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263.泣いた赤鬼~アイツはヨソ者やと彼らが言った理由~

10年ほど前、ある催事会場で一人の職人さんと懇意になった。
世間ばなしをするうち、Aという共通の知人がいることがわかった。
A氏はすでに亡くなっておられたが、ぼくにとっては生涯忘れられない大恩人。
しかもその職人さんとA氏は幼馴染みで、
今もA氏の実家の三軒隣に住んでいるという。

一週間後、ぼくは職人さんの家を訪ねた。
するとそこへA氏の幼馴染みが続々と集まってきた。

「Aはヤンチャもするけど気のエエ奴で…」
「憎めん奴やった」……


皆がA氏を口々に懐かしんだ。と、
そのうちの一人がこんなことを言いだした。

「けど、Aは元々ここの人間やない」

その言葉をきっかけに皆が同じように言いだした。

「Aはよそ者や」
「戦争が終わって疎開先から戻ってきたけど、
戻るところが無くてここへ流れついた」
「わしらとは違う」


なぜ彼らがそんなことを言ったのか、それに気づいたのは町を出る瞬間。
そこはいわゆる被差別部落と呼ばれる区域だった。



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「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と高らかに人間の尊厳と平等をうたいあげて、
1922年3月3日に「全国水平社」が創立。その「全国水平社」創立50周年を記念し、
奈良県御所市の住宅街の一角に記念碑が建立されました。




「泣いた赤鬼」という児童文学がある。90年程前の作品だが、
今も定番の童話絵本。とある山奥に住む赤鬼は人間と仲良くなりたくて、
家の前にこんな看板を立てた。

「心のやさしい鬼の家です。
どなたでもおいでください。
おいしいお菓子がございます。
お茶もわかしてございます」


しかし、人間たちは怖がり誰も遊びに来なかった。
そんなある日、悲しみにくれる赤鬼のもとに青鬼がやってきた。
一部始終を聞いた青鬼はこんな作戦を持ち掛けた。

「俺が人間の村に行って大暴れするから、
お前は俺を懲らしめろ。
そうすれば、人間たちは
お前が優しい鬼だと思うだろう」


計画通りに事が進み、赤鬼は人間と仲良くなり、
村人たちとの交流が始まった。

しかし、そんな充実した日々のなかで気掛かりなのは青鬼のこと。
「今の自分があるのは青鬼のおかげ」と久しぶりに青鬼の家を訪ねるが、
戸は固く閉ざされたまま。その戸の脇に青鬼からの置手紙。

「赤鬼くん、人間たちと仲良くして、
楽しく暮らしてください。

もしぼくがこのまま君と付き合っていると、
君も悪い鬼だと思われるかもしれません。

ぼくは、旅に出るけれども、
いつまでも君を忘れません。
さようなら、体を大事にしてください。
ぼくはどこまでも君の友達です」


赤鬼は号泣した。



…この物語をA氏の幼馴染みたちに重ねずにいられない。
A氏の幼馴染みたちは「青鬼」だった。
彼らは「わしら(部落出身)とは違う」と言うことでA氏を守ろうとした。


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ぼくが小学校でいじめられていた頃、
放課後はいつもT君と二人だった。
体格が良くスポーツ万能で級友たちが一目置く存在だったにも関わらず、
なぜか彼はぼくを誘った。T君の家では彼のお姉さんが焼き飯を作ってくれた。
ぼくらは一台の自転車を二人乗りで毎日のように遠出した。

そんなある日、母がぼくにこう言った。

「T君とばかり遊んでるけど大丈夫?
あの子、川向こうの子やろ」


その言葉でぼくは彼が被差別部落の子だと知った。
母はそれ以上何も言わず、ぼくらの交流は彼が引っ越しするまでずっと続いたが、
他の級友たちは彼と遊ぶことを親から止められていたということを後から知った。

そう言えば、T君は時折寂しそうな表情を見せることがあった。
彼は「泣いた赤鬼」だった。


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奈良県御所市にある「水平社博物館」



今年3月にリニューアルオープンした奈良県御所市の「水平社博物館」には、
人権に関するあらゆる資料が揃っている。
「鬼滅の刃」「ワンピース」といった人気漫画からも人権にまつわる台詞が紹介されていたり、
小中高生にもわかりやすいと評判だ。

イラストレーターのヨシタケシンスケさんと現代アートの伊藤亜紗さんの絵本
「みえるとか みえないとか」からはこんな言葉が。

「自分たちと違う人は、
やっぱりちょっと緊張しちゃう。
自分と何が違うかがよく分からないから」



「よく分からない」が
やがて悪意に満ちた偏見に変わっていく
のだろう。



被差別に限らず、「マイノリティ」とされる人たちは
現在も隠れて泣いているのはないだろうか。
ぼくはその涙に気づかぬふりをしていないだろうか。(了)


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「水平社宣言」の起草者・西光万吉の生家「西光寺」。
「水平社博物館」とは向かい合わせにある。


fc同和問題講演会_convert_20220831233323
落語を交えながら、同和問題について90分の講演。


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



◆花團治の著した「研究紀要」は
こちらをクリックしてご覧ください。




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262.地雷を踏んだ「自称イクメン」~「ぼく食べる人」から半世紀…~

その日、ぼくはいつものように洗濯物を取り込み、
昼食の片づけと晩御飯の下ごしらえを終えた。
それからふらりと家を出て、散歩がてらネタを繰り、
喫茶店で原稿の下書きをしながら2時間ほど過ごした。

自宅に戻ると4歳のムスメは「パパ―!」と笑顔で迎えてくれたが、
どうもヨメの機嫌が思わしくない。
これほど家事をしているのになぜ怒るのか。
「私がアンタと同じ行動を取ってもいいのかしら?」。
そう問われてもぼくは理解できず、ただポカンとするばかりだった。

花團治、そ、それは
筆者・桂花團治(撮影:坂東剛志)


かつてインスタントラーメンのCMで
「わたし作る人・ぼく食べる人」
というフレーズが話題になった。

昭和50年(1975年)のことである。
ラーメンの置かれたテーブルの前で女性が「わたし作る人」と言い、
続けて男性が「ぼく食べる人」と言う。

実はこのCM、放映されたのはたった二ヶ月間。

「性別役割分担の固定化につながる」
という婦人団体からの抗議があったらしい。

あれから47年、ジェンダーに関する社会の関心度は高くなったが、
今だ騒がれるのは状況にさほど変化がないということだろう。
世の男性は今も地雷を踏み続けている。

例えば、「家事を(育児を)手伝うよ」というひと言。
言うまでもなく、
家事や育児は女性が担うものという意識がそのまま表れた結果に他ならない。

「主婦」という概念が生まれたのは大正期から昭和にかけてのこと。
世の中の高度成長に伴い地方から都会へ人が流れ、
男性サラリーマンと専業主婦という組み合わせが生まれた。
しかし、その専業主婦も今や減りつつある。

ある調査によると、専業主婦を選ぶ未婚女性は
もはや全体の一割にも満たないらしい。

また、未婚女性が結婚相手に求める条件は、
一位が家事や育児の能力、二位が女性の仕事への理解で、
経済力は三位
だとか。昭和生まれのぼくから見れば驚きの連続だが、
この条件でいえば、自分で言うのも何だが、
ぼくは理想の結婚相手に近い。

炊事や洗濯、掃除等のスキルはそこそこ自信があるし、
育児だって結構やっている。
……とはいえ、ぼくの家事能力は
二回に及ぶ結婚生活の破綻の末に養われたものだから
決して褒められたものではないのだが。

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4歳のムスメとお店屋さんごっこに興じる筆者




ところで、落語家“桂花團治”は家内工業で成り立っている。
経理や仕事先とのメール対応などの事務作業全般に関し、
うちのヨメは実に長けている。
ぼくはと言えば、メールの返信に半日かかってしまうポンコツ。
それで必然的にデスクワークは女房の担当となった。

彼女がパソコンに向かっている傍らで、
ぼくは炊事や洗濯、掃除に勤しむというのが我が家の日常。
晩ご飯も自宅にいる限りぼくが担当している。
コロナ禍で仕事が減ったぶんキッチンに立つ機会も増えた。


冒頭の“事件”の日も彼女は
ぼくの仕事に関するデスクワークをこなしてくれていた。

「今日は予定の半分しか仕事が進まなかった。
出掛けるなら何でひと言私に確認してくれないの?」
そこまで言われて、ヨメは今まで一度も
ぼくに無断で外出したことがないことに気がついた。

「買い物に行くから30分間、子どもを見ててね」
「病院が混んでたら、帰りは昼過ぎになるけど大丈夫?」という具合。
だからぼくもヨメがいない時間だけは子どもに掛かりきりになるが、
その他は家事も稽古も自由に進められる身になれていたのだ。

反対にヨメにとってはムスメが幼稚園に通う時間と
ぼくの在宅時間だけが貴重な仕事時間。

なのに勝手に出掛けるというのは「育児は女房の役割」という意識の表れであり、
「アンタは気が向いた時だけ育児する」とぼやかれた。


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筆者とムスメ


「しっかり女房に、うっかり亭主」を笑っていられるのは落語の世界だけだ。

育児は手伝うものではない。
夫婦それぞれが当事者でなければならない、ということを思い知らされた。
心のどこかでイクメン気取りだった自分に思わず紅顔した。

そもそもイクメンという言葉自体がおかしいのかもしれない。

「理想の結婚相手」にはまだまだ遠い。


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



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261.「ジョーシキ」という先入観 ~「米朝」だって、間違ってるかもしれないじゃない?~

4歳になるムスメのおかげでぼくも絵本を読むようになった。
たかが絵本とあなどるなかれ。

例えば、ヨシタケシンスケさんの「りんごかもしれない」(ブロンズ新社)という一冊。
「テーブルの上にりんごがおいてあった……でももしかしたら、
これはりんごではないのかもしれない」という問いかけから始まる。

「もしかしたらおおきなサクランボのいちぶかもしれない」
「なかみはぶどうゼリーなのかもしれない」
「あかいさかながまるまっているのかもしれない」
……そんな妄想がこれでもかとばかりに展開される。

モノの見方の斬新さ、柔軟さに驚いた。

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同じ作者の「これしかないわけないでしょう」(ブロンズ新社)では、
「大人はすぐ、これとこれ、どっち?って聞くけど、
これしかないわけないじゃない。
どっちもなんかちがうなーっておもったときは、
あたらしいものを自分でみつけちゃえばいいのよ!」
「大人はすぐに未来はこうなるとか、だからこうするしかないとかいうの。
でもたいていあたらないのよ」と女の子がつぶやく。

ヨシタケシンスケさんの絵本は
世間がジョーシキと信じて疑わないことを
軽やかに打ち砕いてみせる。



詩と本読み


ムスメに読み聞かせながら、
ぼくはふと「見台」(落語を演じる際に使う小机のようなもの)のことを思い出していた。

その昔、米沢彦八なる人物が
現在の谷町九丁目付近にある生國魂神社の境内によしず張りの小屋を立て、
当世仕方物真似なる芸を披露したことから、
上方落語の始まりは大道芸ということになっている。

古い文献にも絵画資料として残っているので間違いなかろうが、
同時に「見台は大阪の落語が大道芸だったことの名残だ」という説を
ぼくを含む多くの落語家があちらこちらで繰り返してきた。

米沢彦八、境内の図


しかし、「見台」についてはその頃の資料のどこにも見当たらないのだ。
それでもぼくらが吹聴するのは、桂米朝師匠のこんな一節からきている。

「社寺の境内によしず張りの小屋をしつらえてしゃべっていると、どうしてもザワザワしますし、演者の方へ統一しにくいものです。その時に、ピシッと台をたたいて聴客の注意をこっちへ向ける。一つの演出効果として台をたたきながらしゃべったものでしょう」(『落語と私』ポプラ社、1975年)

あくまで推論として述べているに過ぎないが、
「知の巨人」であり、人間国宝でもある桂米朝師匠は
我々落語家にとって生き字引のような存在。
その言葉はそのまま業界のジョーシキとなる。

「米朝師匠の言うことに間違いはない」という思いから、
いつしか推論が定説として歩き始めたのだ。

そんな通説に疑問を感じ、調査・研究を始めたのが
現在、大阪大学大学院人文学研究科芸術学専攻にて
古典芸能を研究する22歳の芝田純平くん。

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芝田純平くんと筆者(前方)


膨大な資料や文献をひとつひとつ丹念に分析して、
「上方落語のおける見台・膝隠し・小拍子の確立―天保改革との関わりについて」
という卒業論文にまとめ上げた。

論文に目を通すと、なるほど米沢彦八が見台を用いた形跡はどこにもなく、
それ以降も文献に描かれている見台は本を置いて見やすいように斜めになっている。
これでは小拍子や張り扇で叩けまい。
見台が今のような使われ方をしているらしい絵図が確認されるのは江戸末期、
寄席という屋内においてのもの。
「聴客の注目を引くために見台を叩いて口演していたというのは誤りであった」
という結論にたどりついた。

今後、彼の説もひっくり返される可能性がないとは言えないが、
ジョーシキに対して抱いた疑問を大切に育てて
新たな真相にたどり着いたことに心から敬意を払いたい。

ヨシタケシンスケさんの絵本を読んで育つ子どもたちの中から、
将来、芝田くんのようにジョーシキを鮮やかに打ち砕く人材が出てくるだろう。

彼らから「過去のわずかな成功例や
既成概念にしがみつくジジイ」
と軽蔑されないよう、
ぼくもしっかり絵本を読んで柔らかアタマを育てていきたい。
もう手遅れかもしれないが…。(了)



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



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260.一見さんお断り~一期一会を100倍ステキにする方法

「一見さんお断り」という京都花街のしきたりはあまりにも有名だ。
この慣習が「敷居が高い」というイメージに繋がっているのは言うまでもないが、
「おもてなし」という観点からみれば実に理にかなっている。

花街で提供される「おもてなし」は顧客の好みによって内容がさまざま。
お茶屋は顧客の好みを十分にわかったうえで芸舞妓さんや料理の手配をするが、
そのときに全く情報のない客ではどのようなサービスをしていいのかわからず、
満足のいく「おもてなし」が提供できない可能性が生じる。

「一見さんお断り」の理由は他にもあるが、まずこのことが挙げられよう。

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西尾久美子「おもてなしの仕組み」中公文庫amazon


ずいぶん前の話になるが、人に薦められるまま、
ぼくは東京で開催されるあるセミナーに参加することになった。
大阪~東京という交通費や宿泊費だけでもバカにならないが受講料も結構高額で、
「元を取らねば」という大阪人特有の損得勘定から、
ぼくはその講師の本を手に入れられるだけ仕入れ
移動中もずっと持ち歩いて予習に励んだ。
おかげで当日は講師の話が面白いほどよく分かり、
本には書かれていない内容を耳にするたび心が躍った。
質問内容もあらかじめ用意していたのでとても有意義な時間になった。
その講演の参加者は20名ほどだったが、
講師からは途中でこんな質問があった。

「これまでに私の本を
読んで来られた方はおられますか?」


その時、手を挙げたのはぼくを入れてほんのわずかだった。
講師は「機会を有意義にするためにはこういうことがとても大事なんです」と諭すように言った。

「例えば、商談を進めるのに
相手の企業のことを
全く調べないという人はいないでしょう」



今年の5月から6月にかけて、ぼくは近畿大学で
「コミュニケーション講座」を受け持つことになり、足繁く通っている。

全部で19クラスあり、それぞれのクラスの担当教授と毎回簡単な打ち合わせをするのだが、
ほとんどの教授がぼくのブログをくまなく読んでくれていているのには
さすが経営学部!と感心させられた。

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近畿大学正門前

なかでもキャリアマネジメントが専門の西尾久美子教授は
かなり古いブログまで目を通して下さっていて、
ぼくがすっかり忘れていた昔のコラムの内容に触れ、
「あのエピソード、すごく印象に残りました」。
そのひと言でぼくのモチベーションがグンと上がったのは言うまでもない。

会う前に自分のことを相手が
ちゃんと下調べをしてこられることは実に嬉しいもの。
こちらの考えや人となりを理解したうえで質問されるので自然に話も弾む。

おまけに西尾教授からは「お荷物になりますが、もしよろしければ…」と
『おもてなしの仕組み』(中公文庫)、『舞妓の言葉』(東洋経済新報社)という
二冊の著書まで頂戴した。

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西尾久美子「舞妓の言葉」東洋経済新報社amazon


冒頭の「一見さんお断り」はこの著書のなかにあった内容。
落語には花街を舞台にした話も多くかなり参考になる。
また、芸を習得する過程や上下関係におけるしきたりなど
落語の世界とかなり共通する部分も多い。
よくも敷居が高いといわれる花街の世界に踏み込み、これだけの取材ができたものだ。

