123.落語のすすめ~きたまえ亭コラム全12編~
イズム - 2014年12月30日 (火)
さて、前項、町おこしとしての芸能からの続きである。
この一年間、毎月二十日前後になると、毎週土曜日に開催される福井駅前寄席『きたまえ亭』の番組に加え、そのチラシへのコラム原稿を担当者に送ることになっていた。マニア向けではなく、全く落語に見向きもしなかった方が少しでも落語に興味を持ってくれるようにと心掛けたつもりである。限られた枠のなかで文章を練るという作業は、ぼくにとってとても有意義なものであった。この度、当席は休止することになったが、今はその再開を心待ちにしている。

きたまえ亭ファイナルの後、スタッフの方々と共に。
2014年1月 ステキな仲間、ここに集まれ!!!
1月4日は師匠の命日。以来、この日は墓参りと決めている。それに今年は『きたまえ寄席』という行事も加わった。ぼくにとってこの日はこれまで以上に大きな意味を持つことになった。主宰の鳴尾氏とはもう27年のお付き合いになるが、ここ20年あまりはずっと年賀状のやり取りだけだった。それが昨年の十月『ふくい町物語』というイベントでわざわざぼくを福井に招いてくれた。鳴尾氏もいつしか白髪まじりになったが人なつっこい笑顔は全く変わらない。「福井で寄席を作りたいねえ」という言葉は確かぼくが『福井放送』でパーソナリティーを始めた頃、そのスタジオで鳴尾氏から聞いている。・・・・・・あれから27年。今、ぼくが何とか落語家としていられるのは大げさでもなく「福井の町と人」のおかげである。福井はそれだけ人を温かく育てる包容力に溢れた町なのだ。ぼくはまたこの町に甘えることになる。これが何か次の兆しを生むきっかけになれば、それが一番嬉しい。

阪急「茨木市駅」に程近い称名寺というお寺に故・桂春蝶は眠っている。
2014年2月 しゃあないやっちゃなあ、愛すべきやっちゃなあ
上方落語の「喜六」は、ちょっとおっちょこちょいで憎めない愛すべき男。それにどこか「抜け目のない」男でもあります。少々の知恵としたたかさ、それに欲を持ち合わせている。小遣い稼ぎや仕返しのために行動する。これがあるから咄が始まるのですが・・・・・・そう考えてみると、「喜六」は落語の世界のみならず、世間のどこにでもいてそうな人物です。今月の演目で言えば、『子褒め』『不動坊』『阿弥陀池』・・・・・・。相変わらず間抜けでスカタンながら、本人はいたっていつも大真面目。相手を笑わせてやろうという魂胆は毛頭ない。そんな男にどうか一緒にエールを。「しゃあないやっちゃあ、けど愛すべきやっちゃなあ」という眼差し。こんな感性を共有することが落語会というライブの目的だとぼくは思うのです。
落語は人の愚かさを描いている。
人は聖人君子を尊敬しながらも
心のどこかで愚か者を愛している。
それは自分の愚かさにも
どこか共通するからかも知れない。
完全よりも不完全がいい
人の魅力はそんなところにある
落語の魅力はそんなところにある

繁昌亭にて、ぼくの高座(撮影:相原正明)
2014年3月 あなたと一緒に共同作業
「あれやったら自分にもできそうやと思いまっしゃろ。それが手ェですねん」とは、『ちんどん通信社』の林幸治郎氏の弁。チンドン音楽の目的はあくまで宣伝行為。通行人の関心が音楽にばかり向くようではいけない。とはいえ下手糞だとそっぽを向かれる。お客を十分に感心も得心もさせられるだけの技量を持ちながらあえて少しはずしてみせるぐらいの度量。この隙の見せ方こそチンドンの妙。だから親近感をもって人が寄ってくる。以前、ある先輩がぼくにこう言った。「(落語は)お客に上手い!と感心させてるようではアカン」。少なくとも寄席においてお客は「観客」というより「参加者」である。落語は高座で勝手に喋っているのではなくその場の空気を感じつつ語っている。「演者」の言葉を元に「お客」のなかに膨らむ想像。両者による「共同作業」。どうです?一緒に空間を創ってみませんか?

