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281.その男、身軽で気軽で一本気~住所不定の落語家・立川こしら~

「旅するように暮らしたい」
まるでファッション誌のキャッチコピーだが、そう思ったことはないだろうか。
家など持たずに全国を旅しながら仕事ができたらどんなに楽しいだろう。
しかし、ぼくにはそれを実行に移す気力も体力も知恵も勇気もない。

が、ここに東西通じて唯一「住所不定」の落語家がいる。
つまり定住の地を持たず放浪しながら公演を続けている。

彼の名は立川こしら
1996年、立川談志門下の志らくに弟子入り、2011年に真打ち、脂ののった48歳だ。
10代の頃はロックバンドを組んだり、劇団を渡り歩いていたらしい。
そんな彼とぼくは名古屋の定席小屋「大須演芸場」で初めて一緒になった。

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名古屋・大須観音近くにある「大須演芸場」。
東京・名古屋・大阪の芸人が一同に見られる、日本で唯一の定席小屋だ。


年中旅暮らしだけあって余分なものは一切持たず、
必要な荷物も最小限度に抑えるためいろんな工夫がされていた。
なかでも着物は落語家にとって必須アイテムだが、
彼の着物は超極薄の生地(つまりペラペラ)で丈は膝ぐらいまでしかなく
袴を着けて高座に上がる。
丈が短いことで容量の問題だけでなく洗濯の乾きもずいぶん変わってくる。
その着物もレンタルコンテナに保管している。

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着替え中の立川こしら。鏡前はぼくの隣だった。

実は前から彼の噂を少しは耳にしていた。
「仮想通貨やITに滅法詳しいらしい」
「一時期休業して養蜂に勤しんでいたらしい」
「家がないらしい」…。

彼の著書『その落語家、住所不定。』(光文社新書)を読むと、
「かつては風呂無しのアパートから始まり少しずついい物件へと移り住んだ。
部屋には集めたフィギュアやバイクの修理道具…。

しかし、ある時目が覚めた。車やマンションは必要なのか?
なぜ窮屈なブランドもののジャケットを着ているのか?
…その原因は見栄だと気づいた。
それらを身にまとうことで
自分の成長を誇示しようとしていただけだ。
そもそも人を見た目で判断するようなヤツとは付き合いたくないと思っていたのに、
いつの間にか自分もそちらに取り込まれようとしていた」

…そこには彼が「住所不定」に至る過程が綴られていた。
彼は漠然とした価値観から抜け出すために身の回りから無駄を全て無くし、
ついに定住する場所さえそぎ落としてしまったのだ。

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立川こしら(向かって左)と筆者



彼は今感じたことをそのまま高座で笑いに昇華させる才に長けていた。
同時に彼は実に繊細な男でもあった。
高座で前に出た演者を話題にしていると、
そこへ当の本人が飛び出してさらに盛り上がるということが往々にしてあるが、
自分が演じている最中に他の演者が乱入することを嫌がる演者も多い。

ぼくはこしらの反応見たさに、
マクラで彼の衣装のことから住所不定のことまで散々にいじってやった。
すると案の定、絶妙の間でぼくの高座に割って入ってきた。

「もう、やめてくださいよ~!」と困った表情で苦情を言うこしらにお客は大喜び。
お約束通りというやつだ。
楽屋に戻ると、
「師匠がどういうスタンスの方かをずっと測ってました」と
人懐っこい笑顔で待っていた。

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最終日、こしらファンだという女性に呼び出され、
「こしらさんが伸び伸び演じていて嬉しかったです。師匠のおかげです」と礼を言われた。

こしらにとって初めての定席小屋出演。
「あれしちゃダメ」「これしちゃダメ」と
先輩から定席小屋での不文律を押し付けられるのではと心配していたのだろう。

日々のあれこれをYouTubeやSNSで日記のように発信するこしら。
彼のファンはまるで腕白な息子を見守る保護者のようでもあった。

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初日には「楽屋でカメラを回しても大丈夫ですか?」という打診があった。
「どんどんやってんか!」と応えたおかげで
うかつに鼻くそすらホジれない窮屈な日々を強いられてしまったが、
これほど刺激をたっぷりもらえて楽しい寄席暮らしもなかった。

帰阪してしばらくした後、贔屓客からある動画の存在を教わった。
「立川こしら・花團治」で検索するとすぐに見つかる。
その動画を見て、「これは一本取られた」と苦笑いするしかなかった。

「立川こしらのYouTube」花團治特集はこちらをクリック!

ホンマに面倒くさくてカワイイ男だ。(了)


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。





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280.ざこば師匠に「うっせぇわ!」~そのしつこさは、優しさの裏返し~

うちの女房が瞼の手術をすることになった。
その病院は遠方からの患者も多く、名医と評判の病院だ。
女房曰く、そこには先生が二人いて、一人は寡黙な男性で、
もう一人はかなりお喋りな女性。
女房の瞼は寡黙な男性が担当することになったが、
手術を目前にもう一人の先生が執拗なぐらい語り掛けてきたという。
「今日の昼ごはんは何を食べました?」という問いかけから始まり、
「パスタです」と応えると「なぜだか女性はパスタ、男性は蕎麦の人が多いのよね」

それから彼女は延々喋り続けたという。
手術前の大事な時に「一体何を考えているのだろう」と少しイラっとし始めた時、
彼女の口から手術の説明が始まった。

「最初はチクッと冷たい感じがして、
長い爪で抓られたような痛みを感じますが徐々に収まります。
それから途中ちょっと引っ張られる感じがあります。
暑かったり寒かったりというのは
緊張していると誰にでもあることなので遠慮せずにおっしゃってください」

この間も実際に執刀する寡黙先生はずっと黙ったままだが、
なおもお喋り先生の話は続いたという。

「今、先生は虫メガネのようなルーペで見ています。
ちょっと違和感あると思うけど我慢してくださいね」

そのあとも喋りは止まらず、
女房が「うっせぇ!」と叫びたくなるぐらいのレベルに達した時、
いつしかお喋り先生は去ってしまい、手術もすでに終わっていたという。

「あのとき執拗に語り掛けてくれたおかげで恐怖を感じる暇もなかった」と女房。
お喋り先生はただのお喋りではなく、
恐怖を取り除くため、あえてやっていたのだ。

蝶六、仁王変顔


師匠(二代目桂春蝶)が亡くなったとき、ぼくはまだキャリア10年の若手だった。
友人代表として弔辞を述べてくれたのが桂ざこば師匠。
無事に葬儀を終え、
末弟のぼくを含む弟子三人はざこば師匠の自宅までお礼に伺った。

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「花團治襲名披露公演」池田アゼリアホールにて・桂ざこば師匠(2015年4月26日)
撮影:相原正明


家の前までくると唐揚げやエビチリなど中華の美味しそうな匂いが漂っていた。
ぼくらのためにわざわざ用意してくれたのだろうかと
いささか卑しい気持ちでドアを開けると、ざこば師匠が神妙な面持ちで迎えてくれ、
「まぁ堅苦しい挨拶はええから、とにかく一杯やろか」とお酒を薦めてくれた。
奥様の手料理に舌鼓を打った。

しかし、師匠が亡くなってからというもの葬儀の段取りに追われて泣く暇もなく、
今だ事実を受け止められないまま。緊張のほどけない状況は変わらなかった。

そんな矢先、ざこば師匠がぼくに向かって
「春蝶やんのどこがよかったんや?」
と尋ねてきた。
ぼくは芸とか人間性とか当たり障りのない言葉で応えた。

するとざこば師匠は
「わしのところに(弟子に)
来た方が良かったんと違うか?」

となおも被せてきた。

そこから先はあえて喧嘩を吹っ掛けるような口ぶりでぼくを攻め続けた。

コンチクショウと思ったが、相手はぼくにとって雲の上のような人。
ずっと堪えていた。
しかし、酒の勢いもあってとうとうぼくは一線を越えた。

後は野となれ山となれ。号泣しながらぼくは叫び続けた。

「ざこば師匠が何ぼのもんじゃい!
うちの師匠が一番じゃ‼」


ざこば師匠の笑顔
花團治襲名挨拶まわり(ざこば師匠宅にて)
左から、桂福團治師匠、筆者、山田りこ(初代花團治ひ孫)、桂ざこば師匠



…とそれからしばらくして、ゴーという嗚咽が響いた。
涙を拭うと目の前にはぼく以上に涙で顔をぐしゃぐしゃにしたざこば師匠の姿。

「それでええ!それでええねん。
その気持ちを忘れるな!」


ざこば師匠はぼくのその言葉を待っていたのだ。
そのあと、そこにいた皆で号泣した。


ぼくにとって、
師匠が亡くなって初めて流した涙だった。


「気落ちせずに頑張りや」とか、
「大変やったなぁ」と声を掛けてくれる人は大勢いた。
けれども、ざこば師匠のような励まし方はざこば師匠ただ一人だった。

襲名披露、ざこば師匠と。
筆者と桂ざこば師匠

優しい言葉を掛ける人は多けれど、
本当に相手の立場に立って行動できる人はなかなかいるものではない。
それも嫌われるかもしれないという覚悟をもって遂行できる人はもっと少ない。


目の上に絆創膏を貼って少し痛々しい姿の女房の話を聴きながら、
本当の優しさについて考えさせられた。(了)



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



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花菱の会100回500

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279.叱るよりも、叱られたい~笑福亭仁勇兄を偲んで~

先日、スーパーで「仁勇」という日本酒を見つけた。
「じんゆう」と読むが、
思わず6年前に亡くなった笑福亭仁勇(にゆう)兄を思い出した。


仁勇兄はぼくより四つ年上で、高校の落語研究会の先輩でもある。
ぼくが落語家になるときも、真っ先に相談したのが仁勇兄だった。
以来、落語家になってからも何かにつけ、兄に報告した。

「弟子にしてもらいました」
「初高座が決まりました」
「師匠をしくじりました」

どんなことでもいつも穏やかに応えてくれた。
それはお小言の時も同じだった。
淡々とぼくのイケナイ点を示唆してくれた。

今思えば、ぼくは仁勇兄さんに「叱られたかった」のかもしれない。

叱られるのを承知で仁勇兄さんには何でも打ち明けてしまい、
案の定、「あぁやっぱり叱られた」
そこにはなんとも言えない喜びがあった。

仁勇兄と400
笑福亭仁勇兄と(2006年10月、堺おたび寄席の楽屋で)

「叱られて嬉しい」という感覚は師匠(先代春蝶)に対しても同じだった。
弟子にしてもらってすぐの頃は
師匠もぼくに対してまるで腫物を触るかのようにどこかよそよそしかった。

「こいつは打たれ強いやつか否か」
ぼくの資質を測っていたのかもしれない。

ぼくもまた弟子になったものの、まだその実感がわいていなかった。
兄弟子たちが師匠と談笑する姿を見て羨ましくて仕方がなかった。

だから、入門して十日ほど経ったある日、師匠に初めて怒鳴られた時、
ぼくはようやくその溝が埋められたような気がして
思わず満面の笑みを返してしまった。
もちろん、そこへも第二の爆弾が落ちた。
「何を笑ってんねん!」

しかし、師匠に怒鳴られたのはその後も数回のみで、
普段は実に穏やかな叱り方だった。

ぼくが叱られるのを覚悟で正座してる前に立ち、
まず「わかってるか?」と声を掛ける。
それから「言うてみぃ」と自ら反省点を述べさせ、
今後のどう努めるかまで発表させた。
そして最後に「次はないぞ」とポソッとつぶやいて向こうに去っていった。

「コイツは頭ごなしに叱っても無駄だ。
自分の頭で考えさせて、
改善策も自分で見つけさせなければ」

という判断だったのかもしれない。


春蝶の家族と共に
筆者の内弟子時代、師匠の家族と共に


一方、仁勇兄はというと、ぼくと一緒に考えながら諭すという感じだった。
「蝶六(ぼくの前名)はどうしたいねん?」と優しく問いかけながら、
「そうやなぁ」「なるほどなぁ」、あるいは「そうかなぁ」。

極力ぼくに喋らせながら時おり私見を挟んでぼくをたしなめた。
師匠と仁勇兄、双方に共通しているのは、
感情にまかせて怒鳴り散らすということがなかったということだ。

いつしかぼくを叱る人はいなくなった。
それだけぼくも歳を重ねたということだ。
そればかりか、立場上ぼくが後輩をたしなければいけないこともある。
こちらも意を決し「あの件やけどな」と切り出すと、
「あぁ、あれですね。はいはいはい…」と
まるで昭和のいるこいるの漫才のごとく、
こちらの言葉をさえぎりながら逃げるような態度を取る後輩もいる。

桜塚の落語家400
府立桜塚高等学校出身の落語家(左手手前から時計回りに、
桂雀五郎、笑福亭仁勇、四代目桂春團治(当時・春之輔)、筆者)




…とここまで書いて思い出したが、
ぼくも仁勇兄から一度だけとてもきつく叱られたことがあった。
その時言われたのは「人の話は最後まで聞け!」だった。

この後輩と向き合っていると、まるであの頃の自分を見るように思えた。
あの時、仁勇兄はしっかりぼくをたしなめてくれたが、
ぼくはもう叱る気力を失い萎えてしまった。
パワハラで訴えられるのもコワイし、「面倒くさい先輩」と嫌われるのもイヤだ。
改めて仁勇兄の存在の大きさを思い知るばかりだ。


この原稿を書いている二週間後の
12月16日が仁勇兄の命日。享年59だった。

この日はスーパーで仕入れた「仁勇」で献杯するつもりでいる。

純米吟醸仁勇400


叱ってくれる人が一人減り、二人減り…、
寂しいことやなぁ…としんみりしていると、
「アンタ、また靴下を脱ぎ散らかして!」とヨメはんの怒声が。
一番怖いのが居った!大事にせなあかんなぁ。


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



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278.ふるさとのリズム~身に沁みこんだ四拍子・心に刻む三拍子~

明治になって唱歌が日本の音楽教育の一環として取り入れられた。
何か新しいことを始めると必ず反対を唱える人が現れるのが世の常、
唱歌も御多分に漏れず。

「うさぎおいし、かのやま」で始まる「故郷」を小学校で合唱していると、
「学校で宗教教育をするとは何事だ!」
と怒鳴りこんでくる人がいたという。
唱歌が讃美歌に聴こえたのだろう。

夏目漱石「三四郎」にこんなくだりがある。
「三四郎はまったく耶蘇教に縁のない男である。会堂の中はのぞいて見たこともない。(中略)やがて唱歌の声が聞こえた。賛美歌というものだろうと考えた」


当時はキリスト教のことを耶蘇教と言った。
「耶蘇」は中国語の音訳語で、「イエス」という意味。
この教会が今も東京都文京区にある本郷中央協会で、
当時讃美歌の指導とオルガン弾きを務めていたのが「故郷」を作曲した岡野貞一
この歌にキリスト教の匂いを感じたとしても不思議はない。

ちなみに「故郷」の作詞をしたのは高野辰之で、
岡野とのコンビでは他に
「朧月夜」「春の小川」「紅葉」「春が来た」といった作品を遺している。


高野辰之、生家橋から400
高野辰之博士の生家近くの橋から見た風景


高野辰之、生家400
高野辰之博士の生家


高野辰之、生家看板400
高野辰之博士の生家は観光コースにもなっている。



仕事歌など民謡を含む日本の伝統音楽は
すべからく二拍子ないし四拍子である。

なるほど稲刈りなど「ヨイショ、ドッコイショ」といった動作は
このリズムでないと仕事にならない。

ちなみに、「お手を拝借~」と打つ三三七拍子も四拍子だ。
チャチャチャ・チャチャチャ・チャチャチャチャチャチャチャ
と手を打つ数は三三七でも、「・」の箇所に休みが入るので四拍子となる。


ぼくが若手の頃、もっぱらカラオケの司会で糊口をしのいでいた。
カラオケのスタートボタンを押してしばらく続く空白の間と歌の前奏を
ナレーションで埋めることがぼくの役目だった。

北島三郎『兄弟船』であれば、
「俺とお前の・兄弟船は/海の男の・親父の形見/どんな荒波・来ようとも/力合わせて・超えてゆく/網を引く手に・今日もまた/雪が舞い散る・兄弟よ」という具合。

ぼくのバイブルはテレビ時代劇「水戸黄門」で知られる
芥川隆行先生のナレーション集で、全て七五調。
でも、七五調とは言いながらナレーションの「/」の部分に間が入るので、
実際には四拍子に近いリズムの取り方になる。


ずいぶん前だが、ある会社のパーティーの式典で鏡開きの際、
司会者の女性が「“いちにぃさん”で参ります!」という掛け声の説明があった。
ぼくはその様子を下から見ていて少し心配だった。
すると案の定、木槌を持った方々のタイミングがずれて
ちょっと情けない絵面になってしまった。