「あぁしまった!事前に読んでおけばよかった」とおおいに悔やんだ。
先に読んでおけば、ぼくからもいろいろ聴けたはずなのに…。
一期一会をずいぶん無駄にした。
このようなことはかつて自分の信条にしてきたはずだったのに…、
なんてぼくはズボラになってしまったのだろう。
次にお会いできることを願いながら、今日も教授の本を手に近畿大学に向かっている。

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今回は基礎ゼミ「コミュニケーション講座」のなかでお話させていただきました。
近畿大学・中谷ゼミの学生たちと。



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



落語に関する「花團治の研究紀要(論文)」も
是非ご覧ください。
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259.最後の贈り物~笑いと、涙と、あの人と~

今年の3月、師匠の奥さんが亡くなった。
コロナ禍ということもあり、密を避け家族葬で見送ることになったが、
親族や弟子の他に、奥さんとごく親しい友人二人も駆けつけておられた。
このお二方の女性は芸界にも通じていて、
師匠とも番組はじめ公私にわたって交流のあった方々だ。
ぼく自身も若い頃、ずいぶんとお世話になった。
仕事を世話してもらったり、たまにはお小言やアドバイスをもらうことも。
ところが、その頃のぼくは糞生意気なガキで、
木で鼻をくくったような態度で接したこともしばしば。

師匠亡きあとはお会いすることもなく、
交流が途絶えてから30年近く経っていた。
そんなこともあって、葬儀会場でお二人の姿を見かけたとき、
ぼくはバツが悪く思わず身構えてしまった。
けれども限られた人しかいない会場で知らぬ顔もできまい。

意を決してぼくは声を掛けた。
「大変ご無沙汰をしています。あの…蝶六です」
「あぁアンタ、今、花團治さんやろ?…聞いてるでぇ!アンタよう頑張ってるなぁ」

まるでついこの間、一緒に酒を酌み交わした仲間のように話しかけてくれた。
勝手にわだかまりを抱いていた自分が恥ずかしかった。


浜田和子葬儀、春蝶と
師匠の奥さんの葬儀会場にて、師匠の息子の現・春蝶くんと。


以前、ぼくはこのコラムで
「弟子の決断・師匠の覚悟」というタイトルで書いたことがある。
弟子は「この人を師匠にしよう」と決断してこの世界に入ってくるが、
師匠は「これも役目」と覚悟して弟子を受け入れる。
どこの誰ともわからない男を住み込みの弟子として迎えるということは、
誰よりも奥さんが多くの苦労を強いられる。
師匠もさることながら奥さんの我慢によって
ぼくは落語家を辞めずにいられたという内容だった。

春蝶の家族と共に
先代春蝶のご家族と共に(後列一番右が筆者)



今もその思いは変わらない。
ぼくが師匠を怒らせてしまったとき、
いつも間に入ってくれるのは奥さんだったし、その逆もあった。
それが元で夫婦喧嘩に発展することもあった。
済んだことを後に引きずらないのは師匠の性格だが、
奥さんもそれに輪をかけたようなところがあって常に天真爛漫な人だった。

「ぼくはあの奥さんやなかったら、落語家を続けられてなかったと思います」
すると、横にいたくだんの女性が
「ホンマやな。子どもみたいに無邪気なところがある人やったから、
アンタも我慢したり苦労もあったやろけど、あの奥さんでホンマ良かったなぁ」


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昨年の二代目春蝶生誕祭にて(左から春蝶、一蝶、花團治)


喪主であり師匠の長男でもある春蝶くんも加わり、
奥さん(彼にとっては母親)の想い出話をしていると、
葬儀会場というのにもう笑いが止まらなくなった。
ここには書けないような奇想天外なエピソードの数々。
すべてに「奥さんらしさ」が溢れていた。
その時、ぼくのもとに小走りに寄ってきた女性がいた。
すぐには誰だかわからなかった。
「わたし、分かります?恵子です」

ぼくが入門したとき、彼女は幼稚園児だった。
「…あぁ恵子ちゃんかぁ。すっかり大人やなぁ」
「何を言ってるんですか?私、もう35ですよ」

彼女のことは春蝶くんからも聞いていた。
「妹、今すごいんですよ。めちゃくちゃ仕事ができてエライ出世ですわ」

見違えるほど魅力ある女性に育った彼女を前に
ぼくはなんだか浦島太郎のような気分にさせられた。
お経の後にお坊さんの話があった。

春蝶のお墓2
茨木市にある先代春蝶のお墓


「葬儀はお別れの場ですが、
疎遠になっていた人が再会する場でもあります。
お亡くなりになった方からの最後の贈り物かも知れませんね」

ぼくは大きく頷くしかなかった。
ひょっとしてお坊さんはぼくらのやり取りを聞いていたのかもしれない。

ひとしきり笑った後、出棺であまりにも軽い棺を担ぐと、途端に涙が溢れてきた。
今頃、師匠と奥さんは
「蝶六さんは相変わらずドンくさいなぁ。どないかならんやろか」などと、
苦笑まじりで語っているに違いない。

師匠、奥さん、ホンマにありがとうございます。
おかげでなんとか落語家やってます。


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



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258.ウィル・スミスのビンタ~何を笑うか?~

先日のアカデミー賞授賞式での出来事は前代未聞だった。
3度目のノミネートで悲願のオスカー賞を受賞した俳優のウィル・スミスが、
プレゼンターのコメディアン、クリス・ロックに皆が見守る壇上での平手打ち。

ウィル・スミスの妻は脱毛症に苦しんでいて頭は丸坊主である。
それをクリス・ロックがネタにした。
相手の気にする身体的要素、しかも笑われた相手のそれは病気によるもの。
ウィル・スミスが思わずカッとなったのは理解できる。


花團治、どないしてくれんねん
(撮影:坂東剛志)


身体的要素に触れる笑いは落語のなかにも多々みられる。
ハゲはいつも笑いの対象だし、ブスを表現する語彙は実に豊富だ。
それに舞台の上からの客いじりで、
不用意な言葉で相手を怒らせてしまった経験はぼくにだってある。

音楽をやっているある知人は、もし私が客席に丸坊主の女性を見かけたら
北条政子か三蔵法師の名前を出してしまいそうだとFacebookに告白していたが、
ぼくもまた同じようにしてしまうだろう。
つまり、ぼくはクリス・ロックと同じ罪を犯しかねない人間だということだ。


ぼくが小学生の頃にはまだ小児麻痺(ポリオ)という病気が流行っていた。
ウイルスによって罹る病気で、感染すると身体の硬直などが見られる病。


ある日、運動神経が鈍く何をやってもドンくさいぼくに対して、
一人の同級生が「お前、小児やろ」と揶揄してきた。
周囲にいた者はどっと笑った。
以来、この病名がクラスの笑いの種となった。

かくいうぼくも級友に対し、似たような揶揄をしたことがある。
ぼくも同罪だった。その後、このことが学校で問題視され、
ホームルームで先生からきつく注意された。
今から思えば、病名を揶揄の道具にするとはなんと下劣残酷なことか。



花團治、そういうことやね
(撮影:坂東剛志)


若い頃はどれだけ食べても太らなかったぼくも今では立派なメタボ体型である。
落語家という職業だからか、あるいはぼくがなめられているのか、
初対面の人からもそれを笑いの種として弄られることがよくある。

ある程度、関係ができていればどうということもないが、
いきなりそこから入られると「この人はこういうセンスの人なんだな」と
ちょっとがっかりしてしまったり、
虫の居所が悪いときなどついムッとしてしまう。
そんなときよく言われるのが
「マジになりなや。洒落(冗談)やんか」

でも、それは言う側の考えであり、当人にとっては洒落でも何でもない。
少なくともこういう人をぼくから飲みに誘うことはない。

アカデミー賞授賞式という公の場だからこそ
「わたしは不愉快です」と表明することが大切だ。

全世界が注目するなか、
「無条件にハゲは笑いの対象にしていいのだ」という風潮に繋がっていきかねない。
あの場にいたギャラリーの大笑いする様子が映し出されたとき、
ぼくは「お前、小児やろ」に笑った連中の顔を思い出した。


がしかし、ビンタは良くなかった。
暴力を解決手段にしてはいけない。
では、どうすればよかったのだろう?

例えば、言葉や態度での反論はできなかったのだろうか。
アメリカやヨーロッパにはブーイングという文化がある。
個人的にはあまり好かないが、こういう場面でこそブーイングが相応しかった。
それもウィル・スミスだけでなく、ギャラリーからのブーイングが。

花團治、黒紋付き正面400
(撮影:坂東剛志)


笑いはときに人を傷つける。

こういうことを書くと、
職業柄、自分で自分の首を絞めてしまわないかと思わないわけではないが
避けて通れる問題でもあるまい。

「何を笑うかでその人格がわかる」というが、
「何を笑いにするか」が落語家にとって重要課題。

生前、師匠がよくこんな言葉を口にしていた。
「ウケりゃあ、
何でもエエちゅうわけやないんやで」



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



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◆詳しくはここをクリックして
「アゼリアホール」サイトをご覧ください。



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花團治の取り組みがカンテレ「報道ランナー」で放映されました。
Youtubeでご覧ください。↓

※カンテレ「報道ランナー」
空襲で命を落とした先代の無念を胸に
大阪空襲の記憶を伝える落語家






257.ホンマのお母さんて、何や?~言えなかったひと言…~

先月、母が亡くなった。享年84。
父と二人で暮らしていた。
あまりの長風呂に父が様子を見にいったところ、
すでに浴槽の脇で息絶えていた。
後日、遺品整理をしてくれた弟夫婦が母の財布から
デイサービスで利用した美容院の領収書を見つけた。
亡くなる前日の日付だった。
いつも室内をきれいに整理整頓していた母。

「髪を整え、風呂に入ってから逝くなんて、
なんとも母さんらしいわ」
と弟が呟いた。



ぼくが小学生の頃、毎日のように母の前に正座させられていた。
その頃のぼくは今よりずっと落ち着きのない子で、母はよく学校に呼び出されていた。
小言をうわの空で聞くぼくに業を煮やしたのか、母はこう言い放った。

「母さんかてな、アンタのホンマの
お母さんになろうと思って必死なんや」


それを聞いた途端、「ホンマのお母さんて何や?」と
我に返ったぼくは涙が止まらなくなった。

実は、ぼくの産みの母はぼくが三つのときに亡くなっており、
その翌年に継母としてやってきたのがこの母だった。

ぼくはこの記憶を頭の隅に追いやっていた。
それが母の言葉で一気に蘇ってきたものだから、
ぼくは壊れたみたいに泣き叫んだ。
思えば、母に強く抱きしめられたのはこの時が最初だったような気がする。

「辛かったな。よう頑張ったな」と母は何度も繰り返した。
涙が枯れるまで二人で泣いた。
ホンマの母でもウソの母でもどうでもいい。
ぼくはこの人の息子だとこの一件で実感できた。

それで十分だった。

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7年前、襲名披露公演に駆け付けてくれた母と(撮影:相原正明)


そんな母が初めてうちにやってきた時のことをなぜか鮮明に覚えている。
その頃のぼくは父親に「お母ちゃんはいつになったら帰ってくるの?」と
毎日のように問い続けていた。
「もうすぐ会える」をうわごとのように繰り返す父親だったが、
ある日「今日は会えるぞ」と嬉しそうに言った。
ぼくも有頂天になって喜んだ。

しばらくして玄関の戸がガラガラと開き、
そこに知らない女の人が立っていた。
「ほれ、お前のお母さんや」と父。
反射的に「この人、ぼくのお母さんと違う!」


それからずっと母を拒否し続けていたが、
子ども心に「産んでくれた母親のことは忘れなければいけない」
「口にしてはいけない」と思うほど、
母は優しく、ぼくや弟、そして父の面倒を本当によく見てくれた。


幼き日のぼくと弟
幼い頃の弟とぼく(右)



日中戦争が長期化し、国家総動員法が施行された昭和13年、
母は樺太真岡郡蘭泊村に生まれた。
昭和20年にソビエト連邦に占拠され、現在はロシアが実効支配している場所だ。

「ロシアの子とは一緒によく遊んでいた」と
当時のことを懐かしそうによく話してくれた。

その後母は青森の千刈というところに越し、
それからどういう経緯かは知らないが、単身大阪へやってきて
昭和41年28歳のときに二人の子連れである父と一緒になった。

それだけでも大変なのに、会社を興した父は知人に騙され破産
暴対法のない時分なので、
深夜を問わず借金取りの怖いお兄さんが家のドアをドンドン蹴り倒す。
応対するのはいつも母だった。
夜逃げしたこともあった。
母は一時実家の青森に帰るも、ほどなく大阪に戻ってきた。


あれは二年前、娘のお宮参りのために神社に来てくれた母が
靴擦れをして痛そうだったので「大丈夫?」と聞くと、
「だってお父さん、先に歩いて待ってくれないんだもん」とあっけらかんと笑った。

父はいつだってそうだ。
母を気遣うことなくさっさと早足で、
母は後から追いかけるように付いていく。

こんな男のどこがいいんだろう。

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ぼくのムスメのお宮参りに駆け付けてくれた母


うっかり亭主にしっかり女房というのが落語のなかの夫婦の定番。
亭主のあまりのスカタンぶりに女房が溜め息まじりに漏らすこんな台詞がある。
「なんでこんな人と一緒になったんやろ」

諦めと後悔の入り混じったこのひと言。
されど決して突き放すでなく、深い情に溢れている。
ぼくはこの台詞のたびに母を思い出してやまない。
あんな亭主で、こんな息子でごめんなさい。

一度は母を抱きしめて
「辛かったな。よう頑張ったな」と言ってやりたかった。



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。





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256.ふるさと~肥溜め踏みし、かの頃~

ぼくが早朝の大阪城公園でのラジオ体操に通いだしたのは昨年12月から。
日頃の運動不足解消が目的だが、
参加するほとんどが70歳以上のお年寄りで
今年還暦のぼくはかなり若手の部類で肩身が狭い。
多くが常連さんらしく、こんな会話が飛び込んできた。

「○○さん、最近見まへんなぁ」
「また温くなったら出てきはんのと違いますか」
「元気にしてまっしゃろか」
「さぁ…、最近わたしも病院行ってまへんしなぁ」

これまで集いの場だった診療所もコロナ禍の影響で行くことままならず、
今はこのラジオ体操が互いの安否確認の場となっているらしい。

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大阪城天守閣の前で朝のラジオ体操


ラジオ体操を終え、空が白んでくると
ひとつのグループが輪になって懐かしの歌を歌いだした。
「上を向いて歩こう」「いつでも夢を」「星影のワルツ」といった歌が続く。
どれも高度成長期に流行った歌だ。

「へぇあんさん、鹿児島の出身ですか?わたしは熊本ですねん」
という声が聞こえてきた。
「上を向いて歩こう」が流行った頃、多くの若者が「金の卵」と言われ、
集団就職で東京や大阪へどっと繰り出してきた。
会話しているこの男性もその一人なのかもしれない。
歌謡曲を歌い終わったグループが今度は唱歌を歌いだした。
おなじみ「ふるさと」という歌である。

「兎追いしかの山/小鮒釣りしかの川/夢は今もめぐりて/忘れがたき故郷」

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「ふるさと」を作詞した高野辰之の生家近くの「ふるさと橋」からの風景
橋の欄干にはうさぎが跳ねている。



ぼくの生まれは大阪府豊中市で咄家になるまでここに過ごした。
幼少期の頃にはまだ田畑の風景が多く残っていた。
しかし、「ふるさと」という歌にかぶさってくるのは
父の転勤で幼稚園から小学一年にかけて過ごした福岡県那珂川市での光景。
その頃からぼくは何かに夢中になると他のことはほったらかしの性分だったらしく、
当時の通信簿には「総てを忘れて遊びほうけて、
級友に注意をうけます」と書かれてある。
ランドセルを学校に忘れ、担任が自宅に届けてくれたこともたびたび。
いつもならバスに乗るところを身軽なことをこれ幸いにあぜ道をひたすら歩き続け、
ランドセルが届いてようやく身軽だった理由に気がついた、という始末。
池の隅にぎっしりと埋まる蛙に驚き、レンゲの花の絨毯に目を休めた。
悠々と流れる那珂川と、そこに浮かぶ渡り鳥の群れ。

あまりに帰りが遅いので母親が家の前で怖い顔をして待ち構えていた。
その頃によくやったのが、「根性試し」と称し
級友とともにカチンカチンに固まった肥溜めの上を歩く遊び。
何度かはまりそうになったこともある。

