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201.知らないことからアハ体験~落語の授業にて~

自分が「知っていて当たり前」
と思っていることが、
相手にとって当たり前とは限らない。


大学・高校などでぼくが講師を務める「落語の授業」では、
幾度となくそういう場面に直面してきた。

桃谷400
夜間高校の授業風景。10代から70代までが集っている。

例えば、『道具屋』という落語。
夜店の古道具屋を覗いた客が笛に指を突っ込んだところ、
指が抜けなくなってしまった。
「抜けないなら買ってもらわなければ仕方がない」という店主に
客が値段を尋ねたところ、法外な値段を吹っかけられた。
「人の足元を見やがって」と言う客に、
店主が「いいえ、手元を見ています」。
……この咄を聞いた学生から寄せられたのが、
「なぜ店主は客の足元を見たんですか?」という質問。

ご承知の通り、「足元を見る」とは「相手の弱みにつけ込む」という意味だが、
なるほどこれが分からなければ、オチを聞いてもチンプンカンプンになるだろう。


ここでのぼくの授業の目的は
まず「学び」そのものを楽しいと感じてもらうことだ。
幸いなことに「落語の授業」には「これを教えなければならない」という
決まったカリキュラムがない。
それに、落語には自身が虜になった時がそうであったように、
腑に落ちた(=分かった)ときの快感がある。

ちなみに、ぼくが初めて生で聴いた落語は
高校の先輩が演じた『壺算』という咄だった。
ずる賢い男が瀬戸物屋で店員を上手く騙して壺を安く買い取るという話だが、
最後に店員が算盤をはじきながら訳が分からなくなって
「計算が分からなくなってしまいました」と泣き出してしまう。
それを見た男が「それがこっちの思う壺(企んだ通り)や」。

……ぼくはこの落語初体験の時、先輩に対して思わずこんな言葉を発した。

「よく分かりました!」

これに対して先輩は少し怪訝な表情を見せたが、
ぼくにとってこの「分かりました」は
「嬉しい」や「気持ちイイ」と同義語
だった。

冒頭に紹介した『道具屋』でチンプンカンプンだった学生も
「足元を見る」意味を理解するなり、とても嬉しそうな顔で応えてくれた。
最近流行りの言葉でいえば「アハ体験」にはまったということだろう。

「知らない」ことは「アハ体験」のタネ。

この快感さえ覚えれば「学び」の意欲は勝手に伸びていくと確信している。

敦賀、花團治
撮影:相原正明(敦賀落語の会にて)


授業では「謎掛け」を作って遊ぶこともある。
当初は「難しすぎてできるわけない」と消極的だった学生も
「方法」さえ知れば驚くほどはまってくれる。

「謎掛け」はまずそのお題から関連する言葉を抜き出すところから始めるが、
漠然と考えてもなかなか浮かんでこない。
そこで持ち出すのが、以前ぼくが『イシス編集学校』で学んだ
「編集工学」の手法の応用。

イシス卒門式、校長と
ぼくの憧れ「イシス編集学校」校長・松岡正剛先生と。



与えられたお題に「要素・機能・属性」という三つのフィルターを掛けて
言葉を引っ張り出すというものだが、意外にこの方法が役立つ。

テーマなしに作文を書くのがムツカシイのと同様である。
例えば、「リンゴ」というお題であれば、

要素として「芯、種、赤い、リンゴ追分……」、
機能として「リンゴジュース、デザート、歯茎から血……」、
属性として「青森、無農薬、箱入り……」といった具合。

後は抜き出した情報に当てはまる言葉を考えれば意外に簡単である。
「リンゴとかけて武士道と解く/その心は、真ん中に芯が通っています」
「リンゴとかけて信号と解く/その心は青いと思えば黄色くなったり赤くなったり」
「リンゴとかけて四谷怪談と解く/その心はお岩け~」
「リンゴと掛けて18番と解く/その心はコースの最後に楽しみます」……。

※過去ブログ【謎掛けのつくり方】はこちらから

このときスラスラ解きだした学生が自慢げにぼくにこう言った。
「俺は自分でアホやと思ってたけど、
意外にそうでもないかな?」

それに対してぼくはこう応えた。
「その通り!
君は方法を知らんかっただけや!!」


勉強嫌いな学生の多くは、ぼく自身がそうであったように、
「何でこんなことも分からないのか」というような、
先生から浴びせられる心ない言葉からそうなっていることが多い。



いかに「アハ体験」に繋げていくか。

これはもう「落語の授業」に課せられた任務である。

イシス3
イシス編集工学研究所で開催された落語講座にて


※この原稿は、熊本の人材派遣会社「リフティングブレーン」社が発行する社報誌「リフブレ通信」に
掲載された連載コラム「落語の教え」に加筆したものです。





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月に一度、大阪北浜にある「フレイムハウス」にて落語講座を開催しています。
ここでは全員での落語の声出しの他、落語に関するあれこれを語らせて頂いてます。
一回完結型なので、初めての方もお気軽にご参加できます。
今後の予定は、11月15日(水)、12月13日(水)です。


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200.センセ、着物って逆さに着たらアカンの?~落語の授業にて~

今年も夜間高校で「落語の授業」が始まりました。
10代から70代までの学生たち。
そこで投げかけられる素朴な疑問の数々が、
ぼくにとっては戦々恐々、また毎度の楽しみなのです。

桃谷授業風景

例えば、ぼくの雪駄を見た学生が、
「センセ、そのスリッパ、
サイズ小さいんと違う?」


雪駄というものは、足のかかとが少し出るぐらいでちょうどいいのですが、
馴染みのない学生には奇異に映るらしい。

「雪駄って、こんなもんやで」と返すものの、
これでは全く答えになっていない。


結局、家に持ち帰り、次回までの宿題ということになります。

よく「チャラチャラ音を鳴らして小粋に歩く」なんてことを言いますが、
あれは足の先に鼻緒を引っ掛けた形で、かかとは重視せずに歩くからこそ、
イイ音が鳴るのであって、鼻緒と鼻緒の間に指をギュッと入れて、
なおかつ、踵から歩くようにすると、とてもあの音は出せません。

そう言えば、吉田拓郎の『我が良き友よ』の歌詞に
「下駄を鳴らして奴が来る 腰に手拭ぶら下げて」というくだりがありました。


それに、江戸時代までの日本人は、
右手と右足を同時に出す「ナンバ」で歩いていた。
着てみればよくわかるが、着物は「ナンバ」でないとどうも具合が悪い。
「ナンバ歩き」は、極端にいえば、つま先立ち・すり足で歩いている状態。
機能的にかかと部分を支えるものは全く必要なく、見た目の美しさからも
「かかとがちょっとはみ出るぐらいが粋」ということらしい。


襲名宣伝、林幸治郎
石橋商店街を練り歩く「ちんどん通信社」。歩き方にもこだわりがある。



またあるときはこんな質問。

「センセ、着物の着方って決まってるの?」
「どういうこと?」
「着物の重ね方って、逆にしたらアカンの?」
「逆にしたら死んだ人やんか」と別の学生。

「それにしても何でやろな。
この方が懐に手が入れやすいのは確かやけど……」
「なら、左利きの人は逆でもええんと違う?」

畳みかけてくるなぁ、コイツ。


これも、さっそく家に帰って調べてみた。


着物を右前に着ることが定着したのは、
奈良時代の養老三年(719年)に出された「衣服令(えぶくりょう)」という法令に
「初令天下百姓右襟」(庶民は右前に着なさい)という一文以降とのこと。

この背景には中国の思想の影響があったんやそうですな。
「左の方が右より上位」であったことから、位の高い高貴な人にだけ左前は許され、
庶民は右前に着ていたとか。
それにならった聖徳太子がこれを日本でも普及させたというのです。

左前に着ると、どうも動きにくいということがありますが、
当時の高貴な人々は労働的な動作は必要がなく、
左前でも支障がなかったのでしょう。
庶民は労働の必要性からも、自然と右前になったというのが真相らしい。


ちなみに「右に出る者はいない」という言い方がありますが、
これは「家来側から見て」右に立つ者が優位ということ。
左に落とされると、つまり「左遷」ということになります。

また、「運が悪くなること、商売が傾くこと」を「左前」と言います。

鶴瓶、大看板400
そういえば、繁昌亭の前に立つ「まねき」も向かって一番右側が大看板。
序列でいえば、鶴瓶→学光→花團治→きん太郎の順になります。



数年前には、『トイレの神様』という歌がヒットしましたが、
当時、授業の初めにこの話題で盛り上がりました。
その日のテーマは「芸能と神事」。

一人の女性がフフッと笑いだしたので、
気になって問いかけてみると、
フィリピン出身でキリスト教信者だという彼女はこう言った。

「トイレの神様なんてクレージー。
神様は一人に決まってるじゃん」


日本では八百万(やおよろず)の神が当たり前だが、
キリスト教は一神教である。

なるほど、それぞれが色んな思いでこの曲を聴いているんだなぁ。


……とまあ、夜の学校はいつもこんな感じ。


さて、今年はどんな質問が飛び出すことやら。
90分の授業が全部で20コマ。
また眠れない日々が続きそうです。


おもちゃ映画ミュージアム20171110
知的オモロに盛り上がってみたいと思います。乞うご期待くださいませ。


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199.春蝶兄さんが生きてはったらなぁ~四代目桂春団治とぼくの因縁~

春之輔師匠は、ぼくにとって高校の大先輩でもあります。
落語家の系図でいえば、ぼくの師匠(先代春蝶)のすぐ下の弟弟子で、
ぼくの叔父貴にあたります。
ぼくが入門して間もない35年前、
なぜか事あるごとに春之輔師匠は
うちの師匠から呼び出されては小言をくらっていました。

「お前にしっかりしてもらわな困るんや!」


いっちょもみざくら
ぼくの高校時代。舞台上の右から4人目がぼく。
当時、大阪府立の豊中、箕面、桜塚の落語研究会が集まって合同の寄席を開いていました。
ぼくは桜塚高校落研の16代目部長でした。春之輔師匠は2代目部長。
ちなみに、初代部長がSF作家のかんべむさしさんです。


現在、春之輔師匠は「上方落語協会」副会長として、
協会運営や後進の指導、大阪の定席小屋『天満天神繁昌亭』に関する交渉ごとなど、
他の師匠方が嫌がる仕事を自ら引き受けて尽力されていますが、
先日こんなことを口にされました。

「春蝶兄さんが生きてはったらなぁ、
わしがこんなことまでしなくてよかった」


ブログ:春之輔師匠と
二年前、ぼくが襲名の際にはゲストのスケジュールや出演交渉など方々に頭を下げて回って下さいました。
このときもやはり「春蝶兄さんが生きてはったらなぁ」とよく口にされていたのを覚えています。
うちの師匠の代わりを務めて下さってたんですね。本当に感謝しきりです。
(撮影:相原正明)


そんな春之輔師匠も来春「四代目春團治」を襲名されます。
つい先日はこんなことを漏らされました。

「春蝶兄さんが生きてはったらなぁ、
兄さんが春團治になってたのは
きっと間違いないねん」


でも、35年前のあのやり取りを想えば、
うちの師匠はいずれこうなることを予感していたのかもしれません。

ここに一枚の写真があります。
これは二年前、ぼくが春之輔師匠から指導いただいている場面です。
この写真を見るたびに35年前のことを想いだします。
その場にたまたま居合わせた硬直している後ろ姿の前座さんが、
当時のぼくの姿にぴったり当てはまります。
うちの師匠と春之輔師匠もこんな感じでした。

春之輔師匠からお小言1
繁昌亭の楽屋にて (撮影:相原正明)


いつの頃からか、
春之輔師匠の後ろに亡き師匠がいるように思えてならないのです。
今回もゲストを快く引き受けて下さって感謝の気持ちでいっぱいです。


春之輔師匠からお小言2
繁昌亭の楽屋にて (撮影:相原正明)



花團治の宴2500

~東京独演会に際して~
ぼくの師匠の先代春蝶は、いわゆるステレオタイプで語られるようなコテコテの大阪人とは真逆の人でした。洒脱な雰囲気を持っていて、「もっと東京に出てくればよさそうなものを」と周囲から言われつつ、とうとう東京ではあまり演じることなくあの世に行ってしまいました。演芸プロデューサーの澤田隆治先生には「東京には魔物がいる」と言って東京進出を断ったようですが、真相のところはわかりません。ぼくが東京で会を催すようになってある方からこう言われました。「あなたは“いわゆる大阪特有の匂い”がしないところがいい」。その方がぼくのどこをどう指しておっしゃったかは、自分ではよく理解できぬままですが、先代春蝶の雰囲気に憧れるぼくにとって、嬉しいお言葉でもありました。しかし、大阪はコテコテばかりじゃなく、粋(すい)ではんなり(花なり)という一面もあるのです。そこで、今回は大阪落語界のなかでも特にそういう雰囲気をお持ちのお師匠はん方にゲストをお願いしました。ぼくが思う「上方」の良さを少しでもお伝えできれば幸いです。  三代目 桂花團治


◆「花團治の宴-en-」の詳細はこちらをクリック!

襲名、春之輔
桂春之輔(撮影:相原正明)


◆四代目春團治の所作
『相原正明つれづれフォトグラフ』はこちらをクリック!



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春蝶生誕祭2017バーナー
◆『二代目春蝶生誕祭』の詳細はこちらをクリック!

198.せぬひまがおもしろい~はたしてぼくは待ちぼうけのとき、どんな顔をして立っているのだろうか?~

これも職業病だろうか?他人の佇まいというものがつい気になってしまう。
電車のなかで前の座席に座るおじさん、コンビニのレジで順番を待つ学生、
オープンカフェでくつろぐOL、客席で落語に聴き入るご婦人……。
シャーロックホームズさながら
その人の職業や趣味、普段の生活などを想像してしまうのである。
駅の改札近くで待ち合わせをしている男性はひょっとして恋人との待ち合わせだろうか。
それにしても颯爽と立つその姿は同性のぼくが見ても惚れ惚れする。
次の瞬間、恋人が現れて爽やかな笑顔が拝めるかもしれない。
そう思うと、しばらくその場から離れたくない。

敦賀、花團治
桂花團治(福井県・敦賀落語会にて) 撮影:相原正明


先日、落語家によるお祭り「彦八まつり」のステージにて
日舞教室の発表が行われた。
稽古人は落語家や下座三味線のお姉さん方。
ぼくもその一人として参加したのだが、
今回が初参加のぼくは手順が飛びはすまいか、
ちょっと自信がなかったので横に熟練者を据えてもらうことにした。
おかげで手順を間違うことなく無事を得たのだが、
それを見ていた知人から手厳しい批評を受けることになった。

「横の人が上手いので、
花團治さんとの違いがよく分かりましたよ」


聞けば、ぼくも確かに手順通りに踊っていたには違いないが、
ポーズが決まってなくて所作が流れていたり、
立ち姿ひとつ取っても横の人とは雲泥の差であったという。
ところどころに緊張のゆるみを感じたらしい。
無論、そのポーズの間の動きひとつも手順の内に違いないのだが。

彦八、日舞
『彦八まつり』特設ステージにて日舞の披露(2017年9月2日)



かつて初めてミュージカル劇団の芝居に客演として舞台に立たせてもらったとき、
まず困ったのは標準語の台詞よりも台詞のない時だった。

つまり、そこにどのように立っていればいいのかという問題。

手を腰に当てた方がいいのか、あるいはブランと下げたままがいいのか。
舞台の上では一挙手一投足全てが意味を持つ。
一人何役もする落語家にとって、
言葉を発さず演技に参加するということが
これほどムツカシイものかということをこの時思い知らされた。



以前、桂米團治師匠とホテルのバーでワインを飲んでいたとき、
傍らにいたぼくのマネージャーがうっとりした眼差しでこう言った。

「これほどグラスを
綺麗に自然に持つ人は初めて見ました」

確かにぼくがトイレに立ってテーブルに戻る際、
遠目に見ても米團治師匠のその様子はとても絵になっていた。


落語の登場人物は属性や役職などをその言葉遣いもさることながら態で表す。
手を正座した膝のどこに置くか、腰骨を立てるか、前屈みに座るのか……

例えば、手の平を腰の付け根あたりで横に置くようにして肘を張り、
腰骨をしっかり立てると構えたようにすれば武士が表現できる。

米團治師匠の場合、品のある御大家の若旦那がはまり役である。

また、ぼくの写真を撮り続けて下さっている写真家の相原正明さんは、
桂春之輔師匠が落語を演る際の指先の美しさに魅入られたという。
なるほどふとした仕草を捉えた写真でも、その指先は美しく揃い、
そこはかとない色気を感じさせる。

※ 『写真家・相原正明がとらえた春之輔』はここをクリック!
美しい画像でご覧いただけます。


敦賀、春之輔
桂春之輔師匠(敦賀落語の会にて)  撮影:相原正明


敦賀、襲名
三代目桂花團治襲名記念口上(左から、桂治門、桂春蝶、桂花團治、桂春之輔) 撮影:相原正明

ところで、能を幽玄の世界にまで導いた世阿弥の教えにこんな言葉がある。

「せぬひまがおもしろい」


見所の批判に云はく、「せぬ所が面白き」など云ふことあり。これは為手の秘する所の案心なり。まづ二曲を初めとして、立ち働き・物真似の種々、ことごとくみな身になすわざなり。せぬ所と申すは、その隙(ひま)なり。このせぬ隙は何とて面白きぞと見る所、これは油断なく心をつなぐ性根なり。舞を舞ひやむ隙、音曲を謡ひやむ所、そのほか、言葉・物真似、あらゆる品々の隙々に心を捨てずして用心をもつ内心なり。この内心の感、外に匂ひて面白きなり。かやうなれどもこの内心ありと他に見えて悪かるべし。もし見えば、それはわざになるべし。せぬにてはあるべからず。無心の位にて、我が心をわれにも隠す案心にて、せぬ隙の前後をつなぐべし。これすなはち、万能を一心にてつなぐ感力なり。


