70.わたしはすごい 回想法2
いつものように、亭主は酔っぱらってご帰宅。
「ちょっと母ちゃん、台所へ行って、一升瓶を・・・・・・」
「そんなこと言わんと、早よ寝なはれ」「ちょっと一杯だけ」
「早よ寝なはれ」「なあ」
「寝なはれ!」
「・・・・・・なあ、母ちゃん、お前わしと一緒になって何年になる?
そやろ?寝なはれ、言われて、わいが寝ると思うか?
わいを寝かそうと思うたら寝かす言葉、ちゅうのがあるやろ?」
「ほたら、どない言うたらよろし?」
「どない言うたらよろして・・・・・・お父さん、うちはうち、外は外で、
また味の違うもんやそうでございますので、うちらのお酒も一杯
お呑みになってからお休みになったらどうでおますて・・・こない
言われてみい、わいが飲めるか?・・・・・・いや、母ちゃん、明日の朝
も早よおまっさかい、今日のところは寝やしていただきますと、こうなるやろ?」
家でもくだを巻く亭主だが、どこか可愛い。
ぼやきながらも女房は、亭主のために買い物に出る。
亭主は買い物に出た女房の帰りを待ちつつ、独り言。
「わいは口であないな事言うてるけど、
腹の中では、済みません、ありがとぉございます、と思うてんねん。
顔見たら、そういう甘いとこ見せたらいかんとつい・・・・・・
・・・・・・何や?お前、まだそこにおったんか!?」

大阪くらしの今昔館
義太夫好きな男が、見聞きしたものを
即興で浄瑠璃仕立てにして語ってしまう。
「箸取り上げて、お椀のなかぁ、煮干しの頭の浮いたるわぁ、
あやし、か~り~け~る~~~!!」
とうとう男はお膳をひっくり返してしまった。
そこで女房がぽつりと一言。
「何で、こんな人と一緒になったんやろう」。

大阪くらしの今昔館
落語は、どこにでもいるフツーの人のフツーの日常を描いている。
前者は『替わり目』、後者が『豊竹屋』。
どちらもよく好んで高座にかけている。
『豊竹屋』では、「何でこんな人と一緒になったんやろ?」という一言。
これが言いたさに、演っているようなもの。
毎年、秋から春にかけて出講している夜間高校の授業。
ぼくが落語を演じ、その後ちょっとした井戸端会議が始まる。
学生の多くが、年配のオモニたち。
若い頃、色んな事情が重なって就学できなかった。
だから、今ここで学んでいる。例外なく、みなが苦労人である。
「センセ、そらうちのお父ちゃんの話やで」
「うちかて、お父ちゃんが酒飲みでどんだけ苦労させられてきたことか」
「わてとこなんか、もっとひどかったで」
いつもの苦労自慢大会。
落語の話から、次第にどんどんエスカレートし、
口々に昔話を語り出す。
そう言えば昔、うちのじいちゃんからよく
戦時中の話を聞かされたものだ。
当初は、「これでは授業にならない」と警戒したが、
今は、これでいい、と思っている。
落語の時は居眠りしていた若者も、こんな話には興味津々である。
ところで、医師である小山敬子さんは、著書のなかで、
「自分の居場所」の必要性を説いておられる。
今どきのアイドルの話はつづかなくても昔話なら高齢者も延々と続けられる。
昔を思い出すことで、人は自分のアイデンティティが継続していることを
感覚的に理解できる。
「自分がずっと存在していた」ことを思い出すことで
自分の居場所を再確認すれば安心に繋がる。
「生き抜いてきた」という自信や、
「自分はすごい」と思う瞬間が人間には必要である。
「回想法」には、もちろん、嫌なことを思い出させたり、
マイナスの部分もあるかも知れないが、
今のところ、この授業では上手くいっている。
落語には、人生を経てこそ味わえる可笑しみ、豊かさ。
自分の姿をそこに感じ、
それを笑い飛ばすことが、今の自分の肯定に繋がっている。
思い出も、「気のカーソル」の動かし方ひとつ。
「懐古、気で良し」
桂蝶六のホームページ
「ちょっと母ちゃん、台所へ行って、一升瓶を・・・・・・」
「そんなこと言わんと、早よ寝なはれ」「ちょっと一杯だけ」
「早よ寝なはれ」「なあ」
「寝なはれ!」
「・・・・・・なあ、母ちゃん、お前わしと一緒になって何年になる?
そやろ?寝なはれ、言われて、わいが寝ると思うか?
わいを寝かそうと思うたら寝かす言葉、ちゅうのがあるやろ?」
「ほたら、どない言うたらよろし?」
「どない言うたらよろして・・・・・・お父さん、うちはうち、外は外で、
また味の違うもんやそうでございますので、うちらのお酒も一杯
お呑みになってからお休みになったらどうでおますて・・・こない
言われてみい、わいが飲めるか?・・・・・・いや、母ちゃん、明日の朝
も早よおまっさかい、今日のところは寝やしていただきますと、こうなるやろ?」
家でもくだを巻く亭主だが、どこか可愛い。
ぼやきながらも女房は、亭主のために買い物に出る。
亭主は買い物に出た女房の帰りを待ちつつ、独り言。
「わいは口であないな事言うてるけど、
腹の中では、済みません、ありがとぉございます、と思うてんねん。
顔見たら、そういう甘いとこ見せたらいかんとつい・・・・・・
・・・・・・何や?お前、まだそこにおったんか!?」