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福岡県那珂川市「岩戸小学校」入学記念。
どれが花團治か、自分でも判別できない。



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花團治が福岡県那珂川市「岩戸小学校」に通っていた頃の通知簿(小学一年生当時)


「ふるさと」を作詞した高野辰之の出身は長野県中野市で、
生家の近くには斑川という幅3メートルほどの川。
その向こうには熊坂山と大平山。昨年11月にぼくは講演の仕事でここを訪れて、
高野辰之の生家ものぞかせてもらった。

「かの川」「かの山」のモデルはここだと思った。
とはいえ、このような日本の原風景は全国にいたるところにある。
だからこそ多くの人々に愛され続けているのだろう。
ぼくは那珂川を思いつこの歌を歌う。

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「高野辰之」の生家




ところで、「ふるさと」が生まれたのは大正3年(1914年)のこと。
第一次世界大戦が勃発し、日本は戦争特需にわいていた。
宝塚歌劇が産声を上げ、ヤマハはハーモニカに製造に乗り出した。
東京駅が完成したのもこの年だった。
多くの若者が田舎を離れ、民族大移動が始まったのである。
「ふるさと」の二番と三番の歌詞にはこうある。

如何にいます父母/恙なしや 友がき/雨に風につけても/思いいずる故郷
こころざしをはたして/いつの日にか帰らん/山はあおき故郷/水は清き故郷


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「高野辰之」のお孫さんと


いつか「故郷に錦を」と思いながら出て来たが、
時が流れて戻る場を無くし、旧友と連絡するすべもなし…。
そんな者も多いだろう。
ぼくもまたあの那珂川には親類もおらず、
今も交流を続けている人は誰一人いない。
錦は飾れずじまいだけれど、
「あのとき一緒に肥溜めを踏んだよね」なんて会話を交わしてみたいものだ。

誰かこの投稿を見つけて声をかけてくれないかなぁ。



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。




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255.雪駄とサンダル~なぜ踵を出して歩くのか~

ずいぶん前の話になるが、呉服屋の店主に
新発売だという雪駄を薦められた。確かに軽く、デザインもいい。
思わず財布の紐がゆるみそうになったが、
店主の「サンダルみたいに履けますよ」というひと言に
一気に興醒めしてしまい、何も買わずそそくさと店を後にした。


雪駄とサンダルは似て非なるもので、
やはり着物には雪駄だからだ。
このことを家に帰って嫁はんにぼやくと
「何で?サンダルみたいに楽に履けるってええやん」と
全く賛同を得られないばかりか、
「ちょっと頭、固すぎるんと違う?」とボロクソに言われてしまった。
しかし、しかしである。ぼくが雪駄にこだわるのは
大学でのこんなやり取りが背景にあったのである。

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大学での授業風景


ぼくの大学での講義は落語の実演をまじえながら
進めていくスタイルなのでたいてい着物姿だ。
その授業の最中にふとした会話から学生の一人が
こんなことを言いだした。

「センセのサンダル、
足のサイズに合ってない。小さいんと違う?」

それに対してぼくは
「いや、これはサンダルではなくて雪駄というもんや」と答えた。

これをきっかけに学生らによる質問が始まった。
「雪駄って何?」
「草履と雪駄は違うのん?」
「何で雪駄は足のかかとをはみ出して履くのん?」
「着物にサンダルはあかんの?」


情けないことにそういった質問に即答できるだけの知識を
ぼくは持ち合わせていなかった。
回答は次週に持ち越しということになり、ぼくなりにいろいろ調べてみた。

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花團治愛用の雪駄


雪駄というのは草履の一種で、
つま先の底と足が触れる天面が直接付いている草履を雪駄と呼んでいる。
また、雪駄は裏面に革が張られていて多少の悪路でもそのまま歩くことができる。
雪駄という言葉も雪の上でも歩けるということからきているらしい。

サンダルと草履の大きな違いはまず鼻緒の位置であろう。
サンダルの鼻緒の芯は内側にあるのに対し、
草履の鼻緒の芯は草履の真ん中にある。

つまり、サンダルは左右が決まっているが、
草履には左右の決まりがない。
草履は鼻緒が真ん中にあることで
小指が外側へはみ出してしまうことになる。
慣れない人はこれに違和感を覚えるらしい。

では、なぜ雪駄は踵を出して歩くのか。
ひと言で言えば、雪駄は和服のための履物だからということになる。
和服と洋服では歩き方が当然異なる。
着物と雪駄で現代ウォーキングをすれば、着物は着崩れるし、
鼻緒が足指に食い込むことになりすぐにちぎれてしまう。

着物の際の歩き方は大股で歩かず
摺り足で鼻緒を引っ掛けるように
というのが正しい(というか、着物に草履であれば自然にそうなっている)
このとき、摺り足がゆえに雑踏などで後ろを踏まれて
ひっくり返ってしまうリスクが高くなる。

また、草履はつま先と足の横にかかる鼻緒だけで支えて履くので
踵や足全体に重心を置く靴とは違い、
つま先に近い部分に重心がくる。
このとき、足のサイズより大きい草履だと
踵の部分をパカパカしながら歩くことになり
見た目に美しくないうえに、
悪路だと泥が後ろに跳ね上がって他人に迷惑が及ぶことになる。


花團治、そ、それは
桂花團治(撮影:坂東剛志)


さて、冒頭に述べた「サンダルのように履ける雪駄」だが、
やはり少し気になったのでこっそり取り寄せてみた。

なるほどこのサンダル雪駄の履き心地は実に良かった。
パカパカする踵の部分に反りを入れて足にフィットするようになっている。
鼻緒の芯もサンダルのように内側に寄っている。
「着物で摺り足」にもさほど支障がなさそうだ。

厳密に言えば、所作に多少の違いが生まれるかも知れないが
特に問題は感じなかった。
要は従来のサンダルのように歩かなければいいのだ。
あくまでも雪駄なのだから。

ぼくはきっと「雪駄よりもサンダルの方が履物として優れている」と
言わんばかりのモノ言いにカチンときたのだ。

「サンダルみたいに」というひと言さえなければ
おそらくあの場で購入していただろう。

…やはりぼくは頭が固いのだろうか。


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



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254.おじいちゃんのざんげ~戦争を知らない子どもたち~

ぼくが小学生3年か4年生の頃。
正月に母方の祖父の家に親戚一同が集まり、
その頃は高校生で後に音楽大学に進んだ叔母がピアノを披露し、
祖父は詩吟か何かを詠い、余興の順番がぼくにまわってきた。
ぼくはその少し前に流行った杉田二郎の戦争を知らない子どもたちを歌った。

戦争が終わって 僕等は生れた
戦争を知らずに 僕等は育った
おとなになって 歩き始める
平和の歌を くちずさみながら
僕等の名前を 覚えてほしい
戦争を知らない 子供たちさ


作詞・北山修、作曲・杉田二郎


太陽の塔400
「戦争を知らない子どもたち」が発表されたのは、1970年「大阪万博」の年だった。
「大阪万博」でアマチュアフォークシンガーのステージがひらかれ、その“テーマ曲”として製作された。




このとき一同からの拍手はどこかぎこちなく、
とても凍り付いた空気になったことは小学生のぼくにもわかった。
祖父はなんともいえぬ顔で黙っていた。

この母方の祖父は戦時中、満州での戦争に参加していて、
そのときのことを周囲の人によく話していた。
けれども、それはいかに作戦を立て相手を襲撃したかという話ばかりで、
ぼくはその武勇伝に辟易していた。
それで祖父に「一矢報いてやろう」と思いが
ぼくのなかに芽生えたのかもしれない。


一方、父方の祖父は父がまだ幼い頃に亡くなっていた。
父からは「お爺ちゃんは牢屋の中で死んだ」と聞かされた。
「何か悪いことしたの?」と小学生のぼくが尋ねると、
戦争反対を唱えたからや」という言葉が返ってきた。

父は母と結婚するときに猛反対されたらしいが、
きっとこのことが関係しているのだろう。
その母はぼくが3歳のときに亡くなり、
その後すぐに継母がきてぼくを育ててくれた。

父と生母のことをもっと詳しく知りたい気持ちもあるが、
今だずっと聞けないままでいる。

幼き日のぼくと弟
幼稚園の頃の筆者(向かって右)と弟




これは最近知ったことだが、
母方の祖父はかつて憲兵だったこともあるらしく
周囲からはとても恐い存在として映っていたらしい。
でも、一番孫であるぼくにはいつも優しかった。

ぼくが「戦争を知らない子どもたち」を歌ってからも、
祖父はぼくが家を訪れるたび目を細めて迎えてくれた。
いつしか戦争の武勇伝はあまり口にしなくなっていた。
当時の想い出として、
テーブルに大きく新聞を拡げる祖父の姿が今も目に焼き付いている。
祖父は4大新聞の全てを購読していた。
新聞なんてどれも一緒じゃないかと思っていたぼくが、
「何でそんなにたくさんの新聞を読むの?」と尋ねると、
「考えが片寄るといけないからな」という。

もうひとつ、思いだすのは祖父が封筒貼りをする光景だ。
その頃の祖父は民生委員など地域のボランティアを多くこなしていて、
毎日がその業務に追われて忙しそうだった。
リビングの傍らには大きな段ボールが詰まれ、
書類の封筒詰めから糊付けまで誰にもやらせず全て自分一人でこなしていた。
それが全くの無報酬だということを知ったぼくは
「誰かに手伝うてもうたらええやん」と言った。
祖父はしばらく黙っていたが、部屋を出ようとするぼくの背中に
「懺悔や」とひと言呟いた。

その祖父も十数年前に亡くなった。
今になって祖父の話をもっと聞いておけば良かったと思う。

祖父が戦争を武勇伝みたく喋っていた姿。
新聞を何紙も買い込んで目をこらす姿。
ボランティアに精出す姿。これらは同一人物とは思えなかった。

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今、ぼくは大阪空襲のことを調べて落語にしているが、
それを知った人からは憲法や戦後補償のあり方について問われることが多くなった。
でも、ぼくはそこにはっきりと答えを持てないでいる。
ネットでの論争は白か黒か、正か悪か…。
はっきりした意見ほど持てはやされている感があるが、どうもぼくにはなじめない。
「考えが片寄ると~」と応えた祖父の言葉が妙にぼくのなかに残っている。


立ち位置によって正義は変わるのである。
このことはうちの師匠(二代目春蝶)が晩年酒を舐めながらポソッと呟いたひと言、
「世の中を知れば知るほど寡黙になる」
という言葉とも符合している。

ぼくが今言えるのは「戦争はアカン」ということだけだ。

これをどういうアプローチで語っていくべきか。
開戦80周年を機として、ぼくなりの「過去との対峙」をやっていきたいと
気持ちを新たにした年末である。



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。





※創作落語「防空壕」を演じます ↓

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※1月6日「花菱の会」の詳細はここをクリック!



※ぼくが古典の「崇徳院」を、
あやめがそれを女性の目線で描いた「裏・崇徳院」を ↓


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253.学校のいごこち~彼らがいたからぼくは不登校にならずにすんだ~

ぼくが夜間高校に出講するようになって
かれこれ20年以上の月日が経つ。

最近になって学校の雰囲気はずいぶん変わった。

いかにも指導者然としてモノを言う先生が
ほとんど見受けられなくなったかわりに、
生徒と談笑する姿をよく見かけるようになった。
ヤンチャな生徒が減っておとなしい生徒が増えたということかもしれないが、
文科省の方針について調べてみて合点がいった。


令和元年に文科省は「不登校児童生徒への支援は、
学校に登校するという結果のみを目標にするのではなく、
児童生徒が自らの進路を主体的に捉えて、
社会的に自立することを目指す必要があること」と打ち出していた。


従来の「とにかく登校させる」という方針を大きく転換させたのだった。


桃谷400
出講する夜間高校の授業風景


ぼくに不登校の経験はないが、
小中学校での楽しい思い出はほとんど記憶にない。
いわゆるいじめられっ子で、
小学校ではマットにグルグル巻きにされ死ぬ思いをした。
先生に助けを乞うも、その担任はなぜかぼくに蔑んだような一瞥を送り、
フッと溜め息をつくだけ。
皆の前で「森(ぼくの本名)くんは
普通の子やないから放っとき
とも言われたこともある。

ぼくのなかでイジメの総元締めはこの担任だった。

それでもかろうじて学校に通い続けることができたのは、
ある一人のガキ大将のおかげである。
そいつは喧嘩がめっぽう強くて皆から一目おかれていたが、
放課後はもっぱらぼくと二人で過ごした。
どんな事情があったのかは知らないが、
周囲の大人たちは「あの子とは遊んではいけない」と
自分の子どもに言い聞かせていた。
ぼくの両親も同様だったが、そんなことはおかまいなしで
ぼくは毎日のように彼と自転車を二人乗りして遠出した。
ペダルを漕ぐのはいつもぼくの役だがそれでも楽しい時間だった。
彼とぼくは学校で会話を交わすことなどほとんどなく、
イジメから救い出してもくれることもなかったが、
それでも彼の存在はなんとも心強かった。

中学に入ってからは、入れ替わるように
別の喧嘩の強い級友がぼくを守ってくれた。
テストがあると彼より少し勉強のできたぼくは、
真後ろに座る彼のために用紙をずらしてはカンニングをさせていた。
その甲斐あって、不良グループに囲まれあわやリンチに遭いそうになったとき、
そのリーダーでもあった彼が
「森にだけは手を出すな」と言ってかばってくれた。

もしあの頃、彼らの存在がなかったら
ぼくは間違いなく不登校になっていた。


幼き日のぼくと弟
幼稚園時代のぼく(右)と弟


高校生になってからは落語がぼくを守ってくれた。
上方落語ではおなじみの喜六という男。
おっちょこちょいでスカタンばかり繰り返すこの人物を
町内の隠居である甚兵衛さんや兄貴分の清八が
「相も変わらずオモシロイ男やな」
と言って温かく受けとめる。

ぼくはこの喜六と自分とを重ねていた。
ぼくにとって落語はシェルターだった。
そこに潜り込むことで楽になれた。




落語家になってからは、師匠(先代桂春蝶)が甚兵衛さんや清八になった。
「お前、何をしとんねん!」という戒めの言葉につい笑ってしまい、
さらに叱られたことがあったが、
それは可笑しかったからではなく嬉しかったから。

「師匠はぼくのことを見てくれている」という安心感に包まれた。

亡くなってからずいぶん経つが、
ふと「あぁこんなことをしてたら師匠に叱られる」と思ってしまうのは、
今なおぼくのなかに師匠が生きているという証しかもしれない。

春蝶の家族と共に
師匠宅に住み込み時代(中央が師匠、前列右が現・春蝶、その後ろにぼく)


ぼくが見た最近の夜間高校での光景も落語世界を彷彿させるものだった。
戒めつつも「しゃあないやっちゃ」と生徒を受け止める教師は甚兵衛さんや清八。
「わし、お前のことをちゃんと見てるで」という眼差し。

甚兵衛さんや清八が見守る学校はなんともいごこちがいい。

最近、世間では物騒な事件が頻発しているが、
彼らに「いごこちのいい場所」があったら
犯罪は防げたのではないだろうかと考えてしまう。


ぼくの居場所を作ってくれたガキ大将や不良の彼の存在は大きかった。
いつかお礼を言いたいなぁ。



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。




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※ピースおおさか平和寄席の詳細はここをクリック!

