225.揺れる~大人ブランコのススメ~
昭和37年、ある日の夕方。駅近くの児童公園。
それまで元気に走り回っていた子どもたちの姿は
もうそこにはなかった。
そんな公園の片隅に一人ポツンとブランコに揺られながら
じっと遠くを見つめる青年がいた。
それにしても誰もいない公園で大人の一人ブランコは
何とも孤独である。
青年はこの界隈ではちょっとした有名人で
公園でのこの行動がよく目撃されていた。
「落語家さんのお弟子さんらしいで」という情報も
知れ渡っていた。「修行って厳しいんやろな」と皆が噂しあった。
「彼は涙をこぼしていた」と証言する人もいた。
やがて青年はブラウン管に登場し、
この界隈だけでなく多くの世間が知ることになる。
この青年こそ、後にぼくの師匠となる二代目桂春蝶であった。
ぼくはこの師匠の若かりし頃の話を、
近所で和菓子屋を営む女将から聞いた。

ブランコと言えば、黒沢明監督の映画『生きる』を思い出す。
『生きる』とは胃がんを宣告された役所勤めの主人公が
様々な困難と闘いつつも目的を成就させたのちに死んでいくという物語。
この映画の冒頭は胃カメラの写真と共にこんなナレーションから始まる。
「これはこの物語の主人公の胃袋である。幽門部に胃ガンの兆候が見えるが、本人はまだそれを知らない。……これがこの物語の主人公である。しかし今この男について語るのは退屈なだけだ。何故なら彼は時間を潰しているだけだからだ。彼には生きた時間がない。つまり彼は生きているとは言えないからである」
このあと、彼は意を決してある決断をする。
それが元となって良からぬ連中に命を狙われたりもする。
「命がいらねえのか」と凄まれる場面でニヤッと笑い返す主人公は
何とも不気味で格好良い。
ブランコのシーンが出てくるのは終盤近くだ。
主人公演じる志村喬がブランコに乗りながら「ゴンドラの歌」を口ずさんでいる。
いのち短し恋せよ乙女
あかき唇あせぬ間に
熱き血潮の冷えぬ間に
明日の月日はないものを

『生きる』の上映は昭和27年。
映画好きの春蝶のこととて当然この映画も観ていたに違いない。
20歳になって咄家に入門した師匠は
ブランコに乗りながら自身を主人公になぞらえ、
「どう生きるべきか」を問い続けていたのだろうか。
そう言えば、志村喬の風貌はどことなく師匠とも似ている。

志村喬

二代目桂春蝶(撮影:後藤清)
一説によると
「ブランコはかつて幼児だった自分に
やすらぎを与えてくれたゆりかごの代わり」ということらしい。
だから、大人ブランコは漕ぐというよりもただ揺られるだけなのだという。
今も子どもの姿が見えない日が暮れ前か早朝の時間帯、
スーツ姿の男性を見かけることがある。
あるいは夜中の若い女性。失恋なのか、
夫婦喧嘩でもしたのだろうか。
ある日、ぼくも試しに子どもたちがはけた近所の公園のブランコに腰掛けてみた。
キーコキーコという鉄の触れ合う音が妙に心地良い。
サビ鉄の匂いも何故だか脳を刺激するようだった。
いつしかただ揺られるではなく強く漕ぎ出していた。
なんだか無心になっていた。
びっくりするぐらい空が高く見えた。
以来、ぼくは考えに行き詰るたび公園に通うようになった。
すっかりブランコのお得意さんになった。
「いのち短し恋せよ乙女
あかき唇あせぬ間に
熱き血潮の冷えぬ間に
明日の月日はないものを」の鼻歌も忘れない。
二代目春蝶が若かりし頃、師匠宅をそっと抜け出しては
ブランコに揺られていた意味が少しわかったような気がした。
※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。

▶「第5回・花團治の会」の詳細はこちらをクリック

▶チケット発売開始は2019年8月5日(月)です(全席指定)
◆花團治公式サイトはこちらをクリック
それまで元気に走り回っていた子どもたちの姿は
もうそこにはなかった。
そんな公園の片隅に一人ポツンとブランコに揺られながら
じっと遠くを見つめる青年がいた。
それにしても誰もいない公園で大人の一人ブランコは
何とも孤独である。
青年はこの界隈ではちょっとした有名人で
公園でのこの行動がよく目撃されていた。
「落語家さんのお弟子さんらしいで」という情報も
知れ渡っていた。「修行って厳しいんやろな」と皆が噂しあった。
「彼は涙をこぼしていた」と証言する人もいた。
やがて青年はブラウン管に登場し、
この界隈だけでなく多くの世間が知ることになる。
この青年こそ、後にぼくの師匠となる二代目桂春蝶であった。
ぼくはこの師匠の若かりし頃の話を、
近所で和菓子屋を営む女将から聞いた。

