150.告別式での万歳三唱~石塚克彦先生、ありがとうございました~
ダイアリー - 2015年11月04日 (水)
葬儀会場での万歳三唱。
弔辞で語られるエピソードに思わず笑いが漏れた。
隣にいた女性も、その隣の男性も、
泣いた顔で笑っていた。
「前日までお稽古してたのよ」と
昔大変お世話になった女優の一人がぼくにそう言った。
「いっぱいダメ出しもらってさあ、明日も見るからなって、それが私への最期の言葉なの……私、先生に認めてもらおうとたくさん稽古したのに」
ぼくは促されるまま、棺の前に立った。
穏やかな表情が救いだった。
棺が納められた車が会場を後にする際、
自然に拍手が沸き起こった。
「ありがとうございます!」の声が聞こえた。
「お疲れ様でした!」の声も響いた。

参列者全員での合唱もあった。
ぼくが客演させてもらったとき、
エンディングもこの曲だった。
山と川と田んぼと海と生きてゆくのさオレたち、私達。
畑耕す愛しさを作物に添え、届けたいのさ、遠くの町へと
人を愛する切なさを山の彼方に叫びたい
川面を渡る川風を遠くの街へ届けたいのさ
胸に応える海鳴りを淋しいアイツに聞かせたい
山に沸き立つあの雲を届けたい、都会のビル谷間に
お前がいて、オレがいて、遠くの町に友達がいる
生きているのさこの町 私達のオレたちの町
みんな、力強く歌っていた。
ぼくも自然に歌詞が口をついて出た。
思わずステップを踏みそうになった。
石塚先生らしい葬儀だった。
会場には、先生が生前描かれた絵コンテが並べられた。





告別式では石塚作品のダイジェスト版も上映された。



ぼくは「パパは家族の用心棒」という作品で舞台に立たせていただいた。

ぼくが「ふるさときゃらばん」の舞台に立たせていただいたのは、
わずか一年足らず、50ステージほどである。
みんなで作り上げてきた舞台に突如ぼくが代演として加わることになったのだ。
「ふるきゃら」はミュージカルである。
慣れないダンスに、慣れない芝居、標準語。
ぼくはずっとアタフタしていた。
ぼくが稽古場の隅で一人ダンスの練習をしているとき、
役者たちが入れ替わり立ち替わり、ぼくに指導をしてくれた。
時折、石塚先生もそれをこっそりのぞきに来られた。
旅先で石塚先生が「創作」についてこんなことをおっしゃった。
「俺にはさあ、創作能力なんて無いの。俺はね、制作が拾ってきた生の村人の言葉をつなぎ合わせているだけなの」
……「ふるさときゃらばん」で役者の発する言葉にはいつも「共感」があった。
稽古場に石塚先生の声が大きく響いた。
「台詞を喋ってんじゃねえよ!」
「その環境に身体を置けば、身体が反応して、自然に言葉が出てくるんだ!おれの本はそう作ってあるんだよ!」
……怒られるのはいつもボブと呼ばれる役者に決まっていた。でも、石塚先生は同じことをぼくにもっと言いたかったに違いない。けれども、ぼくは落語家で客演の身の上。だから、先生は代わりにボブにたくさんダメ出しをぶつけた。ぼくはそう思っている。それは、かつてぼくがざこば師匠につけてもらった「台詞をなぞらない稽古」とも符合していた。
ぼくの声はあまりに届かなかった。石塚先生は会場となった小学校の体育館の一番後ろに陣取って、ぼくにこうおっしゃった。
「蝶六よお、おれに言ってみなよ、その台詞。ちゃんと俺にさあ、届けておくれよ」
……石塚先生は決して「声を大きく!」なんてことは一言もおっしゃらなかった。
「大きな声を出す」ことと、「言葉を届ける」の違いをぼくは石塚先生から学んだ。

1995年(平成7年)に発行された「応援談」。
そのなかに僕の拙文もそこに寄稿させてもらったことがある。
読み返してみれば何とも青臭い文章ではあるが、
今もその思いは変わらない。


今からおよそ400年前、元禄頃、大阪の生国魂神社の境内において米沢彦八というお方がよしず張りの小屋を張り、落語を演じた。これが大阪における生業としての落語家の祖と言われている。いわゆる大道。見台を前に置き、それを小拍子と張り扇でもって音を鳴らしながら演じた。道行く人の足を止めるためである。発祥から上方落語は庶民のもん。生活者のポジションに立っていた。
今は亡き我が師匠、桂春蝶に尋ねたことがある。
「何で大阪に真打ち制度おまへんねやろか」
「要らんやろ。ええか悪いか、そん時どきのお客が決めはるがな。その高座で、お前がお客を納得させられたら、そん時の真打はお前や」
さらに付け加えて
「たまには高座で俺をびびらさんかい」
「ふるきゃら」との出逢いは二年前、福島県のとある農村。小学校の体育館内には定式幕が張りめぐらされ、さながら時代劇に出てくる芝居小屋の様であった。どしゃ降りの雨の中、座布団持参の老若男女、千数百名、ぎっしり。終了してすぐ、劇団の大内代表に促されて会場前に出た。そこに居並ぶ役者の姿。その各々の前には握手を求めてお客の列。「ありがとう」の言葉が飛びかう。「よかった」を通り越して「ありがとう」。腰の曲がったお婆さんが涙で顔をぐしゃぐしゃにしている姿が印象的であった。
「ふるきゃら」の魅力はこの言葉に集約されている。「私の言いたかったことをよくぞ言ってくれて、ありがとう」「元気にしてくれて、ありがとう」
「裸になったサラリーマン」も然り。「ふるきゃら」は常に生活者の味方。「我々同様」。そしていつも真打ち。
私は常に庶民の視点でモノを見ていきたい。「ふるきゃら」を見ると何故か今は亡き、春蝶のことを思い出すのである。
桂蝶六(1995年・応援談より)
襲名が決まったとき、ぼくは石塚先生からそのパンフレットに掲載する祝辞をいただいた。
劇団からこんな素敵な文章が送られてきた。
蝶六さんが花團治
桂蝶六さんが三代目花團治を襲名したという。
十年程前になるが、ふるきゃらが大阪で公演したとき、ミュージカルなのに笑いを取っていると評判になり、三枝 (現文枝) さんや春團治さんなど大阪の笑いの達人たちが観に来てくれた。その頃、若き蝶六さんもよく顔を出していた。気がついて見れば、蝶六さんはふるきゃらの旅公演に付いて来て、キャストの一員として舞台にも乗って芝居をしていた。いくら芸熱心だからと言って、落語家が急にミュージカル俳優に変身できる訳もなく、情け容赦も無い私の演出にジタバタしていた。だが蝶六さんは皆んなに好かれた。それは舞台に立つ人間の最も大切な要素かも知れない。蝶六さんは狂言の修業もしたという。ふるきゃらも一時(いっとき) 狂言を学んだことがあった。笑いの舞台を求めるものは、皆んな狂言にすがろうとする時期があるようだ。笑いは簡単に生み出せないから。その蝶六さんが花團治となった。花團治という名は耳馴れないが、蝶六さんが花團治という名を売り出してくれることだろう。ふるきゃらの劇団員は、花團治となった蝶六さんの芸をみんな見たいと思っている。大阪に行くことのたのしみが増えた。
ふるきゃら 脚本・演出家 石塚克彦
石塚先生、ありがとうございました。
お世話になりました。お疲れ様でした。
先生にあれほど教えていただいたのに、
今だ思うほど成長できずにいる自分が歯がゆいです。
落語会にお招きできなかったことが心残りです。
これからも石塚先生に教えていただいたことをしっかりと
胸に刻んで歩んでいきます。
どうか安らかに……合掌。


一番はじめに、山田洋次監督の名前があった。
山田洋次監督は、『ふるさときゃらばん』の前身である『統一劇場』を映画にされた。
それを見れば、『ふるさときゃらばん』がどういう劇団なのかがよく分かる。
◆山田洋次監督・映画『同胞』予告編
◆「ふるさときゃらばん」関連のブログ記事
◆桂花團治公式サイトはこちらです
弔辞で語られるエピソードに思わず笑いが漏れた。
隣にいた女性も、その隣の男性も、
泣いた顔で笑っていた。
「前日までお稽古してたのよ」と
昔大変お世話になった女優の一人がぼくにそう言った。
「いっぱいダメ出しもらってさあ、明日も見るからなって、それが私への最期の言葉なの……私、先生に認めてもらおうとたくさん稽古したのに」
ぼくは促されるまま、棺の前に立った。
穏やかな表情が救いだった。
棺が納められた車が会場を後にする際、
自然に拍手が沸き起こった。
「ありがとうございます!」の声が聞こえた。
「お疲れ様でした!」の声も響いた。

参列者全員での合唱もあった。
ぼくが客演させてもらったとき、
エンディングもこの曲だった。
山と川と田んぼと海と生きてゆくのさオレたち、私達。
畑耕す愛しさを作物に添え、届けたいのさ、遠くの町へと
人を愛する切なさを山の彼方に叫びたい
川面を渡る川風を遠くの街へ届けたいのさ
胸に応える海鳴りを淋しいアイツに聞かせたい
山に沸き立つあの雲を届けたい、都会のビル谷間に
お前がいて、オレがいて、遠くの町に友達がいる
生きているのさこの町 私達のオレたちの町
みんな、力強く歌っていた。
ぼくも自然に歌詞が口をついて出た。
思わずステップを踏みそうになった。
石塚先生らしい葬儀だった。
会場には、先生が生前描かれた絵コンテが並べられた。





告別式では石塚作品のダイジェスト版も上映された。



ぼくは「パパは家族の用心棒」という作品で舞台に立たせていただいた。

ぼくが「ふるさときゃらばん」の舞台に立たせていただいたのは、
わずか一年足らず、50ステージほどである。
みんなで作り上げてきた舞台に突如ぼくが代演として加わることになったのだ。
「ふるきゃら」はミュージカルである。
慣れないダンスに、慣れない芝居、標準語。
ぼくはずっとアタフタしていた。
ぼくが稽古場の隅で一人ダンスの練習をしているとき、
役者たちが入れ替わり立ち替わり、ぼくに指導をしてくれた。
時折、石塚先生もそれをこっそりのぞきに来られた。
旅先で石塚先生が「創作」についてこんなことをおっしゃった。
「俺にはさあ、創作能力なんて無いの。俺はね、制作が拾ってきた生の村人の言葉をつなぎ合わせているだけなの」
……「ふるさときゃらばん」で役者の発する言葉にはいつも「共感」があった。
稽古場に石塚先生の声が大きく響いた。
「台詞を喋ってんじゃねえよ!」
「その環境に身体を置けば、身体が反応して、自然に言葉が出てくるんだ!おれの本はそう作ってあるんだよ!」
……怒られるのはいつもボブと呼ばれる役者に決まっていた。でも、石塚先生は同じことをぼくにもっと言いたかったに違いない。けれども、ぼくは落語家で客演の身の上。だから、先生は代わりにボブにたくさんダメ出しをぶつけた。ぼくはそう思っている。それは、かつてぼくがざこば師匠につけてもらった「台詞をなぞらない稽古」とも符合していた。
ぼくの声はあまりに届かなかった。石塚先生は会場となった小学校の体育館の一番後ろに陣取って、ぼくにこうおっしゃった。
「蝶六よお、おれに言ってみなよ、その台詞。ちゃんと俺にさあ、届けておくれよ」
……石塚先生は決して「声を大きく!」なんてことは一言もおっしゃらなかった。
「大きな声を出す」ことと、「言葉を届ける」の違いをぼくは石塚先生から学んだ。

1995年(平成7年)に発行された「応援談」。
そのなかに僕の拙文もそこに寄稿させてもらったことがある。
読み返してみれば何とも青臭い文章ではあるが、
今もその思いは変わらない。


今からおよそ400年前、元禄頃、大阪の生国魂神社の境内において米沢彦八というお方がよしず張りの小屋を張り、落語を演じた。これが大阪における生業としての落語家の祖と言われている。いわゆる大道。見台を前に置き、それを小拍子と張り扇でもって音を鳴らしながら演じた。道行く人の足を止めるためである。発祥から上方落語は庶民のもん。生活者のポジションに立っていた。
今は亡き我が師匠、桂春蝶に尋ねたことがある。
「何で大阪に真打ち制度おまへんねやろか」
「要らんやろ。ええか悪いか、そん時どきのお客が決めはるがな。その高座で、お前がお客を納得させられたら、そん時の真打はお前や」
さらに付け加えて
「たまには高座で俺をびびらさんかい」
「ふるきゃら」との出逢いは二年前、福島県のとある農村。小学校の体育館内には定式幕が張りめぐらされ、さながら時代劇に出てくる芝居小屋の様であった。どしゃ降りの雨の中、座布団持参の老若男女、千数百名、ぎっしり。終了してすぐ、劇団の大内代表に促されて会場前に出た。そこに居並ぶ役者の姿。その各々の前には握手を求めてお客の列。「ありがとう」の言葉が飛びかう。「よかった」を通り越して「ありがとう」。腰の曲がったお婆さんが涙で顔をぐしゃぐしゃにしている姿が印象的であった。
「ふるきゃら」の魅力はこの言葉に集約されている。「私の言いたかったことをよくぞ言ってくれて、ありがとう」「元気にしてくれて、ありがとう」
「裸になったサラリーマン」も然り。「ふるきゃら」は常に生活者の味方。「我々同様」。そしていつも真打ち。
私は常に庶民の視点でモノを見ていきたい。「ふるきゃら」を見ると何故か今は亡き、春蝶のことを思い出すのである。
桂蝶六(1995年・応援談より)
襲名が決まったとき、ぼくは石塚先生からそのパンフレットに掲載する祝辞をいただいた。
劇団からこんな素敵な文章が送られてきた。
蝶六さんが花團治
桂蝶六さんが三代目花團治を襲名したという。
十年程前になるが、ふるきゃらが大阪で公演したとき、ミュージカルなのに笑いを取っていると評判になり、三枝 (現文枝) さんや春團治さんなど大阪の笑いの達人たちが観に来てくれた。その頃、若き蝶六さんもよく顔を出していた。気がついて見れば、蝶六さんはふるきゃらの旅公演に付いて来て、キャストの一員として舞台にも乗って芝居をしていた。いくら芸熱心だからと言って、落語家が急にミュージカル俳優に変身できる訳もなく、情け容赦も無い私の演出にジタバタしていた。だが蝶六さんは皆んなに好かれた。それは舞台に立つ人間の最も大切な要素かも知れない。蝶六さんは狂言の修業もしたという。ふるきゃらも一時(いっとき) 狂言を学んだことがあった。笑いの舞台を求めるものは、皆んな狂言にすがろうとする時期があるようだ。笑いは簡単に生み出せないから。その蝶六さんが花團治となった。花團治という名は耳馴れないが、蝶六さんが花團治という名を売り出してくれることだろう。ふるきゃらの劇団員は、花團治となった蝶六さんの芸をみんな見たいと思っている。大阪に行くことのたのしみが増えた。
ふるきゃら 脚本・演出家 石塚克彦
石塚先生、ありがとうございました。
お世話になりました。お疲れ様でした。
先生にあれほど教えていただいたのに、
今だ思うほど成長できずにいる自分が歯がゆいです。
落語会にお招きできなかったことが心残りです。
これからも石塚先生に教えていただいたことをしっかりと
胸に刻んで歩んでいきます。
どうか安らかに……合掌。


一番はじめに、山田洋次監督の名前があった。
山田洋次監督は、『ふるさときゃらばん』の前身である『統一劇場』を映画にされた。
それを見れば、『ふるさときゃらばん』がどういう劇団なのかがよく分かる。
◆山田洋次監督・映画『同胞』予告編
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