トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

187.おしゃべりはやめて~弟弟子のこと、愚か塾のこと~

花團治宣材ピンク300
花團治公式サイトはここをクリック!



今から33年前、ぼくが先代春蝶の家に住み込みだった頃、
師匠のもとに一人の入門志望の若者がやってきた。

「人前で話すのが苦手で、
なんとかそれを克服したいんです」。

彼は大真面目な顔で弟子入りしたい理由を語った。
「絶対、師匠はこいつを弟子に取らないだろう」と思っていたら、
意外にもすんなりとぼくの弟弟子として迎えられた。

「うちは話し方教室やないねやさかい」
自嘲気味に笑う師匠の表情は今もよく覚えている。
でも、それは決して突き放すような言い方ではなく、
「けったいなやっちゃなぁ」と相手を受け入れる微笑みでもあった。


結局、彼は落語家を廃業してしまったが、
今になって思えば、彼はとてもイイ奴だった。
なにより聴き上手なところが彼の長所だった。
ことあるごとにぼくの愚痴の聞き役になってくれた。
そんな彼が廃業して一度だけぼくの自宅を訪ねてくれたことがある。
「兄さん、ぼくね、師匠のところでの修行生活が、
今になってものすごく役立ってるんですよ」。
目をキラキラさせてそう語ってくれた。

師匠は出しゃばったことの嫌いな人だった。
抑制のきいた喋りは「引きの芸」に繋がったし、
ペーソスあふれる芸風を生みだした。
そんな師匠だからこそ、
彼のそういう立ち居振る舞いに
何かを感じ取ったのかもしれない。


二代目春蝶、ノック、たかじん、ざこば
左から二代目春蝶、横山ノック、やしきたかじん、桂ざこば


一方、師匠のもとに入門してすぐの頃のぼくは
「ぼくはぼく、師匠は師匠やから自分のやり方を見つけなあかん」と、
どこか粋がっているようなところがあった。
落研出身でもあったぼくは稽古してもらっている尻から台詞を変えたり、
他の師匠のくすぐり(ギャグ)を勝手に付け加えたり……
ついには師匠にこんなことを言わせてしまった。

「あのな、習うっていう字はな、
羽に白いって書くんやで」


春蝶の家族と共に
先代春蝶一家と共に(後列右がぼく、その前に現・三代目春蝶)



現在、ぼくが主宰する「愚か塾」という落語教室には
10代から70代まで職種も年齢もバラバラな25名が通ってくれている。
発足しておよそ10年。これまでにおよそ70名が入塾したが、
そんな経験から言わせてもらえば、
自らを口下手だという人の方が比較的飲み込みが早い。

饒舌だからといって咄がイイとは限らないし、
「話し上手は聴き上手」というごく当たり前のことを
塾生たちがいつも気づかせてくれている。

愚か塾、大喜利1
発表会での大喜利風景


例えば、営業職にありがちなのが、
ぼくがアドバイスをしている途中にも関わらず、
「ああ、それは〇〇ということですね。はい!分かりました!」と、
自分で強引に結論づけて終わらせてしまうタイプ。
少し違うかなと思いつつもつい言葉を飲み込んでしまうというのは
ぼくの悪い癖である。
そんなとき、他の塾生がぼくの表情を横から盗み見て
可笑しそうにフッと笑っている。

また、こんな方も過去に何名かおられた。
「(他の)〇〇師匠のやり方が面白かったので、
そちらの音源で演ってもよろしいか」という受講生。

まるであの時のぼくではないか。


愚か塾、ぴっける
愚家ぴっける君。彼にとっての初高座だったが、
今春より教育ボランティアとしてザンビアに渡航することになった。


愚か塾、もねこ
愚家花もねこさん。こちらも初高座。なんともいえないイイ味出してます。


「愚か塾」では稽古を終えると
塾生たちと酒を酌み交わすことがある。
「酒のうえだから」という逃げ口上もあるが、
むしろ酒席でこそその人の性分がよく表れる。

他人の話を横からすぐに取ってしまう人。
妙な相槌で相手の話のリズムを狂わせる人。
持論の展開ばかりで他人の話を聞こうとしない人。
知ったかぶりで胴を取ろうとする人。あるいは慇懃無礼……


って、これらとてぼく自身がずっと注意され続けてきたことだが、
過去にはうちの塾にもそういう方が何名かおられた。
こういう体質は咄を演じていてもすぐに表れるもので、
しっかり咄の「間」が取れなかったりする。

単なるお喋りは話し上手ではない。


愚か塾、打ち上げ
発表会のあとの打ち上げ。
稽古場では代々の花團治と先代春蝶が見守ってくれている。


◆「愚か塾」については、ここをクリック!

……教えることは教わることだと痛感する日々。
ぼくには弟子こそいないが、塾生という存在がそれに代わってくれている。
今在籍する塾生はみんな「傾聴」の人々だと感謝している。
それにしても、ぼくの元・弟弟子。
あのまま続けていたらきっとイイ咄家になっていただろうなぁ。
機会あらば是非一献傾けたい。



この原稿は熊本の人材派遣会社・㈱リフティングブレーンの発行する『リフブレ通信』に
連載中のコラム「落語の教え」を加工したものです。


テレマンと落語400
◆花團治出演情報はここをクリック!

◆花團治公式サイトはここをクリック!


※春は「落語講座」開講のシーズンです↓↓↓
◆4月から神戸・新長田「ビブレホール」にて桂花團治の落語入門が開講します。詳しくはここをクリックくださいませ。(講座名:落語で検索)
◆4月より開講する「繁昌亭落語家入門講座」21期生を募集中です。詳しくはここをクリックくださいませ。
◆花團治の主宰する「愚か塾」は定員を超えたため、キャンセル待ちとさせて頂いておりますが、4月頃から見学体験を再開する予定です。詳しくはここをクリックくださいませ。


186.わからんけどわかった~古典芸能はアタマに気持ちイイ!~

花團治の会3、清水1、400
2017年1月16日、天満天神繁昌亭にて(撮影:相原正明)



「わからんけどわかった」


これまであちらこちらに落語を出前させてもらったなかで
もっとも印象に残った一言です。

それは京都のある小学校でのこと。
「これまでに落語を生で聴いたことある人は?」というぼくの問いかけに、
100名近くいるうちのおよそ半分がサッと手を挙げた。
「へぇ、誰の落語?」と尋ねると、
その手が皆、ぼくを指さした。
「そうか!?……毎年ここは5年生と6年生対象だから、
去年の5年生は、今年の6年生なんだ」

そんなことも忘れて高座に上がったぼくがうかつだった。
小学校での落語はたいてい『動物園』『饅頭こわい』を演じているが、
今日は違う演目をせねばならない、と
咄嗟に口をついて出た咄が『牛ほめ』だった。
家の普請(建築)を褒めるという、落語好きにはおなじみの一席。
しかし、現代にはなじみの薄い単語も多い。

「庭が縮緬漆喰、上り框が桜の三間半節無しの通り門。上へあがると畳が備後表のヨリ縁、天井が薩摩杉の鶉杢。それから奥へ通ると南天の床柱、萩の違い棚、黒柿の床框……」

咄嗟とはいえ、何という選択をしてしまったんだろうと
後悔するも、時すでに遅し。
すっかり咄に入っていて、もう後戻りはできなかった。

しかし……
子どもたちはぼくの心配をよそに腹を抱えて笑っていたのです。

オチを言ったあと、彼らに感想を求めてみた。

「どうや?」
「うん、めちゃ面白かった」
「わからんコトバがあったやろ?」
「うん、あったあった。いっぱいあった」
「それでもオモシロかった?」
「うん、わからんけどわかってん」


そうか!多少わからないコトバがあったとしても、
それを前後の内容から想像して補う「想像力」というチカラが、
人間には備わっている。
そんな当たり前のことに改めて気づかされた瞬間でした。

花團治の会3、花團治1
2017年1月16日、天満天神繁昌亭にて(撮影:相原正明)


一人の男の子が発した「わからんけどわかった」は、
ぼくが初めて生の落語に触れた時のことをも思い出させてくれました。
それは、ぼくが高校に入学して落語研究会を見学に訪れたときです。
先輩の一人が『壺算』を演じました。
一席語り終え、「どうやった?」と尋ねられました。
そのとき、ぼくはこう応えました。
「うん、(内容が)よくわかった」。
その先輩は少し怪訝そうな表情をしていましたが、
ぼくにとっては「知的快感」をくすぐられた瞬間でした。

オチのところで「ああ、そうくるか!!!」という、
なんともいえない快感。とても心地良いものでした。
加えてこんなぼくにでもストーリーが理解できたということは、
このうえもない喜びでありました。
それが「よくわかった」というコトバに集約されたのでした。
このときの何ともいえない快感がぼくを落語の道へと誘ったのです。

花團治の会3、花團治2
2017年1月16日、天満天神繁昌亭にて(撮影:相原正明)


ところで、先日『第二回・花團治の会』(@天満天神繁昌亭)での狂言。
『蝶六の会』では、全15回のうち10回以上も狂言を務めてきましたが、
2年前に花團治を襲名して以来、この場で狂言を演るのは初めて。
ぼくが狂言をかじっていることを知らないお客さまも多かったでしょうし、
狂言という芸能に触れるのが初めてという方が大半だったと思います。

狂言はムツカシイと感じている方が世間には多いかもしれません。
でも、その多くはきっと「食わず嫌い」なんだと思います。

花團治の会3、清水3、400
2017年1月16日、天満天神繁昌亭にて(撮影:相原正明)

当日は相方の狂言師・金久寛章氏の好リードや、
感度の良いお客様のおかげもあって、
盛況のうちに終えることができました。
お見送りの際には、お客様から、ぼくの演じた狂言について、
多くのお言葉を頂戴することができました。

「二人のコンビネーション、最高!絶妙の間やった」
「ムツカシイと思ってたけど、全然そんなことなかった」
「狂言って”お笑い”やったんやねぇ」
「落語より狂言の方が演ってて楽しそうでしたね」


ちなみに最も嬉しかったのは一番上のコメント、
複雑な思いにさせられたのは最後のおコトバです。

花團治の会3、清水2、400
2017年1月16日、天満天神繁昌亭にて(撮影:相原正明)


ひょっとして、狂言の台詞のなかで意味不明に思われたコトバも、
いくつかあったかもしれません。
でも、人間の脳は、そんなわからないコトも、
「想像力」で補いつつ、たとえなんとなくであっても、
そこから先に進むことができます。
これはおそらくコンピュータには真似できないことでしょう。
そんなわけで
「わからんけどわかった」

ぼくはこのコトバに深い含蓄を感じてやまないのです。



花團治の会3、咲くやこの花学生集合500
当日は、市立咲くやこの花高校・演劇科の学生たちが多く参加してくださいました。
彼らの活気あふれる大きな笑い声が会場の盛り上がりを大きく後押ししてくださいました。



◆今回のブログに使わせていただいた写真は全て写真家・相原正明先生によるものです。
ここをクリックして「相原正明つれづれフォトブログ」も併せてお楽しみくださいませ。



※春は「落語講座」開講のシーズンです↓↓↓


◆4月から神戸・新長田「ビブレホール」にて桂花團治の落語入門が開講します。詳しくはここをクリックくださいませ。(講座名:落語で検索)

◆4月より開講する「繁昌亭落語家入門講座」21期生を募集中です。
詳しくはここをクリックくださいませ。


◆花團治の主宰する「愚か塾」は定員を超えたため、キャンセル待ちとさせて頂いておりますが、
4月頃から見学体験を再開する予定です。詳しくはここをクリックくださいませ。


◆金久寛章先生による「狂言教室」は現在も募集中です。
詳しくはここをクリックくださいませ。



◆花團治公式サイトはここをクリックくださいませ。



協会60周年チラシ500
◆会の詳細はここをクリックして「花團治出演情報」をご覧くださいませ。

らくごカフェ20170405の500
◆会の詳細はここをクリックして「花團治出演情報」をご覧くださいませ。

さばのゆ20170406の500
◆会の詳細はここをクリックして「花團治出演情報」をご覧くださいませ。







185.テレマンと落語~すべてはカーテンコールのために~

「花團治公式サイト」はここをクリック!



クラシック音楽の方々との共演は実に楽しい。
いつも刺激をいただいてます。

でも、語り終えたあとの
カーテンコールは実に気恥ずかしい。
お客様へのご挨拶という名目ながら、
なんだか拍手をもらうのが目的みたいで、
どんな顔をして立っていればいいか、いつも悩んでしまう。
「(じゅうぶんに満足させられず)ゴメンナサイ」では、
せっかく拍手を下さるお客様に失礼な気がするし、
「ドンナモンだ!」と胸を張って出ていける自信もない。
ホームグラウンドである繁昌亭では、
お客様のお見送りが定番になっているが、
あれとて本当はその場から
消え去りたい思いのときだって多々ある。

バッハ農民カンタータ3
嬉し恥ずかしカーテンコール



関西室内楽協会の代表・河野正孝先生との出会いは、
共通の知人の紹介でした。
クラシックコンサートにと誘われ、天満教会へ。
終演後はそのまま打ち上げまで。
「こちらが前に話していた蝶六さんです」と紹介され、
それから先はトントン拍子に話が進み、
これまで、バッハ作曲の「コーヒーカンタータ」と「農民カンタータ」の
語り部を演らせていただきました。
いつも舞台では一人なので、何かをみんなで一緒にやるっていうこと自体、
毎度毎度、新鮮でたまりません。

で、今度はテレマンです。


バッハ農民カンタータ3リハーサル
リハーサルではオーケストラにダメ出しの嵐。こうやって作品を仕上げていくのですね。
刺激と感動の連続です。


ところで、恥ずかしながら、これまでぼくは、
テレマン」というのは、
音楽ジャンルの名称ぐらいに思っていました。
「日本テレマン協会」もよく耳にしていましたが、
まさか「テレマン」が偉大な作曲家の名前だということは、
それも「バッハ」と肩を並べる、
いやそれ以上に高名な作曲家だとは、
これまで存じ上げずにおりました。
クラッシックマニアからすれば「モノを知らないにも程がある」と、
お叱りを受けるやもしれません。

落語の世界でいえば、
落語という芸は知っていても
「春團治」を知らないというのに
等しいぐらいのことなんでしょうね。


テレマンの本400


音楽之友社『テレマン』によれば、
(テレマンに関する資料があまり出回っていないことに驚かされました)
当時としては、かなり革新的な芸術家だったみたいです。

テレマンの功績のひとつに、
「ドイツ音楽に、スラブ風の旋律とリズムを取り入れた最初の作曲家」
ということが挙げられるそうですが、まあ、落語でいえば、
「ラップ落語」をするぐらいの勢いだったのかもしれません。

とにかく、門外漢のぼくにとって、この書物の中身は、
チンプンカンプンだらけでしたが、
それまでのステレオタイプな発想にこだわることなく、
俯瞰的、マクロ的、水平思考、グローバル……
いろんな視点をもった芸術家なんだということだけは伝わってきました。

また、レコードなど音源出版などなかった時代です。
出版活動にも熱心に取り組んだそうです。
作曲のみならず、プロデュース能力にも長けた方でした。

まあ、今で言うなら、どなたに当たるのでしょうか?
小室哲哉?秋元康?つんく♂?……

バッハ、モーツァルト、ベートーベン、ハイドンもいいが、
テレマンだってもっともっと評価されるべきだ!!!
という思いに至りました。

ウィキペディア『テレマン』はここをクリック!

そんなわけで、今、我が家のリビングでは
テレマン作曲『ターフェルムジーク』が流れ続けております。
なんとも心地の良いメロディーです。

で、このたびのチャペルコンサートは以下の通りです。

テレマンと落語400

落語は浄瑠璃を題材にした『豊竹屋』。
それと、曲と曲の合間に小咄なぞを語らせていただく予定。
堂々と胸を張ってカーテンコールに挑めるよう、
今、テレマン語りについて、いろいろ思案中です。

詳しくは、「花團治HP」にも掲載しています。
チャペルコンサート情報はこちらをクリック!

バッハ農民カンタータ1
今回も十字架を背に語らせていただきます。

コーヒーカンタータ、打ち上げ
関西室内楽協会のみなさんと。


「花團治公式サイト」はここをクリック!

184.耳で覚える~落語のお稽古~

花團治宣材400
◆花團治公式サイトはこちらをクリック!


あるとき、ぼくは先輩に稽古をつけてもらっていてこんなことを言われた。

「お前さんは目で覚えようとしてるやろ。
せやから台詞が身体に入れへんねん」。


当時のぼくの落語の覚え方は音源をもとに台詞をノートに書き写し、
ひたすらそれを見ながらブツブツ口にするという方やり方だった。
このときに言われたのが「耳で覚えんかい!」という言葉。
今でも鮮明に覚えている。


例えば20分の落語を師匠が弟子の前で同じように三回繰り返す。
それだけで咄を覚えてしまうというのが「三べん稽古」という方法。
かつて落語家の世界ではこれがごく当たり前だった。
しかし今、それに対応できる咄家はむしろ少数派だろう。
威張っていうことではないが、ぼくにはとうてい無理である。
落語家になって初めて稽古をつけてもらったときも
うちの師匠(先代桂春蝶)は「お前にはどうやら無理そうやな」と
1分ぐらいずつに丁寧に区切って繰り返してくれた。
それでもぼくは悪戦苦闘だった。当時の稽古は録音など許されなかった。
困り果てたぼくは市販されている速記本に助けを求め、
台詞の忘れた部分をこっそり補った。でも師匠は全てお見通し。

「そうやってズルいことをするねやったら、
わしは今後一切お前には稽古をつけん!」



春蝶の家族と共に
右後ろの若者がぼく、その前の少年が現・三代目春蝶(大助くん)


ところで、現在ぼくは大阪北浜にある「フレイムハウス」という喫茶店で
月に一度、落語講座を開いている。
先日は常連さんの紹介で小学2年生の女の子が母親と共にやってきた。

ちなみにここでは主にビジネスマンが対象だ。
小学校2年生がこれについてこられるかが心配だ、
とはいえ小学生向きに変えるというのは他の受講生の手前、少し抵抗を感じていた。
内心そんなことを思いつつ、まずはいつものように口移しによるお稽古。
大道芸や狂言、落語の立て弁などが題材だ。

「漸うと上がりました私が初席一番叟でござります。
お次が二番叟、三番叟に四番叟、五番叟にお住持に旗に天蓋銅鑼に妙鉢影灯籠に白張とこない申しますとこら葬礼の方でござりますが……」。
これは「東の旅」という咄の発端部分。
ここからおよそ3分のくだりを何度か繰り返す。

◆「東の旅」に関するぼくの私見はこちらをクリック!

◆「狂言台詞」の効用についてはこちらをクリック!