12月5日は、大阪空襲と、襲名後わずか一年目で
その犠牲になった先代花團治にちなんだ創作落語を予定しています。
その思いについてブログにまとめています。
ぜひ下記URLをクリックしてご一読くださいませ。


※大阪空襲と二代目花團治




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252.仁鶴師匠と敏江師匠~二代目春蝶生誕祭に寄せて~  

生前、ぼくの師匠の二代目桂春蝶がぽつりと呟いた。

「春輔兄さんは後世ずっと
語られることになるけど、
わしが死んだらすぐに
忘れられるんやろな」



春輔兄さんとは奇行エピソードが尽きることのない「伝説の落語家」

この言葉が脳裏にずっと残っていたぼくは、師匠が亡くなって20年を越えた頃、
兄弟子の桂一蝶や師匠の子息である大助こと当代春蝶に相談した。

ここから師匠の誕生日である10月5日に、
毎年「二代目春蝶生誕祭」を開催することになった。

めったに一緒にならない一門(といっても一蝶兄だけなのだが)と
三代目春蝶と集い、思い出話に花を咲かせる座談会つきの落語会である。


fc春蝶生誕祭、左から春蝶、一蝶、花團治_convert_20211017094249



毎回、縁の深い方にゲストとして出演してもらっているが、
いつかはと思っていた方がここ数日、相次いで亡くなられた。


笑福亭仁鶴師匠(8月17日没)そして、正司敏江師匠(9月18日没)。
それぞれの享年が84と80。
うちの師匠は生きてはったら80歳なので、
まさしく同時代を生きた師匠方である。


ぼくが春蝶に入門してすぐの頃、
仁鶴、ざこば、八方の御三方が春蝶宅で麻雀に興じるということがよくあった。
今、目の前に人気者たちがいる!そのことに、当時二十歳のぼくはおおいに興奮した。
麻雀に興じる師匠方のために水割りを作ったり、オニギリを握ったり…、
雑用をこなしながらも、師匠方の会話をひと言も漏らすまいと耳をダンボにした。

ざこば師匠は牌を取るたび鼻息荒く、
黙々とゲームを続ける春蝶や八方師匠とは極めて対照的だった。
そんななかで仁鶴師匠の麻雀はいかにも楽し気で、
チャンチャーンチャカチャカチャンチャン…という鼻歌が飛び出した。
運動会でよく耳にする「天国と地獄」という曲である。
そして時おり、牌を取るときに
「どんなんかなぁ~」
という
あのギャグのフレーズをやってくれた。

ぼくは笑いをグッと堪えつつ肩を震わせた。
そのときチラリとぼくを見やる仁鶴師匠と目が合った。
師匠は目の奥でニヤリと笑い、素知らぬ顔で牌を並べた。

fc仁鶴_convert_20211017095929


それから30年後、ぼくが蝶六から花團治を襲名する際にご挨拶に伺うと、
テレビで見るあの穏やかな表情で優しく口調でこう話された。

「春蝶さんが亡くなったのは
…あぁそうか。もうそないなりますか。
惜しい人を亡くしました。
それでいくつやったかなぁ
…あぁそうか51歳でしたか?
志半ばにして亡くなったんやね」



その顔にはあの「ニヤリ」のような茶目っ気は微塵もなく、
遠い昔を懐かしむような目をされていた。
そしてぼくの目をしかと見据え、

「君は春蝶さんの遺志を
継いでいく責任がある。
これからも精進するように」



落語界を背負ってきた自負がにじむ重みのある言葉だった。

正司敏江


敏江師匠と初めてお会いしたのは道頓堀の角座の楽屋だった。
ぼくが入門を乞いに行ったとき、
その場にたまたま居合わせた、という縁である。
その頃弟子を破門にしたばかりの二代目春蝶は
「金輪際、弟子は取らん」と公言していたらしく、
ぼくを弟子に取ることをかなり渋っていた。

すると、敏江師匠が横から春蝶の顔を覗き込み、

「春蝶くん、ええ子やんか、
取ったりぃなぁ~。
いや、この子はええと思うよ」


なかなかの「圧」がある物言いに、春蝶もタジタジ。
もちろん敏江師匠とぼくはその日が初対面だったのにもかかわらず、だ。


後でご本人に聞くと、どうやら何の確信もなく、
その場のノリで言っただけとのこと。

「あんた、捨てられた子犬みたいに
思いつめた顔をしてたんやもん。
可哀そうに思うてな」


ともあれ、ぼくは敏江師匠のおかげで入門できた。


今ごろ、敏江師匠は
「姉ちゃんのせいでとんでもない弟子を取ってしもうたやないか」と
うちの師匠にぼやかれていることだろう。

仁鶴師匠とうちの師匠はきっと雀卓を囲んでいるに違いない。
師匠の元に堂々と顔向けできるよう、しっかり精進します。


この原稿は、「二代目春蝶生誕祭~生きてはったら80歳」のパンフレットのために書き下ろしたものに、
加筆・修正したものです。




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◆「あやめ・花團治ふたり会」
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251.ビル・ゲイツなぼく~”皿洗い”に救われる~

旧知の友人がソロキャンプにはまっていて、
その様子を不定期ながらYoutubeに公開している。
たき火の揺らぎは画面ごしでも気持ちが安らぐ。
近所にたき火ができる場がなく、
車の免許も持たないぼくは時折この動画を眺めて
瞑想タイムのおすそ分けをもらっている。
瞑想とは無心になること。つまり煮詰まった頭をリセットすることだ。

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terucamp ←ソロキャンプの動画はこちらから



ずいぶん前の話になるが、とあるバーで月に一度だけ
昼下がりに行われる絵画教室に参加していたことがある。
水彩でも色鉛筆でも絵具はなんでも構わなかったが、
目の前にある静物、たとえばリンゴであったり、トウモロコシであったり、
ススキの穂であったり…、回によってまちまちだが、
カウンターのなかにいる先生をぐるりと囲むように
10名ほどの生徒が止まり木に並び、
先生からちょっとしたアドバイスをもらいながら2時間近く、
それぞれがただ黙々と画用紙に向かうというものだった。

それが終わると、先生からの寸評があり、
その後は酒を楽しんで三々五々に解散という流れ。
これでも一応、芸術大学の出身なので絵を描くことは嫌いではない。
酒を酌み交わすことも大好きだ。
でも、今から思えば、そこに通った一番の理由は
絵を描いたり酒を飲むことより、
ただ無心になるためだった。瞑想といってもいい。



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コロナ禍が続き、家にいることが多くなった。
とはいえ、ぼくが大の苦手であるデスクワークの多くは
女房が一手に引き受けてくれている。

さすがに連載している原稿などは自身で書いているが、
推敲や校正も女房頼み。その代償というわけでもないのだが、
洗濯や皿洗い、ゴミ出しは今やすっかりぼくの担当となった。

水仕事をしていると住み込みだった内弟子時代を思い出すが、
ぼくはこの作業が嫌いではない。むしろ心地の良い時間ですらある。
そんなことを女房に呟くと「ビル・ゲイツと同じやね」
なんてことを言う。

「ビル・ゲイツってMicrosoftの創業者の?」
「そう。ビル・ゲイツだけでなく、amazonのジェフ・ベゾスも皿洗いを日課にしてるんだって」

そう言われるとなんだか皿洗いが
急に崇高な行為に思えてくるから不思議である。
以来、皿洗いは決して女房にはやらせないぼくの聖域となった。



この「ビル・ゲイツの皿洗い」の話をきっかけに、
ネットサーフィンから「マインドフルネス」という言葉にたどり着いた。

Wikipediaによると「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、
評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」とある。

世界一の大富豪は皿洗いによって“今ここ”に集中し、
一日の緊張を解きほぐしていた。

つまり、ぼくが無意識のうちに
自ら進んで皿洗いに手を出すようになったのは、
ストレス解消の術として身体が求めていたということだろう。

絵を描くことも皿を洗うことも、
ぼくにとって瞑想でありマインドフルネスだった。

そうそう、この原稿を書いているのだって
瞑想タイムといえなくもない。
締切に追われているときは瞑想どころではなく、
気が立って先に進まなくなってしまうことも多々あるが、
この原稿の元は日々思いついたことを落書きしているメモ帳。
ボーっとしながら無地のノートに水性ボールペン
を走らせる瞬間は実に心地よい。

花團治、待ってくれ
筆者(撮影:坂東剛志)

 
原稿書きが一段落ついたところで、
次は商売道具である手拭のアイロン掛けに入ろうと思う。
実はこれとて無心になれる大切な時間。
本来なら落語の稽古が瞑想、
マインドフルネスということに繋がれば
一番都合良いのだが現実はなかなかそうとはならない。

ぼくはどうやらどこまでも現実逃避
したいだけなのかもしれない。

実に残念である。


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



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250.軽口仁輪加・考~春團治・五郎兵衛一門とニワカの深~い関係~

今、繁昌亭では「15周年記念特別公演」の真っ最中。
9月6日(月)から12日(日)は
「春團治・五郎兵衛ウィーク」


落語はもちろんのこと、今回ぼくが特に見て頂きたいのが
「軽口仁輪加」なんです。


・・・ということで、今回は「軽口仁輪加」のご紹介です。


「軽口仁輪加」とは、
今でいうコントや漫才のようなもの。
ダジャレやスカタンを言いながら、
歌舞伎の芝居の真似事などをする芸。
新喜劇の源流という説もあります。

ルーツは江戸時代に遡ります。
江戸時代の作家・十返舎一九の著した「東海道中膝栗毛」で、
弥次さん・喜多さんの二人連れが天満の天神さんを訪れたときに、
「軽口物真似」という芸が紹介されていますが、これが「軽口仁輪加」の源流。
歌舞伎役者の声帯模写をしたり、しぐさ・身振りを真似たりしたそうです。

つまり「軽口仁輪加」は、もともとは大道芸でした。
明治に入ってから寄席芸として確立しました。
色物としてだけではなく、
「軽口仁輪加」専門の小屋もあったそうです。

NHK朝の連続ドラマ小説「わろてんか」では
寄席風景のなかで紹介されていましたが、
このとき、「軽口仁輪加」を演じていたのは
露の団四郎・露の団六のご両人。

団四郎師は、「軽口仁輪加」の名跡である
一輪亭花咲(いちりんていはなさく)を襲名
しています。

花咲の先代は団四郎師の師匠である露の五郎兵衛師


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仁輪加の稽古をつける四代目一輪亭花咲こと露の団四郎師
(奥から、露の団姫、露の団四郎、桂梅團治)





ところで、「軽口仁輪加」といえば、
紙で作った張り子の鬘・ボテ鬘(かずら)がおなじみですが、
本鬘を使わないのには、ちゃんと理由がありました。

明治時代の芸人は税制により、営業をするには、
「遊芸稼ぎ人」という鑑札を手に入れる必要がありました。

このとき、もし「ボテ鬘」ではなく、「本鬘」を使うとなれば、
「一等俳優」とか、「二等俳優」という鑑札になり、
税金は何倍にも膨れ上がった
とか。

つまり、単に「安上がりだから」というだけでなく、
にわか師にとって、ボテ鬘は税金対策でもありました。

しかし、にわか師のなかには、
「ボテ鬘」を拒否する芸人もいたようで、
税金を多く払ってでも「本鬘」にこだわる人もいました。

その一人が「鶴屋団十郎」という方。

鶴屋は、江戸時代に活躍した歌舞伎戯作者「鶴屋南北」から、
団十郎は、歌舞伎の大名跡「団十郎」からちょっと拝借。
「鶴屋団十郎」の一座は当時大人気を博したようです。

この鶴屋団十郎の弟子の一人に、「団治」というお方が、
後に(初代)渋谷天外を名乗り、
その息子の二代目渋谷天外が松竹新喜劇を創設。
NHK朝の連続ドラマ小説「おちょやん」では、
この二代目天外を成田凌が演じていました。
「軽口仁輪加」が新喜劇のルーツと呼ばれる所以です。

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今回はこちらの本を参考にさせていただきました。


にわか師のなかには、
落語家から転向する人も多く、
その第一号が、初代桂梅團治


(今の梅團治師は四代目)
桂梅團治・桂篤團治のコンビで「軽口仁輪加」を演じました。

どうやら花團治の先代も「軽口仁輪加」を
演じていたみたいです。



五郎兵衛一門にも、春團治一門にも縁の深い「軽口仁輪加」。
その演目のひとつである「宝蔵」を、
「繁昌亭15周年記念特別公演」の
「春團治・五郎兵衛ウィーク」にて、
日替わりコンビで披露します。

組み合わせによってこうも趣が変わるものか。
ちなみに、ぼくは親子ほども歳の離れた瑞との掛け合い。
瑞がツッコミで、ぼくがボケ担当。
お稽古でもコテンパンにやられっぱなし。
それを観ていた我がムスメ3歳は
手を叩いてめっちゃ笑ってました。

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花團治宅稽古場にて(左から露の瑞、わがムスメ、ぼく)




【繁昌亭・春團治&五郎兵衛一門ウィーク・軽口仁輪加】

6日(月)団四郎&団姫
7日(火)団六&梅團治
8日(水)都&一蝶
9日(木)千橘&春雨
10日(金)吉次&壱之輔
11日(土)花團治&瑞
12日(日)新治&福楽


一日と言わず、二日、三日…
それぞれ異色コンビが織りなす笑いをお楽しみください。

繁昌亭15周年春団治ウィーク番組


繁昌亭15周年春団治ウィーク


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249.鶴の恩送り~弟子にしたのは俺や、辞めさすのも俺や~

お釈迦さんは数多の弟子に多くの教えを示したが、
相手やその時どきに応じて、内容を変えている。
落語家の師匠も同じで、
「前に言ってたことと全然違うやん!」
ということが多々ある。
入門した当初は師匠の台詞をしっかりなぞることを強いても、
ある段階までくると全く正反対の言葉に代わることも。

それに指南というものは
さりげない日常会話のなかに含まれることが多く、
弟子の側にもしっかりそれを受け止めるアンテナを持つことが課せられる。



在日コリアン3世の笑福亭銀瓶が、
タレントを目指し笑福亭鶴瓶師匠のもとに入門したのは1988年。
鶴瓶師匠の指南はいつも簡潔かつ絶妙なタイミング。

「お前、落語やれ」
「お前、韓国語できるんか」
「もっと恥をかけ」…。


たったこれだけの言葉に、
彼は「なぜ、今ここで師匠は自分にそれを言うのだろうか」と
心の奥深くでしっかり受け止め忠実に実行してきた。


ある日、彼を含む弟子たちが師匠を囲みながら、
師匠が過去に出演したあるドラマについて談笑していた。
けれども、その話題についていけない彼は
「兄弟子らは師匠が大好きで入門したのに、自分だけは違う」と
不純な自身を恥じた。

また、師匠の奥さんとの関係も良好なものではなく、
彼は奥さんからこんな言葉を突きつけられた。
「銀瓶くん、あなた、『俺は鶴瓶の弟子やのに、
なんでこんなオバハンに
言われなあかんねん
』って思ってるでしょ」


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実はぼくも彼と似た経験をしている。
入門時二十歳だったぼくは
「尖がっていることが恰好良い」と思い込んでいる格好の悪い奴で、
口癖は「せやけどね」だった。

「“せやけどね”の前に、“そうですね”と何で言われへんのん?」と
師匠の奥さんから何度お叱りを受けたことか。

「奥さんはぼくの師匠やない」という思いがそうさせたのだ。
また、「あんた、師匠のことをあんまり好きやないのんと違う?」と
鋭く問われたこともあった。

それに、メディアにおいても「阪神と言えば春蝶」と言われるほど
タイガースに熱狂する師匠の姿をぼくはどこか冷めた目で見ていた。
師匠と兄弟子たちがまるで同志のようにタイガース談義を熱く交わすとき、
ぼくだけいつも蚊帳の外だった。
野球に興味がわかないぼくはその輪に入れず、
銀瓶同様「自分だけは違う」という憂いを抱えていた。


春蝶の家族と共に


しかし、彼はその後の行動がぼくとはまるで違っていた。
モヤモヤの解決を時の流れに任せるしかしなかったぼくと違い、
銀瓶は実に潔かった。

ある日、彼は意を決し師匠にこう言う。
「僕がいると、師匠や奥さんに不快な思いをさせて、
家の中の雰囲気も悪くなって……、(中略)
僕はこの家にいるべき人間じゃないと思います。
だから、辞めさせてください


しっかり思いを伝えた銀瓶もエライが、
それを聞いた師匠・鶴瓶や奥さんの対応も素晴らしい。
奥さんを横に立たせた鶴瓶師匠は銀瓶にこう伝えた。


「…あのな、お前を弟子にしたんは俺や。
そやから、お前を辞めさすんも俺や。
俺が見て、こいつはアカンと思ったら俺から言う。
お前から勝手に辞めることはでけへん。
俺は今、お前を辞めさす気はない。
…玲子(鶴瓶師の奥さん)、それでええな?」


奥さんは「はい」とだけ答えた。


ぼくは、彼が著した「師弟~笑福亭鶴瓶からもらった言葉~」(西日本出版社)
という自叙伝を三回ほど読み返し、三回ともこのくだりで泣かされた。

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考えれば考えるほど師匠というのは損な役回りである。
どこの骨ともわからない人間を預かり、責任をもって世に送り出す。

ようやく一人前になろうかという時に廃業する者もいる。
優秀な弟子ほど自分の商売仇になり得る。それでも無償で稽古をつける。
数多の武勇伝で知られる鶴瓶師匠も松鶴師匠にとって「大変な弟子」だったはず。

全ては自分を育ててくれた師匠の恩に報いるため。
「恩返し」ならぬ「恩送り」

…とはいえ、この年になると師匠に恩返しがしたくなる。
師匠がまだまだ元気な銀瓶がつくづく羨ましい。(了)



