222.初めてあぐらをかいた日~師匠からのお免状~
師匠(先代桂春蝶)のもとに入門して、
まもなく10年を迎えようかという頃だった。
ぼくはその日、師匠の家で晩酌のお相手をしていた。
当然、師匠の前ではしっかり正座の姿勢である。
とその時、師匠がおもむろに切り出した。
「蝶六(ぼくの前名)はうちに来てどれぐらいになる?」
「かれこれ10年近くになります」
「そうか・・・足を崩したらどないや」
ぼくは一瞬耳を疑った。
これまで師匠の前で足など崩したことがない。
躊躇していると、もう一度師匠は繰り返した。
「ええから、足を崩さんかい」
「は、はい。ありがとうございます」
もしこれがドッキリカメラだったらどうしよう…などと考えながら、
ぼくはまず姉さん坐りになった。
「遠慮せんとあぐらかいたらええねん!」
そのあと、ぼくはしっかりあぐらをかかせてもらい、
「まぁ呑みぃな」と差し出された師匠の盃を
なんともぎこちなく受けたのであった。

師匠の家に住み込み時代(中央が先代春蝶、その右隣に現・春蝶)
入門してからのぼくは三年間、師匠の家に住み込みをしていたが、
その頃、よく兄弟子らが師匠のご機嫌伺いにやって来た。
兄弟子らは一線を超えない程度に
タメ口混じりに師匠と談笑するのが常であった。
それは師弟を超えて本当の親子のようで、
ぼくには羨ましくてしょうがなかった。
ぼくはといえば、年季が明けてからも師匠の前ではいつもガチガチ。
「いつかあんな感じで師匠と話ができたらいいな」という思いは
ずっと心の片隅にあった。
そんなぼくにとって師匠の言いだした「足を崩さんかい」は
大きな免状であり、
弟子としてようやく正式に認められたような心持ちになったのだ。
これを機に師匠との新しい付き合い方が始まるのではとおおいに期待をした。
でも、その翌年に師匠は他界した。

先代春蝶の遺影を挟んで、左が現・春蝶、右がぼく(撮影:相原正明)
内弟子生活には様々な規制があった。
酒や煙草の禁止はもちろん、
外での用事を済ませたら真っすぐに帰って来なければならない。
それでいて休みは年に二日程度。師匠はぼくにこう言った。
「ツライやろ。けど、今はバネを巻く時期や。
ここを出たら目いっぱいに弾けたらええんや」
しかし、意外にぼくはその生活にさほど辛さを感じなかった。
朝のご飯の支度や犬の散歩などはルーティンワークにしてしまえば
ツライという気持ちなどさらさらなく当たり前の範疇だった。
二十歳過ぎの若者にとって、見るもの聴くもの全てが新鮮で毎日が刺激的だった。
弾け損ないのぼくはどうやらバネがユルユルのまま年季明けしてしまったらしい。

先代春蝶の想い出ばなしに花を咲かせる現・春蝶(左)とぼく(撮影:相原正明)
師匠の言うことは時を経て変わっていく。
前に言っていたことと全く正反対のことを言われるなどざらにある。
例えば、入門時に「どんどん声を前に出せ」と言われていたのが、
ある時期を境に「そんなに声を張る奴があるかい!」となる。
当初は「わしの真似をせぇ」が、
途中から「わしの真似をしてどうするねん!」となったり……。
でも、それは師匠がぼくのことを
ずっと見てくれていたということに他ならない。

(撮影:相原正明)
最近になって、昔はとても怖くモノも言えなかった落語家のある先輩と
二人で酒を酌み交わすことが増えた。
気がつけばぼくも芸歴36年。昔とは違った付き合い方がある。
「兄さん、それはおかしいのと違いますか?」なんてことを
あの頃は口が裂けても言えなかったが、今なら少しは突っ込める。
もちろん、そこにはわきまえなければならない結界というものがある。
それを間違うと「お前が言うな!」と叱られるが
畏まり過ぎるのもかえって相手に気を遣わせることになる。
時間を掛けながら関係の距離を詰めていく過程が
人間関係の面白さであり難しさかもしれない。
もし今、師匠が生きていたら、
ぼくは師匠とどんな会話をしただろうか。
「親父、酒の飲みすぎはあきまへんで!」
一度ぐらいは師匠をたしなめたかったなぁ。
※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。

※「いけだ春團治まつり」の詳細はこちらをクリック!