フレイムハウス外景1の400

フレイムハウス外景2の400
大阪北浜のオフィスビルのなかで、まるでタイムスリップしたようなフレイムハウス。



さて、くだんの小学生はとみると、最前列でしっかりぼくについてきてくれていた。
しかも途中からは台本を閉じてぼくの目と口元と声だけに集中。
大人でさえ難しい単語の連続にもかかわらず、
5回も繰り返した頃には彼女はすっかり台詞を覚えてしまっていた。
ぼくもこれまで小学生のワークショップは何度も経験しているが
これほど飲み込みの早い子は初めてだった。
大人顔負けというよりそれ以上(少なくともぼくよりは)はるかに優秀である。

講座が終わって、彼女の母親にいろいろ話を聞いてみた。
家ではよく母親が彼女に読み聞かせをしているということだった。


また、自宅にテレビは置いていない という。
本人もまた「ラジオは聞くけど、テレビはうるさくてかなわない」らしい。
落語もツボツボでよく笑ってくれたが、
彼女の集中力や想像力の源はきっとこんな環境からだろう。

小玉親子400
「落語講座」に参加してくれた小学生とその母親と共に。


このとき「耳で覚えろ」という先輩の教えがぼくの脳裏に蘇ってきた。
俳優の誰だか忘れたが、
当時まだテレビがなかった頃にラジオから流れてきた落語を聴いて、
次の日に小学校の教室でそれを演じたという逸話がある。
またその頃、講談の席ではライバルがこっそり客席に潜り込んではネタを盗み、
次の日には全く同じものを別の席で演じるというようなことも多々あったらしい。
もちろん録音機器など珍しい時代である。
「昔の人はスゴイなぁ」と済ませてしまえばそれまで。

しかし、これぐらいの記憶力はきっと驚くことではない。
オギャーと生まれて3歳ともなればちょっとした会話は当たり前。
ぼくにもあったこの学習能力は一体どこへ消えてしまったのか。
このたびは小学生の彼女がぼくにいろんなことを気づかせてくれた。
とりあえずつけっぱなしのテレビは消しておこう。


◆次回のフレイムハウスは2月16日(木)の開講!詳しくはこちらをクリック!!

◆花團治公式サイトはこちらをクリック!


協会60周年チラシ500
花團治は4月9日(日)と、千秋楽30日(日)の両日に出演します。

183.落語はビジネスに活きる!?~愚か塾の場合~

花團治宣材400
桂花團治公式サイトはここをクリック!


先日、ぼくの稽古場に卒業論文の取材をさせてほしいと
一人の女子学生がやってきた。
現在、ぼくは「愚か塾」という落語教室を主宰しているのだが、
その稽古人さんたちに伺いたいことがあるという。

「ブログで拝見したところ、お稽古人さんの多くが社会人のようで、皆さんはどういう目的で落語に取り組んでおられるのか?また、どういうふうに仕事に活かしておられるのかを伺いたくて」とのこと。
そこで稽古終わりに、数人の人にインタビューに協力してもらい、
ぼくは少し離れたところからしっかり聞き耳を立てていた。

愚か塾稽古場2400

「部下に対する接し方が変わったかなぁと思います。頭ごなしに叱りつけるんやなしに、少しは相手のいうことを聞けるようになった、と自分ではそう思っています。しいて言うなら、ぼくのロールモデルは甚兵衛さんですね」40代男性

……(花團治注)甚兵衛さんとは、落語に登場する町内の御隠居。阿呆に対して、「しゃあないやっちゃ」と呆れつつも優しく温かく見守る存在だ。


「私もそうですよ。普段、私は大学で教えているんですが、これまでヘマをした学生に対して『何をやってるんだ』と叱るばかりだったと反省してます。まず相手の言い分を聞いてやる。受容が大事です。甚兵衛さんのようにね。それに一方的では教育にならない。教育は対話です。それは落語から学んだことです」60代男性

……(花團治注)塾ではぼく自身教わることも多い。「落語と教育」の親和性には驚かされるばかりだ。この方がぼくを落語家としての教育の現場に導いてくれた。


「あのう、それやったら、ぼくのロールモデルは阿呆の喜六ですわ。相手に隙を見せるちゅうか、相手を優位に立てるちゅうか、喜六はホンマはめちゃ賢いちゃうかなって思うときがある。落語には人に愛される術が詰まっています」20代男性

……(花團治注)ある落語家の先輩はご贔屓が多いことで知られている。その師匠がぼくにこうおっしゃった。「ワシわな、相手を一目見たら己が喋りたい人か、あるいはワシの楽屋話を聞きたい人なのかがすぐにわかるんや」。何度か宴席にも同席したが、本当は博識なのに阿呆のふりができる見事な道化ぶりだった。


愚か塾、大喜利
「愚か塾」の落語発表会では大喜利が定番。団体プレーも愉しんでいただきます。


「わたしは、家でも職場でもなかなか声を出す機会がないので、ここで発散させてもらってます」50代女性

……(花團治注)ただ大きな声を出すというのではなくて「肚で声を支える」ということ。うちの稽古場では「東の旅」という咄の発端を参加者全員で毎回唱和している。

愚か塾稽古場2300

「新しい自分が発見できそう。最初はみんな同じ演目をするんですが、台詞が全く同じにもかかわらず、みんなそれぞれの個性が現れるんです。個性って、出すもんじゃなくて、にじみ出るもんなんですね」40代女性

……(花團治注)ぼくはある落語家の先輩に稽古をつけてもらっていてずいぶん叱られたことがある。「お前はわしを取る気がないやろ。わしに稽古を頼んだんやさかい、わしをいっぺん身体ん中へ入れるつもりで稽古せえ。それでもどうしても自分が出てくるやろ。それがお前の味や……第一、稽古してる尻から勝手にアレンジするやなんて、稽古つけてくれる人に対して失礼極まりないで」。

「わたしはボケ防止にやってますねん。まぁ、落語やってる間はボケまへんやろ。それに、この年になって舞台に立てるやなんて、人生は何があるか分かりませんわ」60代女性

……(花團治注)入門して間もない頃、ぼくは師匠に言われました。「お前はまだこの世界に入って間なしやけど人前で20分も喋らせてもらえるんやぞ。芝居の世界やったらちょっと考えられへんわな」。

「うちの家は代々お寺ですので、将来的には法話に生かそうかと思ってます」30代男性

……(花團治注)その昔、仏の教えを説いてまわる説教師の方々は、法話の際にまず滑稽な話を聞かせて民衆を惹きつけたといいます。このなれの果てが落語家だという説もある。



「皆さん、なかなかイイこと言ってくれるなぁ」と思いつつ、
隣の部屋からしっかり聞かせていただきました。
なかには「全くぼくからの受け売りちゃうのん!」と
思わず突っ込みたくなるのもありましたが…それでいいんです。

だって、ぼくだって9割受け売りですから。
何か盗むものあらば幸いです。


愚か塾20170212400
是非とも発表会にお越しくださいませ。

◆「愚か塾落語発表会」の詳細はここをクリック!

「落語の術を仕事や生活に生かしてほしい」
「落語の魅力を感じてほしい」
ということで始めた「落語塾」。
誰がウケたとか、オモシロいというのは二の次です。
そんなわけで、アマチュアで落語活動をしたいとか、
駆け出しの漫才師で「芸の肥やしにしたい」とか、
そういう目的の方はご遠慮いただいております。
そのうえで、愚か塾に興味を持たれた方は、
下記をクリックしてお問い合わせください。
現在は定員超えでキャンセル待ちとなっておりますが、
転勤などが多い春頃にはご案内できるかもです。


◆「愚か塾」についてはここをクリック


愚か塾、宴会、集合写真
落語を始めるとやめられない。現在は10代の女子高生から70代までの方々が集っています。




◆「桂花團治公式サイト」はここをクリック!


◆「写真家・相原正明が撮った花團治の高座」はここをクリック!



ワテからチケット20170213400
「ワテからチケット買うとくなはれ」はここをクリック!



◆「桂花團治公式サイト」はここをクリック!



182.天下一の軽口男~何を笑うか~

花團治、扇子を顔に400
「花團治公式サイト」はこちらをクリック!


最近になってようやく
『天下一の軽口男』(木下昌輝著)という時代小説を読んだ。
大坂落語の祖・米沢彦八の生涯を綴ったものだが、
これによると彦八は鹿野武左衛門という男を頼って
大坂から江戸の町へ繰り出している。
武左衛門は江戸落語の祖として知られているが、
元はといえば大坂の生まれ。これは文献にも残っている。

しかし、彦八が大坂から江戸に出たという記録は見当たらない。
けれども彦八と武左衛門は同時代を生きていたことは史実にも残っているし、
二人が交流したというのは全く在り得ない話ではない。
わずかに残る資料からどんどん膨らませていくのが時代小説の愉しさであろう。

彦八、天下一の軽口男

さて、辻咄(大道芸としての落語)を学びに江戸に出た彦八だったが、
すでに江戸では大坂とは違い、
辻咄からお座敷芸としての落語が主流になっていた。
日々投げ銭でその日暮らしをせずとも、
有力商人に認められれば悠々自適が約束された。

そこで彦八が見たものはそんな客にひざまずく芸人の姿であった。
あるお大尽の一人が彦八にこう言う。

「所詮、辻咄など闘犬や軍鶏と変わらぬ。
私たち大尽の退屈しのぎの余興よ。それを芸がどうのこうのと、
最近つけ上がっている。私たちがつまらんと言えば、
たちまち座敷から追放されるというのに
……今日は裸踊りでもさせるか。
……お前さんも座敷を目指しているのだろう。
せいぜい私たちが笑える芸を練っておきなさい。
最近面白かったのは、盲目の男がけつまづく仕方だ。覚えておけ」。


彦八が笑いを志し、
極めようとしたのは一人の少女への思いからだった。
彼女を笑いで苦しみから救ってやりたいと思っていた。
この後、彦八は江戸を後にした。

作品の詳細は『幻冬舎』のサイトにあります。こちらをクリック!

米沢彦八、境内の図
米沢彦八は生國魂神社の境内によしず張りの小屋を張り、そこで辻咄を演じた。


彦八まつり神社入り口
今も毎年9月の第一土曜・日曜に「彦八まつり」と銘打って落語家ファン感謝デーが開かれる。


生前、わが師匠(故・二代目春蝶)は、
ぼくによくこんなことをおっしゃった。
「あのな、何でもええから
笑わしたらええと言うもんやないんやで」。

師匠が繰り出す言動や笑いは常にどこか優しさを含んでいた。
それに、笑いというものはときに誰かを攻撃するものだ。
そんなときにも決まって師匠は弱者の立場を貫いた。
少なくとも弱者を嘲るような笑いはひとつとしてなかった。
『天下一の軽口男』で、
お大尽の言葉に憤る彦八はまるでわが師匠そのものである。

春蝶、立ち切れ、縮小版


思えば、師匠が我々弟子を叱るときには、
本当に怖いときとどこか笑みをためながらのときと二通りあった。
後者は弟子の失敗をどこか面白がっているふうでもあり、
「しゃあないやっちゃなぁ」という呆れが含まれていた。
いずれにせよ、師匠から突き放されたという思いは
一度だって感じたことがない。

ぼくは師匠のそんな眼差しに魅了されたのだ。

師匠の言動や眼差しは
いつだって愚かなぼくを救ってくれた。



また、ぼくがある週刊誌の対談コーナーに出たときのこと。
今でいうゲスなことをどんどん喋ってほしいという
先方の要望に応えようとしたぼくに雷が落ちた。
目先のわずかな現金欲しさに受けた仕事だったが、
このときばかりはしっかりとお灸を据えられた。

「あのな、若いうちは何でもやったらええと思うけどな、
ちいとは仕事を選ばんかい」。

この本に出会い、まず師匠のことを思い出した。
落語家としての矜持を正された思いです。

彦八、木下昌輝
「ああ、この人に会いたいなぁ」と思えば叶うもので、
ある落語会の打ち上げでたまたま隣の席におられたのが、
作者の木下昌輝先生でした。ばっちりツーショットを頂きました。


本文は、熊本のリフティングブレーン社が発行する社報誌
『リフブレ通信』の連載記事をもとに加工したものです。





愚か塾20170212400
おかげ様で塾生の数も25名を越えました。現在、空きが出次第のご案内となっておりますが、
入塾を希望される方は、下記の要綱をご覧のうえ、「花團治おふぃす」まで。
・・・・・・まずは、発表会を是非ご見学くださいませ。

◆落語教室「愚か塾」のご案内はこちらをクリック!

◆「愚か塾発表会」の詳細はこちらをクリック!


ワテからチケット20170213400

◆「ワテからチケット買うとくなはれ!」の詳細はこちらをクリック!




181.不況になればお笑いが流行る?~落語と狂言の親密な関係~

作家の瀬戸内寂聴さんは、
「(法話の際に)いきなり仏教のむつかしい話から始めても
集まってくれる人は聞く耳を持たない。
だから笑い話から始める」
とおっしゃってますが、
大昔からそういう風習はあったようです。
このような法話を落語のルーツとする説もあります。

それに、大真面目な真剣な話を聞くときには
グッと息を詰めていなければなりませんが、
そのためにもまず大きく息を吸う必要があります。
大笑いするということは
すなわち深呼吸するも同じこと。
ムツカシイ話をちゃんと聴くために、
まずは大笑いするということは、
とても理にかなったことです。


ところで、
「不況になればお笑いが流行る」
ということをよく耳にします。
テレビの製作費が縮小されるため、
コストの安いお笑い芸人を大量に使うようになるからだというのが、
その理由だそうですが、
はたしてそれだけでしょうか?

花團治、いらっしゃい、ブログ用


日本の「二大笑い芸能」である落語や狂言とて、
それらが生まれた時代は決して豊かとは言えなかったようです。

「落語」は江戸中期の発祥と言われていますが、
大阪に初めて常打ちの寄席小屋ができ、
「落語」が今のような
身振り手振りを交えた形になったのは江戸末期。
幕府が終焉を迎えて
世の中の価値観が大きく変わろうとするときに
「落語」という笑いの芸能が完成したのです。

一方、幕府の誕生と共に花開いたのが「狂言」という芸能でした。
平安から室町時代にかけて発祥したという記録があります。

つまり、これら日本の二大「笑い芸能」落語と狂言は、
それぞれ、世の中の大きな変動期に生まれたということ。

言い換えれば、
混沌とした時代が
笑いの芸能を求めたのです。



大須狂言、金久&花團治、やい聞くか!

昨今もなんだか混沌期を迎えそうな気配。
これから先、「笑ってる場合か!」と
目くじらを立てたくなる場面も出てこようかと思いますが、
そんなときこそ「笑い」忘れず、
まずは「笑い」で頭に酸素を送りたいものです。

さて、このたびは
日本の「二大笑い芸能」の共演。
「笑う」ということ、
「息を吐く」ということ、
「混沌期に立ち向かうための身体」などなどを、
笑いのうちにお届けしたいと思っています。

出演するのは、
「上方落語協会・狂言同好会」のメンバー、
森乃石松、月亭天使、ぼくの3名、
それに狂言師の金久寛章を加えた4名。

笑えて、ためになること、保証付き!


これから先、不定期ではありますが「落語と狂言の会」を
継続的に開催していくことにしました。
その旗揚げを盛り上げに是非ともお越しくださいまし。

やるまいぞ寄席チラシ
※『やるまいぞ寄席』の詳細はこちらをクリック!


その他、「狂言」に関する過去ブログは以下の通りです。
こちらも是非ご笑読ください。

◆狂言エクササイズ

◆落語と狂言はさも似たり

◆「狂言」と「落語」でぼくは変われた

◆病いは言葉から

◆『花團治公式サイト』


狂言 寝音曲 二人絡み
撮影:相原正明

狂言 寝音曲 舞う金久
撮影:相原正明

狂言 寝音曲 袴
撮影:相原正明

◆写真家・相原正明つれづれフォトブログ













180.親子チンドン~うちの居場所、見つけてん~

「チンドンって、火消しに通じるのよ」


襲名宣伝、林幸治郎
2015年、花團治襲名披露公演の街頭宣伝(撮影:相原正明)


ああっ、また林幸治郎さんが意味不明なことを言い始めた。
声を張るでなく、淡々と、しかもそれまでの脈絡と関係なく。
皆が傍でワァワァ騒いでいる間、
林さんだけはずっと思考モードのままだったのだ。
だから、林さんとの会話はいつも油断がならない。

その日は、近日にせまった「芸術鑑賞会」の打ち合わせ。
ぼくの出講する夜間高校から依頼された催しだ。
今回のテーマは「プロの流儀」。

桃谷、ポスター

「格付け」や「一流/二流」など、人の才能に優劣を付ける番組が流行っています。また、SNSでは「幸せに見られたい(リア充)」という欲望から、普段の生活を「盛った」画像の投稿がよく見受けられます。優劣を競い、「よく見せる」ようにするのは芸術・芸能の分野でもありますが、その中で、「高級にならない」ことに注力する芸能があります。それが、今回ご紹介するチンドン屋のパフォーマンスです。
 チンドン屋は、演奏や舞踊に対して高い技術を持ちつつも、あえて音程を外したり、失敗したり、ふらふらと歩いたりすることで人を惹き付け、また、街に溶けこみます。それは、劇場やホールではなく「街」を舞台にする芸能ならではのプロの技。日本を代表するチンドン集団「東西屋」の舞台を観て、また彼らならではのプロ意識やエピソードを聞くことで、「優劣」だけではない芸能の魅力・奥深さをぜひ感じてください。(企画制作:ende藤井百々)



林さんは続けた。

「大名行列で毛槍をふる奴さんの運足、
火消しの纏をふる運足、太鼓を担いでの運足、
はたまた歌舞伎の六法や吉原大夫の外八文字、
そして阿波踊りの歩きも同様。
ただ普通に歩くのではなくて、
歩くときの重心移動がミソなんですよ」

なるほど、重心移動を工夫することで、
あの重たいチンドン太鼓も難なく運べるわけだ。
林さんは、演奏ばかりでなく、
踊りの稽古にも余念がないと聞いている。
どの世界もプロというものは様(さま)が決まっている。

かくして当日は、学生たちを舞台に上げて、
それを実践してみせた。
林さんの説明は高度過ぎて
皆はついていくのに必死だったが、その様は
まさに「プロの流儀」だった。

桃谷、ワークショップ

桃谷、歩き方


生徒を舞台に上げての芸術鑑賞会。みんなノリノリで参加してくれた。


以前、ぼくが襲名した際のお練りのときも、
林さんはその一行を先導してくれた。
このときの足さばき(=運足)もまさに奴さんだった。

船乗り込み、林幸治郎の足さばき
2015年4月・襲名記念お練り(撮影:相原正明)


ところで、今回の「芸術鑑賞会」にはもうひとつ、
印象的なシーンがあった。
学生たちのなかには、これから先の人生に
不安を感じている者も多かろう。
そこで、林さんのお嬢さん・風見花ちゃんに
半生を語ってもらうことにした。
彼女なら10代の学生たちとも年齢が近く、
飾らない言葉で学生たちにメッセージを届けることができるはずと、
見込んでのことだった。

「うちの居場所がなかったんよ」


大須、林幸治郎、風見花
2014年、「大須大道芸まつり」の楽屋にて親子三代。
手前に孫と遊ぶ林幸治郎さん、奥に幸治郎さんの娘・風見花さん。



風見花さんはステージで中学時代のことを振り返り始めた。

「朝帰りを繰り返していて……
学校では先生と全然話が通じなくて。
気がついたら(別れて暮らしていた)
お父さんの事務所に来てたの」。

「色んな道があると思うの。
うちは音楽や踊りが好きやったから、
そればかり一生懸命やってたら、
いつしか道が開けてきたの。
自暴自棄になったこともあったけど、
あきらめずに生きてたら、
絶対ええことあるもん」


彼女と父親である林幸治郎さんのことを
これまでずっと傍らで見守り続けてきたジャージ川口さんは、
その日の打ち上げで
「風見花ちゃんがあれほど舞台で喋ったのは初めて見た」と言った。

ぼくも彼女の話に、思わず涙しそうになった。
彼女のストレートなメッセージは学生の心に強く響いたと思う。
若者は身を乗り出し、年配の男性は何度も涙を拭っていた。
おおいに盛り上がった鑑賞会だったが、
そこにいる皆がもっとも聴き入ったのがこの瞬間だった。
彼女は見事に期待に応えてくれたのだ。

風見花さんも
「なんだかね、お客さんが喋らせてくれたんよ。
……最初にうちらが入場してきたときと、
最後に演奏しながら帰るときのお客さんの反応が全然違っていて、
それがすごく嬉しかった」
と感想を述べた。

桃谷芸術鑑賞、風見花
拍手喝さいのなか、舞台をあとにする風見花さん


桃谷、打ち上げ
地域プロデューサーの渡邊隆氏(ピューパ代表)や、コリアNGOセンター事務局長の金光敏氏も駆けつけてくれた。

桃谷、金光敏
ちんどん通信社・林幸治郎氏と、コリアNGOセンター事務局長・金光敏氏の文化対談は周囲も興味津々で聴き入った。
林氏の横には、娘の風見花さん。


桃谷、楽屋
当日の楽屋風景



また、今回の舞台で、
ぼくは林さんの新たな一面を見ることができた。
それは風見花さんのトークの際。
彼女が言葉に詰まると、俄然饒舌になって、
なんとかフォローをしようとする。
それはまさしく父親としての姿だった。
マイペースで訥々と語る林さんとはかけ離れていて、
いつもの林さんではなかった。

林さんとは、かれこれ30年近いお付き合いになるが、
まだまだ氏には未知の部分が大きい。
まったく人を飽きさせないお方だ。
そんな父に寄り添う風見花さんがいじらしい。

微笑ましくもあり、今回もいろんな意味で充実した舞台。
これからもずっと『ちんどん通信社』とご一緒したい。

ちんどん国立
2016年9月27日、東京・国立演芸場にて(撮影:相原正明)

これまでの『ちんどん通信社』に関するブログ

◆最強のモタレ芸・チンドン

◆チンドン・飴ちゃん・寄席囃子

◆チンドンと、阿呆の喜六


◆『花團治公式サイト』はこちらをクリック!

