76.「贈与」で送る落語界
師弟関係のいいところっていうのは、生徒にとって
「この先生の最高の面を知っているのは私だけだ」という
幸福な錯覚が敬意を生み出し、学びを起動させるという点にあるんです。
「オレはお前のためにこれだけの贈与をしてやる。オレに感謝しろよな」って
渡すような贈り物はあんまりうまく回らないような気がする。
あっちからパスが来たから、次の人にパスする、
そうするとまた次のパスが来る。そういうふうに流れているんですよ。
弟子の卑少さと、師の教えの偉大さのこの圧倒的な落差に、
弟子は「師の愛」を感じるわけですよ。
こんなに能力も志も低い人間にそこまで求めてくださるのか、と。
先生がぼくにできないような高水準の心と身体の使い方を求められている
ということそのものが、ぼくには先生からの贈り物だったわけです。
この贈り物に対しては、ぼくの側は、とにかく休まず稽古を積み重ねて、
先生の教えの断片なりとも、次世代に伝えねばならない。
それが先生に対する唯一のお返しの仕方である、と。
……内田樹氏の言葉。ぼくは氏の大ファンである。
ところで以前、ぼくは上方落語協会誌「んなあほな」の
「地域寄席探訪コーナーに、こんな原稿を書いた。
昭和47年頃、近鉄沿線若江岩田の駅近くの一軒家の一室。
四十代半ばの男と二十歳すぎの青年が向かい合わせで座っていた。
「べかちゃん、どや、落語するとこあるか?」
「それがなかなかおまへんねん」
べかちゃんとは桂べかこ、つまり現・桂南光師の事。
問いかけているのは今は亡き桂米之助師匠。米朝師匠の兄弟弟子にあたる。
当時、米之助師匠は交通局職員として勤めながらも
若手によく落語の稽古をつけていた。
南光師もやはり米之助宅によく通った一人。
米之助師匠は時折、よくこんな言葉を洩らしていたという。
「一番好きなことで金儲けしとないねん」。
それが落語界から身を引いた本音であろう。
しかし、米之助師匠が
戦後の上方落語界を盛り上げた影の功労者であることは間違いない。
昭和47年といえば
故六代目笑福亭松鶴師匠の肝いりで島之内寄席が発足した年でもある。
とはいえ、まだ年季明けしたばかりの若手には
なかなか出番は回って来なかった。
それを知った米之助師は
「若手のための落語道場を作ろう」と思い立ち
当時の協会会長であった六代目の元へと出向いたのだった。
「よっしゃ、それやったらあいつらにやらしたっとくなはれ」と
指名されたのが、べかこ(現・南光)、春若、米太郎(故人)、米輔、
松葉(故人・七代目松鶴)といった昭和四十五年入門組の面々だった。
こうして「岩田寄席」20年の歴史が始まったのである。
亡くなった桂米太郎師に変わって
桂文福師も途中からレギュラーに加わっている。
若手は皆この会の前座に選ばれることを喜んだ。
出演以外の楽しみがあったのだ。
米之助師匠の自宅で行われる打ち上げでは
師のお手製の肴で時間の許す限り落語談義と酒を楽しんだ。

米之助師匠は博学の文人、粋人でも知られ桂米朝師匠でさえ
「分からん事があったら悦ちゃん(本名)に聴いたらええ」と
一目置くほどだった。
浪花なんでも地名ばなし
上方落語よもやま草紙
大阪ふらり―落語漫歩 (1984年)
「わしの知識を皆が広めてくれたらそれでええ。
こんなもん、わしが一人で持っててもしゃあない」が口癖だった。
当時の若手の中で特に世話になったという桂春若師は、
とても懐かしそうにこう語った。
「東の旅の暗がり峠はもちろん、西の旅の明石にも、
それに天王寺さんから高津さん、咄に関係あるとこへよう連れてもうたで。
落語を演るにはその背景もちゃんと知っとかないかんちゅうてな。
ずいぶん稽古もつけてもろたし、けど、忘れてしもた事も仰山あるんや。
あれ思い出してお前はんらにもちゃんと伝えとかんとあかんねんけどなあ・・」
地域寄席としては現在一番老舗の「田辺寄席」は
「岩田寄席」の翌年に誕生している。
「岩田寄席」が地域寄席ブームの牽引役になったのは間違いない。
そんな「岩田寄席」も二百四十回を重ね平成四年に幕を下ろした。
