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45.月見座頭

落語は、喜劇である。
喜劇とは、人の愚かさを描いたものである。
ただ滑稽なものは喜劇とは言わない。
それは、笑劇(ファース)という言葉で区別されている。

当事者にとっての悲劇が、第三者からは喜劇と映ることがある。
男と女の諍いが当人たちにとって悲劇であったにせよ、
周りからは喜劇として捉えられることもある。
喜劇か悲劇か、
それはその事件に対するそれぞれの立ち位置いかんである。

喜劇は滑稽に描かれたもので、悲劇は哀れを誘うものといった
ステレオタイプに囚われると喜劇というものの本質を見誤ってしまう。


ここに『月見座頭』という狂言がある。

狂言『月見座頭』

中秋の名月の夜、下京辺に住む一人の座頭が
野辺へ出て虫の音を楽しんでいるところへ、
上京の男が月見にやって来て、声を掛ける。
そこで座頭が
「月をご覧になられたのであれば、歌などお詠みになるのでしょう」と差し向けると

上京の男は
「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」

これは柿本人麻呂が詠んだ歌。
当時も有名な他人の歌を、堂々と詠む男。
それならと、座頭も

「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣方敷独りかも寝む」

互いにそれは古歌ではないかと笑い合って意気投合。
上京の男が持参した酒で酒宴となり、
二人は気持ちよく別れを告げる。
ところが、上京の男は今ひとしおの慰みをしようと、
別人を装って立ち戻ると、座頭に行き当たり、
引き回し突き倒して去っていく。
ようやく立ち上がった座頭は
「最前の人とは違って、情けもない奴だ」と述懐して去っていく。



・・・・・・実に座頭の哀れを誘う。
しかし、そういった哀れからこれを悲劇とするのは早計であろう。

ここで一番描きたかったのは、座頭の哀れよりも、
むしろ、突き飛ばした男の愚かさではなかったか。

どんなに善人と思われる人とて、
どこか良からぬ面をも持ち合わせているものである。
「狂言は愚か人を笑うのではなく、人の愚かを笑うのだ」。

『月見座頭』は、喜劇である。


立川談志師があなたも落語家になれる―現代落語論其2という本のなかでこう述べている。

   私の惚れている落語は、けっして『笑わせ屋』だけではないのです。
   お客さまを笑わせるというのは手段であって、目的は別にあるのです。
   なかには笑わせることが目的だと思っている落語家もいますが、
   私にとって落語とは『人間の業』を肯定しているというところにあります。
   「人間の業」の肯定とは、非常に抽象的ないい方ですが、
   具体的にいいますと、人間、本当に眠くなると
   「寝ちまうもんだ」といっているのです。

   分別のある大の大人が若い娘に惚れ、メロメロになることもよくあるし、
   飲んではいけないと解っていながら酒を飲み
   「これだけはしてはいけない」ということをやってしまうものが、
   人間なのであります。
   こういうことを、八つぁん、熊さん、横町の隠居さんに語らせているのが、
   落語なのであります。(中略)
   落語のなかには、人生のありとあらゆる失敗と恥ずかしさのパターンが入っている。
   落語をしっていると、逆境になった時にすくわれる。
   すくなくとも、そのことを思いつめて死を選ぶことにはなるまい、
   と私は思っている。
   

このことは、落語のみならず喜劇全体の本質をも突いている。
喜劇は、人の愚かさに触れ、それを自身に振り返させると同時に、
人の不完全さについて改めて認識させるといった効用がある。


ところで先日、出講する夜間高校で『月見座頭』のDVD鑑賞を行った。
感想文のなかで、一番よく見られたのは、
突き飛ばした男をただ非難するのではなく、
「自分自身も反省しなければならない」という言葉だった。

物語のなかの愚かに学ぶことは多い。
喜劇の登場人物の多くが市井の人々であって、
ごく普通の人であるということがより
自分自身へも置き換えられる要因になっているのであろう。

登場人物が、市井の人々。
これもまた喜劇の特徴、
落語も狂言も・・・・・・。

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蝶六改メ三代目桂花團治

Author:蝶六改メ三代目桂花團治
落語家・蝶六改め、三代目桂花團治です。「ホームページ「桂花團治~蝶のはなみち~」も併せてご覧ください。

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