89.弟子の決断・師匠の覚悟
当時、奥様は35歳。
そこへ20歳の素性の分からぬ、
得体も知れぬ男が
いきなり生活のなかに転がり込んできた。
長男は小学1年生、
長女は幼稚園に通い出したばかり。
それでも、奥様はとても温かく男を迎え入れ、
行儀や礼儀作法の一から教え始めた。
「この世界はね、晩に会っても、おはようございます」
「部屋に入ったら、こっちが上手で、こっちが下手」
「カミのものとシモのものを一緒にしたらダメ!」
「掃除はちゃんと畳の目に添って当てなきゃ」
米の研ぎ方、味噌汁の出汁の取り方、林檎の皮のむき方、
赤貝をパンパンすること、水撒きの要領、鏡餅の供え方、
着物の畳み方、アイロンの当て方、返事の仕方・・・・・・
・・・・・・お察しの通り、男とは、ぼくのことである。
ぼくは、しばらくの通いを経て後、
晴れて住み込みの身となった。
「住み込みって、大変だったでしょう」と、よく他人に言われる。
でも、ぼくにとって、この師匠宅は結構居心地のいい場所であった。
確かにいつも緊張をどこか引きずってはいた。
しかし、それよりも
師匠の傍にずっといられる喜びの方がはるかに勝っていた。
今思えば、本当に大変だったのは、
奥様であり、師匠であり、子どもたち。
家族団らんの場をぼくが奪った。それも否めない事実。

25年前のぼく
ぼくが、住み込みをしていて一番辛かったこと。
それは、ぼくが原因で引き起こされた夫婦喧嘩。
「ちょっと聞いてよ、今日、蝶六さんがね」と奥さん。
「まあまあ……」と、奥さんの憤りをなだめにかかる師匠。
逆に、師匠をしくじった時には、
いつも奥さんがぼくを庇ってくれていた。
二人はまるで示し合わせたかのように、
ぼくに対し、両極の態度を取るのが常であった。
これが阿吽の呼吸というものか。
ぼくが、住み込みをしていた頃の息抜き。
それは、買い物と犬の散歩。
近くにあった亥の子谷センターに出かける。
肉屋に向かうと、そのままそこの厨房に入り、
自分専用の置き煙草を手に、肉屋の裏口で煙を吹かせた。
肉屋のおっちゃんは、いつもぼくを応援してくれた。
ちなみに、うちの一門では内弟子の間、喫煙を堅く禁じられていた。
師匠の家では、
『101匹わんちゃん』でおなじみのダルメシアンのメス犬を飼っていた。
ぼくが疲れている時ほど彼女の散歩時間は異常に増えた。
やがて、年季が明けたぼくは、師匠宅から徒歩20分、
木造モルタル風呂なし、築30年のボロアパートに一室を構えた。
金もなく、腹が減って仕方がないとき、
ぼくはよく師匠宅へ出向いたものだった。
「あら、蝶六さん、久しぶりやんか」と奥さん。
それからぼくは、庭の掃除をし、窓ガラスを拭き始めた。
「そんなこと、せんでええのに」と奥さん。
「いえ、ここはぼくがやらんと、拭けませんでしょ」。
やがて、師匠が寝室からリビングへ降りてくる。
ぼくを見て、
「ちゃんと食えてるかぁ…」という一言。
そうして、ぼくは久しぶりのご馳走にありつき、
おまけに、車代まで頂戴した。
「今日はタクシーで帰り」
ぼくは、来た道をまた歩いて帰っていった。

