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210.「月亭可朝」と「若井はやと」の伝説~誰が喋ってもオモシロイ台本でウケてもオモシロないがな~

月亭可朝師匠が亡くなられた。
ギター漫談で売り出し、自ら作詞・作曲した「嘆きのボイン」は
80万枚のヒットを記録。トレードマークはちょび髭とカンカン帽だった。
(ちなみに、このカンカン帽はまとめて大量に購入していたそうだ。
「お客が欲しがりよんねん。帽子にサインしてあげてしまうもんやから
何ぼあっても足りへん」とおっしゃっていた)


『嘆きのボイン』

1.ボインは 赤ちゃんが吸うためにあるんやで
お父ちゃんのものと違うのんやで
ボインというのは どこの国の言葉
うれしはずかし 昭和の日本語
おっきいのんが ボインなら
ちっちゃいのは コインやで
もっと ちっちゃいのんは ナインやで

2.何で 女の子だけボインになるのんけ
腹の立つこと 嫌なこと しゃくな出来事あった日は
男やったら酒飲んで 暴れまわって憂さ晴らし
女の子なら何とする 胸にしまってガマンする
女の子の胸の中 日頃の不満がたまってる
それがだんだん充満してきて
胸がふくれてくるんやで

3.上げ底のボインは 満員電車に気をつけとくなはれや
押されるたんびに 移動する
いつの間にやら 背中へ回り
一周回ってもとの位置
これがホンマの「チチ帰る」やおまへんか
こらホンマやで


可朝師匠とぼく400
可朝師匠とぼく。2015年。上方落語協会情報誌『んなあほな』の取材にて(撮影:桂坊枝)

とにかくサービス精神旺盛な方だった。
選挙に出馬したこともあった。
公約は「一夫多妻制の確立と、風呂屋の男湯と女湯の仕切を外すこと」
どこまで人を食った人だろう。
また、無類の博打好きで、破天荒な私生活ばかりがクローズアップされた。
世間では落語をするイメージが薄いかもしれない。
けれども、ぼくは可朝師匠の『算段の平兵衛』『住吉駕籠』
といった古典落語が好きだ。
うちの師匠(故・二代目春蝶)は
『犬の目』という咄の稽古を可朝師匠からつけてもらったと言っていた。
うちの師匠の洒脱で肩の力の抜けた語り口はきっと可朝師匠の影響であろう。
実際、うちの師匠と可朝師匠は若い頃、
かなり頻繁につるんで遊んでいたらしい。
(待ち合わせは、市電が走っていた頃の寺田町の停留所だった)

それでとうとう博打好きまで乗り移ってしまった。


二代目春蝶、ノック、たかじん、ざこば
左から、二代目春蝶、横山ノック、やしきたかじん、桂ざこば。関西テレビ『男の井戸端会議』の収録。
(提供:三代目桂春蝶)



可朝師匠には今も幕内で語り継がれている伝説の舞台がある。
それは賭博の罪で長らく謹慎生活を送ったあとの久々の高座だった。
「いったいどんな咄をされるんだろう」と舞台袖には
多くの芸人が固唾を飲んで見守ったという。
座布団に座ってのまず第一声は「ホンマにホンマでっせ」だった。
これは可朝師匠の決まり文句でギャグのようなフレーズである。
これだけで客席はおおいに沸いた。そして次の言葉も「ホンマにホンマ」。
続けて「いや、ホンマだんがな」。
可朝師匠が口を開くたびに笑いが止まらない。
そのあともずっと
「ホンマにホンマ」「ホンマやでぇ」……
とうとう可朝師匠はこのフレーズだけで高座を押し切った。
腕時計を見ながら「時間が来たさかい」と扇子を仰ぎつつ
舞台袖に戻っていく後ろ姿に万雷の拍手が贈られた。


