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6.一喋って十伝える

とある師匠はご贔屓筋にも大層恵まれていて、
独演会でもしようということになれば
五百ぐらいの席はいとも簡単に埋めてしまう。
キャリアがあるからそれぐらいの動員力は
当然だと言ってしまえばそれまでだが、
他の師匠方と比べてもその集客力は断トツである。]

そんな師匠がふとこんなことを洩らした。
「わしはな、相手が喋りたい人なのかそうでないのか
瞬時に見分けることができるんや」。

落語家を連れて歩こうかというお客さんには二通りあって、
ひとつは落語家の裏話など色んな四方山を聞くのが好きな人、
もうひとつは聞き役を相手に求める人である。
そのどちらであるかをすぐに見分けることができるというのだ。

私はこの師匠とは幾度となく酒席をご一緒させて頂いているが、
なるほどその場に応じた立ち位置の変化は実にお見事である。
落語に登場する阿呆の喜六のごとく道化に徹する時もあれば、
町内のご隠居のごとく芸にまつわるちょっといい話を語って
相手を唸らせることもある。
また、相槌や合いの手に関しても全く嫌味がなくそつがない。
傾聴という言葉がぴたり当てはまる。

ところで、太鼓持ちという職業がある。
時代劇などで扇子片手に旦那によいしょをする男である。
しかし、あれは太鼓持ちの一つの型であって本来はあんなものではないと
何かの本で読んだ。
ある宴席に太鼓持ちが現れたので、一体どんな芸を見せてくれるのだろうと
期待していたが、その時は主役であるスポンサーである会社社長の横に坐り、
ただ相槌を打つだけだったとその筆者は語っていた。

「話の誘導の仕方もそれはもう見事なもので、
プロの太鼓持ちとは本来こういうものかと感服した。
太鼓持ちの『ほぉ』『はぁ』『なるほど』
といった相槌そのものがひとつの芸になっていて・・・」。

 我が家では時折知人を招いて酒宴を催す。
酔いにまかせてつい饒舌になってしまうのが私の悪い癖で、
親しい友人からもちょっと喋り過ぎじゃないかとたしなめられることもしばしば。
つい先日も宴がありおよそ二十名近くが参加してくれた。
この時は落語塾の塾生の一人が見事な捌きをしてくれたので私はおおいに助かった。
彼は壁の花になりかかっている人をさりげなく救い出し
話題の中心に据えるというようなことをいつも見事にやってのける。
彼さえいれば誰一人壁の花になることなく後味のいい宴となり得るのである。

ちなみに彼は古本屋の経営者で多くの学生アルバイトを雇っている。
だから客観的に全体を見ることには長けている。
また、宴席における彼の立ち位置はいつも道化であって
常に相手を優位に立たせて喜ばせる。
しかし、求められればその経営における持論で皆を納得させたり、
なかなか奥行きのある男である。

 さて、大阪落語に登場する喜六なる人物。
彼は作品の中で道化の役で阿呆とも称されるが、
町内の隠居や清八を饒舌にさせているのもまた彼である。
乗せ上手で聴き上手、彼もまた相手に優越感と安心感を与える。
コミュニティーにおける潤滑油である。
この点においても古本屋氏と喜六はまさに符合している。
現代社会において多くの人は自身のことを語りたがり、
いかに自分が優秀であるかを主張したがる。

だからこそかえってこのような存在が今、重宝されるのではないか。
無論、落語の中の喜六と古本屋氏では
あえてそう振る舞っているか否かの違いもあるが、
落語の登場人物にロールモデルを求めるのもありである。
落語は語り芸であることからその教室も話し方講座の延長として紹介されることが多いが、
むしろ聴き方としての一面を強調してもいい。

以前、私はこの項で「落語家は喋るな」という我が師の教えを紹介させてもらった。

「十喋って十伝えるのではなく、一喋って十伝える」
ということだが、この事ともちゃんと繋がっている。

落語教室が単なるお喋り養成所になってはいけない。(了)

