12.落語発表会パンフより 1
2012年8月18日(土)14時~
高津神社にて開催
「第6回愚か塾 落語発表会」
パンフレットより抜粋。
催しの詳細は
ホームページ桂蝶六公式ホームページ「蝶六の出番です」をご覧ください。
「平林」愚々亭楽娘(大江香陽子)
かつて大阪の商家では、住み込みで働きながら
仕事を覚えていくといった制度があった。
丁稚の年齢は一番下の子で七、八つ。
つまり、今で言うなら小学一年生のまだ子どもである。
旦さんは丁稚の定吉のことを内心可愛いやっちゃと思っているだろうし、
丁稚は主人である旦さんに全幅の信頼を寄せ甘えきっている。
だからこそ少々の憎まれ口も微笑ましい光景として映えるのである。
ついでに言うと、落語において子どもが可愛く映るのは、
子どもにおける周りの大人たちが彼のことをそう見ているからである。
旦さんの「しゃあないやっちゃ、けど憎めんやっちゃ」という眼差しは、
そのままお客さん自身の見方へと反映されていくのである。
楽娘さんは、ナレーター修業の傍らデイサービスで働いている。
私も「出前寄席」という形で、一度だけその職場へお邪魔したことがあるが、
彼女がお年寄りとの語らいに見せるちょっとした優しい笑顔
思いやりの様子がとても嬉しかった。
これが丁稚に寄せる旦さんと一致してくれば彼女は大化けする。
今はただ経験不足なだけで、落語に大事な根っこだけはしっかり持っている。
これをお客が感じ取った時、それを世間ではオーラと呼ぶのだろう。
「鉄砲勇助」愚家かゑる(米田薫)
嘘と法螺は類語には違いないが全く異質のものだ。
広辞苑によれば「嘘とは真実でないこと。
法螺とは大言を吐くこと」とある。
イメージとして見れば、嘘には罪があるが法螺には罪がない。
嘘は時に人を不愉快にするが、
法螺はどちらかというと人を楽しませるといった印象がある。
それに、法螺は最初から「これは真実ではありません」という
メッセージを含んでいるから人を騙すことにはならない。
この咄は“嘘つき村”という大作の発端部分に当たるが、
厳密には“嘘つき”ではなく“法螺吹き”であろう。
嘘はつくもので、法螺は吹くものだ。
古代、戦においては法螺貝を吹き鳴らし兵士を鼓舞したそうな。
同じく法螺話も元気にするものであって欲しい。
かゑるさんは、臨床心理学、教育心理学がご専門の大学教授。
法螺の効用についても伺ってみたい。
本日はどうぞ理屈抜きにお楽しみください。
理屈をもって聞くと、あまりの馬鹿馬鹿しさに落語はときにムカムカしてきます。
「道具屋」おしゃべり亭一服(尾花正敏)
江戸落語に登場する“与太郎”は馬鹿の代名詞。
一方、大阪落語で阿呆と言えば“喜六”だが、
この両者は全く異質のものである。
例えば、“与太郎”にはまるで欲といったものがないが
“喜六”は欲の塊である。でも、その欲こそが“喜六”の魅力であり、
欲があればこそ目的が生まれて行動を起こす。
その結果のスカタンこそが喜六咄の基本パターン。
それに、江戸の“与太郎”はまるで馬鹿だが、
喜六には多少の知恵がある。知恵があるからずるい事もする。
にも関わらず、“喜六”は周りの全ての人から愛されている。
彼を学ぶということは処世術を修得するも同じことだ。
普段はよく孫に絵本を読んで聞かせることが多いという一服さん。
今度は是非こうした愚か者の素晴らしさも子どもたちに伝えて欲しいものだ。
「立ちきれ」賑わい亭楽走(島野哲司)
ボンボンというものはとかく我が侭で世間知らずなものである。
少なくとも落語は類型的に人を描くので、ほぼそうなっている。
立ちきれの若旦那などはその典型と言えるだろう。
しかし、そんな“マイナス要因こそが人の魅力”である。
“大見得切ったようなことを言うわりに
どこか腰が引けている様子”をどこか可愛いと思える感性。
それさえあれば落語は楽しい。
それに落語の笑いは優しさと直結している。
ある師匠は、笑いは“呆れと困り”ですとおっしゃった。
