133.襲名秘話~船乗り込み2~
蝶六改メ、三代目桂花團治襲名 - 2015年05月03日 (日)
(前号からの続き)

襲名公演成功を祈願して、池田「呉服神社」にてご祈祷の模様。 撮影:相原正明
心配事は山積みだった。
さて、商店街でお練りをするとなると、
安全面は大丈夫かとか、
商店主の了解を得られるかとか、
はたして道幅の狭いところを船が通れるかとか、
雨の場合はどうするかとか、
警察の許可が下りるかとか、
人が集まってくれるのかとか、
どういうルートにするかとか、
船を動かす要員、食事、トラックの手配……
商店会の全面協力なくして実現できない。
その日は「春團治まつり実行委員会」の会合だった。
ぼくの隣には実行委員長の桂春之輔師。
商店会の主だったメンバー、市役所の担当者、ホールの責任者、
当日、商店街や公園で店を出す方々の代表、
春團治法要を営むお寺の御住職……
「春團治まつり」は町あげてのお祭り。

船を動かすには、動力のみならず交通整理や誘導が肝心だ。 撮影:相原正明

あいにくの雨にも関わらず、大勢の方々が出迎えてくださった。(石橋駅前) 撮影:相原正明
会議のさなか、かつて全国を客演としてご一緒させていただいたことのある
ふるさときゃらばんという劇団を思い出していた。
劇団の行くところ、どの会場も「お祭り騒ぎ」だった小学校の体育館で催せば、校庭には屋台がずらり並んでいた。
「男はつらいよ」でも有名な山田洋次監督は、
この劇団の前身である「統一劇場」を映画にしている。
山田洋次監督「同胞」(はらから)
芝居の上演そのものが「町おこし」だった。
あの頃、大変お世話になった演出家の先生が襲名パンフレットにこんな一文を寄せてくださっている。
桂蝶六さんが三代目花團治を襲名したという。十年程前になるが、ふるきゃらが大阪で公演したとき、ミュージカルなのに笑いを撮っていると評判になり、三枝(現文枝)さんや春團治さんなど大阪の笑いの達人たちが観に来てくれた。その頃、若き蝶六さんもよく顔を出していた。
気がついて見れば、蝶六さんはふるきゃらの旅公演に付いて来て、キャストの一員として舞台にも乗って芝居をしていた。
いくら芸熱心だからと言って、落語家が急にミュージカル俳優に変身できる訳もなく、情け容赦も無い私の演出にジタバタしていた。だが蝶六さんは皆んなに好かれた。それは舞台に立つ人間の最も大切な要素かも知れない。
蝶六さんは狂言の修行もしたという。ふるきゃらも一時狂言を学んだことがあった。笑いの舞台を求めるものは、皆んな狂言にすがろうとする時期があるようだ。笑いは簡単に生み出せないから。
その蝶六さんが花團治となった。花團治という名は耳慣れないが、蝶六さんが花團治という名を売り出してくれることだろう。ふるきゃらの劇団員は、花團治となった蝶六さんの芸をみんな見たいと思っている。大阪に行くことのたのしみが増えた。 (ふるきゃら 脚本・演出家 石塚克彦)

当時の台本
「春團治まつり」なのだから、落語会のみならず、
町ぐるみの襲名公演にしてもらえたらいいなあ。
そんな思いもあっての「船乗り込み」だった。
ぼくも襲名で「ふるきゃら」がしたい。
・・・・・・・・・
「もうちょっと詳しゅう聞かせてもらえまへんか?」と商店会会長。
ぼくは内心焦っていた。
船の幅や高さに関して、
ぼくの手元にはまだおおまかなことだけで
具体的な資料など、まだ整っていなかった。
春之輔師匠が横から心配そうに見つめている。
しかし、それでも話はどんどん前向きに進んでいった。
「ただ練り歩くだけやったら盛り上がらんのとちゃうか?」
「商店街としても、何か宣伝になるようなことをせんとあかんなあ」
「抽選会をして人を集めるとか」
「船の上から何か撒くっちゅうのはどうやろ」
くどくど言うよりも、
どうやったら開催できるか、
どうすれば盛り上がるか、
商人の心意気。前向き。
「泣いてる暇があったら笑うてこまして生きよやないか」
お練りに欠かせない幟は、
石橋の居酒屋「ちりとてちん」の大将が段取りしてくれることになった。
「芸大(大阪芸術大学)の落研OBに声を掛けてみるわ」
ぼくが芸大に通ったのはたった一年。
そんな中退の身の上にも手を差し伸べてくれるという。
高校の同級生も幟の寄贈を申し出てくれた。