 とある師匠はご贔屓筋にも大層恵まれていて、独演会でもしようという
ことになれば五百ぐらいの席はいとも簡単に埋めてしまう。キャリアがあるか
らそれぐらいの動員力は当然だと言ってしまえばそれまでだが、他の師匠方と
比べてもその集客力は断トツである。そんな師匠がふとこんなことを洩らした。
「わしはな、相手が喋りたい人なのかそうでないのか瞬時に見分けることがで
きるんや」。落語家を連れて歩こうかというお客さんには二通りあって、ひと
つは落語家の裏話など色んな四方山を聞くのが好きな人、もうひとつは聞き役
を相手に求める人である。そのどちらであるかをすぐに見分けることができる
というのだ。私はこの師匠とは幾度となく酒席をご一緒させて頂いているが、
なるほどその場に応じた立ち位置の変化は実にお見事である。落語に登場する
阿呆の喜六のごとく道化に徹する時もあれば、町内のご隠居のごとく芸にまつ
わるちょっといい話を語って相手を唸らせることもある。また、相槌や合いの
手に関しても全く嫌味がなくそつがない。傾聴という言葉がぴたり当てはまる。

 ところで、太鼓持ちという職業がある。時代劇などで扇子片手に旦那に
よいしょをする男である。しかし、あれは太鼓持ちの一つの型であって本来は
あんなものではないと何かの本で読んだ。ある宴席に太鼓持ちが現れたので、
一体どんな芸を見せてくれるのだろうと期待していたが、その時は主役であり
スポンサーである会社社長の横に坐り、ただ相槌を打つだけだったとその筆者
は語っていた。「話の誘導の仕方もそれはもう見事なもので、プロの太鼓持ち
とは本来こういうものかと感服した。太鼓持ちの『ほぉ』『はぁ』『なるほど』
といった相槌そのものがひとつの芸になっていて・・・」。

 我が家では時折知人を招いて酒宴を催す。酔いにまかせてつい饒舌になって
しまうのが私の悪い癖で、親しい友人からもちょっと喋り過ぎじゃないかとた
しなめられることもしばしば。つい先日も宴がありおよそ二十名近くが参加し
てくれた。この時は落語塾の塾生の一人が見事な捌きをしてくれたので私はお
おいに助かった。彼は壁の花になりかかっている人をさりげなく救い出し話題
の中心に据えるというようなことをいつも見事にやってのける。彼さえいれば
誰一人壁の花になることなく後味のいい宴となり得るのである。ちなみに彼は
古本屋の経営者で多くの学生アルバイトを雇っている。だから客観的に全体を
見ることには長けている。また、宴席における彼の立ち位置はいつも道化であっ
て常に相手を優位に立たせて喜ばせる。しかし、求められればその経営におけ
る持論で皆を納得させたり、なかなか奥行きのある男である。

 さて、大阪落語に登場する喜六なる人物。彼は作品の中で道化の役で阿呆と
も称されるが、町内の隠居や清八を饒舌にさせているのもまた彼である。乗せ
上手で聴き上手、彼もまた相手に優越感と安心感を与える。コミュニティーに
おける潤滑油である。この点においても古本屋氏と喜六はまさに符合している。
現代社会において多くの人は自身のことを語りたがり、いかに自分が優秀であ
るかを主張したがる。だからこそかえってこのような存在が今、重宝されるの
ではないか。無論、落語の中の喜六と古本屋氏ではわざとそう振る舞っている
か否かの違いもあるが、落語の登場人物にロールモデルを求めるのもありであ
る。落語は語り芸であることからその教室も話し方講座の延長として紹介され
ることが多いが、むしろ聴き方としての一面を強調してもいい。以前、私はこ
の項で「落語家は喋るな」という我が師の教えを紹介させてもらった。「十喋っ
て十伝えるのではなく、一喋って十伝える」ということだが、この事ともちゃ
んと繋がっている。落語教室が単なるお喋り養成所になってはいけない。(了)

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蝶六改メ三代目桂花團治

Author:蝶六改メ三代目桂花團治
落語家・蝶六改め、三代目桂花團治です。「ホームページ「桂花團治~蝶のはなみち~」も併せてご覧ください。

http://hanadanji.net/

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