214.「笑われる」ぼくが、「笑わせる」喜びに目覚めた瞬間~二代目春蝶とWヤング・平川幸雄師匠との共通点とは?~
小学校時代のぼくは
とかく劣等感の塊だった。
寝小便たれは治らず、勉強もスポーツもからきしダメ。
授業中は窓の外をボーっと眺めていることが多かった。
当然、担任からもよく叱られた。
ある日のホームルームのこと。終礼の挨拶をするため、
その日の当番が「起立」と声を掛けた。
皆は一斉に椅子から立ち上がった。
しかし、ぼくはそれが聞こえているにも関わらず
一人じっと椅子にすわり込んだまま。
とにかくボーっとした子だった。
級友の一人が「森くん(ぼくの本名)がまだ立っていません」と報告した。
そのとき、担任が吐き捨てるように言った。
「放っておきなさい。
森くんは普通の子じゃないんやから」
以来、ぼくの夢は「普通の子になる」になった。

撮影:相原正明
ところで当時、ぼくの唯一の楽しみといえば
土曜日の午後から続けて放送されるお笑い番組だった。
ぼくに限らず、大阪の子どもにとって土曜日は特別の日だった。
学校が終わると一目散に家に戻り、
「吉本新喜劇」「松竹新喜劇」「お笑いネットワーク」
このラインナップは大阪人にとって必須科目のようなもので、
これらによって大阪人としてのアイデンティティを
確立していったといっても過言ではない。
とりわけぼくが夢中になったのは
吉本新喜劇での「花紀京・岡八朗」による掛け合いや
松竹新喜劇「藤山寛美」の阿呆ぶりだった。
また、「木村進」のイッヒッヒという独特の笑い方をマスターすることで
一種のステイタスを得ることができた。
そんなある日のこと、クラスで
「お楽しみ会」というものが催されることになった。
それはクラスメイトそれぞれが何か一芸を披露するというもので、
内容は合唱でもお芝居でも何でも良かった。
「では、気の合った者同士でグループを作りなさい」という
担任の号令と共に皆が動き出した。
「グループができたところから座りなさい」という声と共に
皆が床に座り出した。ぼくは内心とても焦っていた。
誰もぼくをグループに入れようとしてくれない。
とうとう全員が座ったと思った、とその時、もう一人だけ
ぼくと同じようにポツンと立ちつくす子がいた。ぼくは彼に言った。
「一緒にやれへん?」「ええよ」
彼もまたぼくと同じように仲間外れの身の上だった。
そのとき、ぼくが彼に提案した演し物は漫才だった。
「じゃあ、ぼくが台本を作ってくるからね」
当日、本番を終えたぼくは
これまで味わったことのない興奮に包まれていた。
「人を笑わせるって気持ちがいい」
いつも他人から「笑われる」ことしかなかったぼくにとって、
「笑わせる」ことができたことは人生における大きな転機となった。
このとき見よう見まねでさせてもらったのが「Wヤング」の漫才だ。
「お笑いネット―ワーク」でのぼくの一番のお目当ては
「平川幸雄・中田軍治」のコンビだった。
「最近は野菜の値段も上がってきてねぇ。
……わし、こないだレジの姉ちゃんに言うたった。ええ加減にシイタケ!」
「ほんまにキュウリ(急に)上がってきたね」
「アスパラ(明日から)どうやって生きていったら」
「ホンマ、菜っ葉(なんぼ)でも洒落出てきますね」
「そんな洒落でもエノキ茸(ええのんか)?」
「いっぺん屁こいたろか、ピーマン」「白菜(は、臭い)」……
ぼくらの世代でこの漫才を知らぬ者はいないだろう。
自尊心の芽生えとともに劣等感から解放してくれたこの漫才は、
ぼくにとってまさに記念碑である。
今はYouTube等でかつての演芸を見ることができる。
あの頃の懐かしい映像を見ながら思い出すのは、
一緒に楽しむ母や弟の笑顔であり団らんの風景。
テレビは家族みんなで見るものだった。
そこから「お茶の間」という言葉が生まれた。
笑いはときに誰かを傷つけることもあるが、
あの頃のお笑いは誰もが安心して笑っていられた。

ぼくが高校の落語研究会に入部したのは、当時、先輩から「漫才で一人で演るのが落語やねん」と誘われたのが最初のきっかけだった。今となっては「よくぞ誘いこんでくれた!」と感謝している。
あれは5年ほど前だったか、
ぼくはとうとう憧れのWヤングの平川幸雄師匠とご一緒する機会に恵まれた。
舞台袖でぼくは思わず直立不動に固まってしまった。
「あ、あの、わたしは春蝶(先代)の弟子で……」と言ったとき、
幸雄師匠は「ああ、春蝶やんなぁ。
ぼくと春蝶やんは生年月日が同じやねん」
と気さくに語り掛けてこられた。

二代目桂春蝶(撮影:後藤清)
それからまたずいぶん経ち、つい先日は大阪ミナミのとあるバーにて。
ぼくはここには必ず一人で来るようにしているが幸雄師匠も同様だった。
たまたま居合わせた客と気さくに会話を交わす師匠の姿。
この日、ぼくは小学生の頃に師匠の漫才に救われたことや
人生の道をつけてもらえたことのお礼をようやく伝えることができた。

平川幸雄師匠とぼく(ミナミのとあるバーにて)
……桂春蝶(先代)と平川幸雄という、
ぼくにとって大恩人であるお二人は共に
「昭和16年10月5日生まれ」だった。
二人の誕生日が一緒やなんて、
これがホンマの生誕のへきれき!
チャンチャン。
この原稿は、『大阪保険医雑誌』に連載中のコラム『花團治の落語的交遊録』をもとに加工修正したものです。

「二代目春蝶生誕祭」の詳細はこちらをクリック!