地元の情報誌「クレハ」も巻頭記事で盛り上げてくれた。
みんなが手を差し伸べてくれた。
ぼくも頭を下げたけど、周囲はもっと頭を下げた。
「何とか、手を貸したってください」と深々と春之輔師匠。
「よっしゃ、何とかするがな」と商店会の会長。
実際、会長はずいぶん方々に頭を下げてまわったらしい。
「長」という字は、頭を下げるってことなんだな。
「長」の重みって、すごいな。

左から、桂春之輔師匠(上方落語協会副会長・春團治まつり実行委員長)、ぼく、
前田憲司先生(芸能史研究科・春團治まつりの構成・監修) 撮影:相原正明
一緒に練り歩いてもらう咄家だが、
これはなかなかに力仕事なので、
若手を中心に頼むつもりでいた。
しかし。
「いや、オレも参加するで」と小春團治兄。
「何やオモシロそうやな」と梅團治兄。
「わたし、チラシ配るぐらいやったらでけるかも」と都姉。
気がつけば春團治一門の中堅、若手のほぼ全員が、
集まってくれることになった。
あとでこのことを大師匠の春團治に伝えると、
おおいに喜んでくださった。
いざとなれば
春團治一門の結束は固い。

撮影:相原正明
撮影:相原正明
今、そのときの船は、
大和郡山城ホールのロビーに展示されている。

左から、上田市長、ぼく、三川美恵子さん(伝統文化を継承する会代表) 撮影:藤井百々
大和郡山は「かたりべの里」。
古事記を編纂した稗田阿礼の出身地。
稗田阿礼は、日本における「口承芸能」の元祖。
舞台は「落語のまち」から「かたりべの里」へ。
9月11日(金)18時30分~
大和郡山城小ホール
三川美恵子社中(箏曲)
桂小梅
桂小春團治
桂福團治
中入り
口上(司会:タージン)
囃子座(滑稽音曲)
桂花團治
・・・・・・ぼくに稗田阿礼のことを教えてくださったのは、大和郡山の上田市長だった。
それは「蝶六さん、久留島武彦っていう方をご存じですか?」という問いかけから始まった。
あれは3年ほど前のこと。
ぼくの「大和郡山」に対するこだわりは、実はこの一言から始まりました。
……続きは次号で。
ずっと追いかけてくださっている写真家の先生です。
相原正明つれづれフォトブログ
ただいま工事中ではありますが。
桂花團治公式サイト

襲名公演成功を祈願して、池田「呉服神社」にてご祈祷の模様。 撮影:相原正明
心配事は山積みだった。
さて、商店街でお練りをするとなると、
安全面は大丈夫かとか、
商店主の了解を得られるかとか、
はたして道幅の狭いところを船が通れるかとか、
雨の場合はどうするかとか、
警察の許可が下りるかとか、
人が集まってくれるのかとか、
どういうルートにするかとか、
船を動かす要員、食事、トラックの手配……
商店会の全面協力なくして実現できない。
その日は「春團治まつり実行委員会」の会合だった。
ぼくの隣には実行委員長の桂春之輔師。
商店会の主だったメンバー、市役所の担当者、ホールの責任者、
当日、商店街や公園で店を出す方々の代表、
春團治法要を営むお寺の御住職……
「春團治まつり」は町あげてのお祭り。

船を動かすには、動力のみならず交通整理や誘導が肝心だ。 撮影:相原正明

あいにくの雨にも関わらず、大勢の方々が出迎えてくださった。(石橋駅前) 撮影:相原正明
会議のさなか、かつて全国を客演としてご一緒させていただいたことのある
ふるさときゃらばんという劇団を思い出していた。
劇団の行くところ、どの会場も「お祭り騒ぎ」だった小学校の体育館で催せば、校庭には屋台がずらり並んでいた。
「男はつらいよ」でも有名な山田洋次監督は、
この劇団の前身である「統一劇場」を映画にしている。
山田洋次監督「同胞」(はらから)
芝居の上演そのものが「町おこし」だった。
あの頃、大変お世話になった演出家の先生が襲名パンフレットにこんな一文を寄せてくださっている。
桂蝶六さんが三代目花團治を襲名したという。十年程前になるが、ふるきゃらが大阪で公演したとき、ミュージカルなのに笑いを撮っていると評判になり、三枝(現文枝)さんや春團治さんなど大阪の笑いの達人たちが観に来てくれた。その頃、若き蝶六さんもよく顔を出していた。
気がついて見れば、蝶六さんはふるきゃらの旅公演に付いて来て、キャストの一員として舞台にも乗って芝居をしていた。
いくら芸熱心だからと言って、落語家が急にミュージカル俳優に変身できる訳もなく、情け容赦も無い私の演出にジタバタしていた。だが蝶六さんは皆んなに好かれた。それは舞台に立つ人間の最も大切な要素かも知れない。
蝶六さんは狂言の修行もしたという。ふるきゃらも一時狂言を学んだことがあった。笑いの舞台を求めるものは、皆んな狂言にすがろうとする時期があるようだ。笑いは簡単に生み出せないから。
その蝶六さんが花團治となった。花團治という名は耳慣れないが、蝶六さんが花團治という名を売り出してくれることだろう。ふるきゃらの劇団員は、花團治となった蝶六さんの芸をみんな見たいと思っている。大阪に行くことのたのしみが増えた。 (ふるきゃら 脚本・演出家 石塚克彦)

