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7.書くということ

教授がこんな話をして下さった。
「私にも師匠がいましてね、その師匠によく言われたものです。
とにかくまず楷書で“文章”が書けるようになりなさいって。
書けるようになれば話すのが上手くなる。書ける人は話が上手い。
でも、話すのが上手だからといって書くのが上手いとは限らないって」。


この住岡英毅教授の専門は教育社会学で、
私を大学に推してくれた大恩人であり上司でもある。
だが、その一方では私の主宰する落語塾の稽古人の一人として
月に二回ほど我が家に通ってくれている。
つまり場所が変わると立場が逆転する間柄でもある。
稽古場ではいつもこんな調子で茶飲み話が始まる。

ところで、いつだったか何かの打ち合わせをしていて
不意に落語家のある先輩からこんな事を言われたことがある。
「蝶六は作文が下手やろう?」
その時はつい若気の至りで
売り言葉に買い言葉の愚行に出てしまった。
「何でそんな事が兄さんに分かるんですか?
僕の作文を読んだことあるんですか?」

気色ばんだ私にその先輩は穏やかにこう応えた。
「いや、お前のその話ぶりを聞いてたらよう分かるがな」。

・・・教授の話を伺いながら私はそんな出来事を思い起こしていた。
“書く”という行為は、
“自身の知識をアウトプットする”という行為でもある。
“話す”という行為に繋がらないわけがない。
その先輩は私の支離滅裂な話ぶりに苦言を呈すつもりでそう言ったのだ。

そう言えば以前、住岡教授をよく知る人からこんな話を伺った。
「教授の授業はね、
その講義をそっくりそのまま文章に書き起こしてみるといいですよ。
それは実に分かり良いよく出来た文章になっています。
先生の講義はそのまま本にできると学生の間でも評判になっています」。

私は年に一度、放送大学というところで
授業をご一緒させてもらう機会があるので
このことがとてもよく分かる。
適度に間を取りながら一語々々言葉を選ぶように
話を進めていくといった話しぶりが目に浮かぶ。
そんな教授の授業の進め方にはフレームみたいなものがあって、
それは“問いかけと回答”という“型”である。

まず、“問いかけ”をしてから学生に考える“間”を与える。
それはちょっと息を詰める程度の“間”であったり、
じっくり思案させる“間”であったり、
いずれにせよその思案に応えるような形で次の言葉に移っていく。
難解な言葉にこちらが理解できずにいる時には
それを見透かしたようにそれに対する回答がすっと返ってくる。
そう考えると、教授の講義は落語の手法にとてもよく似ている。
どこかクイズ形式である。

“思考”という行程を経なければ
「分かった!」とか「ああ、なるほど!」という
“気づき”が生まれないだろうし、
知的快感=学ぶ楽しさには
“思考”と“気づき”の両立が欠かせない。
そう考えると、講義も落語もさらにクイズの楽しさも
根っこは同じところにある。
こちらの持っている知識を単に垂れ流すだけに終わるのか、
それともちゃんと相手にも考えさせながら話を進めるのか。

話を戻そう。さて、“書く”という行為は、
自分の考えや思いを紙の上に落とすということである。
紙の上に落とすことで
自分の考えを客観的に眺めることができる。
主観のみで話されては、
聞く側として迷惑このうえないだろうし、
そういう意味においてもメッセージを伝える身として
“書く”ことは絶対欠かせない。

講義の冒頭の話題(マクラ)は?
思案のための問いかけは?
聴き手が理解に苦しみそうな箇所は?
話の落としどころは?
・・・ それと“思考”と“気づき”を生むための構成。

こうした作戦会議は “書く”という行為から始まる。

「書けるようになれば話すのが上手くなる」
ということを教授は私に教えてくれたが、

本当は「書かなければ怖くて教壇や高座になんか上がれない」のである。(了)
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蝶六改メ三代目桂花團治

Author:蝶六改メ三代目桂花團治
落語家・蝶六改め、三代目桂花團治です。「ホームページ「桂花團治~蝶のはなみち~」も併せてご覧ください。

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