276.何これ?ポリコレ ~正義の顔した言葉狩り~
最近、「ポリコレ」という言葉をよく耳にするようになった。
直訳すると、政治的配慮。
ディズニー映画では、これまで白人だったヒロインを黒人に変えたり、
同性愛者のキスシーンを入れたり…。
背景には「ポリコレ」問題があるらしい。
ディズニーランドでは「レディース&ジェントルマン、
ボーイズ&ガールズ!」という呼びかけが
「ハローエブリワン」に変わった。
アメリカの街角では、「メリークリスマス!」というフレーズが、
「ハッピーホリデーズ」に代わりつつある。
キリスト様以外の人々に対する配慮だということはいわずもがな。
「ポリコレの波が日本に押し寄せると、落語は一体どうなるのでしょう?」と、
ぼくの友人たちは心配するふりをしながら面白がっている。
誤解を恐れず申し上げると、
落語は「ステレオタイプ」で成り立っている。
亭主は亭主らしく、女房は女房らしく。商人も侍も然り。
話し方のみならず、手の置きどころや腰骨の入れ方(=姿勢)云々。
その人物像に合った態を作ることで、
観客が想像しやすいという構造になっている。
どうやら落語と「ポリコレ」は相性が悪そうだ。
明らかに蔑視を含んだ表現は問題外として、
ステレオタイプで表現される「差異」を全て否定されたら
落語はもう成り立たない。

筆者近影(撮影:坂東剛志)
「差別」という問題でよく取り沙汰される「月見座頭」という狂言。
中秋の名月の宵、一人の盲人が
「せめて野に鳴く虫の声を聴いて深まる秋を楽しもう」と
一人静かに野に向かう。そこへ現れた一人の男。
「目が見えないのに、月見?」と不思議に思ったが、
「虫の声を聴く」という言葉に納得。
やがて二人はすっかり打ち解け、酒盛りを始めた。
夜が更ける頃、二人は別れの挨拶を交わし別々の方向に。
「あの男のおかげで楽しいひとときだった」とすっかり上機嫌な盲人。
しかし、それからしばらく行くと、
今度は一人の荒っぽい男に行き当たられ、罵倒と共に引きずり回された。
実はこの荒っぽい男は、
さきほど酒をふるまってくれた親切な男と同一人物。
盲人と別れた後、急に心が変わり、
声を変えるまでしていたずらを仕掛けてきたのだ。
突き倒された盲人は「ああ、えらい目に遭った」とその場を去っていく。

「月見座頭」を演じる大蔵流狂言方・安東伸元師。
筆者もかつて20年間師事し、稽古をつけていただいた。
……この作品を問題にするのは
“盲人を笑いものにしている”という発想からくるものだろう。
しかし、狂言は喜劇である。
喜劇とは人間の愚かさを笑い飛ばす芝居を指すが、
この喜劇において「愚かだ」と笑われる存在は
明らかに突き飛ばした男の方である。
盲人を笑いものにしているのではなく、
盲人を弄った男の弱さ、
尊大さを笑っているのだ。
誰もが持つ、弱者をいじめる心情をしっかりと描くことで
見る人に問いかける優れた作品だ。
以前、この狂言を夜間高校の授業でビデオ鑑賞していた際、
神妙な顔つきで画面を眺めていた五十代の一人の男性が、
「自分の中にもこの男と同じような
性根が宿っていると強く感じた」と打ち明けてくれた。

筆者近影(撮影:坂東剛志)
上方落語には「喜六」という阿呆がよく登場するが、
彼を差別的に嘲り笑う作品はまずない。
彼を取り巻く環境には、彼に対する愛がある。
「しゃあないやっちゃ」「憎めんやっちゃ」という受容の精神を周りが持つことで、
彼は生き生きと輝きだす。
なおかつ彼は、そのコミュニティーの潤滑油を担っている。
彼と関わる人たちが、彼を見下すようなことは決してないのである。
「ポリコレ」は、単なる「言葉狩り」よりもっと厄介な問題になるかもしれない。
けれども、行き過ぎた「ポリコレ」は文化を滅ぼす可能性があることは間違いない。
「月座座頭」のような、
弱者をいじめる者をしっかり批判している優れた作品さえも封じることは、
世の中に実際に起こっているイジメについて
「なかったことにする」のと同じことではないか。
大事なのは「何を笑うか?」ということ。
ここさえしっかり守っていれば、ポリコレの波など屁とも思わない!
…と思いつつ、内心ちょっと怯えている今日この頃。(了)
※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。

