127.落語にこだわり続けた初代、二代の花團治
蝶六改メ、三代目桂花團治襲名 - 2015年02月17日 (火)
先代(二代目)花團治の襲名は、昭和19年(1944)のことだった。
亡くなったのが、昭和20年(1945)。
二代目は、たった一年だけの花團治だった。
昭和20年といえば、大阪大空襲の年である。
戦後70年間、花團治の名は、
ずっと空白のままだった。
「花團治代々」については、芸能史研究家の前田憲司氏が、
ずいぶん調べてていねいにまとめてくださっている。
前田憲司とは?(ウィキペディア)

それらをもとに、改めてここに書き記しておこうと思う。
◆初代 桂花團治(本名:梅本八十二郎)
明治8年(1875)~昭和17年(1942)12月23日。大阪市中央区千年町生まれ。
享年67歳。

初め花丸という名で、半分素人のような形で端席に出ていたが、
明治35年(1902)頃、二代目桂文團治(のちの七代目桂文治)に見出されて門下となり、
それから初代花團治を名乗り、一流の定席に出るようになった。
歌でおなじみのあの初代春團治とは、兄弟弟子の関係である。
大正元年(1912)、草創期の吉本興業入り。
「吉本興業専属第一号」という説もある。
初代が吉本に所属するようになったのは、
当時の吉本が、まだ「芦邉芸能」と言った時代であった。
しかしその後、吉本が大きくなって関西の寄席をほとんど支配するようになると、
そのまま高座を引退した。大正9年(1920)頃のことと思われる。
だんだんと落語家が落語を演らせてもらえないような時代、
しかしそんななか、初代花團治は堂々落語でトリをとっていた。

芸能史研究科の前田憲司先生が所有する当時のチラシをコピーさせていただいた。
落語家が、かる口(漫才)、音曲踊り、落語踊り、落語音曲などを演じている。
この時代の芸能史について『戦後日本の大衆文化史』に詳しい。
創設者の吉本泰三の指導下にあったときに、
吉本興業は落語家を傘下に集めることを主なねらいとした。
大正13年(1924)、創設者が亡くなって、
夫人の吉本せいが会社を取り仕切るようになると、
安木節を演じる農家の娘たちを、出し物の中心に据えるようなった。
さらに、昭和元年(1926)以降は、吉本せいの実弟である林正之助が、
寄席の中心に漫才を置くという決断を下した。
また、大正14年(1925)にはラジオ放送が始まっている。
これが漫才の普及をおおいに助けた。
それは、落語の衰退を意味した。
ところで、五代目笑福亭松鶴が吉本を離脱したのは、
昭和12年(1937)のこと。
当時の「落語軽視」の方針に嫌気がさしてのことだった。
同年、五代目松鶴は、落語家の若手育成を目的に「楽語荘」を立ち上げた。
このときすでに引退していた初代花團治は、
五代目笑福亭松鶴に請われ、その同人となった。
昭和13年(1938)
「上方はなしを聴く会」での落語は、
初代花團治にとって17年ぶり、
63歳のときだった。
以下は、楽語荘の機関雑誌『上方はなし』からの抜粋である。
花團治君が三越へはじめて出て「子はかすがい」をやったとき、弟子の花柳君などが陰でずいぶん心配したそうである。巧くやってくれるようにと、この善良な弟子さんたちは17年ぶりに出る師匠のために祈ったそうである。せめて羽織だけでも着せかけてあげたいと、楽語荘の同人ではないが、花柳君と兄弟弟子の花次君も三越へ駆けつけたという。まことに美わしい師弟ではないか。芸道読本に載せてもいいような話である。幾年離れていても師と弟子はいつまでもかくありたいものだと、筆者など柄にもなくほろりとさせられた。二度目の「辻占」を演ったときも、花柳君など大虎になっていながらやはり気になるとみえて、三越へ顔を出していた。こんなに思ってもらっている花團治君は、何といってもしあわせものである。羨まれてもいいと思う。
花團治君の17年ぶりの高座は「子はかすがい」であったが。ことに女房の件は相当に巧かった。この前の「辻占茶屋」でも、得意なものだろうが、楽々と成功していた。この人のどこを押せばこんな色気が出るかと思えるぐらいである。ところで「子はかすがい」の母親があんまり色気があり過ぎたということが、この間も問題になった。花團治君の写していた母親はあまり色気が出すぎている。あれではどうも堅気の女房には見えない、というのだ。なるほどそういえばこの母親など少しばかり粋すぎていたという感じもあする。
(中略)
花團治君は大阪の落語家に似ず明快な口調をもっている。歯切れのいいすき通った口調である。
…………

