195.”離見の見”と”目前心後”~駅ナカ・デイパック禁止令~
最近とみに気になるのが、
大きなデイパック(リュック)を背負いながらスマホに夢中になる人の姿。
背中に荷物を負えば両手が開くのでスマホを操作するには都合がいい。
しかし、そのぶん満員電車内など周囲はかなり不愉快な思いをしている。
当人が向きを変えるたび、
思わずデイパックに頬を打たれそうになっている人。
ましてやこれが駅のホームの上だったりすると危ないことこのうえない。
当人の知らないところで自身が加害者になっているということが多々ある。
いっそのこと「駅ナカデイパック禁止令」という
お触れを出せばいいのにとさえ思う。
とはいうものの、かくいうぼくも
キャリーケースで他人を躓かせてしまったり、
ずいぶんひどいことをしてきた。
「お前がいうな」と言われたら返す言葉もない。

撮影:相原正明
落語家に入門してすぐの頃である。
ぼくは師匠の鞄持ちとしてある落語会に同行した。
そこの楽屋は四畳半の和室ひとつしかなく、
5名ほどの咄家がところ狭しと窮屈そうに坐っていた。
そのなかにようやくスペースを見つけて
我が師匠の衣装を包んだ風呂敷を開けていると、
先輩の一人から
「蝶六くん、春團治師匠に尻を向けてどないすんねん」と窘められた。
「す、すみません」と向きを変えると、
今度はその反対側から「今度はわしに尻を向ける気かいな」。
その後も「次はわしに向けるのか」という言葉が矢継ぎ早に浴びせられた。
ぼくがどう向きを変えようとも必ず誰かに尻を向けることになる。
もうどうしていいかわからない。
その場でグルグル向きを変えながら焦るぼくに
楽屋一同は大盛り上がりだった。
その時、そっと助け船を出してくれたのが春團治師匠だった。
「こんな狭い楽屋なんだから……そこを空けてやりなさい」と
楽屋の一番入り口に近い隅っこをぼくの作業スペースに設けてくれた。
今もあったかいエピソードとしてぼくの脳裏に残っている。

この日は繁昌亭で春團治師匠の法要があり、一門が黒紋付・袴姿で並んだ。
こういう日は特に楽屋が混雑する。

東京新宿「末廣亭」の楽屋は「繁昌亭」以上に狭い楽屋だった。

「末廣亭」には出番のない若手の楽屋番さんだけで10名以上が働いていた。
能を確立した世阿弥の教えに「離見の見」という言葉がある。
「己の姿を俯瞰的に見るべし」という舞台上での心得事のひとつだ。
また、 「目前心後」という教えもある。
「目の前や横にばかり気をとらわれず、自分の背後にも気を配れ」
という意味である。
こうすることで芸に深みが出る。
あの落語会の楽屋では
師匠方はこのことをぼくに教えたかったのかも知れない。
キャリーケースで人を躓かせてきたぼくは、
すでにそれだけで舞台人として失格ということになる。

天神祭の船渡御に参加する能船。ちょうど「土蜘蛛」の上演中。
そう言えば独身時代、
ぼくは当時付き合っていた彼女に
背中を見せ続けたという理由でずいぶん怒られた。
それは行きつけの店のカウンターで
たまたまぼくの横に座った知人男性と話に夢中になるあまり、
その反対に座る彼女のことを
ぼくはついほったらかしにしてしまったのだ。
つまり、彼女はずっとぼくの背中ばかり見ていたことになる。
「なんだか自分のことを拒絶されているような気がして」
と彼女は言った。
まさに「目前心後」の欠如だった。
「一事が万事」というが、
デイパックやキャリーケースで他人に迷惑をかけ続けている人も、
彼女を背後にほったらかしにする人も、
他のことでもきっと同じようなことをしている。
それに相手を不愉快にすることの大半は
自分の気づかないところで起こっている。
「なんでアイツばかりが優遇されるのだろう」と羨む前に、
まずはそんなところから見直すべきだろう。
「離見の見」や「目前心後」を心掛けるべき。
……いや、これは自分に言い聞かせている。
満員列車に揺られながら。
この原稿は熊本の(株)リフティングブレーン様の社報誌「リフブレ通信」に連載中のコラム
「落語の教え」をもとに加工したものです。