当時の台本
「春團治まつり」なのだから、落語会のみならず、
町ぐるみの襲名公演にしてもらえたらいいなあ。
そんな思いもあっての「船乗り込み」だった。
ぼくも襲名で「ふるきゃら」がしたい。
・・・・・・・・・
「もうちょっと詳しゅう聞かせてもらえまへんか?」と商店会会長。
ぼくは内心焦っていた。
船の幅や高さに関して、
ぼくの手元にはまだおおまかなことだけで
具体的な資料など、まだ整っていなかった。
春之輔師匠が横から心配そうに見つめている。
しかし、それでも話はどんどん前向きに進んでいった。
「ただ練り歩くだけやったら盛り上がらんのとちゃうか?」
「商店街としても、何か宣伝になるようなことをせんとあかんなあ」
「抽選会をして人を集めるとか」
「船の上から何か撒くっちゅうのはどうやろ」
くどくど言うよりも、
どうやったら開催できるか、
どうすれば盛り上がるか、
商人の心意気。前向き。
「泣いてる暇があったら笑うてこまして生きよやないか」
お練りに欠かせない幟は、
石橋の居酒屋「ちりとてちん」の大将が段取りしてくれることになった。
「芸大(大阪芸術大学)の落研OBに声を掛けてみるわ」
ぼくが芸大に通ったのはたった一年。
そんな中退の身の上にも手を差し伸べてくれるという。
高校の同級生も幟の寄贈を申し出てくれた。

地元の情報誌「クレハ」も巻頭記事で盛り上げてくれた。
みんなが手を差し伸べてくれた。
ぼくも頭を下げたけど、周囲はもっと頭を下げた。
「何とか、手を貸したってください」と深々と春之輔師匠。
「よっしゃ、何とかするがな」と商店会の会長。
実際、会長はずいぶん方々に頭を下げてまわったらしい。
「長」という字は、頭を下げるってことなんだな。
「長」の重みって、すごいな。

左から、桂春之輔師匠(上方落語協会副会長・春團治まつり実行委員長)、ぼく、
前田憲司先生(芸能史研究科・春團治まつりの構成・監修) 撮影:相原正明
一緒に練り歩いてもらう咄家だが、
これはなかなかに力仕事なので、
若手を中心に頼むつもりでいた。
しかし。
「いや、オレも参加するで」と小春團治兄。
「何やオモシロそうやな」と梅團治兄。
「わたし、チラシ配るぐらいやったらでけるかも」と都姉。
気がつけば春團治一門の中堅、若手のほぼ全員が、
集まってくれることになった。
あとでこのことを大師匠の春團治に伝えると、
おおいに喜んでくださった。
いざとなれば
春團治一門の結束は固い。

撮影:相原正明

撮影:相原正明
今、そのときの船は、
大和郡山城ホールのロビーに展示されている。

左から、上田市長、ぼく、三川美恵子さん(伝統文化を継承する会代表) 撮影:藤井百々
大和郡山は「かたりべの里」。
古事記を編纂した稗田阿礼の出身地。
稗田阿礼は、日本における「口承芸能」の元祖。
舞台は「落語のまち」から「かたりべの里」へ。
9月11日(金)18時30分~
大和郡山城小ホール
三川美恵子社中(箏曲)
桂小梅
桂小春團治
桂福團治
中入り
口上(司会:タージン)
囃子座(滑稽音曲)
桂花團治
・・・・・・ぼくに稗田阿礼のことを教えてくださったのは、大和郡山の上田市長だった。
それは「蝶六さん、久留島武彦っていう方をご存じですか?」という問いかけから始まった。
あれは3年ほど前のこと。
ぼくの「大和郡山」に対するこだわりは、実はこの一言から始まりました。
……続きは次号で。
ずっと追いかけてくださっている写真家の先生です。
相原正明つれづれフォトブログ
ただいま工事中ではありますが。
桂花團治公式サイト
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