四代目師匠はイジられているのではなくて、
わざと「イジらせていた」のかも…と。

後輩のぼくが言うのも何ですが、
これほど周囲にイジられて絵になる人もいませんし、
イジられているときの本人の表情もどこか楽しそうなんです。

そんなわけで、今度の池田での襲名公演も、
どんなイジられ方をするのか、
師匠方の毒舌と四代目の表情に興味津々です。

滅多に見られない光景ですので、よろしければぜひ、ご来場下さい。

四代目襲名チラシ500



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205.談論のすすめ~ディベート反対のためのディベート~

小中学校などに落語ワークショップで招かれるたび、
頻繁に聞かされるのが「子どもたちのコミュニケーション力低下」についてである。
と同時に、「自分の意見がはっきり言えない」ということもよく耳にする。
そういった背景が、まだ一部の学校だけとはいえ
ディベート教育の導入にも繋がっているのだろう。

ワークショップ(渡邉隆・撮影)縮小版
撮影:渡邊隆

「ディベート」とは、自分と意見が異なる相手と議論して説得させることを指すが、
小学生の頃に吃音症を経験しているぼくとしては何だか腑に落ちない思いでいる。
かつてぼくは落語家でありながら、ある小さな広告代理店に籍を置いていた。
友人である代表に頼まれ商品開発やイベントの企画会議に出席するうち、
いつしかぼくのデスクまで用意され、
落語会の制作もその代理店で行ってもらうようになったのだ。


そこでの会議にはひとつのルールがあった。
それは「相手の批判をしない」ということ。
どんなにつまらないと思うアイデアであっても絶対にそれを否定してはならない。
とにかく誰もが自由に話せる雰囲気がそこにはあった。
いわゆる「ブレスト(ブレインストーミング)会議」である。

「おおっ、それはオモシロイな!それならこういうのはどうだろう?」。
一人のアイデアに他の誰かが被せていく。
この繰り返しが予想外の企画を生み出した。

はづかし小学校、落語演じる蝶六
小学校で落語を演じる桂蝶六(現・桂花團治)


はづかし小学校、答える子ども
落語の下げとは、頓智クイズの答えのようなもの。
そこで、子どもたちにクイズを出してそれに回答してもらう。
ただし、ここでは全てが正解。くだらない方がオモシロイのである。



「上方落語協会」には寄席運営や普及活動などを目的に
いろんな委員会が設けられているが、
ぼくはそのうちの「情報誌編集委員会」「若手育成委員会」の二つに属している。
他は知らないが、少なくともぼくが属する委員会の風景は
会議というより井戸端会議といった方が相応しい。
「ああだ」「こうだ」と言いながら脱線の連続で笑いが絶えない。
それでいていつの間にかしっかりと着地している。
先述の広告代理店での会議もそうだが、
「三人寄れば文殊の知恵」とはまさにこのことである。

んなあほな会議4002
上方落語協会情報誌『んなあほな』の編集会議。
会議の大半は、もうどうでもいいようなハナシです。


冒頭に述べた「ディベート」についてまず頭をよぎるのは
「何をくだらないことを言ってるんだ」
と一蹴されたらどうしようという焦り。
それに、たとえ相手を言い負かせると分かった場合でも
「相手に恥をかかせてはいけない」という思い。

そういう時は「……なるほどそうですね。
ぼくも賛成です。でも、こうも考えられるのでは……」という手に出るのがぼくの常だ。

つまり、結果的に相手が導き出した結論として成立するように
持っていくようにしている。
自分の意見として通るか否か、勝ち負けなどは二の次である。
これは商人特有の「下駄を預ける」手法と似ているかも知れない。
「今日は何曜日やったかいな?」という客の質問に対して
「〇〇曜日です」と言い切るような応え方を大阪商人はしない。
「はて、今日は〇〇曜日と違いますか?」と問い掛けの形にして返すのが大阪商人。
客の方が「そうやった。今日は〇〇曜日やった」。
結論を相手に委ねることで相手に恥をかかせないといった商人の配慮であり知恵である。

