277.神になった三代目春團治~拍手について考えてみた~
クラシック音楽の鑑賞で、
楽章と楽章の間で思わず拍手をしてしまい、
他の観客から舌打ちをされたり、
拍手のタイミングが早すぎて
失笑されたりという経験はないだろうか。
実はぼくがそうだった。
20代前半の頃、
出会って間もない知人が出演するというので参加したコンサート。
200人ほどのホールは満席で、
何とも言えぬ高揚感のなか演奏が始まった。
ぼくはこの感動を
少しでも舞台にいる奏者に伝えたいと大きな拍手を送り、
その洗礼を受けたのだった。

クラシックコンサートの模様(下手の高座でナビゲーターを務めているのが筆者)
先日参加した能では、とある会社の周年記念ということもあって、
おそらく能の初体験者らしき方が多く参加していた。
上演が終わって演者が袖に引っ込むと、あちこちで囁き合う声。
「終わったのかしら?」
「拍手していいの?」
しばらくして、能楽師の先生が登壇しお礼を述べられた。
通常の公演ではありえない光景。
お客の反応に出ていかざるを得なかったのだろう。
能ではあまり拍手を聞いたことがない。
クラシック演奏会での失態を思い出したぼくは、
改めて「拍手」について調べてみた。

谷町四丁目にある「山本能楽堂」の能舞台
日本で拍手(はくしゅ)の習慣が始まったのは明治以降。
それまで日本では、
拍手は「かしわで」であって、「はくしゅ」ではなかった。
能に限らず、狂言も歌舞伎も観客は
「はくしゅ」せず黙って会場を後にしたようだ。
明治になって西洋に倣い、「はくしゅ」が広まった。
明治39年に発表された夏目漱石の小説「坊ちゃん」には、
「(坊ちゃんが)教場へ出ると生徒は拍手をもってむかえた」
との記述があるから、この頃にはすでに浸透していたのだろう。
演劇評論家の郡司正勝は著書のなかで
「本来、神事芸能においては、
純粋的立場の観客は成立しえない」としている。
「桟敷とか物見車といった、
簾や囲いで自分の姿を隠して覗き見するのが、
客の見物する方法だった」という。
つまり、神事芸能はあくまで神に捧げるもので、
本来見てはならないものをお客はこっそり見ているという体。
なるほど能も本来は神に奉納するものなので、
「はくしゅ」しないことにも合点がいく。
能舞台にある松の背景画を「鏡板」というが、
これは舞台の前に松の木があって、それが「鏡」に映っているという見立て。
神が下りるご神木、
すなわち能楽師は神に向かって演じている。

天神祭り「能船」の上で演じる能楽師
30年ほど前、三代目春團治師匠と共に
とある県境の辺鄙な村に行ったときのこと。
大人の背丈ほど雪の積もるなか駅に着くと、
車両の扉のところだけきれいに雪かきがされていて、
そこから改札に向かって赤い絨毯まで敷かれていた。
しかも師匠がホームに足を下すなり、
師匠の出囃子「野崎」がスピーカーから流れだした。
「日本一の落語家がやってくる!」というので村を挙げての歓迎だった。
思わずホームで深々と一礼する春團治。
師匠はぼくを呼んで怪訝そうにこう囁いた。
「これは君が仕組んだのかね」
でも、その表情はまんざらでもなさそうだった。

三代目春團治師匠(向かって右)と筆者(2018年)撮影:相原正明
その日の落語会では、百名ほどの観客がそれぞれ持参の座布団に座り、
ぼくらも爆笑の渦のなか落語を演じることができた。
そしていよいよトリの師匠を迎えようというとき、観客に異変が起こった。
それまでの楽な姿勢から正座に座り直し、
「はくしゅ」ではなく手を合わせ、
拝むように頭を下げ続ける村人たち。
滑稽ばなしなのに笑いもせず、オチの後も手を合わせ
「あぁ、ありがたや」とばかりずっと頭を下げ続けていた。
三代目師匠が神になった瞬間だった。

伝戦落語「じぃじの桜」を演じる筆者(撮影:坂東剛志)
観客の立場でいうと、良い意味で「はくしゅ」をしたくない時もある。
映画や芝居でも放心のままその場に浸っていたいと思うことがある。
能で「はくしゅ」しないのは残心を楽しむためでもあろう。
冒頭に述べた舌打ちは余韻を邪魔されたという憤りであったに違いない。
…しかし、落語の場合は、オチの後にはドンドンと太鼓を鳴らして
想像の世界から一気に現実に戻っていただくことになっている。
どうかそれを合図にぜひいっぱいの拍手を。
※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。

