245.澤田隆治先生ありがとうございました。
澤田先生が、澤田隆治先生が逝ってしまった。
ぼくが「澤田隆治」という名を知ったのは高校生の頃。
当時、「花王名人劇場」という番組が流行っていて
毎週欠かさず見たものである。
その番組タイトルの肩には「澤田隆治プロデュース」とあって、
このとき「プロデュースとは何ぞや?」という興味がわき、
澤田先生が「スチャラカ社員」「てなもんや三度笠」「新婚さんいらっしゃい」などなど
伝説の人気番組を手掛けた人だということを知った。

澤田隆治先生(右)と花團治(撮影:相原正明)
落語家になる前、ぼくは大阪芸術大学の芸術計画学科に入学した。
その頃から落語家になりたいという思いはあったが、
同時に、制作スタッフやプロデューサーという職への憧れが強かったのは、
やはり澤田隆治先生の影響だった。
当学科のパンフレットにはドーンと「君も未来のプロデューサーに!」と記されていた。
この学科は1970年の大阪万博をきっかけに設立された、
いわゆる総合プロデュースできる人材を育成する学科。
結局、ぼくは学費が払えず一年で中退したが、
落語家になってからもイベントプロデュースに精を出したのは、
このときの思いからきていた。
だから、「放送芸術学院」の講師に決まったとき、
その学校顧問(現在は校長)に澤田隆治先生の名を見つけ、
ぼくは思わず小躍りした。あれからおよそ25年、
ぼくは入学式や卒業式での先生の祝辞を毎年楽しみにしていた。

澤田先生が校長を務める「放送芸術学院専門学校」
帝国ホテル大阪の並び。
ある年の入学式で澤田先生が述べられた一節が強く印象に残っている。
「みんなは、ぼくが『藤田まこと』を育てあげたというけど、
ぼくは彼の存在をただ見つけただけ。
一度世に出たら、あとは周りが放っておきませんし、
色んな人がどんどんついてくる。
……だいたい、ぼくはもう売れてしまっている人は
あまり興味がないんです。
埋もれている逸材を見つけてきては世に出す。
これがぼくの生きがいなんです」
ところで、襲名する際、関係者やご贔屓さんに配る
「三点セット」というものがある。
扇子と手拭、そして挨拶状。

挨拶回りには桂治門(写真)に同行してもらった。
お盆の上には、扇子・手拭・挨拶状。それに袱紗を被せる。(撮影:相原正明)
6年前の襲名時、その挨拶文を誰にお願いするかを考えたとき、
真っ先に思い浮かんだのは澤田隆治先生だった。
学校のスタッフのはからいで対面を果たした際、
「そうか。君は春蝶くんの弟子かいなぁ。
“花王名人劇場”が始まったとき、
ぼくは大阪のいろんな芸人に声を掛けた。
けど、君の師匠はぼくの依頼を断りよったんや。
何でも“箱根を超えると魔物がおるとか、
わけのわからんこと言うてな。
春蝶くんだけや。
ぼくの依頼を断ったのは。
それだけやない。他にもなぁ…」。
何かと自分に逆らううちの師匠のことを
実に懐かしそうに嬉しそうに語ってくれた。
「なかなか骨のある奴やったなぁ」。
当初は5分だけでもということで取り付けたアポだったが、
漫才作家の秋田實先生のことや、戦前戦後の上方落語のはなしなど、
気がつけば1時間以上も経っていた。

襲名の祝辞も、最初から快諾してくれたわけではなかった。
実ははじめはずいぶん固辞されていた。
それはぼくに対する気遣いだった。
「ぼくかて、
業界には味方ばっかりやないぞ。
ぼくがここへ名を連ねることで、
君のことを避ける者もおるやろ。
それは覚悟しいや」
「ありがとうございます!」
「このたび 桂 蝶六さんが、戦後途絶えていた 桂 花團治の名跡を七十年ぶりに復活されることになりました。声に出してみるとわかりますが、こんな華やかないい名跡が埋もれていたのが信じられない思いです。このたびの襲名披露は、上方落語界のためにも喜ばしく、誠におめでたいイベントであります。
蝶六さんは、二代目 桂春蝶さんの最後の弟子で、春蝶師とは私が朝日放送のテレビプロデューサーだった四十年前、上方落語の若手を売り出すための番組づくりで毎週顔を合わせ、共に苦労した仲でした。師は特に時代感覚が鋭くて、私が東京で笑いの番組づくりを手がけた時、何度か出演を要請したのですが、「箱根から東には魔物がいるので」とのことで、最後まで大阪にこだわられていました。かつて春蝶師に入れこんだことのある私としては、その弟子である蝶六さんと春團治一門のご活躍はこの上なくうれしいことです。
加えて蝶六さんには、いま私が校長をしている放送芸術学院専門学校の講師として、十八年もの間、学生の面倒をみてもらっている恩義があるのです。大きな名前をいただいたことで、ますます大物感のある落語家になってほしいという期待をこめて、蝶六から花團治になるこれからに声援を贈り続けたいと思います。」 メディア・プロデューサー 澤 田 隆 治