「いちにぃのぉさん」と「のぉ」を入れて四拍子で打つ人と
そうでない人がいた。
もう少し説明を足すべきだった。
日本は元来、四拍子の国だと確信した。


fc花團治、はてなの茶碗、おうこ外し
筆者近影(撮影:坂東剛志)


このところ、ぼくはバロック音楽の室内楽の方々と
コラボレーションをさせてもらっているが、
ヨーロッパ舞曲の多くが三拍子。
また、お隣の韓国は『アリラン』からして三拍子。

アメリカやイギリスは国歌からして三拍子。

農耕民族は四拍子で、
騎馬民族は三拍子
という説があるがなるほど頷ける。

ある方の調べによると、日本の唱歌のうち、
三拍子はわずか一割ほどだったという。

しかし、そんななかにあって
冒頭に述べた高野・岡野コンビによる唱歌のうち、
『故郷』『朧月夜』は見事に三拍子なのだ。

日本は『故郷』という曲を通して
三拍子の身体を手に入れた
と言っては言い過ぎだろうか。

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「日本古楽アカデミー.」さんとのリハーサル風景



今年も「落語でたどるバロック音楽」企画で
『故郷』の作詞家・高野辰之先生ゆかりの長野県飯山に伺うことになった。

ご承知の通り、バロック音楽と教会音楽は密接な関係。
そこから讃美歌が生まれ、
冒頭に述べたように日本の唱歌に大きな影響を与えた。

今回も、バロック音楽から高野・岡野のゴールデンコンビへの足跡をたどる旅。
きっと締めは自然発生的に『故郷』の大合唱になるんだろうなぁ。
今から楽しみだ。(了)


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



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詳しくは、下記をクリックして、「飯山市文化交流館」公式サイトをご覧くださいませ。

なちゅら「飯山市文化交流館」

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277.神になった三代目春團治~拍手について考えてみた~

クラシック音楽の鑑賞で、
楽章と楽章の間で思わず拍手をしてしまい、
他の観客から舌打ちをされたり、
拍手のタイミングが早すぎて
失笑されたりという経験はないだろうか。
実はぼくがそうだった。

20代前半の頃、
出会って間もない知人が出演するというので参加したコンサート。
200人ほどのホールは満席で、
何とも言えぬ高揚感のなか演奏が始まった。
ぼくはこの感動を
少しでも舞台にいる奏者に伝えたいと大きな拍手を送り、
その洗礼を受けたのだった。


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クラシックコンサートの模様(下手の高座でナビゲーターを務めているのが筆者)



先日参加した能では、とある会社の周年記念ということもあって、
おそらく能の初体験者らしき方が多く参加していた。
上演が終わって演者が袖に引っ込むと、あちこちで囁き合う声。
「終わったのかしら?」
「拍手していいの?」


しばらくして、能楽師の先生が登壇しお礼を述べられた。
通常の公演ではありえない光景。
お客の反応に出ていかざるを得なかったのだろう。
能ではあまり拍手を聞いたことがない。
クラシック演奏会での失態を思い出したぼくは、
改めて「拍手」について調べてみた。


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谷町四丁目にある「山本能楽堂」の能舞台




日本で拍手(はくしゅ)の習慣が始まったのは明治以降。
それまで日本では、
拍手は「かしわで」であって、「はくしゅ」ではなかった。

能に限らず、狂言も歌舞伎も観客は
「はくしゅ」せず黙って会場を後にしたようだ。


明治になって西洋に倣い、「はくしゅ」が広まった。
明治39年に発表された夏目漱石の小説「坊ちゃん」には、
「(坊ちゃんが)教場へ出ると生徒は拍手をもってむかえた」
との記述があるから、この頃にはすでに浸透していたのだろう。


演劇評論家の郡司正勝は著書のなかで
「本来、神事芸能においては、
純粋的立場の観客は成立しえない」
としている。

「桟敷とか物見車といった、
簾や囲いで自分の姿を隠して覗き見するのが、
客の見物する方法だった」
という。


つまり、神事芸能はあくまで神に捧げるもので、
本来見てはならないものをお客はこっそり見ているという体。

なるほど能も本来は神に奉納するものなので、
「はくしゅ」しないことにも合点がいく。

能舞台にある松の背景画を「鏡板」というが、
これは舞台の前に松の木があって、それが「鏡」に映っているという見立て。
神が下りるご神木、
すなわち能楽師は神に向かって演じている。


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天神祭り「能船」の上で演じる能楽師


30年ほど前、三代目春團治師匠と共に
とある県境の辺鄙な村に行ったときのこと。
大人の背丈ほど雪の積もるなか駅に着くと、
車両の扉のところだけきれいに雪かきがされていて、
そこから改札に向かって赤い絨毯まで敷かれていた。

しかも師匠がホームに足を下すなり、
師匠の出囃子「野崎」がスピーカーから流れだした。

「日本一の落語家がやってくる!」というので村を挙げての歓迎だった。
思わずホームで深々と一礼する春團治。

師匠はぼくを呼んで怪訝そうにこう囁いた。
「これは君が仕組んだのかね」
でも、その表情はまんざらでもなさそうだった。

春團治師匠とツーショット
三代目春團治師匠(向かって右)と筆者(2018年)撮影:相原正明


その日の落語会では、百名ほどの観客がそれぞれ持参の座布団に座り、
ぼくらも爆笑の渦のなか落語を演じることができた。
そしていよいよトリの師匠を迎えようというとき、観客に異変が起こった。
それまでの楽な姿勢から正座に座り直し、
「はくしゅ」ではなく手を合わせ、
拝むように頭を下げ続ける村人たち。
滑稽ばなしなのに笑いもせず、オチの後も手を合わせ
「あぁ、ありがたや」とばかりずっと頭を下げ続けていた。

三代目師匠が神になった瞬間だった。


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伝戦落語「じぃじの桜」を演じる筆者(撮影:坂東剛志)


観客の立場でいうと、良い意味で「はくしゅ」をしたくない時もある。
映画や芝居でも放心のままその場に浸っていたいと思うことがある。
能で「はくしゅ」しないのは残心を楽しむためでもあろう。
冒頭に述べた舌打ちは余韻を邪魔されたという憤りであったに違いない。

…しかし、落語の場合は、オチの後にはドンドンと太鼓を鳴らして
想像の世界から一気に現実に戻っていただくことになっている。

どうかそれを合図にぜひいっぱいの拍手を。


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



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276.何これ?ポリコレ ~正義の顔した言葉狩り~

最近「ポリコレ」という言葉をよく耳にするようになった。
直訳すると、政治的配慮。

ディズニー映画では、これまで白人だったヒロインを黒人に変えたり、
同性愛者のキスシーンを入れたり…。
背景には「ポリコレ」問題があるらしい。

ディズニーランドでは「レディース&ジェントルマン、
ボーイズ&ガールズ!」という呼びかけが
「ハローエブリワン」に変わった。
アメリカの街角では、「メリークリスマス!」というフレーズが、
「ハッピーホリデーズ」に代わりつつある。
キリスト様以外の人々に対する配慮だということはいわずもがな。

「ポリコレの波が日本に押し寄せると、落語は一体どうなるのでしょう?」と、
ぼくの友人たちは心配するふりをしながら面白がっている。


誤解を恐れず申し上げると、
落語は「ステレオタイプ」で成り立っている。
亭主は亭主らしく、女房は女房らしく。商人も侍も然り。
話し方のみならず、手の置きどころや腰骨の入れ方(=姿勢)云々。
その人物像に合った態を作ることで、
観客が想像しやすいという構造になっている。


どうやら落語と「ポリコレ」は相性が悪そうだ。
明らかに蔑視を含んだ表現は問題外として、
ステレオタイプで表現される「差異」を全て否定されたら
落語はもう成り立たない。


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筆者近影(撮影:坂東剛志)



「差別」という問題でよく取り沙汰される「月見座頭」という狂言。
中秋の名月の宵、一人の盲人が
「せめて野に鳴く虫の声を聴いて深まる秋を楽しもう」と
一人静かに野に向かう。そこへ現れた一人の男。
「目が見えないのに、月見?」と不思議に思ったが、
「虫の声を聴く」という言葉に納得。
やがて二人はすっかり打ち解け、酒盛りを始めた。

夜が更ける頃、二人は別れの挨拶を交わし別々の方向に。
「あの男のおかげで楽しいひとときだった」とすっかり上機嫌な盲人。
しかし、それからしばらく行くと、
今度は一人の荒っぽい男に行き当たられ、罵倒と共に引きずり回された。

実はこの荒っぽい男は、
さきほど酒をふるまってくれた親切な男と同一人物
盲人と別れた後、急に心が変わり、
声を変えるまでしていたずらを仕掛けてきたのだ。
突き倒された盲人は「ああ、えらい目に遭った」とその場を去っていく。



安東伸元
「月見座頭」を演じる大蔵流狂言方・安東伸元師。
筆者もかつて20年間師事し、稽古をつけていただいた。




……この作品を問題にするのは
“盲人を笑いものにしている”という発想からくるものだろう。
しかし、狂言は喜劇である。
喜劇とは人間の愚かさを笑い飛ばす芝居を指すが、
この喜劇において「愚かだ」と笑われる存在は
明らかに突き飛ばした男の方である。
盲人を笑いものにしているのではなく、
盲人を弄った男の弱さ、
尊大さを笑っているのだ。


誰もが持つ、弱者をいじめる心情をしっかりと描くことで
見る人に問いかける優れた作品だ。

以前、この狂言を夜間高校の授業でビデオ鑑賞していた際、
神妙な顔つきで画面を眺めていた五十代の一人の男性が、

「自分の中にもこの男と同じような
性根が宿っていると強く感じた」
と打ち明けてくれた。

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筆者近影(撮影:坂東剛志)


上方落語には「喜六」という阿呆がよく登場するが、
彼を差別的に嘲り笑う作品はまずない。
彼を取り巻く環境には、彼に対する愛がある。

「しゃあないやっちゃ」「憎めんやっちゃ」という受容の精神を周りが持つことで、
彼は生き生きと輝きだす。
なおかつ彼は、そのコミュニティーの潤滑油を担っている。
彼と関わる人たちが、彼を見下すようなことは決してないのである。


「ポリコレ」は、単なる「言葉狩り」よりもっと厄介な問題になるかもしれない。
けれども、行き過ぎた「ポリコレ」は文化を滅ぼす可能性があることは間違いない。
「月座座頭」のような、
弱者をいじめる者をしっかり批判している優れた作品さえも封じることは、
世の中に実際に起こっているイジメについて
「なかったことにする」のと同じことではないか。

大事なのは「何を笑うか?」ということ。
ここさえしっかり守っていれば、ポリコレの波など屁とも思わない!
…と思いつつ、内心ちょっと怯えている今日この頃。(了)


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



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275.六十の手習い ~花團治、レクリエーション介護士になる~

ぼくの師匠(二代目桂春蝶)は、弟子を叱るとき、
くどくど小言を重ねる人ではなかった。
ぼくが何かしくじった時、何がどういけなかったのか、
これからどう努めていけばいいのかを自分の頭で考えさせ、
それを自らの口から言わせた。
それをひとしきり聴いた師匠は、最後にひと言だけ「次はないぞ」と呟いて
その場からスッと立ち去っていく。

もしも師匠が矢のように小言を浴びせる人だったら、
ぼくは反省どころか反発していたかもしれない。
師匠はぼくの性格を見抜いていたというより、
おそらく過去によほど嫌な経験をしたのではないか
…とぼくはそう推測している。

師匠は咄家になる以前、サラリーマンだったのだが、
その頃師匠がどれほど辛い思いをしたか、
師匠が当時通っていた飲み屋の女将から聞いたことがあるからだ。

春蝶の家族と共に
師匠の二代目桂春蝶とその家族、後ろ(向かって右手)に立っているのが筆者


ぼくにはサラリーマンの経験こそないが、
学生の頃はバイトに明け暮れる毎日だった。
レストランでウエイターをしていた時、
その店長は叱り出すと止まらない人だった。

ぼくはただひたすら頭を下げ、嵐が過ぎるのを待った。
反省どころか、ぼくの頭の中は
「早く終わってくれないかな」という思いしかなかった。
それゆえ、何を叱られたかまるで記憶にない。

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筆者(撮影:坂東剛志)


つい最近、ぼくは「レクリエーション介護士」講習に参加した。
もちろん咄家を辞めようという気は毛頭ない。
敬老会をはじめ、お年寄りと接する機会が多いので、
スキルとして何か身につけたいという思いからだった。
試験に合格すれば「レクリエーション介護士2級」の資格がもらえる。


講義は計12時間、二日にわたって行われた。
当初、ぼくは長時間黙って椅子に座っていられるだろうか心配だった。
ましてや受講生はぼくを入れて二名(もう一人の受講者である女性は、
前回は希望者が一名で開講されなかったので、今回のぼくの参加をとても喜んでくれた)。

居眠りでもしようものならこんな失礼なことはない。
しかし、それは全くの杞憂に過ぎなかった。
講師はレクリエーションのプロ。対話を重ねつつ、
時おりゲームや体操に興じながら時間はあっという間に過ぎていった。

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講師の小関健太郎先生

レクリエーションは単なる娯楽や余興にあらず。

語源は「re-creation」、「re(再び)」と「creation(創造)」の組み合わせ。
つまり「再創造」、壊れたものが創り直される、
疲労を回復して元気を取り戻すという意味だ。

気温38度という熱中症が危惧されるなかでの日程だったが、
終了時にはすっかりぼくはリフレッシュしていた。
講義そのものがレクリエーションだった。


講習を終えて自宅までおよそ90分、
ぼくは電車に揺すられながらこの日学んだことを反芻していた。

「非言語的コミュニケーション」「相手が何を求めているのか」
……言われてみれば全く当たり前のことかもしれない。

固い心や雰囲気を解きほぐすため、
最初に行う「アイスブレイク」などは落語でいうマクラそのものだが、
レクリエーション介護士から学ぶそれはとても新鮮に感じた。

「レクリエーションの前にはなぜそれを行うか、
根拠と理由を伝えましょう」というくだりでは、
現在老人施設に入っているある恩人の、
「いきなり子どものお遊戯みたいなことをさせるんや!」というボヤキを思い出し、
つい笑ってしまった。

「介護の世界では指導ではなく支援」という言葉には我が師匠を思い出した。
教え導くという「指導」と、相手の能力を生かすための「支援」
もちろん落語家の世界では双方ともに大切。

お稽古をつけるのは基本的に「指導」だが、
冒頭の「自分の頭で考えさせる」といった対応は「指導」というより「支援」に近い。
そう言えば、師匠は「わしの真似ばっかりしててもアカンぞ」ということを、
口を酸っぱく言っていた。

…講義の後には、当然ながら試験があったが、
なにぶん「テスト」なんて数十年ぶりのこと。

いつもと違う緊張感を味わった。まさしく脳みその再創造。
今はただ「レクリエーション介護士2級」の合否結果を待つばかりである。(了)


追伸:このたびめでたく合格することができました。

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fcリクリエーション介護士2級認定証_convert_20230831135816



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



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274.じぃじの桜(兵庫県勤務医ニュースより)

大阪城公園に桜を増やそうと大阪市が始めた植樹事業。
3年前に亡くなった生前の義父もまとまった額の寄付をした。
おかげで、2年程前に植えられた桜のプレートには、
ぼくや女房、ムスメの名前も刻まれた。
自宅からも近く、散歩がてら時おりここを訪れる。
二三日ほど前までつぼみだった桜もこの日、見事に満開。
ぼくの家族はこの桜を「じぃじの桜」と呼んでいる。

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じぃじの桜の前でムスメと。

コロナ禍が一区切りついたこともあるのだろう。
今年は外国人観光客の姿がよく目立つ。
複数の言語が飛び交い、「国際交流」という言葉が相応しい光景。

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大阪城公園で桜に見とれる園児たち

78年前、ここが火の海に包まれていたなんて信じられない。
じぃじが生まれたのは81年前、1942年(昭和17)。
太平洋戦争で日米最初の戦いとなった、あの真珠湾攻撃の翌年。
日本は戦勝ムードに浮足立っていた。
1945年(昭和20)8月15日にようやく終戦を迎えたとき、じぃじは3歳だった。
大阪城公園界隈が大空襲に見舞われたのが、終戦の前日8月14日。
この地にあった日本最大規模の兵器工場「大阪砲兵工廠」が狙われたのだ。
大阪城公園の敷地内に建てられた平和施設「ピースおおさか」に
当時の悲劇が克明に再現されている。

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廃墟となった大阪砲兵工廠(ピースおおさか)


義父の戦争の記憶は、まだ幼かったためほとんどないに等しいが、
爆弾によってできた大きな水だまりで遊んだ話を
豪快に笑いながら話してくれたことがあった。
そんな義父でも「ピースおおさか」には決して足を踏み入れようとはしなかった。
爆撃音の再現がつらいという。打ち上げ花火が大の苦手だった。
実際に体験したからこそ避けたくなる。
戦争を後世に伝える難しさがここにある。