劇作家の平田オリザさんはこう言っている。

「ディベート(討論)は、
話す前と後で考えが変わったほうが負け。
ダイアローグ(対話)は、
話す前と後で考えが
変わっていなければ意味がない」


花團治、阿弥陀池しんねこ
桂花團治(撮影:相原正明)

▶写真家・相原正明つれづれフォトブログ「七変化・桂花團治」
是非こちらをクリックしてご覧ください。



ちなみに、ブレスト(談論)では思いも寄らぬ考えが生まれたりするものだ。
平田オリザさんの言葉を元に言い換えるなら

「ディベートは、
どちらか一方の考えに落ち着くが、
ブレストは、予期せぬ考えにたどり着く」

といったところだろう。


また、「ディベートはどちらか一方の勝利だが、
ブレストは参加した全員の勝利」
ということもいえる。




人前に立つことに恐怖を覚えた小学生の頃のぼくが、
もしも無理やり授業で「ディベート」の場に立たされていたら
……想像しただけでゾッとする。

ますます吃音が悪化していたに違いない。
そんなわけで、「ディベート」も有意義だとは思うが、
その前にまず「ブレスト」の方をぼくは薦めたい。


この原稿は熊本のリフティングブレーン社が発行する『リフブレ通信』に連載させて頂いている
コラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。

『リフティングブレーン』の公式サイト



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204.象引物語~泣いたり笑ったり、怒ったり……とかく桂福車は忙しかった~

お練り、福車3
桂福車、2015年花團治襲名お練りにて(撮影:相原正明)
2018年2月1日没、享年56


桂福車に関する逸話は快挙にいとまがない。
例えば、「上方落語協会」の会長選を巡る総会の席。
それまでは理事会で決められた案を
協会員全員の賛同を得て決定するという選び方に異を唱え、
「会長は協会員全員による投票で決めるべきだ!」と声高に訴えたのは彼だった。
これにより、初の協会会長選挙で誕生したのが桂三枝(現・六代文枝)会長である。
今の「上方落語協会」が単なる親睦団体から
公益社団法人にまで発展していった背景には彼の功績も大きい。

思い立ったら自身の損得など全く意に介さず意見を言うのが彼の性分だった。
彼と立ち上げた新作落語の会でも運営を巡ってずいぶん対立したが、
落語家の先輩や作家さん方に言いにくいことなど、
全て彼が代弁してくれるので、
代表を務めていたぼくとしてはずいぶん助かった。

一番搾り、福車3
倒れ込む福車、殴りかかるぼく、それを止める森乃福郎(”落語一番搾り”結成時)


一番搾り、福車1
手前から森乃福郎、ぼく、桂福車(”落語一番搾り”結成時)




通夜の席で、ある方がぼくにこう言った。
「何か困ったことがあると彼によく相談してね。
そのたびに彼は大きな声で代弁してくれる。
いつも壁になって守ってくれました」



居酒屋に入ると、勝手に唐揚げにレモンをしぼったといっては
後輩への説教が始まった。
「あのな、こんなものは勝手に掛けたらいかんねん。ちゃんと先に断るべきやろ!」

社会派落語家と言われるだけあって政治経済についてもよく勉強していた。
最近では過労死をテーマにした『エンマの願い』が
マスコミでも多く取り上げられ話題になった。

落語会の打ち上げで、その主催者やスポンサーと
ささいなことで対立、大モメすることも多々あった。
自分が正しいと思うことには一直線だった。


「損得」も「忖度」も
「長いものに巻かれる」という言葉も
彼の辞書にはなかった。



常に何かに憤っていたというイメージが強い彼だが、
その一方でこんな表情も見せた。
30数年前、ぼくの最初の結婚披露宴のとき、
お互いに駆け出しだったにも関わらず、彼の持ってきた祝儀が
同期の落語家のなかでも破格だったので、そのお礼を言うと
「兄さんにはどれだけ世話になってますねん。こういう時しか返すとこがありませんやん!」
このときの彼の顔は、かなり照れ臭そうで、
これ以上染まり様がないくらい真っ赤だった。
とてもシャイな男なのだ。