ちんどん通信社の古参3名による滑稽音曲『囃子座』。左から小林信之介、林幸治郎、ジャージ川口。このユニットに関しては、「ちんどん屋」とは違って、3名ともにすっぴんである。
2014年4月 気で気を養う
自分のことをあたかも第三者のように見たて、その自身を笑い飛ばしてしまう。これが「当事者離れの笑い」。およそ20年ほど前、阪神・淡路大震災での一例。家が全壊したという男性がインタビューに応えた。「そら大変でしたわ。京都や大阪からも親戚が心配して駆け付けてくれましてな。欲しいもんあったら何でも言うてくれちゅうさかい、わたい言うたんだ。家が欲しいって。そしたら、親戚中連中が皆を揃えて、そんなもんわしらかて欲しいがなっちゅうて、ガハハ……」。まるで落語の下げ。自分の身に起こった不幸や災難を笑い飛ばすことで哀しい自分とサヨウナラ。ところで、『貧乏花見』の「気で気を養う」という台詞。これは想像力を働かせて気持ちを豊かに持つということ。貧乏や金がないことをむしろ遊んでいる。究極のプラス思考。ともあれ、笑いには心の浄化作用がある。落語を聴けば元気が湧いてくる。

東日本大震災の折、ちんどん通信社や演歌流しの田浦高志らと共に慰問団。
2014年5月 フラジャイルな眼差し
かれこれ15年ほど前、ぼくはコラボレーションに夢中だった。津軽三味線、のこぎり楽器、馬頭琴の奏者やパントマイム、舞踏、狂言の演者たち・・・・・・ぼくらはよく酒を酌み交わした。ある時、ぼくは自身のことを打ち明けた。いじめやチックやパニック障害に悩んでいたこと・・・・・・すると、そこにいた全員がそれぞれのコンプレックスを語り始めた。「誰かに自分を見てもらいかった」「他人にできることができない自分がもどかしかった」。これがぼくたち全員の動機だった。ぼくらは元来フラジャイルの衆だった。
ところで、大阪落語の特徴のひとつに見台と膝隠しがある。かつて落語が野天で演じられた名残だ。座敷へ上げてもらえなかったから野天で演じたという説がある。蔑まれていたのだ。思えば、「狂言」「能」「歌舞伎」「落語」・・・・・・芸能は弱者が演じ育ててきた。仲間から外れるということはその集団を外から眺めるということでもある。同時に些細で微弱な現象に対して目を凝らし耳を澄ますことにも繋がった。落語には弱者としての共感がある。
2014年6月 人が輝けば町が輝く
今、「落語教室」が人気である。自ら演じてみようという方々の増加。ぼくも大阪の『天満天神繁昌亭』などでその講師を勤めさせて頂いている。かつては「落語好きが高じて」という動機が主流だったが、昨今は大きな変化が見られるようだ。それは「人前で話す苦手を克服したい」「仕事のスキルを高めたい」といったもの。思えば昔、大阪の道頓堀の寄席小屋ではずいぶん垢抜けたお姉さん方を多く見かけたものだった。その高級クラブホステスさん方の目的は接客のための話術向上とネタの仕入れにあった。「娯楽」「教養」のみならず、「対話力」や「プレゼン力」の向上・・・・・・落語には色んな要素が詰まっている。また、ここ『きたまえ亭』では落語家以外に地元愛好家の方々も高座で活躍している。何より素晴らしいのは地元ボランティアスタッフの輪。赤のハッピ軍団に元気をもらう人も多い。これらにより新たな客層が生まれた。「地域交流」こそ、ここの一番大きな売りだと思う。