何もしないときのおもしろさ。
何もせず、じっとしている間にこそ現れる芸の本質について説いている。

確かに、能を鑑賞に行くと役者が立っているだけで
その存在感に圧倒されることがよくある。

いい役者はそこにいるだけで絵になる。
冒頭に紹介した駅の改札近くの男性然りである。

ぼくが手本とする師匠や先輩方はすべからくそこに居るだけで絵になる人である。
ことに、ぼくの師匠である先代春蝶はお世辞にも姿勢がいいとは言えない人だったが、
常に何とも言えない良いオーラを醸し出していた。

「何もしていないときにどう魅せるか」

これがぼくにとって目下課題のひとつである。


はたしてぼくは待ちぼうけのとき、
どんな顔をして立っているのだろうか。
百年の恋も醒めるようなことに
なっていないだろうか。



※ この原稿は熊本の(株)リフティングブレーン様の社報誌「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」をもとに加工したものです。




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197.不足は創造の源~落語と映画と土団子~

1970年代、ぼくが少年の頃、土団子が流行った。
これは泥んこ遊びのひとつで、
泥を丸めて作った玉にきめの細かい砂をまぶして固め、
それを手のひらで磨いて硬くしていく。
濡らしては固め、乾かせては濡らしの作業を繰り返すうち、
やがてそれは艶々と輝き始め、見事な金の玉へと変貌する。
こうして出来上がった玉を今度は友だち同士で競い合った。
高いところから相手の団子目指して落とすのだ。
それぞれが団子に向いた上質の土の在り処や、
それを制作する際の秘伝を持っていた。
また、丹精込めて作った団子を
友人のそれと交換して友情の証しとすることもあった。

ポンという遊びも流行した。
牛乳瓶の蓋を机の上に置き、
手のひらで叩いてひっくり返すという競技。
まさにポンッという擬音がぴったり。
相手の蓋をひっくり返せば自分のものになったし、
そうやって集めた蓋はそれぞれにとって大切な宝物になった。


これは個人的なことだが、当時、
布団に潜れば「妄想」という愉しみも待っていた。
父親にひどく叱られたときは、父親が怪獣になった。
ぼくの名は宇宙からやってきたヒーロー「モリリンモンローマン」。
(本名の”森”から自ら命名)
布団のなかで、ピシュンピシュン、ボカーン!と擬音を発し続けた。
父親はぼくが放つビーム光線で見事木っ端みじんに吹き飛ばされた。



演芸ジャーナリスト・やまだりよこさんの著に、
六代桂文枝師匠の少年期についてこんなエピソードが紹介されている。

遊園地も公園もなく、おもちゃも持たない少年は木切れなどその辺にあるものでさまざまな遊びを生み出したという。工夫して、なんでもないものを面白いものに変える。(中略)「友達が来たら、友達に帰って欲しくなくて、いろんなことを考えて、いろんな遊びを考え出した。なんとか引き止めるためにいろいろ考えたり笑わせたりもした。今思うと、これが、僕の笑いや創作の原点だったのかもしれない」(『桂三枝論』やまだりよこ著・ヨシモトブックス・2012年より)


高価な玩具を買ってもらえなくったって、
遊びの材料はそこらあたりにたくさん転がっていた。
工夫すればいくらでも生まれた。


「不足」は創造の源である。


桂文枝とウクレレボーイズ
桂文枝とウクレレボーイズ。
落語家のお祭り『彦八まつり』に向けて、鈴木智貴氏(右から二人目)を講師に迎えバンドの練習。






落語はご承知の通り、演者の言葉や所作をヒントに、
お客が頭のなかに映像を描いていくという芸能。
具体的な映像の代わりに、「想像」が無限の愉しさを生み出す。

先日、京都の壬生にある『おもちゃ映画ミュージアム』を訪ねた。
明治から大正にかけて、お金持ちの家庭では、
ブリキ製の手回し映写機を楽しんでいたのだという。
その映像は劇場で公開済みのもので、
要らなくなったフィルムは、デパートなどで
短く切り売りされていた。
昭和の初期は、無声映画からトーキーに切り替わる時代。
映画会社にとって、昔のフィルムは無用のものだった。
そんなフィルムを「おもちゃ映画」と呼んでいる。

『おもちゃ映画ミュージアム』にはそんなお宝が900本。
映写機も200点。しかも個人で運営されている。

おもちゃ映画ミュージアム、3

おもちゃ映画ミュージアム、2
四条大宮から徒歩8分。
京都・壬生馬場町の町家を改装した『おもちゃ映画ミュージアム』



確かに、モノクロの無声映画は、
現代の超リアルな映像と音によって作られる
圧倒的な臨場感には欠けるかも知れない。
しかし、そこには思わず引き込まれる想像の愉しみがある。
それは、言葉と所作だけで楽しむ落語とどこか似ている。

もちろん活弁士を伴った無声映画も楽しい。
それぞれの活弁士が無声の映像にどう色付けしていくか。
これも愉しみのひとつであろう。

同様に、役者の表情と動作から言葉を読み取る作業も、
これまた、すこぶる愉しい。

映像が不足する落語と、
言葉が不足する無声映画。
両者は相反しているようで、
実はよく似たところがある。


「想像」や「創造」は、
人間に与えられた最高の娯楽、だとぼくは思う。

そんな遊戯を愉しむひとときになればと、
今回、以下のような催しを企ててみた。

おもちゃ映画ミュージアム20170929

※二回目以降も、講談師、歴史小説家、狂言師・・・・・・をゲストに迎えて映画談義を愉しむ予定です。



おもちゃ映画ミュージアム、4
左から林幸治郎(ちんどん通信社代表)、青木美香子(歌手)、
太田文代・太田米男(おもちゃ映画ミュージアム)、ぼく

◆林幸治郎氏についての過去ブログはここをクリック


◆公演の詳細はここをクリックして
『おもちゃ映画ミュージアム』サイトをご覧ください。




花團治の宴2500


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196.先代桂春蝶「最後の晩餐」~刺客?となった笑福亭福笑~

口さがない楽屋雀たちは、
笑福亭福笑師を指して、
「先代春蝶にとどめを刺した張本人」
だと噂する。


花團治襲名、繁昌亭、集合写真、福笑師匠
左から恩田繁昌亭支配人、笑福亭福笑、桂一蝶、桂花團治、桂梅團治、桂春雨。
花團治襲名記念公演(繁昌亭)にて。2015年5月。



故・二代目春蝶にとって最後の晩餐は平成4年大晦日の夜となった。
リビングで宴席の片づけをしていると、
「蝶六さん!救急車!!」
師匠の奥さんがありったけの大声でぼくに叫んだ。

師匠はトイレのなかで大量の吐血をしていた。

受話器を手にしたぼくはとりあえず119番。
同時に、すぐに家を出られるようにと
小銭入れの中身を確認した。
ひょっとして、ぼくも救急車に乗り込むことになるかも知れない。
携帯電話のない時代、誰かに連絡を取ろうと思えば
まず必要になるのが公衆電話用の小銭だった。
あの頃、10円玉は携帯電話やスマホと同じぐらいの意味があった。

ぼくがそうやって意外に落ち着いていられたのは、
師匠が救急車で運ばれるのは年中行事みたいなもので、
「いつもことだからまたすぐに戻って来られるだろう」
ぐらいの安心があったからだ。
でも、病院に着いて一日二日と経つうちに、
今度ばかりはどうもこれまでと様子が違うことを確信した。

それでも、病院内ではぼくや兄弟子らは努めて明るく振舞った。
それはマスコミ対策ということもあったし、
師匠の病状がかなり悪いということになると、
レギュラーを外されたり、師匠の今後の仕事の方にも
きっと影響が出るだろうと兄弟子らと決めたことだった。
どこでどう嗅ぎつけたか、新聞記者がぼくらを執拗に追いかけた。
「どうですのん、春蝶さんの容体は?」
「へえ、すぐに退院しはると思います。今も師匠と落語会の打ち合わせしてましてん」
全くの嘘だった。
師匠は会話どころか、酸素マスクを被せられ、
身体中チューブだらけで身動きできない状態だった。

春蝶、立ち切れ、縮小版
故・二代目桂春蝶。撮影:後藤清


話は戻って、最後の晩餐の夜、
師匠宅にいたのは師匠の家族とぼくだけだった。
例年通りなら、家族と一門が揃って除夜の鐘を聴くというのが、
お決まりだったが、その年に限って兄弟子らは不在だった。
「年明け早々に伺います」との返事だった。

リビングでは河豚鍋が湯気をあげていた。
「蝶六、アイツに電話をしてくれ」
こういう時、師匠が「アイツ」と呼ぶのは、
福笑師匠に決まっていた。
大晦日の晩にも関わらず、
福笑師匠は奥さんの運転する車ですぐに飛んでこられた。


師匠と弟子だけならたいがいポーカーや株といった遊びになるが、
福笑師匠がおられるときは、不思議とそうはならなかった。

芸談はもちろんのこと、社会情勢から人権問題、
ときには恋愛論などなど……酒を交わしながら二人の会話は多岐にわたった。
その頃、師匠はジャーナリストでもある「落合信彦」の小説にはまっていて、
50歳を過ぎてから夜間大学にわざわざ国際政治学を学びにいくほどだった。
そんな会話についていける咄家はそういない。

春蝶が「おれは河原の枯れすすき~」と
『船頭小唄』を口ずさめば、
福笑師は『加川良』を
しみじみアカペラで披露した。


二代目春蝶、ノック、たかじん、ざこば
関西テレビ『男の井戸端会議』の収録。左から桂春蝶、横山ノック、やしきたかじん、桂ざこば


ところが、最後の晩餐となったこの時ばかりは、
いつもとは全く様子が違っていた。
福笑師が言葉を投げかければ、それに対して、
すぐに必ず何かを返すはずの師匠がずっと黙ったきり。
ようやく口を開いたとて、その言葉と言葉の間に長い空白。
当然、酒もほとんど進まない。

「兄さん、今日は疲れてまっせ。休みはった方が…」
「ほなそうするわ。今日はおおきに」
珍しく師匠は、素直に福笑師のその言葉に従った。
でも、何か伝えたかったに違いない。
福笑師が帰る間際、師匠はずいぶん寂しそうだった。

春蝶のお墓2
石碑に刻まれた「春蝶」の文字は、生前、師匠がこよなく愛読した司馬遼太郎先生の筆によるもの。


最近になって、福笑師とこのときの話になった。

「あの日、ぼくが
嫁はんの車に乗って(春蝶宅から)帰る時や。
途中で救急車とすれ違ごたんや。
あれはきっと
春蝶兄さんを迎えに来たんやなって直感したな。
…やっぱりそうやったんか」


また、最後の晩餐では二人のこんなやり取りもあった。

「春蝶兄さん、今日はあんまりモノ言いまへんな」
「……福笑、人はな、世間というものが
見えてくれば見えてくるほど
寡黙になるもんやねん」



はたしてこれは
言葉が上手くでないということの照れだったのか、
あるいは、何かの悟りからでた言葉だったのか。
……今となってはわからない。


さて、「二代目春蝶生誕祭」を、
今年も師匠の誕生日10月5日に開催します。
生きてはったら満76歳、
喜寿のお祝いです。

ゲストには笑福亭福笑師匠。
そんなわけで、この続きは「繁昌亭」で。


二代目春蝶生誕祭2017-500
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花團治の宴2500
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春蝶生誕祭2017バーナー

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195.”離見の見”と”目前心後”~駅ナカ・デイパック禁止令~

最近とみに気になるのが、
大きなデイパック(リュック)を背負いながらスマホに夢中になる人の姿。
背中に荷物を負えば両手が開くのでスマホを操作するには都合がいい。
しかし、そのぶん満員電車内など周囲はかなり不愉快な思いをしている。
当人が向きを変えるたび、
思わずデイパックに頬を打たれそうになっている人。
ましてやこれが駅のホームの上だったりすると危ないことこのうえない。
当人の知らないところで自身が加害者になっているということが多々ある。
いっそのこと「駅ナカデイパック禁止令」という
お触れを出せばいいのにとさえ思う。
とはいうものの、かくいうぼくも
キャリーケースで他人を躓かせてしまったり、
ずいぶんひどいことをしてきた。
「お前がいうな」と言われたら返す言葉もない。

花團治の会3、花團治1
撮影:相原正明


落語家に入門してすぐの頃である。
ぼくは師匠の鞄持ちとしてある落語会に同行した。
そこの楽屋は四畳半の和室ひとつしかなく、
5名ほどの咄家がところ狭しと窮屈そうに坐っていた。
そのなかにようやくスペースを見つけて
我が師匠の衣装を包んだ風呂敷を開けていると、
先輩の一人から
「蝶六くん、春團治師匠に尻を向けてどないすんねん」と窘められた。
「す、すみません」と向きを変えると、
今度はその反対側から「今度はわしに尻を向ける気かいな」。
その後も「次はわしに向けるのか」という言葉が矢継ぎ早に浴びせられた。
ぼくがどう向きを変えようとも必ず誰かに尻を向けることになる。
もうどうしていいかわからない。
その場でグルグル向きを変えながら焦るぼくに
楽屋一同は大盛り上がりだった。

その時、そっと助け船を出してくれたのが春團治師匠だった。
「こんな狭い楽屋なんだから……そこを空けてやりなさい」と
楽屋の一番入り口に近い隅っこをぼくの作業スペースに設けてくれた。
今もあったかいエピソードとしてぼくの脳裏に残っている。

春團治を送る会、繁昌亭
この日は繁昌亭で春團治師匠の法要があり、一門が黒紋付・袴姿で並んだ。
こういう日は特に楽屋が混雑する。


末廣亭の楽屋
東京新宿「末廣亭」の楽屋は「繁昌亭」以上に狭い楽屋だった。


末廣亭の楽屋番さん
「末廣亭」には出番のない若手の楽屋番さんだけで10名以上が働いていた。



能を確立した世阿弥の教えに「離見の見」という言葉がある。
「己の姿を俯瞰的に見るべし」という舞台上での心得事のひとつだ。
また、 「目前心後」という教えもある。
「目の前や横にばかり気をとらわれず、自分の背後にも気を配れ」
という意味である。
こうすることで芸に深みが出る。

あの落語会の楽屋では
師匠方はこのことをぼくに教えたかったのかも知れない。
キャリーケースで人を躓かせてきたぼくは、
すでにそれだけで舞台人として失格ということになる。

天神祭り能船
天神祭の船渡御に参加する能船。ちょうど「土蜘蛛」の上演中。



そう言えば独身時代、
ぼくは当時付き合っていた彼女に
背中を見せ続けたという理由でずいぶん怒られた。
それは行きつけの店のカウンターで
たまたまぼくの横に座った知人男性と話に夢中になるあまり、
その反対に座る彼女のことを
ぼくはついほったらかしにしてしまったのだ。

つまり、彼女はずっとぼくの背中ばかり見ていたことになる。

「なんだか自分のことを拒絶されているような気がして」
と彼女は言った。
まさに「目前心後」の欠如だった。


「一事が万事」というが、
デイパックやキャリーケースで他人に迷惑をかけ続けている人も、
彼女を背後にほったらかしにする人も、
他のことでもきっと同じようなことをしている。
それに相手を不愉快にすることの大半は
自分の気づかないところで起こっている。

「なんでアイツばかりが優遇されるのだろう」と羨む前に、
まずはそんなところから見直すべきだろう。

「離見の見」や「目前心後」を心掛けるべき。
……いや、これは自分に言い聞かせている。

満員列車に揺られながら。


この原稿は熊本の(株)リフティングブレーン様の社報誌「リフブレ通信」に連載中のコラム
「落語の教え」をもとに加工したものです。



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194.叱るむつかしさ・叱られるありがたさ~落語の授業にて~

その瞬間、ぼくは
「ああ、またやってしまった」と後悔した。


出講するマスコミ系の専門学校で、
思わず学生の一人を怒鳴りつけてしまったのだ。
事の発端はこうだ。
ぼくの授業は最初に皆で大道芸の口上を口にするのが決まりで、
その日もかなり大きく発声していた。
とその時、他のクラスの学生の一人が焦った表情で教室に入って来た。
「教室の前でドラマのロケをやっていますので静かにしてください!」。
あちらも実習ならこちらも授業である。
おまけに事前の連絡も無し。そんな一方的な言い分に従う義務はない。

しかし、そこはこれ以上事を荒げるのも大人げないと口をつむった。

「分かりました。ではどれぐらい時間を要するのかな?」と尋ねた。
一旦、外へ出た彼がまた戻ってきて「一分間です」と答えた。
ぼくは「分かりました」と言って、声を抑えながら授業を続けた。
それから十分近くが経過した。

その教室はガラス張りなので外の様子がよく見える。
カメラなど機材がどんどん撤収されていった。明らかにロケは終わっている。
ぼくは教室の外へ出て、アシスタント役らしい先ほどの彼にところへ駆け寄った。

「もうロケは終わったよな?」「はい、終わってます」
「じゃあ、ひと言、言いに来なあかんのと違うか?」。
それでも彼がキョトンとしているので、ぼくはついつい怒鳴ってしまったのだ。