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



繁昌亭15周年春団治ウィーク


繁昌亭15周年春団治ウィーク番組

※上方落語協会マガジン「んなあほな」に、
繁昌亭15周年企画「春団治・五郎兵衛一門ウィーク」について記事を書きました。
ここをクリックしてぜひご覧くださいませ。



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248.その「正義」が笑顔を殺す~突然、殺人犯にされた男の10年間の闘い~

かつてヨン様ブームの頃、お笑い芸人のスマイリーキクチさんは
ペ・ヨンジュンに似ていることからテレビにも引っ張りだこだった。
芸名の名付け親はプロデューサーで作詞家の秋元康さん。
いつもニコニコしていることから、
「君はスマイリーキクチがいいんじゃないの」と提案された。


先日、そんなキクチさんの講演会が大阪で開かれたのだが、
客席にいたぼくは身が震え、涙がこぼれそうになった。
これは他人事ではない。
いつ自分の身にふりかかってもおかしくないと思った。

キクチさんがある凶悪事件の犯人だとネットに書き込まれたのは、
テレビでも人気が出始めた頃だった。
ネット掲示板「2ちゃんねる」に書き込まれたことをきっかけに、
そのデマはどんどん拡散した。
すぐにデマの削除を管理人にお願いしたが、
それに対する回答は「犯人ではないという証明がない限り削除はできない」
というものだった。

「~していないこと」
「存在しないこと」の証明は
「悪魔の証明」と言われるほど
ムツカシイ。



これから10年もの間、
匿名のネット民との闘いは続いた。
芸能活動にも大きな支障を及ぼした。

スマイリーキクチ




罪を犯す人には二通りある。
ひとつは、悪いと分かっていながら犯してしまう人。
もうひとつは「自分が正しい」と信じて疑わず犯す人。

双方ともに悪いに違いないが、
手に負えないのが後者の方だ。

落語「一文笛」に登場する掏摸(すり)の秀は、
貧乏で一文笛すら買えない少年を不憫に思った。
駄菓子の婆が「銭のない子は(一文笛を)触らんといてんか!」と
少年を罵倒する場に居合わせ、自分の小さい時分とその子どもを重ね合わせた。
義憤にかられた秀は、その一文笛をこっそり盗んで少年の懐に入れてやった。
しかし、それが元で少年は泥棒の汚名を着せられ、
井戸に身を投げる羽目に。兄貴分の男は秀をきつく戒める。


「お前、何ぞええことでも
したつもりでおるんと違うか。

お前がその子どものことを不憫やと思うねやったら、
何で銭出して買うてやれへんねん。
それが盗人根性ちゅうのんじゃい!」

花團治、どないしてくれんねん
筆者:桂花團治

「キクチは殺人犯だ」という書き込みをした人物も、
最初は自分が正義だと疑わなかったのだろう。

スマイリーキクチさんは著書「突然、僕は殺人犯にされた」のなかで
こんなことを述べている。

「ネット炎上防止の講演会などを聞きに行くと、
参加者に『悪口を書いちゃダメ』と教えていることが多いんですね。
しかし私を中傷した人たちは罪の意識が希薄で、
そもそも悪いことをしている自覚が無かった。
単に『悪口はダメ』と言って防止策になるのか、いつも疑問を感じています」



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最初に書き込みをした人間は、
それをデマや悪口だとはこれっぽちも思っていなかった。

凶悪な殺人事件の犯人は少年で名前や写真が公表されることはなかったため、
「この悪い奴の正体を突き止めて世間に公開してやろう」という正義感が生じた。

そして、犯人の出身地と年齢などから、
たまたま同地区・同世代だったキクチさんを勝手に殺人犯だと思い込んだ。


何年もの追跡の結果、書き込みをした18人が明らかになったが、
公務員や会社役員など「いい年をした大人」ばかりだったという。

単なる悪ふざけやストレス発散が目的だった人もいるが、
最初のデマ情報を鵜呑みに悪を成敗するつもりで行った者も少なくない。
彼らは「ええことしたつもり」で無関係の人を地獄に追い込んだ。
コロナ禍での「自粛警察」や「陰謀論者」にもつながる話ではないだろうか。


匿名というマントを被り、
見当違いの正義感にかられたヒーローなんて
本当にタチが悪い。

落語のように笑って済ませられない。


見えない敵と戦い続けたスマイリーキクチさんに
心から敬意を表したい。



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。




花菱の会95


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247.時代に翻弄された落語家~初代&二代目・花團治クロニクル

◆初代春団治やエンタツ・アチャコと共に


ナンセンスな演出などで一部の評論家から
「落語の破壊王」
批判の対象になることもあった爆笑王・初代桂春団治。

漫才師として初めてスーツ姿で舞台に立ち、
それまで音曲が中心だった萬歳から音曲を無くし、
しゃべくりのみに変えた「近代漫才の父」
横山エンタツ・花菱アチャコ。

初代・二代目花團治は、
こうした時代の変革者たちと同時代に生きた咄家でした。

1875(明治8)初代花團治生まれる
1878(明治11)初代春団治生まれる
1884(明治17)五代目松鶴生まれる
1896(明治29)横山エンタツ生まれる
1897(明治30)花菱アチャコ生まれる
1897(明治30)二代目花團治生まれる



二代目花月ピクニック3-400
手前から、男性3人目が二代目桂花團治(当時・花次)
女性を一人挟んでお酌してもらうアチャコ 写真提供:前田憲司


二代目花月ピクニック2-400
二代目花團治(手前から4人目) 写真提供:前田憲司




◆吉本の専属第一号だった初代花團治

明治の文明開化と共に西洋文化が日本へ流入、
やがて和洋折衷「大正ロマン」の流行が生まれました。
日本初のオリジナルポップミュージックとしても知られる
「カチューシャの唄」はそんな時代の落し子。

初代花團治が吉本興業の専属になったのは大正元年。
色気のある芸風で定評がありました。



1912(大正元年)吉本が「天満天神」裏で寄席経営に乗り出す
1912(大正元年)新世界に初代「通天閣」完成
1912(大正元年)初代花團治が吉本専属第一号
1914(大正3)「カチューシャの唄」(松井須磨子)
1914(大正3)吉本の寄席チェーン化が進む
1916(大正5)二代目花團治入門(19歳)




初代花團治
初代花團治


二代目花團治
二代目花團治





◆落語から漫才の時代へ

漫才の台頭と共に吉本が勢力を伸ばしていった頃、
二代目花團治も吉本の意向で漫才や喜劇役者として活躍。
一方、初代花團治は寄席の世界から身を引き、
絵画で生計を立てるようになりました。

花團治の泥鰌すくい400
初代花團治の描いた絵

1920(大正9)初代花團治が寄席の世界から一旦身を引く(45歳)
1921(大正10)初代春団治が吉本専属になる
1926(大正15)花次が吉本の若手落語家グループ「花月ピクニック」に参加(29歳)※下記写真
1927(昭和2)吉本主催の「全国漫才座長大会」に花次(二代目花團治)も漫才で参加
1928(昭和3)「私の青空」(二村定一・天野喜久代)
1929(昭和4)「浪花小唄」(藤本二三吉)
1930(昭和5)エンタツ・アチャコ結成
1934(昭和9)初代春団治亡くなる(享年57)
1934(昭和9)二代目春団治襲名
1935(昭和10)五代目松鶴襲名
1937(昭和12)日中戦争始まる




二代目花月ピクニック400
後列左から三人目が二代目花團治(当時・花次29歳) 写真提供:前田憲司




◆上方落語・存続の危機

「このままでは上方落語がなくなってしまう」と
危機感を覚えた五代目笑福亭松鶴は吉本を飛び出し、
今里片江の自宅を事務所に「楽語荘」を発足。

花團治の初代も二代目も共に参加
初代は17年ぶりの高座復帰でした。


1937(昭和12)五代目松鶴が「楽語荘」発足
1937(昭和12)花團治の初代・二代目が「楽語荘」参加(初代は17年ぶりの高座復帰)
1940(昭和15)「蘇州夜曲」(渡辺はま子)
1941(昭和16)太平洋戦争勃発
1942(昭和17)初代花團治没(享年67)
1942(昭和17)「南の花嫁さん」(高峰三枝子)


五代目笑福亭松鶴
五代目笑福亭松鶴





◆大阪大空襲

五代目松鶴の意向で
二代目花團治を継いだ桂花次は、
その翌年、
「第四次大阪大空襲」の犠牲に。



1944(昭和19)二代目花團治襲名(47歳)
1945(昭和20)6月15日 第四次「大阪大空襲」により二代目花團治没(享年48)
1945(昭和20)8月15日、終戦
1945(昭和20)「リンゴの唄」(並木路子)が戦後ヒット曲第一号



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二代目花團治(当時・花次)は喜劇でも活躍 資料提供:前田憲司


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「第7回・花團治の会」ゲストのお二人(左から青木美香子・仮屋崎郁子)



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246.戦時下を生きた芸能~”笑い”という名の毒を飲む~

襲名をして以来、毎年6月になるたび
どうしても戦争のことが頭をよぎってしまう。
先代の二代目花團治が1945年(昭和20年)6月15日に
大阪空襲の犠牲になっているからだ。
遺族によると、防空壕の入り口で亡くなっていたらしい。
しかも、襲名してわずか一年後のこと。どれほど無念だったろう。


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後列左から三人目が二代目花團治(写真提供:前田憲司)


あれは今から35年ほど前、
落語家に入門して3年ほどだったぼくが、
地方のある敬老会に招かれたときのことだった。

その一座の大トリ(一番最後の出演者)を務めたのは浪曲の師匠で、
演目は定かではないが
日露戦争で戦った兵士を讃えた作品だったことだけはよく覚えている。
客席のお年寄りはこの英雄伝に涙し、
「天皇陛下万歳!」という声が会場に響き渡った。

今にも戦争が始まるんじゃないかという戦慄が走った。
戦争を知らないぼくにとって、それはあまりに異様で衝撃的な出来事だった。

あれ以来、この作品を耳にすることはなかったが、
資料を紐解くと、戦時下に演じられた浪曲として
「杉野兵曹長の妻」「愛国千人針」「血染めの軍旗」といったタイトルが並んでいる。

花團治、どないしてくれんねん
筆者:桂花團治(撮影:坂東剛志)


日中戦争が勃発した翌年の1938年(昭和13年)、
陸軍省新聞班の清水盛明中佐は内閣情報部主催の思想講習会で、
当時人気の高かった古川緑破の喜劇一座を例にこんな発言をしている。

「民衆は笑いながら見ている間に
不知不識のなかに支那事変
(当時は日中戦争のことをこう呼んだ)の
意義を教えられることになるのであります」


これを受けて、東京の落語家・三代目三遊亭金馬も
「緊(し)めろ銃後」という落語を演じている。
銃後とは兵士を除く日本国民のことで、
戦争の前線と呼応させてこう呼んだのである。
日本と良好な関係だった中国の蒋介石も
国民党軍のリーダーに説き伏せられ、
これからいわゆる日中戦争が始まり太平洋戦争へと繋がった。

蒋介石は「重慶」に首都を移して徹底抗戦したのは
世間の誰もが知るニュースだった。
そんな背景をもとにこの作品は描かれた。

「銃後はいま一段の緊張が必要だ。国策違反は反逆罪と認めるべきだ」
「国賊は日本人とは認められない。蒋介石の間者(スパイ)と同じ。日本から追いはらえ」
「国外追放か。で、どこがいい?」
「そういう奴は重刑(重慶)がいい」


戦時下の演芸場では、
戦意高揚の妨げになると判断されれば演じることすらできなかった。
客席の一番後ろに設けられた臨監席に座る係の警察官が目を光らせ、
検閲済みの台本と舞台の内容が違うと「中止!」という声を発し、
公演自体をストップさせ始末書を書かせた。
その一方で、当局は
先に紹介したようないわゆる「国策浪曲」「国策落語」の上演を要請した。


花團治の初代も二代目も戦時下を生きた落語家だった。
先に紹介したような「国策落語」を演じることはなかったと思われるが、
芸人が芸人として生きにくい、モノが言い難い時代だったことは確かである。

※「代々花團治について」はここをクリック!

初代花團治チラシ
初代花團治が出演した寄席チラシ(資料提供:前田憲司)



二代目喜劇民謡座400
二代目花團治は喜劇役者としても活躍した。(資料提供:前田憲司)


今、世の中はコロナ禍に見舞われ、
先行きが見えない不安に覆われている。
この現状を戦時中に似ているという人がいる。

「自由に芸能を演じる場が制限された」という点においては
確かにその通りだが、現在は
「お上の意向に沿った芸能をしなければならない」という制約などない。
これがどれほど尊く重たいことか。

けれども、その一方で清水盛明が画策したように
芸能は大衆を導くこともできるのである。

笑いは「気の薬」としての役割も果たすが、
薬はときに毒にもなり得る。

笑いを生業として扱う我々はいわば薬剤師のようなものだ。
そのことを決して忘れてはならない。

今、二代目花團治の時代の資料を集め、
創作落語「防空壕」を制作中だ。
お披露目は6月26日の独演会。
きっと客席の後ろには警察官ならぬ代々花團治が控えているに違いない。(了)


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



2021hanadanjinokai (2)


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245.澤田隆治先生ありがとうございました。

澤田先生が、澤田隆治先生が逝ってしまった。
ぼくが「澤田隆治」という名を知ったのは高校生の頃。
当時、「花王名人劇場」という番組が流行っていて
毎週欠かさず見たものである。

その番組タイトルの肩には「澤田隆治プロデュース」とあって、
このとき「プロデュースとは何ぞや?」という興味がわき、
澤田先生が「スチャラカ社員」「てなもんや三度笠」「新婚さんいらっしゃい」などなど
伝説の人気番組を手掛けた人だということを知った。

澤田隆治先生とツーショット
澤田隆治先生(右)と花團治(撮影:相原正明)


落語家になる前、ぼくは大阪芸術大学の芸術計画学科に入学した。
その頃から落語家になりたいという思いはあったが、
同時に、制作スタッフやプロデューサーという職への憧れが強かったのは、
やはり澤田隆治先生の影響だった。

当学科のパンフレットにはドーンと「君も未来のプロデューサーに!」と記されていた。
この学科は1970年の大阪万博をきっかけに設立された、
いわゆる総合プロデュースできる人材を育成する学科。

結局、ぼくは学費が払えず一年で中退したが、
落語家になってからもイベントプロデュースに精を出したのは、
このときの思いからきていた。

だから、「放送芸術学院」の講師に決まったとき、
その学校顧問(現在は校長)に澤田隆治先生の名を見つけ、
ぼくは思わず小躍りした。あれからおよそ25年、
ぼくは入学式や卒業式での先生の祝辞を毎年楽しみにしていた。

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澤田先生が校長を務める「放送芸術学院専門学校」
帝国ホテル大阪の並び。




ある年の入学式で澤田先生が述べられた一節が強く印象に残っている。

「みんなは、ぼくが『藤田まこと』を育てあげたというけど、
ぼくは彼の存在をただ見つけただけ。
一度世に出たら、あとは周りが放っておきませんし、
色んな人がどんどんついてくる。

……だいたい、ぼくはもう売れてしまっている人は
あまり興味がないんです。
埋もれている逸材を見つけてきては世に出す。
これがぼくの生きがいなんです」




ところで、襲名する際、関係者やご贔屓さんに配る
「三点セット」というものがある。

扇子と手拭、そして挨拶状。

治門くん三点セット
挨拶回りには桂治門(写真)に同行してもらった。
お盆の上には、扇子・手拭・挨拶状。それに袱紗を被せる。(撮影:相原正明)



6年前の襲名時、その挨拶文を誰にお願いするかを考えたとき、
真っ先に思い浮かんだのは澤田隆治先生だった。
学校のスタッフのはからいで対面を果たした際、

「そうか。君は春蝶くんの弟子かいなぁ。
“花王名人劇場”が始まったとき、
ぼくは大阪のいろんな芸人に声を掛けた。
けど、君の師匠はぼくの依頼を断りよったんや。
何でも“箱根を超えると魔物がおるとか、
わけのわからんこと言うてな。

春蝶くんだけや。
ぼくの依頼を断ったのは。


それだけやない。他にもなぁ…」。



何かと自分に逆らううちの師匠のことを
実に懐かしそうに嬉しそうに語ってくれた。

「なかなか骨のある奴やったなぁ」。

当初は5分だけでもということで取り付けたアポだったが、
漫才作家の秋田實先生のことや、戦前戦後の上方落語のはなしなど、
気がつけば1時間以上も経っていた。


澤田先生からのお花


襲名の祝辞も、最初から快諾してくれたわけではなかった。
実ははじめはずいぶん固辞されていた。
それはぼくに対する気遣いだった。

「ぼくかて、
業界には味方ばっかりやないぞ。
ぼくがここへ名を連ねることで、
君のことを避ける者もおるやろ。
それは覚悟しいや」

「ありがとうございます!」




「このたび 桂 蝶六さんが、戦後途絶えていた 桂 花團治の名跡を七十年ぶりに復活されることになりました。声に出してみるとわかりますが、こんな華やかないい名跡が埋もれていたのが信じられない思いです。このたびの襲名披露は、上方落語界のためにも喜ばしく、誠におめでたいイベントであります。

蝶六さんは、二代目 桂春蝶さんの最後の弟子で、春蝶師とは私が朝日放送のテレビプロデューサーだった四十年前、上方落語の若手を売り出すための番組づくりで毎週顔を合わせ、共に苦労した仲でした。師は特に時代感覚が鋭くて、私が東京で笑いの番組づくりを手がけた時、何度か出演を要請したのですが、「箱根から東には魔物がいるので」とのことで、最後まで大阪にこだわられていました。かつて春蝶師に入れこんだことのある私としては、その弟子である蝶六さんと春團治一門のご活躍はこの上なくうれしいことです。

加えて蝶六さんには、いま私が校長をしている放送芸術学院専門学校の講師として、十八年もの間、学生の面倒をみてもらっている恩義があるのです。大きな名前をいただいたことで、ますます大物感のある落語家になってほしいという期待をこめて、蝶六から花團治になるこれからに声援を贈り続けたいと思います。」  メディア・プロデューサー 澤 田 隆 治




文枝、澤田、花畑、ぼく300
左から、六代桂文枝、大学の同級生・花畑秀人(現・ミルキーウェイ代表取締役)、澤田隆治、桂花團治
国立演芸場(東京)の楽屋にて(撮影:相原正明)




……東京での独演会では、毎回のように駆けつけてくださった。
その翌日には、電話でアドバイスというよりお叱りに近いお言葉まで頂戴した。
おそらくうちの師匠のぶんまで入っていたのだと思う。

どうか先生、あの世でうちの師匠と
丁々発止を楽しんでください。合掌。

2021年5月16日没、享年88.


