257.ホンマのお母さんて、何や?~言えなかったひと言…~
先月、母が亡くなった。享年84。
父と二人で暮らしていた。
あまりの長風呂に父が様子を見にいったところ、
すでに浴槽の脇で息絶えていた。
後日、遺品整理をしてくれた弟夫婦が母の財布から
デイサービスで利用した美容院の領収書を見つけた。
亡くなる前日の日付だった。
いつも室内をきれいに整理整頓していた母。
「髪を整え、風呂に入ってから逝くなんて、
なんとも母さんらしいわ」と弟が呟いた。
ぼくが小学生の頃、毎日のように母の前に正座させられていた。
その頃のぼくは今よりずっと落ち着きのない子で、母はよく学校に呼び出されていた。
小言をうわの空で聞くぼくに業を煮やしたのか、母はこう言い放った。
「母さんかてな、アンタのホンマの
お母さんになろうと思って必死なんや」
それを聞いた途端、「ホンマのお母さんて何や?」と
我に返ったぼくは涙が止まらなくなった。
実は、ぼくの産みの母はぼくが三つのときに亡くなっており、
その翌年に継母としてやってきたのがこの母だった。
ぼくはこの記憶を頭の隅に追いやっていた。
それが母の言葉で一気に蘇ってきたものだから、
ぼくは壊れたみたいに泣き叫んだ。
思えば、母に強く抱きしめられたのはこの時が最初だったような気がする。
「辛かったな。よう頑張ったな」と母は何度も繰り返した。
涙が枯れるまで二人で泣いた。
ホンマの母でもウソの母でもどうでもいい。
ぼくはこの人の息子だとこの一件で実感できた。
それで十分だった。

7年前、襲名披露公演に駆け付けてくれた母と(撮影:相原正明)
そんな母が初めてうちにやってきた時のことをなぜか鮮明に覚えている。
その頃のぼくは父親に「お母ちゃんはいつになったら帰ってくるの?」と
毎日のように問い続けていた。
「もうすぐ会える」をうわごとのように繰り返す父親だったが、
ある日「今日は会えるぞ」と嬉しそうに言った。
ぼくも有頂天になって喜んだ。
しばらくして玄関の戸がガラガラと開き、
そこに知らない女の人が立っていた。
「ほれ、お前のお母さんや」と父。
反射的に「この人、ぼくのお母さんと違う!」。
それからずっと母を拒否し続けていたが、
子ども心に「産んでくれた母親のことは忘れなければいけない」
「口にしてはいけない」と思うほど、
母は優しく、ぼくや弟、そして父の面倒を本当によく見てくれた。

幼い頃の弟とぼく(右)
日中戦争が長期化し、国家総動員法が施行された昭和13年、
母は樺太真岡郡蘭泊村に生まれた。
昭和20年にソビエト連邦に占拠され、現在はロシアが実効支配している場所だ。
「ロシアの子とは一緒によく遊んでいた」と
当時のことを懐かしそうによく話してくれた。
その後母は青森の千刈というところに越し、
それからどういう経緯かは知らないが、単身大阪へやってきて
昭和41年28歳のときに二人の子連れである父と一緒になった。
それだけでも大変なのに、会社を興した父は知人に騙され破産。
暴対法のない時分なので、
深夜を問わず借金取りの怖いお兄さんが家のドアをドンドン蹴り倒す。
応対するのはいつも母だった。
夜逃げしたこともあった。
母は一時実家の青森に帰るも、ほどなく大阪に戻ってきた。
あれは二年前、娘のお宮参りのために神社に来てくれた母が
靴擦れをして痛そうだったので「大丈夫?」と聞くと、
「だってお父さん、先に歩いて待ってくれないんだもん」とあっけらかんと笑った。
父はいつだってそうだ。
母を気遣うことなくさっさと早足で、
母は後から追いかけるように付いていく。
こんな男のどこがいいんだろう。

ぼくのムスメのお宮参りに駆け付けてくれた母
うっかり亭主にしっかり女房というのが落語のなかの夫婦の定番。
亭主のあまりのスカタンぶりに女房が溜め息まじりに漏らすこんな台詞がある。
「なんでこんな人と一緒になったんやろ」
諦めと後悔の入り混じったこのひと言。
されど決して突き放すでなく、深い情に溢れている。
ぼくはこの台詞のたびに母を思い出してやまない。
あんな亭主で、こんな息子でごめんなさい。
一度は母を抱きしめて
「辛かったな。よう頑張ったな」と言ってやりたかった。
※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。

