232.祝うて三度でご出棺~別れの言葉はサヨナラじゃなくて~
イズム - 2020年05月08日 (金)
亡くなる十日ほど前だったか、
がん患者によく見られる皮膚の突起が
義父の額の真ん中にもくっきりと表れるようになった。
義父は自身のそれを指しながら
「お釈迦さんみたいやろ」
と子どもみたく笑った———。
コロナ騒ぎの緊急事態宣言により、全てに自粛が叫ばれるなか、
女房の父が静かにあの世へ旅立った。
葬儀は三密を避けるため、ごく身内だけで執り行うことになった。
その通夜を済ませた夜に女房の兄貴・つまり義兄が
電話でぼくにこんな提案を持ち掛けてきた。
「親父を陽気に送り出してやりたいと思いますねん。
それで、出棺の時に兄さん(ぼくの方が年上なのでお互いに兄さんと呼び合うようになった)が
大阪締めの音頭をとってもらえませんか?」。
大阪締めとは、天神祭りの船渡御のとき、
船が行き交う際に行う手打ちである。
「打ちま~ひょ(パンパン)、もひとつせ(パンパン)、祝うて三度(パパン、パン)!」。
いくらなんでも葬儀に「祝うて三度」というのはどうかとぼくは躊躇した。
しかし、義兄は「親父を送り出すに、その方がきっと相応しい、親父も喜んでくれる」
と言って譲らなかった。

リノベーション工事中の自宅を眺めながら、義父とのツーショット。
義兄とのそんなやりとりのなかで脳裏に浮かんできたのは、
闘病中にも関わらず、長期入院を拒み一時帰宅しては
パソコンの前に坐る義父の姿であった。
公認会計士であり、会社経営も担っていた義父は
後に残された者が困らないようにとずっとキーボードを打ち続けていた。
そればかりか、「(自分が生きている間に)
あいつには何をしてやったらええかなぁ」と
他人のことばかり気遣っていた。
ぼくに遺してくれたのは稽古場だ。
義父は若くして独立したが、
自宅長屋のひと部屋を事務所に置いたものだから
電話応対中に赤ん坊の泣き声が響いて困ったのだという。
「これではプロとしての仕事はできまい」と一念発起した義父は
別に事務所を借り、後年は一階を事務所にした三階建て家屋を構えた。
このことから、ぼくにも
稽古や仕事に集中できる場を持つべきと考えてくれていたようだ。
昨年に閉所した一階の会計事務所スペースを貸すので、
ぼくたち家族の住居兼稽古場にリノベーションしてはどうか、というのは
義父からの提案だった。
ステージ4の癌で余命一年の宣告を受けた直後のことだ。
リノベーションが終わり、
引っ越しが完了したのは義父の亡くなる三日前。
寝たきりになった義父に稽古場で落語を聴いてもらう夢は叶わなかったが、
義父は苦しい息のなかで
「(死ぬまでに)間に合うて良かった」と何度も口にしたという。

リノベーションは大阪天満の「シンプルハウス」さんにお願いした。その地鎮祭にて。
車椅子に座ってピースサインをしているのが義父。
思い起こせば、義父は家の設計図を前に
ぼくにこんなことを言っていた。
「このスペースやったら落語会もできるわな。
30人は入るやろか。色んな人が集うサロンみたいになったらええな。
完成したら紅白の幕を吊って、
チンドン屋を呼んで…」。
またこんなことも。
「これはあくまでひとつのステップや。
ここで終わったらあかん。いずれここから飛び立ってもらいたい」

新しくなった外壁。手前が稽古場で、奥が住居。
自分の死を目前に、常に冷静に、己のことより周囲の者に気を配る。
……見事な生き様、死に様だった。
親父さんは人生を全うした。
きっとええとこへ行きはる。
あの世への良き門出やんか、祝って送り出してやったらええやん。
…そんな思いがふつと沸いてきた。
「兄さん、やっぱり大阪締めやね」
「祝うて三度」の手打ちが葬儀会場に響いた。
義父を乗せた車が静かに動き出した。

