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3.気づくということ

 落語の楽しさは”気づき”と”共感”である。
 いささか古い話で恐縮だが、友人の披露宴の司会を仰せつかった時のことである。祝辞を予定する方の中に当時アメリカ大統領に就任したばかりのオバマさんにそっくりな彼がいた。こんなおいしいことを材料にしない手はないと考えた私は彼に近づいて少し会話を交わした。わりに冗談の通じそうな感じで安心した。それでいよいよ本番、彼がマイクの前に立った時、私は彼の横まで行き、少し改まった感じでこう切り出した。「この度はご就任、誠におめでとうございます」。すると、そこに居並んでいた列席者は一体何のことだか分からず、会場はまるで水を打ったようにシンとしたが、次の瞬間今度は堰を切ったような笑いが渦巻いた。彼もまた、こう言われることにずいぶん馴れているらしく「イエス、ウィキャン」とポーズを取っておどけて見せてくれたものだから、笑いはさらに拡張した。・・・つまり、”気づき”とは、こういう事である。もし、仮に「オバマさんに似ていますよね」とやったならば笑いなど起こらなかったであろう。お客は言葉の意図に自ら気づいたからこそ笑ってくれたのである。
 落語は、演者の言葉をヒントにして自ら想像を膨らませるから楽しい。演じ手もまたそのヒントの出し方に工夫しながら楽しんでいる。押しつけがましいのはよくないし、これは授業においても全く同じことだと思っている。気づかせる過程がないと、ただの伝達になってしまいまるで面白くもなくなる。
 ところで、我が師二代目桂春蝶(平成5年1月4日没)はこんな事をよく口にした。「十喋って十伝えるのではなく、一喋って十伝えなさい」。また、「咄家はそうペラペラ喋るもんやない」というのも師匠の信条だった。それは、例えば私を叱る際にもよく表れていた。私が何かしくじりをやらかした時、師匠の叱り方はたいてい決まっていた。まず、私の目をじっと睨みながらこう言う。「分かってるやろな?」私が軽く頷くと、次に「何があかんねん?」。それに応えて私は自分のやらかした罪を告白する。すると師匠が「で?(どうすんねん?)」。私がこれからどう改善していくか述べ終わった後で師匠の最後の一言がある。「そういうこっちゃ・・・次はないぞ」。
 ・・・このように師匠からの説教はなく、ほとんど私の言動で終わるのが常であった。「分かってるやろな」「何があかんねん?」「で?」「そういうこっちゃ」「次はないぞ」師匠の言葉はたったこれだけである。反省も自ら反省するから反省するのであって、それを懇々と説明し続けられたのでは反省どころか「早く終わらないかな」と思うばかりである。
 今、私ほど高座より教壇に立つ機会の多い落語家はいないと自負しているが、師匠とのこんなやり取りを想い出すたびいつも反省している。子どもらの考える能力を信じてやらねばと思いつつもついくどくなってしまうのである。高座も講座も案外似たようなところがある。(了)
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蝶六改メ三代目桂花團治

Author:蝶六改メ三代目桂花團治
落語家・蝶六改め、三代目桂花團治です。「ホームページ「桂花團治~蝶のはなみち~」も併せてご覧ください。

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