212.6月15日に思うこと~大阪大空襲と花團治~
もっともっと、落語をしたかった。
「初代」も「二代目」も
きっとそう思っていたに違いありません。
今から73年前の今日、昭和20年6月15日。
先代(二代目)花團治(花次改め)は、襲名した翌年、
「第四次大阪大空襲」によって命を落としました。
ご遺族の方によると、防空壕の入り口あたりで
亡くなっていたらしいとのことです。

二代目花團治
ちなみに、初代の花團治は「吉本興業専属第一号」でした。
そんな栄えある名跡にも関わらず、
なぜ「花團治」は70年もの間、途切れていたのでしょう。

「花團治」代々については、
芸能史研究家の前田憲司先生が調べて下さってます。
以下が二代目花團治の経歴です。
大正4・5年頃に初代花團治へ入門し、花次と名付けられる。
修業時代があけて落語家として活動を始めた頃に、
上方落語界は吉本が統一することになり、
大正15年には若手落語家が中心となったグループ「花月ピクニック」の
メンバーとなって活躍し始める。
花月ピクニックには、後の五代目笑福亭松鶴や初代桂小春團治らがいた。
しかし、昭和初期になると、落語の衰退期と重なる不運に遭い、
漫才重視の方針から、花次も桂金之助と軽口のコンビを組まされる。
兄弟子の花柳も桂花咲とコンビを組まされた。
その後は、若手落語家が中心となって結成された吉本のバラエティ一座
「喜劇民謡座」に加入して幹部となり、一座の人気俳優となるも、
落語への愛着は捨てきれず、昭和12年に結成されていた楽語荘へ加入。
師匠の没後に五代目松鶴の勧めで、二代目花團治を昭和19年に襲名したが、
翌年6月の大阪空襲で亡くなった。
得意ネタとして『黄金の大黒』『いかけや』などがある。

「喜劇民謡座」のパンフレット。「花次」の名が確認できる。
▶桂花團治公式サイト「桂花團治代々について」
「吉本興業」の歴史と重ねがら、「花團治」を追ってみたいと思います。
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
▶大正元年(1912)
・吉本吉兵衛・せい夫妻が『第二文芸館』(今の天満天神繁昌亭の前の駐車場あたり)で寄席経営を始める。
・初代花團治が吉本興業と専属契約を結ぶ。(専属第一号)
▶大正2年(1913)
・吉本興業が「芦辺合名社」を名乗る。

「花團治」の治が「次」となっていますが、もともと「団治」名は、
歌舞伎役者の名前を真似てつけられたもので、元は「次」だったらしいです。
▶大正3年(1914)
・吉本が寄席を次々と買収、チェーン化に乗り出す。
▶大正5年(1915)
・吉本が「吉本興業部」を名乗る。
・初代花團治のもとに、二代目花團治が入門、花次を名乗る。
▶大正10年(1920)
・初代桂春團治が吉本の専属となる。
▶大正15年(1925)
・花菱アチャコが千歳家今男とコンビを組み、吉本の専属に。
・「花月ピクニック」が結成、二代目花團治(当時は花次)も加入。

蔵:前田憲司

蔵:前田憲司

蔵:前田憲司
手前から三人目の男性が二代目花團治。その横の女性を挟んで花菱アチャコの姿が確認できる。
▶昭和3年(1928)
・吉本の漫才師が48組となる。
▶昭和5年(1930)
・エンタツ・アチャコがコンビ結成。
・漫才の人気の高まりと共に、落語は隅に追いやられ
落語家も「軽口」と称し、漫才を演じるようになった。
▶昭和11年(1936)
・五代目笑福亭松鶴が私財を投げうって『上方はなし』を創刊

「上方はなし」の復刻本。
▶昭和12年(1937)
・五代目笑福亭松鶴が『楽語荘』を設立。
初代・二代目共に、五代目松鶴に誘われ参入。
当時のメンバーは以下の通り。
二代目笑福亭福圓、二代目笑福亭福松、初代桂春輔、六代目笑福亭松鶴、
三代目笑福亭枝鶴、橘ノ圓都、笑福亭圓歌、四代目笑福亭松竹、三代目桂米團治、
二代目桂米團治(後の四代目桂米團治)、三遊亭志ん蔵、笑福亭鶴蔵、笑福亭小枝、
初代桂花團治、二代目桂花團治、二代目三笑亭芝楽、橘家圓坊、桂三八、
初代桂南天、二代目桂談枝、桂小米喬、二代目林家染之助、二代目林家染三
▶昭和16年(1941)
・太平洋戦争勃発
▶昭和19年(1944)
・弟子の花次が二代目桂花團治を襲名
▶昭和20年(1945)
・二代目花團治、
「第四期大阪空襲」により死亡。