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とかく劣等感の塊だった。
寝小便たれは治らず、勉強もスポーツもからきしダメ。
授業中は窓の外をボーっと眺めていることが多かった。
当然、担任からもよく叱られた。
ある日のホームルームのこと。終礼の挨拶をするため、
その日の当番が「起立」と声を掛けた。
皆は一斉に椅子から立ち上がった。
しかし、ぼくはそれが聞こえているにも関わらず
一人じっと椅子にすわり込んだまま。
とにかくボーっとした子だった。
級友の一人が「森くん(ぼくの本名)がまだ立っていません」と報告した。
そのとき、担任が吐き捨てるように言った。
「放っておきなさい。
森くんは普通の子じゃないんやから」
以来、ぼくの夢は「普通の子になる」になった。

撮影:相原正明
ところで当時、ぼくの唯一の楽しみといえば
土曜日の午後から続けて放送されるお笑い番組だった。
ぼくに限らず、大阪の子どもにとって土曜日は特別の日だった。
学校が終わると一目散に家に戻り、
「吉本新喜劇」「松竹新喜劇」「お笑いネットワーク」
このラインナップは大阪人にとって必須科目のようなもので、
これらによって大阪人としてのアイデンティティを
確立していったといっても過言ではない。
とりわけぼくが夢中になったのは
吉本新喜劇での「花紀京・岡八朗」による掛け合いや
松竹新喜劇「藤山寛美」の阿呆ぶりだった。
また、「木村進」のイッヒッヒという独特の笑い方をマスターすることで
一種のステイタスを得ることができた。
そんなある日のこと、クラスで
「お楽しみ会」というものが催されることになった。
それはクラスメイトそれぞれが何か一芸を披露するというもので、
内容は合唱でもお芝居でも何でも良かった。
「では、気の合った者同士でグループを作りなさい」という
担任の号令と共に皆が動き出した。
「グループができたところから座りなさい」という声と共に
皆が床に座り出した。ぼくは内心とても焦っていた。
誰もぼくをグループに入れようとしてくれない。
とうとう全員が座ったと思った、とその時、もう一人だけ
ぼくと同じようにポツンと立ちつくす子がいた。ぼくは彼に言った。
「一緒にやれへん?」「ええよ」
彼もまたぼくと同じように仲間外れの身の上だった。
そのとき、ぼくが彼に提案した演し物は漫才だった。
「じゃあ、ぼくが台本を作ってくるからね」
当日、本番を終えたぼくは
これまで味わったことのない興奮に包まれていた。
「人を笑わせるって気持ちがいい」
いつも他人から「笑われる」ことしかなかったぼくにとって、
「笑わせる」ことができたことは人生における大きな転機となった。
このとき見よう見まねでさせてもらったのが「Wヤング」の漫才だ。
「お笑いネット―ワーク」でのぼくの一番のお目当ては
「平川幸雄・中田軍治」のコンビだった。
「最近は野菜の値段も上がってきてねぇ。
……わし、こないだレジの姉ちゃんに言うたった。ええ加減にシイタケ!」
「ほんまにキュウリ(急に)上がってきたね」
「アスパラ(明日から)どうやって生きていったら」
「ホンマ、菜っ葉(なんぼ)でも洒落出てきますね」
「そんな洒落でもエノキ茸(ええのんか)?」
「いっぺん屁こいたろか、ピーマン」「白菜(は、臭い)」……
ぼくらの世代でこの漫才を知らぬ者はいないだろう。
自尊心の芽生えとともに劣等感から解放してくれたこの漫才は、
ぼくにとってまさに記念碑である。
今はYouTube等でかつての演芸を見ることができる。
あの頃の懐かしい映像を見ながら思い出すのは、
一緒に楽しむ母や弟の笑顔であり団らんの風景。
テレビは家族みんなで見るものだった。
そこから「お茶の間」という言葉が生まれた。
笑いはときに誰かを傷つけることもあるが、
あの頃のお笑いは誰もが安心して笑っていられた。

ぼくが高校の落語研究会に入部したのは、当時、先輩から「漫才で一人で演るのが落語やねん」と誘われたのが最初のきっかけだった。今となっては「よくぞ誘いこんでくれた!」と感謝している。
あれは5年ほど前だったか、
ぼくはとうとう憧れのWヤングの平川幸雄師匠とご一緒する機会に恵まれた。
舞台袖でぼくは思わず直立不動に固まってしまった。
「あ、あの、わたしは春蝶(先代)の弟子で……」と言ったとき、
幸雄師匠は「ああ、春蝶やんなぁ。
ぼくと春蝶やんは生年月日が同じやねん」
と気さくに語り掛けてこられた。

二代目桂春蝶(撮影:後藤清)
それからまたずいぶん経ち、つい先日は大阪ミナミのとあるバーにて。
ぼくはここには必ず一人で来るようにしているが幸雄師匠も同様だった。
たまたま居合わせた客と気さくに会話を交わす師匠の姿。
この日、ぼくは小学生の頃に師匠の漫才に救われたことや
人生の道をつけてもらえたことのお礼をようやく伝えることができた。

平川幸雄師匠とぼく(ミナミのとあるバーにて)
……桂春蝶(先代)と平川幸雄という、
ぼくにとって大恩人であるお二人は共に
「昭和16年10月5日生まれ」だった。
二人の誕生日が一緒やなんて、
これがホンマの生誕のへきれき!
チャンチャン。
この原稿は、『大阪保険医雑誌』に連載中のコラム『花團治の落語的交遊録』をもとに加工修正したものです。

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