◆写真家・相原正明のつれづれフォトブログはこちらをクリック!






花團治の会、第二回チラシ600
◆『花團治の会』の詳細はこちらをクリック!

やるまいぞ寄席チラシ
◆『やるまいぞ寄席』の詳細はこちらをクリック!

◆『花團治公式サイト』はこちらをクリック!

◆写真家・相原正明のつれづれフォトブログはこちらをクリック!








179.落語と狂言はさも似たり~落語家による落語と狂言の会・やるまいぞ寄席~


大須狂言、金久&花團治


「声を出す」のではなくて「息を吐く」。

謡曲のお稽古で学んだことです。
「肚の底で声を支える」ということは、
頭では分かっているつもりでも、
我流でなんとかなるようなものではありません。
ぼくにとって、謡曲のお稽古は身体のメンテナンスのようなもので、
お稽古のあとは、声の通りもいくぶん良くなったような気がします。

謡曲も狂言も、身体にいい。

謡の稽古
謡曲は水田雄晤先生(シテ方観世流能楽師準職分)にお稽古をつけて頂いてます。
鴫野「蕎麦処・仙酔庵」にて。



時折、お客様から「迫力があったなぁ」とか、
「やっぱり生の臨場感は違うなぁ」とか、
そういうお言葉を頂戴することがあります。
(他に褒め様がないので、そうおっしゃったのかも
しれませんが)
しかし、声の大きさと芸の良し悪しは
必ずしも一致するもんじゃない、ってことは、
芸人自身が一番よくわかってます。



うちの師匠(故・二代目春蝶)から、
こんなことをよく言われました。
「そんなに気張って喋らんでもええがな」


また、別のある師匠からは、こんなご指摘を受けました。
「お前は肝心なところで”押す”癖がある。
そこは押さんと、逆に引いてみぃ」とか、
「若手やないねんから、
大きい声を出せば
ええっちゅうもんちゃうねやで」とか、
「肩に力が入ってるで」とか、


ぼくが理想とするのは我が師匠のような洒脱で飄々とした芸。
なのに、頑張れば頑張るほど、そこから遠ざかる自分。
一向に治らない生来のキンキン声。
そんなこんながコンプレックスとなり、通い始めたのが、
とある狂言のお稽古場でした。

今はかつてのお稽古場で一緒だった金久寛章氏のもとで
狂言のお稽古を続けています。

金久、八聖亭、雪山稽古

第2・第4金曜日の夜は「八聖亭」に勤め帰りのOLを中心に毎回10名ほどが集っています。


金久、八聖亭、石松

金久寛章氏の指導を食い入るように見つめる森乃石松くん。彼の存在は周囲をほんわかさせます。なんだかとってもフラのある奴です。



狂言教室なのになぜかスクワットが必須メニュー。
声がスルリと出るから不思議です。
いわばこれは「体幹トレーニング」のようなもの。
声と姿勢の関係は密接です。
落語家の後輩の森乃石松くんや月亭天使さんも稽古に通ってますが、
先日、天使さんの師匠・月亭文都師からこう言われました。

「うちの天使の声がね、
最近、よく出るようになったんですよ。
これまで、台詞がブツ切れになっていたところも
ちゃんと息が続くようになった」


師匠は本人の前ではなかなか面と向かって褒めないもの。
間接的に褒めるのが常ですなぁ。

青山狂言、えいえいやっとな

金久先生にはぼくの出講する大阪青山大学にもお越し頂きました。


◆JR福島駅徒歩「八聖亭」狂言教室についてのブログはこちらから


ところで、「落語と狂言」って、
つくづく似た者同士だなぁと思います。

まず、「落語」「狂言」ともに
口語体(=話し言葉)だという点。

ちなみに、「能」や「講談」は、
ともに文語体(=書き言葉)が基本。
講談は、「読む」っていいますよね。
講談は「読む」、浪曲は「語る」、落語は「話す」です。

それに、「落語」も「狂言」も
登場人物の台詞で物語が進行していきます。

「能」や「講談」は、原則として
演者による状況説明で話が進んでいきます。

もうひとつ、大きな共通点は、
登場人物の多くがフツーの人だということ。

落語は、喜六、清八、甚兵衛さん……
狂言は、太郎冠者、次郎冠者、主人……
「能」や「講談」は歴史上の有名人が主です。

こうしてみると、「落語と講談の関係」は、
「狂言と能の関係」にさも似たり
ってところでしょうか。



さて、そんなわけで、
せっかくお稽古を続けているのだもの、
ということで、このたび
日本の二大笑い芸能である「落語」と「狂言」の会を、
この12月から始めることにしました。
万障繰り合わせの上、是非ご来場くださいませ。


やるまいぞ寄席チラシ

◆『やるまいぞ寄席』の詳細はこちらから
教え上手な金久先生を狂言指導に迎えての、上方落語「狂言同好会」の発表会。
いずれ大きな会場で定例会を目論んでいますが、
まずは、その第一歩をご覧くださいませ。
チラシデザインは、月亭天使です。




花團治の会、第二回チラシ600

◆『第二回・花團治の会』の詳細はこちらから
こちらも金久・花團治コンビで狂言を演じます。


◆花團治公式サイトはこちらから

178.バッハ『農民カンタータ』~せまじきものは宮仕え~

「バッハはんから依頼があってな、
なんでもこのたび新しいご領主さまを迎えることになってな、
そのご領主さまの歓迎パーティーで演奏する曲らしい」
「つまり、お追従、おべんちゃらの詩を書いてほしいということでっか?」
「平たくいえばそういうこっちゃ」

こんな経緯から生まれたのが、バッハの『農民カンタータ』です。
この作品のなかで、農民が税収係をボロカスにけなします。
実は、作詞担当のピガンダー本人の生業が税金徴収係でした。

では、何故、ピガンダーは詩のなかで、
自分の職業をわざわざ自虐的に描きはったんやろ?

今回、ぼくがバッハの演奏会にストーリテラーとして参加させてもらい、
ずっと賦に落ちずに悩んでいたのがまずこの点でした。

バッハ農民カンタータ1

バッハ農民カンタータ5チラシ

去年の『コーヒーカンタータ』に続いて、今年は『農民カンタータ」の語り部に挑戦させて頂きました。
花團治はストーリーテラーとして、楽章のあいまあいまに曲の意味や背景を説明する役割…のはずが、
ついつい興に乗ってしまい脱線の連続。
宴の場面では日本の宴会がそうであるように祝福ソングから下卑た歌まで。
写真は花團治がそんなくだりを解説しているところ。2016年10月16日、天満教会にて。


『農民カンタータ』が発表されたのが1742年。
その頃のドイツは、領主制。
農民にとって上からの命令は絶対です。
貴族の馬車が町中を我がもの顔に走り回り、
歩行者は四六時中、命の危険にさらされていましたが、
それがもう当たり前でした。

その頃、ライプティッヒ郊外にあるクライン・チョハー村では、
新しいご領主さまを迎えるというので、その準備に大わらわ。
宴会場には、酒、肴がところ狭しと並べられます。
この頃のドイツでは、理性を失うほどベロベロに酔っぱらうことで
初めて仲間入りを許されるという、そんな風潮がありました。

酒もすすんで、宴は大盛り上がり。
おおっぴらに、政治批判をする者が出てきます。


「それにしても、あの税収係だけは、ホンマにイヤな奴やで。
金の亡者とはあいつのこっちゃ。
何やいうたら税、税、税。あいつは喘息持ちか。
……毛虫は葉っぱ食うて茎を残すちゅうけど、
わしらとて、せめて茎ぐらいは残してもらわんと、ずんべらぼんじゃ。
毛虫以下ちゅうのはあいつのこっちゃ」
「そうそう、それもすべて、前の領主の奴がいかんかったせいや。
そこへいくと、このたびのご領主さまは尊いお方じゃ」

前のご領主さまや、隣村のご領主さまをボロクソに言う一方で、
今度新しく来られるご領主さまに対しては、ずいぶん”べた褒め”。
『農民カンタータ』が”お追従”だといわれる所以です。

バッハ農民カンタータ2


一方、その頃の日本は徳川8代将軍吉宗公の時代。
目安箱が設置されたのもちょうどこの頃でした。
一部の特権階級が甘い汁を吸っていた時代だからこそ、
ドラマにもなり得たのでしょう。

ちなみに、『農民カンタータ』の発表が1742年ですが、
その四年後の1746年には竹田出雲『菅原伝授手習鑑』が発表されています。

松王丸は藤原時平に仕える身なれども、元は菅原道真の家来。
今だ道真への忠義の心、・恩義を抱き続けています。
そんな松王丸に、道真の息子・秀才の首を取って来いという時平からの命令。
「お前なら道真の息子の顔をよく覚えているであろう」と時平。
「松応丸が自分に対して本当に忠義の気持ちを持っているのか」
それを確かめようという時平の狙いもありました。
松王丸はおおいに悩みます。

その頃、秀才は源蔵の営む寺子屋に匿われていました。
源蔵もまた道真に忠義を抱く一人。
源蔵は庄屋に呼び出され、秀才の首を差し出すように命令されます。
「なんとかして秀才の首を出さずに済む方法はないものか」
源蔵もまた、誰か身代わりの首はないものかと考えます。
しかし、寺子屋に通う生徒達はみんな山育ち。
秀才とは違って、どの子も色が黒くてあか抜けず、
とても身代わりにできそうにない。
そんなとき、たまたま新しく寺子屋に預けられた一人の子ども。
「秀才に勝るとも劣らぬ凛々しき顔。この子なら、きっと身代わりにできるであろう」
あろうことか、源蔵はこの子どもの首を打ち落として、
秀才の首と偽り、松王丸に差し出したのです。

落とした首を検分しに来た松王丸は言います。
「あっぱれ。確かにこれは秀才の首に違いない」

……実は、この首こそが松王丸の息子・小太郎のもの。
つまり、松王丸は我が子が身代わりになるであろうことを見越して、
わざと寺子屋に入門させたのでした。


源蔵が身代わりの首を差し出そうという場面で漏らしたひとことが、
「せまじきものは宮仕え」
主君に仕えるなんて、やるこっちゃないわなぁ。

※せまじき(上方ことば)…やるべきものではない。


これって、税収係のピガンダーと、なんとなく符合しませんか?

バッハ農民カンタータ3リハーサル

バッハ農民カンタータ4リハーサル

門外漢でクラシック音痴なぼくのような輩を、
大阪チェンバーオーケストラの皆さんはとても温かく迎え入れてくださいました。



忠義の有無はともかく、
税収係だったピガンダーも、
「せまじきものは宮仕え」と声を上げたかったのかも。



「わいかて、何も好き好んで取り立て屋をやってるわけやない。
けど、上からの命令やし、しょうがないねん。
わいもな、みんなに嫌われたくない。
けどな、わいは今度の領主さまに期待をかけてんねや。
前の領主は最低やったけど、
今の領主よりは少しぐらいマシになると思うねん。
……ほいでな、今度ご領主さまの歓迎パーティーがあるやろ。
そのときに披露する曲をバッハ様が作曲するんやって。
作詞?それはもちろん、座付き作家であるわいの担当。
ほいでな、そこに税収係がどんだけ大変かってこともさ、
ちょっと織り込んでみようと思うねん。
……え?なんやて?
今回の依頼はご領主さまを称える曲?そんなことぐらいわかってるわいな。
そやから、表向きはそうする。
で、最後は歓迎ムードで明るく高らかな賛美の文句で決まりや。まかしといて。
……ほんに、人に仕える身というものは辛いもんや。するもんやないで」


バッハというと、なんだか重厚な印象をもっていましたが、
『コーヒーカンタータ』『農民カンタータ』の語り部以来、
ぼくのなかのイメージがガラリ変わりました。
ピガンダーのこの心情なんか、まさに落語そのものです。

(とはいえ、ぼくの全くの独断的解釈に過ぎませんが)


さて、12月には、『コーヒーカンタータ』でのコラボを予定しています。
(詳細が分かり次第、花團治HPでもご案内申し上げます)

◆花團治公式サイトはこちらから

◆関西室内楽協会(大阪チェンバーオーケストラ)HPはこちらから


花團治の会、第二回チラシ600



177. 15年ぶりの再開~ぼくが狂言を学んだ理由~

「花團治公式サイト」はこちらをクリック!


前回、この国立演芸場の高座に上がらせていただいたのは、
昨年8月の「花團治襲名」のときでした。

XT2P0970_convert_20160922224316.jpg
国立演芸場での襲名披露口上(左から桂春雨、桂春之輔、ぼく、笑福亭鶴瓶、柳亭市馬・落語協会会長)
撮影:相原正明


ゲストとして口上にも並んで下さった笑福亭鶴瓶師匠は、
舞台から客席に向かってこのようにおっしゃいました。

「花團治は来年も
ここで演ることに決まりましたから。
みなさん、絶対、来たってくださいよ」。


そのときの万雷の拍手は忘れられません。
楽屋に戻った鶴瓶師匠は、ぼくににやりと笑って一言。

「あない(あのように)言うた以上は、
お前、来年もここでせなあかんで」。


鶴瓶師匠はそうやって半ば強引に道をつけてくださったのです。
……それが今日のこの高座になりました。

国立、楽屋、鶴瓶師匠
国立演芸場の楽屋にて 撮影:相原正明


鶴瓶師匠とツーショット



この記念すべき舞台において、
花團治の最初の一席は『豊竹屋』です。
これは、林家染丸師匠にお稽古をつけていただいたのですが、
身につけるまでに15年間もの中断がありました。
中断の理由は、ぼくが浄瑠璃の音を全く取れず、
加えて、生来の甲高いキンキン声が咄と合わなかったからでした。
このままでは一生この咄はできないと思ったぼくは、
無我夢中で「狂言」のお稽古に通いました。

狂言 寝音曲 二人絡み
金久寛章との狂言 撮影:相原正明


それから15年、ようやく声のコンプレックスから解放された時、
染丸師匠に改めて稽古の再開をお願いしたのです。
今では、演じる回数が五本の指に入るほど、
ぼくにとって相性のいい咄となっています。

染丸師匠宅
染丸師匠の御自宅にて(襲名挨拶まわり) 撮影:相原正明


トリの一席は、亡き師匠(二代目桂春蝶)が晩年
特によく高座にかけていた「立ちきれ」です。
師匠はこの咄を演じる度に「あそこはこうしたら良かったなぁ」など、
帰りのタクシーの中で反芻するのが常でした。

それは独り言でもあり、
横で耳をそばだてて聞いているぼくへの稽古でもありました。

さまざまな「立ちきれ」がありますが、
ぼくは、ペーソスがふんだんに詰まった、
先代春蝶のものが今でも一番好きです。

どこか憎めない若旦那の魅力は師匠そのものでした。
そんな特別の思いのこもった作品を、
今回はぼくなりの解釈を加えて演らせていただきます。
花團治の東京での大一番、どうかお愉しみいただけますように。

三代目 桂 花團治

この原稿は、9月27日(火)、国立演芸場で開催する「花團治の宴-en-」のパンフレットから抜粋したものです。


花團治の宴
「花團治の宴-en-」の詳細はこちらをクリック!


「花團治公式サイト」はこちらをクリック!

「相原正明つれづれフォトグラフ」はこちらをクリック!


176.芸人はモノを食むな~師匠に学んだ酒の美学と反面教育~

◆「花團治公式サイト」はこちらをクリック!


ぼくの師匠(二代目春蝶)がまだ元気だった頃、
パーティーのお供をすることが多々あった。
師匠の自宅に迎えにあがると、
奥さんがいつもどんぶり飯を食べさせてくれた。

「今日は立食パーティーやねんてな」
「はい、そうです」
「ほたら、ご飯いっぱい食べていき」



パーティーの席上、ぼくが腹を空かせないようにという
奥さんの配慮だった。

春蝶の家族と共に
師匠の家族と共に(右手後ろがぼく。当時20歳頃?)