大阪城公園にある「ピース大阪」には、当時の様子が生々しく再現されています。
▶「ピース大阪平和センター」のサイト
「初代花團治」は吉本興業の専属第一号でしたが、
漫才ばかりがもてはやされる寄席に嫌気がさし、
芸界から身を引きました。
五代目松鶴に誘われて落語家に復帰したのは、
廃業から17年後、「初代花團治」晩年の頃です。
「二代目花團治」は吉本バラエティー「喜劇民謡座」の幹部でしたが、
落語への思いが強く、五代目松鶴率いる「楽語荘」に参入しました。
花次から二代目への襲名も五代目松鶴の薦めによるものでした。
しかし、二代目花團治は襲名して一年後。
戦争の犠牲となりました。
……初代も、二代目も、もっともっと、
落語をしたかったに違いありません。
そう思うと、この名前が持つ重さを感じずにはいられません。
「花團治」の名を継いだ者として、
存分に落語ができる時代に生まれたラッキーな落語家として、
悔いのない落語家人生を全うしたいと思うのです。合掌。
2018年6月15日、三代目桂花團治
「桂花團治公式サイト」はこちらをクリック!
「初代」も「二代目」も
きっとそう思っていたに違いありません。
今から73年前の今日、昭和20年6月15日。
先代(二代目)花團治(花次改め)は、襲名した翌年、
「第四次大阪大空襲」によって命を落としました。
ご遺族の方によると、防空壕の入り口あたりで
亡くなっていたらしいとのことです。

二代目花團治
ちなみに、初代の花團治は「吉本興業専属第一号」でした。
そんな栄えある名跡にも関わらず、
なぜ「花團治」は70年もの間、途切れていたのでしょう。

「花團治」代々については、
芸能史研究家の前田憲司先生が調べて下さってます。
以下が二代目花團治の経歴です。
大正4・5年頃に初代花團治へ入門し、花次と名付けられる。
修業時代があけて落語家として活動を始めた頃に、
上方落語界は吉本が統一することになり、
大正15年には若手落語家が中心となったグループ「花月ピクニック」の
メンバーとなって活躍し始める。
花月ピクニックには、後の五代目笑福亭松鶴や初代桂小春團治らがいた。
しかし、昭和初期になると、落語の衰退期と重なる不運に遭い、
漫才重視の方針から、花次も桂金之助と軽口のコンビを組まされる。
兄弟子の花柳も桂花咲とコンビを組まされた。
その後は、若手落語家が中心となって結成された吉本のバラエティ一座
「喜劇民謡座」に加入して幹部となり、一座の人気俳優となるも、
落語への愛着は捨てきれず、昭和12年に結成されていた楽語荘へ加入。
師匠の没後に五代目松鶴の勧めで、二代目花團治を昭和19年に襲名したが、
翌年6月の大阪空襲で亡くなった。
得意ネタとして『黄金の大黒』『いかけや』などがある。

「喜劇民謡座」のパンフレット。「花次」の名が確認できる。
▶桂花團治公式サイト「桂花團治代々について」
「吉本興業」の歴史と重ねがら、「花團治」を追ってみたいと思います。
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
▶大正元年(1912)
・吉本吉兵衛・せい夫妻が『第二文芸館』(今の天満天神繁昌亭の前の駐車場あたり)で寄席経営を始める。
・初代花團治が吉本興業と専属契約を結ぶ。(専属第一号)
▶大正2年(1913)
・吉本興業が「芦辺合名社」を名乗る。

「花團治」の治が「次」となっていますが、もともと「団治」名は、
歌舞伎役者の名前を真似てつけられたもので、元は「次」だったらしいです。
▶大正3年(1914)
・吉本が寄席を次々と買収、チェーン化に乗り出す。
▶大正5年(1915)
・吉本が「吉本興業部」を名乗る。
・初代花團治のもとに、二代目花團治が入門、花次を名乗る。
▶大正10年(1920)
・初代桂春團治が吉本の専属となる。
▶大正15年(1925)
・花菱アチャコが千歳家今男とコンビを組み、吉本の専属に。
・「花月ピクニック」が結成、二代目花團治(当時は花次)も加入。

