30.森田療法
「うちの師匠やなかったら、わしみたいな素行の悪い人間は
とうの昔に破門されて、落語家を廃業してるやろな」
これと同じような言葉を、これまでどれだけ多くの師匠方から伺ってきたことだろう。
実は私自身も決して素行の良い弟子ではなく、
故二代目春蝶に入門していなければ今ごろ路頭に迷っていた。
私をきつく叱るのも師匠なら包むように赦して下さったのも師匠である。
二代目春蝶は厳しくもあり優しくもあった。
「落語は業の肯定である」とは東京の故・立川談志師匠の弁。
やってはいけないと分かっていてもついついやってしまうのが人間だ。
人間のそういう部分を肯定したのが落語であるというのが師の主張だった。
師はこうもおっしゃている。
「落語を知れば、少なくとも自殺することはない」。
思えば私は幼い頃から劣等感の塊で、
夜尿症・チック・赤面症・吃音・パニック症候群などの癖を併せ持っていた。
夜尿症は小学六年生で何とか治まったが、
それ以外についてはようやく治まり始めたのが高校に入ってから。
つまり、落語と出会ってからである。
落語は私にとって癒しの道具だった。
落語というバーチャルの世界に浸ることで精神は癒された。
森田療法 (講談社現代新書)によると
「西欧の心理療法においては、
神経症者が何らかの形で心の内に内在させる不安や葛藤を分析し、
それを異物として除去しようとする傾向がある。
これに対して、森田療法では、
神経質(症)者の不安・葛藤と、日本人の不安・葛藤が連続であると考えるのである。
したがって、その不安・葛藤をいくら除去しようとしても、
異常でないものを除去しようとしているのであるから、
除去しようとすること自体が矛盾だということになる。」とある。
また、こうもあった。
「森田の欲望論は、欲望の二面性を肯定するところから出発している。
美に対して醜があり、喜びに対して悲しみがあり、
自信に対して不安や葛藤があるといったように、
人間には相反する志向性が内包されている」。
まさしくこれは談志師の「業の肯定」の考え方とも符合する。
私が思うに、聴衆は落語の中に人の愚かさを見つつ、
同時にそれを肯定=愛すべき存在として捉えるのである。
また、それらを自身に置き換えることで反省と安心に繋げていくのであろう。
こうしたイズムがおそらく私の病んだ心を救ってくれたに違いない。
ところで、赦すのも師匠と言ったが何でもかんでも赦されるというわけではない。
そこにはある一定の線があって、それを越えた時に初めて破門となる。
この線がどこにあるか具体的に申し上げるのはなかなか難しいが、
大阪250人の落語家が思う線はほぼ一致するだろう。
何が洒落になって何が洒落にならないかという問題である。
さて、岩井寛の同著からもう少し。
「人間の欲望には二面性があって、
ただ単に苦痛から逃避したいという欲望と、
人間目的をよりよく実現したいという欲望の両面があるはずである。
もし君が入院して神経質症を治したいなら、
後者の欲望を大事にしていかなければならない。
そのためには、あるがままは人間目的に沿ったあるがままであり、
目的本位のあるがままでなければならない」。
人は本来不完全なものとして捉え、
醜い部分をも人間の本質として受け入れているのが、
落語であり落語家の了見である。
大阪落語における阿呆で愚かな存在と言えばまず挙げられるのが“喜六”なる人物だが、
その彼を取り巻く町内の隠居の“甚兵衛”や兄貴分の“清八”、
長屋の大家といった人々は彼に対して優しい。
彼の愚かさを笑ったり諭したりもするが、
その基底にあるものは思いやりである。
つまり、喜六と甚兵衛の関係は落語家の師弟のそれともよく似ている。
それに、愚かささえ人生の楽しみに置き換えていくという豊かな感性こそが
落語の身上であり、そういった愚かさがあればこそ人生は豊かである。
落語ほど日本の良き精神に根付いた芸もあるまい。
