248.その「正義」が笑顔を殺す~突然、殺人犯にされた男の10年間の闘い~
かつてヨン様ブームの頃、お笑い芸人のスマイリーキクチさんは
ペ・ヨンジュンに似ていることからテレビにも引っ張りだこだった。
芸名の名付け親はプロデューサーで作詞家の秋元康さん。
いつもニコニコしていることから、
「君はスマイリーキクチがいいんじゃないの」と提案された。
先日、そんなキクチさんの講演会が大阪で開かれたのだが、
客席にいたぼくは身が震え、涙がこぼれそうになった。
これは他人事ではない。
いつ自分の身にふりかかってもおかしくないと思った。
キクチさんがある凶悪事件の犯人だとネットに書き込まれたのは、
テレビでも人気が出始めた頃だった。
ネット掲示板「2ちゃんねる」に書き込まれたことをきっかけに、
そのデマはどんどん拡散した。
すぐにデマの削除を管理人にお願いしたが、
それに対する回答は「犯人ではないという証明がない限り削除はできない」
というものだった。
「~していないこと」
「存在しないこと」の証明は
「悪魔の証明」と言われるほど
ムツカシイ。
これから10年もの間、
匿名のネット民との闘いは続いた。
芸能活動にも大きな支障を及ぼした。

罪を犯す人には二通りある。
ひとつは、悪いと分かっていながら犯してしまう人。
もうひとつは「自分が正しい」と信じて疑わず犯す人。
双方ともに悪いに違いないが、
手に負えないのが後者の方だ。
落語「一文笛」に登場する掏摸(すり)の秀は、
貧乏で一文笛すら買えない少年を不憫に思った。
駄菓子の婆が「銭のない子は(一文笛を)触らんといてんか!」と
少年を罵倒する場に居合わせ、自分の小さい時分とその子どもを重ね合わせた。
義憤にかられた秀は、その一文笛をこっそり盗んで少年の懐に入れてやった。
しかし、それが元で少年は泥棒の汚名を着せられ、
井戸に身を投げる羽目に。兄貴分の男は秀をきつく戒める。
「お前、何ぞええことでも
したつもりでおるんと違うか。
お前がその子どものことを不憫やと思うねやったら、
何で銭出して買うてやれへんねん。
それが盗人根性ちゅうのんじゃい!」

筆者:桂花團治
「キクチは殺人犯だ」という書き込みをした人物も、
最初は自分が正義だと疑わなかったのだろう。
スマイリーキクチさんは著書「突然、僕は殺人犯にされた」のなかで
こんなことを述べている。
「ネット炎上防止の講演会などを聞きに行くと、
参加者に『悪口を書いちゃダメ』と教えていることが多いんですね。
しかし私を中傷した人たちは罪の意識が希薄で、
そもそも悪いことをしている自覚が無かった。
単に『悪口はダメ』と言って防止策になるのか、いつも疑問を感じています」

最初に書き込みをした人間は、
それをデマや悪口だとはこれっぽちも思っていなかった。
凶悪な殺人事件の犯人は少年で名前や写真が公表されることはなかったため、
「この悪い奴の正体を突き止めて世間に公開してやろう」という正義感が生じた。
そして、犯人の出身地と年齢などから、
たまたま同地区・同世代だったキクチさんを勝手に殺人犯だと思い込んだ。
何年もの追跡の結果、書き込みをした18人が明らかになったが、
公務員や会社役員など「いい年をした大人」ばかりだったという。
単なる悪ふざけやストレス発散が目的だった人もいるが、
最初のデマ情報を鵜呑みに悪を成敗するつもりで行った者も少なくない。
彼らは「ええことしたつもり」で無関係の人を地獄に追い込んだ。
コロナ禍での「自粛警察」や「陰謀論者」にもつながる話ではないだろうか。
匿名というマントを被り、
見当違いの正義感にかられたヒーローなんて
本当にタチが悪い。
落語のように笑って済ませられない。
見えない敵と戦い続けたスマイリーキクチさんに
心から敬意を表したい。
※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。