ぼくの主宰する『愚か塾』。この日は落語発表会があった。打ち上げの前に能楽師を招いて謡の演習。
2014年7月 なぜ、笑いが必要なのか?
落語の発祥は定説としては江戸の中期と言われている。しかし、今日のような「所作をまじえて登場人物の台詞で進展する物語芸」を落語と定義づけるなら江戸の末期から明治の初め頃とするべきだろう。初代桂文治という人物が江戸の末期頃、坐摩神社の境内に小屋を建て「仕方咄」なるものを演じたとある。この「仕方咄」こそが今の落語の形であった。幕府から政府へ。落語が華開いたのはそんな時代であった。
ところで狂言という芸能。こちらの発祥は鎌倉・室町にまで遡る。公家から幕府に政権が移ったばかりという時代にあって世の中は混沌としていたに違いない。つまり、"落語"と"狂言"という"日本を代表する二つの笑いの芸能"にはそれぞれ"開幕"と"閉幕"という背景がある。「不況時には笑いが流行る」ということをよく耳にするが、これらのことを踏まえると実に納得がいくのである。混沌とした時代にあって"笑い"は不安を吹き飛ばし新しい活力を生む源なのだ。

年に一回、9月の第一土曜日曜に行われる『彦八祭り』。大阪の落語は米沢彦八による大道芸が発祥と言われている。
2014年8月 個性は滲み出るもの
師匠の側にいるということが弟子にとって何よりの修行だった。でも入門して当初は師匠もぼくにどこか余所余所しかった。しかし兄弟子たちにはまるで違った。叱り方にも容赦がない。叱ってさえもらえないぼくはずっと寂しかった。初めて師匠に怒鳴られたときのこと。師匠はぼくにこう言った。「叱られて笑う奴があるか!」。嬉しさのあまり、ぼくの顔からは笑みが溢れていた。
園部貴弘氏は『会社に入ったら三年間は"はい"と答えなさい』(東洋経済新聞社)という本のなかでこう言う。「たとえ理不尽だったとしても師匠の言うことには『はい』という姿勢を持つこと。最初は師匠の言うことが分からなくとも、そうすることで師匠の目線に立つことができ、それで初めて師匠の言っていた意味が分かってくる。自分の考えばかりを主張したり、反論ばかりしているといつまで経っても師匠の目線に立てないため成長が遅れてしまう」。ちなみに落語家のお稽古は「口写し」という方法。この稽古でぼくは兄弟子からも随分叱られた。「わしを全部飲み込むつもりで稽古せんかい。エエトコ獲りしようなんて早すぎる。とことん真似して、それでもどうしても真似しきれんところが出てくる。それが個性ちゅうもんや」。個性は作るものではない。滲み出てくるものなのだ。
2014年9月 脱ぐ・吐く・こぼれる
川柳作家の高鶴礼子先生曰く。川柳における三つの大事とは「脱ぐ・吐く・こぼれる」。「脱ぐ」とは、自分を晒け出す、本音を晒すということ。「吐く」とは、書こうとする対象をいったん呑み込み、よく消化して吐き戻すということ。「こぼれる」とは、心の中に貯まった感情が何かのきっかけでこぼれ始めるのを捕まえて書くということ。
例えば『ぜんざい公社』という咄。国営のぜんざい屋が誕生した。「ぜんざいを食べたいんですが……」「この突き当たりに窓口がありますので」。手続きを済ませ、元の窓口へ戻ると今度は銀行の窓口へ。男は言われるがまま役所のなかをたらい回し。「餅はちゃんと焼いとくなはれ」「消防局の許可が…」「生でかじるわ」「保健所で健康診断を」。言いたいこともはっきり言えず翻弄される男。情けなくもあり、切なくもあり……。押さえつつもこぼれる気持ちを表現して可笑しい。
高鶴先生の発行する『ノエマ・ノエシス』から一句。「その人の子どもにあげるカブト虫」(近藤ゆかり)実に切ない。自嘲がさそう笑い。省略の美学。そして、この「こぼれ」感。落語と川柳はどこか符合している。