義父と400
義父(向かって右)と筆者


ムスメがもう少し大きくなったら、「じぃじの桜」の木の下でじぃじの思い出と共に、
戦争の話も伝えていこうと思う。
戦争のことをほとんど語ろうとしなかった義父だが、
「この地に桜を遺した」ことに強い「願い」を感じる。
つくづく見事な遺産だ。
この桜が未来永劫ずっと咲き続けていられる世の中でありますように。(了)


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兵庫県勤務医ニュース2023年6月掲載


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273.ダルマの伝言~市民はいつも知らされない~

明日にでもウクライナのサポリージャ原発が
攻撃されるというニュースが飛び交っている。
すでに周辺住民は避難を始めているというが、
管理する職員など役目上残っている者もいる。
今、どのような心境でそこにいるのだろうか。

大阪空襲、戦闘機400
大阪大空襲(ピースおおさか)


ぼくの父方の祖父は、父がまだ幼い頃に亡くなっている。
それも牢獄死だと聞いたのは、ぼくが小学校に上がって間もない頃だった。
戦時中、戦争反対の言論を唱えたとかで、アカと呼ばれ拷問に遭ったらしい。
これについての証拠は何も残されていないが、
何度も同じ話を父から聞かされたのでおそらくそうだったんだろう。

ぼくの名づけ親だという人も
憲兵にひどい目に遭わされたらしく両手両足がなかった。
眉毛が濃く一見強面のおじさんだったが、
言葉少なく目の奥はなんだか穏やかだった。
しかし、子どもというものはひどく残酷なもので、
ぼくはその男性のことを面と向かって「ダルマのおじさん」と呼んだ。
おじさんはそれに対して怒ることはなかったが、
少し寂しそうな笑みを浮かべていたことだけはうっすら覚えている。

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筆者(撮影:坂東剛志)

先日、兵庫県保険医協会が主催した
「落語家&弁護士が語り継ぐ大阪空襲
〜空襲の悲劇、そして「防空法」とは…?」
という講演会が開かれた。
ぼくが創作落語「防空壕」を演じ、
大阪空襲訴訟に携わった弁護士・大前治先生
スライドを用いながら「防空法」について語った。

「防空法」とは、
「空襲から逃げずに焼夷弾へ突撃することが国民の義務」とする法律。
当時、学童疎開は広く実施されていたものの、
一般的には疎開が認められていなかった。

今なら「なんと言われようとも
早々に地方に逃げるべきではなかったか」と言う人もあろうが、
そんな簡単な問題ではなかった。
物品の多くが配給制の時代、逃げた先で食糧を確保できるかどうか、
また何より「非国民」と後ろ指を指されるのは想像に安易かった。


あの頃、なぜ「防空法」という愚かな法律が制定されたのだろう。
それはもちろん戦争遂行者である当局の勝手な都合。
当局が最も危惧したのは反戦感情が盛り上がることだった。
戦争を継続するためにもこれだけはどうしても食い止めねばならない。
それに疎開を認めると、都市部で軍需生産にあたる労働人口が流出してしまう。

だから、躍起になって町に住民を押しとどめた。
驚くべきは、昭和15年に政府が発行した冊子「防空の手引き」で
「焼夷弾は消火できない。落下と同時に発火爆発する」と書かれていたのが、
その翌年の冊子「時局防空必携」では「焼夷弾は簡単に消せる」とあり、
「焼夷弾はシャベルですくい出せ」
「水をかけて消せ」
といった文言が続いている。

もちろん現実はそんなものではなく、
焼夷弾の投下によって一面火の海になったことは言うまでもない。

大前先生と400
大前治先生(向かって右)とツーショット。


「防空法」について大前先生が詳しく書いておられます ↓ ↓ ↓
◆防空法についての詳しくはこちらをクリック!


80年前の日本では、国民の多くは
まさか自分が空襲に見舞われるなど思わなかった。
たとえ爆弾が落ちようともすぐに消せるぐらいに思っていた。
前述の冊子のような、当局による意図的な嘘の情報が流されていたからである。
一部の有識者はすでにそれを見抜いていたであろうが、
そのことを口にすればすぐに牢獄に連れていかれた。

SNSが発達した現在、あの頃とはずいぶん状況も違うだろうが、
今、ロシア国民はどう思っているのであろうか。
ロシア国内からもっと「戦争反対」の声を上げるべきという人もいるが、
今のロシアではなかなかそれがままならないのが現状だろう。

知人から聞いた話だが、
日本在住のロシア人が
「戦争反対なんて、
そんなこと怖くて口にできないよ」と言っていたという。

ロシアの今は当時の日本を再現しているかのよう。
しかし、しかしである。あんな悲惨な終結は絶対にあってはならない。

日本の大失敗に学んではもらえないものか。

……最近、あのダルマのおじさんが夢に現れるようになった。

やはりどこか寂し気である。(了)


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。




戦争を伝える落語 第3弾 
2023年9月9日 繁昌亭朝席 上演

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272.黒歴史という財産~”弱さ”は身を助ける~

もし、ぼくが吃音じゃなかったら、きっと落語家になっていなかったし、
教壇にも立っていなかった。
吃音になる要因はまだ解明されていないらしいが、
幼児期に大きなストレスを体験するとか、
左利きを右利きに強制されたことが引き金になることがあるという。
3歳の頃に実母を亡くし、もともと左利きだったぼくはその両方に当てはまる。

それにぼくはひどいチックで、今も高座に上がって座布団の上でお辞儀をしながら、
お客にわからないように顔をしかめるのがぼくのルーティンワークになっている。
チックは注意欠陥や多動性障害と合併することが多いらしいが、
これもぼくは見事に当てはまっていた。小学生の頃の通信簿には
「落ち着いて行動しましょう」「自分勝手な行動はさけるように」という
担任からの文言が並んでいる。

今でも忘れられないのは、終礼の時間のこと。
日直の「起立!」という号令と共に全員が立つのだが、
その声が聞こえているにも関わらず、ぼくは座ったままずっと外の景色を眺めていた。
級友の「森くん(ぼくの本名)がまだ座っています」という言葉に、
担任がこう言い放った。

「放っておきなさい。
この子は普通の子やないから」


このことを機にぼくに対するイジメはひどくなった。
いわば先生公認のいじめられっ子になったのだ。


ちょうどその頃、クラスでお楽しみ会という芸能発表会が催された。
「気の合う者同士」で4・5名のグループを作りなさいという担任の指示のもと、
皆がそれぞれに組を作りだした。
しかし、いじめられっ子のぼくを入れてくれる友人などなく、一人取り残されたと思った。
が、その時ぼくと同じような境遇の男子が目に入った。
ぼくは彼と二人で漫才をすることになった。
吃音のぼくは口の周りが形状記憶になるぐらい稽古した。
本番の様子などまるで記憶にないが、よくウケたことだけははっきり覚えている。

ただ笑われてばかりの存在が、笑わせることを覚えた瞬間だった。
以来、ぼくは芸人に憧れるようになった。


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毎日新聞(2020年2月3日)


落語を知ったのは高校生になってからだが、
この時に抱いた思いが今もぼくの土台となっている。

落語は愚か者を受け入れるばかりでなく、コミュニティーの中心に置く。

「しゃあないやっちゃなぁ」
「相も変わらずオモロイやっちゃ」


落語のなかのそんな台詞は全てぼくへの祝福だった。

ぼくは落語の世界に居場所を見つけた。


いっちょもみざくら
落語に居場所を見つけた高校生時代(向かって、左から二番目が筆者)


先日、ぼくはとある吃音教室の特別イベントで講演する機会を頂いた。
熱心な聴衆のおかげでおおいに盛り上がり、
講演後には急きょ懇親会の場が設けられた。
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酒を酌み交わしながらそれぞれの話は尽きず、
「ドモリもけっこう喋るんですよ」
には思わず笑ってしまったが、
感心させられたのはお互いに次の言葉をちゃんと待っていることだ。

他の座なら一人が詰まった時、
他の誰かが言葉を被せるように割って入ることが多々見らるが、
吃音の集いは聴き上手の集まりでもあった。

それに何より嬉しかったのが、
竹内敏晴「ことばが劈(ひら)かれるとき」や岩井寛「森田療法」といった本が
ここでは皆の共通言語だったこと。
どちらもぼくが発語に悩みながら夢中になって読みふけったもの。
竹内は幼児の時に耳を病み、言葉を満足に発することができなかったが、
後には演劇の世界で演出家として名を成し、
「竹内メソッド」と呼ばれる演劇バイブルを遺している。
岩井は「あるがまま」に代表されるメンタル・ヘルスの実践法を世に広めた。
思わずぼくも饒舌な一夜となった。

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これらの本が吃音教室の懇親会で話題にのぼった


もし、ぼくが小学生の頃、皆とフツーにつるんでいたら
落語の優しさを前に素通りしていただろうし、落語家になろうと思わなかったろう。
大学や専門学校、夜間高校といった教育機関に立つようになってかれこれ25年以上経つが、
もしぼくに発語の悩みがなければ、今のカリキュラムは成り立たなかっただろう。

あの頃の黒歴史がぼくにとって誇りであり原動力になっている。
最強のブラックカードである。(了)


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。


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271.戦う女子のヒストリー~我が家のプリキュア攻防戦~

我が家のチャンネル権はすっかり5歳のムスメに制圧され、
家族そろってテレビを観ることが当たり前になった。
今夢中になっているのは「ひろがるスカイ!プリキュア」という少女向けアニメ。

戦士に変身した女子中学生が、
破壊活動を繰り返す悪者に立ち向かっていくというストーリー。
そんな「プリキュア」に、つい先日の放送回で大きな異変が起こった。

5歳のムスメは自然に受け止めていたが、
昨年還暦を迎えたぼくには、
とても画期的で歴史的一大事に映った。もちろん良い意味でだが。

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プリキュアになりきる筆者のムスメ


「戦う女子」アニメで、ぼくと同世代の者が真っ先に思い浮かべるのは
「リボンの騎士」(1967~1968年)だろう。

おそらくこれが「戦う女子」アニメの最初だった。
この後に「キューティーハニー」(1973~1974年)、
「美少女戦士セーラームーン」(1992年~1997年)、
「プリキュア」シリーズ(2004年~)と続いている。


「リボンの騎士」が後続のヒロインたちと決定的に違うのは、
女子なのに男の姿を借りて戦ったという点。

「女は守られるものであり、
闘う存在ではない」という意識

根っこにあったのだろう。
続く「キューティーハニー」は男装とは真逆のお色気満載な衣装。
女の子向けというより、明らかに「男性が喜ぶ」ことを意識していた。
当時小学生だったぼくは、アニメなのに親に隠れるように見ていた。
それが「セーラームーン」になると、
女子中学生の制服をアレンジした衣装になった。

このアニメが最初に放映された頃、社会はバブルが崩壊し、
男子が女子にお金をかける時代が終わった。

かつての「女の子はこうあるべきだ」という
ステレオタイプからの脱皮
が、
「セーラームーン」や「プリキュア」にも反映されたのだろうか。


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「リボンの騎士」と筆者(宝塚市立手塚治虫記念館にて)


「プリキュア」シリーズの第一弾「ふたりはプリキュア」の放映が始まって以来、
シリーズとしてはそれから20年近く続いていて、
「トロピカルージュ!プリキュア」「デリシャスパーティー♡プリキュア」といった具合に、
その年ごとにバージョンが代わっていくが、
「女の子が変身」するという当たり前はシリーズを通して、
「ひろがるスカイ!プリキュア」の今もずっと変わらない。

ところが4月2日、すでに登場していた女子二人のプリキュア戦士に続いて、
ついに男の子のプリキュアが誕生したのだ。



三人が力を合わせて戦う姿は実に自然で、
大切なものを守る行為に男も女も関係ない。
そんなごく当たり前のことに改めて気づかせてもらった気がした。

ぼくの子どもの頃には実写の「仮面ライダー」が流行り、
皆が「ライダーごっこ」に興じたものだが、
それは男の子の遊びで女の子はその傍らでままごと遊びというのがお決まりだった。
これからは「戦闘ごっこ」も「ままごと」も性差に関係なく
やりたい子がする、が当たり前になるだろう。


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変身を試みる筆者のムスメ



突出した個(ヒーロー、ヒロイン)が活躍するというのではなく、
仲間が協力し合って初めて力が生み出されるというのが
「プリキュア」の世界。それぞれの個を大切にしつつ、
お互いが足りない面を補って…というと、
何だか説教臭く、「道徳の教科書みたい」みたく思われるかも知れないが、
このアニメで育った子どもたちが次代を担っていくことを思うと、やはり頼もしい。


ただひとつ、このアニメの難を言えば、
キャラクターグッズ販売の商魂がたくまし過ぎることだ。
すでに、我が家にはプリキュアの衣装に加えて
ティアラにイヤリング、さらには変身バトンまで揃っている。

なのに、アニメの途中に挿入されるコマーシャルでは
毎度「新グッズ登場」と宣伝され、その度にムスメの「これ買って!」攻撃が始まる。

親の小言には馬耳東風でも、プリキュアの呼びかけには素直なムスメ。

…登場人物の一人に
「何でもかんでも欲しがってはダメ!我慢も必要よ‼」と叫んでもらえないだろうか。(了)


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。




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270.男の井戸端会議~落語家ミドルチーム奮闘記~

それにしてもつくづく我々はお喋りな連中である。
その日の議題は、いかに寄席小屋へお客様に
足を運んでもらうかということだった。

大阪市西区・千鳥橋「此花千鳥亭」という寄席小屋で、
毎週木曜日のお昼に開催している「ミドルチームによる木曜寄席」。
芸歴25年から40数年の12名が毎週3名ずつ順繰りに出演している。

しかし、コロナ禍以降、観客動員が芳しくなく、
このままでは存続が危ういという危機感が漂い始め、
その対策について一同が集まって話し合いを持つことになったのだ。

「女の話は長い」という答弁で日本中から大顰蹙をくらった政治家がいたが、
長いのは何も女性に限ったことではない。
ノーアルコール・ノーフードにも関わらず、あっという間に4時間以上が経過。
それも9割近くがどうでもいい無駄話
段取りよく会議を進めたならば、おそらく30分もかからなかっただろう。

脱線を繰り返しつつ、お互いのトークにずっと笑いどおしで
すっかりハイになったメンバーのうち数名がそのまま酒場へ繰り出し、
翌日は二日酔いに苦しんだという土産までつく会議だった。

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思えば、この会のメンバーが入門した20代の頃、
大阪に定席の寄席小屋などなく、
ぼくを含めメンバーのほぼ全員が入門時、それぞれの師匠から
「落語をする場所もないし、なかなか食えるもんやないで」
ということを言われている。
それでも落語が好きという一心だけで、
覚悟をもってこの世界に飛び込んだ。

そして(内弟子期間の)年季を終えるやいなや、
それぞれが落語会の会場を探し求めた。
お寺や公民館といった定番の会場のほか、居酒屋や喫茶店、整骨院…。
外食時に店に入るなり落語家が必ず行うのは、
その場所が落語会をするのに相応しいかどうかという値踏み。
「あそこを楽屋にして、ここに高座を持ってきて、
詰めたら50名はお客さんを入れることができるやろな」と考えてしまう。
これはもう職業病といっていい。

いざ会を始めるのだって、高座づくりに始まり、
椅子を並べ、照明のトラスを組み…、
開演前にはすでにヘトヘトということもざらだった。

そんな経験を嫌というほど経てきている連中だから、
毎月決まって出演できる
定席の小屋を失うことだけはどうしても避けたかった。


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話し合いの大半は無駄話とはいえ、寄席への思いはみんな真剣そのもの。
「とにかく会は存続させなあかん」
「寄席の出番が減ると口が錆びてしまう」。
そんな意見が飛び交った。
「現状が好転するまで出演料は返上してもいい」という声もあった。

男の井戸端会議も捨てたもんじゃない。

あの4時間のお喋りは、
お互いの価値観目的意識を確認しあう作業でもあった。
ちょっとした危機感が皆をひとつにしたのだ。

結果、番組構成や宣伝方法に工夫を加えることはもちろんのこと、
地域の住人に周知するため、チラシを各戸に入れて回ることにした。
SNSを使うことももちろんだが、寄席の立地条件や客層を考えると、
このベタ過ぎる方法が一番効果的だと確信した。

fc木曜寄席、ポスティング400

ポスティングの当日、配布のために集まったミドルチームの面々、
総勢10名の落語家の顔にはどことなく高揚感が漂っていた。
ジャンバー(ブルゾンではなくジャンバーといった方が相応しい)姿にキャップを被り、
それぞれがすっかりポスティング業者になりきっていた。
ぼくもまた一番歩きやすい靴をチョイス。