二十年間というのは当初から決めていたことだった。
それからやがて米之助師匠は
その実績や豊富な知識を買われて(財)平野区画整理記念会館から
講演の依頼を受けるようになった。
それが何度か続き米之助師匠が
当時の館長だった島津氏にこう切り出したのである。
「わしの講演より若手のためにも落語会を開いたってくれへんかいな」。
それが今の「ひらの寄席」である。
今は春若師や米輔師らが米之助師匠の遺志を引き継いでいる。
ある師匠がラジオの落語番組で六代目松鶴師匠についてこう応えていた。
「六代目で一番印象に残っている言葉でっか?……そうでんなあ。
己のことしか考えられんような奴は落語家になるな、ちゅう一言ですかな」。
四天王ら同様に、米之助師匠も同じような思いであったろう。
その伝承が今も落語界を支えている。
定席もできて環境もずいぶん良くなった上方落語界だが、
これまでずっとその底辺を支え続けてきた地域寄席の役割も
まだまだ終わってはいない。
(2010年1月)
ところで、ある師匠が、ぼくにこんなことをおっしゃった。
「この世界ではな、金は上から下へ流れていくねん。
下から上には流れていけへん。それがええとこやと思う。
受けた恩は、下に返すんやで」。
ぼくもそう思う。
……思えば、上方落語界をこれまで支えてきたものは、
見返りを求めない、素敵な「贈与」の関係ではなかったか。
気づけば、ぼくも、キャリアだけは上から数えた方が早くなった。
流すほどの金はない。流すほどの才覚もない。
これが悩みの種だ。
住み込ませてもらって、飯を食わせてもらって、
芸の手ほどきをしてもらって、着物をもらって、
ずっと気にかけてもらって、
ぼくは、師匠から、ずっと貰いっぱなし。
「贈与、花よと育てられ」
桂蝶六のホームページ
第7回「愚か塾・落語発表会」6月1日(土)12時50分より
高津神社にて、500円。
塾生や、蝶六による落語と大喜利。終演予定16時頃。
「この先生の最高の面を知っているのは私だけだ」という
幸福な錯覚が敬意を生み出し、学びを起動させるという点にあるんです。
「オレはお前のためにこれだけの贈与をしてやる。オレに感謝しろよな」って
渡すような贈り物はあんまりうまく回らないような気がする。
あっちからパスが来たから、次の人にパスする、
そうするとまた次のパスが来る。そういうふうに流れているんですよ。
弟子の卑少さと、師の教えの偉大さのこの圧倒的な落差に、
弟子は「師の愛」を感じるわけですよ。
こんなに能力も志も低い人間にそこまで求めてくださるのか、と。
先生がぼくにできないような高水準の心と身体の使い方を求められている
ということそのものが、ぼくには先生からの贈り物だったわけです。
この贈り物に対しては、ぼくの側は、とにかく休まず稽古を積み重ねて、
先生の教えの断片なりとも、次世代に伝えねばならない。
それが先生に対する唯一のお返しの仕方である、と。
……内田樹氏の言葉。ぼくは氏の大ファンである。
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ところで以前、ぼくは上方落語協会誌「んなあほな」の
「地域寄席探訪コーナーに、こんな原稿を書いた。
昭和47年頃、近鉄沿線若江岩田の駅近くの一軒家の一室。
四十代半ばの男と二十歳すぎの青年が向かい合わせで座っていた。
「べかちゃん、どや、落語するとこあるか?」
「それがなかなかおまへんねん」
べかちゃんとは桂べかこ、つまり現・桂南光師の事。
問いかけているのは今は亡き桂米之助師匠。米朝師匠の兄弟弟子にあたる。
当時、米之助師匠は交通局職員として勤めながらも
若手によく落語の稽古をつけていた。
南光師もやはり米之助宅によく通った一人。
米之助師匠は時折、よくこんな言葉を洩らしていたという。
「一番好きなことで金儲けしとないねん」。
それが落語界から身を引いた本音であろう。
しかし、米之助師匠が
戦後の上方落語界を盛り上げた影の功労者であることは間違いない。
昭和47年といえば