高鶴礼子さんと。世界一周クルーズの船内にて。
2014年10月 想像の翼
第二次大戦中、食べるものがなく飢えている弟に向かい姉はこう言った。「ね
え何が食べたい?いちばん食べたいものは何?」二人は笑いながらおいしいものを次々とあげた。「そんなに食べたら、おなかこわしちゃうわね」弟はおどけて、でんぐり返しをして見せた。おなかがいっぱいで、もう大丈夫だというように。
上はオノヨーコ『グレープフルーツ・ジュース (講談社文庫)の序文。姉とはオノヨーコさんのことである。現在、NHK朝の連続テレビドラマ小説『花子とアン』にも「想像の翼」という言葉が頻繁に出てくる。さっそくぼくは『花子とアン』のモデルになった村岡花子さんの朗読CDを聴いてみた。当時の放送事情もあるのか、今の我々には少々早口に思われるかも知れない。でも、その語りかけるような口調はぼくの想像の翼をおおいに拡げてくれた。たとえ言葉が流暢であったとしてもそれが一方的では朗読は成り立たない。落語も朗読もいわばお客との「共同作業」=「対話の芸」である。息の詰め開きと共にある。
村岡花子がラジオ朗読を始めたのが昭和7年。初代春団治のラジオが昭和5年から。落語の黄金期はラジオと共に始まった。あの頃、ラジオを通した「語りの世界」がどれほど人の心を癒したことだろう。食べ物はお腹を満たし、想像は心を満たす。今また落語の時代である。
2014年11月 伝承という心意気 ~下へ下へ~
「己のことしか考えんような奴は落語家になったらあきまへん」。
これは故・六代目笑福亭松鶴師匠のお言葉。ぼくはこれを自身の師匠である故・二代目桂春蝶から教わった。六代目師匠は我が弟子よりも他所のお弟子さんをよく飲みに連れ歩いた。その一人が故・二代目春蝶。だから、春蝶もそれに倣って他所の一門の弟子を連れ歩くようになった。とりわけ多かったのは、やはり故・六代目師匠のお弟子さん方だった。これは故・六代目師匠への恩返しでもあった。ぼくもまた六代目のお弟子さんであるその先輩方によく面倒を見てもらっている。「わしはな、昔、君の師匠である春蝶兄さんにこうしてよう面倒見てもうたんや」。「上から受けた恩は上に返すのではなく、下に返していく」。幾度となくこんな言葉を聞いた。これが伝承の流儀である。こういった流儀が上方落語界を一枚岩にしたといって過言ではない。春蝶やざこば師匠が六代目師匠から恩を受ければ、春蝶やざこば師匠はそれを松鶴師匠のお弟子さん方に返す。それがまた、回り回ってぼくらに返ってくる。そうやって協会内部の交流が図られ結束が深められていった。次はぼくらの番である。
もし、松鶴師匠が我が一門だけを大事に考えていたなら、今の上方落語界はなかったであろう。常に全体を考えるのが六代目松鶴師匠であった。六代目松鶴師匠が名プロデューサーと言われる所以である。

ぼくの師匠、故・二代目桂春蝶(撮影:後藤清)
2014年12月 あほちゃうか
「お前、アホとちゃうか」。ぼくの周りでは日に何度となく耳にする。でも、これを言われて本気で腹を立てる人はまずいない。むしろ喜んでいるようにさえ思える。「お前のこと好っきやねん」という気持ちが大前提になっているからだ。落語で大切なことは演者自身による人物解釈。すなわち「人をどう見るか」ということ。落語会は会場全体の共感と共に盛り上がっていくものだが、もしそれが人を見下したような笑いでひとつになったとてぼくはそれを好まない。
手前味噌だが、ぼくの主宰する落語教室『愚か塾』の塾生がこんなことをおっしゃった。「私はね、これまでどこか人を見下した物言いをしてたんですよね。それを落語に気付かされました。町内のご隠居さんである甚兵衛さんが私にとってのロールモデルです。それに、相手を優位に立てる術は喜六という人物に教わりました」。ちなみにこの方は教育社会学を専門にする大学教授。ぼくは今、この方のもとで大学に籍を置かせてもらっている。自分を大きく見せたい、誇示したいという思いは誰にしもある。しかし、それにより知らず知らずのうちに、つい「上から目線」でモノを言ってはいないだろうか。柳家小さん師曰く「落語は人なり」、談志師曰く「落語は業の肯定」。それに「お前、あほちゃうか」。これらは皆符合している。落語にはまだまだ学ぶことが多い。
・・・・・・ここまでお読みいただき、誠にありがとうございました。
桂蝶六の公式サイトはこちら
この一年間、毎月二十日前後になると、毎週土曜日に開催される福井駅前寄席『きたまえ亭』の番組に加え、そのチラシへのコラム原稿を担当者に送ることになっていた。マニア向けではなく、全く落語に見向きもしなかった方が少しでも落語に興味を持ってくれるようにと心掛けたつもりである。限られた枠のなかで文章を練るという作業は、ぼくにとってとても有意義なものであった。この度、当席は休止することになったが、今はその再開を心待ちにしている。

