266.将来、教育に携わるあなたへ(子ども教育学科の感想文より)
先日(2022年12月16日)の特別講義ではお疲れ様でした。皆さんが目を見開き、ひと言も逃さないように聴いてくれる様子がとても嬉しく、つい饒舌になってしまいました。感想文も嬉しく拝見させていただきました。「必死に聴いていたので、落語のときも笑うのを忘れていました」というコメントには思わず笑ってしまいましたが、ずいぶん気を遣わせてしまったかな。全員の感想文にそれぞれお返事を書きましたが、そのなかからいくつか抜粋・要約して下記に紹介します。併せて、それぞれの内容に関係する過去ブログも紹介しておきますので、こちらもぜひご覧ください。何かひとつでも、皆さんのこれからのヒントになればと思います。

〈感想文〉
◆大勢を前にしたときも「あなた」ベクトルというものを意識したいと思いました。
心が惹かれるというか、先生と話している気がして楽しかったし、飽きなかった。でも、落語が始まると、目が合わなくなり、「あっ、始まった!」と、切り替わりが早くてびっくりした。
〈花團治より〉
そうなんです。マクラや講義では“ぼく自身”が話していますが、落語に入ると、ぼく自身ではなく、登場人物の台詞が始まります。ぼく自身が喋っているとき、ぼくは大勢を前にしていても、常に「あなた」ベクトルで話すよう心掛けているので、必ず誰かと目が合っています。でも、落語のときは登場人物の台詞なので、直接目が合うと具合が悪い。お客さんだって、「アホやな、お前は…」と目が合った状態で言われるのはなんとも居心地が悪いでしょう。と言って、目が直接合わないようにと、あまりに上を向いて演じられると、なんだか勝手に演ってるみたいになる。ですから、例えば、今回の教室ぐらいの広さでしたら、登場人物の目線は最後列の人の頭にボールを乗せたイメージを作り、そのボールを見ながら喋っています。
▶花團治の過去ブログ「宛先のない手紙は届かない」

〈感想文〉
◆一人で何役もしているのに、喋り方だけで明確にわかるなんてスゴイ!と思いました。
〈花團治より〉
落語の演技は、リアルではなく「らしさ」というものを大事にしています。演じ手の言葉と所作をヒントにお客さんが頭のなかに想像という映像を作り上げていくわけですが、そのときに重要になるのが喋り方、つまり「役割語」です。こういう言葉遣いだったら、おそらくこんな人物だなとお客は想像するわけです。そういう意味で、登場人物の描くうえで落語はお客の持つステレオタイプに頼っているということがいえます。…姿勢もそうですね。手を膝のどの位置に置くかで姿勢も変わりますし、手の置き方も横にすると肘が張ったような感じになる。腰骨だって立てるか倒すかでずいぶん印象が変わってくる。威張った武士なら、手を足の付け根近くに横に置いて、肘を張ったようにして、なおかつ腰骨を立ててやると…いかにもそれらしく見えますよね。
▶花團治の過去ブログ「態は口ほどにモノを言い」
〈感想文〉
◆落語や狂言だけでなく、浪曲やパンソリまでやってくれてありがとうございます。
〈花團治より〉
授業で演じた浪曲やパンソリはあくまでモノマネですから…、本職の方が見たら怒られそう(汗)。ジャンルは違えど、語り部にとってピッチというものはとても大切な問題です。また、「世の中のあらゆるものに“方法”というものがあって、それは他のあらゆるものに応用できる」…って、これはイシス編集学校の受け売りですが、他ジャンルから学ぶことも多いのです。いや、他ジャンルから教えられることの方が多いかも。あっ、それから、うちの師匠(二代目春蝶)はこんなことを言ってました。「プロには必ずプロとしての理屈がある」。つまり、「たまたま上手いこといった~」ではアカンのです。
▶花團治の過去ブログ「パンソリ・浪曲・落語のピッチ」
▶花團治過去ブログ「落語的編集稽古・プロにはプロの理屈」