吉本を飛び出して、いったんは引退した初代花團治であったが、
楽語荘の同人となって復帰するまでの17年間はどうしていたのか。
曾孫にあたる山田りこさんがこんなことをおっしゃっていた。
「ひいじいちゃんは、
絵を描いて生計を立ててたみたいですよ」
初代花團治のひ孫・山田りこさんの紹介サイト
出どころは明かせないが、小春團治兄の助けもあって、
ぼくは何とかその絵のコピーを入手することができた。

◆二代目花團治(本名:掛川晴美)
生年不詳~昭和20年(1945)6月15日

吉本に入った二代目花團治(花次改め)は、
大正15年(1926)、五代目笑福亭松鶴や初代桂小春團治らと共に、
若手落語家のグループ「花月ピクニック」のメンバーとして活躍。
しかし、昭和初期になると、吉本の漫才重視から、
桂金之助と軽口のコンビを組むようになった。
その後、吉本興業のバラエティー一座「喜劇民謡座」の幹部となるが、
落語への愛着を捨てきれず、初代と同じように、、
五代目松鶴の主宰する「楽語荘」の同人となった。
その後、昭和19年に二代目花團治を襲名。
あとは、冒頭の通り。
落語への愛着が強かった初代、二代目。
人気者の地位を捨ててまで
とことん落語というものにこだわった。
このことを大切に、
ぼくもぼくなりの三代目を作っていきたい。
「骨」ある代々に続いていきたい。
どうか、この「きっしょ」に立ち会っていただきたい。
みなさまのご来場を心よりお待ち申し上げます。
・・・・・・最後までお読みくださり、ありがとうございました。

襲名記者会見(左から山田りこ、桂春之輔、ぼく、桂福團治、前田憲司)

アゼリアホールの公式サイト
亡くなったのが、昭和20年(1945)。
二代目は、たった一年だけの花團治だった。
昭和20年といえば、大阪大空襲の年である。
戦後70年間、花團治の名は、
ずっと空白のままだった。
「花團治代々」については、芸能史研究家の前田憲司氏が、
ずいぶん調べてていねいにまとめてくださっている。
前田憲司とは?(ウィキペディア)

それらをもとに、改めてここに書き記しておこうと思う。
◆初代 桂花團治(本名:梅本八十二郎)
明治8年(1875)~昭和17年(1942)12月23日。大阪市中央区千年町生まれ。
享年67歳。

初め花丸という名で、半分素人のような形で端席に出ていたが、
明治35年(1902)頃、二代目桂文團治(のちの七代目桂文治)に見出されて門下となり、
それから初代花團治を名乗り、一流の定席に出るようになった。
歌でおなじみのあの初代春團治とは、兄弟弟子の関係である。
大正元年(1912)、草創期の吉本興業入り。
「吉本興業専属第一号」という説もある。
初代が吉本に所属するようになったのは、
当時の吉本が、まだ「芦邉芸能」と言った時代であった。
しかしその後、吉本が大きくなって関西の寄席をほとんど支配するようになると、
そのまま高座を引退した。大正9年(1920)頃のことと思われる。
だんだんと落語家が落語を演らせてもらえないような時代、
しかしそんななか、初代花團治は堂々落語でトリをとっていた。