落語と森田療法の考え方はおおいに符合している。(了)
とうの昔に破門されて、落語家を廃業してるやろな」
これと同じような言葉を、これまでどれだけ多くの師匠方から伺ってきたことだろう。
実は私自身も決して素行の良い弟子ではなく、
故二代目春蝶に入門していなければ今ごろ路頭に迷っていた。
私をきつく叱るのも師匠なら包むように赦して下さったのも師匠である。
二代目春蝶は厳しくもあり優しくもあった。
「落語は業の肯定である」とは東京の故・立川談志師匠の弁。
やってはいけないと分かっていてもついついやってしまうのが人間だ。
人間のそういう部分を肯定したのが落語であるというのが師の主張だった。
師はこうもおっしゃている。
「落語を知れば、少なくとも自殺することはない」。
思えば私は幼い頃から劣等感の塊で、
夜尿症・チック・赤面症・吃音・パニック症候群などの癖を併せ持っていた。
夜尿症は小学六年生で何とか治まったが、
それ以外についてはようやく治まり始めたのが高校に入ってから。
つまり、落語と出会ってからである。
落語は私にとって癒しの道具だった。
落語というバーチャルの世界に浸ることで精神は癒された。
森田療法 (講談社現代新書)によると
「西欧の心理療法においては、
神経症者が何らかの形で心の内に内在させる不安や葛藤を分析し、
それを異物として除去しようとする傾向がある。
これに対して、森田療法では、
神経質(症)者の不安・葛藤と、日本人の不安・葛藤が連続であると考えるのである。
したがって、その不安・葛藤をいくら除去しようとしても、
異常でないものを除去しようとしているのであるから、
除去しようとすること自体が矛盾だということになる。」とある。
また、こうもあった。
「森田の欲望論は、欲望の二面性を肯定するところから出発している。
美に対して醜があり、喜びに対して悲しみがあり、
自信に対して不安や葛藤があるといったように、
人間には相反する志向性が内包されている」。
まさしくこれは談志師の「業の肯定」の考え方とも符合する。
私が思うに、聴衆は落語の中に人の愚かさを見つつ、
同時にそれを肯定=愛すべき存在として捉えるのである。
また、それらを自身に置き換えることで反省と安心に繋げていくのであろう。
こうしたイズムがおそらく私の病んだ心を救ってくれたに違いない。
ところで、赦すのも師匠と言ったが何でもかんでも赦されるというわけではない。
そこにはある一定の線があって、それを越えた時に初めて破門となる。
この線がどこにあるか具体的に申し上げるのはなかなか難しいが、
大阪250人の落語家が思う線はほぼ一致するだろう。
何が洒落になって何が洒落にならないかという問題である。
さて、岩井寛の同著からもう少し。
「人間の欲望には二面性があって、
ただ単に苦痛から逃避したいという欲望と、
人間目的をよりよく実現したいという欲望の両面があるはずである。
もし君が入院して神経質症を治したいなら、
後者の欲望を大事にしていかなければならない。
そのためには、あるがままは人間目的に沿ったあるがままであり、
目的本位のあるがままでなければならない」。
人は本来不完全なものとして捉え、
醜い部分をも人間の本質として受け入れているのが、
落語であり落語家の了見である。
大阪落語における阿呆で愚かな存在と言えばまず挙げられるのが“喜六”なる人物だが、
その彼を取り巻く町内の隠居の“甚兵衛”や兄貴分の“清八”、
長屋の大家といった人々は彼に対して優しい。
彼の愚かさを笑ったり諭したりもするが、
その基底にあるものは思いやりである。
つまり、喜六と甚兵衛の関係は落語家の師弟のそれともよく似ている。
それに、愚かささえ人生の楽しみに置き換えていくという豊かな感性こそが
落語の身上であり、そういった愚かさがあればこそ人生は豊かである。
落語ほど日本の良き精神に根付いた芸もあるまい。
落語と森田療法の考え方はおおいに符合している。(了)