「あのな、こちらは君が言いに来るのを
待ってたんやで。
『ロケは無事に終わりました。
ご協力ありがとうございました』
ぐらいのことが言えんか!」。

蝶六、仁王変顔
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沸点に達した怒りを一旦クールダウンするべく、
ぼくはそのまま一旦教室を離れ、
教務課に足を運び事の次第を説明し、
思わず怒鳴りつけてしまったことを報告した。
幸いなことに教務課の先生方は
「よくぞ叱ってくれました。後はこちらで本人にもフォローしておきます」
と言ってくれたので、
ぼくも心を鎮めて授業に戻ることができた。


ぼくがここまで怒ってしまった背景には苦い思い出があった。
かつてぼくも情報番組のレポーターとして走り回っていたことがある。
街頭などでロケの都合上、
通行人の足止めをするのはアシスタントディレクター(AD)の役目だった。

ほとんどのアシスタントさんは第三者である通行人に対して丁重にお願いするのだが、
あるロケでのADは違った。「ここ、通らないでください!」と上から目線で言うのだ。

当然、相手はぶ然とした表情でこちらを睨みつけてくる。
そのため、時にはぼくが代わりに頭を下げに行くこともあった。

特にこういうロケは周囲の協力無しではなりたたない。
撮影の技術を習得するのはもちろん大事なことだが、
マナーや礼儀をわきまえないでどうするんだ!という思いが強くあった。


教室に戻ったぼくは授業を中座したことを学生らに詫びた。
事の成り行きは彼らも見ていたのでいつもと違う緊張感が漂った。
「まあ、ぼくもたまには怒鳴ることもあるということや」というぼくの言葉に彼らは神妙だった。

DSCF5950 (2)
お笑い芸人コースの面々。彼らの中から必ず明日のスターが生まれてくることだろう。それぞれの表情に特徴があってオモシロイ。
彼らはそれぞれ自分の持ち味を理解している。将来が楽しみだ。



「あ、それから言うとくけどな、これから君らも現場に行って叱ってくれる先輩にはどんどん甘えていきや。見込みを感じてくれるから叱ってもくれる。反対に優しすぎるスタッフには注意が必要やで。レギュラー番組を切るときなんか、番組プロデューサーは妙に優しかったりするもんや」「え、先生もそんな経験あるんですか?」「あるある。いっぱいある。みんな満面の笑みで冷たく切りよんねん」。

ようやく学生らにいつもの笑みが戻った。
その晩、ぼくはバーでたまたま隣り合わせた年配の知人にこの話をした。

「ほうでっか?けどよろしいな。若い者は叱ってもらえて。わしなんか、叱ってくれる人なんか、もう誰もおりまへんで。師匠、すまんけどいっぺんわしも叱ってもらえまへんか?」。


……アハハと笑いながら、ぼくはその言葉に切なさと優しさを感じた。



この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンの発行する社報誌
『リフブレ通信』に連載中のコラム『落語の教え』をもとに加筆したものです。


0724花團治500
 ※残り28席(7月14日現在)

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浅田飴、落語と狂言500
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花團治の宴2500

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193.楽しい「声」で賑わいを~落語と狂言のワークショップin大阪福島さばのゆ温泉~

浅田飴、落語と狂言500
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◆大阪福島「さばのゆ温泉」はここをクリック!


言葉の掛け方ひとつで患者の様子が変わるんです。
演劇人の一人として、
いかに言葉が大事か、思い知らされました。


以前、狂言師の金久寛章が大学の看護学生を前にこう言った。


青山狂言、金久近くから
大学で狂言演習を指導する金久寛章


彼は大阪芸術大学の舞台芸術学科を卒業後、
『劇団四季』に入団したものの、すぐに緑内障を患い、
三か月の入院を余儀なくされている。
そこで彼は看護師さんと患者の会話に耳を傾けるようになった。
言葉のトーン、温度、色合い、香り……
まるで味わうように、じっと耳を澄ませ続けたのだという。
その後、彼は狂言の世界に飛び込んだ。

◆この話の続きは、こちらをクリックして過去ブログから

大須狂言、金久&花團治、やい聞くか!
狂言『柿山伏』 山伏:金久寛章・畑主:桂花團治


このたびの『落語と狂言のワークショップ』では、
落語や狂言の上演のほか、
コトバのベクトル、声を出すための身体づくり、気持ちの置きどころ、
息のツメ開き、コミュニケーションなど。
また、参加者全員で落語の一節や狂言謡の唱和したり……
ちなみに「浅田飴」のお土産付き。



→ 今回のワークショップについて、下記の過去ブログも是非ご参照ください。

◆病いはコトバから~看護と狂言~

◆落語と狂言はさも似たり

◆督促に学ぶ落語の効用~督促OL修行日記より~

◆声のチカラ~落語と能とオペラと~

◆宛先のないコトバは届かない~みなさん・あなた・わたしというベクトル~

◆落語はビジネスに活きる~愚か塾の場合~


※大阪青山大学研究紀要「狂言を教育に活かす~古典演劇教育の実践を通して」金久寛章

※大阪青山大学研究紀要「喜六の処世術」ほか 桂花團治



大阪福島『さばのゆ温泉』への行き方。
さばのゆ道程1
まずは、JR東西線『新福島』で下車して、2番出口を上がります。

さばのゆ道程2
エスカレーターでどうぞ。

さばのゆ道程3
地上に上がるとセブンイレブンがありますので、それを尻目にそのまままっすぐ。

さばのゆ道程4
「浄正橋西」の看板が見えますので、そこを左に。

さばのゆ道程5
向こうに高層マンション、左手奥にお店の灯が見えます。

さばのゆ道程6
Curry & Cafe 般°若 (ぱんにゃ)さんに迷わず飛び込んでください。
お店に入ってすぐ右の階段を上がって2階が『さばのゆ』です。
「新福島駅」から地上に上がって、ここまで約3分。

さばのゆ道程7
腹ごしらえをしてから臨まれる方は、ぜひ般°若さんのカレーをば。病みつきになりますよ。




さばのゆ店内
上の写真は「さばのゆ温泉」のサイトから拝借。朗読する松尾貴史さんです。


会場の様子は下記をクリックください。畳み敷の和室です。
お問い合わせ・お申込み等も「さばのゆ」へお願いします。
◆大阪さばのゆ温泉のサイトはここをクリック!




その他、落語会出演情報はこちらの「花團治サイト」をご参照ください。
◆「桂花團治サイト」はここをクリック!




192.芸人の危機管理~アドリブとは備えのことなり~

あれは30年以上前、タクシーでの移動中だった。
師匠がポソッとこんなことを漏らした。

「あいつなぁ、普段は腐った魚みたいな目ェしとるのに、
こういうことがあると俄然イキイキしよる」

あいつとは、師匠のマネージャーのこと。
こういうこととは、仕事上のあるトラブルのことだった。


この時はダブルブッキング(同じ時間帯に仕事が重なること)だったが、
マネージャーのトラブル処理は目を見張るものがあり、
臨機応変に動いてはみごとにトラブルの火種を消していく。
本来ならアクシデントを起こさない方が優秀なマネージャーなのだが、
あまりの手腕の鮮やかさに、このマネージャー氏だけは、
アクシデントの数だけ評価に繋がっていた。

突発的な対応にこそ、人の真価があらわれるものだということを
ぼくはこのマネージャーから教わった。

春蝶の家族と共に
師匠(先代春蝶)の家族と共に。右後ろがぼく、その前の少年が現・三代目春蝶。


ところで、ぼくは毎年、天神祭の船渡御の案内人として
船に乗り込んで司会を仰せつかっている。
ある年の天神祭。
出航してしばらく、それまで雲ひとつなかった空が、
急に曇り出し、ポツリと雨粒が落ちた。
そこからザアザア降りに変わるまではあっという間だった。
いわゆる通り雨である。
屋根のない船、そのうえ乾杯を終えて
乗客が弁当を広げたその瞬間を狙ったかのようなタイミング。
雨はすぐに上がったものの、
口にすることなく水びたしになった弁当を前に乗客は怒り心頭。

皆の視線は
一斉に司会であるぼくに注がれた。


とその時、思い出したのが天神祭の儀式であった。


古来、船渡御は人の形にくり抜いた紙と鉾を大川に流し、
それが漂着した地を御旅所強調文として、
そこまで御霊を送るというのが習わしだった。
今は地盤沈下の影響もあって
船渡御のコースは天神橋と飛翔橋の間と決められているが、
この「鉾流し神事」の儀式自体は今も続けられている。
この人型の紙を流すのは
「身に降りかかった悪事災難をこの神に託して流す」という
意味合いも含まれている。


そこで、ぼくはこの儀式を引き合いに出してこう続けた。


「ただいま雨に遭われたということは、
紙に託さずして、
悪事災難を洗い流していただいた
ということになります」


もちろんこれは全くの作り話。

この時ばかりは「ふざけるな!」という声を覚悟したが、
意外にもノリの良いお客様方で、
「なるほど、そう考えたら、これは最高の天神祭やないかい!」
という声にも助けられ、船のなかは大盛り上がり。

実はこれ、「もしも船渡御が途中でひどい大雨に見舞われたら」
というリスク管理の観点で、事前に準備していたコメントのひとつだった。

芸人の大先輩から聞いた忘れられない言葉がある。

芸人にとってのアドリブというのは
単に即興ということやない。
頭のなかにたくさんの引き出しを持って、
その場に応じた引き出しを
的確に開ける能力。
これをアドリブと言う。



天神祭船2

天神祭船3
天神祭り船渡御の模様


……天神祭りが近づくたびにこの大先輩の言葉と、
師匠のマネージャーの対応力を思い出し、
つい、ぼくは自身のアドリブばなしを自慢したくなる。

「アドリブとは備えのことなり」



この原稿は、「大阪保険医雑誌」に連載中のエッセイ『落語的交遊録』から抜粋、補筆したものです。





第三回「花團治の会」では、大川の船遊びを舞台にした「船弁慶」を、
桂文也師に演じていただきます。

0724花團治500
※一階席は完売しました。二階席のみのご案内となります。

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浅田飴、落語と狂言500
こじんまりした会場です。どうかお早目のご予約を。

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花團治の宴2500

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花團治の会3、花團治1
撮影:相原正明
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191.復幸を目指して~熊本地震復興支援『笑顔を届ける落語会』後記~

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そのとき、ぼくの目に
「復幸」という文字が飛び込んできた。

それは校長先生の背にプリントされた文字だった。

広安西小学校、復幸
5月19日・20日の二日間、
ぼくは益城、広安、木山、御船、大津、西原と熊本県下の仮設住宅や小学校を『笑顔を届ける落語会』で回らせていただいた。
益城町立広安西小学校もそのひとつ。




ある統計によると、震災が原因とみられる自殺者は3年後、4年後に
多く見られるそうだ。
1995年の阪神淡路大震災の際、
ぼくが被災者の住む仮設住宅を訪れたのは震災から一年後。
その時、ボランティアスタッフの言葉が今も記憶に新しい。

「(震災)直後は芸能人もマスコミも大勢押しかけてね。
けど今は誰も見向きもしない。寂しいもんです」。

スタッフはこう続けた。

「震災直後はとにかく皆が“生きる”ことに必死だった。けれども、とりあえずは仮設といえど住むところが確保され、風呂やトイレ、食事などの心配もしなくていいようになった。そんなときなんです、心の中にポッカリ穴が開くのは…」。

今こそ色んな芸能の方にも来て欲しいというのが彼の主張だった。
ぼくが慰問の継続にこだわるのはこの体験が元になっている。
だから、どうしても今年も熊本に行きたいと願い、
熊本商工会議所青年部のメンバーもおおいにそれに応えてくれ、
去年に引き続いて会場の調整から舞台設営、ぼくの交通や宿泊まで何もかもやってくれた。

広安西小1
熊本県益城町立広安西小学校にて。
昼休みの自主参加にも関わらず大勢の子どもたちが参加してくれました。


広安西小2

熊本サイン攻め400
口演が終わってサインコーナー。ぼくにとってかなりのサプライズでした。



仮設団地の集会所はどこも大きな笑いに包まれた。
しかし、それはぼくの芸云々の問題ではなく、
とにかく一緒に笑うことが彼らの目的だった。
自宅のテレビでバラエティーを見ながら笑うのも良いが、
ひとつの空間で笑いを共にするということがどれほど大切か。
共に笑うということは価値観を共有するということ。
このことが絆を深め、孤独を遠ざける。


「まず外に出て来てもらうことだと思うんですよ」
「部屋にこもりっぱなしで孤独な方もきっと多いはず」
「復興は始まったばかりです」

……商工会議所のメンバーとも何度もそんな話を繰り返した。

熊本仮設400
熊本の仮設団地にて

熊本握手
「久しぶりに腹抱えて笑ったよ」と集まったお客様たち。ぼくもたくさん元気をもらった。


熊本仮設トラック400
落語会の設営はこのトラック一台に集約されている。
高座にするビールケースや座布団、毛氈、パイプ椅子まで。
スタッフも慣れたもので到着から設営完了に要する時間はわずか15分足らず。


熊本仮設のぼり400
スタッフのなかでもとりわけ屈強な二人と。幟の横で撮ると、まるで相撲の巡業のようだ。


さて、冒頭に申し上げた熊本益城町立広安西小学校での公演である。
ここでは昼休みを利用して生徒が行き交うエントランスが会場ということもあり、
決して演じやすい環境ではなかったが、
それでも多くの子どもたちが耳をダンボにして付き合ってくれた。
壁一面には全国から寄せられたメッセージが貼られていた。

「復幸」という文字について、校長がこんな話をしてくれた。
「これは長岡花火大会の会場で目にした文字なんです」。
震災直後に災害支援にあたってくれたフェニックスという
ボランティア団体からの招待を受け、
校長は16名の小学生らと共に長岡を訪れている。

「復旧や復興の取り組みが一日も早く進むことを願う。これはもう言うまでもありませんが、熊本地震で受けた心の傷や痛みを乗り越えて、どこを目標にしてがんばっていくのか?それを考えさせてくれるのがこの言葉なんです。地震前まで当たり前と思っていた幸せに気づくこと。もっと幸せな社会を作っていこうという想い。それらがこの文字には集約されています」。

「復旧」とは堤防や道路など壊れたものを元通りすること。
「復興」とは元のような活気のある地域を取り戻していくこと。
なるほど「復幸」にはそれらを含めたさらなる思いが込められている。
それに大人や専門家のみならず子どもたちも共有できるのがこの言葉だ。
例えば、広安西小学校では
「おはよう」「ありがとう」「大丈夫?」と声にすることが
「復幸」に向けた第一歩とし、常に徹底している。。

今回の慰問も実に多くのことを考えさせられた。
「復旧」「復興」というより、
「復幸」が『笑顔を届ける落語会』に課せられた使命なんだと思う。

熊本商工会青年部の皆さんと来年の実施を約束し、熊本を後にした。

熊本鶴橋400
熊本県益城町立広安西小学校に全国からの応援メッセージ。
大阪・鶴橋小学校からのものもありました。


この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する月刊社報誌『リフブレ通信』に連載中のコラム「落語の教え」を加工したものです。



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茨木ワークショップ500
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花團治の宴2500
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広安西小学校1



190.喜六になりたい~ロールモデルとしての落語~

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花團治、下から突く
撮影:相原正明


落語に出会った頃のぼくは決して良き観客ではなかった。
当時、通っていた高校近くのお寺で定期的に落語会が開かれていた。
その最前列に席を取り、中入りになると
ありったけの知識をこれ見よがしに周囲の客に
無理やり聞かせて悦に入るのがぼくの楽しみだった。

いっちょもみざくら
高校3年生の頃。左から二人目がぼく。


「〇〇の落語は△△師匠の型そのままやな」
「こういう笑いの取り方は邪道やな」
「あいつはきっと伸びるに違いないで」。

……エラそうに、
いっぱしの評論家気取りだった。


そのときは周囲の迷惑を顧みるなどさらさら考えてもいなかった。
しかし、たまたま他の客のそういった言動に対し、
ふとぼくが「あいつ、嫌な奴やな」と漏らした際、
同席していた落語仲間が「お前も全く同じやで」と
すかさずぼくに突っ込んだ。
そこで初めてぼくは己の愚行に気がついたのである。

観客としてではなく、演者としてのぼくも「嫌な奴」だった。
落語研究会に入部し、校内で数多く落語を披露する機会を得たが、
そこでぼくは「拍手をくれた方のみ御礼申し上げます」というような
本職の物言いを真似たりした。
そんなぼくに先輩からこんなお叱りが飛んだ。

「そんなひねくれたこと言うて、君のニン(人柄)に合うてないし、
何か嫌な感じやで」


落語を演じるようになって、
クラスの人気者どころか
煙たがられる存在になっていくのを感じた。


高校卒業式
高校の卒業式


師匠の元に弟子入りして落語を本職とするようになって数十年。
嫌な観客・嫌な演者が何たるかを身にしみて実感しつくしたぼくにとって、
自宅の稽古場で主宰する落語塾は落語を教えるだけでなく、
過去の反省・失敗を伝えるための場でもあった。

愚か塾、大喜利1


しかし、スタート時は何をどう伝えていいかもまるで手探り状態。
自信の欠片もなかった。
そんななかでも、続けていくに連れて
耳にするようになった「落語によって人生が好転した」という
塾生の報告はぼくに大きな自信を与えてくれた。
自分に自信が持てず人前に出ることが苦手だったかつての塾生は
「ちゃんと人の目を見て話せるようになり、
社内での新入社員研修を任されるようになった」
と手紙を寄せてくれた。