筆者(撮影:坂東剛志)
※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。
※花團治公式サイトはこちらをクリック!
がん患者によく見られる皮膚の突起が
義父の額の真ん中にもくっきりと表れるようになった。
義父は自身のそれを指しながら
「お釈迦さんみたいやろ」
と子どもみたく笑った———。
コロナ騒ぎの緊急事態宣言により、全てに自粛が叫ばれるなか、
女房の父が静かにあの世へ旅立った。
葬儀は三密を避けるため、ごく身内だけで執り行うことになった。
その通夜を済ませた夜に女房の兄貴・つまり義兄が
電話でぼくにこんな提案を持ち掛けてきた。
「親父を陽気に送り出してやりたいと思いますねん。
それで、出棺の時に兄さん(ぼくの方が年上なのでお互いに兄さんと呼び合うようになった)が
大阪締めの音頭をとってもらえませんか?」。
大阪締めとは、天神祭りの船渡御のとき、
船が行き交う際に行う手打ちである。
「打ちま~ひょ(パンパン)、もひとつせ(パンパン)、祝うて三度(パパン、パン)!」。
いくらなんでも葬儀に「祝うて三度」というのはどうかとぼくは躊躇した。
しかし、義兄は「親父を送り出すに、その方がきっと相応しい、親父も喜んでくれる」
と言って譲らなかった。

リノベーション工事中の自宅を眺めながら、義父とのツーショット。
義兄とのそんなやりとりのなかで脳裏に浮かんできたのは、
闘病中にも関わらず、長期入院を拒み一時帰宅しては
パソコンの前に坐る義父の姿であった。
公認会計士であり、会社経営も担っていた義父は
後に残された者が困らないようにとずっとキーボードを打ち続けていた。
そればかりか、「(自分が生きている間に)
あいつには何をしてやったらええかなぁ」と
他人のことばかり気遣っていた。
ぼくに遺してくれたのは稽古場だ。
義父は若くして独立したが、
自宅長屋のひと部屋を事務所に置いたものだから
電話応対中に赤ん坊の泣き声が響いて困ったのだという。
「これではプロとしての仕事はできまい」と一念発起した義父は
別に事務所を借り、後年は一階を事務所にした三階建て家屋を構えた。
このことから、ぼくにも
稽古や仕事に集中できる場を持つべきと考えてくれていたようだ。
昨年に閉所した一階の会計事務所スペースを貸すので、
ぼくたち家族の住居兼稽古場にリノベーションしてはどうか、というのは
義父からの提案だった。
ステージ4の癌で余命一年の宣告を受けた直後のことだ。
リノベーションが終わり、
引っ越しが完了したのは義父の亡くなる三日前。
寝たきりになった義父に稽古場で落語を聴いてもらう夢は叶わなかったが、
義父は苦しい息のなかで
「(死ぬまでに)間に合うて良かった」と何度も口にしたという。

リノベーションは大阪天満の「シンプルハウス」さんにお願いした。その地鎮祭にて。
車椅子に座ってピースサインをしているのが義父。
思い起こせば、義父は家の設計図を前に
ぼくにこんなことを言っていた。
「このスペースやったら落語会もできるわな。
30人は入るやろか。色んな人が集うサロンみたいになったらええな。
完成したら紅白の幕を吊って、
チンドン屋を呼んで…」。
またこんなことも。
「これはあくまでひとつのステップや。
ここで終わったらあかん。いずれここから飛び立ってもらいたい」

新しくなった外壁。手前が稽古場で、奥が住居。
自分の死を目前に、常に冷静に、己のことより周囲の者に気を配る。
……見事な生き様、死に様だった。
親父さんは人生を全うした。
きっとええとこへ行きはる。
あの世への良き門出やんか、祝って送り出してやったらええやん。
…そんな思いがふつと沸いてきた。
「兄さん、やっぱり大阪締めやね」
「祝うて三度」の手打ちが葬儀会場に響いた。
義父を乗せた車が静かに動き出した。

筆者(撮影:坂東剛志)
※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。
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