左から、六代桂文枝、大学の同級生・花畑秀人(現・ミルキーウェイ代表取締役)、澤田隆治、桂花團治
国立演芸場(東京)の楽屋にて(撮影:相原正明)
……東京での独演会では、毎回のように駆けつけてくださった。
その翌日には、電話でアドバイスというよりお叱りに近いお言葉まで頂戴した。
おそらくうちの師匠のぶんまで入っていたのだと思う。
どうか先生、あの世でうちの師匠と
丁々発止を楽しんでください。合掌。
2021年5月16日没、享年88.
▶花團治公式サイトはここをクリック!
ぼくが「澤田隆治」という名を知ったのは高校生の頃。
当時、「花王名人劇場」という番組が流行っていて
毎週欠かさず見たものである。
その番組タイトルの肩には「澤田隆治プロデュース」とあって、
このとき「プロデュースとは何ぞや?」という興味がわき、
澤田先生が「スチャラカ社員」「てなもんや三度笠」「新婚さんいらっしゃい」などなど
伝説の人気番組を手掛けた人だということを知った。

澤田隆治先生(右)と花團治(撮影:相原正明)
落語家になる前、ぼくは大阪芸術大学の芸術計画学科に入学した。
その頃から落語家になりたいという思いはあったが、
同時に、制作スタッフやプロデューサーという職への憧れが強かったのは、
やはり澤田隆治先生の影響だった。
当学科のパンフレットにはドーンと「君も未来のプロデューサーに!」と記されていた。
この学科は1970年の大阪万博をきっかけに設立された、
いわゆる総合プロデュースできる人材を育成する学科。
結局、ぼくは学費が払えず一年で中退したが、
落語家になってからもイベントプロデュースに精を出したのは、
このときの思いからきていた。
だから、「放送芸術学院」の講師に決まったとき、
その学校顧問(現在は校長)に澤田隆治先生の名を見つけ、
ぼくは思わず小躍りした。あれからおよそ25年、
ぼくは入学式や卒業式での先生の祝辞を毎年楽しみにしていた。

澤田先生が校長を務める「放送芸術学院専門学校」
帝国ホテル大阪の並び。
ある年の入学式で澤田先生が述べられた一節が強く印象に残っている。
「みんなは、ぼくが『藤田まこと』を育てあげたというけど、
ぼくは彼の存在をただ見つけただけ。
一度世に出たら、あとは周りが放っておきませんし、
色んな人がどんどんついてくる。
……だいたい、ぼくはもう売れてしまっている人は
あまり興味がないんです。
埋もれている逸材を見つけてきては世に出す。
これがぼくの生きがいなんです」
ところで、襲名する際、関係者やご贔屓さんに配る
「三点セット」というものがある。
扇子と手拭、そして挨拶状。

挨拶回りには桂治門(写真)に同行してもらった。
お盆の上には、扇子・手拭・挨拶状。それに袱紗を被せる。(撮影:相原正明)
6年前の襲名時、その挨拶文を誰にお願いするかを考えたとき、
真っ先に思い浮かんだのは澤田隆治先生だった。
学校のスタッフのはからいで対面を果たした際、
「そうか。君は春蝶くんの弟子かいなぁ。
“花王名人劇場”が始まったとき、
ぼくは大阪のいろんな芸人に声を掛けた。
けど、君の師匠はぼくの依頼を断りよったんや。
何でも“箱根を超えると魔物がおるとか、
わけのわからんこと言うてな。
春蝶くんだけや。
ぼくの依頼を断ったのは。
それだけやない。他にもなぁ…」。
何かと自分に逆らううちの師匠のことを
実に懐かしそうに嬉しそうに語ってくれた。
「なかなか骨のある奴やったなぁ」。
当初は5分だけでもということで取り付けたアポだったが、
漫才作家の秋田實先生のことや、戦前戦後の上方落語のはなしなど、
気がつけば1時間以上も経っていた。

襲名の祝辞も、最初から快諾してくれたわけではなかった。
実ははじめはずいぶん固辞されていた。
それはぼくに対する気遣いだった。
「ぼくかて、
業界には味方ばっかりやないぞ。
ぼくがここへ名を連ねることで、
君のことを避ける者もおるやろ。
それは覚悟しいや」
「ありがとうございます!」
「このたび 桂 蝶六さんが、戦後途絶えていた 桂 花團治の名跡を七十年ぶりに復活されることになりました。声に出してみるとわかりますが、こんな華やかないい名跡が埋もれていたのが信じられない思いです。このたびの襲名披露は、上方落語界のためにも喜ばしく、誠におめでたいイベントであります。
蝶六さんは、二代目 桂春蝶さんの最後の弟子で、春蝶師とは私が朝日放送のテレビプロデューサーだった四十年前、上方落語の若手を売り出すための番組づくりで毎週顔を合わせ、共に苦労した仲でした。師は特に時代感覚が鋭くて、私が東京で笑いの番組づくりを手がけた時、何度か出演を要請したのですが、「箱根から東には魔物がいるので」とのことで、最後まで大阪にこだわられていました。かつて春蝶師に入れこんだことのある私としては、その弟子である蝶六さんと春團治一門のご活躍はこの上なくうれしいことです。
加えて蝶六さんには、いま私が校長をしている放送芸術学院専門学校の講師として、十八年もの間、学生の面倒をみてもらっている恩義があるのです。大きな名前をいただいたことで、ますます大物感のある落語家になってほしいという期待をこめて、蝶六から花團治になるこれからに声援を贈り続けたいと思います。」 メディア・プロデューサー 澤 田 隆 治

左から、六代桂文枝、大学の同級生・花畑秀人(現・ミルキーウェイ代表取締役)、澤田隆治、桂花團治
国立演芸場(東京)の楽屋にて(撮影:相原正明)
……東京での独演会では、毎回のように駆けつけてくださった。
その翌日には、電話でアドバイスというよりお叱りに近いお言葉まで頂戴した。
おそらくうちの師匠のぶんまで入っていたのだと思う。
どうか先生、あの世でうちの師匠と
丁々発止を楽しんでください。合掌。
2021年5月16日没、享年88.
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