きたまえ亭ファイナルの後、スタッフの方々と共に。
2014年1月 ステキな仲間、ここに集まれ!!!
1月4日は師匠の命日。以来、この日は墓参りと決めている。それに今年は『きたまえ寄席』という行事も加わった。ぼくにとってこの日はこれまで以上に大きな意味を持つことになった。主宰の鳴尾氏とはもう27年のお付き合いになるが、ここ20年あまりはずっと年賀状のやり取りだけだった。それが昨年の十月『ふくい町物語』というイベントでわざわざぼくを福井に招いてくれた。鳴尾氏もいつしか白髪まじりになったが人なつっこい笑顔は全く変わらない。「福井で寄席を作りたいねえ」という言葉は確かぼくが『福井放送』でパーソナリティーを始めた頃、そのスタジオで鳴尾氏から聞いている。・・・・・・あれから27年。今、ぼくが何とか落語家としていられるのは大げさでもなく「福井の町と人」のおかげである。福井はそれだけ人を温かく育てる包容力に溢れた町なのだ。ぼくはまたこの町に甘えることになる。これが何か次の兆しを生むきっかけになれば、それが一番嬉しい。

阪急「茨木市駅」に程近い称名寺というお寺に故・桂春蝶は眠っている。
2014年2月 しゃあないやっちゃなあ、愛すべきやっちゃなあ
上方落語の「喜六」は、ちょっとおっちょこちょいで憎めない愛すべき男。それにどこか「抜け目のない」男でもあります。少々の知恵としたたかさ、それに欲を持ち合わせている。小遣い稼ぎや仕返しのために行動する。これがあるから咄が始まるのですが・・・・・・そう考えてみると、「喜六」は落語の世界のみならず、世間のどこにでもいてそうな人物です。今月の演目で言えば、『子褒め』『不動坊』『阿弥陀池』・・・・・・。相変わらず間抜けでスカタンながら、本人はいたっていつも大真面目。相手を笑わせてやろうという魂胆は毛頭ない。そんな男にどうか一緒にエールを。「しゃあないやっちゃあ、けど愛すべきやっちゃなあ」という眼差し。こんな感性を共有することが落語会というライブの目的だとぼくは思うのです。
落語は人の愚かさを描いている。
人は聖人君子を尊敬しながらも
心のどこかで愚か者を愛している。
それは自分の愚かさにも
どこか共通するからかも知れない。
完全よりも不完全がいい
人の魅力はそんなところにある
落語の魅力はそんなところにある

繁昌亭にて、ぼくの高座(撮影:相原正明)
2014年3月 あなたと一緒に共同作業
「あれやったら自分にもできそうやと思いまっしゃろ。それが手ェですねん」とは、『ちんどん通信社』の林幸治郎氏の弁。チンドン音楽の目的はあくまで宣伝行為。通行人の関心が音楽にばかり向くようではいけない。とはいえ下手糞だとそっぽを向かれる。お客を十分に感心も得心もさせられるだけの技量を持ちながらあえて少しはずしてみせるぐらいの度量。この隙の見せ方こそチンドンの妙。だから親近感をもって人が寄ってくる。以前、ある先輩がぼくにこう言った。「(落語は)お客に上手い!と感心させてるようではアカン」。少なくとも寄席においてお客は「観客」というより「参加者」である。落語は高座で勝手に喋っているのではなくその場の空気を感じつつ語っている。「演者」の言葉を元に「お客」のなかに膨らむ想像。両者による「共同作業」。どうです?一緒に空間を創ってみませんか?

