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8.聴く・学ぶ

一面において物事の道理に暗いのは、
かならず他面において物事の道理に明るいからである。
一面において物事の道理に目を塞がれているのは、
かならず他面において物事の道理に通じているからである。
一一(部分としてのありかた)は、そうなるほかはない。
そもそも、ひとが生きていけば、かならず習慣に染まる。
習慣に染まれば、その生地を見失う。
そのばあい、習慣のせいで物事の道理に暗いのは、学問によって治療できるが、
学問のせいで物事の道理に暗いのは、おそらく治療法がない。
染めるのはやさしいが、生地にかえすのはむずかしい。
暗くするのはやさしいが、元にもどすのはむずかしい。
(三浦梅園“玄語”より)

 兄弟子に稽古をつけてもらっていてこんな事を言われた。
「お前、わしから(芸を)貰う気があるか?稽古に来るんやったら、
わしの全てを取るつもりでやらんかい!」。
この言葉はまさに図星で、
その時私は稽古をつけて頂いている身でありながら少し良からぬことを考えていた。

「兄弟子はこう演じているが、自分はこうしよう」である。
これほど相手に対して失礼なこともあるまい。
稽古というものは相手の全てをまず全部受け取るところから始まる。
相手の芸を残らず自分の身体に入れてしまうこと。
これが稽古をつけてもらう者として最低の心構えだ。

そのうえでどうしても自分に馴染まないところが出てくる。
これが“個性”というもの。
個性は作るものではなく滲み出てくるものだ。

思えば師匠に対しても私は失礼であった。
なまじ学生時代に素人落語をやっていた私には妙な自信があった。
「私は同期よりはちょっとは(落語について)知っている」である。
けれども師匠は全てお見通しで諭すように私にこうおっしゃった。

「ええか、学ぶというのは“羽に白い”と書くねん。
真っ白な気持ちで稽古せないかん」。

白状すれば私は落語オタクに対してあまりいい印象を持っていないが、
それは私のそういった過去とかぶさって見えるからかも知れない。
知識や論説を一方的にただ朗々と並べ立てるといった
“不遜で知ったかぶり”な態度はかつての私の姿でもあった。

 我が家で催す宴会ではその都度テーマに即して
様々なゲストにも参加してもらっている。
いわゆるブレスト会議のようなものである。

先日は最近はまっている松岡正剛の書に因んで、
「日本という方法」を話題のテーマに掲げることにした。

大学教授の他、在日外国人の諸問題を扱うNGO団体の職員にも
ご足労願った。
その時、私自身とても勉強になったのは
その内容もさることながら
個々の対話における姿勢であった。

たとえ主義主張が違おうとも
互いに真摯に相手の話を聴こうという姿勢は全員に貫かれていた。

論客ほど人の話をよく聴き、
またしっかり聴くからこそ話の流れにも添っていて内容も的を得ている。

参加者全員が“話し上手は聴き上手”の
いいお手本となり心地の良い会合となった。

そう言えば、先日出席した講演でも講師がこんな事をおっしゃっていた。
「私はね、鼻から相手を論破しようなんて、これっぽっちも思っていません。
まず聴かなきゃ。相手の立場を分からなきゃ、話が見えてこない」。

そう言ってホワイトボードに記したのは“認”という一文字だった。
「認めるはね、言うに忍ぶなんですよ」。
その講師は関西メディアではかなり高名な論客で“怒りのヤマケン”などと呼ばれている方だ。

 「俺は正しい」「俺は知っている」という姿勢からは何も学べない。
「俺は偉いんだ」「とにかく俺の話を聴け」という態度では
得るべき情報からも遠ざかる。

私も歳を重ね、後輩や若い稽古人が通ってくるようになった。
今、この事をしっかりもう一度胸に刻み込もうと思う。
三浦梅園を読むうち、
いつしか私の頭の中では“裸の王様”が歩いていた。(了)
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蝶六改メ三代目桂花團治

Author:蝶六改メ三代目桂花團治
落語家・蝶六改め、三代目桂花團治です。「ホームページ「桂花團治~蝶のはなみち~」も併せてご覧ください。

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