誰がどこをどう配布するか?やってはいけない行為は何か?
他人に怪しまれたらどう応えるか?等々をお互いに確認する。

その光景を撮った写真を後から見た嫁からは
謎の売人集団みたい」と笑われた。

確かに、ぼくたちは異様な雰囲気を漂わせた、
怪しいグループに見えたに違いない。

若手時代には開催地の周辺によくポスティングして回ったものだが、
あの頃にはなかったワクワクを感じている。

われらオッサンたち、
今、妙に燃えてまんねん。



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
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fc木曜寄席2023年4月~6月500

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269.公共の授業~論破で未来は創れない~

ぼくの夜間高校での落語の授業は、
ぼくの実演の後のディスカッション
重きを置いている。

落語の内容の背景にある価値観や文化など
テーマはいくらでもある。
井戸端会議のノリで終わるときもあれば、
喧々諤々の意見が飛び交うこともある。
ぼくの履く雪駄から、日本の摺り足、
西洋のバレエにまで話が及んだことも。
芸能のルーツから祝祷芸、八百万の神へと話が広がったときは、
キリスト教信者の生徒の一人が
「神様は一人だから先生の言うことはおかしい」と主張し始めた。
これはこれで宗教観の違いが浮き彫りとなり、
次の授業では「祝詞」と「誓いの言葉」を比較した。

落語のなかの価値観や単語が差別的だとして
やり玉に挙げられることもあるが、
「“古典落語だから仕方がない”
という言い訳
だけは絶対にしない」
というルールを自分に課している。

間違っていようがいまいが、
意見を自由に出し合う場を大切にしたいからだ。


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実はずいぶん前、ぼくはたいそう落語好きの教員と組んで
落語の授業をしていたことがあった。
その教員は自分の美学や考えを決して曲げないところがあり、
それはそれで結構なのだが、
相手が自分の考えと違えば折伏しようとする癖があった。

議論で相手を打ち負かし、
したり顔でほくそ笑むさまはあまりいいものではなかった。
相手の生徒も納得したわけではない。
反論するのが面倒になったというのが本音だろう。
ぼくはといえば、「議論に打ち負け、恥をかくのは嫌だ」という狭い了見から、
何も言えずに黙ってしまった。

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筆者:桂花團治(撮影:坂東剛志)


この時に感じた情けなさが、
ぼくがディスカッションを大切にしたいと考えるきっかけになった。

とはいえ、意見を出し合う授業というものは“言うは易く、行うは難し”。
どうしても説得・論破をしたくなる。

だから、旧知の近畿大学教授・中谷常二先生から
「討議事例から考える公共の授業」(清水書院)を見せられたときには心底驚いた。

ぼくはこういう教えを探していた。

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聞けば、昨年から「公共」という科目が高校の授業に加わったのだという
(「社会科」が30年近く前に消えていたのも知らなかった)。

「公共の授業」とは、文科省が発表した学習指導要領をぼくなりに解釈すれば、
世の中のいろんな問題を
皆で「ああでもない」「こうでもない」と意見を出し合いながら「探求」を深め、
その過程で「倫理」「政治・経済」についても学んでいくというものだ。

中谷教授の専門はコンプライアンスやリスクマネジメントで、
ずいぶん前から他の教授や中高の教諭と共に
公務員倫理を研究する勉強会を立ち上げていた。
そんな折、この会が取り組んでいるテーマと
同様の科目が新設されることを知り、刊行に至ったのだという。
いわば「公共の授業」の教材となる本だ。

ここで扱う事例は、高校生が日常生活で直面するジレンマや、
馴染みのある現代社会の課題ばかり。

例えば、
「文化祭で全員参加の演劇をすることになったが、
役割ごとに準備することが山ほどあり、
ホームルームだけでは時間が足りなくなった。
そこでクラス全員がスムーズに連絡を取り合う方法として
SNSを使うという案が出た。
しかし、クラスにはスマホを持たない生徒が二人いる。
授業のあとにクラス全員が集まって10分間の打ち合わせを行うという案も出たが、
時間の無駄が生じるなど反対意見が多数出た。さて、どうする?」


というところから様々な意見を交わしつつ倫理学を学んでいく。

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筆者と中谷教授(向かって右)

◆「近畿大学経営学部・中谷常二の研究室」はここをクリック!


最近、論破王「ひろゆき」さんが賞賛されているが、
ぼくはどうも好きになれない。
でも、「公共」という科目が少しは違う方向に持っていてくれるかもしれない。
違和感を抱きながらも口をつむっていた、
ぼくのような小心者も少しはモノが言えるようになるかもしれない。

世の中の大半に正解など存在しない。

…あぁ、ぼくもこんな授業を受けたかった。
そんな思いで、今、この「公共の授業」という一冊を貪るように読んでいる。(了)


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。




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268.パワハラマンション~壁に耳あり、近所にヒヤリ~

最近、我が家の周りはマンションの建設ラッシュだ。
古い空き家が解体されるやいなや、
ひょろっと細長いワンルームマンションが建つ。
背景には、二駅先への大学キャンパス誘致の決定と、
2025年開催の大阪万博があるようだ。

確かにここは万博会場へ通うに便利な場所なので、
建設従事者やパビリオン関係者の常駐・宿泊先にもってこいだ。
まだまだマンションが必要らしく、
ご近所さんの元にも土地売却の話が頻繁に持ち込まれているらしい。

「わたし、このような者ですが…」
ビシッと決めたスーツ姿で、大手不動産会社の名刺を差し出す営業マン。
「今、あちらのマンションを建設中でして…」
これを聞くなり、ご近所さんははっきり断ったという。

「おたくにだけは絶対売りまへん!」


ご近所さんが拒絶した理由、
それは建設中のマンションの施工業者のマナーにあった。
例えば、現場の前を通るたび聞こえてくる罵倒の声。

「おいこらオッサン!
お前、何年この仕事をやっとんねん!
もう引退したらどうや!」



蝶六、仁王変顔


……現場のミスは命取りになるだろうから
口調がキツクなるのも当然かもしれない。
とはいえ、あまりにも酷い言いぐさ。
怒鳴っているのは2~30代の現場責任者らしき兄ちゃんで、
怒鳴られているほうは初老の作業員。
あまりに頻繁に聞こえてくるので、
いつしか近隣ではパワハラマンションと呼ばれるようになった。

それに加え、ゴミ処理の雑さ。
小学校や幼稚園にも程近い現場の前には、
いつも無造作にコンクリートとプラスチックの混在した瓦礫、段ボールなどが
無造作に積まれていて、いつ崩れて事故につながってもおかしくない。


もちろんそんな建築現場ばかりではなく、
そこから百メートル離れたところの別の施工業者の現場では、
いつもゴミが整理整頓されていて、どの作業員も礼儀正しい。

「あっちのマンションの会社やったら考えてみてもええけどな」とは
件のご近所さんの弁。
施工業者のマナーが、新規マンション建設のチャンスを不意にしたというわけだ。


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筆者(桂花團治)も昨年に還暦、芸歴40年を迎えました。(撮影:坂東剛志)


住宅密集地に住む以上、工事の騒音は致し方ない。
我が家も数年前に大規模なリノベーションを行い、
近隣の方々にかなりご迷惑をお掛けした。
担当してくれた施工業者はご近所へのご挨拶を丁寧に行うだけでなく、
日々のきめ細やかな掃除、そして喫煙時は少し離れた指定の場所まで足を運ぶ、
などしっかりマニュアル化されていた。

「徹底してますなぁ」とぼくが声を掛けると、
「わたしら工事が終わったら次の現場ですけど、
森さん(ぼくの本名)はこれからもずっとですから…」と
リノベーション専門業者だからこその
「住み続ける人」への気遣いにあふれていた。

現に、その様子を目にした人から「うちも紹介してほしい」という言葉をいただいた。

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我が家を担当してくれたスタッフの皆さんとうちの家族

◆大阪市北区・天満駅近くにある「シンプルハウス」さんが
とても素敵な稽古場兼住居を作ってくださいました。(下記URLをクリック)

https://www.simplehouse.co.jp/works/20200923-4/



ぼくが師匠のもとに入門した二十歳のとき、
師匠からまず言われたのは「評判」ということだった。

「どれだけええ落語ができても
評判の悪いやつはアカン」


挨拶や言葉遣いは言うに及ばず、
終演後も弁当やケータリングの食べかす、湯飲みなどが散乱したまま
楽屋を後にするなどもってのほか。

師匠の鞄持ちでついていき、急いで次の現場に向かわねばならないときも、

「わしの着物は自分で畳むから、
楽屋をどないかせい!」


と叱られたこともあった。

“立つ鳥、後を濁さず”である。



マナーやコンプライアンスのセミナー講師として
活躍中の知人がこんなことを言っていた。

「昔は先輩から後輩に教えていた社会人としての常識も、
今は言い方ややり方をひとつ間違うとパワハラにとられかねない。
それで、部外者である我々にその役目が回ってきたのかもしれません」

なるほど、落語界の師匠と弟子の関係でもパワハラ訴訟が起きる昨今、
「評判のいい所作」を教えられ・身につける機会はなかなか無いのかもしれない。

 …それにしても、例のパワハラマンション。
営業マンが名刺をばらまくよりも、
まず現場の再教育から始めた方がよっぽど有益やのになぁ。(了)

※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。


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267.40年目の赤っ恥~落語のなかの人権問題~

「感激したわぁ!ほんま来てよかったわ」

終演後、お客様の見送りをしていると
一人の妙齢の女性が駆け寄ってきて熱く感想を語ってくれた。
芸歴40年を迎えたばかりだが、
これほど褒められたのは初めてかもしれない。
とはいえ、それは落語そのものではなく、
その後に話した内容についての賛辞だった。

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芸歴40年&還暦記念独演会で話す筆者(撮影:坂東剛志)


「世の中のあらゆる作品に
作者や演じ手の考え方や思想が反映される。
表現物というのはすべからくプロパガンダである」


ということはこれまでにもあちらこちらで語ってきた。

その日は「大阪空襲訴訟」に関する集まりで、
自作の創作落語「防空壕」を演じたあと、戦時下におけるプロパガンダについて話し、
それに付随して「仔猫」という落語におけるぼくなりの見解について説明したのだった。


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「仔猫」は大阪船場の商家が舞台。
奉公人は店に住み込みで働くといった時代背景である。
新しく雇い入れたおなべは小まめによく働く女性で、店の誰からも気に入られていた。

しかし、彼女には少し妙なところがあった。
皆が寝静まると夜な夜な店を抜け出していなくなるのだ。
そこで不審に思った旦那と番頭がおなべの留守中に
彼女の持ち物を調べようということになり、
葛を開けると中には血まみれになった大量の猫の毛皮。

このことを問い質す番頭に彼女は「ここに置いてほしい」と懇願しつつ、
その理由について告白し始めた。

「わたしの父さんは百姓片手の山猟師。
生き物の命を取るのは悪いことじゃと
再々意見はしたが聞いてはくれず、
親の因果が子に報い、
七つの歳に飼い猫が足を噛まれて戻ったを、舐めてやったが始まりで、
それから猫の生血の味を覚え、
他人様の猫とみれば矢も楯もたまらず取って食らうがわしの病。
あれは鬼娘じゃと噂され、大阪へ奉公すれば治るかと出てはきたが、
因果なもんじゃ。昼の間は何事もないが夜になると心が狂い、
仔猫を捕らえて喉笛へ。

…生暖かい猫の血が喉を過ぎれば我が身に返り、
あぁまたやくたい(くだらないこと)をしてしまったと悔やんでも後の祭り。
…わしは村へはよう帰らん。どうぞここへ置いておくれ」


それを聞いた番頭が、
「昼間はあんなに大人しいのに、そんな恐ろしいことしてるとは
……あぁ、猫をかぶってたんや」


さて、ぼくが問題にしたのはおなべの独白の部分。
これは明らかにケガレ信仰を反映し、猟師やその代々をも否定している。
人間にとって大切な食糧を調達するという、尊い役目にも関わらず、
山猟師を忌み嫌われる存在としたまま咄を終わらせている。


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「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と高らかに人間の尊厳と平等をうたいあげて、
1922年3月3日に「全国水平社」が創立。その「全国水平社」創立50周年を記念し、
奈良県御所市の住宅街の一角に記念碑が建立されました。


実は、ぼく自身このことに気づかされたのはつい最近のことである。
ぼくの稽古を隣の部屋で聴いていた嫁さんからの指摘だった。

なんでもっと早く気がつかなかったのだろう。
ぼく自身が差別を助長しているようなものではないか」
芸歴40年にして大きな気づきであり赤っ恥だった。
ぼくはずっと垂れ流しにしてきたのだ。

冒頭の女性は興奮気味にこうおっしゃった。
「このことをよく理解されていると感じた落語家さんは過去に一人だけでした。
今日ようやく二人目に出会いました。これからは花團治さんも応援させてもらいます」


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奈良県御所市にある「水平社博物館」


古典落語はその時代の価値観を反映している。
それをそのまま演じてしまうと今の時代感覚とずれてしまうのは当然だ。

「古典だから仕方ない」という意見もあるが、
はたしてその箇所を言いっぱなしにしておいてよいものか。
ぼくはおなべの独白のあと、
番頭に「それは間違った考えである」という台詞を言わせるようにしたが、
この演り方で納得しているわけではない。

これからも演じる作品をひとつひとつ見直しながら手直ししていこうと思う。

還暦になって初めての元旦、まっさらになったつもりでの再出発だ。(了)


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



※こちらも人権問題について書いてます。ぜひ下記のURLを押してごらんください ↓ ↓  ↓
◆泣いた赤鬼~アイツはよそ者やと彼らが言った理由~


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266.将来、教育に携わるあなたへ(子ども教育学科の感想文より)

 先日(2022年12月16日)の特別講義ではお疲れ様でした。皆さんが目を見開き、ひと言も逃さないように聴いてくれる様子がとても嬉しく、つい饒舌になってしまいました。感想文も嬉しく拝見させていただきました。「必死に聴いていたので、落語のときも笑うのを忘れていました」というコメントには思わず笑ってしまいましたが、ずいぶん気を遣わせてしまったかな。全員の感想文にそれぞれお返事を書きましたが、そのなかからいくつか抜粋・要約して下記に紹介します。併せて、それぞれの内容に関係する過去ブログも紹介しておきますので、こちらもぜひご覧ください。何かひとつでも、皆さんのこれからのヒントになればと思います。

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〈感想文〉
◆大勢を前にしたときも「あなた」ベクトルというものを意識したいと思いました。
心が惹かれるというか、先生と話している気がして楽しかったし、飽きなかった。でも、落語が始まると、目が合わなくなり、「あっ、始まった!」と、切り替わりが早くてびっくりした。


〈花團治より〉
そうなんです。マクラや講義では“ぼく自身”が話していますが、落語に入ると、ぼく自身ではなく、登場人物の台詞が始まります。ぼく自身が喋っているとき、ぼくは大勢を前にしていても、常に「あなた」ベクトルで話すよう心掛けているので、必ず誰かと目が合っています。でも、落語のときは登場人物の台詞なので、直接目が合うと具合が悪い。お客さんだって、「アホやな、お前は…」と目が合った状態で言われるのはなんとも居心地が悪いでしょう。と言って、目が直接合わないようにと、あまりに上を向いて演じられると、なんだか勝手に演ってるみたいになる。ですから、例えば、今回の教室ぐらいの広さでしたら、登場人物の目線は最後列の人の頭にボールを乗せたイメージを作り、そのボールを見ながら喋っています。

▶花團治の過去ブログ「宛先のない手紙は届かない」

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〈感想文〉
◆一人で何役もしているのに、喋り方だけで明確にわかるなんてスゴイ!と思いました。


〈花團治より〉
落語の演技は、リアルではなく「らしさ」というものを大事にしています。演じ手の言葉と所作をヒントにお客さんが頭のなかに想像という映像を作り上げていくわけですが、そのときに重要になるのが喋り方、つまり「役割語」です。こういう言葉遣いだったら、おそらくこんな人物だなとお客は想像するわけです。そういう意味で、登場人物の描くうえで落語はお客の持つステレオタイプに頼っているということがいえます。…姿勢もそうですね。手を膝のどの位置に置くかで姿勢も変わりますし、手の置き方も横にすると肘が張ったような感じになる。腰骨だって立てるか倒すかでずいぶん印象が変わってくる。威張った武士なら、手を足の付け根近くに横に置いて、肘を張ったようにして、なおかつ腰骨を立ててやると…いかにもそれらしく見えますよね。

▶花團治の過去ブログ「態は口ほどにモノを言い」



〈感想文〉
◆落語や狂言だけでなく、浪曲やパンソリまでやってくれてありがとうございます。


〈花團治より〉
授業で演じた浪曲やパンソリはあくまでモノマネですから…、本職の方が見たら怒られそう(汗)。ジャンルは違えど、語り部にとってピッチというものはとても大切な問題です。また、「世の中のあらゆるものに“方法”というものがあって、それは他のあらゆるものに応用できる」…って、これはイシス編集学校の受け売りですが、他ジャンルから学ぶことも多いのです。いや、他ジャンルから教えられることの方が多いかも。あっ、それから、うちの師匠(二代目春蝶)はこんなことを言ってました。「プロには必ずプロとしての理屈がある」。つまり、「たまたま上手いこといった~」ではアカンのです。