お練り、福車2
ぼくの襲名お練りのときには、必死になってその船を動かしてくれていた。



涙もろい一面もあった。
ぼくが福車の涙を初めて見たのは、
彼が新作『象引物語』(作・ぶうち古谷)を演じていたときのことだった。
内国勧業博覧会跡地の開発が進むなか、
北の大火をきっかけに、
動物たちが、本町にあった「大阪府立動物檻」から、
大阪市立天王寺動物園へ移動させられるという場面。
頑としてそこを動こうとしない象の団平に、
一人の調教師が語りかけるというシーン。
「お前と(象の)常盤が恋仲やったことはぼくも知ってる。実はぼく、常盤に会いに東京浅草の花屋敷に行ってきたんや。あいつも寂しがってたで。お前のことを話すとこれを渡してくれって……彼女の胴掛けや」

彼は涙目どころか、
声を震わせて泣いていた。
ぼくも思わず舞台袖でもらい泣きした。

けれども、彼はずっとこれを悔いていた。

「演じる人間が泣いてしまうやなんて
兄さん、ぼくは咄家失格ですわ」

この日、彼は打ち上げでもずっとそのことを言い続けていた。
よほど悔しかったのだろう。


すぐに泣いたり、怒ったり、
真っ赤になって照れたり……
うるさい奴っちゃと思ったこともあったが、
……とかく彼は忙しい男だった。


一番搾り、福車2
左からぼく、福車、福郎(”落語一番搾り”結成時)


生前、ぼくが彼に「これ、ええ咄やな」というと、
「兄さんも演んなはれ」と言って薦めてくれたのが『象引物語』。
このたび、ぼくも22年ぶりに口演させていただくことになりました。

稽古するたび、彼のあの涙を思い出します。

2018年2月1日没、享年56。……合掌。


花菱の会、追悼桂福車
この日は、「桂福車独演会」が予定されていましたが、
急きょ、彼もレギュラーメンバーとして属していた「花菱の会」で会を催すことになりました。

▶詳しくはこちらをクリックください。
「桂福車この高座を見よ」」




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203.努力って嫌な言葉ですな~芸の歪みは身体の歪みから~

うちの師匠(二代目春蝶)は
「努力」という言葉が嫌いな人だった。

「そんなに頑張って喋らんでもええがな」というぼくへのダメ出しは
もはや口癖に近かった。
「もっと普通に喋らんかい」とも言われた。
師匠の追悼CDアルバムのリーフレットのなかには
師匠のこんなエッセイが紹介されている。

「出来ないのか、好きでないのか”力仕事”と名の付くものが、まったく苦手である。従って、こじつけやないが”努力”という言葉は大嫌いである。第一、2文字の中に”力”というのが2つも入っている。人間努力をすれば、何でもできる、一流になれる。まったくのウソではないか。ある素質、天分の上に努力をすれば開花されることもあろう。ファーストクラスに生まれかわることもできよう。思うに、これは先人があまり甘えないようにするための激励しったではなかろうか。それよりも、気楽に純粋に生きた方がずっと楽しい。いっけん、こちらの方がやさしそうにみえるが、こちらもなかなかむつかしいものですよ!努力しながら生きるか、気楽に人生を送るのか。ひとつ諸兄氏”リキ”まないで考えて欲しいですな」(原文ママ)


そんな師匠にぼくが肩凝りで悩んでいることを打ち明けると、
師匠は不思議そうにこう言った。

「わしな、今まで肩こりというものを
経験したことがないねん」


春蝶落語集リーフレット


あれから20数年経っても今だ肩凝り持ちのぼくは、
最近、近くの整骨院に足繁く通うようになった。
先生に言われるまま、腕を伸ばしたり曲げてみたり……
痛みの原因を突き止めるのにさほど時間は掛からなかった。
何らかの理由で首の骨の間が詰まっていたのだ。
それが神経を圧迫して左肩全体の痺れに繋がっていた。
数回通ううちにその痛みもすっかり取れ、
今は身体全体を整えるための施術に入っている。

院長である山岡洋祐先生は学生時代にはラガーマンとして活躍、
その怪我の治療をきっかけに整体に興味を持つようになったのだという。

山岡先生と400
大阪鴫野にある「城東整骨院」にて、院長の山岡洋祐先生と。

「城東整骨院」の公式サイトはこちらをクリック!