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直訳すると、政治的配慮。
ディズニー映画では、これまで白人だったヒロインを黒人に変えたり、
同性愛者のキスシーンを入れたり…。
背景には「ポリコレ」問題があるらしい。
ディズニーランドでは「レディース&ジェントルマン、
ボーイズ&ガールズ!」という呼びかけが
「ハローエブリワン」に変わった。
アメリカの街角では、「メリークリスマス!」というフレーズが、
「ハッピーホリデーズ」に代わりつつある。
キリスト様以外の人々に対する配慮だということはいわずもがな。
「ポリコレの波が日本に押し寄せると、落語は一体どうなるのでしょう?」と、
ぼくの友人たちは心配するふりをしながら面白がっている。
誤解を恐れず申し上げると、
落語は「ステレオタイプ」で成り立っている。
亭主は亭主らしく、女房は女房らしく。商人も侍も然り。
話し方のみならず、手の置きどころや腰骨の入れ方(=姿勢)云々。
その人物像に合った態を作ることで、
観客が想像しやすいという構造になっている。
どうやら落語と「ポリコレ」は相性が悪そうだ。
明らかに蔑視を含んだ表現は問題外として、
ステレオタイプで表現される「差異」を全て否定されたら
落語はもう成り立たない。

筆者近影(撮影:坂東剛志)
「差別」という問題でよく取り沙汰される「月見座頭」という狂言。
中秋の名月の宵、一人の盲人が
「せめて野に鳴く虫の声を聴いて深まる秋を楽しもう」と
一人静かに野に向かう。そこへ現れた一人の男。
「目が見えないのに、月見?」と不思議に思ったが、
「虫の声を聴く」という言葉に納得。
やがて二人はすっかり打ち解け、酒盛りを始めた。
夜が更ける頃、二人は別れの挨拶を交わし別々の方向に。
「あの男のおかげで楽しいひとときだった」とすっかり上機嫌な盲人。
しかし、それからしばらく行くと、
今度は一人の荒っぽい男に行き当たられ、罵倒と共に引きずり回された。
実はこの荒っぽい男は、
さきほど酒をふるまってくれた親切な男と同一人物。
盲人と別れた後、急に心が変わり、
声を変えるまでしていたずらを仕掛けてきたのだ。
突き倒された盲人は「ああ、えらい目に遭った」とその場を去っていく。

「月見座頭」を演じる大蔵流狂言方・安東伸元師。
筆者もかつて20年間師事し、稽古をつけていただいた。
……この作品を問題にするのは
“盲人を笑いものにしている”という発想からくるものだろう。
しかし、狂言は喜劇である。
喜劇とは人間の愚かさを笑い飛ばす芝居を指すが、
この喜劇において「愚かだ」と笑われる存在は
明らかに突き飛ばした男の方である。
盲人を笑いものにしているのではなく、
盲人を弄った男の弱さ、
尊大さを笑っているのだ。
誰もが持つ、弱者をいじめる心情をしっかりと描くことで
見る人に問いかける優れた作品だ。
以前、この狂言を夜間高校の授業でビデオ鑑賞していた際、
神妙な顔つきで画面を眺めていた五十代の一人の男性が、
「自分の中にもこの男と同じような
性根が宿っていると強く感じた」と打ち明けてくれた。

筆者近影(撮影:坂東剛志)
上方落語には「喜六」という阿呆がよく登場するが、
彼を差別的に嘲り笑う作品はまずない。
彼を取り巻く環境には、彼に対する愛がある。
「しゃあないやっちゃ」「憎めんやっちゃ」という受容の精神を周りが持つことで、
彼は生き生きと輝きだす。
なおかつ彼は、そのコミュニティーの潤滑油を担っている。
彼と関わる人たちが、彼を見下すようなことは決してないのである。
「ポリコレ」は、単なる「言葉狩り」よりもっと厄介な問題になるかもしれない。
けれども、行き過ぎた「ポリコレ」は文化を滅ぼす可能性があることは間違いない。
「月座座頭」のような、
弱者をいじめる者をしっかり批判している優れた作品さえも封じることは、
世の中に実際に起こっているイジメについて
「なかったことにする」のと同じことではないか。
大事なのは「何を笑うか?」ということ。
ここさえしっかり守っていれば、ポリコレの波など屁とも思わない!
…と思いつつ、内心ちょっと怯えている今日この頃。(了)
※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
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