大阪くらしの今昔館
義太夫好きな男が、見聞きしたものを
即興で浄瑠璃仕立てにして語ってしまう。
「箸取り上げて、お椀のなかぁ、煮干しの頭の浮いたるわぁ、
あやし、か~り~け~る~~~!!」
とうとう男はお膳をひっくり返してしまった。
そこで女房がぽつりと一言。
「何で、こんな人と一緒になったんやろう」。

大阪くらしの今昔館
落語は、どこにでもいるフツーの人のフツーの日常を描いている。
前者は『替わり目』、後者が『豊竹屋』。
どちらもよく好んで高座にかけている。
『豊竹屋』では、「何でこんな人と一緒になったんやろ?」という一言。
これが言いたさに、演っているようなもの。
毎年、秋から春にかけて出講している夜間高校の授業。
ぼくが落語を演じ、その後ちょっとした井戸端会議が始まる。
学生の多くが、年配のオモニたち。
若い頃、色んな事情が重なって就学できなかった。
だから、今ここで学んでいる。例外なく、みなが苦労人である。
「センセ、そらうちのお父ちゃんの話やで」
「うちかて、お父ちゃんが酒飲みでどんだけ苦労させられてきたことか」
「わてとこなんか、もっとひどかったで」
いつもの苦労自慢大会。
落語の話から、次第にどんどんエスカレートし、
口々に昔話を語り出す。
そう言えば昔、うちのじいちゃんからよく
戦時中の話を聞かされたものだ。
当初は、「これでは授業にならない」と警戒したが、
今は、これでいい、と思っている。
落語の時は居眠りしていた若者も、こんな話には興味津々である。
ところで、医師である小山敬子さんは、著書のなかで、
「自分の居場所」の必要性を説いておられる。
今どきのアイドルの話はつづかなくても昔話なら高齢者も延々と続けられる。
昔を思い出すことで、人は自分のアイデンティティが継続していることを
感覚的に理解できる。
「自分がずっと存在していた」ことを思い出すことで
自分の居場所を再確認すれば安心に繋がる。
「生き抜いてきた」という自信や、
「自分はすごい」と思う瞬間が人間には必要である。
![]() | なぜ、「回想療法」が認知症に効くのか(祥伝社新書235) (2011/03/01) 小山敬子 商品詳細を見る |
「回想法」には、もちろん、嫌なことを思い出させたり、
マイナスの部分もあるかも知れないが、
今のところ、この授業では上手くいっている。
落語には、人生を経てこそ味わえる可笑しみ、豊かさ。
自分の姿をそこに感じ、
それを笑い飛ばすことが、今の自分の肯定に繋がっている。
思い出も、「気のカーソル」の動かし方ひとつ。
「懐古、気で良し」
桂蝶六のホームページ