キーワード:大阪空襲 に一致したエントリー一覧
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273.ダルマの伝言~市民はいつも知らされない~
明日にでもウクライナのサポリージャ原発が攻撃されるというニュースが飛び交っている。すでに周辺住民は避難を始めているというが、管理する職員など役目上残っている者もいる。今、どのような心境でそこにいるのだろうか。大阪大空襲(ピースおおさか)ぼくの父方の祖父は、父がまだ幼い頃に亡くなっている。それも牢獄死だと聞いたのは、ぼくが小学校に上がって間もない頃だった。戦時中、戦争反対の言論を唱えたとかで、アカと...
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267.40年目の赤っ恥~落語のなかの人権問題~
「感激したわぁ!ほんま来てよかったわ」終演後、お客様の見送りをしていると一人の妙齢の女性が駆け寄ってきて熱く感想を語ってくれた。芸歴40年を迎えたばかりだが、これほど褒められたのは初めてかもしれない。とはいえ、それは落語そのものではなく、その後に話した内容についての賛辞だった。芸歴40年&還暦記念独演会で話す筆者(撮影:坂東剛志)「世の中のあらゆる作品に作者や演じ手の考え方や思想が反映される。表現物...
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264.昔々あるところで…ではなくなった戦争~切実から生まれた芸術~
毎日のように流れるロシアのウクライナ侵攻のニュース。かつて日本でも「鬼畜米英」「遂げよ聖戦!興せよ東亜!」といったスローガンが叫ばれ、国民の多くがこの戦争を正義と信じて疑わなかった。万歳三唱の掛け声と共に戦地に送り出される兵隊さん。しかし、戦地に行くことを誉れと思う者ばかりではない。醤油を飲んで腎臓障害を患って兵役を逃れたという話は有名だが、ロシアでは骨折屋という商売が現れたらしい。プロパガンダ然...
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258.ウィル・スミスのビンタ~何を笑うか?~
先日のアカデミー賞授賞式での出来事は前代未聞だった。3度目のノミネートで悲願のオスカー賞を受賞した俳優のウィル・スミスが、プレゼンターのコメディアン、クリス・ロックに皆が見守る壇上での平手打ち。ウィル・スミスの妻は脱毛症に苦しんでいて頭は丸坊主である。それをクリス・ロックがネタにした。相手の気にする身体的要素、しかも笑われた相手のそれは病気によるもの。ウィル・スミスが思わずカッとなったのは理解でき...
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254.おじいちゃんのざんげ~戦争を知らない子どもたち~
ぼくが小学生3年か4年生の頃。正月に母方の祖父の家に親戚一同が集まり、その頃は高校生で後に音楽大学に進んだ叔母がピアノを披露し、祖父は詩吟か何かを詠い、余興の順番がぼくにまわってきた。ぼくはその少し前に流行った杉田二郎の戦争を知らない子どもたちを歌った。 戦争が終わって 僕等は生れた戦争を知らずに 僕等は育ったおとなになって 歩き始める平和の歌を くちずさみながら僕等の名前を 覚えてほしい戦争を知ら...
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253.学校のいごこち~彼らがいたからぼくは不登校にならずにすんだ~
ぼくが夜間高校に出講するようになってかれこれ20年以上の月日が経つ。最近になって学校の雰囲気はずいぶん変わった。いかにも指導者然としてモノを言う先生がほとんど見受けられなくなったかわりに、生徒と談笑する姿をよく見かけるようになった。ヤンチャな生徒が減っておとなしい生徒が増えたということかもしれないが、文科省の方針について調べてみて合点がいった。令和元年に文科省は「不登校児童生徒への支援は、学校に登校...
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246.戦時下を生きた芸能~”笑い”という名の毒を飲む~
襲名をして以来、毎年6月になるたびどうしても戦争のことが頭をよぎってしまう。先代の二代目花團治が1945年(昭和20年)6月15日に大阪空襲の犠牲になっているからだ。遺族によると、防空壕の入り口で亡くなっていたらしい。しかも、襲名してわずか一年後のこと。どれほど無念だったろう。後列左から三人目が二代目花團治(写真提供:前田憲司)あれは今から35年ほど前、落語家に入門して3年ほどだったぼくが、地方のある敬老会に...
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244.ツラくとも、クサれども~それでも笑いが必要~
大阪商人の間には今も「泣いてる暇があったら笑ろてこまそ」という言葉が残っている。例えば、店が大赤字で困っているときにも商売仲間との会話では、「おたくの店、商売は順調でっか?」「赤子(赤ん坊)の行水ですわ」「何でんねん」「タライで(足りなくて)泣いてます」と笑いを誘う洒落を交えた。この「笑い精神」は大阪に限ったことではない。商売人というのはすべからくそうだ。憔悴する姿は同情を誘いこそすれお客や取引先...
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212.6月15日に思うこと~大阪大空襲と花團治~
もっともっと、落語をしたかった。「初代」も「二代目」もきっとそう思っていたに違いありません。今から73年前の今日、昭和20年6月15日。先代(二代目)花團治(花次改め)は、襲名した翌年、「第四次大阪大空襲」によって命を落としました。ご遺族の方によると、防空壕の入り口あたりで亡くなっていたらしいとのことです。二代目花團治ちなみに、初代の花團治は「吉本興業専属第一号」でした。そんな栄えある名跡にも関わらず、...
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151上方落語の復活~戦後70年~
初代花團治は、終戦の3年前、二代目花團治は、終戦の年に命を落とした。ゆえに、二人とも「楽語荘」メンバーでありながら、終戦後初・落語会への出演が叶わなかった。このたび、終戦後復活落語70周年の企画が持ち上がった。不肖、この三代目がその記念すべき「11月21日」の前座を務めることになった。戦前の寄席事情から「楽語荘」誕生、終戦後の落語復活までの軌跡をここに記しておこうと思う。まだテレビ・ラジオのなかった時代...