ちんどん通信社の古参3名による滑稽音曲『囃子座』。左から小林信之介、林幸治郎、ジャージ川口。このユニットに関しては、「ちんどん屋」とは違って、3名ともにすっぴんである。
2014年4月 気で気を養う
自分のことをあたかも第三者のように見たて、その自身を笑い飛ばしてしまう。これが「当事者離れの笑い」。およそ20年ほど前、阪神・淡路大震災での一例。家が全壊したという男性がインタビューに応えた。「そら大変でしたわ。京都や大阪からも親戚が心配して駆け付けてくれましてな。欲しいもんあったら何でも言うてくれちゅうさかい、わたい言うたんだ。家が欲しいって。そしたら、親戚中連中が皆を揃えて、そんなもんわしらかて欲しいがなっちゅうて、ガハハ……」。まるで落語の下げ。自分の身に起こった不幸や災難を笑い飛ばすことで哀しい自分とサヨウナラ。ところで、『貧乏花見』の「気で気を養う」という台詞。これは想像力を働かせて気持ちを豊かに持つということ。貧乏や金がないことをむしろ遊んでいる。究極のプラス思考。ともあれ、笑いには心の浄化作用がある。落語を聴けば元気が湧いてくる。

東日本大震災の折、ちんどん通信社や演歌流しの田浦高志らと共に慰問団。
2014年5月 フラジャイルな眼差し
かれこれ15年ほど前、ぼくはコラボレーションに夢中だった。津軽三味線、のこぎり楽器、馬頭琴の奏者やパントマイム、舞踏、狂言の演者たち・・・・・・ぼくらはよく酒を酌み交わした。ある時、ぼくは自身のことを打ち明けた。いじめやチックやパニック障害に悩んでいたこと・・・・・・すると、そこにいた全員がそれぞれのコンプレックスを語り始めた。「誰かに自分を見てもらいかった」「他人にできることができない自分がもどかしかった」。これがぼくたち全員の動機だった。ぼくらは元来フラジャイルの衆だった。
ところで、大阪落語の特徴のひとつに見台と膝隠しがある。かつて落語が野天で演じられた名残だ。座敷へ上げてもらえなかったから野天で演じたという説がある。蔑まれていたのだ。思えば、「狂言」「能」「歌舞伎」「落語」・・・・・・芸能は弱者が演じ育ててきた。仲間から外れるということはその集団を外から眺めるということでもある。同時に些細で微弱な現象に対して目を凝らし耳を澄ますことにも繋がった。落語には弱者としての共感がある。
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2014年6月 人が輝けば町が輝く
今、「落語教室」が人気である。自ら演じてみようという方々の増加。ぼくも大阪の『天満天神繁昌亭』などでその講師を勤めさせて頂いている。かつては「落語好きが高じて」という動機が主流だったが、昨今は大きな変化が見られるようだ。それは「人前で話す苦手を克服したい」「仕事のスキルを高めたい」といったもの。思えば昔、大阪の道頓堀の寄席小屋ではずいぶん垢抜けたお姉さん方を多く見かけたものだった。その高級クラブホステスさん方の目的は接客のための話術向上とネタの仕入れにあった。「娯楽」「教養」のみならず、「対話力」や「プレゼン力」の向上・・・・・・落語には色んな要素が詰まっている。また、ここ『きたまえ亭』では落語家以外に地元愛好家の方々も高座で活躍している。何より素晴らしいのは地元ボランティアスタッフの輪。赤のハッピ軍団に元気をもらう人も多い。これらにより新たな客層が生まれた。「地域交流」こそ、ここの一番大きな売りだと思う。

