36.種を運ぶ
かつて私は『ふるさときゃらばん』という劇団に客演していた。
今になって思えば、
まともに芝居などしたことのない私をよくぞ採用してくれたものだと思うが、
それは楽しくもあり苦しくもあった。
知人の紹介から私も劇団の追っかけのようなことをするようになり、
それでたまたま役者の一人の都合が悪くなったことから私にお鉢が廻ってきたのだ。
芝居はミュージカルである。歌は独唱がないので何とかごまかせたが、
ダンスだけはどうにもならなかった。
それでも稽古日は一日中劇団の誰かがずっと
私の傍についてくれ踊りを指導してくれた。
それに加え、落語とは勝手がずいぶん違っていて
肝心の演技の方もかなり怪しかった。
台詞は東京弁であり
どうしても大阪弁が抜けない私にはこれも悩みの種だった。
スタッフや役者の総勢30名ほどで大型バスに乗り込んで全国各地を廻っていた。
そんなある日、私は劇団の一人にこう謝った。
「本当にすみません。ぼくが足を引っ張ってしまって・・・」。
その時の優しい言葉は今も忘れない。
「気にするなって・・・俺、お前の芝居好きだよ。味があって。
それに、もし、お前ができないからって、
お前を排除するようなことがあったら、
もう、うちの劇団の存在理由なんて無くなるよ」。
「町おこしは人おこし」「人は皆輝く瞬間がある」を
旗頭に掲げる劇団だからこそであろう。
常に弱者や落ちこぼれの味方であり、
それが劇団のスタンスにも繋がっていた。
今はどうか知らないが、
当時はその村の人を即席役者に仕立てて舞台にも立たせたりもした。
誤解を恐れずに言えば、
芝居の完成度よりも地域との一体感を大事にしていた。
作家であり演出家である石塚克彦氏は私にこう言った。
「ぼくにはね、創作力なんてないんだよ。
だってさ、ぼくのつくる芝居の台詞ってさ、
制作班のスタッフが町の人やお百姓さんから直接拾ってきた言葉だよ。
それをそのまま使ってるんだ」。
勿論これは謙遜であって氏は創作力にも編集力にも長けた方である。
私はこの言葉を聞きながら、
初めて観たこの劇団の送り出しの風景を思い出していた。
会場は福島県のある小学校の体育館だった。
農村を舞台にした芝居は全国のどこにでもありそうな問題を題材にしていた。
その感動の舞台が終わると、
私は知人に言われるままいち早く会場の出口へと急いだ。
そこにはすでに役者がずらりと並んでお客が出てくるのを待ち構えていた。
そこでお客と握手を交わすのがこの劇団の習わしだ。
「握手を交わすと今日の芝居の率直な気持ちが分かるんですよ」と劇団員の一人は言った。
また、よく見ると高齢のご婦人客はお婆ちゃん役のところへ、
お父さんはお父さん役のところへいち早く向かっていく光景があった。
「ありがとう、よう言うて下さった」と涙ぐんでいる老婆。
役者一人一人がそこに住む色んな立場の代弁者として映っていたのだ。
これが石塚氏の言う「直接拾ってきた言葉だよ」の意味である。
役者らとはよく巡業の晩に酒を飲みながら語りあった。
「僕らはさあ、結局、土にはなれないんだよね。
明日はまた移動して違う村で芝居をする。
だから、せめて風になってさ、何か、種をさ、そこに落としていきたいと思うんだよ」。
公演を成功させるために生まれた地元住民による実行委員会は、
これを機会に町おこしの核として成長していく。
それを私も目の当たりにした。
「町を、人を、元気にするために僕らは芝居をする」。
私はそんな劇団に参加できたことを今でも心底誇りに思っているし、
私も落語家としてそうありたいと思っている。
あれからこの劇団も財政危機等色々あったようだが、
現在も『新生ふるきゃら』として全国を廻っている。
今もそのイズムに変わりはない。いつも元気をありがとう!
