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21.分からんけど分かった

何ともさわやかな光景であった。
その日、私は落語ワークショップのため京都のとある小学校を訪れていた。
ぞろぞろと会場に入っていく子どもたちの集団を私はちょっと離れたところから
しばらく見守っていた。
手慣れた様子で上靴を綺麗に脱ぎ揃えていく子どもたち。
廊下で会うときちんと立ち止まってから元気に挨拶を交わしてくる子どもたち。
当たり前と言えば当たり前だろうが、
私にはそんな光景のひとつひとつがとても清々しく映った。
最低限の挨拶や礼儀すらままならない今の世の中。
こんな当たり前の事でもおおいに感動を呼ぶ。

私はある方が言ったこんな言葉を思い出していた。
「これからの世の中は当たり前の事が出来て、
それすら世に出た時の武器になるんや」。

 ここを訪れるのは去年に続き二年目である。
対象は小学生四年と五年が併せて五十名ほど。
二年目とはいえワークショップの対象は全員初回である、
と私はすっかりそう思い込んでいた。

簡単な解説の後、まずは実際に落語を聞いてもらおうと高座に上がった。
「・・ところで、今まで落語を生で聴いたことある人は手を挙げてみて」
すると全体の半数以上の手が元気よく挙がった。
「はーい」「はーい」「はーい」。
「へえ、そうかあ・・ちなみに誰の落語を聞いたのかな?」
彼らは一斉に私を指さして
「蝶六先生のん」と叫んだ。これは全く私の迂闊だった。
「そうかぁ・・・去年の四年生は今年の五年生か・・」
私はそう呟いていた。

演目が重なることは極力避けたい。
「さて去年は何を演じたっけ?・・まあ、あの咄ならまず去年とかぶる事はないだろう」
と演じ始めたのが「牛褒め」という咄であった。

しかし演り始めてからすぐ「しもた、他の咄にすればよかった」という思いが頭をよぎった。
何故ならこの咄には大人でも知らない単語があまりにも多すぎる。
しかし、もう後戻りはできない。
多少の言葉の言い換えや付け足しをしながら咄を進めていった。
「上がり框が桜の三間半、節無しの通りもん、
それから上へ上がって畳が備後表の寄り縁、天井が薩摩杉の鶉木・・
それから前栽、そう縁側に手水鉢が置いてあるさかい・・」

分かるだろうかと内心ちょっと不安だった。
でも、そんな心配をすることもなく、
目の前にはツボどころで笑い転げる子どもたちの姿があった。

演じ終えて私は彼らに聞いてみた。
「どやった?」「すごく面白かった」
「けど、分からん言葉もいっぱいあったやろ?」
すると一人がこう答えた。

「せやねん。わからんとこいっぱいあったけどな、
ようきいてたらわからんけどだんだんわかってきてん」。

 翌日、大学に出講した私はさっそくこの事を学科長に報告した。
教授は私の上司だが、私塾においては私の稽古人でもある。
教授は嬉しそうにこんな想い出話を語ってくれた。

「それはいい体験でしたね。
実は私も昔に留学生の担当をしていた事がありましてね。
その時、その学生(フィリピン人)に頼まれて東京案内をした事があったんですよ。
退屈するかも知れないとちょっと不安ながらも寄席へも案内したんです。
すると彼女、落語を聞いてゲラゲラ笑ってるんですよ。
日本語は片言しか話せないのによく分かるなと思って聞いてみたんです。
すると彼女の言うには、しっかり聞いてたら咄の内容は大体掴めるし
ニュアンスで面白さが伝わってくるって・・

学術書とか難しい本読むと分からない単語が出てきますよね。
でも、それは適当に飛ばして読み進める事がありますよね。
それでそのうち分からなかった単語も脈絡から分かってくる。あれに似てませんか?」。

私の所属する大和座は毎年ある保育園に招かれて狂言を演じている。
私も何度か同行させてもらったが狂言を観る園児たちの眼差しはとても真剣である。
屈託なく笑っている。

「狂言てな、難しいもんが子供らに分かるはずがない」
という声は今だあちらこちらで耳にするが子どもの想像力を見くびってはいけない。
「わからんとこいっぱいあったけどな、
ようきいてたら何となくわかったような気がしてん」
と言った小学生と同様である。

・・・しかし、それにしても何度思いだしても嬉しくなる小学校でのあの爽やかな光景。
何故にあの時あれほど清々しく思えたのだろう。
その動作が無駄のない運びだったこともある。
と同時に、嫌々やらされてるというのではなく、
自ら進んで行動していたことも大きい。

学校のトイレには「どうしたらあとの人が気持ちよく使えますか?」
と書かれた紙が貼ってあった。
きっとこの学校では、「ああしなさい、こうしなさい」という言い回しはあえて避け、
自主的な判断を促すよう徹底的に配慮されているのだろう。

人は「考えて楽しい。分かって嬉しい」生き物だ。
知的快感は人に与えられた特権である。
「難しいことを易しく」伝えることはとても大切だが、
あまりに過保護な分りやすさばかりに走ってもいけない。
要は相手に対し「自ら気付くという余白」をどれだけ残すか。
そんなセンスが落語や狂言には詰まっている。(了)
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蝶六改メ三代目桂花團治

Author:蝶六改メ三代目桂花團治
落語家・蝶六改め、三代目桂花團治です。「ホームページ「桂花團治~蝶のはなみち~」も併せてご覧ください。

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