◆花團治公式サイト・出演情報はこちらをクリック!
楽章と楽章の間で思わず拍手をしてしまい、
他の観客から舌打ちをされたり、
拍手のタイミングが早すぎて
失笑されたりという経験はないだろうか。
実はぼくがそうだった。
20代前半の頃、
出会って間もない知人が出演するというので参加したコンサート。
200人ほどのホールは満席で、
何とも言えぬ高揚感のなか演奏が始まった。
ぼくはこの感動を
少しでも舞台にいる奏者に伝えたいと大きな拍手を送り、
その洗礼を受けたのだった。

クラシックコンサートの模様(下手の高座でナビゲーターを務めているのが筆者)
先日参加した能では、とある会社の周年記念ということもあって、
おそらく能の初体験者らしき方が多く参加していた。
上演が終わって演者が袖に引っ込むと、あちこちで囁き合う声。
「終わったのかしら?」
「拍手していいの?」
しばらくして、能楽師の先生が登壇しお礼を述べられた。
通常の公演ではありえない光景。
お客の反応に出ていかざるを得なかったのだろう。
能ではあまり拍手を聞いたことがない。
クラシック演奏会での失態を思い出したぼくは、
改めて「拍手」について調べてみた。

谷町四丁目にある「山本能楽堂」の能舞台
日本で拍手(はくしゅ)の習慣が始まったのは明治以降。
それまで日本では、
拍手は「かしわで」であって、「はくしゅ」ではなかった。
能に限らず、狂言も歌舞伎も観客は
「はくしゅ」せず黙って会場を後にしたようだ。
明治になって西洋に倣い、「はくしゅ」が広まった。
明治39年に発表された夏目漱石の小説「坊ちゃん」には、
「(坊ちゃんが)教場へ出ると生徒は拍手をもってむかえた」
との記述があるから、この頃にはすでに浸透していたのだろう。
演劇評論家の郡司正勝は著書のなかで
「本来、神事芸能においては、
純粋的立場の観客は成立しえない」としている。
「桟敷とか物見車といった、
簾や囲いで自分の姿を隠して覗き見するのが、
客の見物する方法だった」という。
つまり、神事芸能はあくまで神に捧げるもので、
本来見てはならないものをお客はこっそり見ているという体。
なるほど能も本来は神に奉納するものなので、
「はくしゅ」しないことにも合点がいく。
能舞台にある松の背景画を「鏡板」というが、
これは舞台の前に松の木があって、それが「鏡」に映っているという見立て。
神が下りるご神木、
すなわち能楽師は神に向かって演じている。

天神祭り「能船」の上で演じる能楽師
30年ほど前、三代目春團治師匠と共に
とある県境の辺鄙な村に行ったときのこと。
大人の背丈ほど雪の積もるなか駅に着くと、
車両の扉のところだけきれいに雪かきがされていて、
そこから改札に向かって赤い絨毯まで敷かれていた。
しかも師匠がホームに足を下すなり、
師匠の出囃子「野崎」がスピーカーから流れだした。
「日本一の落語家がやってくる!」というので村を挙げての歓迎だった。
思わずホームで深々と一礼する春團治。
師匠はぼくを呼んで怪訝そうにこう囁いた。
「これは君が仕組んだのかね」
でも、その表情はまんざらでもなさそうだった。

三代目春團治師匠(向かって右)と筆者(2018年)撮影:相原正明
その日の落語会では、百名ほどの観客がそれぞれ持参の座布団に座り、
ぼくらも爆笑の渦のなか落語を演じることができた。
そしていよいよトリの師匠を迎えようというとき、観客に異変が起こった。
それまでの楽な姿勢から正座に座り直し、
「はくしゅ」ではなく手を合わせ、
拝むように頭を下げ続ける村人たち。
滑稽ばなしなのに笑いもせず、オチの後も手を合わせ
「あぁ、ありがたや」とばかりずっと頭を下げ続けていた。
三代目師匠が神になった瞬間だった。

伝戦落語「じぃじの桜」を演じる筆者(撮影:坂東剛志)
観客の立場でいうと、良い意味で「はくしゅ」をしたくない時もある。
映画や芝居でも放心のままその場に浸っていたいと思うことがある。
能で「はくしゅ」しないのは残心を楽しむためでもあろう。
冒頭に述べた舌打ちは余韻を邪魔されたという憤りであったに違いない。
…しかし、落語の場合は、オチの後にはドンドンと太鼓を鳴らして
想像の世界から一気に現実に戻っていただくことになっている。
どうかそれを合図にぜひいっぱいの拍手を。
※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。

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