このブログに綴ったエッセイの大半は、
熊本の人材派遣会社「リフティングブレーン」様からの依頼で
「リフブレ通信」という冊子のために書き下ろしたものです。
「書く」という機会を与えて下さったことに心より感謝申します。
今になって思えば、
まともに芝居などしたことのない私をよくぞ採用してくれたものだと思うが、
それは楽しくもあり苦しくもあった。
知人の紹介から私も劇団の追っかけのようなことをするようになり、
それでたまたま役者の一人の都合が悪くなったことから私にお鉢が廻ってきたのだ。
芝居はミュージカルである。歌は独唱がないので何とかごまかせたが、
ダンスだけはどうにもならなかった。
それでも稽古日は一日中劇団の誰かがずっと
私の傍についてくれ踊りを指導してくれた。
それに加え、落語とは勝手がずいぶん違っていて
肝心の演技の方もかなり怪しかった。
台詞は東京弁であり
どうしても大阪弁が抜けない私にはこれも悩みの種だった。
スタッフや役者の総勢30名ほどで大型バスに乗り込んで全国各地を廻っていた。
そんなある日、私は劇団の一人にこう謝った。
「本当にすみません。ぼくが足を引っ張ってしまって・・・」。
その時の優しい言葉は今も忘れない。
「気にするなって・・・俺、お前の芝居好きだよ。味があって。
それに、もし、お前ができないからって、
お前を排除するようなことがあったら、
もう、うちの劇団の存在理由なんて無くなるよ」。
「町おこしは人おこし」「人は皆輝く瞬間がある」を
旗頭に掲げる劇団だからこそであろう。
常に弱者や落ちこぼれの味方であり、
それが劇団のスタンスにも繋がっていた。
今はどうか知らないが、
当時はその村の人を即席役者に仕立てて舞台にも立たせたりもした。
誤解を恐れずに言えば、
芝居の完成度よりも地域との一体感を大事にしていた。
作家であり演出家である石塚克彦氏は私にこう言った。
「ぼくにはね、創作力なんてないんだよ。
だってさ、ぼくのつくる芝居の台詞ってさ、
制作班のスタッフが町の人やお百姓さんから直接拾ってきた言葉だよ。
それをそのまま使ってるんだ」。
勿論これは謙遜であって氏は創作力にも編集力にも長けた方である。
私はこの言葉を聞きながら、
初めて観たこの劇団の送り出しの風景を思い出していた。
会場は福島県のある小学校の体育館だった。
農村を舞台にした芝居は全国のどこにでもありそうな問題を題材にしていた。
その感動の舞台が終わると、
私は知人に言われるままいち早く会場の出口へと急いだ。
そこにはすでに役者がずらりと並んでお客が出てくるのを待ち構えていた。
そこでお客と握手を交わすのがこの劇団の習わしだ。
「握手を交わすと今日の芝居の率直な気持ちが分かるんですよ」と劇団員の一人は言った。
また、よく見ると高齢のご婦人客はお婆ちゃん役のところへ、
お父さんはお父さん役のところへいち早く向かっていく光景があった。
「ありがとう、よう言うて下さった」と涙ぐんでいる老婆。
役者一人一人がそこに住む色んな立場の代弁者として映っていたのだ。
これが石塚氏の言う「直接拾ってきた言葉だよ」の意味である。
役者らとはよく巡業の晩に酒を飲みながら語りあった。
「僕らはさあ、結局、土にはなれないんだよね。
明日はまた移動して違う村で芝居をする。
だから、せめて風になってさ、何か、種をさ、そこに落としていきたいと思うんだよ」。
公演を成功させるために生まれた地元住民による実行委員会は、
これを機会に町おこしの核として成長していく。
それを私も目の当たりにした。
「町を、人を、元気にするために僕らは芝居をする」。
私はそんな劇団に参加できたことを今でも心底誇りに思っているし、
私も落語家としてそうありたいと思っている。
あれからこの劇団も財政危機等色々あったようだが、
現在も『新生ふるきゃら』として全国を廻っている。
今もそのイズムに変わりはない。いつも元気をありがとう!
このブログに綴ったエッセイの大半は、
熊本の人材派遣会社「リフティングブレーン」様からの依頼で
「リフブレ通信」という冊子のために書き下ろしたものです。
「書く」という機会を与えて下さったことに心より感謝申します。
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