施術を受けながらいろいろ会話を交わすうち、
先生から「ヒモトレ」を薦められた。
これはバランストレーナーの小関勲氏が考案したトレーニングメソッドで、
ヒモ一本で身体のバランスを整えていくというものだ。
小関巌氏が武術研究家の甲野善紀氏と共に著した『ヒモトレ革命』のなかにこんなくだりがある。

小関「一般的にトレーニングとは補ったり、強化したり、増やしたりすることが共通認識としてありますが、その前提には足りない、弱い、少ないという潜在的な枯渇感がある。この枯渇感を満たしたいがために、ちゃんと”やってる感”が必要なんでしょうね」

甲野「”やってる感”というのは、不足している、弱い、少ないという貧困さから来ていますから、自分が元々持っている自然な働きに気付くという方向にはなかなか目がいきませんよね」

小関「ヒモトレで”なにもしていない”感覚があるということは、体にかかっている負荷が全身に散り、全身が連動してちょうど良く動いている証拠。その状態が理想なんです。余計な力が出ていないからこそ、身体に負荷がかかっていないんです。実際にアスリートたちが良いパフォーマンスを発揮できた時は、いかにも”やっている”という身体的な実感はないそうです

ゆるひも体操の本

……ぼくにも身に覚えがある。稽古で生じる喉が枯れそうな感覚。
これがまさに”やってる感”であった。
ぼくはこの感覚を覚えては満足していた。
先述の「そんなに頑張って喋らんでもええがな」という師匠のダメ出しは全くこれに符合している。

山岡先生は「これも受け売りですが」と断りながらこうも言われた。

「努力はいいんですが、
努力感というのが良くないですね」


うちの師匠も確かに努力は重ねていた。
でも、本人のなかに努力しているという感覚はなかったのだろう。
高座も普段も変わらぬ自然体があの飄々とした語り口に繋がったし、
余計な力を入れないという習性が「肩凝り知らず」にも繋がった
のだろう。

ぼくはこの整骨院で施術以上のものをいただいた。
身体が歪めば芸も歪み、身体が解放されれば力みからも解放される。
もしぼくがこの先、芸人として大きく化けることあれば
「その陰に山岡先生あり」と言えるだろう。

戦後のからだとことば、野口体操の本
山岡洋祐先生のお話を伺ううち、ぼくの愛読する『教師のためのからだとことば考』とも繋がっているように思えた。
そこで山岡先生に一冊進呈したところ、後日先生から『野口体操』の本を頂いた。
今、読みかけているところだが、「力を抜けば力が出る」の項に触れ、今いたく感動している。



この原稿は熊本のリフティングブレーン社が発行する『リフブレ通信』に連載させて頂いている
コラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。

『リフティングブレーン』の公式サイト


おもちゃ映画4、500
西洋や日本の無声映画、また、狂言、落語を通して、それぞれの身体性にも触れていきます。
ゲストの金久寛章氏は、舞台俳優であり、狂言師でもある。
『劇団四季』の研究所にも籍を置いていたこともあり、今回のテーマにはぴったりの講師。
もちろん、落語や狂言の上演もお楽しみいただきます。
座席は30席ほどしかないので、どうかお早目のご予約を願います。

上記イベントの詳細は、下記をクリックくださいませ。↓
第4回『花團治の咄して観よかい』



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プロフィール

蝶六改メ三代目桂花團治

Author:蝶六改メ三代目桂花團治
落語家・蝶六改め、三代目桂花團治です。「ホームページ「桂花團治~蝶のはなみち~」も併せてご覧ください。

http://hanadanji.net/

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