ぼくの主宰する『愚か塾』。この日は落語発表会があった。打ち上げの前に能楽師を招いて謡の演習。
2014年7月 なぜ、笑いが必要なのか?
落語の発祥は定説としては江戸の中期と言われている。しかし、今日のような「所作をまじえて登場人物の台詞で進展する物語芸」を落語と定義づけるなら江戸の末期から明治の初め頃とするべきだろう。初代桂文治という人物が江戸の末期頃、坐摩神社の境内に小屋を建て「仕方咄」なるものを演じたとある。この「仕方咄」こそが今の落語の形であった。幕府から政府へ。落語が華開いたのはそんな時代であった。
ところで狂言という芸能。こちらの発祥は鎌倉・室町にまで遡る。公家から幕府に政権が移ったばかりという時代にあって世の中は混沌としていたに違いない。つまり、"落語"と"狂言"という"日本を代表する二つの笑いの芸能"にはそれぞれ"開幕"と"閉幕"という背景がある。「不況時には笑いが流行る」ということをよく耳にするが、これらのことを踏まえると実に納得がいくのである。混沌とした時代にあって"笑い"は不安を吹き飛ばし新しい活力を生む源なのだ。

年に一回、9月の第一土曜日曜に行われる『彦八祭り』。大阪の落語は米沢彦八による大道芸が発祥と言われている。
2014年8月 個性は滲み出るもの
師匠の側にいるということが弟子にとって何よりの修行だった。でも入門して当初は師匠もぼくにどこか余所余所しかった。しかし兄弟子たちにはまるで違った。叱り方にも容赦がない。叱ってさえもらえないぼくはずっと寂しかった。初めて師匠に怒鳴られたときのこと。師匠はぼくにこう言った。「叱られて笑う奴があるか!」。嬉しさのあまり、ぼくの顔からは笑みが溢れていた。
園部貴弘氏は『会社に入ったら三年間は"はい"と答えなさい』(東洋経済新聞社)という本のなかでこう言う。「たとえ理不尽だったとしても師匠の言うことには『はい』という姿勢を持つこと。最初は師匠の言うことが分からなくとも、そうすることで師匠の目線に立つことができ、それで初めて師匠の言っていた意味が分かってくる。自分の考えばかりを主張したり、反論ばかりしているといつまで経っても師匠の目線に立てないため成長が遅れてしまう」。ちなみに落語家のお稽古は「口写し」という方法。この稽古でぼくは兄弟子からも随分叱られた。「わしを全部飲み込むつもりで稽古せんかい。エエトコ獲りしようなんて早すぎる。とことん真似して、それでもどうしても真似しきれんところが出てくる。それが個性ちゅうもんや」。個性は作るものではない。滲み出てくるものなのだ。
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2014年9月 脱ぐ・吐く・こぼれる
川柳作家の高鶴礼子先生曰く。川柳における三つの大事とは「脱ぐ・吐く・こぼれる」。「脱ぐ」とは、自分を晒け出す、本音を晒すということ。「吐く」とは、書こうとする対象をいったん呑み込み、よく消化して吐き戻すということ。「こぼれる」とは、心の中に貯まった感情が何かのきっかけでこぼれ始めるのを捕まえて書くということ。
例えば『ぜんざい公社』という咄。国営のぜんざい屋が誕生した。「ぜんざいを食べたいんですが……」「この突き当たりに窓口がありますので」。手続きを済ませ、元の窓口へ戻ると今度は銀行の窓口へ。男は言われるがまま役所のなかをたらい回し。「餅はちゃんと焼いとくなはれ」「消防局の許可が…」「生でかじるわ」「保健所で健康診断を」。言いたいこともはっきり言えず翻弄される男。情けなくもあり、切なくもあり……。押さえつつもこぼれる気持ちを表現して可笑しい。
高鶴先生の発行する『ノエマ・ノエシス』から一句。「その人の子どもにあげるカブト虫」(近藤ゆかり)実に切ない。自嘲がさそう笑い。省略の美学。そして、この「こぼれ」感。落語と川柳はどこか符合している。