また、ある男性は
「ギクシャクしていた部下とのコミュニケーションが改善されました」
嬉しそうにぼくにそう語ってくれた。
これまでの「上から目線」ではなく、
相手を受容する心持ちで話すように心がけたのだという。

「あるときは甚兵衛さんのごとく、
あるときは喜六のごとくですね」

と彼は言った。


喜六とは上方落語に登場する愚か者の代表格。
おっちょこちょいで慌て者、いつも失敗ばかり繰り返すが
彼の周囲は笑いが絶えず、誰からも愛される人物。
相手を優位に立てる天才でもある。
甚兵衛さんはその喜六をたしなめながらも
優しく見守る町内のご隠居だ。

落語を稽古するということは
すなわち登場人物をロールモデルに置くこと。
これは愚か塾の大きな目的に掲げてはいたが、
その方針に確信を与えてくれたのはまさしく塾生たちだった。

高校時代、事あるごとに注意をしてくれた先輩や顧問の先生の教えが
今ここに活きている。

愚か塾、打ち上げ
主宰する『愚か塾』の塾生たちと。



落語の愛好家には本職やアマチュアに関わらず二通りある。

ひとつは
斜交いな嫌味な眼差しばかりが身についた者。
もうひとつは、
どんな愚か者も受容の眼差しで接しようとする者。


ぼく自身は明らかに前者からのスタートであり、
まだまだ後者には至っていない。
落語を聴くのに理屈はいらないが、
せめて落語は自身を豊かにするものであってほしい。

今回は落語を演じる者として反省の弁を述べてみた。


この拙文は、熊本の(株)リフティングブレーン社さんの発行する社誌『リフブレ通信』の原稿に加筆したものです。



※ただいま「愚か塾」では、定員を超えたため、新規募集は行っておりません。


神能殿500
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189.悪事も善事も千里を走る~見てる人は見てるもんです~

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「若手コンテストを見ました。真剣勝負の場なのにそれを審査する立場の者が普段着のまま舞台に立つというのはいかがなものか。見ている人は見ています」


今、ぼくは上方落語協会で「若手育成委員会」に所属している。
若手のための深夜寄席やコンテストの運営をするのが
その主な業務内容だが、先日、ぼくのもとに
とある新聞記者から冒頭のようなメールが届いた。


このときの審査員とはつまりぼくのことである。
言い訳がましくなるが、その日は客席からの審査だけで
ぼく自身は舞台に上がる予定ではなかった。とはいえ、
急きょ舞台に上がる可能性があることはじゅうぶんに考えられたはずである。
ぼくとしたことが……。
翌日、すぐさまくだんの記者に御礼の電話を入れたのは言うまでもない。

このとき、ふと思い出したのが
日本テレビ『笑点』でもおなじみの林家たい平さんのことだった。
たい平さんはたとえラジオの収録であっても
きちんと着物に着替えて臨む人である。
そういう「了見(=考え)」がある方の目に留まって
大きなチャンスに繋がり、今に至っている。


若手グランプリ40002


ところで、これはずいぶん前の話になるが、ある俳優スクールで授業の終わりに
学生の一人を呼びつけてこんな説教をしたことがある。

「君な、ずっと頬杖ついて聞いてたやろ、あれはあかんで!」。
すると彼はこう応えた。
「けど、ぼくはちゃんと聞いてました。先生にはそう見えないだけ、ぼくはしっかり先生の授業を受けていました」。

そのとき、ぼくはつい声を荒げてしまった。

「あのな、君の将来の夢は何や?俳優になることやろ?俳優というたら他人に見られる仕事やで。自分のなかでは真面目にやっていると思っていても、他人から不遜な態度に見られているようではあかんのと違うか?」

つまり、あのときのお小言がしっかりブーメランとなって
我に返ってきたということである。


2009年BAC授業風景400
声優スクールでの授業風景 2009年



そう言えば、うちの師匠(二代目桂春蝶)のこんな言葉を覚えている。

「あのな、芸を身につけるのは、そらもう大事なことやけど、この世界で生きていこうと思ったら、評判を大切にせなあかんで」


春蝶、立ち切れ、縮小版
二代目桂春蝶 平成5年1月4日没 (撮影:後藤清)



ついこの間、落語会のあとに
笑福亭鶴瓶師匠の呼びかけで打ち上げをすることになった。
鶴瓶師匠の中学校の同級生もわざわざその場に駆けつけてくれて、
皆で焼肉を囲むなか、その方が鶴瓶師匠の当時の思い出を語ってくださった。

「駿河(鶴瓶師匠の本名)は昔っからほんまにエエ奴やねん。みんな、こいつにずいぶん救われたんちゃうかな」


鶴瓶兄と焼肉400
鶴瓶師匠の横でまるで大御所のようにひときわオーラを放っているのが鶴瓶師匠の同級生・木村さん


数々のステキなエピソードはおそらく他でもずいぶん披露されているのだろう。
悪事も善事も千里を走る。
良いことも悪いことも人の口から口へと伝染していく。
鶴瓶師匠は上からも下からも評判が良いということはもう言わずもがな。

日頃の「了見」が全てと感じた次第。



この原稿は熊本のリフティングブレーン社さんの社報誌「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」をもとに加筆したものです。


落語と利き酒の会500
先代馬生師匠の次女で、池波志乃さんの妹さんがプロデュースする人気の会に、上方落語から初めて参加させていただくことになりました。

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188.繊細な鬼瓦~六代目松鶴師匠の思い出~

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あんさんとこのお弟子さん、
お借りしましたで。


六代目笑福亭松鶴師匠はうちの師匠(二代目桂春蝶)にそう耳打ちした。
豪快なことで知られる松鶴師匠だが、
誰よりも繊細な方だった。
若手一人一人にまで細かく目を配っておられた。

松鶴400
六代目笑福亭松鶴師匠(昭和61年9月5日没) 写真:笑福亭松鶴(三田純市著・駸々堂)より



NHK大阪放送局がまだ馬場町にあった頃のこと。
落語番組の収録のため、ぼくは師匠の鞄持ちでお伴した。
師匠の着替えを手伝うのも弟子の役目。
「ぼちぼちかな」。
そう思ったぼくは、舞台袖から師匠の楽屋へと急いだ。
そのとき、ぼくの目に飛び込んできたのは、
早々と一人で着替えを始める上方落語会のドン、
松鶴師匠の姿だった。
松鶴師匠の出番はうちの師匠の次。
だから、本来ならもう少しゆっくりでも構わないのだが、
ぼくは迷わず松鶴師匠の楽屋に飛び込んだ。

「あんさんは自分の師匠の着替えがあるやろ。
せやから、わしは(放っておいて)ええさかい、
早よ師匠のとこへ行きなはれ」と松鶴師匠。

しかし、そういうわけにはいかない。
松鶴師匠は、春蝶にとっても大先輩であり、
春蝶自身が敬愛する師匠の一人。

「いえ、大丈夫ですから」と言いつつ、
ぼくは松鶴師匠の着替えを手伝った。
でも、内心は穏やかでなかった。
叱られることはもう間違いない。

松鶴師匠の着替えを済ませると、
ぼくは慌てて我が師匠の楽屋へと向かった。

案の定だった。

師匠はぼくの顔を見るなり
「どこへ行っとんじゃ。
肝心なときにおらんとアホンダラ!」

ぼくはただ平身低頭に謝るしかなかった。
もちろんぼくにも言い分はあった。
でもこういうときの言い訳はご法度である。

春蝶、立ち切れ、縮小版
二代目桂春蝶(平成5年1月4日没) 撮影:後藤清


やがてサゲを言い終えた師匠が高座を下りてきた。
師匠についてまわるとき、
ぼくはいつも緊張しっぱなしだったが、
このときばかりはいつにも増して硬直していた。
ビクビクしながら師匠の着替えを手伝った。

でもそのとき、意外や意外。
師匠のぼくを見る眼差しが
なぜか妙に優しいことに気づいた。
高座に上がる直前とは明らかに違っている。


その理由を教えてくれたのは、
たまたまその場に居合わせた桂春若師匠だった。
春若師匠は、「舟行き」という出囃子がジャンジャンと響くなか、
松鶴師匠が高座に上がる直前、うちの師匠とすれ違いざま、
そっと耳打ちした、その一言を聞いていた。

「さっき、あんさんとこのお弟子さん、
お借りしましたで」


春蝶の家族と共に
二代目春蝶の家族と共に(右後ろがぼく。その前に現・春蝶)


そう言えば、ラジオのなかでこんなやり取りがあった。
それは「六代目松鶴追悼特集」だった。
「松鶴師匠からイロイロ教えていただいたでしょうが、
なにか心に残っている言葉はありますか?」
この質問に対して、うちの師匠はこう応えている。

「そうでんな。
己のことしか考えられんような奴は、
咄家やめたらええねん、
ちゅう一言ですかな」


当時20歳のぼくが見た、この世界の大人たちは、
みんな繊細な人ばかりだった。


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187.おしゃべりはやめて~弟弟子のこと、愚か塾のこと~

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今から33年前、ぼくが先代春蝶の家に住み込みだった頃、
師匠のもとに一人の入門志望の若者がやってきた。

「人前で話すのが苦手で、
なんとかそれを克服したいんです」。

彼は大真面目な顔で弟子入りしたい理由を語った。
「絶対、師匠はこいつを弟子に取らないだろう」と思っていたら、
意外にもすんなりとぼくの弟弟子として迎えられた。

「うちは話し方教室やないねやさかい」
自嘲気味に笑う師匠の表情は今もよく覚えている。
でも、それは決して突き放すような言い方ではなく、
「けったいなやっちゃなぁ」と相手を受け入れる微笑みでもあった。


結局、彼は落語家を廃業してしまったが、
今になって思えば、彼はとてもイイ奴だった。
なにより聴き上手なところが彼の長所だった。
ことあるごとにぼくの愚痴の聞き役になってくれた。
そんな彼が廃業して一度だけぼくの自宅を訪ねてくれたことがある。
「兄さん、ぼくね、師匠のところでの修行生活が、
今になってものすごく役立ってるんですよ」。
目をキラキラさせてそう語ってくれた。

師匠は出しゃばったことの嫌いな人だった。
抑制のきいた喋りは「引きの芸」に繋がったし、
ペーソスあふれる芸風を生みだした。
そんな師匠だからこそ、
彼のそういう立ち居振る舞いに
何かを感じ取ったのかもしれない。


二代目春蝶、ノック、たかじん、ざこば
左から二代目春蝶、横山ノック、やしきたかじん、桂ざこば


一方、師匠のもとに入門してすぐの頃のぼくは
「ぼくはぼく、師匠は師匠やから自分のやり方を見つけなあかん」と、
どこか粋がっているようなところがあった。
落研出身でもあったぼくは稽古してもらっている尻から台詞を変えたり、
他の師匠のくすぐり(ギャグ)を勝手に付け加えたり……
ついには師匠にこんなことを言わせてしまった。

「あのな、習うっていう字はな、
羽に白いって書くんやで」


春蝶の家族と共に
先代春蝶一家と共に(後列右がぼく、その前に現・三代目春蝶)



現在、ぼくが主宰する「愚か塾」という落語教室には
10代から70代まで職種も年齢もバラバラな25名が通ってくれている。
発足しておよそ10年。これまでにおよそ70名が入塾したが、
そんな経験から言わせてもらえば、
自らを口下手だという人の方が比較的飲み込みが早い。

饒舌だからといって咄がイイとは限らないし、
「話し上手は聴き上手」というごく当たり前のことを
塾生たちがいつも気づかせてくれている。

愚か塾、大喜利1
発表会での大喜利風景


例えば、営業職にありがちなのが、
ぼくがアドバイスをしている途中にも関わらず、
「ああ、それは〇〇ということですね。はい!分かりました!」と、
自分で強引に結論づけて終わらせてしまうタイプ。
少し違うかなと思いつつもつい言葉を飲み込んでしまうというのは
ぼくの悪い癖である。
そんなとき、他の塾生がぼくの表情を横から盗み見て
可笑しそうにフッと笑っている。

また、こんな方も過去に何名かおられた。
「(他の)〇〇師匠のやり方が面白かったので、
そちらの音源で演ってもよろしいか」という受講生。

まるであの時のぼくではないか。


愚か塾、ぴっける
愚家ぴっける君。彼にとっての初高座だったが、
今春より教育ボランティアとしてザンビアに渡航することになった。


愚か塾、もねこ
愚家花もねこさん。こちらも初高座。なんともいえないイイ味出してます。


「愚か塾」では稽古を終えると
塾生たちと酒を酌み交わすことがある。
「酒のうえだから」という逃げ口上もあるが、
むしろ酒席でこそその人の性分がよく表れる。

他人の話を横からすぐに取ってしまう人。
妙な相槌で相手の話のリズムを狂わせる人。
持論の展開ばかりで他人の話を聞こうとしない人。
知ったかぶりで胴を取ろうとする人。あるいは慇懃無礼……


って、これらとてぼく自身がずっと注意され続けてきたことだが、
過去にはうちの塾にもそういう方が何名かおられた。
こういう体質は咄を演じていてもすぐに表れるもので、
しっかり咄の「間」が取れなかったりする。

単なるお喋りは話し上手ではない。


愚か塾、打ち上げ
発表会のあとの打ち上げ。
稽古場では代々の花團治と先代春蝶が見守ってくれている。


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……教えることは教わることだと痛感する日々。
ぼくには弟子こそいないが、塾生という存在がそれに代わってくれている。
今在籍する塾生はみんな「傾聴」の人々だと感謝している。
それにしても、ぼくの元・弟弟子。
あのまま続けていたらきっとイイ咄家になっていただろうなぁ。
機会あらば是非一献傾けたい。



この原稿は熊本の人材派遣会社・㈱リフティングブレーンの発行する『リフブレ通信』に
連載中のコラム「落語の教え」を加工したものです。


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※春は「落語講座」開講のシーズンです↓↓↓
◆4月から神戸・新長田「ビブレホール」にて桂花團治の落語入門が開講します。詳しくはここをクリックくださいませ。(講座名:落語で検索)
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186.わからんけどわかった~古典芸能はアタマに気持ちイイ!~

花團治の会3、清水1、400
2017年1月16日、天満天神繁昌亭にて(撮影:相原正明)



「わからんけどわかった」


これまであちらこちらに落語を出前させてもらったなかで
もっとも印象に残った一言です。

それは京都のある小学校でのこと。
「これまでに落語を生で聴いたことある人は?」というぼくの問いかけに、
100名近くいるうちのおよそ半分がサッと手を挙げた。
「へぇ、誰の落語?」と尋ねると、
その手が皆、ぼくを指さした。
「そうか!?……毎年ここは5年生と6年生対象だから、
去年の5年生は、今年の6年生なんだ」

そんなことも忘れて高座に上がったぼくがうかつだった。
小学校での落語はたいてい『動物園』『饅頭こわい』を演じているが、
今日は違う演目をせねばならない、と
咄嗟に口をついて出た咄が『牛ほめ』だった。
家の普請(建築)を褒めるという、落語好きにはおなじみの一席。
しかし、現代にはなじみの薄い単語も多い。

「庭が縮緬漆喰、上り框が桜の三間半節無しの通り門。上へあがると畳が備後表のヨリ縁、天井が薩摩杉の鶉杢。それから奥へ通ると南天の床柱、萩の違い棚、黒柿の床框……」

咄嗟とはいえ、何という選択をしてしまったんだろうと
後悔するも、時すでに遅し。
すっかり咄に入っていて、もう後戻りはできなかった。

しかし……
子どもたちはぼくの心配をよそに腹を抱えて笑っていたのです。

オチを言ったあと、彼らに感想を求めてみた。

「どうや?」
「うん、めちゃ面白かった」
「わからんコトバがあったやろ?」
「うん、あったあった。いっぱいあった」
「それでもオモシロかった?」
「うん、わからんけどわかってん」


そうか!多少わからないコトバがあったとしても、
それを前後の内容から想像して補う「想像力」というチカラが、
人間には備わっている。
そんな当たり前のことに改めて気づかされた瞬間でした。

花團治の会3、花團治1
2017年1月16日、天満天神繁昌亭にて(撮影:相原正明)


一人の男の子が発した「わからんけどわかった」は、
ぼくが初めて生の落語に触れた時のことをも思い出させてくれました。
それは、ぼくが高校に入学して落語研究会を見学に訪れたときです。
先輩の一人が『壺算』を演じました。
一席語り終え、「どうやった?」と尋ねられました。
そのとき、ぼくはこう応えました。
「うん、(内容が)よくわかった」。
その先輩は少し怪訝そうな表情をしていましたが、
ぼくにとっては「知的快感」をくすぐられた瞬間でした。

オチのところで「ああ、そうくるか!!!」という、
なんともいえない快感。とても心地良いものでした。
加えてこんなぼくにでもストーリーが理解できたということは、
このうえもない喜びでありました。
それが「よくわかった」というコトバに集約されたのでした。
このときの何ともいえない快感がぼくを落語の道へと誘ったのです。

花團治の会3、花團治2
2017年1月16日、天満天神繁昌亭にて(撮影:相原正明)


ところで、先日『第二回・花團治の会』(@天満天神繁昌亭)での狂言。
『蝶六の会』では、全15回のうち10回以上も狂言を務めてきましたが、
2年前に花團治を襲名して以来、この場で狂言を演るのは初めて。
ぼくが狂言をかじっていることを知らないお客さまも多かったでしょうし、
狂言という芸能に触れるのが初めてという方が大半だったと思います。

狂言はムツカシイと感じている方が世間には多いかもしれません。
でも、その多くはきっと「食わず嫌い」なんだと思います。

花團治の会3、清水3、400
2017年1月16日、天満天神繁昌亭にて(撮影:相原正明)

