246.戦時下を生きた芸能~”笑い”という名の毒を飲む~
大阪大空襲 - 2021年06月07日 (月)
襲名をして以来、毎年6月になるたび
どうしても戦争のことが頭をよぎってしまう。
先代の二代目花團治が1945年(昭和20年)6月15日に
大阪空襲の犠牲になっているからだ。
遺族によると、防空壕の入り口で亡くなっていたらしい。
しかも、襲名してわずか一年後のこと。どれほど無念だったろう。

後列左から三人目が二代目花團治(写真提供:前田憲司)
あれは今から35年ほど前、
落語家に入門して3年ほどだったぼくが、
地方のある敬老会に招かれたときのことだった。
その一座の大トリ(一番最後の出演者)を務めたのは浪曲の師匠で、
演目は定かではないが
日露戦争で戦った兵士を讃えた作品だったことだけはよく覚えている。
客席のお年寄りはこの英雄伝に涙し、
「天皇陛下万歳!」という声が会場に響き渡った。
今にも戦争が始まるんじゃないかという戦慄が走った。
戦争を知らないぼくにとって、それはあまりに異様で衝撃的な出来事だった。
あれ以来、この作品を耳にすることはなかったが、
資料を紐解くと、戦時下に演じられた浪曲として
「杉野兵曹長の妻」「愛国千人針」「血染めの軍旗」といったタイトルが並んでいる。

筆者:桂花團治(撮影:坂東剛志)
日中戦争が勃発した翌年の1938年(昭和13年)、
陸軍省新聞班の清水盛明中佐は内閣情報部主催の思想講習会で、
当時人気の高かった古川緑破の喜劇一座を例にこんな発言をしている。
「民衆は笑いながら見ている間に
不知不識のなかに支那事変
(当時は日中戦争のことをこう呼んだ)の
意義を教えられることになるのであります」
これを受けて、東京の落語家・三代目三遊亭金馬も
「緊(し)めろ銃後」という落語を演じている。
銃後とは兵士を除く日本国民のことで、
戦争の前線と呼応させてこう呼んだのである。
日本と良好な関係だった中国の蒋介石も
国民党軍のリーダーに説き伏せられ、
これからいわゆる日中戦争が始まり太平洋戦争へと繋がった。
蒋介石は「重慶」に首都を移して徹底抗戦したのは
世間の誰もが知るニュースだった。
そんな背景をもとにこの作品は描かれた。
「銃後はいま一段の緊張が必要だ。国策違反は反逆罪と認めるべきだ」
「国賊は日本人とは認められない。蒋介石の間者(スパイ)と同じ。日本から追いはらえ」
「国外追放か。で、どこがいい?」
「そういう奴は重刑(重慶)がいい」
戦時下の演芸場では、
戦意高揚の妨げになると判断されれば演じることすらできなかった。
客席の一番後ろに設けられた臨監席に座る係の警察官が目を光らせ、
検閲済みの台本と舞台の内容が違うと「中止!」という声を発し、
公演自体をストップさせ始末書を書かせた。
その一方で、当局は
先に紹介したようないわゆる「国策浪曲」「国策落語」の上演を要請した。
花團治の初代も二代目も戦時下を生きた落語家だった。
先に紹介したような「国策落語」を演じることはなかったと思われるが、
芸人が芸人として生きにくい、モノが言い難い時代だったことは確かである。
※「代々花團治について」はここをクリック!

初代花團治が出演した寄席チラシ(資料提供:前田憲司)

二代目花團治は喜劇役者としても活躍した。(資料提供:前田憲司)
今、世の中はコロナ禍に見舞われ、
先行きが見えない不安に覆われている。
この現状を戦時中に似ているという人がいる。
「自由に芸能を演じる場が制限された」という点においては
確かにその通りだが、現在は
「お上の意向に沿った芸能をしなければならない」という制約などない。
これがどれほど尊く重たいことか。
けれども、その一方で清水盛明が画策したように
芸能は大衆を導くこともできるのである。
笑いは「気の薬」としての役割も果たすが、
薬はときに毒にもなり得る。
笑いを生業として扱う我々はいわば薬剤師のようなものだ。
そのことを決して忘れてはならない。
今、二代目花團治の時代の資料を集め、
創作落語「防空壕」を制作中だ。
お披露目は6月26日の独演会。
きっと客席の後ろには警察官ならぬ代々花團治が控えているに違いない。(了)
※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。