ぼくの師匠、故・桂春蝶
つい先日、繁昌亭の楽屋。
ぼくは、今の春蝶くん(師匠の息子)に、
師匠の演じた『御先祖さま』という咄について尋ねていた。
「親父のあの咄な、どうしても思い出されへん部分があるんや」
春蝶くんは、覚えている限りのことをぼくに教えてくれた。
その様子を少し離れたところから見ておられた八方師匠。
「蝶六が入門したとき、春蝶くんはもう生まれてたんかいなあ?」。
「ぼくが入門したとき、こいつが小学1年ですわ」
「ほたら、春蝶くんの小さい時分から君はよう知ってるわけや」
「知ってるも何も、ぼくはこいつにずいぶんエライ目に合わされて」
「どういうこっちゃ?」
「毎朝、こいつの布団を干すのが、日課の始まりですわ。
小便を吸うてるさかい、これがめちゃくちゃ重たいんですわ。
それで、こいつの部屋を片づけると、
その尻から、また、散らかしてまわりまんねん。
師匠の息子やなかったら、ほんま、どついてましたで」
……あの時のことが、全て楽しい思い出。笑いばなし。
師匠と出会わなかったら、
今ごろ、ぼくはどうしていただろう。
この奥さんじゃなかったら、
ぼくはいったいどうなっていただろう。
多くの咄家が、きっと同じような思いでいる。
先日、阿倍野の斎場で営まれた笑福亭松喬師匠の告別式。
そこに居並んでいた松喬師匠の家族、弟子や孫弟子・・・・・・
そんなことから、ぼくは今、こんな駄文を綴っている。


松喬師匠が遺した作品。味があって、優しくて・・・・・・
弟子は「この人」と決めて、
この世界に入ってくる。
師匠は「これも役目」と覚悟して、
弟子を迎え入れる。
弟子の決断・師匠の覚悟
「育てる」というより「背負う」。
昭和54年に大竹まこと、きたろう、斎木しげるによるコントユニット
『シティーボーイズ』が結成されている。
ぼくが入門した昭和57年、世間ではお洒落で垢抜けた若者が闊歩していた。
DCブランドという言葉が定着し始めたのもあの頃だった。
でも、金のないぼくはいつも着たきり雀を通していた。
ぼくは、「シティーボーイ」という存在からは程遠い位置にいたが、
誇りだけは人一倍もっていたつもり。
「師弟ボーイとは、おれのことだ!!!」
桂蝶六のホームページ
桂蝶六へのインタビュー記事
そこへ20歳の素性の分からぬ、
得体も知れぬ男が
いきなり生活のなかに転がり込んできた。
長男は小学1年生、
長女は幼稚園に通い出したばかり。
それでも、奥様はとても温かく男を迎え入れ、
行儀や礼儀作法の一から教え始めた。
「この世界はね、晩に会っても、おはようございます」
「部屋に入ったら、こっちが上手で、こっちが下手」
「カミのものとシモのものを一緒にしたらダメ!」
「掃除はちゃんと畳の目に添って当てなきゃ」
米の研ぎ方、味噌汁の出汁の取り方、林檎の皮のむき方、
赤貝をパンパンすること、水撒きの要領、鏡餅の供え方、
着物の畳み方、アイロンの当て方、返事の仕方・・・・・・
・・・・・・お察しの通り、男とは、ぼくのことである。
ぼくは、しばらくの通いを経て後、
晴れて住み込みの身となった。
「住み込みって、大変だったでしょう」と、よく他人に言われる。
でも、ぼくにとって、この師匠宅は結構居心地のいい場所であった。
確かにいつも緊張をどこか引きずってはいた。
しかし、それよりも
師匠の傍にずっといられる喜びの方がはるかに勝っていた。
今思えば、本当に大変だったのは、
奥様であり、師匠であり、子どもたち。
家族団らんの場をぼくが奪った。それも否めない事実。

