38.話し言葉の句読点
ここにござりました大阪のうまの合いました二人の男●ボチボチ時候も良うなったさかいにお伊勢参りでもしよやないかと、でも付きの伊勢参り●同道はうまの合うたる二人連れ、イヒヒンヒンと勇む旅立ち●仕度を整えますと友達に見送られ農人町の家を後に安堂寺橋を越えまして道を東へ東へ●大坂離れて早玉造●ここには桝屋芳兵衛、鶴屋秀次郎という二軒の茶店がござります●ここでちょっと酸い酒の一杯も飲みまして見送りの友達と別れます▲「さあ歩きなはれや」「心得た」と道を東へ東へ●中道本庄玉津橋もうち越えまして出て参りましたのが深江●「笠を買うなら深江が名所」とか申しまして●名前は深江笠でも浅い笠の一かいずつも買い求め●御厨額田豊浦松原うち越えてやって参りましたのが暗がり峠●あら暗がり峠というのやないそうで●あんまり坂が急なために馬の鞍がひっくり返りそうになります。そこであれを▲鞍返り峠と言うたのがホンマやそうで●「暗がりといえど明石の沖までも」という古い句が残ってござります●十八町登りますと太子手向けの水●尾瀬に砂茶屋尼が辻●これから道が追い分けになってござりまして●右は大和の郡山、左は南都は奈良でござります●南都とは文字に書きますと南の都と書きますのやそうで●「古の奈良の都の八重桜、きょう九重に匂いぬるかな」古いけどええ歌が残ってますな■奈良には印判屋庄衛門、小刀屋善助という二軒の宿屋がござります●・・・・・・
これは、『東の旅・伊勢参宮は神乃賑』という咄の発端部分からの抜粋。
大阪特有の小机のような道具「見台」を小拍子と張り扇で
パパパ、パンと打ち鳴らしながら進めていく。
我々落語家は、通称「叩き」と呼んでいる。
落語の解説書等では、落語家が初めにお稽古する演目として紹介されている。
これにより、咄言葉のリズムやメロディーを身につけていく。
また、小拍子や張り扇の音に負けないように声を張るので声の鍛錬にもなる。
ちなみに、上記の本文中に記している記号には、
以下のような打ち方と意味がある。
●=パパパ,パン通常の句読点。
▲=パンその次の言葉を特に聞かせたい時など。
■=パパパ,パパパ,パパパ,パン・・・段落の変わり目。
つまり、叩き方は三通りである。
演出家としてドラマ・音楽などの番組を数多く手掛ける鴨下信一氏は、
『日本語の呼吸』という著書のなかで、
「句読点には三つある」としたうえで、次のように説明する。
(、)息を止めるが、吸わない。
(、、)息を止めて、ちょっと吸う。
(、、、)息を大きく吸う。
その一例として、次のような文章を紹介している。
富士山は、、海抜3776メートルあって、日本一、、高い山です、、、山梨県と静岡県にまたがる円錐状の休火山、、日本人にとっては高さばかりでなく、、すばらしいその姿、形の美しさが、、日本一、なのです。
話し言葉での句読点は、ただ時間的に間を空けるというのではなく、
息の詰め開きによって行われる。
落語家の稽古では、これらを理論立てて説明する前に、
完成されたものをまず師から弟子へ口移しに身体へ放り込ませていく。
理屈は後付けだ。
勿論、教えてもらった咄は、自分で変えていくこともあるし、
そうでなくてはならない。
でも、この「叩き」に関しては、一切変えるつもりはない。
崩さないように、ぼくの毎日の日課としている。
『愚か塾』においても、必須の演目として中心に据えている。
ぼくは、この『東の旅』に関して、笑福亭伯鶴師から教わったのだが、
その稽古の際のこんな言葉が印象に残っている。
「蝶六君、これは笑わさない稽古やで」。
カラオケで、ド演歌をがなりたてるように歌う人に時折出会う。
そういう人ほど歌の文句に対する感情移入しようとする意識が大きい。
これが聞く者にしっかり伝わっているかというと決してそうではなく、
ただがなりたてているようにしか聞こえなかったりする。
しかも、そういう方に限ってメロディーと歌詞とが大きくずれてしまったりする。
これは聞いていて大変心地が悪い。
感情移入すればするほど、がなればがなるほど、
笑わそうとすればするほど、無気になればなるほど
観客の心はどんどん離れてしまう。
つまり、咄言葉を支えるリズムとメロディー=メトロノーム、
これを身体のなかに仕込むことが、
「叩き」を習得する大きな狙いのひとつだと思う。
これは、『東の旅・伊勢参宮は神乃賑』という咄の発端部分からの抜粋。
大阪特有の小机のような道具「見台」を小拍子と張り扇で
パパパ、パンと打ち鳴らしながら進めていく。
我々落語家は、通称「叩き」と呼んでいる。
落語の解説書等では、落語家が初めにお稽古する演目として紹介されている。
これにより、咄言葉のリズムやメロディーを身につけていく。
また、小拍子や張り扇の音に負けないように声を張るので声の鍛錬にもなる。
ちなみに、上記の本文中に記している記号には、
以下のような打ち方と意味がある。
●=パパパ,パン通常の句読点。
▲=パンその次の言葉を特に聞かせたい時など。
■=パパパ,パパパ,パパパ,パン・・・段落の変わり目。
つまり、叩き方は三通りである。
演出家としてドラマ・音楽などの番組を数多く手掛ける鴨下信一氏は、
『日本語の呼吸』という著書のなかで、
「句読点には三つある」としたうえで、次のように説明する。
(、)息を止めるが、吸わない。
(、、)息を止めて、ちょっと吸う。
(、、、)息を大きく吸う。
その一例として、次のような文章を紹介している。
富士山は、、海抜3776メートルあって、日本一、、高い山です、、、山梨県と静岡県にまたがる円錐状の休火山、、日本人にとっては高さばかりでなく、、すばらしいその姿、形の美しさが、、日本一、なのです。
話し言葉での句読点は、ただ時間的に間を空けるというのではなく、
息の詰め開きによって行われる。
落語家の稽古では、これらを理論立てて説明する前に、
完成されたものをまず師から弟子へ口移しに身体へ放り込ませていく。
理屈は後付けだ。
勿論、教えてもらった咄は、自分で変えていくこともあるし、
そうでなくてはならない。
でも、この「叩き」に関しては、一切変えるつもりはない。
崩さないように、ぼくの毎日の日課としている。
『愚か塾』においても、必須の演目として中心に据えている。
ぼくは、この『東の旅』に関して、笑福亭伯鶴師から教わったのだが、
その稽古の際のこんな言葉が印象に残っている。
「蝶六君、これは笑わさない稽古やで」。
カラオケで、ド演歌をがなりたてるように歌う人に時折出会う。
そういう人ほど歌の文句に対する感情移入しようとする意識が大きい。
これが聞く者にしっかり伝わっているかというと決してそうではなく、
ただがなりたてているようにしか聞こえなかったりする。
しかも、そういう方に限ってメロディーと歌詞とが大きくずれてしまったりする。
これは聞いていて大変心地が悪い。
感情移入すればするほど、がなればがなるほど、
笑わそうとすればするほど、無気になればなるほど
観客の心はどんどん離れてしまう。
つまり、咄言葉を支えるリズムとメロディー=メトロノーム、
これを身体のなかに仕込むことが、
「叩き」を習得する大きな狙いのひとつだと思う。
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