蔵:前田憲司

蔵:前田憲司

蔵:前田憲司
手前から三人目の男性が二代目花團治。その横の女性を挟んで花菱アチャコの姿が確認できる。
▶昭和3年(1928)
・吉本の漫才師が48組となる。
▶昭和5年(1930)
・エンタツ・アチャコがコンビ結成。
・漫才の人気の高まりと共に、落語は隅に追いやられ
落語家も「軽口」と称し、漫才を演じるようになった。
▶昭和11年(1936)
・五代目笑福亭松鶴が私財を投げうって『上方はなし』を創刊

「上方はなし」の復刻本。
▶昭和12年(1937)
・五代目笑福亭松鶴が『楽語荘』を設立。
初代・二代目共に、五代目松鶴に誘われ参入。
当時のメンバーは以下の通り。
二代目笑福亭福圓、二代目笑福亭福松、初代桂春輔、六代目笑福亭松鶴、
三代目笑福亭枝鶴、橘ノ圓都、笑福亭圓歌、四代目笑福亭松竹、三代目桂米團治、
二代目桂米團治(後の四代目桂米團治)、三遊亭志ん蔵、笑福亭鶴蔵、笑福亭小枝、
初代桂花團治、二代目桂花團治、二代目三笑亭芝楽、橘家圓坊、桂三八、
初代桂南天、二代目桂談枝、桂小米喬、二代目林家染之助、二代目林家染三
▶昭和16年(1941)
・太平洋戦争勃発
▶昭和19年(1944)
・弟子の花次が二代目桂花團治を襲名
▶昭和20年(1945)
・二代目花團治、
「第四期大阪空襲」により死亡。

大阪城公園にある「ピース大阪」には、当時の様子が生々しく再現されています。
▶「ピース大阪平和センター」のサイト
「初代花團治」は吉本興業の専属第一号でしたが、
漫才ばかりがもてはやされる寄席に嫌気がさし、
芸界から身を引きました。
五代目松鶴に誘われて落語家に復帰したのは、
廃業から17年後、「初代花團治」晩年の頃です。
「二代目花團治」は吉本バラエティー「喜劇民謡座」の幹部でしたが、
落語への思いが強く、五代目松鶴率いる「楽語荘」に参入しました。
花次から二代目への襲名も五代目松鶴の薦めによるものでした。
しかし、二代目花團治は襲名して一年後。
戦争の犠牲となりました。
……初代も、二代目も、もっともっと、
落語をしたかったに違いありません。
そう思うと、この名前が持つ重さを感じずにはいられません。
「花團治」の名を継いだ者として、
存分に落語ができる時代に生まれたラッキーな落語家として、
悔いのない落語家人生を全うしたいと思うのです。合掌。
2018年6月15日、三代目桂花團治
「桂花團治公式サイト」はこちらをクリック!
- 関連記事
-
- 238.あめあめふれふれ父さんが… (2020/11/09)
- 237.賛否両論バンザイ!~大阪万博2025ロゴマークに寄せて~ (2020/10/09)
- 234.当たり前の向こう側~そして、彼女はオッサンになった~ (2020/07/06)
- 233.神様・仏様・アマビエ様~よくもわるくも妖怪のせい~ (2020/06/10)
- 229.左利きが抱えるもの~”甘夏とオリオン”の世界にたゆたう~ (2020/03/06)
- 224.すべてはアフターのために~神管寄席後記~ (2019/06/06)
- 219.繊細なコロス~2018M-1グランプリより~ (2018/12/06)
- 212.6月15日に思うこと~大阪大空襲と花團治~ (2018/06/15)
- 209.命懸けの道成寺~能はロックだ!?~ (2018/05/07)
- 208.映画『福井の旅』と『男はつらいよ』~はみ出しものの視点から~ (2018/05/02)
- 202.客いじりのある高座風景~言霊から漫才まで~ (2017/12/31)
- 200.センセ、着物って逆さに着たらアカンの?~落語の授業にて~ (2017/10/27)
- 197.不足は創造の源~落語と映画と土団子~ (2017/08/25)
- 195.”離見の見”と”目前心後”~駅ナカ・デイパック禁止令~ (2017/08/14)
- 185.テレマンと落語~すべてはカーテンコールのために~ (2017/02/28)