234.当たり前の向こう側~そして、彼女はオッサンになった~
混み合う車内に、棚に並ぶマスクやトイレットペーパー…。
そんな他愛もない光景がやけにまぶしく映った。
この日は久しぶりの出前寄席。
県をまたいでの移動はおよそ4か月ぶりのことだった。
自粛解除とはいえ手放しで安心するには程遠い状況ゆえ、
お客様のなかには家族から嫌味のひとつも言われた方もおられよう。
それでもわざわざ集まってくれた。
こちらもずっと休業状態で巣ごもりしてきた身。
喋る場が与えられただけでもありがたいとつくづく感じた。

大阪に「天満天神繁昌亭」という
落語専門の定席小屋ができてかれこれ14年。
以来、上方落語が全国に認知されるようになり、
大阪の落語家も少しずつ仕事が増えていった。
メディアに出ていないぼくも毎日のようにどこかで一席というのが、
ごく「当たり前」になった。
それが今回のコロナ禍でほとんどの仕事はキャンセルになり、
「天満天神繁昌亭」も3か月の休館を余儀なくされた。

この自粛でさぞかし落語家は
暇を持て余していたことだろうと思われるかも知れないが、
周囲の話を聞けば意外に充実した巣ごもりを送っていた者の多いこと。
連日のようにテレワーク落語など新しい発信を模索する若手や、
一日にひとつのペースで新作落語を創ることを自身に課した猛者もいる。
かくいうぼくはかなりサボり組の方だが、
それでも持ちネタを増やすのは勿論のこと、
積ん読状態だった本や資料を読み漁ったり…
連日の夜更かしが続いている。
時間はいくらあっても足りない。
やりたいことが山ほどあるということもあるが、
それ以上に、世の中が落ち着いたときにお客様から
「お前は有り余る時間に何をしていたんだ!」と呆れられるに違いないといった、
強迫観念がぼくを追い込んでいる。
とはいえ、やはり落語家は外で喋ってナンボ。
ステイホームではただのうるさいオッサンである。
家族にはさぞ迷惑なことだろう。
つい先日も嫁はんからクレームを受けた。
あまりにぼくが家にいることが多いので、
2歳の娘の言葉遣いが変わったという。
例えば、それまで「これなぁに?」とモノの名前を可愛く尋ねていたのが、
ぼくの自宅待機が始まって以来「これなんや?」といった
大阪弁丸出しの口調になってしまったというのだ。
「家の中に小っこいオッサンが一人増えたみたいや」と
嫁はんのぼやくことしきり。

このところずっと収入がなく肩身が狭い立場で、言い返すこともできない。
しかし、ある深夜のこと、パソコン仕事の合間にふと寝室の前に立つと、
寝入りばなの娘に語る嫁の声が聞こえてきた。
「お父さんはエライね。ああやって遅くまで頑張ってお仕事してるんやで。お父さんのおかげでご飯が食べられるんやで。こんな可愛い服も着られるんやで」
このときばかりは、思わず扉の向こうの嫁はんに手を合わせた。
前述の県またぎの落語会では、当日も消毒作業に余念がなかった。
そればかりか会場入りしたぼくに
「お客様を大勢入れることができなくてすみません」と何度も頭を下げられた。

ぼくの主宰する落語塾では、一回当たりの人数制限に加え、
高座の前にスクリーンを置くようになった。
ある人に言わせると、「感謝」の反対は「当たり前」だという。
4か月ぶりの高座はぼくにとってとても充実したものだった。
これまでこれほど「感謝」を思った高座があったろうか。
マスク越しの笑い声は温もりに溢れていた。
帰りの車中、久しぶりの高座に燃焼しきったぼくはずっと爆睡のままだった。
最寄り駅に下り立つと居酒屋の赤ちょうちんが誘惑したが、
この日ばかりは目もくれず自宅に直行した。
家に近づくと二歳の娘が出迎えてくれる姿が見えてきた。
その満面の笑顔の向こうにある、
「お父さんはエライね」という嫁の言葉を思い出した。
周囲のさりげない日常がぼくを支えている。
そんな日常を「当たり前」と思わないようにという戒め、
それはコロナからの贈り物かもしれない。
※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。