▶花團治公式サイトはこちらをクリック!
ペ・ヨンジュンに似ていることからテレビにも引っ張りだこだった。
芸名の名付け親はプロデューサーで作詞家の秋元康さん。
いつもニコニコしていることから、
「君はスマイリーキクチがいいんじゃないの」と提案された。
先日、そんなキクチさんの講演会が大阪で開かれたのだが、
客席にいたぼくは身が震え、涙がこぼれそうになった。
これは他人事ではない。
いつ自分の身にふりかかってもおかしくないと思った。
キクチさんがある凶悪事件の犯人だとネットに書き込まれたのは、
テレビでも人気が出始めた頃だった。
ネット掲示板「2ちゃんねる」に書き込まれたことをきっかけに、
そのデマはどんどん拡散した。
すぐにデマの削除を管理人にお願いしたが、
それに対する回答は「犯人ではないという証明がない限り削除はできない」
というものだった。
「~していないこと」
「存在しないこと」の証明は
「悪魔の証明」と言われるほど
ムツカシイ。
これから10年もの間、
匿名のネット民との闘いは続いた。
芸能活動にも大きな支障を及ぼした。

罪を犯す人には二通りある。
ひとつは、悪いと分かっていながら犯してしまう人。
もうひとつは「自分が正しい」と信じて疑わず犯す人。
双方ともに悪いに違いないが、
手に負えないのが後者の方だ。
落語「一文笛」に登場する掏摸(すり)の秀は、
貧乏で一文笛すら買えない少年を不憫に思った。
駄菓子の婆が「銭のない子は(一文笛を)触らんといてんか!」と
少年を罵倒する場に居合わせ、自分の小さい時分とその子どもを重ね合わせた。
義憤にかられた秀は、その一文笛をこっそり盗んで少年の懐に入れてやった。
しかし、それが元で少年は泥棒の汚名を着せられ、
井戸に身を投げる羽目に。兄貴分の男は秀をきつく戒める。
「お前、何ぞええことでも
したつもりでおるんと違うか。
お前がその子どものことを不憫やと思うねやったら、
何で銭出して買うてやれへんねん。
それが盗人根性ちゅうのんじゃい!」

筆者:桂花團治
「キクチは殺人犯だ」という書き込みをした人物も、
最初は自分が正義だと疑わなかったのだろう。
スマイリーキクチさんは著書「突然、僕は殺人犯にされた」のなかで
こんなことを述べている。
「ネット炎上防止の講演会などを聞きに行くと、
参加者に『悪口を書いちゃダメ』と教えていることが多いんですね。
しかし私を中傷した人たちは罪の意識が希薄で、
そもそも悪いことをしている自覚が無かった。
単に『悪口はダメ』と言って防止策になるのか、いつも疑問を感じています」

最初に書き込みをした人間は、
それをデマや悪口だとはこれっぽちも思っていなかった。
凶悪な殺人事件の犯人は少年で名前や写真が公表されることはなかったため、
「この悪い奴の正体を突き止めて世間に公開してやろう」という正義感が生じた。
そして、犯人の出身地と年齢などから、
たまたま同地区・同世代だったキクチさんを勝手に殺人犯だと思い込んだ。
何年もの追跡の結果、書き込みをした18人が明らかになったが、
公務員や会社役員など「いい年をした大人」ばかりだったという。
単なる悪ふざけやストレス発散が目的だった人もいるが、
最初のデマ情報を鵜呑みに悪を成敗するつもりで行った者も少なくない。
彼らは「ええことしたつもり」で無関係の人を地獄に追い込んだ。
コロナ禍での「自粛警察」や「陰謀論者」にもつながる話ではないだろうか。
匿名というマントを被り、
見当違いの正義感にかられたヒーローなんて
本当にタチが悪い。
落語のように笑って済ませられない。
見えない敵と戦い続けたスマイリーキクチさんに
心から敬意を表したい。
※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。

▶花團治公式サイトはこちらをクリック!
- 関連記事
-
- 262.地雷を踏んだ「自称イクメン」~「ぼく食べる人」から半世紀…~ (2022/08/14)
- 248.その「正義」が笑顔を殺す~突然、殺人犯にされた男の10年間の闘い~ (2021/07/08)
- 190.喜六になりたい~ロールモデルとしての落語~ (2017/05/12)
- 171.落語に見る「聴き上手」~喜六の場合~ (2016/08/28)
- 91.こぼれるものわらいをつかむ ”川柳と落語”考 (2013/08/19)
- 29.チンドン屋 (2013/02/03)