当日は相方の狂言師・金久寛章氏の好リードや、
感度の良いお客様のおかげもあって、
盛況のうちに終えることができました。
お見送りの際には、お客様から、ぼくの演じた狂言について、
多くのお言葉を頂戴することができました。

「二人のコンビネーション、最高!絶妙の間やった」
「ムツカシイと思ってたけど、全然そんなことなかった」
「狂言って”お笑い”やったんやねぇ」
「落語より狂言の方が演ってて楽しそうでしたね」


ちなみに最も嬉しかったのは一番上のコメント、
複雑な思いにさせられたのは最後のおコトバです。

花團治の会3、清水2、400
2017年1月16日、天満天神繁昌亭にて(撮影:相原正明)


ひょっとして、狂言の台詞のなかで意味不明に思われたコトバも、
いくつかあったかもしれません。
でも、人間の脳は、そんなわからないコトも、
「想像力」で補いつつ、たとえなんとなくであっても、
そこから先に進むことができます。
これはおそらくコンピュータには真似できないことでしょう。
そんなわけで
「わからんけどわかった」

ぼくはこのコトバに深い含蓄を感じてやまないのです。



花團治の会3、咲くやこの花学生集合500
当日は、市立咲くやこの花高校・演劇科の学生たちが多く参加してくださいました。
彼らの活気あふれる大きな笑い声が会場の盛り上がりを大きく後押ししてくださいました。



◆今回のブログに使わせていただいた写真は全て写真家・相原正明先生によるものです。
ここをクリックして「相原正明つれづれフォトブログ」も併せてお楽しみくださいませ。



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◆4月から神戸・新長田「ビブレホール」にて桂花團治の落語入門が開講します。詳しくはここをクリックくださいませ。(講座名:落語で検索)

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◆金久寛章先生による「狂言教室」は現在も募集中です。
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185.テレマンと落語~すべてはカーテンコールのために~

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クラシック音楽の方々との共演は実に楽しい。
いつも刺激をいただいてます。

でも、語り終えたあとの
カーテンコールは実に気恥ずかしい。
お客様へのご挨拶という名目ながら、
なんだか拍手をもらうのが目的みたいで、
どんな顔をして立っていればいいか、いつも悩んでしまう。
「(じゅうぶんに満足させられず)ゴメンナサイ」では、
せっかく拍手を下さるお客様に失礼な気がするし、
「ドンナモンだ!」と胸を張って出ていける自信もない。
ホームグラウンドである繁昌亭では、
お客様のお見送りが定番になっているが、
あれとて本当はその場から
消え去りたい思いのときだって多々ある。

バッハ農民カンタータ3
嬉し恥ずかしカーテンコール



関西室内楽協会の代表・河野正孝先生との出会いは、
共通の知人の紹介でした。
クラシックコンサートにと誘われ、天満教会へ。
終演後はそのまま打ち上げまで。
「こちらが前に話していた蝶六さんです」と紹介され、
それから先はトントン拍子に話が進み、
これまで、バッハ作曲の「コーヒーカンタータ」と「農民カンタータ」の
語り部を演らせていただきました。
いつも舞台では一人なので、何かをみんなで一緒にやるっていうこと自体、
毎度毎度、新鮮でたまりません。

で、今度はテレマンです。


バッハ農民カンタータ3リハーサル
リハーサルではオーケストラにダメ出しの嵐。こうやって作品を仕上げていくのですね。
刺激と感動の連続です。


ところで、恥ずかしながら、これまでぼくは、
テレマン」というのは、
音楽ジャンルの名称ぐらいに思っていました。
「日本テレマン協会」もよく耳にしていましたが、
まさか「テレマン」が偉大な作曲家の名前だということは、
それも「バッハ」と肩を並べる、
いやそれ以上に高名な作曲家だとは、
これまで存じ上げずにおりました。
クラッシックマニアからすれば「モノを知らないにも程がある」と、
お叱りを受けるやもしれません。

落語の世界でいえば、
落語という芸は知っていても
「春團治」を知らないというのに
等しいぐらいのことなんでしょうね。


テレマンの本400


音楽之友社『テレマン』によれば、
(テレマンに関する資料があまり出回っていないことに驚かされました)
当時としては、かなり革新的な芸術家だったみたいです。

テレマンの功績のひとつに、
「ドイツ音楽に、スラブ風の旋律とリズムを取り入れた最初の作曲家」
ということが挙げられるそうですが、まあ、落語でいえば、
「ラップ落語」をするぐらいの勢いだったのかもしれません。

とにかく、門外漢のぼくにとって、この書物の中身は、
チンプンカンプンだらけでしたが、
それまでのステレオタイプな発想にこだわることなく、
俯瞰的、マクロ的、水平思考、グローバル……
いろんな視点をもった芸術家なんだということだけは伝わってきました。

また、レコードなど音源出版などなかった時代です。
出版活動にも熱心に取り組んだそうです。
作曲のみならず、プロデュース能力にも長けた方でした。

まあ、今で言うなら、どなたに当たるのでしょうか?
小室哲哉?秋元康?つんく♂?……

バッハ、モーツァルト、ベートーベン、ハイドンもいいが、
テレマンだってもっともっと評価されるべきだ!!!
という思いに至りました。

ウィキペディア『テレマン』はここをクリック!

そんなわけで、今、我が家のリビングでは
テレマン作曲『ターフェルムジーク』が流れ続けております。
なんとも心地の良いメロディーです。

で、このたびのチャペルコンサートは以下の通りです。

テレマンと落語400

落語は浄瑠璃を題材にした『豊竹屋』。
それと、曲と曲の合間に小咄なぞを語らせていただく予定。
堂々と胸を張ってカーテンコールに挑めるよう、
今、テレマン語りについて、いろいろ思案中です。

詳しくは、「花團治HP」にも掲載しています。
チャペルコンサート情報はこちらをクリック!

バッハ農民カンタータ1
今回も十字架を背に語らせていただきます。

コーヒーカンタータ、打ち上げ
関西室内楽協会のみなさんと。


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184.耳で覚える~落語のお稽古~

花團治宣材400
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あるとき、ぼくは先輩に稽古をつけてもらっていてこんなことを言われた。

「お前さんは目で覚えようとしてるやろ。
せやから台詞が身体に入れへんねん」。


当時のぼくの落語の覚え方は音源をもとに台詞をノートに書き写し、
ひたすらそれを見ながらブツブツ口にするという方やり方だった。
このときに言われたのが「耳で覚えんかい!」という言葉。
今でも鮮明に覚えている。


例えば20分の落語を師匠が弟子の前で同じように三回繰り返す。
それだけで咄を覚えてしまうというのが「三べん稽古」という方法。
かつて落語家の世界ではこれがごく当たり前だった。
しかし今、それに対応できる咄家はむしろ少数派だろう。
威張っていうことではないが、ぼくにはとうてい無理である。
落語家になって初めて稽古をつけてもらったときも
うちの師匠(先代桂春蝶)は「お前にはどうやら無理そうやな」と
1分ぐらいずつに丁寧に区切って繰り返してくれた。
それでもぼくは悪戦苦闘だった。当時の稽古は録音など許されなかった。
困り果てたぼくは市販されている速記本に助けを求め、
台詞の忘れた部分をこっそり補った。でも師匠は全てお見通し。

「そうやってズルいことをするねやったら、
わしは今後一切お前には稽古をつけん!」



春蝶の家族と共に
右後ろの若者がぼく、その前の少年が現・三代目春蝶(大助くん)


ところで、現在ぼくは大阪北浜にある「フレイムハウス」という喫茶店で
月に一度、落語講座を開いている。
先日は常連さんの紹介で小学2年生の女の子が母親と共にやってきた。

ちなみにここでは主にビジネスマンが対象だ。
小学校2年生がこれについてこられるかが心配だ、
とはいえ小学生向きに変えるというのは他の受講生の手前、少し抵抗を感じていた。
内心そんなことを思いつつ、まずはいつものように口移しによるお稽古。
大道芸や狂言、落語の立て弁などが題材だ。

「漸うと上がりました私が初席一番叟でござります。
お次が二番叟、三番叟に四番叟、五番叟にお住持に旗に天蓋銅鑼に妙鉢影灯籠に白張とこない申しますとこら葬礼の方でござりますが……」。
これは「東の旅」という咄の発端部分。
ここからおよそ3分のくだりを何度か繰り返す。

◆「東の旅」に関するぼくの私見はこちらをクリック!

◆「狂言台詞」の効用についてはこちらをクリック!


フレイムハウス外景1の400

フレイムハウス外景2の400
大阪北浜のオフィスビルのなかで、まるでタイムスリップしたようなフレイムハウス。



さて、くだんの小学生はとみると、最前列でしっかりぼくについてきてくれていた。
しかも途中からは台本を閉じてぼくの目と口元と声だけに集中。
大人でさえ難しい単語の連続にもかかわらず、
5回も繰り返した頃には彼女はすっかり台詞を覚えてしまっていた。
ぼくもこれまで小学生のワークショップは何度も経験しているが
これほど飲み込みの早い子は初めてだった。
大人顔負けというよりそれ以上(少なくともぼくよりは)はるかに優秀である。

講座が終わって、彼女の母親にいろいろ話を聞いてみた。
家ではよく母親が彼女に読み聞かせをしているということだった。


また、自宅にテレビは置いていない という。
本人もまた「ラジオは聞くけど、テレビはうるさくてかなわない」らしい。
落語もツボツボでよく笑ってくれたが、
彼女の集中力や想像力の源はきっとこんな環境からだろう。

小玉親子400
「落語講座」に参加してくれた小学生とその母親と共に。


このとき「耳で覚えろ」という先輩の教えがぼくの脳裏に蘇ってきた。
俳優の誰だか忘れたが、
当時まだテレビがなかった頃にラジオから流れてきた落語を聴いて、
次の日に小学校の教室でそれを演じたという逸話がある。
またその頃、講談の席ではライバルがこっそり客席に潜り込んではネタを盗み、
次の日には全く同じものを別の席で演じるというようなことも多々あったらしい。
もちろん録音機器など珍しい時代である。
「昔の人はスゴイなぁ」と済ませてしまえばそれまで。

しかし、これぐらいの記憶力はきっと驚くことではない。
オギャーと生まれて3歳ともなればちょっとした会話は当たり前。
ぼくにもあったこの学習能力は一体どこへ消えてしまったのか。
このたびは小学生の彼女がぼくにいろんなことを気づかせてくれた。
とりあえずつけっぱなしのテレビは消しておこう。


◆次回のフレイムハウスは2月16日(木)の開講!詳しくはこちらをクリック!!

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協会60周年チラシ500
花團治は4月9日(日)と、千秋楽30日(日)の両日に出演します。

183.落語はビジネスに活きる!?~愚か塾の場合~

花團治宣材400
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先日、ぼくの稽古場に卒業論文の取材をさせてほしいと
一人の女子学生がやってきた。
現在、ぼくは「愚か塾」という落語教室を主宰しているのだが、
その稽古人さんたちに伺いたいことがあるという。

「ブログで拝見したところ、お稽古人さんの多くが社会人のようで、皆さんはどういう目的で落語に取り組んでおられるのか?また、どういうふうに仕事に活かしておられるのかを伺いたくて」とのこと。
そこで稽古終わりに、数人の人にインタビューに協力してもらい、
ぼくは少し離れたところからしっかり聞き耳を立てていた。

愚か塾稽古場2400

「部下に対する接し方が変わったかなぁと思います。頭ごなしに叱りつけるんやなしに、少しは相手のいうことを聞けるようになった、と自分ではそう思っています。しいて言うなら、ぼくのロールモデルは甚兵衛さんですね」40代男性

……(花團治注)甚兵衛さんとは、落語に登場する町内の御隠居。阿呆に対して、「しゃあないやっちゃ」と呆れつつも優しく温かく見守る存在だ。


「私もそうですよ。普段、私は大学で教えているんですが、これまでヘマをした学生に対して『何をやってるんだ』と叱るばかりだったと反省してます。まず相手の言い分を聞いてやる。受容が大事です。甚兵衛さんのようにね。それに一方的では教育にならない。教育は対話です。それは落語から学んだことです」60代男性

……(花團治注)塾ではぼく自身教わることも多い。「落語と教育」の親和性には驚かされるばかりだ。この方がぼくを落語家としての教育の現場に導いてくれた。


「あのう、それやったら、ぼくのロールモデルは阿呆の喜六ですわ。相手に隙を見せるちゅうか、相手を優位に立てるちゅうか、喜六はホンマはめちゃ賢いちゃうかなって思うときがある。落語には人に愛される術が詰まっています」20代男性

……(花團治注)ある落語家の先輩はご贔屓が多いことで知られている。その師匠がぼくにこうおっしゃった。「ワシわな、相手を一目見たら己が喋りたい人か、あるいはワシの楽屋話を聞きたい人なのかがすぐにわかるんや」。何度か宴席にも同席したが、本当は博識なのに阿呆のふりができる見事な道化ぶりだった。


愚か塾、大喜利
「愚か塾」の落語発表会では大喜利が定番。団体プレーも愉しんでいただきます。


「わたしは、家でも職場でもなかなか声を出す機会がないので、ここで発散させてもらってます」50代女性

……(花團治注)ただ大きな声を出すというのではなくて「肚で声を支える」ということ。うちの稽古場では「東の旅」という咄の発端を参加者全員で毎回唱和している。

愚か塾稽古場2300

「新しい自分が発見できそう。最初はみんな同じ演目をするんですが、台詞が全く同じにもかかわらず、みんなそれぞれの個性が現れるんです。個性って、出すもんじゃなくて、にじみ出るもんなんですね」40代女性

……(花團治注)ぼくはある落語家の先輩に稽古をつけてもらっていてずいぶん叱られたことがある。「お前はわしを取る気がないやろ。わしに稽古を頼んだんやさかい、わしをいっぺん身体ん中へ入れるつもりで稽古せえ。それでもどうしても自分が出てくるやろ。それがお前の味や……第一、稽古してる尻から勝手にアレンジするやなんて、稽古つけてくれる人に対して失礼極まりないで」。

「わたしはボケ防止にやってますねん。まぁ、落語やってる間はボケまへんやろ。それに、この年になって舞台に立てるやなんて、人生は何があるか分かりませんわ」60代女性

……(花團治注)入門して間もない頃、ぼくは師匠に言われました。「お前はまだこの世界に入って間なしやけど人前で20分も喋らせてもらえるんやぞ。芝居の世界やったらちょっと考えられへんわな」。

「うちの家は代々お寺ですので、将来的には法話に生かそうかと思ってます」30代男性

……(花團治注)その昔、仏の教えを説いてまわる説教師の方々は、法話の際にまず滑稽な話を聞かせて民衆を惹きつけたといいます。このなれの果てが落語家だという説もある。



「皆さん、なかなかイイこと言ってくれるなぁ」と思いつつ、
隣の部屋からしっかり聞かせていただきました。
なかには「全くぼくからの受け売りちゃうのん!」と
思わず突っ込みたくなるのもありましたが…それでいいんです。

だって、ぼくだって9割受け売りですから。
何か盗むものあらば幸いです。


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ということで始めた「落語塾」。
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駆け出しの漫才師で「芸の肥やしにしたい」とか、
そういう目的の方はご遠慮いただいております。
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182.天下一の軽口男~何を笑うか~

花團治、扇子を顔に400
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最近になってようやく
『天下一の軽口男』(木下昌輝著)という時代小説を読んだ。
大坂落語の祖・米沢彦八の生涯を綴ったものだが、
これによると彦八は鹿野武左衛門という男を頼って
大坂から江戸の町へ繰り出している。
武左衛門は江戸落語の祖として知られているが、
元はといえば大坂の生まれ。これは文献にも残っている。

しかし、彦八が大坂から江戸に出たという記録は見当たらない。
けれども彦八と武左衛門は同時代を生きていたことは史実にも残っているし、
二人が交流したというのは全く在り得ない話ではない。
わずかに残る資料からどんどん膨らませていくのが時代小説の愉しさであろう。

彦八、天下一の軽口男

さて、辻咄(大道芸としての落語)を学びに江戸に出た彦八だったが、
すでに江戸では大坂とは違い、
辻咄からお座敷芸としての落語が主流になっていた。
日々投げ銭でその日暮らしをせずとも、
有力商人に認められれば悠々自適が約束された。

そこで彦八が見たものはそんな客にひざまずく芸人の姿であった。
あるお大尽の一人が彦八にこう言う。

「所詮、辻咄など闘犬や軍鶏と変わらぬ。
私たち大尽の退屈しのぎの余興よ。それを芸がどうのこうのと、
最近つけ上がっている。私たちがつまらんと言えば、
たちまち座敷から追放されるというのに
……今日は裸踊りでもさせるか。
……お前さんも座敷を目指しているのだろう。
せいぜい私たちが笑える芸を練っておきなさい。
最近面白かったのは、盲目の男がけつまづく仕方だ。覚えておけ」。


彦八が笑いを志し、
極めようとしたのは一人の少女への思いからだった。
彼女を笑いで苦しみから救ってやりたいと思っていた。
この後、彦八は江戸を後にした。

作品の詳細は『幻冬舎』のサイトにあります。こちらをクリック!