可朝の本400


このエピソードで思いだすのは、若井はやと師匠(2008年没)のことだ。
ぼくは出番をご一緒するたびよく飲みに連れてもらった。
元々「若井ぼん・はやと」というコンビで売り出し、
「横山やすし・西川きよし」の師匠方とは所属事務所は違えど
若手の頃からライバル関係にあった。
コンビ別れしてからのはやと師匠はピン芸人として、
道頓堀の『浪花座』という劇場の舞台によく上がっていた。
当時の浪花座は客入りも悪く、
500強の客席に50人足らずということも。
どこか場末の雰囲気さえ漂っていて、
舞台に上がった芸人が次から次と全くウケずに下りてきた。
ぼくもそのうちの一人だった。

「どうや蝶六(ぼくの当時の芸名)、今日のお客さんの雰囲気は?」
「すんません。(お客さんが)固まってる上から重しを置いてしまいました」

全く受けない高座を謝ると、はやと師匠は「そうか」と
ニヤッと笑顔を見せたかと思うと、「俺にまかせておけ」とばかり
余裕綽々と舞台に上がっていった。もちろん客席は爆笑に次ぐ爆笑。

若井はやと、若井やるき400
若井はやと師匠と、弟子の若井やるき(提供:若井やるき)


このあと立ち飲み屋で、はやと師匠はぼくにおっしゃった。

「今日のわしのネタの内容を覚えてるか?」

ぼくが返答に困っていると、それを見透かしたようにはやと師匠はこう続けた。

「内容なんかなかったやろ?
……朝起きて、歯磨いて、新聞に目を通して
……これといった内容なんてなかったはずや」


「けどずいぶんウケてはりました」

「そやねん。内容が無くてもウケさせられるねん。
若手はな、ネタの内容ばっかりにこだわりよんねん。
わしの今日の漫談を活字に起こして読んでみ、
オモシロいこと、何もあらへんで」。

若井ぼんはやと
若井ぼん・はやと(左がはやと師匠)



可朝師匠もはやと師匠もまさに「間」の妙技だ。
最後に、はやと師匠はこう付け加えられた。

「誰が喋ってもオモシロイ台本で
ウケてもオモシロないがな」。


……オモシロイ話をオモシロくない咄にしてしまうぼくには、
とても耳の痛いひと言だった。合掌。



※この原稿は熊本のリフティングブレーン社が発行する『リフブレ通信』に連載させて頂いているコラム
「落語の教え」のために書き下ろしたものです。




月亭 可朝:昭和13年(1938年)3月10日ー平成29年( 2018年)
神奈川県横浜市出身(同県三浦郡葉山町生まれ)、本名は鈴木 傑(まさる)。
昭和43年(1968年)4月のなんば花月での「桂小米朝改め月亭可朝」襲名披露において
「葬式調アングラ襲名」と銘打ち、舞台上に設けられた「桂小米朝の葬儀会場」で
笑福亭仁鶴が読経すると棺桶の中から可朝が飛び出すという奇抜な趣向を演じ、
これ以降自身のアクの強いキャラクターを押し出すようになっていく。
政治家に立候補したこともあったが、この時の公約は
「一夫多妻制の確立と、風呂屋の男湯と女湯の仕切を外すこと」。
もちろん落選。享年80。


若井はやと:昭和19年(1944年)8月14日 -平成20年(2008年 )12月8日。
昭和37年(1962年)に若井はんじ・けんじ門下となり、若井ぼんとのコンビで、
昭和43年(1968年)に上方漫才大賞新人賞、
昭和52年(1977年)上方漫才大賞奨励賞を受賞。
「しっつれいしました」などのギャグや、
ぼんの出っ歯を売りにしたハーモニカの芸で人気を博すも、
昭和60年(1985年)に解散。その後は、浪花座などで漫談を続けた。
息子は「親指ぎゅー太郎」の名で、芸人として活動中。享年64。




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蝶六改メ三代目桂花團治

Author:蝶六改メ三代目桂花團治
落語家・蝶六改め、三代目桂花團治です。「ホームページ「桂花團治~蝶のはなみち~」も併せてご覧ください。

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