“怒り”からは笑いが生まれないだろうし、
たとえ生まれたとしても後味の悪いものとなろう。
お稽古では、台詞や気分、感情のベクトルといったものにもこだわる。
落語は上手に話すかよりも、心情をどう解釈するかである。
これは落語だけの問題ではなく、世間全般に通ずることだろう。
長年保険会社の教官として勤めて来られた楽走さんである。
人の機微は誰よりも嫌というほど分かっておられる。
大阪にはこんな咄もあるんです。
「親子酒」愚家小がん(住岡英毅)
酔っぱらいを可愛い存在と見るか、
鬱陶しい存在と見るかは、その酔いの程度にもよるだろうが、
一番影響するのはその酔っぱらいとの位置関係や距離感だろう。
ちょっと離れたところから見ていると、酔っぱらいの中には愛らしい者もいる。
私はそういう酔っぱらいを落語に登場させたいと思っている。
たとえ酔っぱらいをいかにリアルに演じたとて、
それが不愉快を感じさせるだけに終わってしまえば
娯楽や芸としての意味がなかろう。
さて、小がんさんの落語における酔っぱらいであるが、
個人的には何とも可愛い酔っぱらいだと思っている。
癒し系の酔っぱらいとでも言おうか。
小がんさんは国立大学の名誉教授までなさって、
社会的にも功績を残したお方には違いないのですが、
逆にそれ故なのか、時にフッと力の抜けたところがまた魅力である。
先日、ある小学校の校長先生がこんな事を教えてくださった。
その先生は住岡教授の教え子でもある。
「私が学生時代、住岡教授がこんな事をおっしゃいましてね。
“教育というものはね、ほどほどがいいんですよ、ほどほど”
あの独特の口調でね、ねえ、分かるでしょう?」
たまたま伺った小学校で私はその校長先生と二人して妙に盛り上がった。
今、改めて考えると“ほどほど”はとても深い言葉だ。
ゆったり、背伸びをしない、中庸、節度、八分目、分相応、
余白を残す、等身大・・・
このフレーズだけで、落語と教育が見えてくる。
高津神社にて開催
「第6回愚か塾 落語発表会」
パンフレットより抜粋。
催しの詳細は
ホームページ桂蝶六公式ホームページ「蝶六の出番です」をご覧ください。
「平林」愚々亭楽娘(大江香陽子)
かつて大阪の商家では、住み込みで働きながら
仕事を覚えていくといった制度があった。
丁稚の年齢は一番下の子で七、八つ。
つまり、今で言うなら小学一年生のまだ子どもである。
旦さんは丁稚の定吉のことを内心可愛いやっちゃと思っているだろうし、
丁稚は主人である旦さんに全幅の信頼を寄せ甘えきっている。
だからこそ少々の憎まれ口も微笑ましい光景として映えるのである。
ついでに言うと、落語において子どもが可愛く映るのは、
子どもにおける周りの大人たちが彼のことをそう見ているからである。
旦さんの「しゃあないやっちゃ、けど憎めんやっちゃ」という眼差しは、
そのままお客さん自身の見方へと反映されていくのである。
楽娘さんは、ナレーター修業の傍らデイサービスで働いている。
私も「出前寄席」という形で、一度だけその職場へお邪魔したことがあるが、
彼女がお年寄りとの語らいに見せるちょっとした優しい笑顔
思いやりの様子がとても嬉しかった。
これが丁稚に寄せる旦さんと一致してくれば彼女は大化けする。
今はただ経験不足なだけで、落語に大事な根っこだけはしっかり持っている。
これをお客が感じ取った時、それを世間ではオーラと呼ぶのだろう。
「鉄砲勇助」愚家かゑる(米田薫)
嘘と法螺は類語には違いないが全く異質のものだ。
広辞苑によれば「嘘とは真実でないこと。
法螺とは大言を吐くこと」とある。
イメージとして見れば、嘘には罪があるが法螺には罪がない。
嘘は時に人を不愉快にするが、
法螺はどちらかというと人を楽しませるといった印象がある。
それに、法螺は最初から「これは真実ではありません」という
メッセージを含んでいるから人を騙すことにはならない。
この咄は“嘘つき村”という大作の発端部分に当たるが、