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244.ツラくとも、クサれども~それでも笑いが必要~

大阪商人の間には
今も「泣いてる暇があったら笑ろてこまそ」
という言葉が残っている。

例えば、店が大赤字で困っているときにも商売仲間との会話では、
「おたくの店、商売は順調でっか?」「赤子(赤ん坊)の行水ですわ」
「何でんねん」「タライで(足りなくて)泣いてます」と
笑いを誘う洒落を交えた。

この「笑い精神」は大阪に限ったことではない。
商売人というのはすべからくそうだ。

憔悴する姿は同情を誘いこそすれお客や取引先がついて来ない。


コロナ禍で自粛を余儀なくされた店主は
もっと怒りをあらわに泣きわめいていいと思うが、

多くの商人はグッと堪えている。ぼくの行きつけのあるお店でも、
「笑ろてなしゃあない」とばかり笑みまで浮かべ応対してくれる。


花團治、待ってくれ
筆者(撮影:坂東剛志)


上方落語の定席小屋「天満天神繁昌亭」の舞台には、
桂米朝師匠による「楽」という文字が掲げられている。

これは明治時代の寄席「幾代亭」の額の字「薬」に由来していて、
漢文学者・白川静によれば、
「楽」という文字は舞楽に用いる柄のついた手鈴の形で、
古代にはシャーマン(巫女)がこれを振りながら神を楽しませ、
神がかりの状態になって人々の病を治したという。

「楽」と「薬」の字の成り立ちは深く繋がっている。


梅十三門弟繁昌亭400
上方落語協会・西川梅十三門弟会・繁昌亭にて
後列中央が筆者




オーストリアの精神科医・ヴィクトール・E・フランクルが著した『夜と霧』には、
世界大戦におけるナチスの強制収容所での様子が描かれている。

過酷な労働と劣悪な環境で次々と仲間が死んでいく極限状況のなか、
収容された人々は即席の演芸会や音楽会を開いた。

笑いに「気の薬」としての効用を求めたのである。
このことからみても、寄席に「薬」の額というのは実に理に適っている。

夜と霧200

日本の戦時下において全ての娯楽は国の監視下に置かれていた。
国策に合わぬ台本は書き換えなくてはならない。

客席の一番後ろに設けられた臨監席に陣取った警察官が、
検閲済みの台本と舞台の芸を照らし合わせ、
ひとつでも異なる箇所があれば即刻中止を命じた。

そんななかでも奮闘し続けた芸人たち。
『戦争と漫才』(新風書房)という冊子には、
「防空戦」「節約第一」「空襲」といった、
いわゆる国策漫才と呼ばれる当時の漫才台本が収められている。


戦争と漫才300

たとえば、「兵隊さんありがとう」という作品。

「欧州では、やれ空襲やと夜もおちおち寝られんのに我が国ではどうです。
これも皆、第一線で働いて下さる兵隊さんのお陰です(中略)
暑いというても内地とは暑さが違う。屋根の上を猫が通るでしょう。
それが猫はよう歩かん。足の裏、火傷しよる。
瓦が焼けてるから。そこへ鼠が出てくる。
猫がパッと鼠を噛んだ拍子に舌を火傷しよる。
猫舌やから。
豚なんか生きた奴をスポッと切ったらそのまま焼き豚になってる。
これほど暑いとこで苦労してはるねや」

「ホンマに兵隊さんのご苦労は、
銃後の我々がおろそかに思たら罰が当たる」

「君、ちっと兵隊さんの爪の垢でも煎じて呑め。
この非常時には君みたいな怠け者には持って来いや。
戦時薬言うて」「そら煎じ薬や」


今NHKで放映中の朝の連続ドラマ小説「おちょやん」
にも登場する花菱アチャコと、
その相方である千歳家今男にあてて書かれた台本だ。
作者は漫才作家・秋田實




エンタツ・アチャコ



二代目花月ピクニック3-400
中央にアチャコの姿。その手前、女性を一人挟んで、お猪口を手にした先代花團治。

二代目花月ピクニック2-400


「わらわし隊の記録」(早坂隆著・中公文庫)のなかに、
実娘・藤田富美恵さんの言葉があった。

「当時のことを振り返って
『漫才師たちもみんなで戦争に協力していた』と悪く言う人もいます。
しかし、私の父は兵隊さんや銃後の国民に、
ただ笑いを届けたかっただけだと思います」


わらわし隊表紙



コロナ禍において、ぼくも大打撃を被っている。
高座の機会を失うのみならず、
お客さんへのおわびやチケット代の返金。

「ええい、ままよ」と
全てを放りだしてしまいたくなる衝動に
襲われることもしばしば。

でも、こんな時こそ芸能だと確信している。
今ほど「笑い」という気の薬が求められる時代はないのだから。
シンドイ時こそ「笑い」に頼って欲しい。

きっとワクチンよりも効きまっせ。(了)


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。


2021年6月26日(土)朝10時30分~
繁昌亭にて「第7回・花團治の会」を開催します。


先代(二代目)花團治は襲名してたった一年で、1945年(昭和20年)
大阪空襲の犠牲となりました。
その追悼の意も込めた創作落語を披露します。


詳細は近日発表。

二代目花月ピクニック400

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243.つぶれない店のヒミツ~こうしてぼくはズブズブになった~

誰にだってあまり他人に教えたくない店のひとつやふたつあるだろう。
そっと隠れ家にしておきたいバーとか、
めちゃくちゃ美味なのに穴場のような焼き鳥屋さんとか…。

もしも大勢の目に触れて流行りだしたがために
気軽に行けなくなってしまうと嫌だけど、
絶対につぶれて欲しくない。ぼくにとってそんな店がまたひとつ現れた。

花團治、そういうことやね


その酒屋はある知人が紹介してくれた。
「そう言えば、あんたの近所にはとても良い店がある。
ここで買うとまず間違いがない。
地味な店なので気をつけてない探さないと通り過ごしてしまうけどな」

なるほどそこはぼくがよく通っている道沿いにあった。
やはり見過ごしていたのだ。
どこの町にもある昔ながらの小さな店構え。
目立った看板があるわけでもない。
ガラス張りの引き戸をガラガラと開けて入ると
薄暗い店内の左手に日本酒専用の大きな冷蔵庫。
それだけ。そう、ここは日本酒専門の店なのだ。


木村酒店外景
木村酒店(大阪市東成区中道3-9-28)

 
取り扱っている酒蔵は現在15蔵ほど。
決して多いとは言えない品揃えだが、
「幻の銘酒」がフツーに並んでいたりする。

「へぇぇ、このお酒も置いてるんですね」と問いかけると、
初老の店主は照れくさそうに
「えぇ、まだこれほど有名になる前からのお付き合いでして」。

すべて問屋を通さず直接買い付けていて、
仕入れさせてもらうのに造り酒屋に通い続け
10年掛かったという酒も置いてあったりする。


木村酒店冷蔵庫


酒蔵はどの酒屋にも卸すわけではなく、
信用がなければおいそれと分けてはくれない。
冷蔵庫に保管すべき酒を常温で放置したためにマズい酒として売られ、
評判を落としてしまうことになっては杜氏の苦労も水の泡だからだ。

「今も10年ほど通い続けてるところがあって…、
そのうちきっと入れさせてもらおうと思ってます」

ここで扱っているのは、全て店主自身が「イイ!」と思ったものだけ。
いわば日本酒のセレクトショップなのだ。

しかし、そんな店にもワインが一種類だけ置いてあった。
理由を尋ねると、
「いやぁお客さんがどうしても仕入れて欲しいって言うので
取り寄せてみたんですがイケたんですよね」

この柔軟性もまた店の魅力のひとつかもしれない

「これ、日本ワインですねん」
「日本ワイン?」
「ええ、国産ワインではなくて日本ワイン。
海外から輸入したブドウを使用して日本で作るワインが国産ワインで、
国産ブドウ100%で国内製造されたのが日本ワインです」

その特徴やワイナリーのこだわりを訥々と喋り出した。
決して饒舌ではないが誠実に、しかもひとつひとつの酒を、
まるで我が子のように語る店主との時間はとても心地よく、
ついつい財布の紐が緩んでしまう。
おそらく同じようなファンが多いのだろう
「これは次回に取っておこう」なんて買わずにいると、
次に来たときには別の顔が並んでいる。

木村酒店店主
木村酒店の店主・木村眞左夫さん(左)と筆者

 
この酒屋もかつてはビールから焼酎まで
いろんな酒を一手に扱う普通の酒屋さんだった。

創業80年ほどだが日本酒専門になったのはかれこれ20年ぐらい前。
三代目の今の店主の代になってガラリとやり方を変えた。
安売り競争となっている酒屋業界において、
このままでは体力が持たないし、
量販店につぶされてしまうと一念発起した。

先日、この店の写真をSNSにアップした。
近所にある「隠れ過ぎた名店」を自慢したい気持ちが、
他人に教えたくないという思いに勝ってしまったのだ。

すると、有名ホテルでシェフをしていた友人など
酒にうるさい連中からすぐに質問攻めにされた

「スゴイ目利きの店主ですね。
冷蔵庫を見ただけで充分わかる。どこにあるか教えて?」

そんなお店だが、コロナ禍での「緊急事態宣言」
そして「まん延防止等重点措置」で飲食店の営業時間が短縮されたことが
売り上げにもダイレクトに響いているという。

個人消費で少しでも役に立てれば…と精を出すぼく。

「こっちの家計の方が先につぶれてしまうわ…」
と嫁はんに嘆かれながら、店主の目利きに酔いしれている。



木村酒店地図



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。






いけだ春團治まつり2021チラシ
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242.良縁のススメ~今日、運命の人に出会えるかもしれないじゃない~

コロナ禍で人と集まる機会がめっきり減ったためか、
「出逢いがなくて」とぼやく声を最近よく耳にするようになった。
50すぎのオッサンであるぼくには何のアドバイスもできないが、
最近読んだ『ラブホ上野さんの恋愛相談』(KADOKAWA)という本の一章に
我が意を得たりと思う内容があった。

出逢いが少なくて困っているという女性からのお悩みに対し、
相談された“上野さん”が語る。

「私は男なので化粧品に興味がないが、
よくデパートの化粧品売り場に足を運びます。
接客、店舗の構造、案内の流れ、立地など、
様々な点を観察しているのですが、
そのなかでも特に重要視しているのは
お客がいないときのスタッフの姿。
最悪なのは、おしゃべりをするスタッフ。
最高なのは、近くを通るお客様に気を配りながら
店舗近くの整頓を行うスタッフ…
そのあと、機転をきかせて一人のスタッフが
『プレゼントですか?』と声をかけてくれました」



接客中はどのスタッフも気を張っているので
そんなに差は生まれないだろうが、
お客のいないときにこそ差が出るもの。
別に店員でなくとも、好きな人の前では良い顔を見せ、
そうでないときは不貞腐れた態度を取るのは
男性女性問わずよく見かける。

その“普段の姿”にこそ、
その人の本性が垣間見えるというのが
“上野さん”のアドバイスだった。

なるほど飲食店の店員に
エラそうな態度をとる男とはつきあうなという
巷の定説にも通じるところがある。


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花團治、どないしてくれんねん
筆者(撮影:坂東剛志)



ずいぶん前になるが、
ぼくはとあるバーで雑貨チェーンの人事部長だという人と
隣り合わせになった。

ちょうど全国展開している最中で、
彼は毎週のようにアルバイト面接のために
北へ南へと駆けずり回っていた。
毎回、結構な数の女子高生たちが面接のために列をなすという。

酒の勢いもあってか、彼は饒舌にその面接方法を語ってくれた。

「正直に言うとね、面接そのものはあんまり重視してないんですわ」
「ほな、容姿でっか?」
「それもないとはいえないけど、決め手は面接の後でんな」

面接の後、と聞いてひょっとコイツは立場を利用して
良からぬことをしているのではないかと、
ぼくは彼のことを少し疑った。

しかし、彼曰くこういうことだった。

「いえね、面接って誰もが緊張しますねん。
気が張ってますわな。そんななかでいろいろ質問して、
最後に『面接は以上です。結果は後日お知らせします。
お疲れ様』って送り出しますねん。

で、上着着て、鞄下げて部屋を出る間際に
『今日はこれからどこか遊びに行くの?』とか、
まぁ相手の雰囲気によって言葉は変えますけど、
できるだけフレンドリーに声を掛けるんですわ。

つまり、
気がちょっと緩んだ瞬間に声掛けて
どんな反応をするかを見てますねん。


そのときにそのとき
、『このオッサン、何を考えてんねん』と構えた態度を取る子もいれば、
にこやかに丁寧な応対をしてくれる子もいる。

うちの店にはいろんなお客さんがいらっしゃる。
棚卸しの作業で夢中になってる時に
ふいに声を掛けられりすることもある。
そんなときにその子がどんな態度を取るかということを
観察しますんねん」。



 「どこで誰が見ているかわからない」は
聞き飽きたフレーズかもしれないが、
冒頭の上野さんは最後に
ココ・シャネルのこんな言葉を紹介して回答を締めくくった。

「その日、ひょっとしたら
運命の人に
出会えるかもしれないじゃない。
その運命のためにも、
できるだけかわいくあるべきだわ」



「好みの男性がいない」と気を抜いたときに
出逢いの機会を逃してきたかもしれないし、
自分には関係のなさそうなオッサンでも、
そのオッサン繋がりでどんな良いご縁が転がってこないとも限らない。

ちなみに、ぼくは今のヨメはんと仕事の場で出会ったのだが、
ぼくの第一印象は「無愛想+ダサいファッション」と散々なものだったため、
そこからなかなか進展することがなかった。
これが良縁だったかどうか…?