米沢彦八、境内の図
米沢彦八は生國魂神社の境内によしず張りの小屋を張り、そこで辻咄を演じた。


彦八まつり神社入り口
今も毎年9月の第一土曜・日曜に「彦八まつり」と銘打って落語家ファン感謝デーが開かれる。


生前、わが師匠(故・二代目春蝶)は、
ぼくによくこんなことをおっしゃった。
「あのな、何でもええから
笑わしたらええと言うもんやないんやで」。

師匠が繰り出す言動や笑いは常にどこか優しさを含んでいた。
それに、笑いというものはときに誰かを攻撃するものだ。
そんなときにも決まって師匠は弱者の立場を貫いた。
少なくとも弱者を嘲るような笑いはひとつとしてなかった。
『天下一の軽口男』で、
お大尽の言葉に憤る彦八はまるでわが師匠そのものである。

春蝶、立ち切れ、縮小版


思えば、師匠が我々弟子を叱るときには、
本当に怖いときとどこか笑みをためながらのときと二通りあった。
後者は弟子の失敗をどこか面白がっているふうでもあり、
「しゃあないやっちゃなぁ」という呆れが含まれていた。
いずれにせよ、師匠から突き放されたという思いは
一度だって感じたことがない。

ぼくは師匠のそんな眼差しに魅了されたのだ。

師匠の言動や眼差しは
いつだって愚かなぼくを救ってくれた。



また、ぼくがある週刊誌の対談コーナーに出たときのこと。
今でいうゲスなことをどんどん喋ってほしいという
先方の要望に応えようとしたぼくに雷が落ちた。
目先のわずかな現金欲しさに受けた仕事だったが、
このときばかりはしっかりとお灸を据えられた。

「あのな、若いうちは何でもやったらええと思うけどな、
ちいとは仕事を選ばんかい」。

この本に出会い、まず師匠のことを思い出した。
落語家としての矜持を正された思いです。

彦八、木下昌輝
「ああ、この人に会いたいなぁ」と思えば叶うもので、
ある落語会の打ち上げでたまたま隣の席におられたのが、
作者の木下昌輝先生でした。ばっちりツーショットを頂きました。


本文は、熊本のリフティングブレーン社が発行する社報誌
『リフブレ通信』の連載記事をもとに加工したものです。





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おかげ様で塾生の数も25名を越えました。現在、空きが出次第のご案内となっておりますが、
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181.不況になればお笑いが流行る?~落語と狂言の親密な関係~

作家の瀬戸内寂聴さんは、
「(法話の際に)いきなり仏教のむつかしい話から始めても
集まってくれる人は聞く耳を持たない。
だから笑い話から始める」
とおっしゃってますが、
大昔からそういう風習はあったようです。
このような法話を落語のルーツとする説もあります。

それに、大真面目な真剣な話を聞くときには
グッと息を詰めていなければなりませんが、
そのためにもまず大きく息を吸う必要があります。
大笑いするということは
すなわち深呼吸するも同じこと。
ムツカシイ話をちゃんと聴くために、
まずは大笑いするということは、
とても理にかなったことです。


ところで、
「不況になればお笑いが流行る」
ということをよく耳にします。
テレビの製作費が縮小されるため、
コストの安いお笑い芸人を大量に使うようになるからだというのが、
その理由だそうですが、
はたしてそれだけでしょうか?

花團治、いらっしゃい、ブログ用


日本の「二大笑い芸能」である落語や狂言とて、
それらが生まれた時代は決して豊かとは言えなかったようです。

「落語」は江戸中期の発祥と言われていますが、
大阪に初めて常打ちの寄席小屋ができ、
「落語」が今のような
身振り手振りを交えた形になったのは江戸末期。
幕府が終焉を迎えて
世の中の価値観が大きく変わろうとするときに
「落語」という笑いの芸能が完成したのです。

一方、幕府の誕生と共に花開いたのが「狂言」という芸能でした。
平安から室町時代にかけて発祥したという記録があります。

つまり、これら日本の二大「笑い芸能」落語と狂言は、
それぞれ、世の中の大きな変動期に生まれたということ。

言い換えれば、
混沌とした時代が
笑いの芸能を求めたのです。



大須狂言、金久&花團治、やい聞くか!

昨今もなんだか混沌期を迎えそうな気配。
これから先、「笑ってる場合か!」と
目くじらを立てたくなる場面も出てこようかと思いますが、
そんなときこそ「笑い」忘れず、
まずは「笑い」で頭に酸素を送りたいものです。

さて、このたびは
日本の「二大笑い芸能」の共演。
「笑う」ということ、
「息を吐く」ということ、
「混沌期に立ち向かうための身体」などなどを、
笑いのうちにお届けしたいと思っています。

出演するのは、
「上方落語協会・狂言同好会」のメンバー、
森乃石松、月亭天使、ぼくの3名、
それに狂言師の金久寛章を加えた4名。

笑えて、ためになること、保証付き!


これから先、不定期ではありますが「落語と狂言の会」を
継続的に開催していくことにしました。
その旗揚げを盛り上げに是非ともお越しくださいまし。

やるまいぞ寄席チラシ
※『やるまいぞ寄席』の詳細はこちらをクリック!


その他、「狂言」に関する過去ブログは以下の通りです。
こちらも是非ご笑読ください。

◆狂言エクササイズ

◆落語と狂言はさも似たり

◆「狂言」と「落語」でぼくは変われた

◆病いは言葉から

◆『花團治公式サイト』


狂言 寝音曲 二人絡み
撮影:相原正明

狂言 寝音曲 舞う金久
撮影:相原正明

狂言 寝音曲 袴
撮影:相原正明

◆写真家・相原正明つれづれフォトブログ













180.親子チンドン~うちの居場所、見つけてん~

「チンドンって、火消しに通じるのよ」


襲名宣伝、林幸治郎
2015年、花團治襲名披露公演の街頭宣伝(撮影:相原正明)


ああっ、また林幸治郎さんが意味不明なことを言い始めた。
声を張るでなく、淡々と、しかもそれまでの脈絡と関係なく。
皆が傍でワァワァ騒いでいる間、
林さんだけはずっと思考モードのままだったのだ。
だから、林さんとの会話はいつも油断がならない。

その日は、近日にせまった「芸術鑑賞会」の打ち合わせ。
ぼくの出講する夜間高校から依頼された催しだ。
今回のテーマは「プロの流儀」。

桃谷、ポスター

「格付け」や「一流/二流」など、人の才能に優劣を付ける番組が流行っています。また、SNSでは「幸せに見られたい(リア充)」という欲望から、普段の生活を「盛った」画像の投稿がよく見受けられます。優劣を競い、「よく見せる」ようにするのは芸術・芸能の分野でもありますが、その中で、「高級にならない」ことに注力する芸能があります。それが、今回ご紹介するチンドン屋のパフォーマンスです。
 チンドン屋は、演奏や舞踊に対して高い技術を持ちつつも、あえて音程を外したり、失敗したり、ふらふらと歩いたりすることで人を惹き付け、また、街に溶けこみます。それは、劇場やホールではなく「街」を舞台にする芸能ならではのプロの技。日本を代表するチンドン集団「東西屋」の舞台を観て、また彼らならではのプロ意識やエピソードを聞くことで、「優劣」だけではない芸能の魅力・奥深さをぜひ感じてください。(企画制作:ende藤井百々)



林さんは続けた。

「大名行列で毛槍をふる奴さんの運足、
火消しの纏をふる運足、太鼓を担いでの運足、
はたまた歌舞伎の六法や吉原大夫の外八文字、
そして阿波踊りの歩きも同様。
ただ普通に歩くのではなくて、
歩くときの重心移動がミソなんですよ」

なるほど、重心移動を工夫することで、
あの重たいチンドン太鼓も難なく運べるわけだ。
林さんは、演奏ばかりでなく、
踊りの稽古にも余念がないと聞いている。
どの世界もプロというものは様(さま)が決まっている。

かくして当日は、学生たちを舞台に上げて、
それを実践してみせた。
林さんの説明は高度過ぎて
皆はついていくのに必死だったが、その様は
まさに「プロの流儀」だった。

桃谷、ワークショップ

桃谷、歩き方


生徒を舞台に上げての芸術鑑賞会。みんなノリノリで参加してくれた。


以前、ぼくが襲名した際のお練りのときも、
林さんはその一行を先導してくれた。
このときの足さばき(=運足)もまさに奴さんだった。

船乗り込み、林幸治郎の足さばき
2015年4月・襲名記念お練り(撮影:相原正明)


ところで、今回の「芸術鑑賞会」にはもうひとつ、
印象的なシーンがあった。
学生たちのなかには、これから先の人生に
不安を感じている者も多かろう。
そこで、林さんのお嬢さん・風見花ちゃんに
半生を語ってもらうことにした。
彼女なら10代の学生たちとも年齢が近く、
飾らない言葉で学生たちにメッセージを届けることができるはずと、
見込んでのことだった。

「うちの居場所がなかったんよ」


大須、林幸治郎、風見花
2014年、「大須大道芸まつり」の楽屋にて親子三代。
手前に孫と遊ぶ林幸治郎さん、奥に幸治郎さんの娘・風見花さん。



風見花さんはステージで中学時代のことを振り返り始めた。

「朝帰りを繰り返していて……
学校では先生と全然話が通じなくて。
気がついたら(別れて暮らしていた)
お父さんの事務所に来てたの」。

「色んな道があると思うの。
うちは音楽や踊りが好きやったから、
そればかり一生懸命やってたら、
いつしか道が開けてきたの。
自暴自棄になったこともあったけど、
あきらめずに生きてたら、
絶対ええことあるもん」


彼女と父親である林幸治郎さんのことを
これまでずっと傍らで見守り続けてきたジャージ川口さんは、
その日の打ち上げで
「風見花ちゃんがあれほど舞台で喋ったのは初めて見た」と言った。

ぼくも彼女の話に、思わず涙しそうになった。
彼女のストレートなメッセージは学生の心に強く響いたと思う。
若者は身を乗り出し、年配の男性は何度も涙を拭っていた。
おおいに盛り上がった鑑賞会だったが、
そこにいる皆がもっとも聴き入ったのがこの瞬間だった。
彼女は見事に期待に応えてくれたのだ。

風見花さんも
「なんだかね、お客さんが喋らせてくれたんよ。
……最初にうちらが入場してきたときと、
最後に演奏しながら帰るときのお客さんの反応が全然違っていて、
それがすごく嬉しかった」
と感想を述べた。

桃谷芸術鑑賞、風見花
拍手喝さいのなか、舞台をあとにする風見花さん


桃谷、打ち上げ
地域プロデューサーの渡邊隆氏(ピューパ代表)や、コリアNGOセンター事務局長の金光敏氏も駆けつけてくれた。

桃谷、金光敏
ちんどん通信社・林幸治郎氏と、コリアNGOセンター事務局長・金光敏氏の文化対談は周囲も興味津々で聴き入った。
林氏の横には、娘の風見花さん。


桃谷、楽屋
当日の楽屋風景



また、今回の舞台で、
ぼくは林さんの新たな一面を見ることができた。
それは風見花さんのトークの際。
彼女が言葉に詰まると、俄然饒舌になって、
なんとかフォローをしようとする。
それはまさしく父親としての姿だった。
マイペースで訥々と語る林さんとはかけ離れていて、
いつもの林さんではなかった。

林さんとは、かれこれ30年近いお付き合いになるが、
まだまだ氏には未知の部分が大きい。
まったく人を飽きさせないお方だ。
そんな父に寄り添う風見花さんがいじらしい。

微笑ましくもあり、今回もいろんな意味で充実した舞台。
これからもずっと『ちんどん通信社』とご一緒したい。

ちんどん国立
2016年9月27日、東京・国立演芸場にて(撮影:相原正明)

これまでの『ちんどん通信社』に関するブログ

◆最強のモタレ芸・チンドン

◆チンドン・飴ちゃん・寄席囃子

◆チンドンと、阿呆の喜六


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花團治の会、第二回チラシ600
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179.落語と狂言はさも似たり~落語家による落語と狂言の会・やるまいぞ寄席~


大須狂言、金久&花團治


「声を出す」のではなくて「息を吐く」。

謡曲のお稽古で学んだことです。
「肚の底で声を支える」ということは、
頭では分かっているつもりでも、
我流でなんとかなるようなものではありません。
ぼくにとって、謡曲のお稽古は身体のメンテナンスのようなもので、
お稽古のあとは、声の通りもいくぶん良くなったような気がします。

謡曲も狂言も、身体にいい。

謡の稽古
謡曲は水田雄晤先生(シテ方観世流能楽師準職分)にお稽古をつけて頂いてます。
鴫野「蕎麦処・仙酔庵」にて。



時折、お客様から「迫力があったなぁ」とか、
「やっぱり生の臨場感は違うなぁ」とか、
そういうお言葉を頂戴することがあります。
(他に褒め様がないので、そうおっしゃったのかも
しれませんが)
しかし、声の大きさと芸の良し悪しは
必ずしも一致するもんじゃない、ってことは、
芸人自身が一番よくわかってます。



うちの師匠(故・二代目春蝶)から、
こんなことをよく言われました。
「そんなに気張って喋らんでもええがな」


また、別のある師匠からは、こんなご指摘を受けました。
「お前は肝心なところで”押す”癖がある。
そこは押さんと、逆に引いてみぃ」とか、
「若手やないねんから、
大きい声を出せば
ええっちゅうもんちゃうねやで」とか、
「肩に力が入ってるで」とか、


ぼくが理想とするのは我が師匠のような洒脱で飄々とした芸。
なのに、頑張れば頑張るほど、そこから遠ざかる自分。
一向に治らない生来のキンキン声。
そんなこんながコンプレックスとなり、通い始めたのが、
とある狂言のお稽古場でした。

今はかつてのお稽古場で一緒だった金久寛章氏のもとで
狂言のお稽古を続けています。

金久、八聖亭、雪山稽古

第2・第4金曜日の夜は「八聖亭」に勤め帰りのOLを中心に毎回10名ほどが集っています。


金久、八聖亭、石松

金久寛章氏の指導を食い入るように見つめる森乃石松くん。彼の存在は周囲をほんわかさせます。なんだかとってもフラのある奴です。



狂言教室なのになぜかスクワットが必須メニュー。
声がスルリと出るから不思議です。
いわばこれは「体幹トレーニング」のようなもの。
声と姿勢の関係は密接です。
落語家の後輩の森乃石松くんや月亭天使さんも稽古に通ってますが、
先日、天使さんの師匠・月亭文都師からこう言われました。

「うちの天使の声がね、
最近、よく出るようになったんですよ。
これまで、台詞がブツ切れになっていたところも
ちゃんと息が続くようになった」


師匠は本人の前ではなかなか面と向かって褒めないもの。
間接的に褒めるのが常ですなぁ。

青山狂言、えいえいやっとな

金久先生にはぼくの出講する大阪青山大学にもお越し頂きました。


◆JR福島駅徒歩「八聖亭」狂言教室についてのブログはこちらから


ところで、「落語と狂言」って、
つくづく似た者同士だなぁと思います。

まず、「落語」「狂言」ともに
口語体(=話し言葉)だという点。

ちなみに、「能」や「講談」は、
ともに文語体(=書き言葉)が基本。
講談は、「読む」っていいますよね。
講談は「読む」、浪曲は「語る」、落語は「話す」です。

それに、「落語」も「狂言」も
登場人物の台詞で物語が進行していきます。

「能」や「講談」は、原則として
演者による状況説明で話が進んでいきます。

もうひとつ、大きな共通点は、
登場人物の多くがフツーの人だということ。

落語は、喜六、清八、甚兵衛さん……
狂言は、太郎冠者、次郎冠者、主人……
「能」や「講談」は歴史上の有名人が主です。

こうしてみると、「落語と講談の関係」は、
「狂言と能の関係」にさも似たり
ってところでしょうか。



さて、そんなわけで、
せっかくお稽古を続けているのだもの、
ということで、このたび
日本の二大笑い芸能である「落語」と「狂言」の会を、
この12月から始めることにしました。
万障繰り合わせの上、是非ご来場くださいませ。


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◆『やるまいぞ寄席』の詳細はこちらから
教え上手な金久先生を狂言指導に迎えての、上方落語「狂言同好会」の発表会。
いずれ大きな会場で定例会を目論んでいますが、
まずは、その第一歩をご覧くださいませ。
チラシデザインは、月亭天使です。




花團治の会、第二回チラシ600

◆『第二回・花團治の会』の詳細はこちらから
こちらも金久・花團治コンビで狂言を演じます。


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178.バッハ『農民カンタータ』~せまじきものは宮仕え~

「バッハはんから依頼があってな、
なんでもこのたび新しいご領主さまを迎えることになってな、
そのご領主さまの歓迎パーティーで演奏する曲らしい」
「つまり、お追従、おべんちゃらの詩を書いてほしいということでっか?」
「平たくいえばそういうこっちゃ」

こんな経緯から生まれたのが、バッハの『農民カンタータ』です。
この作品のなかで、農民が税収係をボロカスにけなします。
実は、作詞担当のピガンダー本人の生業が税金徴収係でした。

では、何故、ピガンダーは詩のなかで、
自分の職業をわざわざ自虐的に描きはったんやろ?

