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97.わらいばなしに涙する 追悼・桂文春くん

「何や、それ?」と文珍師匠。

繁昌亭がオープンして、この9月15日で丸7周年。
いまも大勢のお客様にご来場いただき、
ぼくも一落語家として大変嬉しく思っている。

でも、この時期になると決まって思い出す顔がある。
桂文春くんである。

今から7年前、
彼もまた『繁昌亭』のオープンを
心待ちにしていた。
こけら落としでの出演は
9月24日と決まっていた。



桂 文春

本名:時枝 伸幸
(1965年7月18日 - 2006年9月21日)は、和歌山県和歌山市出身の落語家。
吉本興業所属。

高校中退後、佐川急便の運転手をやっていた。
短期間でお金になるとの思いで、1987年1月入門。
桂文珍の弟子となり、桂 文時(かつら ぶんどき)と名乗ったが、
2000年に文春に改名した。

2006年9月21日午後3時55分、気管支喘息重積発作のため41歳の若さで死去。
こけら落とししたばかりの天満天神繁昌亭での高座を
3日後に控えての急逝であった。
その2年ほど前に妻を失っており、
男手1つで子供を育てるために昼は落語家、深夜はアルバイトとして働いていた。
これらのことで心労が重なっていたのではないかと言われている。

ウィキペディアより



繁昌亭、文春写真
繁昌亭のロビーには、亡くなられた諸先輩方の写真が飾られている。
その中に、文春くんの写真も。下段の一番左端が彼である。



以下は、当時ぼくが所属していた狂言事務所の機関誌に寄せた文章です。



追悼・桂文春~天満天神繁昌亭オープンに際し~            森五六九

9月15日「天満天神繁昌亭」という落語専門の小屋がオープンした。
大阪天満宮に隣接している。
230名収容のこじんまりした小屋である。

当日は南森町から天神橋商店街を小一時間ほどかけて歩く「お練り」を行った。
もちろん私も一協会員として同行。
我々と商店街スタッフは揃いの法被を身に纏う。
初代春団治にちなんだ赤い人力車には
春団治相談役や三枝会長、春之輔副会長、
染丸副会長、鶴瓶広報委員長らが交代で乗った。
その後ろには三味線太鼓が続く。

予想以上のマスコミや見物人に周囲は大賑わいだ。
出陣式には太田房枝知事も真っ赤なジャケットで駆け付けた。
一方、小屋の前でのテープカットには関淳一市長。
関市長のスピーチがふるっていた。

「この小屋の何がえらいと言うて、
市民の皆さんの御寄付によって建てられたことです。
大阪市は一銭も金出してまへん」
横手に立つ三枝会長が「そやそや」とあいづちをうっている。
それだけでもちょっと微笑ましい光景だったが、
ちょうど私の後ろの方から
ぼそっと「ホンマや。いらんとこには金使うけどな」という声。
その周囲だけクスクスと笑っている。
どうやら見物人の一人が声を上げたらしい。

大阪の人間はどうして「ああ言えばこう言う」黙ってはいられない性分なんだろう。
関市長の挨拶はまるで突っ込んでくれと言わぬばかりの口ぶり。
返り打ち覚悟のトークだったといえる。

そんなわけで咄家の小屋オープンのスピーチのつかみは
無難にこなした知事より市長の方に軍杯が上がった。

小屋運営の問題はこれからも山積みだが柿落とし公演は連日の大入り満員。
演じる側からしてもとても喋りやすい。
大阪の新名所になるのは間違いない。
そして小屋の前には昔そこに置かれてあったという黒い郵便ポスト。


「四角四面のポストでさえも
恋の取り持ちするわいな」


そんな祝いムードの中、
実は哀しい出来事があった。


本当に残念でならない事があった。
それを知った時、通知のファックスを見つめ
思わず部屋で一人「何でやねん」と声を荒げた。

それは柿落としの千秋楽九月二十四日に出演が予定されていた桂文春君の訃報。
享年41歳。
21日のことだった。文珍師匠のお弟子さんだ。気管支喘息重積発作による死去。