◆「花團治の宴-en-」の詳細はここをクリック

◆「二代目春蝶生誕祭」の詳細はここをクリック
◆「花團治公式サイト」はここをクリック
大きなデイパック(リュック)を背負いながらスマホに夢中になる人の姿。
背中に荷物を負えば両手が開くのでスマホを操作するには都合がいい。
しかし、そのぶん満員電車内など周囲はかなり不愉快な思いをしている。
当人が向きを変えるたび、
思わずデイパックに頬を打たれそうになっている人。
ましてやこれが駅のホームの上だったりすると危ないことこのうえない。
当人の知らないところで自身が加害者になっているということが多々ある。
いっそのこと「駅ナカデイパック禁止令」という
お触れを出せばいいのにとさえ思う。
とはいうものの、かくいうぼくも
キャリーケースで他人を躓かせてしまったり、
ずいぶんひどいことをしてきた。
「お前がいうな」と言われたら返す言葉もない。

撮影:相原正明
落語家に入門してすぐの頃である。
ぼくは師匠の鞄持ちとしてある落語会に同行した。
そこの楽屋は四畳半の和室ひとつしかなく、
5名ほどの咄家がところ狭しと窮屈そうに坐っていた。
そのなかにようやくスペースを見つけて
我が師匠の衣装を包んだ風呂敷を開けていると、
先輩の一人から
「蝶六くん、春團治師匠に尻を向けてどないすんねん」と窘められた。
「す、すみません」と向きを変えると、
今度はその反対側から「今度はわしに尻を向ける気かいな」。
その後も「次はわしに向けるのか」という言葉が矢継ぎ早に浴びせられた。
ぼくがどう向きを変えようとも必ず誰かに尻を向けることになる。
もうどうしていいかわからない。
その場でグルグル向きを変えながら焦るぼくに
楽屋一同は大盛り上がりだった。
その時、そっと助け船を出してくれたのが春團治師匠だった。
「こんな狭い楽屋なんだから……そこを空けてやりなさい」と
楽屋の一番入り口に近い隅っこをぼくの作業スペースに設けてくれた。
今もあったかいエピソードとしてぼくの脳裏に残っている。

この日は繁昌亭で春團治師匠の法要があり、一門が黒紋付・袴姿で並んだ。
こういう日は特に楽屋が混雑する。

東京新宿「末廣亭」の楽屋は「繁昌亭」以上に狭い楽屋だった。

「末廣亭」には出番のない若手の楽屋番さんだけで10名以上が働いていた。
能を確立した世阿弥の教えに「離見の見」という言葉がある。
「己の姿を俯瞰的に見るべし」という舞台上での心得事のひとつだ。
また、 「目前心後」という教えもある。
「目の前や横にばかり気をとらわれず、自分の背後にも気を配れ」
という意味である。
こうすることで芸に深みが出る。
あの落語会の楽屋では
師匠方はこのことをぼくに教えたかったのかも知れない。
キャリーケースで人を躓かせてきたぼくは、
すでにそれだけで舞台人として失格ということになる。

天神祭の船渡御に参加する能船。ちょうど「土蜘蛛」の上演中。
そう言えば独身時代、
ぼくは当時付き合っていた彼女に
背中を見せ続けたという理由でずいぶん怒られた。
それは行きつけの店のカウンターで
たまたまぼくの横に座った知人男性と話に夢中になるあまり、
その反対に座る彼女のことを
ぼくはついほったらかしにしてしまったのだ。
つまり、彼女はずっとぼくの背中ばかり見ていたことになる。
「なんだか自分のことを拒絶されているような気がして」
と彼女は言った。
まさに「目前心後」の欠如だった。
「一事が万事」というが、
デイパックやキャリーケースで他人に迷惑をかけ続けている人も、
彼女を背後にほったらかしにする人も、
他のことでもきっと同じようなことをしている。
それに相手を不愉快にすることの大半は
自分の気づかないところで起こっている。
「なんでアイツばかりが優遇されるのだろう」と羨む前に、
まずはそんなところから見直すべきだろう。
「離見の見」や「目前心後」を心掛けるべき。
……いや、これは自分に言い聞かせている。
満員列車に揺られながら。
この原稿は熊本の(株)リフティングブレーン様の社報誌「リフブレ通信」に連載中のコラム
「落語の教え」をもとに加工したものです。

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