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そんな他愛もない光景がやけにまぶしく映った。
この日は久しぶりの出前寄席。
県をまたいでの移動はおよそ4か月ぶりのことだった。
自粛解除とはいえ手放しで安心するには程遠い状況ゆえ、
お客様のなかには家族から嫌味のひとつも言われた方もおられよう。
それでもわざわざ集まってくれた。
こちらもずっと休業状態で巣ごもりしてきた身。
喋る場が与えられただけでもありがたいとつくづく感じた。

大阪に「天満天神繁昌亭」という
落語専門の定席小屋ができてかれこれ14年。
以来、上方落語が全国に認知されるようになり、
大阪の落語家も少しずつ仕事が増えていった。
メディアに出ていないぼくも毎日のようにどこかで一席というのが、
ごく「当たり前」になった。
それが今回のコロナ禍でほとんどの仕事はキャンセルになり、
「天満天神繁昌亭」も3か月の休館を余儀なくされた。

この自粛でさぞかし落語家は
暇を持て余していたことだろうと思われるかも知れないが、
周囲の話を聞けば意外に充実した巣ごもりを送っていた者の多いこと。
連日のようにテレワーク落語など新しい発信を模索する若手や、
一日にひとつのペースで新作落語を創ることを自身に課した猛者もいる。
かくいうぼくはかなりサボり組の方だが、
それでも持ちネタを増やすのは勿論のこと、
積ん読状態だった本や資料を読み漁ったり…
連日の夜更かしが続いている。
時間はいくらあっても足りない。
やりたいことが山ほどあるということもあるが、
それ以上に、世の中が落ち着いたときにお客様から
「お前は有り余る時間に何をしていたんだ!」と呆れられるに違いないといった、
強迫観念がぼくを追い込んでいる。
とはいえ、やはり落語家は外で喋ってナンボ。
ステイホームではただのうるさいオッサンである。
家族にはさぞ迷惑なことだろう。
つい先日も嫁はんからクレームを受けた。
あまりにぼくが家にいることが多いので、
2歳の娘の言葉遣いが変わったという。
例えば、それまで「これなぁに?」とモノの名前を可愛く尋ねていたのが、
ぼくの自宅待機が始まって以来「これなんや?」といった
大阪弁丸出しの口調になってしまったというのだ。
「家の中に小っこいオッサンが一人増えたみたいや」と
嫁はんのぼやくことしきり。

このところずっと収入がなく肩身が狭い立場で、言い返すこともできない。
しかし、ある深夜のこと、パソコン仕事の合間にふと寝室の前に立つと、
寝入りばなの娘に語る嫁の声が聞こえてきた。
「お父さんはエライね。ああやって遅くまで頑張ってお仕事してるんやで。お父さんのおかげでご飯が食べられるんやで。こんな可愛い服も着られるんやで」
このときばかりは、思わず扉の向こうの嫁はんに手を合わせた。
前述の県またぎの落語会では、当日も消毒作業に余念がなかった。
そればかりか会場入りしたぼくに
「お客様を大勢入れることができなくてすみません」と何度も頭を下げられた。

ぼくの主宰する落語塾では、一回当たりの人数制限に加え、
高座の前にスクリーンを置くようになった。
ある人に言わせると、「感謝」の反対は「当たり前」だという。
4か月ぶりの高座はぼくにとってとても充実したものだった。
これまでこれほど「感謝」を思った高座があったろうか。
マスク越しの笑い声は温もりに溢れていた。
帰りの車中、久しぶりの高座に燃焼しきったぼくはずっと爆睡のままだった。
最寄り駅に下り立つと居酒屋の赤ちょうちんが誘惑したが、
この日ばかりは目もくれず自宅に直行した。
家に近づくと二歳の娘が出迎えてくれる姿が見えてきた。
その満面の笑顔の向こうにある、
「お父さんはエライね」という嫁の言葉を思い出した。
周囲のさりげない日常がぼくを支えている。
そんな日常を「当たり前」と思わないようにという戒め、
それはコロナからの贈り物かもしれない。
※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。


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