厳密には“嘘つき”ではなく“法螺吹き”であろう。
嘘はつくもので、法螺は吹くものだ。
古代、戦においては法螺貝を吹き鳴らし兵士を鼓舞したそうな。
同じく法螺話も元気にするものであって欲しい。
かゑるさんは、臨床心理学、教育心理学がご専門の大学教授。
法螺の効用についても伺ってみたい。
本日はどうぞ理屈抜きにお楽しみください。
理屈をもって聞くと、あまりの馬鹿馬鹿しさに落語はときにムカムカしてきます。
「道具屋」おしゃべり亭一服(尾花正敏)
江戸落語に登場する“与太郎”は馬鹿の代名詞。
一方、大阪落語で阿呆と言えば“喜六”だが、
この両者は全く異質のものである。
例えば、“与太郎”にはまるで欲といったものがないが
“喜六”は欲の塊である。でも、その欲こそが“喜六”の魅力であり、
欲があればこそ目的が生まれて行動を起こす。
その結果のスカタンこそが喜六咄の基本パターン。
それに、江戸の“与太郎”はまるで馬鹿だが、
喜六には多少の知恵がある。知恵があるからずるい事もする。
にも関わらず、“喜六”は周りの全ての人から愛されている。
彼を学ぶということは処世術を修得するも同じことだ。
普段はよく孫に絵本を読んで聞かせることが多いという一服さん。
今度は是非こうした愚か者の素晴らしさも子どもたちに伝えて欲しいものだ。
「立ちきれ」賑わい亭楽走(島野哲司)
ボンボンというものはとかく我が侭で世間知らずなものである。
少なくとも落語は類型的に人を描くので、ほぼそうなっている。
立ちきれの若旦那などはその典型と言えるだろう。
しかし、そんな“マイナス要因こそが人の魅力”である。
“大見得切ったようなことを言うわりに
どこか腰が引けている様子”をどこか可愛いと思える感性。
それさえあれば落語は楽しい。
それに落語の笑いは優しさと直結している。
ある師匠は、笑いは“呆れと困り”ですとおっしゃった。
“怒り”からは笑いが生まれないだろうし、
たとえ生まれたとしても後味の悪いものとなろう。
お稽古では、台詞や気分、感情のベクトルといったものにもこだわる。
落語は上手に話すかよりも、心情をどう解釈するかである。
これは落語だけの問題ではなく、世間全般に通ずることだろう。
長年保険会社の教官として勤めて来られた楽走さんである。
人の機微は誰よりも嫌というほど分かっておられる。
大阪にはこんな咄もあるんです。
「親子酒」愚家小がん(住岡英毅)
酔っぱらいを可愛い存在と見るか、
鬱陶しい存在と見るかは、その酔いの程度にもよるだろうが、
一番影響するのはその酔っぱらいとの位置関係や距離感だろう。
ちょっと離れたところから見ていると、酔っぱらいの中には愛らしい者もいる。
私はそういう酔っぱらいを落語に登場させたいと思っている。
たとえ酔っぱらいをいかにリアルに演じたとて、
それが不愉快を感じさせるだけに終わってしまえば
娯楽や芸としての意味がなかろう。
さて、小がんさんの落語における酔っぱらいであるが、
個人的には何とも可愛い酔っぱらいだと思っている。
癒し系の酔っぱらいとでも言おうか。
小がんさんは国立大学の名誉教授までなさって、
社会的にも功績を残したお方には違いないのですが、
逆にそれ故なのか、時にフッと力の抜けたところがまた魅力である。
先日、ある小学校の校長先生がこんな事を教えてくださった。
その先生は住岡教授の教え子でもある。
「私が学生時代、住岡教授がこんな事をおっしゃいましてね。
“教育というものはね、ほどほどがいいんですよ、ほどほど”
あの独特の口調でね、ねえ、分かるでしょう?」
たまたま伺った小学校で私はその校長先生と二人して妙に盛り上がった。
今、改めて考えると“ほどほど”はとても深い言葉だ。
ゆったり、背伸びをしない、中庸、節度、八分目、分相応、
余白を残す、等身大・・・
このフレーズだけで、落語と教育が見えてくる。
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