▶花團治の過去ブログ「パンソリ・浪曲・落語のピッチ」

▶花團治過去ブログ「落語的編集稽古・プロにはプロの理屈」


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〈感想文〉
◆落語は、「怒り」を、「呆れ」や「困り」という感情に変えて相手を接している。そうすることで笑いが生まれ、落語のもつ芸の優しさにつながっているということを実感しました。(丁稚の)定吉が失敗したときも、旦那さんは「しゃあないやっちゃ」と「困り」と「呆れ」で返している。そうすることでお客も定吉のことを「憎めないやつ」だと感じる。定吉のニンを作るのは、定吉をどう演じるかというより、定吉に対する周囲の接し方だということがよくわかりました。将来は教育の道に進みますが、教育も同じことだと思いました。


〈花團治より〉
「呆れ」と「困り」。実はこれは故・桂枝雀師匠の受け売りです。「怒りやない。呆れと困りや」ということを著書のなかでおっしゃっています。また、ツッコミの言葉はお客さんと共調から笑いになる。これは故・米朝師匠の受け売りですが、…つまり、ツッコミはお客の代弁なわけですね。言い換えると、旦那さんの思いがそのままお客さんの「定吉への印象」につながっていく。笑いにもいろいろありますが、ぼくとしては「愚かを受け入れる笑い」であり続けたいと思っています。

▶花團治過去ブログ「野球嫌いなぼくがなぜ虎キチの師匠に入門したか、アカン奴ほど愛おしい」

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〈感想文〉
◆花團治先生が吃音だったことや、いじめられていたということに驚きました。また、それを克服してきたことにもスゴイなぁと思いました。担任の先生に「普通の子じゃない」って言われた話を聞いて、心が痛くなりました。


〈花團治より〉
ぼくはイシス編集学校の校長・松岡正剛さんのこんな言葉が好きです。「劣等感というものは、“まだまだ俺はこんなもんじゃない”という思いの裏返し」。思えば、狂言を始めたのも自分の弱点を克服するためでした。でも、それが思わぬ産物をぼくに与えてくれました。それと、担任の先生に「普通の子じゃない」って蔑むように言われたことですが、今から思えば、先生も余裕がなかったのかもしれません。そのトラウマを克服するまでにずいぶん時間がかかりました。先生もあの時、悪気なく言ったのかもしれませんが…、ぼくも気をつけねばと思います。

▶花團治過去ブログ「フラジャイル・弱さからの出発」

▶花團治過去ブログ「劣等感のチカラ・落語に学ぶコミュニケーション術」




〈感想文〉
◆ぼくのおじいちゃんはお坊さんなので、「天に昇る声」と「地を這う声」の違いにとても納得しました。比較されるとすごくわかりやすかったです。


〈花團治より〉
モンゴルのホーミー、シベリアのツゥバ地方のフーメイ、韓国や日本の演歌…。これらはいわゆる喉声文化です。八百屋さんの「いらっしゃい、いらっしゃい」もそうですね。

▶花團治過去ブログ「落語と狂言の会」


青山出席カード


〈感想文〉
◆落語って、お年寄りが聴くイメージで、むつかしいものだと思っていました。昔の言葉もたくさん出てくる印象があったので、話についていけるか不安でしたが、しっかりわかっておもしろかったです。


〈花團治より〉
昔、ある小学校でその日予定していなかった演目に急きょ変更して演じたことがありました。「牛ほめ」という落語です。でも、その落語のなかには難解な単語がいっぱい出てきます。演り始めてから選択を誤ったかなと思いましたが、そんなぼくの心配をよそに子どもたちはゲラゲラ笑っていました。終演後、ぼくは彼らに聞きました。すると、返ってきたのは「わからんけど、わかった」という言葉でした。

▶花團治過去ブログ「わからんけどわかった」



〈感想文〉
◆最後に「一文笛」を演じてくださいましたが、実はぼくも左利きです。


実はぼくももともと左利きです。だから今も鉛筆は右ですが、消しゴムは左でないと消せない。また、初めてのことにチャレンジすると、自然に左利きになっていることが多い。野球のバットを握ったときもそうでした。それに、うちのムスメも左利きなんですね。自動改札、自動販売機など、当たり前のように世の中の多くのものが右利き用にできている。それに気づくのは左利きだから。マイノリティの気持ちを理解したり、寄り添えるのは左利きの強みかもしれないって、ムスメを見ながらそんなことを思っています。

▶花團治過去ブログ「左利きが抱えるもの~”甘夏とオリオン”の世界にたゆたう~」


こちらもぜひ参考になさってください。
※花團治執筆の研究紀要(大阪青山大学)


以上、皆さんからいただいた感想文と、それに対するお返事のなから、
一部だけ抜粋してみました。
ぼくもいろいろ改めて考えなおすとても良い機会になりました。

また、どこかでお会いする日を楽しみにしています。
寄席にもぜひ足を運んでくださいね。  

花團治




伝鐘400

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265.先生よりも、知ってるで!~明るい夜間高校~

ぼくは今、夜間高校で「芸能鑑賞」という授業を受け持っている。
落語を通して人の知恵や大阪の歴史や文化史を学ぼうというものだ。
生徒の大半が戦後のドタバタで教育を受ける機会を失ったオモニの方々で、
夜間中学から進学して来られる方が多い。

夜間中学の設立は今から70年ほど前のことだが、
今だ日常の日本語の読み書きに困る人々が大勢おられる。
役所からのお知らせを読むにもひと苦労で、
日常生活にもかなりの負担を強いられている。

オモニの一人が笑いながらこう言った。
「私ら生活するのに必死で、気がついたらこの年になってた。
けど、商売やってきたからお金の計算だけは得意やで」

桃谷高校授業風景
夜間高校での授業風景


「先生」を務める際、ぼくがバイブルにしているのが
「オモニの歌」(ちくま文庫)という一冊。
著者の岩井好子先生が自身の夜間中学での体験をまとめたものだ。
岩井先生の授業は生徒との対話で進められ、時に生徒が先生となることも。

岩井先生はオモニの一人にこう言った。
「あんたは昭和史を全部生きてる、生きた教科書やわ。
…あんたの覚えてること、みんな教えて」



この本を手にして、ぼくは少しでも岩井先生に近づきたいと思うようになった。
生徒の発言数と授業の盛り上がりは面白いほど比例するもので、
例えば戦後の芸能史や文化史など、
ぼくが知識として喋るより彼女らが実体験として語った方が
はるかに臨場感と説得力がある。
発言しやすい空気を作ったり、それをどう引き出すかがぼくの腕の見せ所。
その日もそれまでじっと黙っていたアボジが口を開いた。

「先生、あのな、わしが疎開したときな…」。
その臨場感あふれる語りに、
昼間の仕事の疲れからか舟を漕ぎ始めていた若者もいつしかすっかり聴き入っていた。

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「謎かけ」という、落語家が余芸として披露する言葉遊び。

「新聞と掛けて、お坊さんと解く、その心は、今朝(袈裟)来て(着て)、
今日(経)読む」という言葉の音を合わせたりするものだが、それを授業で作ることにした。

10代の男子学生が「そんなムツカシイ、頭を使うこと、ぼくにはでけへん」と言い出したが、
「やってみな、わかるかいな」と頭のなかの情報をどう引っ張り出すかを伝授。

すると彼はコツをつかんだのか、秀逸な作品をどんどん発表し始めた。
「オレ、自分でアホやと思てたけど、
ホンマは賢いんと違うか」
と彼。

それに対し、「そうやねん。君はアホと違うよ。
方法を知らんかっただけや」と応えると、彼は

「確かにぼくは学校の勉強はでけへんけどな、
先生の知らんことをぎょうさん知ってる

と胸を張った。これには周囲の生徒も大爆笑。

「せやせや。わたしらかて先生の知らんこと、ぎょうさん知ってる」。

なんだかぼくは無性に嬉しくなった。
ほんの少しだけど岩井先生に近づけたような気がした。

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謎かけの授業(イシス編集学校にて)

※ぼくがイシス編集学校に学んだこと(要素・機能・属性)


夜間高校の教壇に立ってかれこれ20年以上。
通い始めた当初はぼくも若かったこともあり、かなり戦闘モードだった。
私語を続ける、少しやんちゃな男の子に思わず怒鳴りつけたこともあった。

「授業の邪魔するなら出ていってくれるか?」
「その代わり、出席扱いにしてや」
「何でやねん!」

しかし、その後一人のオモニが教材の漢字が読めず、その若者に話しかけた。
「なぁ兄ちゃん、これ、何て読むか教えて」。
彼の顔からはいつもの尖った表情が失せ、とても穏やかな顔に変わった。

夜間高校における70代のオモニと10代の若者のやりとりは
そこだけポッと灯がともったかのように思えた。

頼られる若者も自信がつくだろうし、
オモニらが見せる嬉々として勉学に取り組む背中も刺激になるだろう。

今は10代の生徒たちもずいぶん大人しくなった感があるが、
10代から70代が机を並べる姿は変わらない。
夜間高校にはこんな一面もあるということを、もっと多くの人に知ってもらいたい。

夜間高校は不要と言ってるエライさん、見学に来たらええのになぁ。


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



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伝鐘400


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264.昔々あるところで…ではなくなった戦争~切実から生まれた芸術~

毎日のように流れるロシアのウクライナ侵攻のニュース。
かつて日本でも
「鬼畜米英」
「遂げよ聖戦!興せよ東亜!」
といったスローガンが叫ばれ、
国民の多くがこの戦争を正義と信じて疑わなかった。


万歳三唱の掛け声と共に戦地に送り出される兵隊さん。
しかし、戦地に行くことを誉れと思う者ばかりではない。
醤油を飲んで腎臓障害を患って兵役を逃れたという話は有名だが、
ロシアでは骨折屋という商売が現れたらしい。
プロパガンダ然り、戦争というものはどうやら同じような経緯をたどるものらしいが、
日本のように核爆弾で終結という事態だけは……絶対アカン!

大阪空襲、戦闘機400
資料提供:ピースおおさか


神戸室内管弦楽団とコラボレーションをさせてもらったのはかれこれ三年程前。
ロシアの作曲家・ムスログスキー「展覧会の絵」の内容を、
演奏の合間にぼくが落語風に紹介していくというものだった。
この楽曲は十の楽章に分かれていて、そのうち「キエフの大門」は、
テレビ番組のBGMなど日本でも特に馴染み深い。

これらの曲はムスルグスキーの親友・ハルトマンが遺したいくつかの絵画を元に創られた。
当時のロシアは僧侶や貴族が威張り散らし、
社会的不公平を絵に描いたような世界だった。
ことに農民はずっと苦しめられ、それをハルトマンが絵に現わした。

その内容は「体制側から虐げられる民衆の姿」に違いなかったが、
ムスルグスキーは曲のタイトルを「ピドロ」とした。
「ピドロ」とは牛車の意味で、
国家のために働きどおしで虐げられる民衆の姿に重ねた。
そのままのタイトルでは上演禁止になりかねないという理由からだった。

また、「ノーム」という曲も体制に対する皮肉だった。
「ノーム」とは森に住む小人の妖精だが、
ドイツ生まれの「白雪姫」の小人がそうであるように、
彼らは働き者の陽気な連中として描かれるのが常だった。

しかし、ハルトマンの描く「ノーム」は物憂げで不安そうな顔をしている。
ぼくは落語ナレーションでムスルグスキーにこんな台詞を言わせた。

「白雪姫の小人は『ハイホー、ハイホー、仕事が好き♪』と歌うが、“人に尽くし勤勉に働くことが国家の利益につながる”ということを言いたいがために、国がノームにそう言わせてるだけ」。

超訳が過ぎたかも知れないが、ハルトマンもムスルグスキーも風刺の人だった。

神管300
2019年5月25日に開催



今、ぼくは「大阪空襲」をテーマにした作品に取り組んでいる。
きっかけはコロナ禍だった。落語会の中止で自宅待機を余儀なくされるなか、
ふと脳裏によぎったのが先代花團治のことだった。

先代が落語家になった頃、落語に代わって漫才が台頭し始めた。
所属していた吉本興業からは軽口(今でいうコント)で舞台に立つよう促され、
ついにはそこを飛び出し「楽語荘」という落語家グループに合流。
落語受難の時代に落語一本で奮闘し始めた。
それが認められ花團治を襲名したが、戦争の犠牲となったのはその翌年のことだった。
享年47。

二代目花月ピクニック400
後列、向かって左から3人目が二代目花團治(当時は花次)


※「二代目花團治と大阪空襲について、
カンテレ「報道ランナー」でも紹介されました。
こちらをクリックしてご覧ください。



「落語が演りたくてもできない」という状況に置かれ、先代の無念が身に沁みた。
そんな矢先、大阪音楽大学の作曲・デザインコースからオファーがあった。
ぼくが創った台本を元に学生たちが作曲するという。
ぼくは無我夢中で「大阪空襲」というテーマで台本を書き上げた。

イマドキの学生たちがどんな音楽を作るかと不安もあったが、
先日行われた中間発表で曲の数々を耳にしたとき、思わずぼくは身震いしてしまった。
平穏な生活から、それがいきなりぶち壊される恐怖や不安を見事なまでに表現。
もちろん底辺にあるのは平和への願いである。
「大阪空襲」はすでに77年前のことだが、
日々ウクライナのニュースを耳にしている学生たちにとって
戦争は昔ばなしではなく、全く他人事でもなかった。

究極の危機感が新たな芸術を生む…とは言いたくもないが、
現在(いま)しか作れない作品が完成しつつあるのは確かだ。
発表は今年の年末。当日が待ち遠しい。(了)

※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。


伝鐘400
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※「伝鐘」の公演内容が、大阪日日新聞に掲載されました。
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263.泣いた赤鬼~アイツはヨソ者やと彼らが言った理由~

10年ほど前、ある催事会場で一人の職人さんと懇意になった。
世間ばなしをするうち、Aという共通の知人がいることがわかった。
A氏はすでに亡くなっておられたが、ぼくにとっては生涯忘れられない大恩人。
しかもその職人さんとA氏は幼馴染みで、
今もA氏の実家の三軒隣に住んでいるという。

一週間後、ぼくは職人さんの家を訪ねた。
するとそこへA氏の幼馴染みが続々と集まってきた。

「Aはヤンチャもするけど気のエエ奴で…」
「憎めん奴やった」……


皆がA氏を口々に懐かしんだ。と、
そのうちの一人がこんなことを言いだした。

「けど、Aは元々ここの人間やない」

その言葉をきっかけに皆が同じように言いだした。

「Aはよそ者や」
「戦争が終わって疎開先から戻ってきたけど、
戻るところが無くてここへ流れついた」
「わしらとは違う」


なぜ彼らがそんなことを言ったのか、それに気づいたのは町を出る瞬間。
そこはいわゆる被差別部落と呼ばれる区域だった。



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「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と高らかに人間の尊厳と平等をうたいあげて、
1922年3月3日に「全国水平社」が創立。その「全国水平社」創立50周年を記念し、
奈良県御所市の住宅街の一角に記念碑が建立されました。




「泣いた赤鬼」という児童文学がある。90年程前の作品だが、
今も定番の童話絵本。とある山奥に住む赤鬼は人間と仲良くなりたくて、
家の前にこんな看板を立てた。

「心のやさしい鬼の家です。
どなたでもおいでください。
おいしいお菓子がございます。
お茶もわかしてございます」


しかし、人間たちは怖がり誰も遊びに来なかった。
そんなある日、悲しみにくれる赤鬼のもとに青鬼がやってきた。
一部始終を聞いた青鬼はこんな作戦を持ち掛けた。

「俺が人間の村に行って大暴れするから、
お前は俺を懲らしめろ。
そうすれば、人間たちは
お前が優しい鬼だと思うだろう」


計画通りに事が進み、赤鬼は人間と仲良くなり、
村人たちとの交流が始まった。

しかし、そんな充実した日々のなかで気掛かりなのは青鬼のこと。
「今の自分があるのは青鬼のおかげ」と久しぶりに青鬼の家を訪ねるが、
戸は固く閉ざされたまま。その戸の脇に青鬼からの置手紙。

「赤鬼くん、人間たちと仲良くして、
楽しく暮らしてください。

もしぼくがこのまま君と付き合っていると、
君も悪い鬼だと思われるかもしれません。

ぼくは、旅に出るけれども、
いつまでも君を忘れません。
さようなら、体を大事にしてください。
ぼくはどこまでも君の友達です」


赤鬼は号泣した。



…この物語をA氏の幼馴染みたちに重ねずにいられない。
A氏の幼馴染みたちは「青鬼」だった。
彼らは「わしら(部落出身)とは違う」と言うことでA氏を守ろうとした。


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ぼくが小学校でいじめられていた頃、
放課後はいつもT君と二人だった。
体格が良くスポーツ万能で級友たちが一目置く存在だったにも関わらず、
なぜか彼はぼくを誘った。T君の家では彼のお姉さんが焼き飯を作ってくれた。
ぼくらは一台の自転車を二人乗りで毎日のように遠出した。

