60.春団治 初代・二代目法要
4月27日(土)春団治 初代・二代目法要が
池田市豊島南「受楽寺」にて営まれました。

代々の春団治師匠について、ぼくがあれやこれや述べるのもおこがましい。
それぞれの芸について、評論家の先生方が評しているので、
ちょっと抜き出してみました。
初代について
御一新以後エスペラントと堕した江戸弁は東京の落語の面白さを半減せしめたが、
上方には独自の陰影を有つ市井語が現代近くまで遺つてゐたから、此を自由に使駆
し得た上方落語は、大へんに幸福であつた。さう云ふ意味のことを私は「上方落語
・上方芝居噺」の研究に於て述べたが、その陰影満ち溢るる大阪弁へ、酸を、胡椒
を、醤油を、味の素を、砂糖を、蜜を、味醂を、葛粉を、時としてサツカリンを、
クミチンキを、大胆奔放に投込んで、気随気儘の大阪弁の卓袱料理を創造した畸才
縦横の料理人こそ、初代桂春団治であると云へよう。
人間が擽られて笑ふところを、第一に脇の下であるとする、第二に足の裏である
とする、第三におへその周りであるとする。それを春団治こそは寝食を忘れ、粉骨
砕心し、粒々辛苦の結果、たとへば額とか、膝ツ小僧とか、肩のどの線とか、親指
と人さし指の間とか、全くおもひもおよばざるところに哄笑爆笑の爆発点を発見し、
遮二無二、その一点を掘り下げていつた大天才であつたとおもふ。所詮は、あくど
い笑ひに対してよく云はれる「くすぐり」と云ふやうな卑小な世界のものではなか
つた。ここに笑ひの大木あつて、さん/\とそれへ笑ひの日がふりそゝぎ、枝から
も、葉からも、蕾からも、花からも、実からも、幹からも、根元からも、笑ひの交
響楽が流れ、迸り、交錯し合つて、さらにドーツと哄笑わらひ合ふすさまじさであ
つたと云へよう。私は、生れてから(恐らく死ぬまで)この人以上に笑はせられた
歴史を持つまい。余りに郷土的な、それ故にこそ興味津々たる大阪弁の使駆であつ
たゝめ、東は名古屋まで、西は岡山まで、それ以上の遠方では、もはや春団治の可
笑しさは理解されず、ために東京へも殆んどやつて来なかつたが、もし今少し東京
人に分つてもらへる「波」であつたら、恐らく全日本的の素晴らしい「笑ひ」の存
在となつてゐたらう。名声を唱はれだして以来廿年、それ晩年の二、三年を除いて、
最大最高の人気の王座を守り通したと云ふことも、稀有なことであつたと云ひ得る。
正岡容『初代桂春団治研究』http://www.aozora.gr.jp/cards/001313/files/49302_33999.html
二代目について
なんにしても「うまい」「へた」ではなくて、地方の悪い状態のお客の前で演って
いたことが「客をつかむ」ということの役に立ちました。会社の慰安会やとかPTA
の会なんかで子供がいくらドタバタ騒いでても、おもしろかったら、こっちがなんに
も言わなくても、他のお客さんのほうが勝手に止めます。だから、「子供がじゃまで
落語ができなかった」ということはなかったですね。私がすばらしい芸の力だと思っ
たのは、地方の落語を知らないお客さんの前で演じていた『大和閑所』という大小便
の出てくる噺がちょっとも汚く感じられなかったことです。話術の力というんでしょ
うね。
高座への出からひとつの「芸」になっていました。鳥家口から出て、ちょっと頭を
下げておじぎをしてから、スッと頭を下げてスッスッスッと歩いて座布団に座ります。
このあたりの動きは、今の三代目そのままです。別に笑顔をふりまくわけでもなく、
普通の表情で出て来はるんですけど、持ってはる雰囲気が華やかなんですね。
河本壽栄『二代目さん』
三代目について
自身の落語に対し、これまで完璧主義と言われた桂春団治。ところが、ここ最近は
また、別の魅力が増えてきたのである。よく、ものには”旬”というものがあるとい
う。人、とりわけ落語家にも”旬”というものがあるとすれば、桂春団治の落語は、
これからがいよいよ”旬”であると思える。とにかくいい。面白い。というのは、生
意気な言い方をすれば、これまでの華やかな芸に、ひとつの演目を練りに練って研ぎ
すまされた上の余裕と、演者の内面から滲み出る緩和感がうまくミックスされ、何と
も言えぬトボケた味で、聴き手に快い空間を提供する。
たとえば、困った時の喜六のボヤキや、それに愛情を持ってつっこむ清八の余裕あ
るおかしさ。その上、時にはアドリブのような言葉も入る。東宝映画の「社長シリー
ズ」などで森繁久弥が場面の切れ目にボソッと漏らすセリフを聴いた時のように、あ
とからえもいわれぬおかしさがこみ上がってくる。汚い言葉を言う時にも、うまいタ
イミングで言葉を被せるようにつっこむので、嫌味なところがまったくなく後味がよ
い。だから、同じ噺でも何度も聴きたくなるのである。
豊田善敬『(三代目)桂春団治 はなしの世界』