〈感想文〉
◆落語は、「怒り」を、「呆れ」や「困り」という感情に変えて相手を接している。そうすることで笑いが生まれ、落語のもつ芸の優しさにつながっているということを実感しました。(丁稚の)定吉が失敗したときも、旦那さんは「しゃあないやっちゃ」と「困り」と「呆れ」で返している。そうすることでお客も定吉のことを「憎めないやつ」だと感じる。定吉のニンを作るのは、定吉をどう演じるかというより、定吉に対する周囲の接し方だということがよくわかりました。将来は教育の道に進みますが、教育も同じことだと思いました。
〈花團治より〉
「呆れ」と「困り」。実はこれは故・桂枝雀師匠の受け売りです。「怒りやない。呆れと困りや」ということを著書のなかでおっしゃっています。また、ツッコミの言葉はお客さんと共調から笑いになる。これは故・米朝師匠の受け売りですが、…つまり、ツッコミはお客の代弁なわけですね。言い換えると、旦那さんの思いがそのままお客さんの「定吉への印象」につながっていく。笑いにもいろいろありますが、ぼくとしては「愚かを受け入れる笑い」であり続けたいと思っています。
▶花團治過去ブログ「野球嫌いなぼくがなぜ虎キチの師匠に入門したか、アカン奴ほど愛おしい」

〈感想文〉
◆花團治先生が吃音だったことや、いじめられていたということに驚きました。また、それを克服してきたことにもスゴイなぁと思いました。担任の先生に「普通の子じゃない」って言われた話を聞いて、心が痛くなりました。
〈花團治より〉
ぼくはイシス編集学校の校長・松岡正剛さんのこんな言葉が好きです。「劣等感というものは、“まだまだ俺はこんなもんじゃない”という思いの裏返し」。思えば、狂言を始めたのも自分の弱点を克服するためでした。でも、それが思わぬ産物をぼくに与えてくれました。それと、担任の先生に「普通の子じゃない」って蔑むように言われたことですが、今から思えば、先生も余裕がなかったのかもしれません。そのトラウマを克服するまでにずいぶん時間がかかりました。先生もあの時、悪気なく言ったのかもしれませんが…、ぼくも気をつけねばと思います。
▶花團治過去ブログ「フラジャイル・弱さからの出発」
▶花團治過去ブログ「劣等感のチカラ・落語に学ぶコミュニケーション術」
〈感想文〉
◆ぼくのおじいちゃんはお坊さんなので、「天に昇る声」と「地を這う声」の違いにとても納得しました。比較されるとすごくわかりやすかったです。
〈花團治より〉
モンゴルのホーミー、シベリアのツゥバ地方のフーメイ、韓国や日本の演歌…。これらはいわゆる喉声文化です。八百屋さんの「いらっしゃい、いらっしゃい」もそうですね。
▶花團治過去ブログ「落語と狂言の会」

〈感想文〉
◆落語って、お年寄りが聴くイメージで、むつかしいものだと思っていました。昔の言葉もたくさん出てくる印象があったので、話についていけるか不安でしたが、しっかりわかっておもしろかったです。
〈花團治より〉
昔、ある小学校でその日予定していなかった演目に急きょ変更して演じたことがありました。「牛ほめ」という落語です。でも、その落語のなかには難解な単語がいっぱい出てきます。演り始めてから選択を誤ったかなと思いましたが、そんなぼくの心配をよそに子どもたちはゲラゲラ笑っていました。終演後、ぼくは彼らに聞きました。すると、返ってきたのは「わからんけど、わかった」という言葉でした。
▶花團治過去ブログ「わからんけどわかった」
〈感想文〉
◆最後に「一文笛」を演じてくださいましたが、実はぼくも左利きです。
実はぼくももともと左利きです。だから今も鉛筆は右ですが、消しゴムは左でないと消せない。また、初めてのことにチャレンジすると、自然に左利きになっていることが多い。野球のバットを握ったときもそうでした。それに、うちのムスメも左利きなんですね。自動改札、自動販売機など、当たり前のように世の中の多くのものが右利き用にできている。それに気づくのは左利きだから。マイノリティの気持ちを理解したり、寄り添えるのは左利きの強みかもしれないって、ムスメを見ながらそんなことを思っています。
▶花團治過去ブログ「左利きが抱えるもの~”甘夏とオリオン”の世界にたゆたう~」
↓こちらもぜひ参考になさってください。
※花團治執筆の研究紀要(大阪青山大学)
以上、皆さんからいただいた感想文と、それに対するお返事のなから、
一部だけ抜粋してみました。
ぼくもいろいろ改めて考えなおすとても良い機会になりました。
また、どこかでお会いする日を楽しみにしています。
寄席にもぜひ足を運んでくださいね。
花團治


◆花團治の出演情報の詳細はここをクリック!
◆花團治の公式サイトはここをクリック!