今回、ぼくがバッハの演奏会にストーリテラーとして参加させてもらい、
ずっと賦に落ちずに悩んでいたのがまずこの点でした。

バッハ農民カンタータ1

バッハ農民カンタータ5チラシ

去年の『コーヒーカンタータ』に続いて、今年は『農民カンタータ」の語り部に挑戦させて頂きました。
花團治はストーリーテラーとして、楽章のあいまあいまに曲の意味や背景を説明する役割…のはずが、
ついつい興に乗ってしまい脱線の連続。
宴の場面では日本の宴会がそうであるように祝福ソングから下卑た歌まで。
写真は花團治がそんなくだりを解説しているところ。2016年10月16日、天満教会にて。


『農民カンタータ』が発表されたのが1742年。
その頃のドイツは、領主制。
農民にとって上からの命令は絶対です。
貴族の馬車が町中を我がもの顔に走り回り、
歩行者は四六時中、命の危険にさらされていましたが、
それがもう当たり前でした。

その頃、ライプティッヒ郊外にあるクライン・チョハー村では、
新しいご領主さまを迎えるというので、その準備に大わらわ。
宴会場には、酒、肴がところ狭しと並べられます。
この頃のドイツでは、理性を失うほどベロベロに酔っぱらうことで
初めて仲間入りを許されるという、そんな風潮がありました。

酒もすすんで、宴は大盛り上がり。
おおっぴらに、政治批判をする者が出てきます。


「それにしても、あの税収係だけは、ホンマにイヤな奴やで。
金の亡者とはあいつのこっちゃ。
何やいうたら税、税、税。あいつは喘息持ちか。
……毛虫は葉っぱ食うて茎を残すちゅうけど、
わしらとて、せめて茎ぐらいは残してもらわんと、ずんべらぼんじゃ。
毛虫以下ちゅうのはあいつのこっちゃ」
「そうそう、それもすべて、前の領主の奴がいかんかったせいや。
そこへいくと、このたびのご領主さまは尊いお方じゃ」

前のご領主さまや、隣村のご領主さまをボロクソに言う一方で、
今度新しく来られるご領主さまに対しては、ずいぶん”べた褒め”。
『農民カンタータ』が”お追従”だといわれる所以です。

バッハ農民カンタータ2


一方、その頃の日本は徳川8代将軍吉宗公の時代。
目安箱が設置されたのもちょうどこの頃でした。
一部の特権階級が甘い汁を吸っていた時代だからこそ、
ドラマにもなり得たのでしょう。

ちなみに、『農民カンタータ』の発表が1742年ですが、
その四年後の1746年には竹田出雲『菅原伝授手習鑑』が発表されています。

松王丸は藤原時平に仕える身なれども、元は菅原道真の家来。
今だ道真への忠義の心、・恩義を抱き続けています。
そんな松王丸に、道真の息子・秀才の首を取って来いという時平からの命令。
「お前なら道真の息子の顔をよく覚えているであろう」と時平。
「松応丸が自分に対して本当に忠義の気持ちを持っているのか」
それを確かめようという時平の狙いもありました。
松王丸はおおいに悩みます。

その頃、秀才は源蔵の営む寺子屋に匿われていました。
源蔵もまた道真に忠義を抱く一人。
源蔵は庄屋に呼び出され、秀才の首を差し出すように命令されます。
「なんとかして秀才の首を出さずに済む方法はないものか」
源蔵もまた、誰か身代わりの首はないものかと考えます。
しかし、寺子屋に通う生徒達はみんな山育ち。
秀才とは違って、どの子も色が黒くてあか抜けず、
とても身代わりにできそうにない。
そんなとき、たまたま新しく寺子屋に預けられた一人の子ども。
「秀才に勝るとも劣らぬ凛々しき顔。この子なら、きっと身代わりにできるであろう」
あろうことか、源蔵はこの子どもの首を打ち落として、
秀才の首と偽り、松王丸に差し出したのです。

落とした首を検分しに来た松王丸は言います。
「あっぱれ。確かにこれは秀才の首に違いない」

……実は、この首こそが松王丸の息子・小太郎のもの。
つまり、松王丸は我が子が身代わりになるであろうことを見越して、
わざと寺子屋に入門させたのでした。


源蔵が身代わりの首を差し出そうという場面で漏らしたひとことが、
「せまじきものは宮仕え」
主君に仕えるなんて、やるこっちゃないわなぁ。

※せまじき(上方ことば)…やるべきものではない。


これって、税収係のピガンダーと、なんとなく符合しませんか?

バッハ農民カンタータ3リハーサル

バッハ農民カンタータ4リハーサル

門外漢でクラシック音痴なぼくのような輩を、
大阪チェンバーオーケストラの皆さんはとても温かく迎え入れてくださいました。



忠義の有無はともかく、
税収係だったピガンダーも、
「せまじきものは宮仕え」と声を上げたかったのかも。



「わいかて、何も好き好んで取り立て屋をやってるわけやない。
けど、上からの命令やし、しょうがないねん。
わいもな、みんなに嫌われたくない。
けどな、わいは今度の領主さまに期待をかけてんねや。
前の領主は最低やったけど、
今の領主よりは少しぐらいマシになると思うねん。
……ほいでな、今度ご領主さまの歓迎パーティーがあるやろ。
そのときに披露する曲をバッハ様が作曲するんやって。
作詞?それはもちろん、座付き作家であるわいの担当。
ほいでな、そこに税収係がどんだけ大変かってこともさ、
ちょっと織り込んでみようと思うねん。
……え?なんやて?
今回の依頼はご領主さまを称える曲?そんなことぐらいわかってるわいな。
そやから、表向きはそうする。
で、最後は歓迎ムードで明るく高らかな賛美の文句で決まりや。まかしといて。
……ほんに、人に仕える身というものは辛いもんや。するもんやないで」


バッハというと、なんだか重厚な印象をもっていましたが、
『コーヒーカンタータ』『農民カンタータ』の語り部以来、
ぼくのなかのイメージがガラリ変わりました。
ピガンダーのこの心情なんか、まさに落語そのものです。

(とはいえ、ぼくの全くの独断的解釈に過ぎませんが)


さて、12月には、『コーヒーカンタータ』でのコラボを予定しています。
(詳細が分かり次第、花團治HPでもご案内申し上げます)

◆花團治公式サイトはこちらから

◆関西室内楽協会(大阪チェンバーオーケストラ)HPはこちらから


花團治の会、第二回チラシ600



177. 15年ぶりの再開~ぼくが狂言を学んだ理由~

「花團治公式サイト」はこちらをクリック!


前回、この国立演芸場の高座に上がらせていただいたのは、
昨年8月の「花團治襲名」のときでした。

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国立演芸場での襲名披露口上(左から桂春雨、桂春之輔、ぼく、笑福亭鶴瓶、柳亭市馬・落語協会会長)
撮影:相原正明


ゲストとして口上にも並んで下さった笑福亭鶴瓶師匠は、
舞台から客席に向かってこのようにおっしゃいました。

「花團治は来年も
ここで演ることに決まりましたから。
みなさん、絶対、来たってくださいよ」。


そのときの万雷の拍手は忘れられません。
楽屋に戻った鶴瓶師匠は、ぼくににやりと笑って一言。

「あない(あのように)言うた以上は、
お前、来年もここでせなあかんで」。


鶴瓶師匠はそうやって半ば強引に道をつけてくださったのです。
……それが今日のこの高座になりました。

国立、楽屋、鶴瓶師匠
国立演芸場の楽屋にて 撮影:相原正明


鶴瓶師匠とツーショット



この記念すべき舞台において、
花團治の最初の一席は『豊竹屋』です。
これは、林家染丸師匠にお稽古をつけていただいたのですが、
身につけるまでに15年間もの中断がありました。
中断の理由は、ぼくが浄瑠璃の音を全く取れず、
加えて、生来の甲高いキンキン声が咄と合わなかったからでした。
このままでは一生この咄はできないと思ったぼくは、
無我夢中で「狂言」のお稽古に通いました。

狂言 寝音曲 二人絡み
金久寛章との狂言 撮影:相原正明


それから15年、ようやく声のコンプレックスから解放された時、
染丸師匠に改めて稽古の再開をお願いしたのです。
今では、演じる回数が五本の指に入るほど、
ぼくにとって相性のいい咄となっています。

染丸師匠宅
染丸師匠の御自宅にて(襲名挨拶まわり) 撮影:相原正明


トリの一席は、亡き師匠(二代目桂春蝶)が晩年
特によく高座にかけていた「立ちきれ」です。
師匠はこの咄を演じる度に「あそこはこうしたら良かったなぁ」など、
帰りのタクシーの中で反芻するのが常でした。

それは独り言でもあり、
横で耳をそばだてて聞いているぼくへの稽古でもありました。

さまざまな「立ちきれ」がありますが、
ぼくは、ペーソスがふんだんに詰まった、
先代春蝶のものが今でも一番好きです。

どこか憎めない若旦那の魅力は師匠そのものでした。
そんな特別の思いのこもった作品を、
今回はぼくなりの解釈を加えて演らせていただきます。
花團治の東京での大一番、どうかお愉しみいただけますように。

三代目 桂 花團治

この原稿は、9月27日(火)、国立演芸場で開催する「花團治の宴-en-」のパンフレットから抜粋したものです。


花團治の宴
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176.芸人はモノを食むな~師匠に学んだ酒の美学と反面教育~

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ぼくの師匠(二代目春蝶)がまだ元気だった頃、
パーティーのお供をすることが多々あった。
師匠の自宅に迎えにあがると、
奥さんがいつもどんぶり飯を食べさせてくれた。

「今日は立食パーティーやねんてな」
「はい、そうです」
「ほたら、ご飯いっぱい食べていき」



パーティーの席上、ぼくが腹を空かせないようにという
奥さんの配慮だった。

春蝶の家族と共に
師匠の家族と共に(右手後ろがぼく。当時20歳頃?)


「芸人は、人前でモノを食むもんやない」


何度も何度も言い聞かされた言葉だ。
会費制のパーティーだったりすると、
「元を取らねば」とばかり、皿にたくさん盛り付けて
ひたすら食べ続ける方をよく見かける。しかし、
「芸人はそんなはしたない姿を他人に見せるもんやない」
ということを、師匠や奥さんだけでなく、
芸界のいろんな師匠連から教わった。

お酒に関してもそうだった。
二代目春團治夫人は割烹を営んでいた。
春團治一門は、よくそこへ踊りの稽古に通ったものだが、
稽古が終わると、
その割烹に来られたお客様のお呼ばれに預かるのが常だった。
二代目夫人はぼくにこう言った。

「六!(当時は蝶六を名乗っていた)、
ぎょうさん(お酒を)頂きや。けど必ず酔うな」


お酒をスマートに頂くのもお稽古のうちだった。

二代目さんと
(左から)二代目春團治夫人、ぼく、桂治門


……内弟子の頃は、師匠の自宅に住み込みだったので、
師匠がご帰還するまでは寝るわけにはいかなかった。
仮に寝ていたとしても、
ピンポンという音に、まるで飼い犬のように撥ね起きた。

師匠はそれからまた少し飲み直すことになるのだが、
ある日、ずいぶん具合悪そうにしていた。

「師匠、水を……」
「ああ、おおきに。今日は六代目(松鶴)とお客と飲んでなあ、
そのお客を見送ってすぐ、六代目がぜんざい食べよちゅうねん。
よっぽど腹を空かせてはったんやろなぁ。
わしもそれ食うて、気色悪うて、気色悪うて……」



酔った師匠と六代目が二人、ぜんざいを食べる光景を想像して、
ぼくは思わず笑ってしまった。そのとき、師匠は付け加えて、

「ええか、これが粋(すい)というもんや」



ぼくは「何の粋なもんか」と思ったが、
その言葉をグッと喉の奥にしまい込んだ。
お客の前だからといって、空きっ腹に酒を注がねばならんやなんて、
芸人というものは難儀な商売やなぁとも思った。

春蝶、立ち切れ、縮小版
二代目桂春蝶(平成5年1月4日没)  撮影:後藤清


世間ではうちの師匠はよほどの大酒飲みで通っていたらしい。
例えば、楽屋入りしてすぐ居酒屋へ駆け込む姿が目立った。
でも、師匠の名誉のためにも、これだけは言わせていただきたい。
あれは「酒好きゆえに」ということではない。
師匠は大病のあと、ある薬の副作用で、
舌がビリビリ痺れるという悩みを抱えていた。
それを押さえる薬もあるにはあったらしいが、
それがまた副作用を生んだ。
だから、師匠は痺れを酒で抑えようとしたのだ。
そんなときの師匠の呑み方は、
呑むというよりも、
お猪口に舌をつけるといった方が正しかった。

楽屋入りして「出番には戻ってくるさかい」という師匠の後を、
ぼくはいつもそっと追いかけた。
居酒屋のカウンターに座る師匠の姿を確認してから、
ぼくはまた楽屋に戻った。
師匠の前の出番の方が高座に上がられると、
ぼくはすぐさま、その店に戻り、
店の入り口から、目で師匠に合図を送った。
そんなとき、弟子にしか見せない師匠の顔があった。

あるとき、ぼくはとある師匠から
「どや?師匠は怖いか?」と聞かれ、
思わず「いえ、可愛いです」と応えてしまったことがある。
そのとき、「師匠を可愛いってどういうこっちゃ?」と
笑われてしまったが、
その瞬間、ぼくの脳裏に浮かんだのは、
この、何ともいえない「すまんなぁ」という師匠の表情だった。



晩年はともかく、若い頃の師匠は食べたい欲求を堪えながら、
無理に酒だけを呑むことが多々あったのだと思う。

酒で死んだと世間はいうが、
ぼくはむしろ美学に生きたと思いたい。


……とはいうものの、ぼくはその点を真似することは出来ない。
少しでも長く落語家を続けたい。身体を気遣い、
肴と酒を美味しくいただきながら生きていきたい。



そんなぼくにとって、とても楽しみな会がある。
大和郡山で創業160年を誇る老舗酒造の米蔵で行う「米蔵寄席」だ。

落語とお酒を味わうこの会では、清酒のルーツ「正暦寺」の
流れを汲む『中谷酒造』の六代目当主を交え、
正しいお酒の選び方、呑み方、お酒のルーツ、酒と流通の歴史…など、
酒にまつわるあれこれをお話いただく予定だ。

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中谷酒造

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中谷酒造六代目当主とぼく



秋の夜長、先達との思い出を肴に
うまい酒をじっくり味わいたい。
三川美恵子師による「上方唄」もございます。
大和郡山、米蔵寄席
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175.最強のモタレ芸・チンドン~路上の達人から板の上の妙手へ~

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チンドン屋って、
ネコとお友達になるようなもんでね。


『ちんどん通信社』の代表・林幸治郎氏が、
ふとそんなことをつぶやきだした。

襲名開場前チンドン
花團治襲名披露公演に並ぶ行列を癒してまわる『ちんどん通信社』 撮影:相原正明



例えばね、猫の写真を撮ろうとして、
不用意に近づいていったら逃げてしまうじゃないですか。
あえて、興味がないふりをして向こうを向いたり、
そんなことをしながら距離を詰めていくわけですやん。

なるほど、どんどん積極的に迫っていけば、
かえって相手はそっぽを向くだろうし、
猫を手なずけるのは、
人間の女性以上にムツカシイかもしれない。
常に相手との呼吸を図りながら居場所を確保するのが、
チンドン屋の身上だ。

「チンドンの音楽は歓迎する人ばかり相手にしていられない。
聞きたくない人まで視野に入れ、尊重せなあかん宿命がある。
しかも、そんな彼らの存在を肯定的にとらえることで、
逆に自分たちの居場所を確保していくという、
ややこしい関係になっているんです」
(林幸治郎著『チンドン屋!幸治郎』新宿書房より)


チンドンとは、つまり、
憚り(はばかり)の芸である。


襲名宣伝、林幸治郎
花團治襲名の前宣伝(石橋商店街にて) 撮影:相原正明



これまで『ちんどん通信社』さんには、
幾度となくお世話になってきた。
ぼくの襲名が決まってからは、その事務所を担ってもらったり、
襲名挨拶回りも、運転手を買って出てくれた。
また、襲名お練りの際には先導役と賑やかしを
公演のときは、列に並ぶお客が退屈しないようにと、
その場で余興をしてくれたこともあった。

チンドン社屋
『ちんどん通信社』の社屋にて、これから花團治襲名の挨拶回りに向かう前 撮影:相原正明


船乗り込み・林幸治郎
花團治襲名記念の路上船乗り込み。先頭を歩く林幸治郎。 撮影:相原正明

船乗り込み、ジャージ川口、小林信之介
花團治襲名記念の路上船乗り込み。太鼓を叩くジャージ川口、笛を吹く小林信之介。 撮影:相原正明


ちんどん通信社・営業担当の猪俣はじめさんは、
ぼくの大学時代、落研の一年先輩でもある。
「いつも(チンドンは)期待以上のことをしてくれるから助かってます」
「それが次のオファーに繋がるんですよ」

いつだったか、地方の営業をお願いして、
そのとき、人里から少し離れた、
人の気配のしない道があった。
「ああ、ここはいいんじゃないですか?」とぼくが言うと、
「でも、誰かが聞いているかもしれないから」と、
そこでも全く手を抜かずに演奏して練り歩いてくれた。
後日、担当者から喜びの電話があった。
「寝たきりのお年寄りが遠くから家のなかで聞いておられて、
とっても喜んでおられたそうです」

小さなひとつひとつを大切にする『ちんどん通信社』さんには、
ホントいつも頭が下がる思いだ。

ちんどん国立
2015年花團治襲名披露公演での『囃子座』。
『ちんどん通信社』所属の(右から)小林信之介、林幸治郎、ジャージ川口のユニット。
このユニット『囃子座』のときは、路上のときと違い、ノーメイクで出演する。  撮影:相原正明



襲名披露公演の時も、
トリ(演目の最後)のひとつ前に演じるモタレとして、
ゲストに入ってもらった。
その打ち合わせで、ぼくははじめさんにこう言った。
「モタレですからね、あんまりたっぷり演られすぎても、
後が演りにくいし、かと言ってお客を満足させなきゃいけないし…」
モタレはなかなかムツカシイポジションなのである。
でもそのとき、はじめさんはきっぱりとこうおっしゃった。

「まかせてください。うちはチンドン屋です。
主役を立てるプロですから」


チンドン、国立演芸場へ
昨年、花團治襲名披露公演の際の記事。


9月27日、東京・国立演芸場で開催する『花團治の宴-en-』も
ちんどん通信社さんにモタレをお願いした。

かつて米沢彦八の時代、大阪の落語は野天で演じる大道芸だった。
初代桂文治が大阪で初めて寄席をつくり、そこで落語を演じた。
このときに、落語はストーリー性の強いものに変化していったと考えられる。
つまり、これが今の落語の形の始まりである。

チンドンもまた、今、
『囃子座』によって新しいスタイルを確立しつつある。

『囃子座』は、チンドン界の初代桂文治だ!