「芸人は、人前でモノを食むもんやない」


何度も何度も言い聞かされた言葉だ。
会費制のパーティーだったりすると、
「元を取らねば」とばかり、皿にたくさん盛り付けて
ひたすら食べ続ける方をよく見かける。しかし、
「芸人はそんなはしたない姿を他人に見せるもんやない」
ということを、師匠や奥さんだけでなく、
芸界のいろんな師匠連から教わった。

お酒に関してもそうだった。
二代目春團治夫人は割烹を営んでいた。
春團治一門は、よくそこへ踊りの稽古に通ったものだが、
稽古が終わると、
その割烹に来られたお客様のお呼ばれに預かるのが常だった。
二代目夫人はぼくにこう言った。

「六!(当時は蝶六を名乗っていた)、
ぎょうさん(お酒を)頂きや。けど必ず酔うな」


お酒をスマートに頂くのもお稽古のうちだった。

二代目さんと
(左から)二代目春團治夫人、ぼく、桂治門


……内弟子の頃は、師匠の自宅に住み込みだったので、
師匠がご帰還するまでは寝るわけにはいかなかった。
仮に寝ていたとしても、
ピンポンという音に、まるで飼い犬のように撥ね起きた。

師匠はそれからまた少し飲み直すことになるのだが、
ある日、ずいぶん具合悪そうにしていた。

「師匠、水を……」
「ああ、おおきに。今日は六代目(松鶴)とお客と飲んでなあ、
そのお客を見送ってすぐ、六代目がぜんざい食べよちゅうねん。
よっぽど腹を空かせてはったんやろなぁ。
わしもそれ食うて、気色悪うて、気色悪うて……」



酔った師匠と六代目が二人、ぜんざいを食べる光景を想像して、
ぼくは思わず笑ってしまった。そのとき、師匠は付け加えて、

「ええか、これが粋(すい)というもんや」



ぼくは「何の粋なもんか」と思ったが、
その言葉をグッと喉の奥にしまい込んだ。
お客の前だからといって、空きっ腹に酒を注がねばならんやなんて、
芸人というものは難儀な商売やなぁとも思った。

春蝶、立ち切れ、縮小版
二代目桂春蝶(平成5年1月4日没)  撮影:後藤清


世間ではうちの師匠はよほどの大酒飲みで通っていたらしい。
例えば、楽屋入りしてすぐ居酒屋へ駆け込む姿が目立った。
でも、師匠の名誉のためにも、これだけは言わせていただきたい。
あれは「酒好きゆえに」ということではない。
師匠は大病のあと、ある薬の副作用で、
舌がビリビリ痺れるという悩みを抱えていた。
それを押さえる薬もあるにはあったらしいが、
それがまた副作用を生んだ。
だから、師匠は痺れを酒で抑えようとしたのだ。
そんなときの師匠の呑み方は、
呑むというよりも、
お猪口に舌をつけるといった方が正しかった。

楽屋入りして「出番には戻ってくるさかい」という師匠の後を、
ぼくはいつもそっと追いかけた。
居酒屋のカウンターに座る師匠の姿を確認してから、
ぼくはまた楽屋に戻った。
師匠の前の出番の方が高座に上がられると、
ぼくはすぐさま、その店に戻り、
店の入り口から、目で師匠に合図を送った。
そんなとき、弟子にしか見せない師匠の顔があった。

あるとき、ぼくはとある師匠から
「どや?師匠は怖いか?」と聞かれ、
思わず「いえ、可愛いです」と応えてしまったことがある。
そのとき、「師匠を可愛いってどういうこっちゃ?」と
笑われてしまったが、
その瞬間、ぼくの脳裏に浮かんだのは、
この、何ともいえない「すまんなぁ」という師匠の表情だった。



晩年はともかく、若い頃の師匠は食べたい欲求を堪えながら、
無理に酒だけを呑むことが多々あったのだと思う。

酒で死んだと世間はいうが、
ぼくはむしろ美学に生きたと思いたい。


……とはいうものの、ぼくはその点を真似することは出来ない。
少しでも長く落語家を続けたい。身体を気遣い、
肴と酒を美味しくいただきながら生きていきたい。



そんなぼくにとって、とても楽しみな会がある。
大和郡山で創業160年を誇る老舗酒造の米蔵で行う「米蔵寄席」だ。

落語とお酒を味わうこの会では、清酒のルーツ「正暦寺」の
流れを汲む『中谷酒造』の六代目当主を交え、
正しいお酒の選び方、呑み方、お酒のルーツ、酒と流通の歴史…など、
酒にまつわるあれこれをお話いただく予定だ。

DSCF8652_convert_20160922005231.jpg
中谷酒造

DSCF8646_convert_20160922005205.jpg
中谷酒造六代目当主とぼく



秋の夜長、先達との思い出を肴に
うまい酒をじっくり味わいたい。
三川美恵子師による「上方唄」もございます。
大和郡山、米蔵寄席
◆「米蔵寄席」の詳細はこちらをクリック!


◆「中谷酒造公式サイト」はこちらをクリック!

◆「花團治公式サイト」はこちらをクリック!

175.最強のモタレ芸・チンドン~路上の達人から板の上の妙手へ~

『花團治公式サイト』はこちらをクリック!


チンドン屋って、
ネコとお友達になるようなもんでね。


『ちんどん通信社』の代表・林幸治郎氏が、
ふとそんなことをつぶやきだした。

襲名開場前チンドン
花團治襲名披露公演に並ぶ行列を癒してまわる『ちんどん通信社』 撮影:相原正明



例えばね、猫の写真を撮ろうとして、
不用意に近づいていったら逃げてしまうじゃないですか。
あえて、興味がないふりをして向こうを向いたり、
そんなことをしながら距離を詰めていくわけですやん。

なるほど、どんどん積極的に迫っていけば、
かえって相手はそっぽを向くだろうし、
猫を手なずけるのは、
人間の女性以上にムツカシイかもしれない。
常に相手との呼吸を図りながら居場所を確保するのが、
チンドン屋の身上だ。

「チンドンの音楽は歓迎する人ばかり相手にしていられない。
聞きたくない人まで視野に入れ、尊重せなあかん宿命がある。
しかも、そんな彼らの存在を肯定的にとらえることで、
逆に自分たちの居場所を確保していくという、
ややこしい関係になっているんです」
(林幸治郎著『チンドン屋!幸治郎』新宿書房より)


チンドンとは、つまり、
憚り(はばかり)の芸である。


襲名宣伝、林幸治郎
花團治襲名の前宣伝(石橋商店街にて) 撮影:相原正明



これまで『ちんどん通信社』さんには、
幾度となくお世話になってきた。
ぼくの襲名が決まってからは、その事務所を担ってもらったり、
襲名挨拶回りも、運転手を買って出てくれた。
また、襲名お練りの際には先導役と賑やかしを
公演のときは、列に並ぶお客が退屈しないようにと、
その場で余興をしてくれたこともあった。

チンドン社屋
『ちんどん通信社』の社屋にて、これから花團治襲名の挨拶回りに向かう前 撮影:相原正明


船乗り込み・林幸治郎
花團治襲名記念の路上船乗り込み。先頭を歩く林幸治郎。 撮影:相原正明

船乗り込み、ジャージ川口、小林信之介
花團治襲名記念の路上船乗り込み。太鼓を叩くジャージ川口、笛を吹く小林信之介。 撮影:相原正明


ちんどん通信社・営業担当の猪俣はじめさんは、
ぼくの大学時代、落研の一年先輩でもある。
「いつも(チンドンは)期待以上のことをしてくれるから助かってます」
「それが次のオファーに繋がるんですよ」

いつだったか、地方の営業をお願いして、
そのとき、人里から少し離れた、
人の気配のしない道があった。
「ああ、ここはいいんじゃないですか?」とぼくが言うと、
「でも、誰かが聞いているかもしれないから」と、
そこでも全く手を抜かずに演奏して練り歩いてくれた。
後日、担当者から喜びの電話があった。
「寝たきりのお年寄りが遠くから家のなかで聞いておられて、
とっても喜んでおられたそうです」

小さなひとつひとつを大切にする『ちんどん通信社』さんには、
ホントいつも頭が下がる思いだ。

ちんどん国立
2015年花團治襲名披露公演での『囃子座』。
『ちんどん通信社』所属の(右から)小林信之介、林幸治郎、ジャージ川口のユニット。
このユニット『囃子座』のときは、路上のときと違い、ノーメイクで出演する。  撮影:相原正明



襲名披露公演の時も、
トリ(演目の最後)のひとつ前に演じるモタレとして、
ゲストに入ってもらった。
その打ち合わせで、ぼくははじめさんにこう言った。
「モタレですからね、あんまりたっぷり演られすぎても、
後が演りにくいし、かと言ってお客を満足させなきゃいけないし…」
モタレはなかなかムツカシイポジションなのである。
でもそのとき、はじめさんはきっぱりとこうおっしゃった。

「まかせてください。うちはチンドン屋です。
主役を立てるプロですから」


チンドン、国立演芸場へ
昨年、花團治襲名披露公演の際の記事。


9月27日、東京・国立演芸場で開催する『花團治の宴-en-』も
ちんどん通信社さんにモタレをお願いした。

かつて米沢彦八の時代、大阪の落語は野天で演じる大道芸だった。
初代桂文治が大阪で初めて寄席をつくり、そこで落語を演じた。
このときに、落語はストーリー性の強いものに変化していったと考えられる。
つまり、これが今の落語の形の始まりである。

チンドンもまた、今、
『囃子座』によって新しいスタイルを確立しつつある。

『囃子座』は、チンドン界の初代桂文治だ!

路上芸から舞台芸へ。




……当日は、会場をイイ感じで温め、ぼくにとって、
最高のトリの場を用意してくれることは、もう間違いない。
これでコケたら、それはもう……言い訳が立たない。

花團治の宴
『花團治の宴-en-』の詳細はこちらをクリック!



◆『花團治公式サイト』はこちらをクリック!

◆『相原正明フォトグラフ』はこちらをクリック!

◆『ちんどん通信社公式サイト』はこちらをクリック!

174.伝承と継承~繁昌亭と夏目漱石~

『花團治公式サイト』はこちらをクリック!

土居さんもお練りに参加したかったやろな。
せめてあとひと月だけでも長く生きてはったらな。


商店街の方も言うてはったけど、
このお練りを一番心待ちにしてはったんは、
天神橋筋商店街連合会の元会長・土居年樹さん(8月23日没)やった。
9月15日、大阪の落語家にとって60年の悲願だった
天満天神繁昌亭10周年を記念しての落語家による商店街お練り。
この商店街は南北に2.6キロ。日本一長い商店街として知られる。

この計画のメドが立って、土居さん、フ~っと安心しはったんやろか。


お練り、人力車
左から、桂春雨、桂枝女太、ぼく、桂坊枝、桂文枝。


お練り、鳴り物部隊
人力車の後ろには、鳴り物部隊が続いた。


お練り、土居陶器
土居さんの遺影に深々と頭を下げる文枝会長



今から12年ほど前だったろうか、
上方落語協会の会長選挙を前に、
六代桂文枝師匠(当時・三枝)は、
「落語の定席を実現する」と公言した。

当初は、反対意見というよりも、
否定的な意見も多かった。
「ホンマにやれるんかな」
「赤字が出たら、いったい誰が背負うねん」
「そんなにお客が入るわけない」などなど。
大阪の芸界特有の事務所との絡みもあった。

でも、世間ではちょうど
団塊世代の大量退職が話題になっていた。
映画やドラマなど落語ブームもあった。
いろんな多くが追い風となった。

あの時、文枝師匠の発案や行動、土居さんを初めとする商店会の協力がなかったら
いまの上方落語界の繁栄はなかったかもしれない。

「繁昌亭の建設」は上方落語界にとって、
まさに明暗を分ける重大な選択だった。


お練り、天満駅前
JR天満駅前にて。文枝会長の横に大阪市北区区長や天満駅駅長の姿も。



・・・・・・ところで先日、渋谷・伝承ホールにて
『イシス編集学校』のイベントがあった。
ぼくもゲストの一人として呼ばれ、
その壇上に立たせていただいた。
その楽屋の前で、校長の松岡正剛さんから
「大阪の方の落語はどうですか?」と聞かれた。
「ええ、今また盛り上がってきてますよ」と応えた。
ちょうど東京での独演会前なので、
そのゲストである文枝師匠のことに話が及んだ。

「え、花團治さんが文枝師匠の創作落語を演じることもあるの?」
「ええ、先日、稽古をつけていただきまして。
ぼくだけじゃなくて、自作の落語を惜しげもなく、
どんどん後輩の咄家にも提供されてます」
「ああ、それはいいことですね」


この日のイベントのテーマは「継承と伝承」であった。



イシス卒門式、校長と
松岡正剛校長とのツーショット

イシス卒門式、スタッフと共に
ロビーにてスタッフの皆さんと


ぼくは、このイベントの最中、
別に打ち合わせがあったので、少し中抜けをした。
戻ってくると、ちょうどこれから
松岡校長の一人語りが始まるところだった。

校長は、校話のなかで『続・明暗』について触れられた。
『明暗』とは、夏目漱石が最後に書いた未完の作品である。
大正5年5月26日から朝日新聞に連載されたが、
作者病没のため、同年12月14日の188回までで打ち切られている。
そのあとを「こうなったであろう」と、
『明暗』を読み込んで、読み込んで、漱石を理解し尽して
そして受け継いだのが、水村美苗『続・明暗』だ。
1990年「芸術選奨新人賞」を受賞している。


「いずれ、ぼくはいなくなるだろう。
諸君にはどうか
”百人の水村美苗”になってもらいたい」

それは、集まったイシス編集学校の生徒・関係者に向けて
校長からのメッセージ=遺言だった。

「(校長の書かれた)『千夜千冊』でもいい。これまでの指南や、
ぼくの書いた著書でもいい。読み込んでほしい」とおっしゃった。
落語家であれば、
さしずめ『米朝落語ノート』や
五代目笑福亭松鶴師匠が編纂した『上方はなし』、
そして先達が遺した多くの落語…といったところか。


イシス卒門式、吉村堅樹さんと
編集学校の稽古がいかに役立ったかを喋らせていただいた。生徒の多くが、
ここでの経験を機に思考力が身につき、モノの見方が変わり、人生が大きく好転したと語る。
ぼくもまたここで学び、毎回「目からウロコ」の連続だった。(進行役のイシス編集学校・吉村竪樹さんと)


……先達が培ってきたものを受け継ぐということの本質を、
校長のその言葉が見事に言い当てていた。


『イシス編集学校』HPはこちらをクリック!

松岡正剛『千夜千冊』はこちらをクリック!


ぼくの師匠の春蝶も、文枝師匠も、みんな水村美苗なのだ。
松鶴、米朝、春團治、五代目文枝といった四天王然り、
四天王もまた、その前の師匠方から引き継いでいる。
ぼくらもいずれ、水村美苗にならねばならない。


夏目漱石 明暗

水村美苗 続明暗

落語界はこれからさきもずっと『明暗』なんでしょうね。
永遠に未完です。
この過程を楽しむのが、きっと「落語道」なんだと思う。
このあと、どうつないでいくか?つけ足していくか?
それは天神橋筋商店街も同じ気持ちなんだと思います。

 もちろん、襲名披露から一年経ったぼくにとっても。


きっときっと水村美苗に!!



お練り、天満宮
公益社団法人『上方落語協会』会員で天満宮参拝


お練り、繁昌亭前
繁昌亭では祝いの酒が見物人に振舞われた。


このわずか一週間の間に、繁昌亭10周年記念のお練りがあり、
イシス編集学校のイベントがあり、
それで何だか導かれるように、『明暗』と『続・明暗』を手にした。


「今は、独演会のことに集中してください!
優先順位が間違ってますよ!!」という
マネージャーの声が耳に痛く響きます。

文枝師匠をゲストに迎えての
『花團治の宴-en-』に是非ご来場ください。

花團治の宴
『花團治の宴-en-』の詳細はこちらをクリック!



173.生きてはったら75歳~寝小便もお家芸のうち~

ぼくが二代目春蝶の家に住み込みをしていた頃。
師匠の長男・大助君の寝小便ぶとんを干すのが毎朝の日課でした。
ぼくの年季が明け、大助が小学5年生になってもなお、
彼の寝小便は続いていました。
ぼくは彼に言いました。
「大助、実はぼくも6年生まで寝小便が治れへんかってん。
だから心配せんでも大丈夫。そのうちに絶対、治るわ」

すると、それを横で聞いていた師匠が少し強い口調で、
「蝶六!(当時のぼくの名前)、
お前は何をエラそうに言うとんねん!!!」
ビクッと構えるぼくに、師匠は今度は静かに
こうおっしゃいました。

「わしは中学1年までじゃ」


寝小便たれが武勇伝に変わった瞬間でした。

大助とは、そう、現・三代目桂春蝶です。

春蝶の家族と共に
二代目春蝶のご家族と共に。右手手前が大助(現・三代目春蝶)、その後ろにぼく。


大助には、当時ずいぶん泣かされました。
例えば、家の掃除は弟子の役目なのですが、
部屋を片付ける尻から、
彼はどんどん散らかしてまわるのです。
だからぼくは一日中、片づけばかりやっていました。
きっと、彼はその様子を楽しんでいたに違いありません。

でも、大助にされるがままかというと、
そうではありません。
時にはぼくが叱りつけることもありました。
それは「師匠公認」でした。

……ぼくが入門して間もない頃でした。
師匠の留守中、仕事の電話が入りました。
メールなど無い時代です。
用件はその場でしっかり聞きとらねばなりません。
ところが、その横で騒ぐ大助と妹の恵子ちゃん。
ぼくは、先方にちょっと待ってもらい、
受話器を押さえつつ、大助に言いました。
「大ちゃん、今な、お父さんの大事な仕事の電話やねん。
頼むから、ちょっとだけ静かにしてくれる?」
でも、ぼくの頼みを聞き入れるような
兄妹ではありませんでした。

何とか用件を聞き終えたぼくは、
受話器を切って、つい怒鳴ってしまいました。
「なんで静かにでけへんねん!」
「だって……」と言い訳する大助。
気がつけば、ぼくは彼の頭をコツンとこづいていました。
涙目でぼくを睨みつける大助。

それからしばらくして師匠が帰って来られました。
用事を済まし、弟子部屋にいると、
師匠がぼくを呼ぶ声がします。

「はい、何でしょうか?」
「ここへ坐れ……お前、今日、大助の頭をどついたそうやな」
「は、はい。すみません」

ぼくは一週間足らずで破門になるんだな。
そう観念して、頭を下げていると、
師匠はこうおっしゃいました。

「うん、それでええ。弟子はな、どうしても師匠の子どもには甘くなんねん。何でもいうことを聞いてな。……それでは、子どもの教育にもよくない。そやからな、これからもアカンことはアカンと、ちゃんとこいつに教えたってほしいねん」


師匠のそういう教育方針のおかげか、
今では立派すぎるぐらい立派な三代目です。

春蝶とツーショット
ぼくと、三代目春蝶(右)


ところで今回、「春蝶生誕祭」という催しを立ち上げました。
ぼくは企画について一蝶兄に相談しました。
兄は電話の向こうで重々しく、ぼくにこう言いました。
「そらええと思う。けどな、ひとつだけ、頼みがある」
「はぁ、何でしょうか?」

「大助を、当代を、若を、
必ずトリ(番組の最後)に据えること!」


あんたは春蝶家の御家老か!
思わず吹きそうになりましたが、
ぼくも同感でした。

春蝶、一蝶、ぼく
右から春蝶、一蝶、ぼく。大ちゃん、頼むでぇ~


三代目春蝶は、今回の催しで
「エルトゥールル号物語」という自作を披露します。
父親と自身の関係、また父親を語るうえで、
彼自身が、もっとも相応しい咄と判断してのことです。

先代の形を踏襲するのもひとつのやり方ですが、
先代とは違う切り口で時代を切り開いていく、
というのも、名を背負う者の覚悟の証。
おそらく先代は今の三代目の活躍を
目を細めながら見ておられるでしょう。

師匠は生前、少し自嘲気味に弱気な様子で、
一度だけ、ぼくにこんなことを漏らしました。
「わしが死んだら、みんな、
わしのことなんかすぐに忘れてしまうんやろな」

……そんなことあるわけない。でも、そのためには、
誰かが先代の偉業や生き様をきちんと語り継ぐことが大切です。
遺された弟子や、次代・次々代の春蝶が活躍することも大事です。

そんなわけで「春蝶生誕祭」、繁昌亭でお待ちしております。

春蝶生誕祭
「二代目春蝶生誕祭」の詳細はここをクリックしてください。


東京の公演では、ぼくが先代ゆずりの「立ちきれ」を演じます。
こちらもどうかよろしくお願いします。
花團治の宴
「花團治の宴」の詳細はここをクリックしてください。


「花團治公式サイト」は
ここをクリックしてください。


172.恩送り2~先代春蝶門弟として~

「花團治公式サイト」はここをクリック!

