5.明日あると思う心のあだ桜
テレビで見慣れたはずのあの光景も
実際目の当たりにするともう言葉にはならなかった。
「何で?・・・」と呟いたままその後が続かなかった。
同行したメンバー等もやはり同じことで誰も口を開こうとはしない。
私の傍らにはちんどん通信社の林幸治郎氏と演歌流しの田浦高志氏がいた。
・・・大震災に襲われた東北被災地への慰問が今回の目的である。
昨年7月23日のことだった。
花巻空港から海岸線沿いに一路岩手県山田町へ車は走る。
海岸沿いの瓦礫の山はすでに撤去され、
家の基礎だけが残った広い更地がずっと遠くの方まで続いていた。
鉄筋の枠だけ残された建物はまるでオブジェのようだった。
「(舞台では)何を喋ったらええんやろう」とつぶやく私に田浦氏は
「いや、いつも通りにやったらええんや」と確信に満ちた面持ちでそう言った。
なるほど「がんばろう」とか「元気出して」とか、
そんな文句はかえって言葉足らずで陳腐過ぎる。
しばしの間だけでも無邪気に楽しんでもらえたらということに
皆の意見が落ち着いた。
・・・やがて現地に到着。
まるごと流された集落を見下ろす高台にその開催地があった。
テントの中には十畳ほどの特設ステージが置かれ、パイプ椅子が百脚ほど並べてある。
その日の午前には余震があって、その影響が懸念されていたが
たちまちのうちに会場は笑いを求める人々でいっぱいに埋め尽くされた。
実は今回この地を訪れたのは初めてではない。
二度目であった。
以前、震災のちょうど二ヶ月ほど前に伺った時は祝いの宴の席であった。
再会を誓って別れたがまさかこんな形で会うとは思わなかった。
洋品店を営む知人女性の店は難を逃れたものの
自宅はすっかり流され親族の多くも亡くなっていた。
しかし、その表情に哀しい影は少しも感じさせず、
楽屋に飲み物を届けてくれたりおひねりまで渡そうとさえしたり、
精一杯のおもてなしをしてくれる。
おそらく気丈に努めているのだろうが、それは他の住人にも言えることだった。
次の慰問会場へ移動する車中、私は世話人の一人にこう洩らした。
「明るさとバイタリティーがあって、
意気消沈したところなんて微塵も感じさせない。
その事に一番驚きました」。
すると氏は私にこう言った。
「・・・そんなもん辛いに決まってる。
けど、いつまでも落ち込んでばかりいるわけにいかん。
生きていかないかんねん。
それにあの人らの覚悟や精神はわしらとは比べものにならん。
・・・ここに住むということはな、死というものに向き合って生きるということや。
いつ命を落とすやも知れん。
例えば、漁師の家族が送り出す時の『行ってらっしゃい』は
わしらのそれとはまるで違うねん。重みが違う。
『行ってらっしゃい、どうかご無事で生きて帰ってくださいね』。
毎日がその連続や。せやから覚悟ちゅうのかな、
長年にわたって培われたDNAみたいなものが
きっと身体ん中に備わってるのかも知れん。
けど、ほんまえらいもんやな」。
私が彼女の立場ならきっと自暴自棄になっていただろう。
“生”ある限り、彼女らのように美しく力強く精一杯生きたいものだと思った。
“明日あると思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは”
これは親鸞聖人、九歳の時の句である。
「満開の桜。明日も見られるだろうと思っていても
夜半の嵐に散ってしまうこともある。
人の命も同じことだ。若い盛りにあっても明日の命は分からない」
・・・今回ほど「命」について考えさせられたこともなかった。
被災者たちの姿勢や立ち振る舞いに教えられた。
それまで被災地へどんなメッセージを伝えようか、
どう励まそうかと思案してきたが、
今回の慰問で大きな希望と勇気を頂いたのはむしろ私の方である。
被災地へ向けて「励ましの言葉」よりまず「お礼の言葉」を届けたい。
私にとってそこは生きる希望の「聖地」である。・・・さて、どう生きるべきか。(了)