豊田善敬氏のおっしゃるように、とにかくいい。
この日は、芸能史研究家の前田憲司氏が
舞台袖で当代春団治の『寄合酒』を食い入るように聞き入っておられました。
何度も何度も聴いているだろうに、
後ろから見ていると、ずっと肩をゆすっておられました。
毎回、新鮮なんです。
また、「愛情をもってつっこむ清八」とありますが、
これは落語に限ったことではありません。
ぼくらは、楽屋で、ちょくちょく春団治師匠に突っ込んで頂きます。
これがどれほど嬉しいか。
今回の楽屋では、咲之輔君がその恩恵に与りました。
菓子を食べているのを見た春団治師匠が
ポソッと一言。「咲之輔、菓子、食べすぎとちゃうか」
先輩諸氏が「ええなあ、春団治師匠にあんなん言うてもうて」。
咲之輔君も嬉しそうでした。ツッコミとは、愛情です。
一緒に空気を吸っているだけで嬉しい。
本当に幸せな一日でありました。

右手前白カッターシャツが春団治師匠、落語作家の小佐田定雄氏、桂春之輔師、芸能史研究家の前田憲司氏
池田市豊島南「受楽寺」にて営まれました。

代々の春団治師匠について、ぼくがあれやこれや述べるのもおこがましい。
それぞれの芸について、評論家の先生方が評しているので、
ちょっと抜き出してみました。
初代について
御一新以後エスペラントと堕した江戸弁は東京の落語の面白さを半減せしめたが、
上方には独自の陰影を有つ市井語が現代近くまで遺つてゐたから、此を自由に使駆
し得た上方落語は、大へんに幸福であつた。さう云ふ意味のことを私は「上方落語
・上方芝居噺」の研究に於て述べたが、その陰影満ち溢るる大阪弁へ、酸を、胡椒
を、醤油を、味の素を、砂糖を、蜜を、味醂を、葛粉を、時としてサツカリンを、
クミチンキを、大胆奔放に投込んで、気随気儘の大阪弁の卓袱料理を創造した畸才
縦横の料理人こそ、初代桂春団治であると云へよう。
人間が擽られて笑ふところを、第一に脇の下であるとする、第二に足の裏である
とする、第三におへその周りであるとする。それを春団治こそは寝食を忘れ、粉骨
砕心し、粒々辛苦の結果、たとへば額とか、膝ツ小僧とか、肩のどの線とか、親指
と人さし指の間とか、全くおもひもおよばざるところに哄笑爆笑の爆発点を発見し、
遮二無二、その一点を掘り下げていつた大天才であつたとおもふ。所詮は、あくど
い笑ひに対してよく云はれる「くすぐり」と云ふやうな卑小な世界のものではなか
つた。ここに笑ひの大木あつて、さん/\とそれへ笑ひの日がふりそゝぎ、枝から
も、葉からも、蕾からも、花からも、実からも、幹からも、根元からも、笑ひの交
響楽が流れ、迸り、交錯し合つて、さらにドーツと哄笑わらひ合ふすさまじさであ
つたと云へよう。私は、生れてから(恐らく死ぬまで)この人以上に笑はせられた
歴史を持つまい。余りに郷土的な、それ故にこそ興味津々たる大阪弁の使駆であつ
たゝめ、東は名古屋まで、西は岡山まで、それ以上の遠方では、もはや春団治の可
笑しさは理解されず、ために東京へも殆んどやつて来なかつたが、もし今少し東京
人に分つてもらへる「波」であつたら、恐らく全日本的の素晴らしい「笑ひ」の存
在となつてゐたらう。名声を唱はれだして以来廿年、それ晩年の二、三年を除いて、
最大最高の人気の王座を守り通したと云ふことも、稀有なことであつたと云ひ得る。
正岡容『初代桂春団治研究』http://www.aozora.gr.jp/cards/001313/files/49302_33999.html
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二代目について