故六代目笑福亭松鶴師匠の肝いりで島之内寄席が発足した年でもある。
とはいえ、まだ年季明けしたばかりの若手には
なかなか出番は回って来なかった。
それを知った米之助師は
「若手のための落語道場を作ろう」と思い立ち
当時の協会会長であった六代目の元へと出向いたのだった。
「よっしゃ、それやったらあいつらにやらしたっとくなはれ」と
指名されたのが、べかこ(現・南光)、春若、米太郎(故人)、米輔、
松葉(故人・七代目松鶴)といった昭和四十五年入門組の面々だった。
こうして「岩田寄席」20年の歴史が始まったのである。
亡くなった桂米太郎師に変わって
桂文福師も途中からレギュラーに加わっている。
若手は皆この会の前座に選ばれることを喜んだ。
出演以外の楽しみがあったのだ。
米之助師匠の自宅で行われる打ち上げでは
師のお手製の肴で時間の許す限り落語談義と酒を楽しんだ。

米之助師匠は博学の文人、粋人でも知られ桂米朝師匠でさえ
「分からん事があったら悦ちゃん(本名)に聴いたらええ」と
一目置くほどだった。
浪花なんでも地名ばなし
上方落語よもやま草紙
大阪ふらり―落語漫歩 (1984年)
「わしの知識を皆が広めてくれたらそれでええ。
こんなもん、わしが一人で持っててもしゃあない」が口癖だった。
当時の若手の中で特に世話になったという桂春若師は、
とても懐かしそうにこう語った。
「東の旅の暗がり峠はもちろん、西の旅の明石にも、
それに天王寺さんから高津さん、咄に関係あるとこへよう連れてもうたで。
落語を演るにはその背景もちゃんと知っとかないかんちゅうてな。
ずいぶん稽古もつけてもろたし、けど、忘れてしもた事も仰山あるんや。
あれ思い出してお前はんらにもちゃんと伝えとかんとあかんねんけどなあ・・」
地域寄席としては現在一番老舗の「田辺寄席」は
「岩田寄席」の翌年に誕生している。
「岩田寄席」が地域寄席ブームの牽引役になったのは間違いない。
そんな「岩田寄席」も二百四十回を重ね平成四年に幕を下ろした。
二十年間というのは当初から決めていたことだった。
それからやがて米之助師匠は
その実績や豊富な知識を買われて(財)平野区画整理記念会館から
講演の依頼を受けるようになった。
それが何度か続き米之助師匠が
当時の館長だった島津氏にこう切り出したのである。
「わしの講演より若手のためにも落語会を開いたってくれへんかいな」。
それが今の「ひらの寄席」である。
今は春若師や米輔師らが米之助師匠の遺志を引き継いでいる。
ある師匠がラジオの落語番組で六代目松鶴師匠についてこう応えていた。
「六代目で一番印象に残っている言葉でっか?……そうでんなあ。
己のことしか考えられんような奴は落語家になるな、ちゅう一言ですかな」。
四天王ら同様に、米之助師匠も同じような思いであったろう。
その伝承が今も落語界を支えている。
定席もできて環境もずいぶん良くなった上方落語界だが、
これまでずっとその底辺を支え続けてきた地域寄席の役割も
まだまだ終わってはいない。
(2010年1月)
ところで、ある師匠が、ぼくにこんなことをおっしゃった。
「この世界ではな、金は上から下へ流れていくねん。
下から上には流れていけへん。それがええとこやと思う。
受けた恩は、下に返すんやで」。
ぼくもそう思う。
……思えば、上方落語界をこれまで支えてきたものは、
見返りを求めない、素敵な「贈与」の関係ではなかったか。
気づけば、ぼくも、キャリアだけは上から数えた方が早くなった。
流すほどの金はない。流すほどの才覚もない。
これが悩みの種だ。
住み込ませてもらって、飯を食わせてもらって、
芸の手ほどきをしてもらって、着物をもらって、
ずっと気にかけてもらって、
ぼくは、師匠から、ずっと貰いっぱなし。
「贈与、花よと育てられ」
桂蝶六のホームページ
第7回「愚か塾・落語発表会」6月1日(土)12時50分より
高津神社にて、500円。
塾生や、蝶六による落語と大喜利。終演予定16時頃。
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