▶花團治公式サイトはここをクリック!
どうしても戦争のことが頭をよぎってしまう。
先代の二代目花團治が1945年(昭和20年)6月15日に
大阪空襲の犠牲になっているからだ。
遺族によると、防空壕の入り口で亡くなっていたらしい。
しかも、襲名してわずか一年後のこと。どれほど無念だったろう。

後列左から三人目が二代目花團治(写真提供:前田憲司)
あれは今から35年ほど前、
落語家に入門して3年ほどだったぼくが、
地方のある敬老会に招かれたときのことだった。
その一座の大トリ(一番最後の出演者)を務めたのは浪曲の師匠で、
演目は定かではないが
日露戦争で戦った兵士を讃えた作品だったことだけはよく覚えている。
客席のお年寄りはこの英雄伝に涙し、
「天皇陛下万歳!」という声が会場に響き渡った。
今にも戦争が始まるんじゃないかという戦慄が走った。
戦争を知らないぼくにとって、それはあまりに異様で衝撃的な出来事だった。
あれ以来、この作品を耳にすることはなかったが、
資料を紐解くと、戦時下に演じられた浪曲として
「杉野兵曹長の妻」「愛国千人針」「血染めの軍旗」といったタイトルが並んでいる。

筆者:桂花團治(撮影:坂東剛志)
日中戦争が勃発した翌年の1938年(昭和13年)、
陸軍省新聞班の清水盛明中佐は内閣情報部主催の思想講習会で、
当時人気の高かった古川緑破の喜劇一座を例にこんな発言をしている。
「民衆は笑いながら見ている間に
不知不識のなかに支那事変
(当時は日中戦争のことをこう呼んだ)の
意義を教えられることになるのであります」
これを受けて、東京の落語家・三代目三遊亭金馬も
「緊(し)めろ銃後」という落語を演じている。
銃後とは兵士を除く日本国民のことで、
戦争の前線と呼応させてこう呼んだのである。
日本と良好な関係だった中国の蒋介石も
国民党軍のリーダーに説き伏せられ、
これからいわゆる日中戦争が始まり太平洋戦争へと繋がった。
蒋介石は「重慶」に首都を移して徹底抗戦したのは
世間の誰もが知るニュースだった。
そんな背景をもとにこの作品は描かれた。
「銃後はいま一段の緊張が必要だ。国策違反は反逆罪と認めるべきだ」
「国賊は日本人とは認められない。蒋介石の間者(スパイ)と同じ。日本から追いはらえ」
「国外追放か。で、どこがいい?」
「そういう奴は重刑(重慶)がいい」
戦時下の演芸場では、
戦意高揚の妨げになると判断されれば演じることすらできなかった。
客席の一番後ろに設けられた臨監席に座る係の警察官が目を光らせ、
検閲済みの台本と舞台の内容が違うと「中止!」という声を発し、
公演自体をストップさせ始末書を書かせた。
その一方で、当局は
先に紹介したようないわゆる「国策浪曲」「国策落語」の上演を要請した。
花團治の初代も二代目も戦時下を生きた落語家だった。
先に紹介したような「国策落語」を演じることはなかったと思われるが、
芸人が芸人として生きにくい、モノが言い難い時代だったことは確かである。
※「代々花團治について」はここをクリック!

初代花團治が出演した寄席チラシ(資料提供:前田憲司)

二代目花團治は喜劇役者としても活躍した。(資料提供:前田憲司)
今、世の中はコロナ禍に見舞われ、
先行きが見えない不安に覆われている。
この現状を戦時中に似ているという人がいる。
「自由に芸能を演じる場が制限された」という点においては
確かにその通りだが、現在は
「お上の意向に沿った芸能をしなければならない」という制約などない。
これがどれほど尊く重たいことか。
けれども、その一方で清水盛明が画策したように
芸能は大衆を導くこともできるのである。
笑いは「気の薬」としての役割も果たすが、
薬はときに毒にもなり得る。
笑いを生業として扱う我々はいわば薬剤師のようなものだ。
そのことを決して忘れてはならない。
今、二代目花團治の時代の資料を集め、
創作落語「防空壕」を制作中だ。
お披露目は6月26日の独演会。
きっと客席の後ろには警察官ならぬ代々花團治が控えているに違いない。(了)
※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。

▶花團治公式サイトはここをクリック!
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