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父と二人で暮らしていた。
あまりの長風呂に父が様子を見にいったところ、
すでに浴槽の脇で息絶えていた。
後日、遺品整理をしてくれた弟夫婦が母の財布から
デイサービスで利用した美容院の領収書を見つけた。
亡くなる前日の日付だった。
いつも室内をきれいに整理整頓していた母。
「髪を整え、風呂に入ってから逝くなんて、
なんとも母さんらしいわ」と弟が呟いた。
ぼくが小学生の頃、毎日のように母の前に正座させられていた。
その頃のぼくは今よりずっと落ち着きのない子で、母はよく学校に呼び出されていた。
小言をうわの空で聞くぼくに業を煮やしたのか、母はこう言い放った。
「母さんかてな、アンタのホンマの
お母さんになろうと思って必死なんや」
それを聞いた途端、「ホンマのお母さんて何や?」と
我に返ったぼくは涙が止まらなくなった。
実は、ぼくの産みの母はぼくが三つのときに亡くなっており、
その翌年に継母としてやってきたのがこの母だった。
ぼくはこの記憶を頭の隅に追いやっていた。
それが母の言葉で一気に蘇ってきたものだから、
ぼくは壊れたみたいに泣き叫んだ。
思えば、母に強く抱きしめられたのはこの時が最初だったような気がする。
「辛かったな。よう頑張ったな」と母は何度も繰り返した。
涙が枯れるまで二人で泣いた。
ホンマの母でもウソの母でもどうでもいい。
ぼくはこの人の息子だとこの一件で実感できた。
それで十分だった。

7年前、襲名披露公演に駆け付けてくれた母と(撮影:相原正明)
そんな母が初めてうちにやってきた時のことをなぜか鮮明に覚えている。
その頃のぼくは父親に「お母ちゃんはいつになったら帰ってくるの?」と
毎日のように問い続けていた。
「もうすぐ会える」をうわごとのように繰り返す父親だったが、
ある日「今日は会えるぞ」と嬉しそうに言った。
ぼくも有頂天になって喜んだ。
しばらくして玄関の戸がガラガラと開き、
そこに知らない女の人が立っていた。
「ほれ、お前のお母さんや」と父。
反射的に「この人、ぼくのお母さんと違う!」。
それからずっと母を拒否し続けていたが、
子ども心に「産んでくれた母親のことは忘れなければいけない」
「口にしてはいけない」と思うほど、
母は優しく、ぼくや弟、そして父の面倒を本当によく見てくれた。

幼い頃の弟とぼく(右)
日中戦争が長期化し、国家総動員法が施行された昭和13年、
母は樺太真岡郡蘭泊村に生まれた。
昭和20年にソビエト連邦に占拠され、現在はロシアが実効支配している場所だ。
「ロシアの子とは一緒によく遊んでいた」と
当時のことを懐かしそうによく話してくれた。
その後母は青森の千刈というところに越し、
それからどういう経緯かは知らないが、単身大阪へやってきて
昭和41年28歳のときに二人の子連れである父と一緒になった。
それだけでも大変なのに、会社を興した父は知人に騙され破産。
暴対法のない時分なので、
深夜を問わず借金取りの怖いお兄さんが家のドアをドンドン蹴り倒す。
応対するのはいつも母だった。
夜逃げしたこともあった。
母は一時実家の青森に帰るも、ほどなく大阪に戻ってきた。
あれは二年前、娘のお宮参りのために神社に来てくれた母が
靴擦れをして痛そうだったので「大丈夫?」と聞くと、
「だってお父さん、先に歩いて待ってくれないんだもん」とあっけらかんと笑った。
父はいつだってそうだ。
母を気遣うことなくさっさと早足で、
母は後から追いかけるように付いていく。
こんな男のどこがいいんだろう。

ぼくのムスメのお宮参りに駆け付けてくれた母
うっかり亭主にしっかり女房というのが落語のなかの夫婦の定番。
亭主のあまりのスカタンぶりに女房が溜め息まじりに漏らすこんな台詞がある。
「なんでこんな人と一緒になったんやろ」
諦めと後悔の入り混じったこのひと言。
されど決して突き放すでなく、深い情に溢れている。
ぼくはこの台詞のたびに母を思い出してやまない。
あんな亭主で、こんな息子でごめんなさい。
一度は母を抱きしめて
「辛かったな。よう頑張ったな」と言ってやりたかった。
※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。

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