そんなある日、母がぼくにこう言った。

「T君とばかり遊んでるけど大丈夫?
あの子、川向こうの子やろ」


その言葉でぼくは彼が被差別部落の子だと知った。
母はそれ以上何も言わず、ぼくらの交流は彼が引っ越しするまでずっと続いたが、
他の級友たちは彼と遊ぶことを親から止められていたということを後から知った。

そう言えば、T君は時折寂しそうな表情を見せることがあった。
彼は「泣いた赤鬼」だった。


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奈良県御所市にある「水平社博物館」



今年3月にリニューアルオープンした奈良県御所市の「水平社博物館」には、
人権に関するあらゆる資料が揃っている。
「鬼滅の刃」「ワンピース」といった人気漫画からも人権にまつわる台詞が紹介されていたり、
小中高生にもわかりやすいと評判だ。

イラストレーターのヨシタケシンスケさんと現代アートの伊藤亜紗さんの絵本
「みえるとか みえないとか」からはこんな言葉が。

「自分たちと違う人は、
やっぱりちょっと緊張しちゃう。
自分と何が違うかがよく分からないから」



「よく分からない」が
やがて悪意に満ちた偏見に変わっていく
のだろう。



被差別に限らず、「マイノリティ」とされる人たちは
現在も隠れて泣いているのはないだろうか。
ぼくはその涙に気づかぬふりをしていないだろうか。(了)


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「水平社宣言」の起草者・西光万吉の生家「西光寺」。
「水平社博物館」とは向かい合わせにある。


fc同和問題講演会_convert_20220831233323
落語を交えながら、同和問題について90分の講演。


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



◆花團治の著した「研究紀要」は
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262.地雷を踏んだ「自称イクメン」~「ぼく食べる人」から半世紀…~

その日、ぼくはいつものように洗濯物を取り込み、
昼食の片づけと晩御飯の下ごしらえを終えた。
それからふらりと家を出て、散歩がてらネタを繰り、
喫茶店で原稿の下書きをしながら2時間ほど過ごした。

自宅に戻ると4歳のムスメは「パパ―!」と笑顔で迎えてくれたが、
どうもヨメの機嫌が思わしくない。
これほど家事をしているのになぜ怒るのか。
「私がアンタと同じ行動を取ってもいいのかしら?」。
そう問われてもぼくは理解できず、ただポカンとするばかりだった。

花團治、そ、それは
筆者・桂花團治(撮影:坂東剛志)


かつてインスタントラーメンのCMで
「わたし作る人・ぼく食べる人」
というフレーズが話題になった。

昭和50年(1975年)のことである。
ラーメンの置かれたテーブルの前で女性が「わたし作る人」と言い、
続けて男性が「ぼく食べる人」と言う。

実はこのCM、放映されたのはたった二ヶ月間。

「性別役割分担の固定化につながる」
という婦人団体からの抗議があったらしい。

あれから47年、ジェンダーに関する社会の関心度は高くなったが、
今だ騒がれるのは状況にさほど変化がないということだろう。
世の男性は今も地雷を踏み続けている。

例えば、「家事を(育児を)手伝うよ」というひと言。
言うまでもなく、
家事や育児は女性が担うものという意識がそのまま表れた結果に他ならない。

「主婦」という概念が生まれたのは大正期から昭和にかけてのこと。
世の中の高度成長に伴い地方から都会へ人が流れ、
男性サラリーマンと専業主婦という組み合わせが生まれた。
しかし、その専業主婦も今や減りつつある。

ある調査によると、専業主婦を選ぶ未婚女性は
もはや全体の一割にも満たないらしい。

また、未婚女性が結婚相手に求める条件は、
一位が家事や育児の能力、二位が女性の仕事への理解で、
経済力は三位
だとか。昭和生まれのぼくから見れば驚きの連続だが、
この条件でいえば、自分で言うのも何だが、
ぼくは理想の結婚相手に近い。

炊事や洗濯、掃除等のスキルはそこそこ自信があるし、
育児だって結構やっている。
……とはいえ、ぼくの家事能力は
二回に及ぶ結婚生活の破綻の末に養われたものだから
決して褒められたものではないのだが。

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4歳のムスメとお店屋さんごっこに興じる筆者




ところで、落語家“桂花團治”は家内工業で成り立っている。
経理や仕事先とのメール対応などの事務作業全般に関し、
うちのヨメは実に長けている。
ぼくはと言えば、メールの返信に半日かかってしまうポンコツ。
それで必然的にデスクワークは女房の担当となった。

彼女がパソコンに向かっている傍らで、
ぼくは炊事や洗濯、掃除に勤しむというのが我が家の日常。
晩ご飯も自宅にいる限りぼくが担当している。
コロナ禍で仕事が減ったぶんキッチンに立つ機会も増えた。


冒頭の“事件”の日も彼女は
ぼくの仕事に関するデスクワークをこなしてくれていた。

「今日は予定の半分しか仕事が進まなかった。
出掛けるなら何でひと言私に確認してくれないの?」
そこまで言われて、ヨメは今まで一度も
ぼくに無断で外出したことがないことに気がついた。

「買い物に行くから30分間、子どもを見ててね」
「病院が混んでたら、帰りは昼過ぎになるけど大丈夫?」という具合。
だからぼくもヨメがいない時間だけは子どもに掛かりきりになるが、
その他は家事も稽古も自由に進められる身になれていたのだ。

反対にヨメにとってはムスメが幼稚園に通う時間と
ぼくの在宅時間だけが貴重な仕事時間。

なのに勝手に出掛けるというのは「育児は女房の役割」という意識の表れであり、
「アンタは気が向いた時だけ育児する」とぼやかれた。


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筆者とムスメ


「しっかり女房に、うっかり亭主」を笑っていられるのは落語の世界だけだ。

育児は手伝うものではない。
夫婦それぞれが当事者でなければならない、ということを思い知らされた。
心のどこかでイクメン気取りだった自分に思わず紅顔した。

そもそもイクメンという言葉自体がおかしいのかもしれない。

「理想の結婚相手」にはまだまだ遠い。


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



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261.「ジョーシキ」という先入観 ~「米朝」だって、間違ってるかもしれないじゃない?~

4歳になるムスメのおかげでぼくも絵本を読むようになった。
たかが絵本とあなどるなかれ。

例えば、ヨシタケシンスケさんの「りんごかもしれない」(ブロンズ新社)という一冊。
「テーブルの上にりんごがおいてあった……でももしかしたら、
これはりんごではないのかもしれない」という問いかけから始まる。

「もしかしたらおおきなサクランボのいちぶかもしれない」
「なかみはぶどうゼリーなのかもしれない」
「あかいさかながまるまっているのかもしれない」
……そんな妄想がこれでもかとばかりに展開される。

モノの見方の斬新さ、柔軟さに驚いた。

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同じ作者の「これしかないわけないでしょう」(ブロンズ新社)では、
「大人はすぐ、これとこれ、どっち?って聞くけど、
これしかないわけないじゃない。
どっちもなんかちがうなーっておもったときは、
あたらしいものを自分でみつけちゃえばいいのよ!」
「大人はすぐに未来はこうなるとか、だからこうするしかないとかいうの。
でもたいていあたらないのよ」と女の子がつぶやく。

ヨシタケシンスケさんの絵本は
世間がジョーシキと信じて疑わないことを
軽やかに打ち砕いてみせる。



詩と本読み


ムスメに読み聞かせながら、
ぼくはふと「見台」(落語を演じる際に使う小机のようなもの)のことを思い出していた。

その昔、米沢彦八なる人物が
現在の谷町九丁目付近にある生國魂神社の境内によしず張りの小屋を立て、
当世仕方物真似なる芸を披露したことから、
上方落語の始まりは大道芸ということになっている。

古い文献にも絵画資料として残っているので間違いなかろうが、
同時に「見台は大阪の落語が大道芸だったことの名残だ」という説を
ぼくを含む多くの落語家があちらこちらで繰り返してきた。

米沢彦八、境内の図


しかし、「見台」についてはその頃の資料のどこにも見当たらないのだ。
それでもぼくらが吹聴するのは、桂米朝師匠のこんな一節からきている。

「社寺の境内によしず張りの小屋をしつらえてしゃべっていると、どうしてもザワザワしますし、演者の方へ統一しにくいものです。その時に、ピシッと台をたたいて聴客の注意をこっちへ向ける。一つの演出効果として台をたたきながらしゃべったものでしょう」(『落語と私』ポプラ社、1975年)

あくまで推論として述べているに過ぎないが、
「知の巨人」であり、人間国宝でもある桂米朝師匠は
我々落語家にとって生き字引のような存在。
その言葉はそのまま業界のジョーシキとなる。

「米朝師匠の言うことに間違いはない」という思いから、
いつしか推論が定説として歩き始めたのだ。

そんな通説に疑問を感じ、調査・研究を始めたのが
現在、大阪大学大学院人文学研究科芸術学専攻にて
古典芸能を研究する22歳の芝田純平くん。

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芝田純平くんと筆者(前方)


膨大な資料や文献をひとつひとつ丹念に分析して、
「上方落語のおける見台・膝隠し・小拍子の確立―天保改革との関わりについて」
という卒業論文にまとめ上げた。

論文に目を通すと、なるほど米沢彦八が見台を用いた形跡はどこにもなく、
それ以降も文献に描かれている見台は本を置いて見やすいように斜めになっている。
これでは小拍子や張り扇で叩けまい。
見台が今のような使われ方をしているらしい絵図が確認されるのは江戸末期、
寄席という屋内においてのもの。
「聴客の注目を引くために見台を叩いて口演していたというのは誤りであった」
という結論にたどりついた。

今後、彼の説もひっくり返される可能性がないとは言えないが、
ジョーシキに対して抱いた疑問を大切に育てて
新たな真相にたどり着いたことに心から敬意を払いたい。

ヨシタケシンスケさんの絵本を読んで育つ子どもたちの中から、
将来、芝田くんのようにジョーシキを鮮やかに打ち砕く人材が出てくるだろう。

彼らから「過去のわずかな成功例や
既成概念にしがみつくジジイ」
と軽蔑されないよう、
ぼくもしっかり絵本を読んで柔らかアタマを育てていきたい。
もう手遅れかもしれないが…。(了)



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



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花團治が書いた落語に関する研究論文もぜひ合わせてご覧ください↓
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260.一見さんお断り~一期一会を100倍ステキにする方法

「一見さんお断り」という京都花街のしきたりはあまりにも有名だ。
この慣習が「敷居が高い」というイメージに繋がっているのは言うまでもないが、
「おもてなし」という観点からみれば実に理にかなっている。

花街で提供される「おもてなし」は顧客の好みによって内容がさまざま。
お茶屋は顧客の好みを十分にわかったうえで芸舞妓さんや料理の手配をするが、
そのときに全く情報のない客ではどのようなサービスをしていいのかわからず、
満足のいく「おもてなし」が提供できない可能性が生じる。

「一見さんお断り」の理由は他にもあるが、まずこのことが挙げられよう。

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西尾久美子「おもてなしの仕組み」中公文庫amazon


ずいぶん前の話になるが、人に薦められるまま、
ぼくは東京で開催されるあるセミナーに参加することになった。
大阪~東京という交通費や宿泊費だけでもバカにならないが受講料も結構高額で、
「元を取らねば」という大阪人特有の損得勘定から、
ぼくはその講師の本を手に入れられるだけ仕入れ
移動中もずっと持ち歩いて予習に励んだ。
おかげで当日は講師の話が面白いほどよく分かり、
本には書かれていない内容を耳にするたび心が躍った。
質問内容もあらかじめ用意していたのでとても有意義な時間になった。
その講演の参加者は20名ほどだったが、
講師からは途中でこんな質問があった。

「これまでに私の本を
読んで来られた方はおられますか?」


その時、手を挙げたのはぼくを入れてほんのわずかだった。
講師は「機会を有意義にするためにはこういうことがとても大事なんです」と諭すように言った。

「例えば、商談を進めるのに
相手の企業のことを
全く調べないという人はいないでしょう」



今年の5月から6月にかけて、ぼくは近畿大学で
「コミュニケーション講座」を受け持つことになり、足繁く通っている。

全部で19クラスあり、それぞれのクラスの担当教授と毎回簡単な打ち合わせをするのだが、
ほとんどの教授がぼくのブログをくまなく読んでくれていているのには
さすが経営学部!と感心させられた。

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近畿大学正門前

なかでもキャリアマネジメントが専門の西尾久美子教授は
かなり古いブログまで目を通して下さっていて、
ぼくがすっかり忘れていた昔のコラムの内容に触れ、
「あのエピソード、すごく印象に残りました」。
そのひと言でぼくのモチベーションがグンと上がったのは言うまでもない。

会う前に自分のことを相手が
ちゃんと下調べをしてこられることは実に嬉しいもの。
こちらの考えや人となりを理解したうえで質問されるので自然に話も弾む。

おまけに西尾教授からは「お荷物になりますが、もしよろしければ…」と
『おもてなしの仕組み』(中公文庫)、『舞妓の言葉』(東洋経済新報社)という
二冊の著書まで頂戴した。

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西尾久美子「舞妓の言葉」東洋経済新報社amazon


冒頭の「一見さんお断り」はこの著書のなかにあった内容。
落語には花街を舞台にした話も多くかなり参考になる。
また、芸を習得する過程や上下関係におけるしきたりなど
落語の世界とかなり共通する部分も多い。
よくも敷居が高いといわれる花街の世界に踏み込み、これだけの取材ができたものだ。

「あぁしまった!事前に読んでおけばよかった」とおおいに悔やんだ。
先に読んでおけば、ぼくからもいろいろ聴けたはずなのに…。
一期一会をずいぶん無駄にした。
このようなことはかつて自分の信条にしてきたはずだったのに…、
なんてぼくはズボラになってしまったのだろう。
次にお会いできることを願いながら、今日も教授の本を手に近畿大学に向かっている。

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今回は基礎ゼミ「コミュニケーション講座」のなかでお話させていただきました。
近畿大学・中谷ゼミの学生たちと。



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



落語に関する「花團治の研究紀要(論文)」も
是非ご覧ください。
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259.最後の贈り物~笑いと、涙と、あの人と~

今年の3月、師匠の奥さんが亡くなった。
コロナ禍ということもあり、密を避け家族葬で見送ることになったが、
親族や弟子の他に、奥さんとごく親しい友人二人も駆けつけておられた。
このお二方の女性は芸界にも通じていて、
師匠とも番組はじめ公私にわたって交流のあった方々だ。
ぼく自身も若い頃、ずいぶんとお世話になった。
仕事を世話してもらったり、たまにはお小言やアドバイスをもらうことも。
ところが、その頃のぼくは糞生意気なガキで、
木で鼻をくくったような態度で接したこともしばしば。

師匠亡きあとはお会いすることもなく、
交流が途絶えてから30年近く経っていた。
そんなこともあって、葬儀会場でお二人の姿を見かけたとき、
ぼくはバツが悪く思わず身構えてしまった。
けれども限られた人しかいない会場で知らぬ顔もできまい。

意を決してぼくは声を掛けた。
「大変ご無沙汰をしています。あの…蝶六です」
「あぁアンタ、今、花團治さんやろ?…聞いてるでぇ!アンタよう頑張ってるなぁ」

まるでついこの間、一緒に酒を酌み交わした仲間のように話しかけてくれた。
勝手にわだかまりを抱いていた自分が恥ずかしかった。


浜田和子葬儀、春蝶と
師匠の奥さんの葬儀会場にて、師匠の息子の現・春蝶くんと。


以前、ぼくはこのコラムで
「弟子の決断・師匠の覚悟」というタイトルで書いたことがある。
弟子は「この人を師匠にしよう」と決断してこの世界に入ってくるが、
師匠は「これも役目」と覚悟して弟子を受け入れる。
どこの誰ともわからない男を住み込みの弟子として迎えるということは、
誰よりも奥さんが多くの苦労を強いられる。
師匠もさることながら奥さんの我慢によって
ぼくは落語家を辞めずにいられたという内容だった。

春蝶の家族と共に
先代春蝶のご家族と共に(後列一番右が筆者)



今もその思いは変わらない。
ぼくが師匠を怒らせてしまったとき、
いつも間に入ってくれるのは奥さんだったし、その逆もあった。
それが元で夫婦喧嘩に発展することもあった。
済んだことを後に引きずらないのは師匠の性格だが、
奥さんもそれに輪をかけたようなところがあって常に天真爛漫な人だった。