路上芸から舞台芸へ。




……当日は、会場をイイ感じで温め、ぼくにとって、
最高のトリの場を用意してくれることは、もう間違いない。
これでコケたら、それはもう……言い訳が立たない。

花團治の宴
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174.伝承と継承~繁昌亭と夏目漱石~

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土居さんもお練りに参加したかったやろな。
せめてあとひと月だけでも長く生きてはったらな。


商店街の方も言うてはったけど、
このお練りを一番心待ちにしてはったんは、
天神橋筋商店街連合会の元会長・土居年樹さん(8月23日没)やった。
9月15日、大阪の落語家にとって60年の悲願だった
天満天神繁昌亭10周年を記念しての落語家による商店街お練り。
この商店街は南北に2.6キロ。日本一長い商店街として知られる。

この計画のメドが立って、土居さん、フ~っと安心しはったんやろか。


お練り、人力車
左から、桂春雨、桂枝女太、ぼく、桂坊枝、桂文枝。


お練り、鳴り物部隊
人力車の後ろには、鳴り物部隊が続いた。


お練り、土居陶器
土居さんの遺影に深々と頭を下げる文枝会長



今から12年ほど前だったろうか、
上方落語協会の会長選挙を前に、
六代桂文枝師匠(当時・三枝)は、
「落語の定席を実現する」と公言した。

当初は、反対意見というよりも、
否定的な意見も多かった。
「ホンマにやれるんかな」
「赤字が出たら、いったい誰が背負うねん」
「そんなにお客が入るわけない」などなど。
大阪の芸界特有の事務所との絡みもあった。

でも、世間ではちょうど
団塊世代の大量退職が話題になっていた。
映画やドラマなど落語ブームもあった。
いろんな多くが追い風となった。

あの時、文枝師匠の発案や行動、土居さんを初めとする商店会の協力がなかったら
いまの上方落語界の繁栄はなかったかもしれない。

「繁昌亭の建設」は上方落語界にとって、
まさに明暗を分ける重大な選択だった。


お練り、天満駅前
JR天満駅前にて。文枝会長の横に大阪市北区区長や天満駅駅長の姿も。



・・・・・・ところで先日、渋谷・伝承ホールにて
『イシス編集学校』のイベントがあった。
ぼくもゲストの一人として呼ばれ、
その壇上に立たせていただいた。
その楽屋の前で、校長の松岡正剛さんから
「大阪の方の落語はどうですか?」と聞かれた。
「ええ、今また盛り上がってきてますよ」と応えた。
ちょうど東京での独演会前なので、
そのゲストである文枝師匠のことに話が及んだ。

「え、花團治さんが文枝師匠の創作落語を演じることもあるの?」
「ええ、先日、稽古をつけていただきまして。
ぼくだけじゃなくて、自作の落語を惜しげもなく、
どんどん後輩の咄家にも提供されてます」
「ああ、それはいいことですね」


この日のイベントのテーマは「継承と伝承」であった。



イシス卒門式、校長と
松岡正剛校長とのツーショット

イシス卒門式、スタッフと共に
ロビーにてスタッフの皆さんと


ぼくは、このイベントの最中、
別に打ち合わせがあったので、少し中抜けをした。
戻ってくると、ちょうどこれから
松岡校長の一人語りが始まるところだった。

校長は、校話のなかで『続・明暗』について触れられた。
『明暗』とは、夏目漱石が最後に書いた未完の作品である。
大正5年5月26日から朝日新聞に連載されたが、
作者病没のため、同年12月14日の188回までで打ち切られている。
そのあとを「こうなったであろう」と、
『明暗』を読み込んで、読み込んで、漱石を理解し尽して
そして受け継いだのが、水村美苗『続・明暗』だ。
1990年「芸術選奨新人賞」を受賞している。


「いずれ、ぼくはいなくなるだろう。
諸君にはどうか
”百人の水村美苗”になってもらいたい」

それは、集まったイシス編集学校の生徒・関係者に向けて
校長からのメッセージ=遺言だった。

「(校長の書かれた)『千夜千冊』でもいい。これまでの指南や、
ぼくの書いた著書でもいい。読み込んでほしい」とおっしゃった。
落語家であれば、
さしずめ『米朝落語ノート』や
五代目笑福亭松鶴師匠が編纂した『上方はなし』、
そして先達が遺した多くの落語…といったところか。


イシス卒門式、吉村堅樹さんと
編集学校の稽古がいかに役立ったかを喋らせていただいた。生徒の多くが、
ここでの経験を機に思考力が身につき、モノの見方が変わり、人生が大きく好転したと語る。
ぼくもまたここで学び、毎回「目からウロコ」の連続だった。(進行役のイシス編集学校・吉村竪樹さんと)


……先達が培ってきたものを受け継ぐということの本質を、
校長のその言葉が見事に言い当てていた。


『イシス編集学校』HPはこちらをクリック!

松岡正剛『千夜千冊』はこちらをクリック!


ぼくの師匠の春蝶も、文枝師匠も、みんな水村美苗なのだ。
松鶴、米朝、春團治、五代目文枝といった四天王然り、
四天王もまた、その前の師匠方から引き継いでいる。
ぼくらもいずれ、水村美苗にならねばならない。


夏目漱石 明暗

水村美苗 続明暗

落語界はこれからさきもずっと『明暗』なんでしょうね。
永遠に未完です。
この過程を楽しむのが、きっと「落語道」なんだと思う。
このあと、どうつないでいくか?つけ足していくか?
それは天神橋筋商店街も同じ気持ちなんだと思います。

 もちろん、襲名披露から一年経ったぼくにとっても。


きっときっと水村美苗に!!



お練り、天満宮
公益社団法人『上方落語協会』会員で天満宮参拝


お練り、繁昌亭前
繁昌亭では祝いの酒が見物人に振舞われた。


このわずか一週間の間に、繁昌亭10周年記念のお練りがあり、
イシス編集学校のイベントがあり、
それで何だか導かれるように、『明暗』と『続・明暗』を手にした。


「今は、独演会のことに集中してください!
優先順位が間違ってますよ!!」という
マネージャーの声が耳に痛く響きます。

文枝師匠をゲストに迎えての
『花團治の宴-en-』に是非ご来場ください。

花團治の宴
『花團治の宴-en-』の詳細はこちらをクリック!



173.生きてはったら75歳~寝小便もお家芸のうち~

ぼくが二代目春蝶の家に住み込みをしていた頃。
師匠の長男・大助君の寝小便ぶとんを干すのが毎朝の日課でした。
ぼくの年季が明け、大助が小学5年生になってもなお、
彼の寝小便は続いていました。
ぼくは彼に言いました。
「大助、実はぼくも6年生まで寝小便が治れへんかってん。
だから心配せんでも大丈夫。そのうちに絶対、治るわ」

すると、それを横で聞いていた師匠が少し強い口調で、
「蝶六!(当時のぼくの名前)、
お前は何をエラそうに言うとんねん!!!」
ビクッと構えるぼくに、師匠は今度は静かに
こうおっしゃいました。

「わしは中学1年までじゃ」


寝小便たれが武勇伝に変わった瞬間でした。

大助とは、そう、現・三代目桂春蝶です。

春蝶の家族と共に
二代目春蝶のご家族と共に。右手手前が大助(現・三代目春蝶)、その後ろにぼく。


大助には、当時ずいぶん泣かされました。
例えば、家の掃除は弟子の役目なのですが、
部屋を片付ける尻から、
彼はどんどん散らかしてまわるのです。
だからぼくは一日中、片づけばかりやっていました。
きっと、彼はその様子を楽しんでいたに違いありません。

でも、大助にされるがままかというと、
そうではありません。
時にはぼくが叱りつけることもありました。
それは「師匠公認」でした。

……ぼくが入門して間もない頃でした。
師匠の留守中、仕事の電話が入りました。
メールなど無い時代です。
用件はその場でしっかり聞きとらねばなりません。
ところが、その横で騒ぐ大助と妹の恵子ちゃん。
ぼくは、先方にちょっと待ってもらい、
受話器を押さえつつ、大助に言いました。
「大ちゃん、今な、お父さんの大事な仕事の電話やねん。
頼むから、ちょっとだけ静かにしてくれる?」
でも、ぼくの頼みを聞き入れるような
兄妹ではありませんでした。

何とか用件を聞き終えたぼくは、
受話器を切って、つい怒鳴ってしまいました。
「なんで静かにでけへんねん!」
「だって……」と言い訳する大助。
気がつけば、ぼくは彼の頭をコツンとこづいていました。
涙目でぼくを睨みつける大助。

それからしばらくして師匠が帰って来られました。
用事を済まし、弟子部屋にいると、
師匠がぼくを呼ぶ声がします。

「はい、何でしょうか?」
「ここへ坐れ……お前、今日、大助の頭をどついたそうやな」
「は、はい。すみません」

ぼくは一週間足らずで破門になるんだな。
そう観念して、頭を下げていると、
師匠はこうおっしゃいました。

「うん、それでええ。弟子はな、どうしても師匠の子どもには甘くなんねん。何でもいうことを聞いてな。……それでは、子どもの教育にもよくない。そやからな、これからもアカンことはアカンと、ちゃんとこいつに教えたってほしいねん」


師匠のそういう教育方針のおかげか、
今では立派すぎるぐらい立派な三代目です。

春蝶とツーショット
ぼくと、三代目春蝶(右)


ところで今回、「春蝶生誕祭」という催しを立ち上げました。
ぼくは企画について一蝶兄に相談しました。
兄は電話の向こうで重々しく、ぼくにこう言いました。
「そらええと思う。けどな、ひとつだけ、頼みがある」
「はぁ、何でしょうか?」

「大助を、当代を、若を、
必ずトリ(番組の最後)に据えること!」


あんたは春蝶家の御家老か!
思わず吹きそうになりましたが、
ぼくも同感でした。

春蝶、一蝶、ぼく
右から春蝶、一蝶、ぼく。大ちゃん、頼むでぇ~


三代目春蝶は、今回の催しで
「エルトゥールル号物語」という自作を披露します。
父親と自身の関係、また父親を語るうえで、
彼自身が、もっとも相応しい咄と判断してのことです。

先代の形を踏襲するのもひとつのやり方ですが、
先代とは違う切り口で時代を切り開いていく、
というのも、名を背負う者の覚悟の証。
おそらく先代は今の三代目の活躍を
目を細めながら見ておられるでしょう。

師匠は生前、少し自嘲気味に弱気な様子で、
一度だけ、ぼくにこんなことを漏らしました。
「わしが死んだら、みんな、
わしのことなんかすぐに忘れてしまうんやろな」

……そんなことあるわけない。でも、そのためには、
誰かが先代の偉業や生き様をきちんと語り継ぐことが大切です。
遺された弟子や、次代・次々代の春蝶が活躍することも大事です。

そんなわけで「春蝶生誕祭」、繁昌亭でお待ちしております。

春蝶生誕祭
「二代目春蝶生誕祭」の詳細はここをクリックしてください。


東京の公演では、ぼくが先代ゆずりの「立ちきれ」を演じます。
こちらもどうかよろしくお願いします。
花團治の宴
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172.恩送り2~先代春蝶門弟として~

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春團治師匠舞台挨拶
ぼくの襲名記念の会に花束を持って駆けつけてくださった春團治師匠。このとき全くのサプライズでした。


東京の落語界では、二つ目以下の落語家は、
師匠が亡くなれば、必ず誰か他の真打の弟子に
ならなければならない、という決まりがあるそうです。
でも、真打制度のない大阪では、
そういう取り決めなどありません。

うちの師匠(先代春蝶)が亡くなってすぐ。
テレビの追悼番組には、
師匠の師匠である三代目春團治師匠の姿。
アナウンサーがこんな質問をされました。
「春蝶さんには、お弟子さんが三人おられましたよね」
その言葉を受け、春團治師匠は静かにこう応えられました。

「彼らは、ぼくが預かります」

その時、ぼくは家のテレビでこの放送を見ていました。
それで慌てて兄弟子らに電話をしたのです。
「に、兄さん、今、テレビで……」
「わしも見てたんや。すぐ大師匠のところへ行くで」

春團治師匠の預かり弟子になるということは、
これからは「春蝶の弟子」ではなくなるということです。
昇蝶、一蝶、蝶六。三人の思いは同じでした。
春團治師匠の気持ちはとてもありがたい。
ありがたすぎるほどありがたい。
光栄でもある。
けれども、ぼくらは生涯「春蝶の弟子」を名乗りたい。

春蝶、立ち切れ、縮小版
先代春蝶(撮影:後藤清)


春團治宅前で待ち合わせたぼくらは、
意を決し、春團治師匠の自宅に上がりました。
まるで死を覚悟した四十七士のようでした。

「実は、大師匠の気持ちは大変ありがたいのですが……」
筆頭弟子の昇蝶が口を切りました。口ごもりながら、
「できることなら、ぼくら、これからも春蝶の弟子ということで」

ここまで言うと、全てを察せられた春團治師匠が
ニッコリと微笑みながら、

「うん、その方が春蝶くんも喜ぶやろ。
ほな、これまで通りな。
君らはぼくの孫弟子ということで。
けどな、わしはお爺ちゃんやで。
君らはお父さんがおらへんねん。
何か困ったときは、この爺を頼りなさい!」


落語家の諸先輩方のごく一部ですが、
「春團治師匠の好意を踏みにじる行為や」とか、
「師匠なしでやっていけるんか」とか、
いろいろおっしゃる方もありました。

このこともあって、師匠の一周忌「追悼公演」では、
「主催:春蝶門弟会」ということに強くこだわったのです。

でも、これでよかった。

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春蝶一周忌追善ポスター
「二代目春蝶一周忌追善公演」のポスター


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ところで、9月27日(火)、ぼくにとって
特に思い入れの強い会があります。

国立演芸場での「花團治の宴-en-」。

花團治の宴
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『立ちきれ線香』では、
小糸という芸妓と、船場商家の若旦那。
小糸は若旦那に思いを残しつつ亡くなってしまいます。
遺された若旦那は、線香を手向けながらこう言います。

「・・・小糸、わしはな、
生涯、女房と名のつくもんは持たへんで」


こんな場面もあって、
この咄を「人情ばなし」と称する方もおられますが、
決してそうではないと、ぼくは思っています。
「人情ばなし」と「落語」は異なものです。
最後には、しっかりドンデン返しが待っています。
落語は落として終わります。


実はこの咄、
先代春蝶が、特に晩年、好んでよく高座にかけていました。
「あそこはこうしたら良かったなぁ」とか、
よく帰りのタクシーのなかでおっしゃってました。
こういう話が聞けるのが、弟子の特権でした。

いろんな「立ちきれ」がありますが、
ぼくは、ペーソスがふんだんに詰まった、
先代春蝶のものが今でも一番好きです。
あの、どこか憎めない若旦那の魅力を再現したい。
そんな特別の思いのこもった作品を、
今回は国立演芸場で演らせてもらいます。


また、ゲストには桂文枝師匠。
実はうちの師匠と文枝師匠は高校の先輩・後輩という間柄です。
文枝師匠は五代目文枝師匠(当時・小文枝)に入門する際、
うちの師匠に相談されたそうです。

「で、どの師匠の弟子になりたいんや?」
「はい、ぼくは小文枝師匠の弟子に」
「それやったら、わしが連れていったる」

うちの師匠は、なんば花月の楽屋口まで、
河村青年(後の三枝師匠)を案内してこう言ったそうです。
「ここから先は一人で行きなさい。
このドアの向こうに君の未来が待っている」


このときの様子をぼくは文枝師匠から直接伺いました。
そして、文枝師匠は最後にぼくにこうおっしゃったのです。

「今度はぼくの番やね」


それで、今回の会ではそのお言葉に素直に甘えさせて頂くことにしました。

プルメリアボーイズ
ハワイアンバンド「桂文枝と上方落語プルメリアボーイズ」
今年も、9月3日(土)4日(日)、大阪谷町九丁目・生国魂神社「彦八まつり」にて演奏します。


文枝師匠や鶴瓶師匠のことをこちらのブログにもまとめています。是非、こちらもクリックしてご覧ください。

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春蝶の家族と共に
ぼくが師匠の家に住み込みしていた頃。中央が二代目春蝶。
師匠と揃いのセーターの少年は師匠の長男の大助くん(現・三代目春蝶)
大助くんの後ろにいるのがぼくです。



「・・・師匠、ぼくはね、
生涯、師匠と名のつくもんは持ちまへんでぇ」




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花團治の宴、表紙

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プロフィール

蝶六改メ三代目桂花團治

Author:蝶六改メ三代目桂花團治
落語家・蝶六改め、三代目桂花團治です。「ホームページ「桂花團治~蝶のはなみち~」も併せてご覧ください。

http://hanadanji.net/

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