25年前のぼく
ぼくが、住み込みをしていて一番辛かったこと。
それは、ぼくが原因で引き起こされた夫婦喧嘩。
「ちょっと聞いてよ、今日、蝶六さんがね」と奥さん。
「まあまあ……」と、奥さんの憤りをなだめにかかる師匠。
逆に、師匠をしくじった時には、
いつも奥さんがぼくを庇ってくれていた。
二人はまるで示し合わせたかのように、
ぼくに対し、両極の態度を取るのが常であった。
これが阿吽の呼吸というものか。
ぼくが、住み込みをしていた頃の息抜き。
それは、買い物と犬の散歩。
近くにあった亥の子谷センターに出かける。
肉屋に向かうと、そのままそこの厨房に入り、
自分専用の置き煙草を手に、肉屋の裏口で煙を吹かせた。
肉屋のおっちゃんは、いつもぼくを応援してくれた。
ちなみに、うちの一門では内弟子の間、喫煙を堅く禁じられていた。
師匠の家では、
『101匹わんちゃん』でおなじみのダルメシアンのメス犬を飼っていた。
ぼくが疲れている時ほど彼女の散歩時間は異常に増えた。
やがて、年季が明けたぼくは、師匠宅から徒歩20分、
木造モルタル風呂なし、築30年のボロアパートに一室を構えた。
金もなく、腹が減って仕方がないとき、
ぼくはよく師匠宅へ出向いたものだった。
「あら、蝶六さん、久しぶりやんか」と奥さん。
それからぼくは、庭の掃除をし、窓ガラスを拭き始めた。
「そんなこと、せんでええのに」と奥さん。
「いえ、ここはぼくがやらんと、拭けませんでしょ」。
やがて、師匠が寝室からリビングへ降りてくる。
ぼくを見て、
「ちゃんと食えてるかぁ…」という一言。
そうして、ぼくは久しぶりのご馳走にありつき、
おまけに、車代まで頂戴した。
「今日はタクシーで帰り」
ぼくは、来た道をまた歩いて帰っていった。

ぼくの師匠、故・桂春蝶
つい先日、繁昌亭の楽屋。
ぼくは、今の春蝶くん(師匠の息子)に、
師匠の演じた『御先祖さま』という咄について尋ねていた。
「親父のあの咄な、どうしても思い出されへん部分があるんや」
春蝶くんは、覚えている限りのことをぼくに教えてくれた。
その様子を少し離れたところから見ておられた八方師匠。
「蝶六が入門したとき、春蝶くんはもう生まれてたんかいなあ?」。
「ぼくが入門したとき、こいつが小学1年ですわ」
「ほたら、春蝶くんの小さい時分から君はよう知ってるわけや」
「知ってるも何も、ぼくはこいつにずいぶんエライ目に合わされて」
「どういうこっちゃ?」
「毎朝、こいつの布団を干すのが、日課の始まりですわ。
小便を吸うてるさかい、これがめちゃくちゃ重たいんですわ。
それで、こいつの部屋を片づけると、
その尻から、また、散らかしてまわりまんねん。
師匠の息子やなかったら、ほんま、どついてましたで」
……あの時のことが、全て楽しい思い出。笑いばなし。
師匠と出会わなかったら、
今ごろ、ぼくはどうしていただろう。
この奥さんじゃなかったら、
ぼくはいったいどうなっていただろう。
多くの咄家が、きっと同じような思いでいる。
先日、阿倍野の斎場で営まれた笑福亭松喬師匠の告別式。
そこに居並んでいた松喬師匠の家族、弟子や孫弟子・・・・・・
そんなことから、ぼくは今、こんな駄文を綴っている。


松喬師匠が遺した作品。味があって、優しくて・・・・・・
弟子は「この人」と決めて、
この世界に入ってくる。
師匠は「これも役目」と覚悟して、
弟子を迎え入れる。
弟子の決断・師匠の覚悟
「育てる」というより「背負う」。
昭和54年に大竹まこと、きたろう、斎木しげるによるコントユニット
『シティーボーイズ』が結成されている。
ぼくが入門した昭和57年、世間ではお洒落で垢抜けた若者が闊歩していた。
DCブランドという言葉が定着し始めたのもあの頃だった。
でも、金のないぼくはいつも着たきり雀を通していた。
ぼくは、「シティーボーイ」という存在からは程遠い位置にいたが、
誇りだけは人一倍もっていたつもり。
「師弟ボーイとは、おれのことだ!!!」
桂蝶六のホームページ
桂蝶六へのインタビュー記事
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