春團治師匠舞台挨拶
ぼくの襲名記念の会に花束を持って駆けつけてくださった春團治師匠。このとき全くのサプライズでした。


東京の落語界では、二つ目以下の落語家は、
師匠が亡くなれば、必ず誰か他の真打の弟子に
ならなければならない、という決まりがあるそうです。
でも、真打制度のない大阪では、
そういう取り決めなどありません。

うちの師匠(先代春蝶)が亡くなってすぐ。
テレビの追悼番組には、
師匠の師匠である三代目春團治師匠の姿。
アナウンサーがこんな質問をされました。
「春蝶さんには、お弟子さんが三人おられましたよね」
その言葉を受け、春團治師匠は静かにこう応えられました。

「彼らは、ぼくが預かります」

その時、ぼくは家のテレビでこの放送を見ていました。
それで慌てて兄弟子らに電話をしたのです。
「に、兄さん、今、テレビで……」
「わしも見てたんや。すぐ大師匠のところへ行くで」

春團治師匠の預かり弟子になるということは、
これからは「春蝶の弟子」ではなくなるということです。
昇蝶、一蝶、蝶六。三人の思いは同じでした。
春團治師匠の気持ちはとてもありがたい。
ありがたすぎるほどありがたい。
光栄でもある。
けれども、ぼくらは生涯「春蝶の弟子」を名乗りたい。

春蝶、立ち切れ、縮小版
先代春蝶(撮影:後藤清)


春團治宅前で待ち合わせたぼくらは、
意を決し、春團治師匠の自宅に上がりました。
まるで死を覚悟した四十七士のようでした。

「実は、大師匠の気持ちは大変ありがたいのですが……」
筆頭弟子の昇蝶が口を切りました。口ごもりながら、
「できることなら、ぼくら、これからも春蝶の弟子ということで」

ここまで言うと、全てを察せられた春團治師匠が
ニッコリと微笑みながら、

「うん、その方が春蝶くんも喜ぶやろ。
ほな、これまで通りな。
君らはぼくの孫弟子ということで。
けどな、わしはお爺ちゃんやで。
君らはお父さんがおらへんねん。
何か困ったときは、この爺を頼りなさい!」


落語家の諸先輩方のごく一部ですが、
「春團治師匠の好意を踏みにじる行為や」とか、
「師匠なしでやっていけるんか」とか、
いろいろおっしゃる方もありました。

このこともあって、師匠の一周忌「追悼公演」では、
「主催:春蝶門弟会」ということに強くこだわったのです。

でも、これでよかった。

「花團治公式サイト」はここをクリック!

春蝶一周忌追善ポスター
「二代目春蝶一周忌追善公演」のポスター


「花團治公式サイト」はここをクリック!


ところで、9月27日(火)、ぼくにとって
特に思い入れの強い会があります。

国立演芸場での「花團治の宴-en-」。

花團治の宴
「花團治の宴-en-」の詳細はここをクリック!

『立ちきれ線香』では、
小糸という芸妓と、船場商家の若旦那。
小糸は若旦那に思いを残しつつ亡くなってしまいます。
遺された若旦那は、線香を手向けながらこう言います。

「・・・小糸、わしはな、
生涯、女房と名のつくもんは持たへんで」


こんな場面もあって、
この咄を「人情ばなし」と称する方もおられますが、
決してそうではないと、ぼくは思っています。
「人情ばなし」と「落語」は異なものです。
最後には、しっかりドンデン返しが待っています。
落語は落として終わります。


実はこの咄、
先代春蝶が、特に晩年、好んでよく高座にかけていました。
「あそこはこうしたら良かったなぁ」とか、
よく帰りのタクシーのなかでおっしゃってました。
こういう話が聞けるのが、弟子の特権でした。

いろんな「立ちきれ」がありますが、
ぼくは、ペーソスがふんだんに詰まった、
先代春蝶のものが今でも一番好きです。
あの、どこか憎めない若旦那の魅力を再現したい。
そんな特別の思いのこもった作品を、
今回は国立演芸場で演らせてもらいます。


また、ゲストには桂文枝師匠。
実はうちの師匠と文枝師匠は高校の先輩・後輩という間柄です。
文枝師匠は五代目文枝師匠(当時・小文枝)に入門する際、
うちの師匠に相談されたそうです。

「で、どの師匠の弟子になりたいんや?」
「はい、ぼくは小文枝師匠の弟子に」
「それやったら、わしが連れていったる」

うちの師匠は、なんば花月の楽屋口まで、
河村青年(後の三枝師匠)を案内してこう言ったそうです。
「ここから先は一人で行きなさい。
このドアの向こうに君の未来が待っている」


このときの様子をぼくは文枝師匠から直接伺いました。
そして、文枝師匠は最後にぼくにこうおっしゃったのです。

「今度はぼくの番やね」


それで、今回の会ではそのお言葉に素直に甘えさせて頂くことにしました。

プルメリアボーイズ
ハワイアンバンド「桂文枝と上方落語プルメリアボーイズ」
今年も、9月3日(土)4日(日)、大阪谷町九丁目・生国魂神社「彦八まつり」にて演奏します。


文枝師匠や鶴瓶師匠のことをこちらのブログにもまとめています。是非、こちらもクリックしてご覧ください。

「花團治公式サイト」はここをクリック!



春蝶の家族と共に
ぼくが師匠の家に住み込みしていた頃。中央が二代目春蝶。
師匠と揃いのセーターの少年は師匠の長男の大助くん(現・三代目春蝶)
大助くんの後ろにいるのがぼくです。



「・・・師匠、ぼくはね、
生涯、師匠と名のつくもんは持ちまへんでぇ」




「花團治公式サイト」はここをクリック!


花團治の宴、表紙

「花團治の宴-en-」の詳細はここをクリック!



171.落語に見る「聴き上手」~喜六の場合~

花團治HPはここをクリック!

こんなエピソードがあります。
勝新太郎さんを中心に、落語家やタレントが集まって座談や歌を楽しむといった番組でした。
その終わり近くになって、勝さんがこんなことをおっしゃったそうです。

「きょう、ぼくは都々逸などいくつかやらせてもらったけど、ここにいるみんなは、たいていその文句を知っているものばかりだっただろう。けれども、初めて聞くような顔をして、聴き入ってくれ、拍手もしてくれた。ありがとう。でも、遊びっていうのは、そういうことだよね。」


会話のなかで、相手が自分の知っている話を展開し始めたとき、
つい「それ、知っている」と口を挟んでしまいたくなるものです。
ややもすれば、その話題をかっさらって自分が胴を取ってしまう。
もし、寄席の楽屋で先輩の話に対してそんなことをしようものなら、
「偉なりはりましたな」と、嫌味のひとつも言われるところです。

「わたしたちの世界では、人のことば尻を取って、自分がしゃしゃり出る事は一番嫌われる」柳家小三治


国立、楽屋、鶴瓶師匠
国立演芸場「花團治襲名披露公演」の楽屋にて、2015年8月2日
撮影:相原正明


ところで、上方落語に登場する「喜六」という人物。
いわゆる「阿呆」の代名詞のような男ですが、
江戸落語の馬鹿「与太郎」と違い、
欲望の塊で、小賢しくもある。
でも、周囲の誰からも愛され、憎めない存在。
なぜなら、彼は無類の聴き上手で、
常に相手を優位に立たせるからです。


喜六「なんで、そのツルっちゅうのは日本の名鳥だんねん」
隠居「さあ、そういうことを聴きなはれ。……身体一面が雪よりも白く、頭には丹頂というのを頂き、尾には黒い艶々とした毛がふさふさと生えたある。そのうえ、(略)」
喜六「なるほど、さすが人が物知りちゅうだけあって、あんた、えらいこと知ってなはるな。けどでっせ、今、あんた鶴は姿、形が誠に美しいって言いなはったけど、あの鳥、必要以上に首が長いでんな」
隠居「いかにも長いな」(落語『つる』より)

「なるほど」「さよか」……喜六は相槌がイイ。
どんどん相手を乗せて、喋らせるところが喜六の真骨頂です。

「喜六」についての研究紀要を書かせていただきました。ご興味を持たれた方はここをクリック!

花團治襲名披露、暖簾から花團治
撮影:相原正明


その逆の例が『ちりとてちん』の竹やん。
知らないくせに知ったかぶりをする。
相手の言うことにいちいちケチをつける。
なんでも自分が一番でないと気がすまない。

……まぁ、落語ですから、こういう輩に対しても、目くじら立てず、
「しゃあないやっちゃなぁ」という受容の眼差しをもって迎えますが、
最後はしっかりエゲツナイ目に遭わされてオチを迎えます。

江戸落語では「酢豆腐」。ここをクリックしてウィキペディアをご参照ください。

花團治HPはここをクリック!

花團治襲名、呉服神社
撮影:相原正明


落語はフツーの人々のフツーの暮らしを描いていますから、
日々の暮らしのヒントになることも多かろうと思います。

現在、ぼくは自宅の稽古場で
「愚か塾」という落語教室を主宰しています。
ずいぶん以前ですが、
なかにはこの竹やんのような方もおられました。
こちらが咄のダメ出しをしていると、それを遮るように、
「あぁ、それはこういうことですな」とか、
「あぁ、それ、言われると思ってました」とか、
「前にも同じこと、言うてはりましたな」とか、
……そう切り出されると、こちらもそれ以上、何も言えず、
「へぇ、結構でございました」と
ニッコリ返して御終いということが多々ありました。

そこへいくと、今の塾生の方々は、
みんな聴き上手、喋らせ上手です。

「あ、なるほど」
「目からウロコです」
「落語というのは奥深いもんですね」
「ここに来て、人生が変わりました」
「落語を始めてから、部下がよく懐くんです」
「今の話、明日の朝礼で使わせてもらっていいですか?」

あまり調子に乗せられ過ぎて、こちらがうっかり
『ちりとてちん』の竹やんになってしまいそうです。

愚か塾、サントス
発表会で落語を披露する塾生


愚か塾、大喜利
発表会では大喜利もあります。


愚か塾、宴会
打ち上げのための発表会か?


愚か塾、宴会、集合写真
愚か塾の塾生たちと


「愚か塾」は定員を超えましたので、現在はキャンセル待ちとさせていただいておりますが、
興味を持たれた方は、まずはここをクリックしてお問い合わせください。



ところで、ある師匠は、
多くのご贔屓さんにずいぶん可愛がられていることで知られています。
芸はもちろんのことですが、何故にこれほど周囲に愛されるのか?
酔いに任せたぼくは、ストレートにそのことをうかがってみました。
で、返ってきたのは、こんなコトバでした。

「わしはな、相手が”喋りたい人”か、”聴きたい人”かを見極める自信があんねん。相手が喋りたい人ならば、わしは聴き役に徹するし、聴きたい人ならば、相手が興味を持ちそうな話を披露する。言うとくけどな、わしは、これまで君のような見え透いた”べんちゃら”なんて、いっぺんもしたことがない」


実際にそういう現場を、ぼくも何度か見てきましたが、
なるほど、師匠のそれは聴き上手の見本のようでもありました。
師匠は道化の役にも徹していました。
そこには、しっかりと「喜六」の姿があったのです。



スキャン_20160815
「花團治の宴-en-」の詳細はここをクリック!

春蝶生誕祭
「二代目春蝶生誕祭」の詳細はここをクリック!

「花團治HP」トップページはここをクリック!








170.嫌われもしない奴は、好かれもしない~二代目春蝶のコトバ~

「嫌われもせん奴、好かれもせえへん」。

生前、師匠(二代目桂春蝶)から掛けられた言葉である。

春蝶、立ち切れ、縮小版
二代目桂春蝶(撮影:後藤清)



……つい先日、兄弟子の桂一蝶兄と、
師匠の息子である三代目桂春蝶くんの三人でお茶をしていたときのこと。

たまたまFacebookの話題になった。
「春蝶が書いた今日のコメント、なかなかオモシロいなあ」とぼくが告げると、
彼は笑みを浮かべながら
「けどね、あれで友達(Facebookの中で繋がる友人)の数が
ゴソッと減ったんですよ」と応えた。

彼は今の社会情勢についてかなり思い切ったことも書いている。
それゆえ、反発する考えの持ち主が彼から離れた。
彼の言葉をきっかけに、
冒頭に紹介した師の言葉がぼくの脳裏にフラッシュバックした。

春蝶、一蝶、ぼく
手前から、三代目桂春蝶、桂一蝶、ぼく



二代目桂春蝶(以降、二代目)もまた歯に衣着せぬ物言いで知られ、
その対象は政治的なことにまで及んだ。
二代目は熱狂的な阪神タイガースファンとしても有名で、
自分が贔屓する球団を宣言した第一人者でもある。
当時は、政治・宗教と並んで贔屓球団を口にするのが憚られた時代、
「万人に愛されるべき芸人が何をアホなことを言うてるんや」と揶揄する向きもあった。
けれども二代目は闘った。

「言うべきことは言う。
世間が思っていてもなかなか口に出して言えないことを己が代弁する」。
それが二代目の信条でもあった。
それが人気につながったのは言うまでもない。

二代目春蝶、ノック、たかじん、ざこば
左から、二代目桂春蝶、横山ノック、やしきたかじん、桂ざこば

師匠はこの番組『男の井戸端会議』の司会者だった。師匠の晩年、気力も体力も衰え始めた頃、いわゆるこの番組の「肩たたき」の現場にぼくもいた。梅が枝町の蕎麦屋さんだったと記憶している。プロデューサーが師匠に「あの、師匠、番組のことで・・・・・・」と切り出すと、師匠は「分かってる。わしもぼちぼち潮時やな」と応えた。そのあと、「あの、ひとつだけお願いがあるんやけど・・・・・・わしの後釜やけどな、たかじんでどうやろ?」と言った。これが「司会者・たかじん」の誕生だった。師匠は良い弟子に恵まれなかったが、才能を見抜く力には突出したものがあった。ちなみに、この番組に当時無名だった、たかじん師を引っ張ってきたのは師匠である。


春蝶の家族と共に
二代目春蝶一家と共に。手前右の小学生が今の三代目春蝶。その後ろに、ぼく。


二代目が亡くなって二年後、
ぼくはあるイベントプロデューサーのもとで居候を始めた。
阪神大震災がきっかけだった。
このプロデューサーのもとでなら社会貢献できると思ったからだが、
一人で寝起きすることが怖かったのもあった。
氏はぼくより一つだけ年上だったが10歳以上も離れているかのように感じられた。
それだけ存在感のある人物だった。
氏は名立たる大物アーティストに好かれ、大きな仕事を任されていた。
そんな氏にぼくはふとこんな言葉を漏らした。

「すごいですよね。あんな大物がわざわざすり寄ってくるなんて」。
すると、氏は滅多に見せない強い語気でぼくにこう言った。

「あのな、蝶六(当時のぼくの芸名)、君は変に気をまわし過ぎなんだ。こんなことを言うたら怒られるとか、あんなこと言うたら嫌われるとか……あのな、君はな、まず自分の哲学を持たなあかん!“俺はこういう考えです!”というのを持つべきや!!……君は、まだまだ自分が力量不足やから相手にしてもらえないんじゃないかって遠慮してるだろうけど、そうじゃない!ベクトルが定まったら力量なんか関係ない。力量が不足しようとも、こいつは同じベクトルの上に生きてる奴だと思ったら、上から手を差し伸べてくれる。ぼくもまだまだたいしたことないけど、はっきり自分のスタンスを示しているからこそ、付き合ってくれるし、応援もしてくれてる。自分はこう生きるんだという覚悟をやな、そろそろ君も持つべきと違うかな」。

……その夜、ぼくは一人になって考えた。
「確かに、腹の底で何を考えてるか分からん奴って付き合いしにくいよな」。


師匠が亡くなってからすでに24年の歳月が経った。
今頃になって、どうにか自身の覚悟も少し芽生え始めたように思う。
師匠が生きていたら今年でちょうど75歳。
そんな節目に忘れかけていた師匠の言葉を思い出した。

「嫌われもせん奴、好かれもせえへん」。


花團治54歳。
覚悟をもって嫌われようと思います。


この原稿は、熊本の「リフティングブレーン」が発行する「リフブレ通信」への寄稿をもとに加筆したものです。

蝶六ファイナル(左から、小春團治、春蝶、ぼく、一蝶)
蝶六ファイナル(2015年4月25日・左から桂小春團治、三代目桂春蝶、ぼく、桂一蝶)
撮影:相原正明


春蝶生誕祭

「二代目春蝶生誕祭」の詳細はこちらをクリックしてくださいませ。


スキャン_20160815

「花團治の宴-en-」の詳細はこちらをクリックしてくださいませ。



「花團治公式サイト」へはこちらをクリックしてくださいませ。



169.江戸落語にあって上方落語にないもの~例えば真打制度~

上方落語にあって、江戸落語にないもの。
まず「見台」と「膝隠し」。
これはかつて落語が野天で演じられたときの名残。
見台を、小拍子木と張り扇でパチパチ叩いて、
その音で通行人の気を引き寄せ、よしず張りの小屋の中へ客を招いた。
映画「男はつらいよ」では、フーテンの寅さんによる「叩き売り」。
あれに似ている。

見台と膝隠し
見台と膝隠しと座布団


わざわざ野天で演じたのは、
「座敷へ上げてもらえなかったからだ」という説がある。
芸人自体、下に見られていた。蔑まれていた。
そう言えば、ぼくが小学生の頃、担任の先生が
「勉強せえへん子は、吉本へでも行け」などと
言っていたのを覚えている。
今なら大問題になりそうな発言だ。

「狂言」「能」「歌舞伎」「落語」・・・・・・
芸能は世間からのはみ出し者が演じ育ててきた。
「仲間から外れる」ということは
「その集団を外から眺める」ということ。
そうやって、社会の弱者であった先達たちは、
些細で微弱な現象に対し、
目を凝らし、耳を澄ます術を身につけていった。


「落語」のもつ諧謔性や反骨性といったものは、
そんな環境が育んだのかもしれない。

米沢彦八、境内の図

彦八まつり神社入り口

米沢彦八という人物は、生国魂神社の境内によしず張りの小屋を張り、
そこで落語を演じた。これが上方落語の発祥。
今も、9月の第一土日には、「彦八まつり」が催されている。


桂文枝と上方落語プルメリアボーイズ
桂文枝と上方落語プルメリアボーイズ(2015年彦八まつり)

「彦八まつり2016」の情報はこちらをクリックくださいませ。




一方、江戸落語にあって上方落語にないもの。
それは「真打制度」。

入門して間がない頃、ぼくは師匠に聞いたことがある。

「何で大阪に真打ち制度おまへんねやろか」「要らんやろ。ええか悪いか、そん時どきのお客が決めはるがな。そん時の高座で、お前がお客を納得させられたら、そん時の真打はお前や。……たまには高座で俺をびびらさんかい!」

クレジットや肩書きを重視する東京と、
実利主義の大阪の土壌の違いなんでしょうかねえ。

国立、花團治高座
撮影:相原正明(2015年8月2日・東京国立演芸場)