なんにしても「うまい」「へた」ではなくて、地方の悪い状態のお客の前で演って
いたことが「客をつかむ」ということの役に立ちました。会社の慰安会やとかPTA
の会なんかで子供がいくらドタバタ騒いでても、おもしろかったら、こっちがなんに
も言わなくても、他のお客さんのほうが勝手に止めます。だから、「子供がじゃまで
落語ができなかった」ということはなかったですね。私がすばらしい芸の力だと思っ
たのは、地方の落語を知らないお客さんの前で演じていた『大和閑所』という大小便
の出てくる噺がちょっとも汚く感じられなかったことです。話術の力というんでしょ
うね。
高座への出からひとつの「芸」になっていました。鳥家口から出て、ちょっと頭を
下げておじぎをしてから、スッと頭を下げてスッスッスッと歩いて座布団に座ります。
このあたりの動きは、今の三代目そのままです。別に笑顔をふりまくわけでもなく、
普通の表情で出て来はるんですけど、持ってはる雰囲気が華やかなんですね。
河本壽栄『二代目さん』
![]() | 二代目さん―二代目桂春団治の芸と人 (2002/02) 河本 寿栄 商品詳細を見る |
三代目について
自身の落語に対し、これまで完璧主義と言われた桂春団治。ところが、ここ最近は
また、別の魅力が増えてきたのである。よく、ものには”旬”というものがあるとい
う。人、とりわけ落語家にも”旬”というものがあるとすれば、桂春団治の落語は、
これからがいよいよ”旬”であると思える。とにかくいい。面白い。というのは、生
意気な言い方をすれば、これまでの華やかな芸に、ひとつの演目を練りに練って研ぎ
すまされた上の余裕と、演者の内面から滲み出る緩和感がうまくミックスされ、何と
も言えぬトボケた味で、聴き手に快い空間を提供する。
たとえば、困った時の喜六のボヤキや、それに愛情を持ってつっこむ清八の余裕あ
るおかしさ。その上、時にはアドリブのような言葉も入る。東宝映画の「社長シリー
ズ」などで森繁久弥が場面の切れ目にボソッと漏らすセリフを聴いた時のように、あ
とからえもいわれぬおかしさがこみ上がってくる。汚い言葉を言う時にも、うまいタ
イミングで言葉を被せるようにつっこむので、嫌味なところがまったくなく後味がよ
い。だから、同じ噺でも何度も聴きたくなるのである。
豊田善敬『(三代目)桂春団治 はなしの世界』
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豊田善敬氏のおっしゃるように、とにかくいい。
この日は、芸能史研究家の前田憲司氏が
舞台袖で当代春団治の『寄合酒』を食い入るように聞き入っておられました。
何度も何度も聴いているだろうに、
後ろから見ていると、ずっと肩をゆすっておられました。
毎回、新鮮なんです。
また、「愛情をもってつっこむ清八」とありますが、
これは落語に限ったことではありません。
ぼくらは、楽屋で、ちょくちょく春団治師匠に突っ込んで頂きます。
これがどれほど嬉しいか。
今回の楽屋では、咲之輔君がその恩恵に与りました。
菓子を食べているのを見た春団治師匠が
ポソッと一言。「咲之輔、菓子、食べすぎとちゃうか」
先輩諸氏が「ええなあ、春団治師匠にあんなん言うてもうて」。
咲之輔君も嬉しそうでした。ツッコミとは、愛情です。
一緒に空気を吸っているだけで嬉しい。
本当に幸せな一日でありました。

右手前白カッターシャツが春団治師匠、落語作家の小佐田定雄氏、桂春之輔師、芸能史研究家の前田憲司氏
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