芸能史研究科の前田憲司先生が所有する当時のチラシをコピーさせていただいた。
落語家が、かる口(漫才)、音曲踊り、落語踊り、落語音曲などを演じている。
この時代の芸能史について『戦後日本の大衆文化史』に詳しい。
創設者の吉本泰三の指導下にあったときに、
吉本興業は落語家を傘下に集めることを主なねらいとした。
大正13年(1924)、創設者が亡くなって、
夫人の吉本せいが会社を取り仕切るようになると、
安木節を演じる農家の娘たちを、出し物の中心に据えるようなった。
さらに、昭和元年(1926)以降は、吉本せいの実弟である林正之助が、
寄席の中心に漫才を置くという決断を下した。
また、大正14年(1925)にはラジオ放送が始まっている。
これが漫才の普及をおおいに助けた。
それは、落語の衰退を意味した。
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ところで、五代目笑福亭松鶴が吉本を離脱したのは、
昭和12年(1937)のこと。
当時の「落語軽視」の方針に嫌気がさしてのことだった。
同年、五代目松鶴は、落語家の若手育成を目的に「楽語荘」を立ち上げた。
このときすでに引退していた初代花團治は、
五代目笑福亭松鶴に請われ、その同人となった。
昭和13年(1938)
「上方はなしを聴く会」での落語は、
初代花團治にとって17年ぶり、
63歳のときだった。
以下は、楽語荘の機関雑誌『上方はなし』からの抜粋である。
花團治君が三越へはじめて出て「子はかすがい」をやったとき、弟子の花柳君などが陰でずいぶん心配したそうである。巧くやってくれるようにと、この善良な弟子さんたちは17年ぶりに出る師匠のために祈ったそうである。せめて羽織だけでも着せかけてあげたいと、楽語荘の同人ではないが、花柳君と兄弟弟子の花次君も三越へ駆けつけたという。まことに美わしい師弟ではないか。芸道読本に載せてもいいような話である。幾年離れていても師と弟子はいつまでもかくありたいものだと、筆者など柄にもなくほろりとさせられた。二度目の「辻占」を演ったときも、花柳君など大虎になっていながらやはり気になるとみえて、三越へ顔を出していた。こんなに思ってもらっている花團治君は、何といってもしあわせものである。羨まれてもいいと思う。
花團治君の17年ぶりの高座は「子はかすがい」であったが。ことに女房の件は相当に巧かった。この前の「辻占茶屋」でも、得意なものだろうが、楽々と成功していた。この人のどこを押せばこんな色気が出るかと思えるぐらいである。ところで「子はかすがい」の母親があんまり色気があり過ぎたということが、この間も問題になった。花團治君の写していた母親はあまり色気が出すぎている。あれではどうも堅気の女房には見えない、というのだ。なるほどそういえばこの母親など少しばかり粋すぎていたという感じもあする。
(中略)
花團治君は大阪の落語家に似ず明快な口調をもっている。歯切れのいいすき通った口調である。
…………

吉本を飛び出して、いったんは引退した初代花團治であったが、
楽語荘の同人となって復帰するまでの17年間はどうしていたのか。
曾孫にあたる山田りこさんがこんなことをおっしゃっていた。
「ひいじいちゃんは、
絵を描いて生計を立ててたみたいですよ」
初代花團治のひ孫・山田りこさんの紹介サイト
出どころは明かせないが、小春團治兄の助けもあって、
ぼくは何とかその絵のコピーを入手することができた。

◆二代目花團治(本名:掛川晴美)
生年不詳~昭和20年(1945)6月15日

吉本に入った二代目花團治(花次改め)は、
大正15年(1926)、五代目笑福亭松鶴や初代桂小春團治らと共に、
若手落語家のグループ「花月ピクニック」のメンバーとして活躍。
しかし、昭和初期になると、吉本の漫才重視から、
桂金之助と軽口のコンビを組むようになった。
その後、吉本興業のバラエティー一座「喜劇民謡座」の幹部となるが、
落語への愛着を捨てきれず、初代と同じように、、
五代目松鶴の主宰する「楽語荘」の同人となった。
その後、昭和19年に二代目花團治を襲名。
あとは、冒頭の通り。
落語への愛着が強かった初代、二代目。
人気者の地位を捨ててまで
とことん落語というものにこだわった。
このことを大切に、
ぼくもぼくなりの三代目を作っていきたい。
「骨」ある代々に続いていきたい。
どうか、この「きっしょ」に立ち会っていただきたい。
みなさまのご来場を心よりお待ち申し上げます。
・・・・・・最後までお読みくださり、ありがとうございました。

襲名記者会見(左から山田りこ、桂春之輔、ぼく、桂福團治、前田憲司)

アゼリアホールの公式サイト
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