ところで、江戸落語と上方落語を比較したとき、
よく話題に上るのが、喜六と与太郎――阿呆と馬鹿。

両者は、上方と江戸の違いだけでなく、
実は似て非なるものである。

与太郎には欲のかけらもないが、喜六は欲望の塊である。
与太郎はただの能天気だが、喜六には小賢しい一面がある。
与太郎は日がな一日ボーっと暮らしているが、
喜六は欲望があるゆえ目的が生じて、自ら行動を起こす。

自ら行動を起こすことがない与太郎は、
物語の主役を張ることがほとんどない。
しかし、喜六はいつだって主役である。

ただ、両者に言えることは、
周囲から愛されているということ。

ことに喜六に関していえば、

小賢しくて、欲望の塊で、
憎まれ口のひとつも叩く。
行動派の半面、失敗も多い。
おっちょこちょい。人たらし。
ぼくはそんな喜六が大好きだ。



ちなみに「阿呆」とは、
大阪人にとって、立派な「褒め言葉」です。



スキャン_20160815

「花團治の宴-en-の詳細はこちらをクリックくださいませ。

今回の「花團治の宴-en-」では、“喜六ばなし”はございませんが、
落語『豊竹屋』では、しっかり女房がうっかり亭主にこんな一言を発します。
「なんで、こんな人と一緒になったんやろ」
字面では伝わりませんが、なんともいえんエエ言葉やと思とります。
この亭主もそんな「阿呆」の一人です。


「花團治公式サイト」はこちらをクリックくださいませ。

168.熊本で”笑顔を届ける落語会”~まずは「息を吐く」ことから~

今から20年前、阪神淡路大震災の一年後に訪れた仮設住宅でのこと。
そこに詰めていたボランティアスタッフの一人がこのようにおっしゃった。

「震災の直後はね、
芸能人がテレビカメラと共に
大挙押し寄せて全国から注目の的でした。
でも、今となってはもう誰も見向きもしない。
寂しいもんですよ。
だからこそ、今、来て欲しいのです」。


その施設には確か100名近くのお年寄りが入居されていた。
ぼくは知人の紹介でそこを訪れ、落語を披露した。
後にも先にもあれほど笑っていただいたことはなかった。
客席は笑いに飢えているという表現がぴったり当てはまった。

人が笑うのはオモシロいときばかりとは限らない。
元気を取り戻すために人は笑う。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今、熊本では避難所から仮設住宅への入居を進めている最中である。
しかし、仮設住宅があまりに不便な場所にあって
そこへの入居を躊躇する方も少なくない。
家の解体も始まってはいるが、
人によっては三年待ちという状況もあるらしい。
ついこの間までは、通常の10倍近い値段を吹っかけてくる
悪徳建築業者も横行していたらしい。

本当の意味での落ち着きを取り戻すには
まだまだ時間がかかるだろう。


そんななか、ぼくは桂文鹿師と二人で熊本を訪れた。
被災者の慰問が目的だった。
飛行機が熊本上空に差し掛かったとき、
まず目に飛び込んできたのが青いシートで覆われた屋根、屋根、屋根・・・・・・

DSCF9789_convert_20160715102346.jpg
熊本上空から。


「わぁ、大変なことになっているなぁ」と感じたが、
実際にその地へ足を踏み入れたときには全くそれどころではなかった。
大きく傾いた家屋が並んでいおり、その光景に圧倒されてしまった。
言葉を失うとはこのことである。



今回の運営にあたってくれた熊本商工会議所青年部の一人からこんな話を伺った。
「うちの奥さんは一人で家にようおらんとですよ。
ぼくが帰るまで車のなかでずっと待ってるんです。
しかもつい最近まで家のなかでは必ずヘルメットをかぶってました」。

きっと多くの人が同じように大きな不安を抱いている。
今回の慰問で御船町、益城町、西原村と三日間で7か所の会場を回った。

DSCF9722_convert_20160715102414.jpg


DSCF9762_convert_20160715102440.jpg


辭頑悽關ス隱樔シ喟convert_20160715113756



落語に集まってきた被災者は
9名から70名程度と会場によって規模はまちまちだった。

段ボールで仕切られた居住空間のなかで
周囲に気遣って暮らす人々の姿があった。
ここから仕事に通う人も多くおられた。
ぼくらが落語を演じていると小学生が学校から戻って来た。
そんな中でみんなよく笑ってくれた。
終演後に握手を交わすうち涙ぐむ方もおられた。

パーソナルスペースの少ない避難場所では、
なかなか大声を出すことは難しいだろう。
よほど気を遣わねば周囲の苦痛にも繋がる。

今回の被災地慰問での落語家は桂文鹿師とぼくの二名だった。
落語のあと、ぼくは狂言メソッドを使っての声出し、
文鹿師は河内俄(にわか)でお客を巻き込み、全員で万歳三唱をした。

笑うことが、大きな声を出すことが、大きな息を吐くことが、
心身にとってどれほど大切なことか。
それを実感した熊本の旅だった。

熊本落語バンザイ
落語のあとは文鹿師の「河内にわか」で万歳三唱。とにかく一緒に大声を出すことが一番イイ。


…… 今回の震災においても、これまで同様、
多くの芸能人やボランティアがその直後に現地を訪れて被災者を励ました。
確かにそれはそれでとても良いことだと思う。
でもきっと近い将来、メディアの話題に上らなくなる時がくるだろう。
だが本当の意味での復興はまだ遠い。

ある記録によると、神戸市では震災翌年では前年に比べて自殺者が減少したものの、
震災三年から五年後にかけて急激に増えたという。

生活が少し落ち着きを取り戻し始めたとき、
今度は「心」に
ポッカリ穴が空いたみたいになるのだろう。

後から思えば、
冒頭に紹介した「今こそ来て欲しい」という言葉はまさにそれを示唆していた。

熊本においても
いずれこの「今こそ」がやってくるだろう。
次回はこの、
本当の「今こそ」にこそ
熊本を訪れるべきだと思っている。


最後に、コーディネートから舞台設営まで全てを運営してくださった
熊本商工会議所青年部と株式会社リフティングブレーンさんに心より御礼申し上げます。

なお、この原稿は長年にわたって連載させていただいている「月刊・リフブレ通信」への原稿をもとに加筆したものです。

辭頑悽關ス隱樔シ壹・險ュ蝟カ・狙convert_20160715102307
落語の舞台にはビールケースがちょうどいい。会場のキャパに合わせて積み上げる数を変えていく。
回を追うごとにスタッフの設営も早くなった。

辭頑悽逵瑚・ソ蜴溽伴2016070901_convert_20160715104231
3日目の最終日は学生落語と共に西原村を回った。

熊本県御船町2016070701
落語キャラバンのスタッフらと共に。熊本県御船町にて。


花團治公式サイトはここをクリック!


167.岡目八目、離見の見~自分ドラマを楽しむ~

桂三度さんを取材した記事にこんな一節がありました。

ボクって、哀しいことがあったとしても
『俺の人生ドラマチックやなぁ』って
思うようにしているんですね。
で、数年前に自分の人生を振り返った時に
あんまり面白くないなぁって思ってたんですけど、
落語家になって
『あ、自伝の内容みえた!』って(笑)。


「桂三度、落語家転身の真相を明かす」より


DSCF9363_convert_20160612132907.jpg
右が三度さん。左がぼく。

「ジャリズム」という漫才コンビで活躍し、
ピン芸人に転向してからも
「世界のナベアツ」としてブレーク。
「3の倍数と3が付く数字のときだけアホになります」が有名です。

その日の繁昌亭の楽屋番は三度さんでした。
楽屋番の仕事は、先輩の着物を畳んだり、お茶を汲んだり、
演目帳をつけたり、太鼓を叩いたり、
……とにかく楽屋における一切合切が楽屋番の仕事です。

それを40歳過ぎの、
しかもメディアで顔も売れている彼が
大真面目にその仕事をこなしているではありませんか。

落語家の世界は年功序列。
一日でも先に入門した方が「兄さん」であり、
その関係は生涯変わりません。
楽屋の隅の方では、
20歳以上年下の先輩からイロイロ注意を受けながら
平身低頭な三度さんの姿がありました。

DSCF7807_convert_20160612135003.jpg
楽屋の奥で正座しているのが、三度さんです。繁昌亭の楽屋にて。


彼は芸人としても構成作家としても売れっ子でした。
周囲に聞くとかなりの収入があったそうです。
それをかなぐり捨てての入門。
今から5年前の2011年のことでした。

「とにかくすごい可能性の眠っているジャンルが
落語やったんです」と三度さん。
その時、六代桂文枝師匠からは
「構成作家を続けながら落語家の修行をすればいい」との
お墨付きまで頂いたらしいのですが、
「昨日は楽屋で落語家の一番若手として働いていたのに、
今日は構成作家として芸人にダメ出しをする」というギャップに耐えかね、
落語家に専念するという道を選んだのです。



……冒頭の記事を読んで、
ぼくはふと「岡目八目」というコトバを思いだしました。
これは、囲碁の対局で対局している二人よりも、
それを傍で見ている人の方が
どう打ったらよいかがよくわかるという意味です。

自分のことは見えないけれど
相手のことはよく分かるという人は多い。
だったら、自分のことを
いっそ他人に見立ててやればいい。


また、世阿弥『風姿花伝』には、
「離見の見」というコトバがあります。
自分を客観的に、客席から見える自分を考えて、
能を舞いなさいという教えです。
「目前心後」も同様の教えです。


少し前から、ぼくはある人に薦められ、
自身の半生記や日記を書き綴っています。
決して褒められた人生ではありませんが、
書くことで少しは自分を客観視できるようになった気がします。
「お前はホンマにあかんやっちゃのう」と
自分で自分にツッコミを入れる余裕が少し芽生えました。
自分で自分を笑うということは、
「哀しい自分とサヨナラ」することにつながります。


話は変わりますが、
笑福亭鶴瓶師匠が六代目笑福亭松鶴師匠に入門したとき、
そのすぐ上に小学6年生の兄弟子がいました。
いくら鶴瓶師匠の方が10歳上だからといっても、兄弟子は兄弟子。
その頃のエピソードは、今も師のネタになっています。。

「ランドセル背負った小学生が
すぐ上の兄弟子や。
ジュース買いに行かされたりな、
二十歳すぎの俺が
小学生の使いっ走りやで。ガハハ」。


おそらく鶴瓶師匠はその頃から、
そんな自分の姿を客観的に眺めつ楽しんでおられたのでしょう。
その少年落語家とは、笑福亭手遊(おもちゃ)さんです。

鶴瓶師匠とツーショット

讓ェ螻ア菫。豐サ豌上→_convert_20160612132958
左が横山信治氏(元・笑福亭手遊)、左がぼく。


讓ェ螻ア菫。豐サ豌上・闡誉convert_20160612133014
横山信治氏の著には、落語家当時のエピソードがちりばめてあります。

横山信治氏
1971年10月、12歳で六代目笑福亭松鶴の門をたたき、同年少年落語家としてデビュー。
当時のテレビ番組「23時ショー」で初舞台を踏んだ。
デビュー当初は天才落語家少年として持て囃されるものの、
成長により「子供」という個性が埋没していった。
その後中学卒業に伴い、大学受験を目指して進学校へと入学。1976年に廃業。
その後は順調に高校から大学へ進学し、
1982年、日本信販株式会社(後にUFJニコス)を経て、現三菱UFJニコスに入社。
2001年2月ソフトバンクファイナンスに転職し、
日本初のモーゲージバンク・SBIモーゲージ(株)設立。
当初4人でスタートした会社を、従業員250名、店舗数191店舗の上場会社へ成長させる。
東証1部上場の金融グループにて役員、社長を経て、2014年4月独立。
株式会社オフィス・フォー・ユー代表取締役  


ウィキペディア「横山信治」より


どんな状況でも自分を客観的に見られる人は、
その瞬間から苦労を喜びのタネにしてしまいます。
三度さんの平身低頭の態度が、ちっとも卑屈に
見えないのはそのせいでしょうか。


「あなたは
自分の姿が見えていますか?」と、
自分に問いかけてみました。


この原稿は、
熊本の人材派遣「リフティングブレーン」社さんの発行する
月刊社報誌「リフブレ通信」の原稿をブログ用に加工したものです。



桂花團治公式サイトはこちらです。

花團治の会20160724


愚か塾0731チラシ

優劣を競うのではなくて、「落語をいかに生活に、社会に生かすか」が愚か塾のテーマです。
現在、20代から70代まで、OL、サラリーマン、古本屋経営者、住職、大学教授、市役所にお勤めの方、
パン屋経営、ブティック店員、学童保育の先生、学生、フリーター、郵便局勤務
・・・・・・職業も年齢もバラバラ。現在、20余名の塾生が集ってお稽古を重ねています。


◆花團治出演情報はこちらです。

◆「愚か塾」の詳細はこちらです。


◆桂花團治公式サイトはこちらです。







166.劣等感のチカラ~落語に学ぶコミュニケーション術~

小学生の頃、担任の先生が放った一言から
ぼくの屈折人生が始まりました。
終了前のホームルームのときでした。
先生の話が終わって、クラス委員が「起立!」と声を掛けました。
でも、ぼくはなぜか立てませんでした。
その声がちゃんと耳に届いているにも関わらず、
ぼくはただボーっと椅子に掛けたまま、外を眺めていました。
気がつけば自分の世界に入り込んで周りを一切見ようとしない。
ぼくはいつだってそんな子でした。

そのときも、同級生の一人がそれを見つけてこう言いました。
「森くん(ぼくの本名)がまだ立っていません」。
その報告を受けた担任はチラリぼくを見やってポツリと吐き捨てるように、

「あの子は普通の子と違うから」



NDF_0299_convert_20160516040558.jpg
撮影:相原正明


なんで、ぼくはこんなにもの覚えが悪いんだろう。
なんで、ぼくは皆のようにボール遊びができないんだろう。
なんで、ぼくは皆から仲間はずれにされるんだろう。
なんで、ぼくは寝小便が治らないんだろう。

……以来、ぼくの夢は「普通の子になる」でした。
自分に自信の持てなくなったぼくは、
いつしか吃音で上がり症になっていました。
そんなぼくはやがてイジメの対象となり、
体育館のマットのなかに丸め込まれたり、ずいぶんヒドイ目にも遭いました。
マットから這い出したぼくの下半身はパンツまで脱げてしまい丸裸。
同級生たちはそれを見て笑いました。
でも、ぼくにとってはそれも救いでした。
なぜなら、無視されるよりはよほどいいやと思っていたからです。
この「笑われる」ことがぼくにとって芸人への道の第一歩だったのです。

落語家になってからも上がり症はそのままでしたが、
自分は不器用だという自覚が「継続」という才能につながりました。
甲高く上ずったキンキン声だったために、
「落語家の声に向かない」と言われ、狂言の稽古にも通うようにもなりました。
気がつけば、狂言で矯正した声が逆にぼくの売りとなって、
昨年「花團治」という名を襲名させていただくことにもつながりました。
また、「克服」という経験が、ぼくを教壇の道へと導いてくれました。

ぼくを何とかこれまで育ててくれたのは
「劣等感」に他ならないのです。


花團治襲名披露口上
2015年4月16日、池田アゼリアホールにて、蝶六改め、三代目桂花團治を襲名させていただきました。
左から、桂春之輔、桂福團治、ぼく、六代桂文枝、桂ざこば


もしも、ぼくが器用に何でもすぐにこなせるタイプなら、
とうの昔に落語家を辞めていたかも知れません。
また、「劣等感」とは、
「ぼくはまだまだこんなもんじゃない」という気持ちの裏返しです。
もし、あなたが大きな「劣等感」に苛まれているのなら、
それは大きなチャンスです。
何よりそれによって得られる「克服」は、大きな自信にもつながります。

吃音で人一倍上がり症なぼくが、
なぜ、その真逆であるはずの落語家になれたのか?
どうすれば上がり症が治せるのか?どうすれば吃音が克服できるのか?
どうすればポジティブな自分になれるのか?

それらのヒントが
すべて「落語」の世界に詰まっています。


21XT1539_convert_20160517164548.jpg
2014年に開催したオペラと能のコラボレーション企画。
「声」を知るうえで、とても有意義な上演でした。



◆花團治公式サイトはここをクリック。

165.アノネ、がんばらなくてもいいからさ~熊本の友からもらったコトバ~

NDF_0299_convert_20160516040558.jpg
撮影:相原正明


熊本のリフティングブレーンという会社には、
落語や講演で呼んでもらったり、
米などイロイロ食材を送ってもらったり、
襲名祝いに、高級な雪駄をいただいたり、
もうずいぶんとお世話になりっぱなしです。
こちらの社が毎月発行されている冊子にも、
5年以上にわたってコラムを連載させていただいてます。

それでこのたびの大地震。

ぼくはもうどうしていいやら、
そのことがずっと頭のなかにありました。
電話をするにも、
かえって迷惑になるんじゃないかなとか、
それで、この会社の一人で
とても親しくさせてもらっている友人のFacebookに、
何か情報が上がらないものかと待ち続けてました。
で、ようやく上がってきたメッセージ。

この時の気持ちをそのまま原稿にしました。
それが、以下の文章です。




落語の教え~アノネ、がんばらなくてもいいからさ~
桂花團治(落語家・大阪青山大学子ども教育学科客員教授)

「がんばる」というコトバを聞くと胸がざわめく。
死にたいほど辛かった時期、「がんばって」というコトバは、
ぼくにとって斬りつけられるような痛みを伴った。

だからといって、生半可な同情も辛い。
それなら、「がんばって」の方がまだ救いがあるような気がする。

……そんな思いがうずまき、
話の専門家であるはずのぼくがコトバを失っている。
スーパーで「熊本産」を見つけたらカゴに入れる、
ということぐらいしかできない自分がいる。

ぼくがお世話になっている熊本の知人は
みんな情に厚くて世話好きでがんばり屋さんばかり。
だから、きっと弱音を吐かずに笑顔を振りまいているに違いない。
電話したら「平気、平気、心配しなくて大丈夫」って応えるような気がする。
でも、それがかえってつらい。
こんなときだからこそむしろ弱音を吐いてもらった方が嬉しい。
ぼくにはどうにもできないことばかりだけれど、
それで気持ちが和らぐのであれば、
話を聞くぐらいのことしかできないかも知れないが、いくらでも引き受けたい。

ぼくは商売柄、「笑う」ことの大切さを説いて回っているけれど、
本当はおおいに「泣く」ことだって同じほど心身のために必要であることぐらい、
ぼくだって知っている。

落語の教えは、故・立川談志師匠のいうように「業の肯定」だ。
聖人君子なんてありえない。人間は弱い存在なんだ。
それを認め合うからこそ助け合う。これが落語のイズムでもある。

だから自分を見せたっていい。
ときには吐き出すこともしないと、かえって身体に毒だ。
それと、ぼくがもうひとつ気になっているのは
落ち着いてからのこと。衣食住が何とか行きわたったとき、
ボランティアの多くは帰っていく。
その頃に、今までの緊張の糸がほどけ、
虚しさに襲われてしまわないだろうか。


このところ、ぼくは悶々としていた。
何にもできないぼくは、
熊本の知人が何かフェイスブックにアップしないかと、ずっと待ち続けた。
だから、それが出た瞬間、食い入るようにそれを見つめ、
何度も何度も読み返した。

そして、ぼくの方が逆に勇気と元気をもらった。

 「被災、それでもタネをまく。
無農薬米の苗床作りしました。
……『アノネ、がんばらなくてもいいからさ、
具体的に動くことだね』。
作業中、ココロに浮かんだ
相田みつを氏の言葉です」。