〈感想文〉
◆大勢を前にしたときも「あなた」ベクトルというものを意識したいと思いました。
心が惹かれるというか、先生と話している気がして楽しかったし、飽きなかった。でも、落語が始まると、目が合わなくなり、「あっ、始まった!」と、切り替わりが早くてびっくりした。
〈花團治より〉
そうなんです。マクラや講義では“ぼく自身”が話していますが、落語に入ると、ぼく自身ではなく、登場人物の台詞が始まります。ぼく自身が喋っているとき、ぼくは大勢を前にしていても、常に「あなた」ベクトルで話すよう心掛けているので、必ず誰かと目が合っています。でも、落語のときは登場人物の台詞なので、直接目が合うと具合が悪い。お客さんだって、「アホやな、お前は…」と目が合った状態で言われるのはなんとも居心地が悪いでしょう。と言って、目が直接合わないようにと、あまりに上を向いて演じられると、なんだか勝手に演ってるみたいになる。ですから、例えば、今回の教室ぐらいの広さでしたら、登場人物の目線は最後列の人の頭にボールを乗せたイメージを作り、そのボールを見ながら喋っています。
▶花團治の過去ブログ「宛先のない手紙は届かない」

〈感想文〉
◆一人で何役もしているのに、喋り方だけで明確にわかるなんてスゴイ!と思いました。
〈花團治より〉
落語の演技は、リアルではなく「らしさ」というものを大事にしています。演じ手の言葉と所作をヒントにお客さんが頭のなかに想像という映像を作り上げていくわけですが、そのときに重要になるのが喋り方、つまり「役割語」です。こういう言葉遣いだったら、おそらくこんな人物だなとお客は想像するわけです。そういう意味で、登場人物の描くうえで落語はお客の持つステレオタイプに頼っているということがいえます。…姿勢もそうですね。手を膝のどの位置に置くかで姿勢も変わりますし、手の置き方も横にすると肘が張ったような感じになる。腰骨だって立てるか倒すかでずいぶん印象が変わってくる。威張った武士なら、手を足の付け根近くに横に置いて、肘を張ったようにして、なおかつ腰骨を立ててやると…いかにもそれらしく見えますよね。
▶花團治の過去ブログ「態は口ほどにモノを言い」
〈感想文〉
◆落語や狂言だけでなく、浪曲やパンソリまでやってくれてありがとうございます。
〈花團治より〉
授業で演じた浪曲やパンソリはあくまでモノマネですから…、本職の方が見たら怒られそう(汗)。ジャンルは違えど、語り部にとってピッチというものはとても大切な問題です。また、「世の中のあらゆるものに“方法”というものがあって、それは他のあらゆるものに応用できる」…って、これはイシス編集学校の受け売りですが、他ジャンルから学ぶことも多いのです。いや、他ジャンルから教えられることの方が多いかも。あっ、それから、うちの師匠(二代目春蝶)はこんなことを言ってました。「プロには必ずプロとしての理屈がある」。つまり、「たまたま上手いこといった~」ではアカンのです。
▶花團治の過去ブログ「パンソリ・浪曲・落語のピッチ」
▶花團治過去ブログ「落語的編集稽古・プロにはプロの理屈」