ホンマ気を抜いたらあきまへん。




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241.「かわいそう」という名のナイフ

その女性が児童養護施設で職員として働くようになったのは、
高校時代、かねてより好意を寄せていた同級生の男の子に
告白したことがきっかけだった。

彼からの返事は

「住む世界が違うから
付き合えない」
 というひと言。

このときはじめて彼が児童養護施設の子だということを知った。

彼女は彼に寄り添うつもりで応えた。

「わたしはそんなこと気にしないよ」


すると彼は

「ほらな。
やっぱり住む世界が違うんだ」


わたしと彼と、どう世界が違うのだろうか?
それを確かめるために児童養護施設の職員を目指した。

……とこれは、
有川浩『明日の子供たち』という小説のなかのひとくだり。


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ぼくがこの小説を手にしたのは大学での特別講義がきっかけだった。
そのとき、ぼくは落語の歴史や演じ方だけではなく、
自身のコンプレックスやそこからくる落語観なども話した。

その講義を聞いていた教授が
「今の話をぜひうちの子どもたちの前でも」という。

「うちの子どもたちの前」とは
児童養護施設を退所した人たちの集いの場だった。
児童養護施設には親からの虐待や
不適切な養育を受けた子どもたちが暮らしているが、
高校を卒業すると同時に退所する決まりだ。

その後の生活については、
もちろん職員たちが相談に乗ることもあるが、
人手が足りずなかなかそこまで手が回らない。

そこで児童養護施設とは別に、
彼らのその後をサポートする居場所事業というものが生まれた。

教授の主宰する団体もそれに該当するもので、
月に一度退所者たちが集まって食事をしている。

前述の『明日の子供たち』にはこんなやりとりがあった。

「上司の家族が亡くなったとしようか。女子社員は明日の葬儀を手伝ってくださいってなったとき、君はどんな服装で行けばいいかとか、何を用意しとけばいいかとか、一人ですぐわかる?」「ネットとかで調べたら……」「ネットは君に特化した答えは見つからないだろ」。実家の母親など身近に頼れる大人がいれば「ちょっと教えて~」と一本電話すれば済む話だがそうはいかない者も多い。

そのための「居場所事業」でもある。

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京都芸術大学教授・浦田雅夫氏と。


浦田教授の主宰する居場所事業についての動画↓
下記をクリックください。

京都の居場所事業
「アフターケアの会・メヌエット」



さて、教授の主宰する会合に招かれた当日、
彼らを前にどう話を持っていこうか、ぼくはギリギリまで悩んでいた。
相手の顔を見てから話の内容を決めるというのはいつものことだが、
10名ほどの若者が集う、その部屋のドアを開けた瞬間、
ぼくは少し拍子抜けしてしまった。
どこにでもいる普通の活発な若者たちではないか。

『明日の子供たち』の女性職員がかつてそうだったように、
彼らを「特別な人たち」と思い込んでいたぼくもまた
色眼鏡(偏見)の持ち主だった。

先述の「わたしはそんなこと気にしないよ」と応えた彼女の心底には
「かわいそう」「哀れ」「惨め」という思いがあったろうが、
彼女が職員となってわかったことは、
自分と彼との世界に違いはなかったということ。
世界が違うのではなく、
同じ世界に住まう人にもいろんな事情があるということだった。



そう言えば、ぼくも「かわいそう」と言われて育ってきた子だった。
ぼくを生んでくれた母親は、
産後の肥立ちが悪くぼくが3歳のときに亡くなり、継母に育てられた。

当時のことはほとんど覚えていないが、
小中学生の頃、事情を知る周囲の大人たちが
「この子は小さい時にお母さんに死なれてしもて、
ホンマかわいそうな子やねん」などと話すのを聞いた。

そのたびぼくの心はなんだかモヤモヤッとした。

「ぼくってかわいそうな子なんか?」


幼き日のぼくと弟
幼き日の筆者(右)と弟


……今回の訪問から一冊の本を通して、
ぼくが小中生の頃に抱いたあのモヤモヤの正体が少し見えて来た。


ぼくに「かわいそう」という言葉を投げつける人の背後に

「自分はそうでなくて良かった」
という優越感
と、

ぼくを見下ろす視線を無意識にうちに感じ取ったからではないだろうか。

言葉ってほんまムズカシイしオソロシイ。

それでも一見優しい言葉
日々傷つけられている人がいうことを忘れてはいけないと思う。

勝手な同情によってつけられた傷は、
時が経ってもなかなか癒えない。



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。





なちゅらドン・キホーテ公演チラシ

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240.うちのムスメは何でも食らう~優しい文化を召し上がれ~

近頃はコロナ禍の影響もあって
自宅で過ごすことがずいぶん増えた。
我が家はヨメはんと2歳半になる娘との3人家族。
娘はぼくのことをよく観察しているのかすぐに真似をしたがる。

例えば、稽古場の高座に座って落語の真似事。
まるでルーティンワークのように「寿限無」の文句に始まり、
落語らしき文言を唱え出すようになった。
ひとしきりそれが終わると、今度はぼくに向かって
「(次は)おとーしゃん、(稽古を)どうぞ~」と言って場所を譲ってくれる。

稽古嫌いなぼくが少しは稽古をするようになったのは、
これはもうムスメのおかげと言うほかない。

また、彼女はテレビが好きでこれもぼくの影響を受けている。
実は寿限無の文言もぼくからではなく、
Eテレの番組で覚えてしまった。

それにしてもEテレの番組クオリティの高さには驚かされる。
つい先日見た幼児向け番組のなかで将来の夢を語る場面。
女の子には「パイロットでも科学者でもなれる」と
年輩のキャラクターが語り掛ける。
これまでならさしずめ「保母さんでも看護師さんでも」と
言っていたところだろう。
のろまな性格に悩む男の子には「ゆっくり成長していけばいい」。

男はこうあるべき、女は…といった
ステレオタイプで偏った考えにならないよう細かいところまで配慮されている。

うちの娘は、靴下の履き方、歯の磨き方、手の洗い方等々…、

みんなテレビで教わった。


詩の稽古
落語の稽古に興じる我がムスメ


しかし、ぼくのテレビ好きの影響はいいことばかりではなさそうだ。
先日、テレビアニメ「鬼滅の刃」で主人公が人を殺めるシーンに
固唾を飲んでのめり込んでいるムスメを見たとき、ぼくは思わずぞっとした。

考えすぎだと言われるかも知れないが、
「上方芸能」の元編集長・木津川計先生のこんな言葉が胸に沁みる。

子どもは文化を食べながら成長し、
おとなは文化をつくりながら
子どもを支配するのです。
ですが、
おとなたちの支配や満足のために
子どもの成長を
損なっていいものでしょうか。
優しさとしての文化、
その擁護者になるには、
子どもの頃からできるだけ
優しい文化を食べることなのです


(上方芸能と文化、NHK出版)

木津川先生と (2)
向かって左が木津川計先生、右が筆者。



12年程前だったか、
大阪シナリオ学校で事務局長を務めていた
井上満寿男氏からはこんな話を聞いた。

「私が子供の頃、
映画館も演芸場もどこか怖いイメージがありましたな。
いわゆる悪所でね、女・子どもは行ったらいかんて言われました。
演芸場かて卑猥で猥雑な内容ばっかりでね、

娯楽場って呼んでましたわ。
”娯楽”ってどう書きます?
…そう、女が呉れたら楽しい

つまり”女の話をして呉れたら楽しい”。
いわゆるエログロというやつです」


そんなエログロな演芸場を改革したのが、
後にこの大阪シナリオ学校を立ち上げた秋田實先生だった。
ラジオ局の開局に伴い、
番組案として浮かんできたのが漫才だった。
しかし、先に述べたように当時の漫才はエログロで
とても公共の電波に耐えうるものではなかった。

そこで秋田實先生が
「小さな子供から
お年寄りまでが
安心して笑える漫才」
を書き、

横山エンタツ・花菱アチャコといった漫才師たちが演じるようになった。
これがお茶の間の笑いへと繋がっていったのだ。

何を笑うかでその人の性格がわかるというが、
その逆も然り。
どういう笑いを食べるかで
その人格が形成されていく。




詩の駐車禁止


はたしてぼくの興味の赴くままに
様々な番組を子どもの目に触れさせていいものか。
うちのムスメはことのほか雑食だ。
どんな文化も、どんな笑いも、
目の前にあるものは何でも摂取していく。

もちろんぼくの落語も変な癖も。

いっそのこと、反面教師と開き直ろうか
…というわけにもいくまい。

今日もムスメは稽古場から漏れてくるぼくの落語を聴いている。


どうか胃もたれしませんように。(了)



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。




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239.それしかないわけないでしょう~大人はけっこう間違える~

ホテルのフロントに一本の電話が入った。
「ホテルのバーはいつ開くか」という問い合わせだった。
それに対し、ボーイは「午前10時でございます」と応えた。
すると、その1時間後に同じ客から全く同じ問い合わせ。
当然ボーイは「午前10時でございます」と同じように応えた。
しかしそれからまた1時間経って全く同じやりとり。
とうとう我慢に達したボーイは
「10時までお客様をお入れすることはできません!」と
強い口調でどなってしまった。すると、電話の主はこう応えた。

……「俺は(バーから)出たいんだ」。


これは定番ジョークのひとつ。
聴き手の多くは「この客はホテルの部屋から掛けているのだろう」という
思い込みにとらわれる。
それを裏切ることでオチが成立する。
つまり、このように「相手が思い込みをするように誘導しておいて、
それを裏切る」のがジョークである。

落語もまた同様だ。

落語家と詐欺師は紙一重、
裏切ったあとに笑えるかどうかの違い。



花團治、頼んまっさ (2)
筆者(撮影:坂東剛志)



思考は、大きく「垂直思考」(ラジカルシンキング)と
「水平思考」(ラテラルシンキング)
の二つに分けられる。

物事を深く彫り上げて考えるのが「垂直思考」なら、
物事を違った角度から見るのが「水平思考」。


どちらも大事だが、「こうあらねばならない」と強い信念をもった者ほど
「垂直思考」に偏り、他人の言うことに耳を傾けない傾向にある。
そういう方ほど落語がお薦め。
落語やジョークは「水平思考」の宝庫なのだ。



主宰する落語教室「愚か塾」には
何かしらコンプレックスをもって入塾される方が多いが、
それはおそらくぼく自身が
自身の協調性や吃音に悩んでいたということもあるのだろう。

つい先日も「上司から”お前は頭が固いから落語でも聴け”と言われたのがきっかけです」
という方が入られた。
ぼくも中学生の頃に級友から「お前はなんでそんなに視野が狭いねん」と
言われたことがあるが、
それが落語を演じるようになった遠因であることは否めない。

「咄家殺すに刃物は要らぬ、あくびひとつで即死する」という
都々逸の文句があるが、
あくび以上に「お前は視野が狭い」とか
「頭が固い」という言葉の方がぼくには余程堪える。



そんなぼくが最近はまっているのがヨシタケシンスケの絵本。
子どもに読み聞かせる本を探していてたまたま出会ったのだが、
今話題の絵本作家らしい。
なかでもお気に入りが「それしかないわけないでしょう」という一冊。


それしかないでしょう表紙


 「おとうさんは晴れるっていってたけど、
大人のいうことはけっこうはずれるな」と
窓の外をにらみながらプンプンする女の子。
そこへ小学生のお兄ちゃんが帰ってくる。「ねえねえ知ってる?
未来はたいへんなんだぜ。食べ物がなくなったり、
病気がはやったり、戦争がおきたり、宇宙人がせめてきたり…」。
それにショックを受けた女の子はおばあちゃんの元へ。
「おばあちゃん、未来がたいへんなの?」。

すると、おばあちゃんは
「未来がどうなるかなんて、だれにもわからないから。
大変なことだけじゃなくて、
楽しいことやおもしろいこともたーくさんあるんだから」。

それから、いろんな未来を妄想する女の子。
「毎日ウインナーの未来、一日中パジャマでもいい未来、
毎日土曜日はクリスマスの未来…」。

そして、女の子の思考は新たな境地へと踏み出していく。

「”好きか嫌いか”とか、
”良いか悪いか”とか、
”敵か味方か“とか聞かれるけど、
どっちかしかないわけないわよねー」

(本のなかではすべて平仮名表記)。

いやはや参った。

「大阪市存続か、廃止か」
「命か、経済か」
を連呼する我々大人こそ読まねばならない絵本ではないか。


これまでの常識が常識であり続けるとは限らない。
その傾向がますます加速し続けている今日。
だからこその水平思考、やわらかアタマ。
ぜひヨシタケシンスケの絵本を開いてみて欲しい、
そしてあわよくば落語会に足を運んでもらいたい、
と切に願っている。




※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。




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238.あめあめふれふれ父さんが…

唱歌における父親はどうも肩身が狭い。
日本の唱歌に登場する親は母親ばかり。

「あめあめふれふれ母さんが…」(あめふり)
「かあさんが夜なべをして…」(かあさんの歌)
「かあさん、お肩を叩きましょう」(肩たたき)
「ぞうさん、ぞうさん、お鼻が長いのね、そうよ母さんも長いのよ」(ぞうさん)……


もちろん父さんが出てくる唱歌もあるにはあるが、
『グッドバイグッドバイ、グッドバイバイ…』(グッドバイ)と
家におらずお出掛けしまう。

……とこれは、高校の先輩でもある、今は亡き笑福亭仁勇兄のネタだ。
唱歌とは学校教育で定められた歌のこと。


仁勇兄と
笑福亭仁勇兄と筆者(左)。


唱歌に母親が多く登場するということは、
それだけ母親と子どもの結びつきが強いということだろうが、
同時に「育児は母親のもの」という考えを反映しているとみるのは
うがった見方だろうか。

江戸時代の浮世絵で群衆を描いたものを調べると、
子連れの男女比はほぼ1対1になるという。

ジョージ秋山の描いた漫画「浮浪雲」には
子どもを連れて歩く男性が頻繁に登場する。
江戸時代の男性は仕事を終えると、
夕飯の支度が整うまで子どもと散歩するというのが
日常だった
ようだ。

幕末に来日した外国人の記録にも「江戸の町を歩くと
子どもを抱っこした父親によく出くわす」という内容が見られる。

また、江戸時代中期に林子平が著した武家における父親向けの育児書「父兄訓」には
「女性たるもの者は胎教を知らなくてはならないが、
その胎教を女子に教えるのは父兄の役割である」とある。
「家」の存続が父親の責務という事情もあったが、
江戸時代の父親は
子育てに無関心であることが
許されなかった。


日本で「専業主婦」という言葉が使われだしたのは大正時代から。

農業から工業への産業転換によってサラリーマンという生き方が生まれ、
そのサラリーマンの妻が「専業主婦」となった。

「育児は母親のもの」が当たり前のようになっていった背景にはそんな事情がある。

また、戦争ということも育児に大きな影響を与えたであろう。
男は「家族のために仕事に専念する」「お国のために働く」
というのが当時の価値観だった。

冒頭に紹介した唱歌が発表されたのは、
「あめふり」大正12年、「かあさんの歌」大正14年、
「グッドバイ」昭和12年、「ぞうさん」昭和26年のことだ。


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筆者(撮影:坂東剛志)

現在58歳のぼくには2歳半の娘がいる。
可愛くてしょうがない娘のためにできるだけ家事も育児も分担するようにしている。
炊事や洗濯、簡単な料理ぐらいであれば
内弟子生活の時にずいぶん仕込んでもらったので苦にならない。
(落語家の修行がこんなときに役立つとは思わなかった)が、
このコロナ禍においてその頻度が増した。

それに育児の楽しいこと。
ことば数が増えたといっては喜び、
子どもの描く絵の画風が変わったといっては驚き、
ゆるゆるウンチが固まったといっては安堵し…、


そんな泣き笑いが今は嬉しい
(実はぼくは三度目の結婚だが、前は家事も育児も妻に任せきりだった)。

詩と本読み


最近は保育園の送り迎えも当たり前になった。
今は父親による送り迎えも珍しくない。
2013年からはNHKでも「おかあさんといっしょ」ならぬ
「おとうさんといっしょ」という番組が不定期ながらスタートしている。
それでも江戸時代の1対1には程遠い。
オムツ交換台のある男性トイレもまだまだ少ないが、
この先きっと当たり前になる。

今は「あめあめふれふれ父さんが…」と娘と替え歌しながら歌っているが、
そのうち父さんが出てくる童謡が増えることを切に願っている。(了)





※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。






ヴィヴァルディと比較しながら、
日本の唱歌の世界をご案内します↓

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237.賛否両論バンザイ!~大阪万博2025ロゴマークに寄せて~

先日、大阪万博2025のロゴマークが発表された。
ネット上では「怖い」「気持ち悪い」といったコメントが飛び交っている。
なかには「これはコロナウイルスを模している」といった意見まで。
ぼく自身も最初にこれを見たとき、
思わず「何じゃ、こりゃ⁈」と口にし、
そのあと「わしは松田優作か」と一人ツッコミ。
けれども、今ではこのロゴがすっかり気に入ってしまった。
今にも動き出しそうで、生命そのものに見えてくる。
愛らしいこと、この上ない。


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ロゴを作った大阪のデザイン事務所の代表は、
その発表の場で
「岡本太郎さんのようなオリジナリティのある作品を作ってみたかった」
とコメントしている。聞くところによると、作者は1965年大阪生まれの55歳、
1970年に開かれた万博の時は幼稚園児ということになる。