「ぼくはあの奥さんやなかったら、落語家を続けられてなかったと思います」
すると、横にいたくだんの女性が
「ホンマやな。子どもみたいに無邪気なところがある人やったから、
アンタも我慢したり苦労もあったやろけど、あの奥さんでホンマ良かったなぁ」


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昨年の二代目春蝶生誕祭にて(左から春蝶、一蝶、花團治)


喪主であり師匠の長男でもある春蝶くんも加わり、
奥さん(彼にとっては母親)の想い出話をしていると、
葬儀会場というのにもう笑いが止まらなくなった。
ここには書けないような奇想天外なエピソードの数々。
すべてに「奥さんらしさ」が溢れていた。
その時、ぼくのもとに小走りに寄ってきた女性がいた。
すぐには誰だかわからなかった。
「わたし、分かります?恵子です」

ぼくが入門したとき、彼女は幼稚園児だった。
「…あぁ恵子ちゃんかぁ。すっかり大人やなぁ」
「何を言ってるんですか?私、もう35ですよ」

彼女のことは春蝶くんからも聞いていた。
「妹、今すごいんですよ。めちゃくちゃ仕事ができてエライ出世ですわ」

見違えるほど魅力ある女性に育った彼女を前に
ぼくはなんだか浦島太郎のような気分にさせられた。
お経の後にお坊さんの話があった。

春蝶のお墓2
茨木市にある先代春蝶のお墓


「葬儀はお別れの場ですが、
疎遠になっていた人が再会する場でもあります。
お亡くなりになった方からの最後の贈り物かも知れませんね」

ぼくは大きく頷くしかなかった。
ひょっとしてお坊さんはぼくらのやり取りを聞いていたのかもしれない。

ひとしきり笑った後、出棺であまりにも軽い棺を担ぐと、途端に涙が溢れてきた。
今頃、師匠と奥さんは
「蝶六さんは相変わらずドンくさいなぁ。どないかならんやろか」などと、
苦笑まじりで語っているに違いない。

師匠、奥さん、ホンマにありがとうございます。
おかげでなんとか落語家やってます。


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



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258.ウィル・スミスのビンタ~何を笑うか?~

先日のアカデミー賞授賞式での出来事は前代未聞だった。
3度目のノミネートで悲願のオスカー賞を受賞した俳優のウィル・スミスが、
プレゼンターのコメディアン、クリス・ロックに皆が見守る壇上での平手打ち。

ウィル・スミスの妻は脱毛症に苦しんでいて頭は丸坊主である。
それをクリス・ロックがネタにした。
相手の気にする身体的要素、しかも笑われた相手のそれは病気によるもの。
ウィル・スミスが思わずカッとなったのは理解できる。


花團治、どないしてくれんねん
(撮影:坂東剛志)


身体的要素に触れる笑いは落語のなかにも多々みられる。
ハゲはいつも笑いの対象だし、ブスを表現する語彙は実に豊富だ。
それに舞台の上からの客いじりで、
不用意な言葉で相手を怒らせてしまった経験はぼくにだってある。

音楽をやっているある知人は、もし私が客席に丸坊主の女性を見かけたら
北条政子か三蔵法師の名前を出してしまいそうだとFacebookに告白していたが、
ぼくもまた同じようにしてしまうだろう。
つまり、ぼくはクリス・ロックと同じ罪を犯しかねない人間だということだ。


ぼくが小学生の頃にはまだ小児麻痺(ポリオ)という病気が流行っていた。
ウイルスによって罹る病気で、感染すると身体の硬直などが見られる病。


ある日、運動神経が鈍く何をやってもドンくさいぼくに対して、
一人の同級生が「お前、小児やろ」と揶揄してきた。
周囲にいた者はどっと笑った。
以来、この病名がクラスの笑いの種となった。

かくいうぼくも級友に対し、似たような揶揄をしたことがある。
ぼくも同罪だった。その後、このことが学校で問題視され、
ホームルームで先生からきつく注意された。
今から思えば、病名を揶揄の道具にするとはなんと下劣残酷なことか。



花團治、そういうことやね
(撮影:坂東剛志)


若い頃はどれだけ食べても太らなかったぼくも今では立派なメタボ体型である。
落語家という職業だからか、あるいはぼくがなめられているのか、
初対面の人からもそれを笑いの種として弄られることがよくある。

ある程度、関係ができていればどうということもないが、
いきなりそこから入られると「この人はこういうセンスの人なんだな」と
ちょっとがっかりしてしまったり、
虫の居所が悪いときなどついムッとしてしまう。
そんなときよく言われるのが
「マジになりなや。洒落(冗談)やんか」

でも、それは言う側の考えであり、当人にとっては洒落でも何でもない。
少なくともこういう人をぼくから飲みに誘うことはない。

アカデミー賞授賞式という公の場だからこそ
「わたしは不愉快です」と表明することが大切だ。

全世界が注目するなか、
「無条件にハゲは笑いの対象にしていいのだ」という風潮に繋がっていきかねない。
あの場にいたギャラリーの大笑いする様子が映し出されたとき、
ぼくは「お前、小児やろ」に笑った連中の顔を思い出した。


がしかし、ビンタは良くなかった。
暴力を解決手段にしてはいけない。
では、どうすればよかったのだろう?

例えば、言葉や態度での反論はできなかったのだろうか。
アメリカやヨーロッパにはブーイングという文化がある。
個人的にはあまり好かないが、こういう場面でこそブーイングが相応しかった。
それもウィル・スミスだけでなく、ギャラリーからのブーイングが。

花團治、黒紋付き正面400
(撮影:坂東剛志)


笑いはときに人を傷つける。

こういうことを書くと、
職業柄、自分で自分の首を絞めてしまわないかと思わないわけではないが
避けて通れる問題でもあるまい。

「何を笑うかでその人格がわかる」というが、
「何を笑いにするか」が落語家にとって重要課題。

生前、師匠がよくこんな言葉を口にしていた。
「ウケりゃあ、
何でもエエちゅうわけやないんやで」



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



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花團治の取り組みがカンテレ「報道ランナー」で放映されました。
Youtubeでご覧ください。↓

※カンテレ「報道ランナー」
空襲で命を落とした先代の無念を胸に
大阪空襲の記憶を伝える落語家






257.ホンマのお母さんて、何や?~言えなかったひと言…~

先月、母が亡くなった。享年84。
父と二人で暮らしていた。
あまりの長風呂に父が様子を見にいったところ、
すでに浴槽の脇で息絶えていた。
後日、遺品整理をしてくれた弟夫婦が母の財布から
デイサービスで利用した美容院の領収書を見つけた。
亡くなる前日の日付だった。
いつも室内をきれいに整理整頓していた母。

「髪を整え、風呂に入ってから逝くなんて、
なんとも母さんらしいわ」
と弟が呟いた。



ぼくが小学生の頃、毎日のように母の前に正座させられていた。
その頃のぼくは今よりずっと落ち着きのない子で、母はよく学校に呼び出されていた。
小言をうわの空で聞くぼくに業を煮やしたのか、母はこう言い放った。

「母さんかてな、アンタのホンマの
お母さんになろうと思って必死なんや」


それを聞いた途端、「ホンマのお母さんて何や?」と
我に返ったぼくは涙が止まらなくなった。

実は、ぼくの産みの母はぼくが三つのときに亡くなっており、
その翌年に継母としてやってきたのがこの母だった。

ぼくはこの記憶を頭の隅に追いやっていた。
それが母の言葉で一気に蘇ってきたものだから、
ぼくは壊れたみたいに泣き叫んだ。
思えば、母に強く抱きしめられたのはこの時が最初だったような気がする。

「辛かったな。よう頑張ったな」と母は何度も繰り返した。
涙が枯れるまで二人で泣いた。
ホンマの母でもウソの母でもどうでもいい。
ぼくはこの人の息子だとこの一件で実感できた。

それで十分だった。

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7年前、襲名披露公演に駆け付けてくれた母と(撮影:相原正明)


そんな母が初めてうちにやってきた時のことをなぜか鮮明に覚えている。
その頃のぼくは父親に「お母ちゃんはいつになったら帰ってくるの?」と
毎日のように問い続けていた。
「もうすぐ会える」をうわごとのように繰り返す父親だったが、
ある日「今日は会えるぞ」と嬉しそうに言った。
ぼくも有頂天になって喜んだ。

しばらくして玄関の戸がガラガラと開き、
そこに知らない女の人が立っていた。
「ほれ、お前のお母さんや」と父。
反射的に「この人、ぼくのお母さんと違う!」


それからずっと母を拒否し続けていたが、
子ども心に「産んでくれた母親のことは忘れなければいけない」
「口にしてはいけない」と思うほど、
母は優しく、ぼくや弟、そして父の面倒を本当によく見てくれた。


幼き日のぼくと弟
幼い頃の弟とぼく(右)



日中戦争が長期化し、国家総動員法が施行された昭和13年、
母は樺太真岡郡蘭泊村に生まれた。
昭和20年にソビエト連邦に占拠され、現在はロシアが実効支配している場所だ。

「ロシアの子とは一緒によく遊んでいた」と
当時のことを懐かしそうによく話してくれた。

その後母は青森の千刈というところに越し、
それからどういう経緯かは知らないが、単身大阪へやってきて
昭和41年28歳のときに二人の子連れである父と一緒になった。

それだけでも大変なのに、会社を興した父は知人に騙され破産
暴対法のない時分なので、
深夜を問わず借金取りの怖いお兄さんが家のドアをドンドン蹴り倒す。
応対するのはいつも母だった。
夜逃げしたこともあった。
母は一時実家の青森に帰るも、ほどなく大阪に戻ってきた。


あれは二年前、娘のお宮参りのために神社に来てくれた母が
靴擦れをして痛そうだったので「大丈夫?」と聞くと、
「だってお父さん、先に歩いて待ってくれないんだもん」とあっけらかんと笑った。

父はいつだってそうだ。
母を気遣うことなくさっさと早足で、
母は後から追いかけるように付いていく。

こんな男のどこがいいんだろう。

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ぼくのムスメのお宮参りに駆け付けてくれた母


うっかり亭主にしっかり女房というのが落語のなかの夫婦の定番。
亭主のあまりのスカタンぶりに女房が溜め息まじりに漏らすこんな台詞がある。
「なんでこんな人と一緒になったんやろ」

諦めと後悔の入り混じったこのひと言。
されど決して突き放すでなく、深い情に溢れている。
ぼくはこの台詞のたびに母を思い出してやまない。
あんな亭主で、こんな息子でごめんなさい。

一度は母を抱きしめて
「辛かったな。よう頑張ったな」と言ってやりたかった。



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。





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256.ふるさと~肥溜め踏みし、かの頃~

ぼくが早朝の大阪城公園でのラジオ体操に通いだしたのは昨年12月から。
日頃の運動不足解消が目的だが、
参加するほとんどが70歳以上のお年寄りで
今年還暦のぼくはかなり若手の部類で肩身が狭い。
多くが常連さんらしく、こんな会話が飛び込んできた。

「○○さん、最近見まへんなぁ」
「また温くなったら出てきはんのと違いますか」
「元気にしてまっしゃろか」
「さぁ…、最近わたしも病院行ってまへんしなぁ」

これまで集いの場だった診療所もコロナ禍の影響で行くことままならず、
今はこのラジオ体操が互いの安否確認の場となっているらしい。

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大阪城天守閣の前で朝のラジオ体操


ラジオ体操を終え、空が白んでくると
ひとつのグループが輪になって懐かしの歌を歌いだした。
「上を向いて歩こう」「いつでも夢を」「星影のワルツ」といった歌が続く。
どれも高度成長期に流行った歌だ。

「へぇあんさん、鹿児島の出身ですか?わたしは熊本ですねん」
という声が聞こえてきた。
「上を向いて歩こう」が流行った頃、多くの若者が「金の卵」と言われ、
集団就職で東京や大阪へどっと繰り出してきた。
会話しているこの男性もその一人なのかもしれない。
歌謡曲を歌い終わったグループが今度は唱歌を歌いだした。
おなじみ「ふるさと」という歌である。

「兎追いしかの山/小鮒釣りしかの川/夢は今もめぐりて/忘れがたき故郷」

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「ふるさと」を作詞した高野辰之の生家近くの「ふるさと橋」からの風景
橋の欄干にはうさぎが跳ねている。



ぼくの生まれは大阪府豊中市で咄家になるまでここに過ごした。
幼少期の頃にはまだ田畑の風景が多く残っていた。
しかし、「ふるさと」という歌にかぶさってくるのは
父の転勤で幼稚園から小学一年にかけて過ごした福岡県那珂川市での光景。
その頃からぼくは何かに夢中になると他のことはほったらかしの性分だったらしく、
当時の通信簿には「総てを忘れて遊びほうけて、
級友に注意をうけます」と書かれてある。
ランドセルを学校に忘れ、担任が自宅に届けてくれたこともたびたび。
いつもならバスに乗るところを身軽なことをこれ幸いにあぜ道をひたすら歩き続け、
ランドセルが届いてようやく身軽だった理由に気がついた、という始末。
池の隅にぎっしりと埋まる蛙に驚き、レンゲの花の絨毯に目を休めた。
悠々と流れる那珂川と、そこに浮かぶ渡り鳥の群れ。

あまりに帰りが遅いので母親が家の前で怖い顔をして待ち構えていた。
その頃によくやったのが、「根性試し」と称し
級友とともにカチンカチンに固まった肥溜めの上を歩く遊び。
何度かはまりそうになったこともある。

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福岡県那珂川市「岩戸小学校」入学記念。
どれが花團治か、自分でも判別できない。



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花團治が福岡県那珂川市「岩戸小学校」に通っていた頃の通知簿(小学一年生当時)


「ふるさと」を作詞した高野辰之の出身は長野県中野市で、
生家の近くには斑川という幅3メートルほどの川。
その向こうには熊坂山と大平山。昨年11月にぼくは講演の仕事でここを訪れて、
高野辰之の生家ものぞかせてもらった。

「かの川」「かの山」のモデルはここだと思った。
とはいえ、このような日本の原風景は全国にいたるところにある。
だからこそ多くの人々に愛され続けているのだろう。
ぼくは那珂川を思いつこの歌を歌う。

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「高野辰之」の生家




ところで、「ふるさと」が生まれたのは大正3年(1914年)のこと。
第一次世界大戦が勃発し、日本は戦争特需にわいていた。
宝塚歌劇が産声を上げ、ヤマハはハーモニカに製造に乗り出した。
東京駅が完成したのもこの年だった。
多くの若者が田舎を離れ、民族大移動が始まったのである。
「ふるさと」の二番と三番の歌詞にはこうある。

如何にいます父母/恙なしや 友がき/雨に風につけても/思いいずる故郷
こころざしをはたして/いつの日にか帰らん/山はあおき故郷/水は清き故郷


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「高野辰之」のお孫さんと


いつか「故郷に錦を」と思いながら出て来たが、
時が流れて戻る場を無くし、旧友と連絡するすべもなし…。
そんな者も多いだろう。
ぼくもまたあの那珂川には親類もおらず、
今も交流を続けている人は誰一人いない。
錦は飾れずじまいだけれど、
「あのとき一緒に肥溜めを踏んだよね」なんて会話を交わしてみたいものだ。

誰かこの投稿を見つけて声をかけてくれないかなぁ。



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
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255.雪駄とサンダル~なぜ踵を出して歩くのか~

ずいぶん前の話になるが、呉服屋の店主に
新発売だという雪駄を薦められた。確かに軽く、デザインもいい。
思わず財布の紐がゆるみそうになったが、
店主の「サンダルみたいに履けますよ」というひと言に
一気に興醒めしてしまい、何も買わずそそくさと店を後にした。


雪駄とサンダルは似て非なるもので、
やはり着物には雪駄だからだ。
このことを家に帰って嫁はんにぼやくと
「何で?サンダルみたいに楽に履けるってええやん」と
全く賛同を得られないばかりか、
「ちょっと頭、固すぎるんと違う?」とボロクソに言われてしまった。
しかし、しかしである。ぼくが雪駄にこだわるのは
大学でのこんなやり取りが背景にあったのである。

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大学での授業風景


ぼくの大学での講義は落語の実演をまじえながら
進めていくスタイルなのでたいてい着物姿だ。
その授業の最中にふとした会話から学生の一人が
こんなことを言いだした。

「センセのサンダル、
足のサイズに合ってない。小さいんと違う?」

それに対してぼくは
「いや、これはサンダルではなくて雪駄というもんや」と答えた。

これをきっかけに学生らによる質問が始まった。
「雪駄って何?」
「草履と雪駄は違うのん?」
「何で雪駄は足のかかとをはみ出して履くのん?」
「着物にサンダルはあかんの?」


情けないことにそういった質問に即答できるだけの知識を
ぼくは持ち合わせていなかった。
回答は次週に持ち越しということになり、ぼくなりにいろいろ調べてみた。

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花團治愛用の雪駄


雪駄というのは草履の一種で、
つま先の底と足が触れる天面が直接付いている草履を雪駄と呼んでいる。
また、雪駄は裏面に革が張られていて多少の悪路でもそのまま歩くことができる。
雪駄という言葉も雪の上でも歩けるということからきているらしい。