ブランコと言えば、黒沢明監督の映画『生きる』を思い出す。
『生きる』とは胃がんを宣告された役所勤めの主人公が
様々な困難と闘いつつも目的を成就させたのちに死んでいくという物語。
この映画の冒頭は胃カメラの写真と共にこんなナレーションから始まる。
「これはこの物語の主人公の胃袋である。幽門部に胃ガンの兆候が見えるが、本人はまだそれを知らない。……これがこの物語の主人公である。しかし今この男について語るのは退屈なだけだ。何故なら彼は時間を潰しているだけだからだ。彼には生きた時間がない。つまり彼は生きているとは言えないからである」
このあと、彼は意を決してある決断をする。
それが元となって良からぬ連中に命を狙われたりもする。
「命がいらねえのか」と凄まれる場面でニヤッと笑い返す主人公は
何とも不気味で格好良い。
ブランコのシーンが出てくるのは終盤近くだ。
主人公演じる志村喬がブランコに乗りながら「ゴンドラの歌」を口ずさんでいる。
いのち短し恋せよ乙女
あかき唇あせぬ間に
熱き血潮の冷えぬ間に
明日の月日はないものを

『生きる』の上映は昭和27年。
映画好きの春蝶のこととて当然この映画も観ていたに違いない。
20歳になって咄家に入門した師匠は
ブランコに乗りながら自身を主人公になぞらえ、
「どう生きるべきか」を問い続けていたのだろうか。
そう言えば、志村喬の風貌はどことなく師匠とも似ている。

志村喬

二代目桂春蝶(撮影:後藤清)
一説によると
「ブランコはかつて幼児だった自分に
やすらぎを与えてくれたゆりかごの代わり」ということらしい。
だから、大人ブランコは漕ぐというよりもただ揺られるだけなのだという。
今も子どもの姿が見えない日が暮れ前か早朝の時間帯、
スーツ姿の男性を見かけることがある。
あるいは夜中の若い女性。失恋なのか、
夫婦喧嘩でもしたのだろうか。
ある日、ぼくも試しに子どもたちがはけた近所の公園のブランコに腰掛けてみた。
キーコキーコという鉄の触れ合う音が妙に心地良い。
サビ鉄の匂いも何故だか脳を刺激するようだった。
いつしかただ揺られるではなく強く漕ぎ出していた。
なんだか無心になっていた。
びっくりするぐらい空が高く見えた。
以来、ぼくは考えに行き詰るたび公園に通うようになった。
すっかりブランコのお得意さんになった。
「いのち短し恋せよ乙女
あかき唇あせぬ間に
熱き血潮の冷えぬ間に
明日の月日はないものを」の鼻歌も忘れない。
二代目春蝶が若かりし頃、師匠宅をそっと抜け出しては
ブランコに揺られていた意味が少しわかったような気がした。
※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。

▶「第5回・花團治の会」の詳細はこちらをクリック

▶チケット発売開始は2019年8月5日(月)です(全席指定)
◆花團治公式サイトはこちらをクリック
- 関連記事
-
- 260.一見さんお断り~一期一会を100倍ステキにする方法 (2022/06/19)
- 259.最後の贈り物~笑いと、涙と、あの人と~ (2022/05/15)
- 252.仁鶴師匠と敏江師匠~二代目春蝶生誕祭に寄せて~ (2021/10/17)
- 249.鶴の恩送り~弟子にしたのは俺や、辞めさすのも俺や~ (2021/08/14)
- 245.澤田隆治先生ありがとうございました。 (2021/05/17)
- 235.リメンバー・ミー~思うことは活きること~ (2020/08/11)
- 227.初高座の想い出~師匠のペップトーク~ (2019/10/10)
- 225.揺れる~大人ブランコのススメ~ (2019/07/15)
- 223.壁に耳あり障子に目あり、弟子の背後に師匠あり~師匠はいつだって見守ってくれていた~ (2019/05/08)
- 222.初めてあぐらをかいた日~師匠からのお免状~ (2019/04/05)
- 218.思いやりの破門~死に際に見せた師匠の流儀~ (2018/11/18)
- 216.やるかやられるか~師匠と弟子の奇妙な関係~ (2018/08/23)
- 215.指南・考~導く方向・見つける方法~ (2018/08/10)
- 214.「笑われる」ぼくが、「笑わせる」喜びに目覚めた瞬間~二代目春蝶とWヤング・平川幸雄師匠との共通点とは?~ (2018/07/30)
- 213.野球嫌いなぼくが何故「虎キチ」師匠に入門を乞うたか?~アカン奴ほど愛おしい~ (2018/07/09)