高鶴礼子さんと。世界一周クルーズの船内にて。
2014年10月 想像の翼
第二次大戦中、食べるものがなく飢えている弟に向かい姉はこう言った。「ね
え何が食べたい?いちばん食べたいものは何?」二人は笑いながらおいしいものを次々とあげた。「そんなに食べたら、おなかこわしちゃうわね」弟はおどけて、でんぐり返しをして見せた。おなかがいっぱいで、もう大丈夫だというように。
上はオノヨーコ『グレープフルーツ・ジュース (講談社文庫)の序文。姉とはオノヨーコさんのことである。現在、NHK朝の連続テレビドラマ小説『花子とアン』にも「想像の翼」という言葉が頻繁に出てくる。さっそくぼくは『花子とアン』のモデルになった村岡花子さんの朗読CDを聴いてみた。当時の放送事情もあるのか、今の我々には少々早口に思われるかも知れない。でも、その語りかけるような口調はぼくの想像の翼をおおいに拡げてくれた。たとえ言葉が流暢であったとしてもそれが一方的では朗読は成り立たない。落語も朗読もいわばお客との「共同作業」=「対話の芸」である。息の詰め開きと共にある。
村岡花子がラジオ朗読を始めたのが昭和7年。初代春団治のラジオが昭和5年から。落語の黄金期はラジオと共に始まった。あの頃、ラジオを通した「語りの世界」がどれほど人の心を癒したことだろう。食べ物はお腹を満たし、想像は心を満たす。今また落語の時代である。
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2014年11月 伝承という心意気 ~下へ下へ~
「己のことしか考えんような奴は落語家になったらあきまへん」。
これは故・六代目笑福亭松鶴師匠のお言葉。ぼくはこれを自身の師匠である故・二代目桂春蝶から教わった。六代目師匠は我が弟子よりも他所のお弟子さんをよく飲みに連れ歩いた。その一人が故・二代目春蝶。だから、春蝶もそれに倣って他所の一門の弟子を連れ歩くようになった。とりわけ多かったのは、やはり故・六代目師匠のお弟子さん方だった。これは故・六代目師匠への恩返しでもあった。ぼくもまた六代目のお弟子さんであるその先輩方によく面倒を見てもらっている。「わしはな、昔、君の師匠である春蝶兄さんにこうしてよう面倒見てもうたんや」。「上から受けた恩は上に返すのではなく、下に返していく」。幾度となくこんな言葉を聞いた。これが伝承の流儀である。こういった流儀が上方落語界を一枚岩にしたといって過言ではない。春蝶やざこば師匠が六代目師匠から恩を受ければ、春蝶やざこば師匠はそれを松鶴師匠のお弟子さん方に返す。それがまた、回り回ってぼくらに返ってくる。そうやって協会内部の交流が図られ結束が深められていった。次はぼくらの番である。
もし、松鶴師匠が我が一門だけを大事に考えていたなら、今の上方落語界はなかったであろう。常に全体を考えるのが六代目松鶴師匠であった。六代目松鶴師匠が名プロデューサーと言われる所以である。

ぼくの師匠、故・二代目桂春蝶(撮影:後藤清)
2014年12月 あほちゃうか
「お前、アホとちゃうか」。ぼくの周りでは日に何度となく耳にする。でも、これを言われて本気で腹を立てる人はまずいない。むしろ喜んでいるようにさえ思える。「お前のこと好っきやねん」という気持ちが大前提になっているからだ。落語で大切なことは演者自身による人物解釈。すなわち「人をどう見るか」ということ。落語会は会場全体の共感と共に盛り上がっていくものだが、もしそれが人を見下したような笑いでひとつになったとてぼくはそれを好まない。
手前味噌だが、ぼくの主宰する落語教室『愚か塾』の塾生がこんなことをおっしゃった。「私はね、これまでどこか人を見下した物言いをしてたんですよね。それを落語に気付かされました。町内のご隠居さんである甚兵衛さんが私にとってのロールモデルです。それに、相手を優位に立てる術は喜六という人物に教わりました」。ちなみにこの方は教育社会学を専門にする大学教授。ぼくは今、この方のもとで大学に籍を置かせてもらっている。自分を大きく見せたい、誇示したいという思いは誰にしもある。しかし、それにより知らず知らずのうちに、つい「上から目線」でモノを言ってはいないだろうか。柳家小さん師曰く「落語は人なり」、談志師曰く「落語は業の肯定」。それに「お前、あほちゃうか」。これらは皆符合している。落語にはまだまだ学ぶことが多い。
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・・・・・・ここまでお読みいただき、誠にありがとうございました。
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