ぼくはあの頃小学2年生で、「月の石」を観るために
アメリカ館の前に2時間以上も行列に並んだ一人。
とりわけ岡本太郎・作「太陽の塔」の印象は強烈だった。
ロゴデザイナーもぼくもきっと同じ風景を見ていた。

太陽の塔400
現在の「太陽の塔」


ところで、パリにいた岡本太郎が
日本に帰国したのは戦争勃発が理由だった。
ドイツとフランスの関係が悪化したのだ。
岡本にとっておよそ10年のヨーロッパ生活はピカソとの出会いもあり、
とても充実していたが、帰国した岡本を待ち受けたものは
「伝統」とレッテルの貼られた日本文化の弱々しさやその陰性だった。
岡本はこれにひどく失望している。

そんな折、
目に飛び込んできたのが縄文土器だった。


「弥生土器は農耕生活と共に作られているが、
縄文土器はそれよりも以前、
狩猟時代に作られている。
カレンダーによる周到な計算と
忍耐づよい勤勉が良しとされた農耕生活とは違い、

狩猟生活は獲物を求めて
常に移動せねばならず、未知の世界への探検。
また、縄文土器はそんな社会的背景が生んだのだ

(『日本の伝統』光文社知恵の森文庫)と岡本はいう。

岡本太郎400
東京・南青山「岡本太郎記念館」


縄文土器には不協和のバランスがあり、
知能的にも技術的にも幼稚だった石器時代に、
これほどまでにあざやかにするどく、
完璧に空間が把握されている。
それは、獲物を察知し、
的確に位置を確かめ掴む必要があったからこそ
こうした感覚を育むことができた、と岡本は主張している。

1970年に岡本太郎が「太陽の塔」を制作したとき、
万博のテーマは「人類の進歩と調和」だった。

岡本いわく
「調和とは
お互いがぶつかり合うことだ」


まさに縄文土器そのものだった。


岡本太郎アトリエ400
東京・南青山「岡本太郎記念館」岡本太郎のアトリエ



一方、今回の万博のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」。
作者はロゴのコンセプトについてこう述べている。

「踊っている。跳ねている。
弾んでいる。だから生きている
(以下略)」。


どちらも生命体の躍動するさまが連想される。
お行儀よく収まってはいない。
しかし、ちゃんと調和がとれている。
これもまた縄文土器だった。


花團治、黒紋付き、横から300
筆者(撮影:坂東剛志)




 岡本太郎が「太陽の塔」を発表したときも、
世間の多くが「変だ」「気持ち悪い」と反応した。

けれども、あの塔が70年万博の象徴となり、
今や堂々たるランドマークになっている。
今回もまた世間の反応は徐々に変わってくるのだろう。
ぼくも思わず「何じゃ、こりゃ⁉」と声にした一人だが、
作者の意図からすればそういったことも十分に想定していたはず。
はたしてこのロゴが世間のなかでどう育っていくのか。

賛否両論が巻き起こる作品には「力」がある。

……とここまで書いて、師匠(先代桂春蝶)の言葉を思い出した。

「嫌われもせん奴は好かれもせん」。
“太郎イズム”バンザイ!




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236.ヴィバルディの”虫のこえ”~さて鈴虫は何と鳴く?~

小学一年生の頃、
ぼくは福岡県那珂川にある岩戸小学校に通っていた。
親の転勤ですぐに大阪に越してしまったが、
ぼくのなかで日本の原風景は
今もこのときの想い出のなかにある。
ぬかるんだ田んぼのあぜ道を歩いたり、
夏場はカチコチに乾いた肥溜めの上を
根性試しと称して踏んでみたり…、
確かに春の小川はさらさら流れていた。

あれ松虫が鳴いている チンチロ チンチロ チンチロリン
あれ鈴虫も泣き出した リンリン リンリン リーンリン
秋の夜長を鳴きとおす ああおもしろい虫の声



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筆者(撮影:坂東剛志)


 「『虫のこえ』ほど日本らしい唱歌はない」という話を聞いた。
「虫の鳴き声を声と聴くのは
日本人だけ」
 らしい。

いろいろ調べてみると
東京医科歯科大学の角田忠信教授の著書『日本人の脳』に詳しかった。
角田教授によると、その原因は日本人と西洋人の脳の役割の違いにあるという。

人間の右脳は「音楽脳」とも呼ばれ、
音楽や機械音、雑音を処理するのに対し、

左脳は「言語脳」と呼ばれ、
人間の話す声の理解など論理的知的な処理する。

…と、ここまでは日本人も西洋人も一緒だが、

日本人が「言語脳」で
虫の声を聴くのに対し、

西洋人はこれを
「音楽脳」で処理している。


それで西洋人には松虫のチンチロリンが分からず、
ただの雑音にしか聞こえないのだという。



また、虫の声を言語脳で聴くのは
ハワイやニューギニアに多く住むポリネシア民族にもみられるらしく、
「使用言語に子音で終わる単語がない」という点においても
彼らと日本人は一致している。

そういえば、ウクレレ教室のオーナーをやっている知人が
「ハワイアンの歌はカタカナ表記しやすい」と言っていた。


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ところで今、ヴィバルディの「四季」を聴きながらこの原稿を書いている。
実はこの秋に開催される「日本とヴィバルディの四季」というコンサートで、
ぼくはそのナビゲータをすることになったのだ。

しかし正直なところ、ぼくにとってクラシック音楽は全くの門外漢。

ヴィバルディの「四季」だって
冒頭のチャ―チャーチャーチャララ~♪ぐらいしか印象になく、
改めて全編通して聴いたヴィバルディの「四季」はかなり衝撃的だった。

春は穏やかな光景から一変していきなりの豪雨。
夏はいきなり雹から始まり、
ジメジメした小屋のなかでブヨやハエが飛び交う様子。
秋は収穫祭の賑わいから狩りの場面。
命からがら逃げ回る獲物とそれを追う犬。
冬は暖炉が鎮座する暖かい部屋から一歩外へ出ると極寒の様相。
辺り一面スケートリンクと化し、
少しでも油断すると足を滑らせ骨折しかねない。

穏やかな光景は嵐の前の静けさ。
ヴィバルディ「四季」はまさに自然の脅威そのものだった。

日本唱歌の「ピチピチチャプチャプ、ランランラン♪」とは程遠い。

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嵐吹きて雲は落ち 時雨降りて日は落ちぬ
もし燈火の漏れ来ずば それと分かじ野辺の里



これは唱歌「冬景色」の三番の歌詞。
嵐のあとの氷雨まじりの陰鬱な空が
人家の灯りの温かさを際立たせている。
この曲から浮かび上がるのは
嵐の凄まじさではなく家庭団らんの幸せ。

もちろん日本人が自然の脅威を知らないわけではなく、
台風や地震、豪雨…イヤというほど身に沁みている。
それでも日本人はとかく自然を愛でようとする。

日本の「八百万の神」信仰と無関係ではなかろう。


ステレオタイプに過ぎるかもしれないが、
農耕民族で自然と共存する日本人と、
遊牧民族で自然と対峙する
ヨーロッパ人の感性の違いかもしれない。



冒頭に「西洋人には虫の声もただの騒音」という話を紹介したが、
ヴィバルディの「四季」においては
この“騒音”が良いアクセントになっている。

汚いブヨやハエの羽音や吹き荒れる雹、犬が泣き叫ぶ様を
ヴァイオリンやヴィオラといった弦楽器が激しく表現する。



日本の唱歌が描く自然とも対比しつつ聴けば、
ヴィバルディの「四季」は
音楽脳のみならず言語脳もいたく刺激してくれる。

自由な外出が制限され、“自然の声”が聞きとりにくい今、
音楽のなかで季節を愛でるのも一興ではなかろうか。



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



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235.リメンバー・ミー~思うことは活きること~

遅ればせながら、今頃になって
ディズニー映画「リメンバー・ミー」(2017)を観た。
死者の国では「死者の日」だけ
現世の家族に会いに行けるという決まりだ。
日本でいうお盆のようなものである。
ただし、それは自宅の祭壇に
先祖の遺影が飾られた者だけに限られていて、
そうでない死者は死者の国を出ることができない。

ひょんなことからミゲルという少年は
死者の国に迷い込んでしまい、
紆余曲折の末ようやく
自分の高祖父にあたるヘクターに出会うことができた。
しかし、ヘクターは死者の世界でも葬り去られる寸前。
生の世界で誰も知る者がいなくなると、
死者は二度目の死を迎える
という決まりだった。

ヘクターはある行き違いによって祭壇から遺影が抹殺されていた。
しかも、生きている者のなかで唯一彼の存在を知る
実の娘・ココ(現世ではかなりの老婆だが)の命が風前の灯。
彼女が亡くなるとヘクターは二度目の死を遂げることになる。
そこからミゲルの奮闘が始まった。


花團治
筆者(撮影:坂東剛志)


映画を観終わって、
師匠(先代桂春蝶)のことに想いを馳せずにはいられなかった。
ぼくの自宅稽古場には師匠の大きな遺影を飾っている。
それは師匠を思ってというよりも、自身のためと言ってよい。

ネタを繰っていると、嫌でも師匠と目が合う。
これがいいのだ。もう少し頑張ろうという気になることもあれば、
怒られているような心持ちになることも。

また、兄弟子とささいなことで揉めた時、
「お前とはもう二度と口を聞かん!」などと言われたところで全く応えないが、
「師匠が生きてたら、お前なんか破門やで」と言われたら本気で悩んでしまう。

亡くなった今も師匠は絶対的な存在なのだ。
師匠の遺影を飾るというのは、
成仏して欲しいという思いより、
自身を律したり、奮い立たせたりといった
意味合いの方がはるかに大きい。


稽古場には、先代春蝶の遺影のほかに、
初代と二代目の花團治の遺影も掲げてあるが、これも同様の理由からだ。

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稽古場風景、遺影400
稽古場の高座から見た風景(向かって左手に二代目春蝶、右手に初代・二代目花團治の遺影) 
高座の前には、コロナ対策としてスクリーンを張っています



ところで、花團治襲名の際、
ぼくは三代目春團治師匠のお宅を何度も訪ねている。

襲名の準備に向けてのお伺いや報告もあるが、
一番の目的はなんとか披露口上に並んでもらえないかというお願いだった。

その頃の春團治師匠は体調不良が続いていて
3年近く高座に上がっていなかった。
そこを押して並んでもらおうというのは何とも無謀なことだったが、
ぼくは無理を承知で頭を下げ続けた。

その時、春團治師匠がおっしゃった言葉がとても印象に残っている。

「申し訳ない。ぼくは春團治だから」

つまり、正座すらままならない状態で舞台に上がることは
師匠自身にとって許されないことだった。

「春團治」という名前の重みを誰よりも強く感じておられたのだ。

結局、口上に並んでいただくことは叶わなかったが、
「花團治襲名記念落語会」には病気を押して駆けつけてくれ、
ぼくがトリで一席終えると舞台袖から大きな花束を抱えて現れた。
それが三代目春團治師匠にとって最後の”公の場”となった。

春團治師匠舞台挨拶
2015年6月21日、住吉区民センター「ほろ酔い寄席」にて
これが三代目春團治が公の舞台に立った最後になった。
(三代目桂春蝶が司会を務めながらスマホで撮影した)



あのときのことを思い出すと、今も目頭が熱くなる。
ぼくは三代目師匠の足下にも及ばないが、
それでも襲名した以上、「花團治」の名前は肩にずっしりとくる。

初代と二代目の遺影が
「お前はわしらの名前を継いだんやで」
と語り掛けてくる。

意識すればするほど、
先人方の存在は大きくなるのだ。

そう考えると、
現世で知る者がいなくなれば死者の世界でも消えてしまうという
「リメンバー・ミー」での設定も合点がいく。


初代花團治500
初代桂花團治


二代目花月ピクニック400
後列向かって左から3人目が二代目花團治


花團治代々について、芸能史研究家の前田憲司氏が詳しく書いてくださってます。↓
☞花團治代々について




先人を思うことは、自分がどう生きるべきかを考えることでもある。
ひょっとして先人が反面教師になることもあるだろうがそれでもいい。

この原稿を書いている今は、
ちょうどお盆であり終戦記念日。
師匠方は「死者の国」からどんな思いでぼくを見ているだろうか。


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
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春蝶生誕祭2020500

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234.当たり前の向こう側~そして、彼女はオッサンになった~

混み合う車内に、棚に並ぶマスクやトイレットペーパー…。
そんな他愛もない光景がやけにまぶしく映った。
この日は久しぶりの出前寄席。
県をまたいでの移動はおよそ4か月ぶりのことだった。
自粛解除とはいえ手放しで安心するには程遠い状況ゆえ、
お客様のなかには家族から嫌味のひとつも言われた方もおられよう。
それでもわざわざ集まってくれた。
こちらもずっと休業状態で巣ごもりしてきた身。
喋る場が与えられただけでもありがたいとつくづく感じた。

イシス、その道中の


大阪に「天満天神繁昌亭」という
落語専門の定席小屋ができてかれこれ14年。
以来、上方落語が全国に認知されるようになり、
大阪の落語家も少しずつ仕事が増えていった。

メディアに出ていないぼくも毎日のようにどこかで一席というのが、
ごく「当たり前」になった。
それが今回のコロナ禍でほとんどの仕事はキャンセルになり、
「天満天神繁昌亭」も3か月の休館を余儀なくされた。

花團治の会3、繁昌亭正面


この自粛でさぞかし落語家は
暇を持て余していたことだろうと思われるかも知れないが、
周囲の話を聞けば意外に充実した巣ごもりを送っていた者の多いこと。
連日のようにテレワーク落語など新しい発信を模索する若手や、
一日にひとつのペースで新作落語を創ることを自身に課した猛者もいる。

かくいうぼくはかなりサボり組の方だが、
それでも持ちネタを増やすのは勿論のこと、
積ん読状態だった本や資料を読み漁ったり…
連日の夜更かしが続いている。

時間はいくらあっても足りない。
やりたいことが山ほどあるということもあるが、
それ以上に、世の中が落ち着いたときにお客様から
「お前は有り余る時間に何をしていたんだ!」と呆れられるに違いないといった、
強迫観念がぼくを追い込んでいる。


とはいえ、やはり落語家は外で喋ってナンボ。
ステイホームではただのうるさいオッサンである。
家族にはさぞ迷惑なことだろう。

つい先日も嫁はんからクレームを受けた。
あまりにぼくが家にいることが多いので、
2歳の娘の言葉遣いが変わったという。

例えば、それまで「これなぁに?」とモノの名前を可愛く尋ねていたのが、
ぼくの自宅待機が始まって以来「これなんや?」といった
大阪弁丸出しの口調になってしまったというのだ。
「家の中に小っこいオッサンが一人増えたみたいや」と
嫁はんのぼやくことしきり。

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このところずっと収入がなく肩身が狭い立場で、言い返すこともできない。
しかし、ある深夜のこと、パソコン仕事の合間にふと寝室の前に立つと、
寝入りばなの娘に語る嫁の声が聞こえてきた。

「お父さんはエライね。ああやって遅くまで頑張ってお仕事してるんやで。お父さんのおかげでご飯が食べられるんやで。こんな可愛い服も着られるんやで」

このときばかりは、思わず扉の向こうの嫁はんに手を合わせた。


前述の県またぎの落語会では、当日も消毒作業に余念がなかった。
そればかりか会場入りしたぼくに
「お客様を大勢入れることができなくてすみません」と何度も頭を下げられた。

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ぼくの主宰する落語塾では、一回当たりの人数制限に加え、
高座の前にスクリーンを置くようになった。



ある人に言わせると、「感謝」の反対は「当たり前」だという。
4か月ぶりの高座はぼくにとってとても充実したものだった。
これまでこれほど「感謝」を思った高座があったろうか。

マスク越しの笑い声は温もりに溢れていた。
帰りの車中、久しぶりの高座に燃焼しきったぼくはずっと爆睡のままだった。

最寄り駅に下り立つと居酒屋の赤ちょうちんが誘惑したが、
この日ばかりは目もくれず自宅に直行した。

家に近づくと二歳の娘が出迎えてくれる姿が見えてきた。

その満面の笑顔の向こうにある、
「お父さんはエライね」という嫁の言葉
を思い出した。
周囲のさりげない日常がぼくを支えている。

そんな日常を「当たり前」と思わないようにという戒め、
それはコロナからの贈り物かもしれない。


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
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花團治6500


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蝶六改メ三代目桂花團治

Author:蝶六改メ三代目桂花團治
落語家・蝶六改め、三代目桂花團治です。「ホームページ「桂花團治~蝶のはなみち~」も併せてご覧ください。

http://hanadanji.net/

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