コトバと共にさわやかな空の下、働く人々の写真が添えられていた。(了)


繝ェ繝輔ヶ繝ャ鬟ッ蟾昴&繧薙・蜀咏悄_convert_20160516040451



・・・・・・で、この原稿を送ったあと、
すぐに、Facebookの彼から「近いうち、また飲もうよ」とメッセージをいただき、
また同じくお世話になっている同じ社の女性からも電話を頂戴しました。

「生きてるよ~」
「来て来て!!!落語をしに来て。みんな笑いたいんよ。待っとるよ」

案の定、元気なハリのある声でした。


・・・・・・今、落語会の計画を練っている最中。
待っててや~。



桂花團治のホームページはこちらをクリック

164.暴力に屈しない~生きててよかった~

暴力追放講演


「まあ、とりあえず、
親に顔でも見せに帰ったり」


内弟子の年季が明けた日のことだった。
師匠の言うように、ぼくはまず実家に戻ることにした。
3000円もあればタクシーで帰れる距離だった。
それぐらいは小遣いやラジオのギャラなどで少し貯えがあったので、
その日だけはちょっと贅沢することにした。

親とはもう一年以上、連絡を取っていない。
師匠の家に住み込みしてから休暇は年に二日ほど。
その休みも実家には帰らず、
中退した大学を訪れたりしていた。

春蝶の家族と共に
師匠と、そのご家族と共に(手前の坊やが現・三代目春蝶)


タクシーに乗って20分ほどで実家のあるマンションに着いた。
小学生の頃から師匠宅に住み込みするまでずっとここだった。
ぼくは一気にマンションの二階に駆け上がった。

でも、そこには見慣れた表札がなかった。
チャイムを押しても人の気配すらしなかった。
ぼくは途方にくれた。
隣のおばちゃんを訪ねてみた。

「あぁ、タカちゃんかいな。
なんやしらんけど、急に引っ越ししはったみたい。
おばちゃんも、ようわからんねやわ」。

夜逃げだった。
それには心当たりがあった。



まだ、暴対法などなかった時代である。
借金取りが家の前で罵声を挙げたり、
ドアを蹴り上げたりが当たり前だった。
ぼくが中学生の頃から度々そういうことがあった。
人のいい父親は知人の保証人になっていたのだ。

つまり、ぼくは
そういう現実に目をそむけて、
落語家に逃げたのであった。



今、思い出しても
申し訳なくて情けなくて……



それからぼくは、とりあえず師匠の家に戻った。

「なんや、どうしたんや?」
「いえ、あの、もうちょっとここに住まわせてもらえませんか?」
「けったいなやっちゃなぁ。年季が明けたらみな喜んで出ていくもんやけど」


師匠はなにかを察してくれたのか、
それ以上は何も聞かず、
「おりたいだけおったらええ」とだけ
言ってくれた。



「まぁ一応、年季は明けたわけやし、酒を飲んでもかめへん」


春團治一門では、内弟子の間、
「酒」「煙草」「女」はご法度だった。
とはいえ、ぼくは隠れ煙草に隠れ酒の常習犯だった。
でも、これからは公認で酒が呑めるということだ。

それから半年間、
師匠の家で、奥さんの晩酌のお供をしながら、
師匠の帰りを待つというような、奇妙な生活が始まった。

「そのうち、ご両親かて電話してきはるんとちゃう」と奥さん。
携帯電話などなかった時代である。
師匠の家の電話だけがぼくの唯一の連絡先でもあった。
奥さんも、ぼくに対してずいぶん気遣ってくださった。



……あれからもう30年以上が経つ。
両親も健在だ。
弟が滋賀にマンションを購入したので、
両親もその近くに住み移り穏やかに暮らしている。

そこに至るまでにはいろいろあった。
借金のことでヤクザに脅されたこともあった。
父親がその事務所に監禁され、
ぼくがそこに出向いたこともあった。

今でもはっきり覚えているのが、
ヤクザの事務所に行く途中のことである。
鶴橋の辺りをフラフラ歩いているぼくを、
露の新治兄が見つけてくれた。

「おい、蝶六、どうしてん。君、何か変やで。
時間あるか?まぁ、とりあえず飯でも食いに行けへんか」

新治兄にぼくはそれまでの経過を全て話した。

「日本という国は法治国家や。
ちゃんと法律が守ってくれる。
生きなあかんで」


新治兄のその言葉にどれほど勇気づけられたことか。
あの言葉がなかったら、今頃ぼくはどうなっていただろう。

新治兄と
左から、ぼく、露の新治兄



襲名披露の当日、
1200人の拍手を背に下りてくると、
そこには少し涙目の新治兄が立っていた。



花團治襲名披露口上




「良かったな。君は間違ってなかった。
君が生きてきたその答えが今日や。
ぼくも勇気をもらったよ」



その言葉はどんなコトバよりも重みがあった。
生きててよかった。
あのときのことが一気に脳裏を駆け巡った。
二人にしかわからない喜びがあった。
あの時、ばったり新治兄に出会えて本当によかった。

花團治襲名披露、暖簾から花團治



スキャン_20160411
講演と落語:暴力に屈しない。今は「暴対法」がしっかり守ってくれます。今年もこのテーマで、岐阜で講演予定です。


👉👉👉 全国暴力追放運動推進センターのサイトはこちらから

👉👉👉 桂花團治公式サイトはこちらから

163.劣等感バンザイ!!!~不足から満足へ~

IMG_8804_convert_20160331145649_convert_20160407164248.jpg
東京豪徳寺・イシス編集工学研究所にて 2016年3月19日


不足はいつしか強い満足に反転していく。



上方落語は大阪弁、江戸落語は江戸ことばで語られる。
したがって、他府県出身の者はまずこの言葉の壁にぶつかる。
しかし、落語の世界はなかなかに自由だ。
江戸ことばが苦手なら堂々と自身のお国言葉で演じればいい。
なんなら江戸という舞台背景を変えてしまえばいい。
現に、鹿児島出身で東京在住の三遊亭歌之助師匠は
鹿児島弁落語で人気を博している。

関西では、桂枝曾丸さんが和歌山弁落語で人気を不動のものにした。

「上方落語は大阪弁でないとあかんのでずいぶん直されました。
それでも高座で緊張のあまり和歌山弁が出て、
お客さんが引いてしまったことがあるんです。
それで大阪の古典落語を
和歌山弁に変えてやったことがあるんですけど、
文化的な背景も違うし、なんか違和感を感じて、
それなら和歌山の落語を和歌山弁でやろうと・・・」。

和歌山弁は活気と朗らかさが溢れる
なんとも魅力的な方言だが、
海言葉なので船場言葉の上方落語とはどうしても折り合いがつかない。

DSCF8394_convert_20160407154633.jpg
左:桂枝曾丸さん、右:ぼく


DSCF8387_convert_20160407154712.jpg


彼の考えに共鳴した
同じく和歌山出身の漫画家のマエオカタツヤ氏が
座付き作家として協力して数多くの和歌山落語が生まれた。
もはやそれは和歌山弁落語ではなく、
「和歌山落語」と呼ぶべきだとぼくは認識している。

枝曾丸落語集ジャケット

和歌山弁落語集(桂枝曾丸)アマゾン



ところで、編集者で作家の松岡正剛氏はこう述べている。

武蔵坊弁慶には弁慶の泣き所という弱点があった。
勿論、それが致命傷になるということがあるが、
しかし、それが新たな強さの契機になる。

不足はいつまでも
弱い不足のままでなく、いつしか
強い満足に反転していく可能性がある。



・・・・・・彼の和歌山落語がまさにそれだった。

フラジャイル表紙

ちくま学芸文庫「フラジャイル」


落語協会の最高顧問である三代目三遊亭圓歌師匠が
落語家になったのは吃音を克服するためだった。

朝の情報番組「とくダネ!」の司会者として活躍中の小倉智昭氏は、
幼少期から吃音に悩み、からかわれていたので
「それを見返してやろう!」とあえてアナウンサーを志したのだという。

かの田中角栄氏もまた、歌っている時だけ
吃音が出ない事に気づき浪花節を歌って吃音を克服した。
それがあの名演説につながったのかもしれない。

~吃音をもつ有名人リスト~




そもそも、ぼくだって小学生の頃から吃音だった。
高校生になって、落語を始めたことが良かったのかも知れない。


また、狂言の稽古を始めたのも
元はといえば、声の矯正が目的だった。
生来のキンキン声をどうにかしたくて始めたことだった。

「蝶六くん(当時のぼくの名前)、君の声は落語に向いていないね」という
狂言師の言葉がなかったら、ぼくは花團治を襲名することも無かっただろう。

DSCF8058_convert_20160407163202.jpg

DSCF8469_convert_20160407163231.jpg
今は、かつて稽古を共にした金久寛章先生の「狂言エクササイズ教室」に通っています。
スクワットやバランスのレッスンを取り入れながら、丹田の意識を高めます。
不思議と声の通りが良くなり、気持ちもさわやかになります。



👉 「狂言エクササイズ」に関するブログはこちらから


ところで、占い好きとしても有名な
女流落語家第一号の露の都師匠がこんなことを言われた。

ずっと運気が良すぎるというのも
良くないですよね。
調子に乗ってばかりだと
人の気持ちが見えなくなってしまう。



不遇を経験して初めて人の気持ちがよく分かる道理だ。

驛ス蟶ォ蛹縺ィ縺シ縺柔convert_20160407172023
露の都師匠と。繁昌亭落語家入門講座では都主任講師のもとで、サブ講師を務めさせてもらっています。



また、先に紹介した松岡正剛氏はこのようにも言う。

劣等感はかならずしも
自分が劣っていると自覚するから
生まれるのではない。
むろん何かは劣っているかもしれないが、
当人はそれとは逆に、
いつもひょっとしたらうまくいくかも
しれないと思っているものだ。
この「ひょっとしたら」という
気持ちの高揚がなかったら、
劣等感はたいして育たない。


劣等感をしかと抱え、
ぼくもまだまだ自分の可能性に賭けてみたい。


螟ァ髦ェ髱貞アア螟ァ蟄ヲ繝舌せ蜑阪・蟄ヲ逕歙convert_20160407154330


さあ、今年もいよいよ授業が始まる!



この拙文は連載させていただいている「リフブレ通信」の原稿に加筆したものです。
こうして、いつも考える機会を与えてくださる「リフティングブレーン社」さんに感謝です!





花團治の「落語を教育に生かす」研究論文を、是非、下記からご覧ください。
👉 大阪青山大学学術情報リポジトリ



👉 「桂花團治公式サイト」はこちらから

👉 「桂花團治の落語教室」はこちらから
※稽古日程の都合上、25名様限定で、しばらく入塾をお断りさせて頂いておりましたが、受講生の転勤等で空きがでましたので、あと3名様の募集とさせていただきます。



👉 講座のご案内:「声が届かない」を克服するヒントが落語にあった


162.桂ざこ團治襲名か?~我ら日本團治!~

「團治ちゅう名前はよろしいなぁ。
春團治、小春團治、梅團治、花團治……
シュッとして恰好よろしいがな。
わたしも、ざこ團治にしよかしらん。
……あぁ、米團治もおったな。
あんなんはどうでもよろし」
 

昨年の4月26日、
池田アゼリアホールでの襲名披露公演でのこと。

縺悶%蝨俶イサ_convert_20160404171801
日本経済新聞2015年4月27日

 
お客さんも「ざこば節」に大喜び。
会場はひときわ大きな笑いに包まれた。
「米團治もおったな」は、
米團治師匠を幼少からよく知っている身内だからこそのギャグ。
それはもう誰の目からもあきらかだった。
 
でもその時、大事な名前を忘れていることは、
おそらく客席にいた半数以上の方々が
気づいておられただろうと思う。
 
そう、その場にも並んでおられた
福團治師匠の名前である。

花團治襲名披露口上
左から、桂春之輔師匠(司会)、桂福團治師匠、ぼく、桂文枝師匠、桂ざこば師匠
撮影:相原正明

 
しかし、披露口上はそのまま進んで、
いよいよ締めの手打ちということになった。
文枝師匠による大阪締め。
「では、みなさま、花團治くんの益々の~」と、
切り出したその瞬間、
ざこば師匠が、その言葉を遮った。
 
「ゴメン!
福團治兄ちゃんの名前、忘れてた!」
 


こ、このタイミングでそれを……
文枝師匠も、司会を務めてくださった春之輔師匠も、
これには思わずズッコケた。
場内はもう、大爆笑!!!!!!!!!
 
「春之輔〜!
なんで、お前、言うてくれへんねん」。
 

この瞬間がその日一番のクライマックス。
 
ざこば師匠がわざとでなく、
その時、本当に失念されていたことは、
あとの楽屋の会話でもよくわかった。
「福團治兄ちゃん、ホンマにごめんなさい」。
ざこば師匠は平謝りに謝っておられた。
 
でも、ざこば師匠のそれは、
まさに笑いの神の降臨だった。


襲名披露、ざこば師匠と。
撮影:山田りこ(初代花團治ひ孫)


 ちなみにその時、福團治師匠だけは
ズッコケることなく、一人微動だにしなかった。
実は、長襦袢を白襟にするのを忘れてしまい、
代わりに、誰かの襟芯を借りて
首のところに挟んでいたのだ。
 
「蝶六ちゃん、わしな、ズレたら恰好悪いさかい、
でけるだけ首を動かさんようにしてるわな」。


挨拶回り、福團治師匠と
挨拶回りでは、福團治師匠が一緒にまわってくださった。
写真:前列左から前田憲司先生(芸能史研究家)、桂福團治師匠
後列左から、ぼく、今井三紗子さん(福團治事務所)
撮影:相原正明
 
 
・・・・・・・今、思い出しても、
舞台も楽屋もドタバタで、楽しい御披露目だった。


 
 ところで、ぼくの花團治襲名は、
米朝師匠の新聞コラムがきっかけだった。
「團治の名前は、春團治以外にも、
玉團治、米團治、麦團治……いろいろある」。
この一文をたまたま初代花團治の曾孫さんが目にしたおかげで
今に繋がっている。
 
このことについて、ぼくは「大阪日日新聞」のコラムでも触れている。(下記アドレスをクリック)👉👉👉
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/miotukusi/150417/20150417033.html
 
 
 
さて、「落語系図」(昭54年、名著刊行会発行)を開けると、
「團治」名があるわあるわ……。
 
文團治、米團治、春團治、麦團治、花團治、菊團治、玉團治、團治、小春團治、福團治、東團治、馬團治、正團治、梅團治、篤團治、鶴團治、小團治、歌團治、鯛團治、松團治、粉團治、笑團治……
 
もっとも、そこに
「ざこ團治」の名はありませんでした。
 


一説によると、「團治」名というのは、
市川右團次、市川左團次といった、
歌舞伎役者の名前にあやかってのことらしい。
当時のチラシを見れば、落語家の名前も「治」を使わずに、
「次」を使ったものが数多く見られますが、
こうしたことも背景にあるのかも知れません。

初代花團治チラシ
このチラシでは、「花團治」の「治」が「次」になっています。


關ス隱樒ウサ蝗ウ繝サ闃ア蝨俶イサ_convert_20160404171859
落語系図(名著刊行会、昭和54年)

 
 
世界で最も有名な「團治」名・春團治師匠がお隠れになった今、
現在、現役で高座に上がる「團治」名の落語家は、
福團治、米團治、小春團治、梅團治、花團治の5名。
 
そんなわけで、このたび
「いけだ落語うぃーく」の千秋楽には、
この5名が番組に並びます。
 
我ら日本團治!!!
 
 
4月24日(日)は、
「團治」を象徴する存在だった「三代目桂春團治」の追善落語会です。
大師匠の思い出噺にも花を咲かそうという企画です。
ぜひお越しくださいね。


スキャン_20160405

※24日(日)「春團治追善落語会」にご来場のお客様には、
三代目桂春團治オリジナル手拭をプレゼント!!!

👉👉 詳細はこちらの花團治公式サイトからご覧くださいませ。(ここをクリック!)

161.宛先のない手紙は届かない~みなさん・あなた・わたしのベクトル~


IMG_8711_convert_20160331145819_201603311552394ae.jpg

かつては宴席での一席というのが多々あった。
落語というものが
あまり浸透していなかったせいもあるのだろう。
「お食事中、BGM代わりに落語をやって欲しい」
という依頼があった。
今なら、依頼の段階でお断りするか、
食事と落語の時間を分けてほしいと願い出るか、
あるいは、適当に小咄かなんかでお茶を濁して、
早々に退散するところだが、
当時のぼくは若かった。
そんな場所でも大真面目にたっぷり古典を演った。

「一人でも聞いてくれてたらモウケもん」という気持ちだった。
実際、そういう現場をご覧になって、
以来、ずっとご贔屓にしてくださる方がおられる。
「あの時はずいぶん闘ってましたね」。
その方とは、たまにそういう思い出ばなしになる。


桂蝶六(23歳)
ぼくが24歳の頃



内弟子時代、師匠の鞄持ちで駆け回っていた頃である。
ある現場で、ぼくは師匠にこのように言われた。
「今日はな、わしの咄を聞かんでええからな、
楽屋で待っててくれたらええさかい」

いつもなら
舞台袖で師匠の咄を聞かせてもらうのが当たり前なのに、
その日に限って妙なことをおっしゃるものだと思った。
けれども、そう言われるとかえって聞きたくなるもので、
ぼくは会場の後ろから、師匠に見つからぬよう、
そーっと覗くことにした。

会場は宴席真っ只中だった。
誰も舞台を見ようとしない。
当時は週のレギュラー番組も多く、
誰もが知っている売れっ子にも関わらず、
師匠が話す真ん前で、ビールの注ぎ合いをする者や、
名刺交換をする輩までいた。
「ああ、そうか。師匠はこんなところを
弟子に見られたくなかったんだな」。

しかし、そんな環境にも関わらず、
師匠は淡々と漫談を始めた。
すると、徐々に聴く者が増えて、
いつしか大きな笑いの輪ができていた。
舞台を下りる師匠に大きな拍手が送られた。

後日、この話を兄弟子にした。

「いやぁ、そういう現場なぁ、
わしもようあんねん。
あのな、そういう時はやな、
一本釣りしたらええねん」

つまり、それはこういうことだった。
「誰も聞いていないと思っても、
誰か一人ぐらいは聴いてくれてるもんや。
せやから、最初はその人に向けて話をすんねん。
そのうち、この人がフフッと笑うてみぃ。
その隣の人も気になって、一緒に聞いてくれるようになる。
そうこうするうちに、そのテーブルが集中してくれるようになる。
そうなったらしめたもんや。
それが隣のテーブル、そのまた隣のテーブルと飛び火していく。
最後は、会場全体に輪が広がってやな……」。

ぼくは師匠のまさにそういう現場を見ていたものだから、
おおいにこの話に納得した。
でもやっぱり、ぼくは、こういう現場は苦手だ。

春蝶、立ち切れ、縮小版
二代目春蝶(1993年1月4日没) 撮影:後藤清


あれは20年程前のことだった。
奈良の元興寺というお寺で、三波春夫さんの講演。
進行役には放送タレントの永六輔さん。
二人の掛け合いが滅法面白く
のめり込んで拝聴させて頂いたことをよく覚えている。

さて、その講演の途中でした。
永六輔さんはおもむろにこのように切り出されました。

「この講演が始まって、
かれこれ1時間ぐらいが経ちますが、
一度でも三波さんと目が合ったと思われる方、
お手をお挙げいただけますか?」


するとどうだろう。
会場にいた200人近くのお客のほとんどが挙手されたのだ。

コトバのベクトルは、大きく
「あなた」「みなさん」「わたし」の三つ。



大勢を前にすると、
ついつい「みなさん」にばかり向けて話してしまいがちですが、
これはあまり効果がない。

今も演説の名手としてよく取り上げられるのが、
あの田中角栄さん。独特のだみ声で、
「みなさん」ベクトルから「あなた」ベクトルへの見事な転換。

「これから日本の国はどうなるのか?
…ねえお母さん」。


ある講演で講師の先生がこんなことを言われた。

「宛先のない手紙は誰にも届かない」


けだし名言だと思う。
「みなさん」ベクトルばかりだと、
結局、誰のところへもコトバは届かないんですよね。

愚か塾稽古風景
主宰する落語教室「愚か塾」にて。アウトプットが、ぼくにとって最高のインプットです。
落語教室「愚か塾」の詳細は、ここをクリック!