実際目の当たりにするともう言葉にはならなかった。
「何で?・・・」と呟いたままその後が続かなかった。
同行したメンバー等もやはり同じことで誰も口を開こうとはしない。
私の傍らにはちんどん通信社の林幸治郎氏と演歌流しの田浦高志氏がいた。
・・・大震災に襲われた東北被災地への慰問が今回の目的である。
昨年7月23日のことだった。
花巻空港から海岸線沿いに一路岩手県山田町へ車は走る。
海岸沿いの瓦礫の山はすでに撤去され、
家の基礎だけが残った広い更地がずっと遠くの方まで続いていた。
鉄筋の枠だけ残された建物はまるでオブジェのようだった。
「(舞台では)何を喋ったらええんやろう」とつぶやく私に田浦氏は
「いや、いつも通りにやったらええんや」と確信に満ちた面持ちでそう言った。
なるほど「がんばろう」とか「元気出して」とか、
そんな文句はかえって言葉足らずで陳腐過ぎる。
しばしの間だけでも無邪気に楽しんでもらえたらということに
皆の意見が落ち着いた。
・・・やがて現地に到着。
まるごと流された集落を見下ろす高台にその開催地があった。
テントの中には十畳ほどの特設ステージが置かれ、パイプ椅子が百脚ほど並べてある。
その日の午前には余震があって、その影響が懸念されていたが
たちまちのうちに会場は笑いを求める人々でいっぱいに埋め尽くされた。
実は今回この地を訪れたのは初めてではない。
二度目であった。
以前、震災のちょうど二ヶ月ほど前に伺った時は祝いの宴の席であった。
再会を誓って別れたがまさかこんな形で会うとは思わなかった。
洋品店を営む知人女性の店は難を逃れたものの
自宅はすっかり流され親族の多くも亡くなっていた。
しかし、その表情に哀しい影は少しも感じさせず、
楽屋に飲み物を届けてくれたりおひねりまで渡そうとさえしたり、
精一杯のおもてなしをしてくれる。
おそらく気丈に努めているのだろうが、それは他の住人にも言えることだった。
次の慰問会場へ移動する車中、私は世話人の一人にこう洩らした。
「明るさとバイタリティーがあって、
意気消沈したところなんて微塵も感じさせない。
その事に一番驚きました」。
すると氏は私にこう言った。
「・・・そんなもん辛いに決まってる。
けど、いつまでも落ち込んでばかりいるわけにいかん。
生きていかないかんねん。
それにあの人らの覚悟や精神はわしらとは比べものにならん。
・・・ここに住むということはな、死というものに向き合って生きるということや。
いつ命を落とすやも知れん。
例えば、漁師の家族が送り出す時の『行ってらっしゃい』は
わしらのそれとはまるで違うねん。重みが違う。
『行ってらっしゃい、どうかご無事で生きて帰ってくださいね』。
毎日がその連続や。せやから覚悟ちゅうのかな、
長年にわたって培われたDNAみたいなものが
きっと身体ん中に備わってるのかも知れん。
けど、ほんまえらいもんやな」。
私が彼女の立場ならきっと自暴自棄になっていただろう。
“生”ある限り、彼女らのように美しく力強く精一杯生きたいものだと思った。
“明日あると思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは”
これは親鸞聖人、九歳の時の句である。
「満開の桜。明日も見られるだろうと思っていても
夜半の嵐に散ってしまうこともある。
人の命も同じことだ。若い盛りにあっても明日の命は分からない」
・・・今回ほど「命」について考えさせられたこともなかった。
被災者たちの姿勢や立ち振る舞いに教えられた。
それまで被災地へどんなメッセージを伝えようか、
どう励まそうかと思案してきたが、
今回の慰問で大きな希望と勇気を頂いたのはむしろ私の方である。
被災地へ向けて「励ましの言葉」よりまず「お礼の言葉」を届けたい。
私にとってそこは生きる希望の「聖地」である。・・・さて、どう生きるべきか。(了)