〈感想文〉
◆落語は、「怒り」を、「呆れ」や「困り」という感情に変えて相手を接している。そうすることで笑いが生まれ、落語のもつ芸の優しさにつながっているということを実感しました。(丁稚の)定吉が失敗したときも、旦那さんは「しゃあないやっちゃ」と「困り」と「呆れ」で返している。そうすることでお客も定吉のことを「憎めないやつ」だと感じる。定吉のニンを作るのは、定吉をどう演じるかというより、定吉に対する周囲の接し方だということがよくわかりました。将来は教育の道に進みますが、教育も同じことだと思いました。
〈花團治より〉
「呆れ」と「困り」。実はこれは故・桂枝雀師匠の受け売りです。「怒りやない。呆れと困りや」ということを著書のなかでおっしゃっています。また、ツッコミの言葉はお客さんと共調から笑いになる。これは故・米朝師匠の受け売りですが、…つまり、ツッコミはお客の代弁なわけですね。言い換えると、旦那さんの思いがそのままお客さんの「定吉への印象」につながっていく。笑いにもいろいろありますが、ぼくとしては「愚かを受け入れる笑い」であり続けたいと思っています。
▶花團治過去ブログ「野球嫌いなぼくがなぜ虎キチの師匠に入門したか、アカン奴ほど愛おしい」

〈感想文〉
◆花團治先生が吃音だったことや、いじめられていたということに驚きました。また、それを克服してきたことにもスゴイなぁと思いました。担任の先生に「普通の子じゃない」って言われた話を聞いて、心が痛くなりました。
〈花團治より〉
ぼくはイシス編集学校の校長・松岡正剛さんのこんな言葉が好きです。「劣等感というものは、“まだまだ俺はこんなもんじゃない”という思いの裏返し」。思えば、狂言を始めたのも自分の弱点を克服するためでした。でも、それが思わぬ産物をぼくに与えてくれました。それと、担任の先生に「普通の子じゃない」って蔑むように言われたことですが、今から思えば、先生も余裕がなかったのかもしれません。そのトラウマを克服するまでにずいぶん時間がかかりました。先生もあの時、悪気なく言ったのかもしれませんが…、ぼくも気をつけねばと思います。
▶花團治過去ブログ「フラジャイル・弱さからの出発」
▶花團治過去ブログ「劣等感のチカラ・落語に学ぶコミュニケーション術」
〈感想文〉
◆ぼくのおじいちゃんはお坊さんなので、「天に昇る声」と「地を這う声」の違いにとても納得しました。比較されるとすごくわかりやすかったです。
〈花團治より〉
モンゴルのホーミー、シベリアのツゥバ地方のフーメイ、韓国や日本の演歌…。これらはいわゆる喉声文化です。八百屋さんの「いらっしゃい、いらっしゃい」もそうですね。
▶花團治過去ブログ「落語と狂言の会」

〈感想文〉
◆落語って、お年寄りが聴くイメージで、むつかしいものだと思っていました。昔の言葉もたくさん出てくる印象があったので、話についていけるか不安でしたが、しっかりわかっておもしろかったです。
〈花團治より〉
昔、ある小学校でその日予定していなかった演目に急きょ変更して演じたことがありました。「牛ほめ」という落語です。でも、その落語のなかには難解な単語がいっぱい出てきます。演り始めてから選択を誤ったかなと思いましたが、そんなぼくの心配をよそに子どもたちはゲラゲラ笑っていました。終演後、ぼくは彼らに聞きました。すると、返ってきたのは「わからんけど、わかった」という言葉でした。
▶花團治過去ブログ「わからんけどわかった」
〈感想文〉
◆最後に「一文笛」を演じてくださいましたが、実はぼくも左利きです。
実はぼくももともと左利きです。だから今も鉛筆は右ですが、消しゴムは左でないと消せない。また、初めてのことにチャレンジすると、自然に左利きになっていることが多い。野球のバットを握ったときもそうでした。それに、うちのムスメも左利きなんですね。自動改札、自動販売機など、当たり前のように世の中の多くのものが右利き用にできている。それに気づくのは左利きだから。マイノリティの気持ちを理解したり、寄り添えるのは左利きの強みかもしれないって、ムスメを見ながらそんなことを思っています。
▶花團治過去ブログ「左利きが抱えるもの~”甘夏とオリオン”の世界にたゆたう~」
↓こちらもぜひ参考になさってください。
※花團治執筆の研究紀要(大阪青山大学)
以上、皆さんからいただいた感想文と、それに対するお返事のなから、
一部だけ抜粋してみました。
ぼくもいろいろ改めて考えなおすとても良い機会になりました。
また、どこかでお会いする日を楽しみにしています。
寄席にもぜひ足を運んでくださいね。
花團治


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