イシス1
2016年3月19日・ISISフェスタ(イシス編集学校にて)
イシス編集学校HPはここをクリック!

◆講座のお知らせ:サンクチュアリ出版イベント 「気持ちが伝わらない」「声が届かない」を克服するヒントが落語にあった!(ここをクリックしてご覧ください)


◆花團治公式サイトは、こちらをクリック!!!






160.正論って、正しいんやろか?~萬歳の起源より~

♪争う人は正しさを説く、
正しさゆえの争いを説く。
その正しさは気分がいいか、
正しさの勝利が気分いいんじゃないのか。



ファッションブランドのコマーシャルにも使われていたので
聞き覚えのある方も多いんじゃないでしょうか?
中島みゆきの『Nobdy is Right』という曲です。

宮崎あおい、アースミュージック&エコロジーCM


この曲がテレビから流れてきたとき、
まだ落語家になって間もない昔を想いだしました。

桂蝶六(23歳)
若かりし頃のぼく。24歳ぐらい?


その頃のぼくはずいぶん尖がっていて
相手に食ってかかることも多かったんです。
贔屓のお客さんからは「君は理屈が多すぎる」とか、
「もっとくだけた方がいいんじゃないか」など
よくお叱りを受けたものでした。

師匠の家に住み込みの頃は、師匠の奥さんから

「蝶六さんは『そやけどね』が多すぎる。
『そうですね』でええんとちゃう?」
と言われたことも多々ありました。




今、思い返してみると全くもってその通り。

若い頃は「正しいことを言って何が悪いんだ」と
真っ向から相手に向かうことが多かったように思います。
相手が落ち込んでいるときでさえそうでした。
きっと相手はぼくに話を聞いてもらいたかっただけなのに、
「こういうときはこうすべきだ」と”正論”をまくしたてる自分がいました。

でも、実際は自分の都合のいいように
語っていただけなのかもしれません。



師匠の奥さんに対しては、ただの世間話なのにも関わらず、
「そやけどね」攻撃を仕掛けては話の腰を折り困らせていました。
「逆らう」ことが格好良いと思っていたところもありました。
まさに汗顔の至りです。

師匠の奥さんから
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい 」
という、
夏目漱石「草枕」の冒頭の言葉を教えて頂いたのもこの頃です。

春蝶の家族と共に
住み込みをしていた頃、師匠の家族と共に(手前の男の子が三代目春蝶)



「この世の中、正論だけでは息苦しい」ということをぼくに教えてくれたのは落語でした。


「落語とは業の肯定である」と定義したのは故・立川談志師匠。

「人間にはあらゆる欲や本能がある。
人間ってそういうものなんだ。
それを描いたのが落語なんだ」という主張です。


落語の登場人物に聖人君子は見当たりません。

蝶六、仁王変顔



話は変わりますが、
漫才のルーツをたどると平安時代にまで遡ります。
古くからの萬歳(エンタツ・アチャコ以前はこの表記でした)は
神々の来訪の様子をイミテーションしたものだという説があります。



思想家で人類学者の中沢新一氏は大阪アースダイバーのなかで
このように分析しておられます。

「神様でありながら、正しいことを言うだけでは不十分と考え、『正しいことには裏があり、それをいちがいに正しいことだけで運用するのは無理がある』と伝えようとして、神はいつも正しいことを言う神と、それを混ぜっ返す神のコンビで出現してきた。この二人の神を再現したものが萬歳の原型である」  大阪アースダイバー、講談社、2012年


スキャン_20160310


スキャン_20160310 (2)
大阪アースダイバー


よくよく考えると、
世の中の諍いはすべからく
「自分が正しい」という
意見のぶつかり合いから始まっています。

何が正しいかということは、
その人の置かれている立場や信条によって
大きく異なるもんですよね。

先日亡くなられた三代目桂春團治師匠に
こんなエピソードがあります。

ブログ:福團治、ぼく、春團治
(左から、桂福團治師匠、ぼく、桂春團治師匠)
撮影:相原正明



それはとある催しの楽屋での出来事ですが、
二人の芸人がささいなことで喧嘩になって、
その一人がその場にいた春團治師匠に
自分の言い分を聞いてもらおうと、
「まあ聞いてくださいな」と訴えかけると、
春團治師匠はすかさず

「聞かへん。聞いたら
どちらかの肩を持たなあかんようになる」
と突っぱねられたそうです。


その場に居合わせた方曰く、
春團治師匠はおそらく
喧嘩の原因も全て分かっておられたんだろう、とのことでした。

春團治師匠が「お前が悪い」と
一言おっしゃればそれで済んだかも知れません。
でも、それでは後で変なしこりを残してしまうという、
春團治師匠のご判断だったのでしょう。



正論で相手を打ち負かすことができても、
それでホンマに勝ったことになるんかなぁ。

……って、ぼくの理屈っぽいところはあまり治っていないようです。



月刊社報誌「リフブレ通信」に連載しているコラム「落語の教え」をもとに加筆、構成したものです。
毎回、書くことで考える機会を与えてくださっているリフティンブレーン社さんに、
この場を借りて、改めて御礼申し上げます。
👉リフティングブレーンのサイトはこちらから






スキャン_20160221

👉3月9日~21日、桂花團治襲名記念
相原正明写真展の詳細は
こちらをクリックしてご覧くださいませ。
(トークショーは12日、13日)




イシスフェスタHP

👉3月19日、イシスフェスタの詳細は
こちらをクリックしてご覧くださいませ。




らくごカフェ0324チラシ最新

👉3月24日、らくごカフェの詳細は
こちらをクリックしてご覧くださいませ。




👉👉👉花團治オフィシャルサイトは、こちらから






159.東京進出を拒んだ二代目春蝶~大阪落語の発祥から形成まで~

最後に、花團治・東京3月公演のお知らせがございます。

「枝雀くんも、ざこばくんも、三枝くんも
みんな来てくれた。けどな、一人だけ、
頼みを聞いてくれへんかった奴がいてる。
それが君とこの師匠や!」


君とこの師匠とは、つまり、ぼくの師匠である二代目桂春蝶
(1993年1月4日没、享年51)のこと。
なんともうちの師匠らしいエピソードです。

春蝶の家族と共に
内弟子の頃に師匠一家と並んで撮って頂いたのはこれ一枚きり。
ぼくにとって、大変貴重な写真です。
手前の男の子が今の(三代目)春蝶くん。




江戸中期、初代米沢彦八は、
生国魂(いくたま)神社の境内において辻咄を演じました。
よしず張りの小屋に通りすがりの客を引き込んで演じました。
これが大阪における職業としての落語家のはじめです。

このことから
米沢彦八は、「上方落語家の祖」と呼ばれています。

米沢彦八、境内の図

彦八まつり神社入り口
毎年9月の第一土曜日曜に、生国魂神社において
落語家ファン感謝デー「彦八まつり」が催されています。



一方、江戸末期、初代桂文治は、
坐摩神社の境内に小屋を建て、はじめて仕方咄を演じました。
仕方咄とは、身振り手振りを加えた咄。
つまり、今の落語の形です。
このことから初代桂文治は、
「上方落語中興の祖」と呼ばれるようになりました。

坐摩神社正面

坐摩神社、寄席発祥の碑とぼく

坐摩神社、寄席発祥の碑

坐間神社、寄席発祥、桂文治
2011年、上方落語協会会長・桂文枝師匠の呼びかけで、
坐摩神社境内に「上方落語寄席発祥の地」の顕彰碑が建てられました。



生国魂神社と坐摩神社は、
大阪を代表する聖地です。


大阪の落語の発祥と形成に、
この二つの地が大きく絡んでいるということが興味深い。


生国魂神社は、その名の通り、
生きた霊魂(生タマ)を操るのに巧みな
古代の巫女が神懸かりするための施設であった。
つまりそこは、典型的なシャーマニズム系神社であり、
そのために、時代が下ると、
芸能力を授けてくれる神社として、
浄瑠璃から歌舞伎まで
幅広い芸能者の信仰を集めるようになっていた。
(大阪アースダイバー、中沢新一、講談社、2012年)



「坐摩神社」は、地元では
「ざまさん」と呼ばれ親しまれていますが、
正式な読み方は、「イカスリ神社」です。
イカスリ=居所知、
「ここにいることを知る」という意味です。


石町にある旧坐摩神社と、上町台地地上にあった
古代河内王朝の王宮を結ぶ線を、
生駒山地の方に伸ばしていくと高安山にぶつかることになるが、
その高安山に冬至の日にあらわれた太陽は、
まっすぐ旧坐摩神社に光を届けるように配置されている。
つまり、旧坐摩神社のあった場所では、かつて、
冬至の日に最初に光を迎える儀式がおこなわれ、
その光を受けて巫女が神の子供を生むという
ファンタジーが語られていた。
(大阪アースダイバー、中沢新一、講談社、2012年)





ところで、上方落語の特徴のひとつとしてよく取り上げられるのが、
見台・膝隠しの存在です。

これは米沢彦八が、辻咄でお客を引き込む際に、
お客の気を寄せるために叩いたと言われています。
映画「男はつらいよ」で渥美清演じる
フーテンの寅さんの叩き売りのようなものです。

DSCF8112[1]_convert_20160306170819

DSCF8111[1]_convert_20160306170802


では、米沢彦八がなぜわざわざ野天にて落語を始めたのか?
それは、座敷に上げてもらえなかったからです

ぼくが小学校の頃にはまだ、学校の先生が
「勉強がでけへんかったら、吉本へでも行かなしゃあない」
というような、今では考えられないような発言を、
当たり前のように口にしていました。

かつて大阪の芸人は
世間からずいぶん下に見られていたのです。


これもある方から伺った話ですが、
エンタツ・アチャコの座付きとしても知られる秋田實先生は、
漫才作家になる前は、戦前、学生運動にのめり込み、
当局からかなり目をつけられていたそうです。
それで身動きが取れなくなり漫才作家に転向した。
当局の方も、
「芸人の世界へ行ったなら、もうかめへん、
相手にせんでもええ、放っとけ」
てなもんで、つまり、芸界入りは
「結界の向こうに行った」ことを意味していました。




一方、江戸では鹿野武左衛門という方が、
江戸落語の祖として知られていますが、
こちらの方は、
ずいぶん早くからお座敷にて落語を始めたんやそうです。
だから見台の必要がなかった。

上方落語と江戸落語の趣の違いは、
案外こんなところに由来しているのかも知れません。



さて、東京と申しますと、
ぼくが入門して間もない頃、
うちの師匠がお客さんからの質問に応える形で、
こんなコトバを口にされました。

「東京へは行きまへん。
何でて、こんな身体でっしゃろ。
 なんせ輸送疲れしますねん」



その言い方が何とも可笑しく、
そのくせ妙に説得力があって、側で聞いていて、
思わずプッと吹き出したのを覚えています。

このことについて、
「花王名人劇場」などのプロデューサーとしても知られる
澤田隆治先生からこんな話を伺いました。


「わしがお願いしたら、
枝雀くんも、ざこばくんも、三枝くんも
番組に呼んだらみんな飛んで来てくれた。
けどな、一人だけ、
頼みを聞いてくれへんかった奴がいてる。
それが君とこの師匠や!
……東京には魔物が住んでいると言いよったんや」


ひょっとして、大のタイガースファンだけに、
東京では身の危険を感じたのかも知れません。
そのはっきりとした理由は定かではありませんが、
これを聴いて、ぼくはいかにも師匠らしいなと、
何だか嬉しくなってきました。

澤田隆治先生とぼく
昨年8月2日、東京・国立演芸場にて、澤田隆治先生と。


幸い、ぼくは輸送疲れも平気ですし、
魔物に会ってみたい気もしますので、
どんどん東京でも公演を打っていこうかと思っています。

新宿末廣亭楽屋、2015年
昨年、初めて出演させて頂いた新宿・末廣亭にて。
常に10人以上の前座さんが楽屋番として常駐しておられます。
大阪の繁昌亭では楽屋番二人体制なのに、ビックリポンです。


そんなわけで、際に迫りました、
花團治・東京3月公演のお知らせをさせて頂きます。

イシスフェスタHP

👉3月19日、イシスフェスタの詳細は
こちらをクリックしてご覧くださいませ。




伊勢佐木寄席のぼり

👉伊勢佐木寄席の詳細は
こちらをクリックしてご覧くださいませ。




らくごカフェ0324チラシ最新

👉3月24日、らくごカフェの詳細は
こちらをクリックしてご覧くださいませ。



◆東京は、
ぼくにとって新天地であります。
右も左もわかりませぬゆえ、
どうか皆様方のお力添えを
よろしくお願い申し上げます。




👉👉👉花團治オフィシャルサイトは、こちらから


158.落語的編集稽古の薦め~プロにはプロの理屈があんねん~

※ 最後に落語イベント(東京・豪徳寺)のお知らせがございます。



「プロにはな、プロの理屈があんねん」

入門して間がない頃、師匠の二代目桂春蝶から教えられた言葉だ。


春蝶、立ち切れ、縮小版
桂春蝶( 1993年1月4日没、享年51)撮影:後藤清



ところで、あれは今から6年前のこと。
ぼくは、ある企業で講座を持った。
その企業の社員研修はとてもユニークで、
それまでもネイルアーティスト、ミュージシャン……
各方面からいろんな講師を招き、社員の感性を刺激することを目的としていた。
ぼくもその研修の講師として招かれた一人だった。
講座を終えて、その帰りの新幹線の車中でのこと。
研修をコーディネイトしてくれたプランナーの藤井百々さんに、
ぼくは、その日の感想と改善案がないかアドバイスを求めた。

遠慮がちに彼女が口にしたアドバイスの数々。
その的確さに、ぼくは目からウロコの連続だった。

藤井百々、桂治門
襲名興行にあたり、制作スタッフになってもらうよう藤井百々さんにお願いした。
左:桂治門くん、右:藤井百々さん。)撮影:相原正明


01XT9857_convert_20160302144753.jpg
襲名事務局(東西屋・ちんどん通信社に社屋)にて(手前右から二人目が藤井百々さん)
撮影:相原正明



ぼくはさらに質問をぶつけてみた。

「どのような勉強をすれば、
そういう見方や考え方を
身につけられるものなんですか?」



今から思えば、ずいぶん唐突な質問だったと思うが、
藤井さんは、あれやこれや真摯にそれに応えてくれた。

その回答の中で、
ぼくが特に興味を惹かれたのがウェブのイシス編集学校だった。
藤井さんはそこの師範代(教える立場)でもあった。
ぼくは帰宅するなり、ネットで検索してみた。

「イシス編集学校」のサイトはここをクリック


『例えば、昨日みた映画、一日のスケジュール、国の法律、海外旅行のプラン、ふだんの会話、
これらがどのように編集されているかというと、なかなか取り出すことができません。
そこで、それぞれのシーンで、使われていた「方法」をとり出し、
さまざまな場面や局面に活かすようにしてみようというのが「編集術」になります。
「方法」を修得して、利用し、応用します。』



この言葉で、ぼくの脳裏に
師匠のあの言葉が蘇ってきた。

「お客さんはな、アハハと笑ってたらええ。
 けどな、わしらはプロやから
 プロにはプロの理屈があんねん」




ぼくは夜間高校や大学にも出講している。
これはもう学生のためにも自分のためにも受講するしかない。

落語になんの興味も関心も無い学生に、
落語をどうアプローチしていくか?

これは当時のぼくにとって早急の課題だった。

イシス本楼1
昨年7月、ぼくは東京・豪徳寺にある編集学校の本楼を訪れた。


この学校で学び始めたとたん、ぼくは夢中になった。
携帯やハンカチ、ちり紙は忘れても、
メモとペンだけは絶対に忘れなかった。
すぐに書き留めないと、
浮かんだアイデアがこぼれて、
どこかに行ってしまいそうだった。

そこに登場する校長の名前を目にして、
ひとつ思い当たることがあった。

「松岡正剛……この名前はぼくにとって初めてじゃない」


本棚をひっくり返してみた。
やっぱりそうだった。
芸大生だったあの頃、
先輩の誰かに薦められて、大学の購買部で買ったものだ。
夢中になって読んだ「遊」という雑誌、
その編集長が松岡正剛だった。

スキャン_20160229
「遊」工作舎・1981年発行(その頃、そのほとんどをまるで理解することができなかったが、
それを携帯している自分に酔いしれていた。
当時のぼくにとって、それはファッションのようなものだった。
大学を中退して20数年。あの頃チンプンカンプンだった記述も、少しは理解できるようになった。



全ての職業が、プロを自負する以上、
そこには必ず理屈というものが伴う。
また、その理屈=方法を抜き出したとき、
それは他のジャンルに必ず応用できる。

最初は「落語の授業」に役立てたらと思って受講したが、
自分の見方・考え方を自覚することにもつながった。




◆ そんなご縁がまわりまわって、このたび、不肖・桂花團治が
イシス編集学校にて語らせていただくことになりました。


「本楼落語 春まちの二」

2016.3.19 Sat | PM 14:00~16:30 | 5000yen
________________________________________
ゴートクジISIS、一日限りの寄席「本楼落語」ふたたび。
高座にあがるは、三代目襲名で乗りに乗っている上方落語の桂花團治。
落語はもちろん狂言、俳優の経験を活かし、高校、大学で教鞭をふるう
「大阪で一番多く教壇に立つ落語家」でもある。
師匠のもうひとつの顔が、イシス編集学校の学衆。学んだ「編集術」を
落語に講義にぞんぶんに活かしているとか。二席の演目のあいだには
師匠からみなさんに落語的編集稽古を出題。
さて、どんな本楼落語になりますか。ご期待ください。




◆「イシスフェスタ」の詳細はこちらをクリック


大久保佳代とツーショット
ぼくがISIS編集学校で学んでいた頃、師範代を務めてくれた大久保佳代さんと、
襲名披露の楽屋にて。大久保さんは今回のイベントではナビゲータをつとめてくださいます。
撮影:相原正明



◆「イシスフェスタ」の詳細はこちらをクリック


◆花團治公式サイトはこちらをクリック


◆写真家・相原正明ブログサイトはこちらをクリック



イシスフェスタHP



プロフィール

蝶六改メ三代目桂花團治

Author:蝶六改メ三代目桂花團治
落語家・蝶六改め、三代目桂花團治です。「ホームページ「桂花團治~蝶のはなみち~」も併せてご覧ください。

http://hanadanji.net/

カテゴリ

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

全記事表示リンク

ブロとも一覧

ブロとも一覧

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR