152.自分以外はみな先生~夜間高校で学んだこと~
「これからは笑うてる場合やないなぁ」
夜間高校の教壇に上がるようになってはや20年。
ここには10代から70代までの学生が集っている。
70代というのは、
若い頃様々な事情からこれまで教育を受けたくても受けられなかった方々。
夜間中学から進学して来られる方も多い。
年に20コマがぼくの担当だ。
「落語の授業」とはいえ、ちゃんと試験というものがある。
試験を前にして、この日はその練習問題の日だった。
「テストがこないにムツカシイとは思わなんだ」
「授業やちゅうこと、すっかり忘れとったわ」
「落語聞いて笑とったらエライ目に遭うわ」
「笑うてるうちに学べる授業」を目指すぼくにとって、
この言葉は実に複雑。。。。。。
やはり、ぼくの授業はアハハと気軽にお付き合い頂きたい。

試験の練習問題に励む学生たち
授業内容は、落語を中心に大阪の芸能を紹介していくというもの。
そこから何か考察に結びついていけばいい。
ちなみに先日の授業ではこんなやりとりがあった。
テーマは「戦後70年落語復活」だった。
一面焼野原で闇市が横行した時代に落語会を開こうと決意した当時の落語家の話。
「その頃は皆さん生まれてなかったと思いますが」とぼくが差し向けると、
老婦人の一人が「そんなことあらへん。わたしは当時七つでしてん」と語り始めてくれた。
机にうつ伏せていた10代の男子学生が突然ガバッと起きだして聞き耳を立てだした。
老婦人の話には臨場感があった。
空からバラバラと降ってきた焼夷弾の話。
ここにいる60代や70代の大半は在日韓国人である。
言葉では言い尽くせない苦労をしてきている。
でも、その人生の傍らにはいつも「笑い」の芸能があった。
そして、「ほんの一瞬でも辛いことを忘れて欲しい」と
心底願うばかりの芸人がいた。ぼくもまた老婦人に教わる。

戦後復活落語会の案内(昭和20年11月21日)
「ブログ:戦後復活落語会」はこちらから
この学校では10代の若者が先生として大活躍だ。
70代のオモニが漢字の読み方を教わる。
「兄ちゃん、その恰好スゴイな」と声を掛けるオモニに対して
「そやねん」とはにかみながらも誇らしげなモヒカン頭の若者。
これらはみんなここでは当たり前の光景だ。

黒板の前で説明をする学生

時折、特別ティーチャーをお招きしてお話を伺うことも。
(写真は観世流能シテ方・水田雄悟先生、黒板の落書きは筆者)
またこんなこともあった。
10年近く前にこの高校で担当した学生の一人がぼくの出講する大学に入学してきた。
大学の食堂でばったり出会って、
それから彼とはよく箕面の学舎から大阪までの帰途を共にするようになった。
「なあ先生、先生は、
リストカットしたり登校拒否をする子の気持ちがわかるか?
おれにはよう分かるねん」。
彼は大学のなかでもちょっとした有名人だった。
質問魔として知られていて、
それは机上の空論だと教授に食ってかかることもあったらしい。
「ぼくな、大人は信用でけへんねん。
けど子どもは好きやからなぁ。
ほいでこの学校を選んでん。
ぼくな、学校の先生になろうと思うてんねん」。
彼自身、家庭内のゴタゴタをきっかけに生活が荒れて
前の高校を退学させられた子だった。
ぼくも当初はずいぶん手を焼かされた思い出がある。
でも、彼は少しの間にガラリと表情を変えていった。
……今、彼は中学の教師をやっている。
誰かがこんなことを言っていた。
「自分以外はみんな先生」
国籍も年齢もバラバラだからこそ
やれる授業がここにはある。
そう言えば、ここの先生が
「うちの学校には人権問題などありません」と胸を張っていた。
ぼくにはその意味がよく分かる。
桂花團治の公式サイトはこちらから
夜間高校の教壇に上がるようになってはや20年。
ここには10代から70代までの学生が集っている。
70代というのは、
若い頃様々な事情からこれまで教育を受けたくても受けられなかった方々。
夜間中学から進学して来られる方も多い。
年に20コマがぼくの担当だ。
「落語の授業」とはいえ、ちゃんと試験というものがある。
試験を前にして、この日はその練習問題の日だった。
「テストがこないにムツカシイとは思わなんだ」
「授業やちゅうこと、すっかり忘れとったわ」
「落語聞いて笑とったらエライ目に遭うわ」
「笑うてるうちに学べる授業」を目指すぼくにとって、
この言葉は実に複雑。。。。。。
やはり、ぼくの授業はアハハと気軽にお付き合い頂きたい。

試験の練習問題に励む学生たち
授業内容は、落語を中心に大阪の芸能を紹介していくというもの。
そこから何か考察に結びついていけばいい。
ちなみに先日の授業ではこんなやりとりがあった。
テーマは「戦後70年落語復活」だった。
一面焼野原で闇市が横行した時代に落語会を開こうと決意した当時の落語家の話。
「その頃は皆さん生まれてなかったと思いますが」とぼくが差し向けると、
老婦人の一人が「そんなことあらへん。わたしは当時七つでしてん」と語り始めてくれた。
机にうつ伏せていた10代の男子学生が突然ガバッと起きだして聞き耳を立てだした。
老婦人の話には臨場感があった。
空からバラバラと降ってきた焼夷弾の話。
ここにいる60代や70代の大半は在日韓国人である。
言葉では言い尽くせない苦労をしてきている。
でも、その人生の傍らにはいつも「笑い」の芸能があった。
そして、「ほんの一瞬でも辛いことを忘れて欲しい」と
心底願うばかりの芸人がいた。ぼくもまた老婦人に教わる。

戦後復活落語会の案内(昭和20年11月21日)
「ブログ:戦後復活落語会」はこちらから
この学校では10代の若者が先生として大活躍だ。
70代のオモニが漢字の読み方を教わる。
「兄ちゃん、その恰好スゴイな」と声を掛けるオモニに対して
「そやねん」とはにかみながらも誇らしげなモヒカン頭の若者。
これらはみんなここでは当たり前の光景だ。

黒板の前で説明をする学生

時折、特別ティーチャーをお招きしてお話を伺うことも。
(写真は観世流能シテ方・水田雄悟先生、黒板の落書きは筆者)
またこんなこともあった。
10年近く前にこの高校で担当した学生の一人がぼくの出講する大学に入学してきた。
大学の食堂でばったり出会って、
それから彼とはよく箕面の学舎から大阪までの帰途を共にするようになった。
「なあ先生、先生は、
リストカットしたり登校拒否をする子の気持ちがわかるか?
おれにはよう分かるねん」。
彼は大学のなかでもちょっとした有名人だった。
質問魔として知られていて、
それは机上の空論だと教授に食ってかかることもあったらしい。
「ぼくな、大人は信用でけへんねん。
けど子どもは好きやからなぁ。
ほいでこの学校を選んでん。
ぼくな、学校の先生になろうと思うてんねん」。
彼自身、家庭内のゴタゴタをきっかけに生活が荒れて
前の高校を退学させられた子だった。
ぼくも当初はずいぶん手を焼かされた思い出がある。
でも、彼は少しの間にガラリと表情を変えていった。
……今、彼は中学の教師をやっている。
誰かがこんなことを言っていた。
「自分以外はみんな先生」
国籍も年齢もバラバラだからこそ
やれる授業がここにはある。
そう言えば、ここの先生が
「うちの学校には人権問題などありません」と胸を張っていた。
ぼくにはその意味がよく分かる。
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