サンダルと草履の大きな違いはまず鼻緒の位置であろう。
サンダルの鼻緒の芯は内側にあるのに対し、
草履の鼻緒の芯は草履の真ん中にある。

つまり、サンダルは左右が決まっているが、
草履には左右の決まりがない。
草履は鼻緒が真ん中にあることで
小指が外側へはみ出してしまうことになる。
慣れない人はこれに違和感を覚えるらしい。

では、なぜ雪駄は踵を出して歩くのか。
ひと言で言えば、雪駄は和服のための履物だからということになる。
和服と洋服では歩き方が当然異なる。
着物と雪駄で現代ウォーキングをすれば、着物は着崩れるし、
鼻緒が足指に食い込むことになりすぐにちぎれてしまう。

着物の際の歩き方は大股で歩かず
摺り足で鼻緒を引っ掛けるように
というのが正しい(というか、着物に草履であれば自然にそうなっている)
このとき、摺り足がゆえに雑踏などで後ろを踏まれて
ひっくり返ってしまうリスクが高くなる。

また、草履はつま先と足の横にかかる鼻緒だけで支えて履くので
踵や足全体に重心を置く靴とは違い、
つま先に近い部分に重心がくる。
このとき、足のサイズより大きい草履だと
踵の部分をパカパカしながら歩くことになり
見た目に美しくないうえに、
悪路だと泥が後ろに跳ね上がって他人に迷惑が及ぶことになる。


花團治、そ、それは
桂花團治(撮影:坂東剛志)


さて、冒頭に述べた「サンダルのように履ける雪駄」だが、
やはり少し気になったのでこっそり取り寄せてみた。

なるほどこのサンダル雪駄の履き心地は実に良かった。
パカパカする踵の部分に反りを入れて足にフィットするようになっている。
鼻緒の芯もサンダルのように内側に寄っている。
「着物で摺り足」にもさほど支障がなさそうだ。

厳密に言えば、所作に多少の違いが生まれるかも知れないが
特に問題は感じなかった。
要は従来のサンダルのように歩かなければいいのだ。
あくまでも雪駄なのだから。

ぼくはきっと「雪駄よりもサンダルの方が履物として優れている」と
言わんばかりのモノ言いにカチンときたのだ。

「サンダルみたいに」というひと言さえなければ
おそらくあの場で購入していただろう。

…やはりぼくは頭が固いのだろうか。


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254.おじいちゃんのざんげ~戦争を知らない子どもたち~

ぼくが小学生3年か4年生の頃。
正月に母方の祖父の家に親戚一同が集まり、
その頃は高校生で後に音楽大学に進んだ叔母がピアノを披露し、
祖父は詩吟か何かを詠い、余興の順番がぼくにまわってきた。
ぼくはその少し前に流行った杉田二郎の戦争を知らない子どもたちを歌った。

戦争が終わって 僕等は生れた
戦争を知らずに 僕等は育った
おとなになって 歩き始める
平和の歌を くちずさみながら
僕等の名前を 覚えてほしい
戦争を知らない 子供たちさ


作詞・北山修、作曲・杉田二郎


太陽の塔400
「戦争を知らない子どもたち」が発表されたのは、1970年「大阪万博」の年だった。
「大阪万博」でアマチュアフォークシンガーのステージがひらかれ、その“テーマ曲”として製作された。




このとき一同からの拍手はどこかぎこちなく、
とても凍り付いた空気になったことは小学生のぼくにもわかった。
祖父はなんともいえぬ顔で黙っていた。

この母方の祖父は戦時中、満州での戦争に参加していて、
そのときのことを周囲の人によく話していた。
けれども、それはいかに作戦を立て相手を襲撃したかという話ばかりで、
ぼくはその武勇伝に辟易していた。
それで祖父に「一矢報いてやろう」と思いが
ぼくのなかに芽生えたのかもしれない。


一方、父方の祖父は父がまだ幼い頃に亡くなっていた。
父からは「お爺ちゃんは牢屋の中で死んだ」と聞かされた。
「何か悪いことしたの?」と小学生のぼくが尋ねると、
戦争反対を唱えたからや」という言葉が返ってきた。

父は母と結婚するときに猛反対されたらしいが、
きっとこのことが関係しているのだろう。
その母はぼくが3歳のときに亡くなり、
その後すぐに継母がきてぼくを育ててくれた。

父と生母のことをもっと詳しく知りたい気持ちもあるが、
今だずっと聞けないままでいる。

幼き日のぼくと弟
幼稚園の頃の筆者(向かって右)と弟




これは最近知ったことだが、
母方の祖父はかつて憲兵だったこともあるらしく
周囲からはとても恐い存在として映っていたらしい。
でも、一番孫であるぼくにはいつも優しかった。

ぼくが「戦争を知らない子どもたち」を歌ってからも、
祖父はぼくが家を訪れるたび目を細めて迎えてくれた。
いつしか戦争の武勇伝はあまり口にしなくなっていた。
当時の想い出として、
テーブルに大きく新聞を拡げる祖父の姿が今も目に焼き付いている。
祖父は4大新聞の全てを購読していた。
新聞なんてどれも一緒じゃないかと思っていたぼくが、
「何でそんなにたくさんの新聞を読むの?」と尋ねると、
「考えが片寄るといけないからな」という。

もうひとつ、思いだすのは祖父が封筒貼りをする光景だ。
その頃の祖父は民生委員など地域のボランティアを多くこなしていて、
毎日がその業務に追われて忙しそうだった。
リビングの傍らには大きな段ボールが詰まれ、
書類の封筒詰めから糊付けまで誰にもやらせず全て自分一人でこなしていた。
それが全くの無報酬だということを知ったぼくは
「誰かに手伝うてもうたらええやん」と言った。
祖父はしばらく黙っていたが、部屋を出ようとするぼくの背中に
「懺悔や」とひと言呟いた。

その祖父も十数年前に亡くなった。
今になって祖父の話をもっと聞いておけば良かったと思う。

祖父が戦争を武勇伝みたく喋っていた姿。
新聞を何紙も買い込んで目をこらす姿。
ボランティアに精出す姿。これらは同一人物とは思えなかった。

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今、ぼくは大阪空襲のことを調べて落語にしているが、
それを知った人からは憲法や戦後補償のあり方について問われることが多くなった。
でも、ぼくはそこにはっきりと答えを持てないでいる。
ネットでの論争は白か黒か、正か悪か…。
はっきりした意見ほど持てはやされている感があるが、どうもぼくにはなじめない。
「考えが片寄ると~」と応えた祖父の言葉が妙にぼくのなかに残っている。


立ち位置によって正義は変わるのである。
このことはうちの師匠(二代目春蝶)が晩年酒を舐めながらポソッと呟いたひと言、
「世の中を知れば知るほど寡黙になる」
という言葉とも符合している。

ぼくが今言えるのは「戦争はアカン」ということだけだ。

これをどういうアプローチで語っていくべきか。
開戦80周年を機として、ぼくなりの「過去との対峙」をやっていきたいと
気持ちを新たにした年末である。



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。





※創作落語「防空壕」を演じます ↓

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※1月6日「花菱の会」の詳細はここをクリック!



※ぼくが古典の「崇徳院」を、
あやめがそれを女性の目線で描いた「裏・崇徳院」を ↓


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253.学校のいごこち~彼らがいたからぼくは不登校にならずにすんだ~

ぼくが夜間高校に出講するようになって
かれこれ20年以上の月日が経つ。

最近になって学校の雰囲気はずいぶん変わった。

いかにも指導者然としてモノを言う先生が
ほとんど見受けられなくなったかわりに、
生徒と談笑する姿をよく見かけるようになった。
ヤンチャな生徒が減っておとなしい生徒が増えたということかもしれないが、
文科省の方針について調べてみて合点がいった。


令和元年に文科省は「不登校児童生徒への支援は、
学校に登校するという結果のみを目標にするのではなく、
児童生徒が自らの進路を主体的に捉えて、
社会的に自立することを目指す必要があること」と打ち出していた。


従来の「とにかく登校させる」という方針を大きく転換させたのだった。


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出講する夜間高校の授業風景


ぼくに不登校の経験はないが、
小中学校での楽しい思い出はほとんど記憶にない。
いわゆるいじめられっ子で、
小学校ではマットにグルグル巻きにされ死ぬ思いをした。
先生に助けを乞うも、その担任はなぜかぼくに蔑んだような一瞥を送り、
フッと溜め息をつくだけ。
皆の前で「森(ぼくの本名)くんは
普通の子やないから放っとき
とも言われたこともある。

ぼくのなかでイジメの総元締めはこの担任だった。

それでもかろうじて学校に通い続けることができたのは、
ある一人のガキ大将のおかげである。
そいつは喧嘩がめっぽう強くて皆から一目おかれていたが、
放課後はもっぱらぼくと二人で過ごした。
どんな事情があったのかは知らないが、
周囲の大人たちは「あの子とは遊んではいけない」と
自分の子どもに言い聞かせていた。
ぼくの両親も同様だったが、そんなことはおかまいなしで
ぼくは毎日のように彼と自転車を二人乗りして遠出した。
ペダルを漕ぐのはいつもぼくの役だがそれでも楽しい時間だった。
彼とぼくは学校で会話を交わすことなどほとんどなく、
イジメから救い出してもくれることもなかったが、
それでも彼の存在はなんとも心強かった。

中学に入ってからは、入れ替わるように
別の喧嘩の強い級友がぼくを守ってくれた。
テストがあると彼より少し勉強のできたぼくは、
真後ろに座る彼のために用紙をずらしてはカンニングをさせていた。
その甲斐あって、不良グループに囲まれあわやリンチに遭いそうになったとき、
そのリーダーでもあった彼が
「森にだけは手を出すな」と言ってかばってくれた。

もしあの頃、彼らの存在がなかったら
ぼくは間違いなく不登校になっていた。


幼き日のぼくと弟
幼稚園時代のぼく(右)と弟


高校生になってからは落語がぼくを守ってくれた。
上方落語ではおなじみの喜六という男。
おっちょこちょいでスカタンばかり繰り返すこの人物を
町内の隠居である甚兵衛さんや兄貴分の清八が
「相も変わらずオモシロイ男やな」
と言って温かく受けとめる。

ぼくはこの喜六と自分とを重ねていた。
ぼくにとって落語はシェルターだった。
そこに潜り込むことで楽になれた。




落語家になってからは、師匠(先代桂春蝶)が甚兵衛さんや清八になった。
「お前、何をしとんねん!」という戒めの言葉につい笑ってしまい、
さらに叱られたことがあったが、
それは可笑しかったからではなく嬉しかったから。

「師匠はぼくのことを見てくれている」という安心感に包まれた。

亡くなってからずいぶん経つが、
ふと「あぁこんなことをしてたら師匠に叱られる」と思ってしまうのは、
今なおぼくのなかに師匠が生きているという証しかもしれない。

春蝶の家族と共に
師匠宅に住み込み時代(中央が師匠、前列右が現・春蝶、その後ろにぼく)


ぼくが見た最近の夜間高校での光景も落語世界を彷彿させるものだった。
戒めつつも「しゃあないやっちゃ」と生徒を受け止める教師は甚兵衛さんや清八。
「わし、お前のことをちゃんと見てるで」という眼差し。

甚兵衛さんや清八が見守る学校はなんともいごこちがいい。

最近、世間では物騒な事件が頻発しているが、
彼らに「いごこちのいい場所」があったら
犯罪は防げたのではないだろうかと考えてしまう。


ぼくの居場所を作ってくれたガキ大将や不良の彼の存在は大きかった。
いつかお礼を言いたいなぁ。



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
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※ピースおおさか平和寄席の詳細はここをクリック!

12月5日は、大阪空襲と、襲名後わずか一年目で
その犠牲になった先代花團治にちなんだ創作落語を予定しています。
その思いについてブログにまとめています。
ぜひ下記URLをクリックしてご一読くださいませ。


※大阪空襲と二代目花團治




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※ドン・キホーテ木之本公演の詳細はここをクリック!



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※あやめ・花團治ふたり会の詳細はここをクリック!


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252.仁鶴師匠と敏江師匠~二代目春蝶生誕祭に寄せて~  

生前、ぼくの師匠の二代目桂春蝶がぽつりと呟いた。

「春輔兄さんは後世ずっと
語られることになるけど、
わしが死んだらすぐに
忘れられるんやろな」



春輔兄さんとは奇行エピソードが尽きることのない「伝説の落語家」

この言葉が脳裏にずっと残っていたぼくは、師匠が亡くなって20年を越えた頃、
兄弟子の桂一蝶や師匠の子息である大助こと当代春蝶に相談した。

ここから師匠の誕生日である10月5日に、
毎年「二代目春蝶生誕祭」を開催することになった。

めったに一緒にならない一門(といっても一蝶兄だけなのだが)と
三代目春蝶と集い、思い出話に花を咲かせる座談会つきの落語会である。


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毎回、縁の深い方にゲストとして出演してもらっているが、
いつかはと思っていた方がここ数日、相次いで亡くなられた。


笑福亭仁鶴師匠(8月17日没)そして、正司敏江師匠(9月18日没)。
それぞれの享年が84と80。
うちの師匠は生きてはったら80歳なので、
まさしく同時代を生きた師匠方である。


ぼくが春蝶に入門してすぐの頃、
仁鶴、ざこば、八方の御三方が春蝶宅で麻雀に興じるということがよくあった。
今、目の前に人気者たちがいる!そのことに、当時二十歳のぼくはおおいに興奮した。
麻雀に興じる師匠方のために水割りを作ったり、オニギリを握ったり…、
雑用をこなしながらも、師匠方の会話をひと言も漏らすまいと耳をダンボにした。

ざこば師匠は牌を取るたび鼻息荒く、
黙々とゲームを続ける春蝶や八方師匠とは極めて対照的だった。
そんななかで仁鶴師匠の麻雀はいかにも楽し気で、
チャンチャーンチャカチャカチャンチャン…という鼻歌が飛び出した。
運動会でよく耳にする「天国と地獄」という曲である。
そして時おり、牌を取るときに
「どんなんかなぁ~」
という
あのギャグのフレーズをやってくれた。

ぼくは笑いをグッと堪えつつ肩を震わせた。
そのときチラリとぼくを見やる仁鶴師匠と目が合った。
師匠は目の奥でニヤリと笑い、素知らぬ顔で牌を並べた。

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それから30年後、ぼくが蝶六から花團治を襲名する際にご挨拶に伺うと、
テレビで見るあの穏やかな表情で優しく口調でこう話された。

「春蝶さんが亡くなったのは
…あぁそうか。もうそないなりますか。
惜しい人を亡くしました。
それでいくつやったかなぁ
…あぁそうか51歳でしたか?
志半ばにして亡くなったんやね」



その顔にはあの「ニヤリ」のような茶目っ気は微塵もなく、
遠い昔を懐かしむような目をされていた。
そしてぼくの目をしかと見据え、

「君は春蝶さんの遺志を
継いでいく責任がある。
これからも精進するように」



落語界を背負ってきた自負がにじむ重みのある言葉だった。

正司敏江


敏江師匠と初めてお会いしたのは道頓堀の角座の楽屋だった。
ぼくが入門を乞いに行ったとき、
その場にたまたま居合わせた、という縁である。
その頃弟子を破門にしたばかりの二代目春蝶は
「金輪際、弟子は取らん」と公言していたらしく、
ぼくを弟子に取ることをかなり渋っていた。

すると、敏江師匠が横から春蝶の顔を覗き込み、

「春蝶くん、ええ子やんか、
取ったりぃなぁ~。
いや、この子はええと思うよ」


なかなかの「圧」がある物言いに、春蝶もタジタジ。
もちろん敏江師匠とぼくはその日が初対面だったのにもかかわらず、だ。


後でご本人に聞くと、どうやら何の確信もなく、
その場のノリで言っただけとのこと。

「あんた、捨てられた子犬みたいに
思いつめた顔をしてたんやもん。
可哀そうに思うてな」


ともあれ、ぼくは敏江師匠のおかげで入門できた。


今ごろ、敏江師匠は
「姉ちゃんのせいでとんでもない弟子を取ってしもうたやないか」と
うちの師匠にぼやかれていることだろう。

仁鶴師匠とうちの師匠はきっと雀卓を囲んでいるに違いない。
師匠の元に堂々と顔向けできるよう、しっかり精進します。


この原稿は、「二代目春蝶生誕祭~生きてはったら80歳」のパンフレットのために書き下ろしたものに、
加筆・修正したものです。




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蝶六改メ三代目桂花團治

Author:蝶六改メ三代目桂花團治
落語家・蝶六改め、三代目桂花團治です。「ホームページ「桂花團治~蝶のはなみち~」も併せてご覧ください。

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