※「神戸市室内管弦楽団」サイトはこちらをクリック!

※「花團治公式サイト・出演情報」はこちらをクリック!
▶花團治公式サイトはこちらをクリック!
まもなく10年を迎えようかという頃だった。
ぼくはその日、師匠の家で晩酌のお相手をしていた。
当然、師匠の前ではしっかり正座の姿勢である。
とその時、師匠がおもむろに切り出した。
「蝶六(ぼくの前名)はうちに来てどれぐらいになる?」
「かれこれ10年近くになります」
「そうか・・・足を崩したらどないや」
ぼくは一瞬耳を疑った。
これまで師匠の前で足など崩したことがない。
躊躇していると、もう一度師匠は繰り返した。
「ええから、足を崩さんかい」
「は、はい。ありがとうございます」
もしこれがドッキリカメラだったらどうしよう…などと考えながら、
ぼくはまず姉さん坐りになった。
「遠慮せんとあぐらかいたらええねん!」
そのあと、ぼくはしっかりあぐらをかかせてもらい、
「まぁ呑みぃな」と差し出された師匠の盃を
なんともぎこちなく受けたのであった。

師匠の家に住み込み時代(中央が先代春蝶、その右隣に現・春蝶)
入門してからのぼくは三年間、師匠の家に住み込みをしていたが、
その頃、よく兄弟子らが師匠のご機嫌伺いにやって来た。
兄弟子らは一線を超えない程度に
タメ口混じりに師匠と談笑するのが常であった。
それは師弟を超えて本当の親子のようで、
ぼくには羨ましくてしょうがなかった。
ぼくはといえば、年季が明けてからも師匠の前ではいつもガチガチ。
「いつかあんな感じで師匠と話ができたらいいな」という思いは
ずっと心の片隅にあった。
そんなぼくにとって師匠の言いだした「足を崩さんかい」は
大きな免状であり、
弟子としてようやく正式に認められたような心持ちになったのだ。
これを機に師匠との新しい付き合い方が始まるのではとおおいに期待をした。
でも、その翌年に師匠は他界した。

先代春蝶の遺影を挟んで、左が現・春蝶、右がぼく(撮影:相原正明)
内弟子生活には様々な規制があった。
酒や煙草の禁止はもちろん、
外での用事を済ませたら真っすぐに帰って来なければならない。
それでいて休みは年に二日程度。師匠はぼくにこう言った。
「ツライやろ。けど、今はバネを巻く時期や。
ここを出たら目いっぱいに弾けたらええんや」
しかし、意外にぼくはその生活にさほど辛さを感じなかった。
朝のご飯の支度や犬の散歩などはルーティンワークにしてしまえば
ツライという気持ちなどさらさらなく当たり前の範疇だった。
二十歳過ぎの若者にとって、見るもの聴くもの全てが新鮮で毎日が刺激的だった。
弾け損ないのぼくはどうやらバネがユルユルのまま年季明けしてしまったらしい。

先代春蝶の想い出ばなしに花を咲かせる現・春蝶(左)とぼく(撮影:相原正明)
師匠の言うことは時を経て変わっていく。
前に言っていたことと全く正反対のことを言われるなどざらにある。
例えば、入門時に「どんどん声を前に出せ」と言われていたのが、
ある時期を境に「そんなに声を張る奴があるかい!」となる。
当初は「わしの真似をせぇ」が、
途中から「わしの真似をしてどうするねん!」となったり……。
でも、それは師匠がぼくのことを
ずっと見てくれていたということに他ならない。

(撮影:相原正明)
最近になって、昔はとても怖くモノも言えなかった落語家のある先輩と
二人で酒を酌み交わすことが増えた。
気がつけばぼくも芸歴36年。昔とは違った付き合い方がある。
「兄さん、それはおかしいのと違いますか?」なんてことを
あの頃は口が裂けても言えなかったが、今なら少しは突っ込める。
もちろん、そこにはわきまえなければならない結界というものがある。
それを間違うと「お前が言うな!」と叱られるが
畏まり過ぎるのもかえって相手に気を遣わせることになる。
時間を掛けながら関係の距離を詰めていく過程が
人間関係の面白さであり難しさかもしれない。
もし今、師匠が生きていたら、
ぼくは師匠とどんな会話をしただろうか。
「親父、酒の飲みすぎはあきまへんで!」
一度ぐらいは師匠をたしなめたかったなぁ。
※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。

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