アトピー性皮膚炎の治療のため常用したステロイド剤からくる喘息。
人前に面をさらす仕事だから仕方がない。
生まれついての喘息もあった。疲れ。それらが重なった。

元から身体があまり強い方ではないとは聞いていたが全く急な話である。

2年前、彼は奥さんを亡くしている。
両親も幼い頃に亡くし家族にはほとほと縁の薄い男と聞いている。
だから余計一生懸命に子育てに励み仕事に励み・・・無理がたたったのだろう。
けれど、彼は強がりなのか
そんな事おくびにも出さないし誰よりもひょうきんな奴だった。
私には元気な明るいひょうきんな走り回っている彼の姿しか思い出にない。

通夜の席、喪主の文珍師匠に続いて焼香に立ったのが4歳になる彼の一人娘。
唯一の肉親である彼の妹さんに手をひかれて前に立った。
事情なんかわかろうはずもなくただキョトンとしていた。

「弟子にしてくれと来た時、
ラメ入りのけったいなジャケット着て
『何や、それ?』と思いましたが、
逝く時も『何や、それ?』てな・・・」


と悲痛に語る文珍師匠。

ひょうきん者らしい逝き方と思えなくもないが、
それにしても本当に「何やそれ?」である。

住まいも吹田から心機一転、
八尾に宿替えをしてすぐその疲れからか体調をくずしたらしい。

幸い四歳のお嬢さんは彼の妹夫婦が育てることになった。

彼が出演する予定だった柿落とし千秋楽の9月24日。
彼がそこに来ているような気がして私は小屋へ向かった。
代演は兄弟子の珍念が務めるという。

「弟弟子の文春がこんなことになりまして兄弟子の私が」
客席は連日のどよめきに比べ少しおとなしめだ。

「彼が十八番にしていた『時うどん』を・・彼、言うてました。
『時うどん』は自信があるて。
これやらしたら僕の右に出る者はないちゅうて。
けど、左見たらぎょうさんおったんですが・・・」
珍念は見事代演を務め上げた。

楽屋に私同様その日出番のない福団治門下の桂福車もやってきた。
私は文春君とはさほど接点がなかったが、
福車はマージャン仲間でもありかなり親しかった。
通夜で嗚咽する福車を私は見ている。

やがて楽屋では珍念をまじえて「文春思い出咄」。

「ホンマにアホやな、あいつは」
福車の披露する彼のおとぼけぶりの数々は立派なネタになっていた。

上方落語に「喜六」という人物がよく登場するが文春がまさにそんなタイプ。
アホでどうしようもないわりに知恵もある。
けど何をやってもしゃあないやっちゃで済まされる憎めない愛すべき人物。
文春本人が喜六そのものだった。
彼を評して「漫画みたいな奴」という人もいるが、
私はむしろ「落語界の住人」と言った方が相応しいように思う。

もし落語家の最低条件をひとつだけ上げよと言われたら私は迷わず「了見」と答える。
この「了見」において彼は優れていた。
少なくとも私なんかよりはるかに優れていた。
ずるいところなんか微塵もない。欲もない。
ただ人を喜ばせることだけが彼の喜びであり欲望だった。
「了見て何やねん」て聞かれると答えに困るが、
しいて申し上げるならそんな彼の失敗の数々を「ええなあ」て笑える感性だと思う。

けど、最後の失敗だけは笑えまへんで、文春君!

さぞかし彼もネタにされて喜んでいることだろう。

この日は狂言のお稽古日。千里山へ向かう阪急千里線の車中、
福車の話す文春の失敗談を思い出した。

「ホンマおもろい奴やったな、けったいな奴やったな」
思わず涙があふれそうになった。福車は人情咄の名手だ。
文章にならないので内容はあえて書かない。直接福車に聞いて欲しい。
そしておおいに笑って欲しい。

・・・今日ほど笑い咄が人情咄に感じられたことはなかった。

                        2006.9.24 深夜   
 
 

どうか彼を偲んで
「いいね」してやってください。 
  
 
               
                          
                          
追伸
明後日21日の繁昌亭昼席に、桂珍念師匠が出演されます。
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蝶六改メ三代目桂花團治

Author:蝶六改メ三代目桂花團治
落語家・蝶六改め、三代目桂花團治です。「ホームページ「桂花團治~蝶のはなみち~」も併せてご覧ください。

http://hanadanji.net/

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