91.こぼれるものわらいをつかむ ”川柳と落語”考
「脱ぐ・吐く・こぼれる」
これ、まさに「落語の世界」そのものだった。

画・おおしろ晃
……東映の『任侠路線』がもてはやされた昭和40年頃。
男はその世界に感化されてしまった。
喧嘩が強いわけでもない。どちらかといえば華奢で気弱な男。
彼は映画のなかの高倉健に魅入られたのだ。
銭湯への道すがら、男は一人の女性に呼び止められた。
「お兄さん、風呂行きのお兄さん」
「へっ、あっしの事でやすかい」
二枚目を気取りつ振り返ってみると、
そこには目も覚めるような絶世の和服美女の姿。
「こういうシーンは映画でもよう見るで。
わいが高倉健で、向こうが藤純子てなもんや。
……けど、男がおなごにジャラジャラしているようではあかん。
スパッと断ち切る。これぞ男の道、任侠道というもんや。
……おっと姉さん、寄っちゃいけねえ、
このままそっと行かしてやっておくんなせえ」。
すると件の女性が「石鹸落としてますよ」。
故二代目桂春蝶が遺した『昭和任侠伝』の一コマ。
人生は赤っ恥の連続だ。
……国営のぜんざい屋が誕生した。
「すみません、ぜんざい食べたいんですが……」
「この突き当たりに窓口がありますので」
手続きを済ませ、元の窓口へ戻ると、
今度は銀行の窓口へ行かされる。
男は言われるがまま、役所のなかをたらい回し。
「餅はちゃんと焼いとくなはれ」
「……ただ、お焼きになりますというと消防局の許可が…」
「ほな、生でかじるわ」
「では、保健所で健康診断を」
これは、『ぜんざい公社』の一コマ。
やはり、故・二代目春蝶が好んでよくかけた咄である。
翻弄される男は、言いたいこともはっきり言えず、
その憤りを露わにしてぶつけるというようなこともない。
ここにペーソス=哀愁というものが生まれる。
情けなくもあり、切なくもあり……心の吐露。
故・二代目春蝶落語の真骨頂はこんなところにあった。

ところで、冒頭の「脱ぐ・吐く・こぼれる」は、
川柳作家・高鶴礼子先生から教わった。
「川柳における三つの大事」である。
「川柳界の与謝野晶子」時実新子に学んでいる。
川柳会を指導する傍ら、男女共同参画や人権フォーラムの講師、
忙しい毎日を送っておられる。

高鶴礼子先生と、海外クルーズの船中にて
「脱ぐ」とは、自分を晒け出す、本音を晒すということ。
「吐く」とは、素材を生のまま並べるのではなく、
書こうとする対象をいったん呑み込み、
よく消化して吐き戻すということ。
呑み込みが浅いと浅い句しか生まれない。
深く呑めば呑むほど深い句が生まれる。
「こぼれる」とは、心の中に貯まった感情が
何かのきっかけでこぼれ始めるのを捕まえて書く、
机の上の捉え事ではなく心を動かして書くということ。
高鶴礼子先生の発行する『ノエマ・ノエシス』より2作ほど
紹介しておきたい。(解説は、高鶴先生)
「長いことバンザイだけはしなかった 北川弘子」
出征兵士を送るバンザイであろう。
お国のために、と征く兵隊さんを
何の疑いもなくバンザイと見送った日の記憶が
作者の中に忸怩たる思いを残している。
世相ゆえ、仕方なかったと言おうと思えば
いくらでも言ってしまえそうなところをそうせず、
作者はしっかりと自分を見つめている。
「その人の子どもにあげるカブト虫 近藤ゆかり」
好きになってはいけない人を好きになってしまった女の人の気持ち。
カブト虫を子どもにあげるという何という事もない所作が
「その人の」と切り出すことで切ないドラマを感じさせるものとなる。
自嘲がさそう共感の笑い。省略の美学。
「押し」芸ではなく、「引き」(惹き)芸。
全てを語りきらず、
お客の「気」を呼び込む余地を残すことの大事。
落語の道は、そのまま川柳の道にも通じていた。
腹に押さえた「憤り」が、
「困り」や「呆れ」といった感情として、
ほろりと男の口からこぼれる。
哀愁から生まれる共感の笑い。
「こぼれるモノ、笑いをつかむ」
桂蝶六のホームページ
これ、まさに「落語の世界」そのものだった。

画・おおしろ晃
……東映の『任侠路線』がもてはやされた昭和40年頃。
男はその世界に感化されてしまった。
喧嘩が強いわけでもない。どちらかといえば華奢で気弱な男。
彼は映画のなかの高倉健に魅入られたのだ。
銭湯への道すがら、男は一人の女性に呼び止められた。
「お兄さん、風呂行きのお兄さん」
「へっ、あっしの事でやすかい」
二枚目を気取りつ振り返ってみると、
そこには目も覚めるような絶世の和服美女の姿。
「こういうシーンは映画でもよう見るで。
わいが高倉健で、向こうが藤純子てなもんや。
……けど、男がおなごにジャラジャラしているようではあかん。
スパッと断ち切る。これぞ男の道、任侠道というもんや。
……おっと姉さん、寄っちゃいけねえ、
このままそっと行かしてやっておくんなせえ」。
すると件の女性が「石鹸落としてますよ」。
故二代目桂春蝶が遺した『昭和任侠伝』の一コマ。
人生は赤っ恥の連続だ。
……国営のぜんざい屋が誕生した。
「すみません、ぜんざい食べたいんですが……」
「この突き当たりに窓口がありますので」
手続きを済ませ、元の窓口へ戻ると、
今度は銀行の窓口へ行かされる。
男は言われるがまま、役所のなかをたらい回し。
「餅はちゃんと焼いとくなはれ」
「……ただ、お焼きになりますというと消防局の許可が…」
「ほな、生でかじるわ」
「では、保健所で健康診断を」
これは、『ぜんざい公社』の一コマ。
やはり、故・二代目春蝶が好んでよくかけた咄である。
翻弄される男は、言いたいこともはっきり言えず、
その憤りを露わにしてぶつけるというようなこともない。
ここにペーソス=哀愁というものが生まれる。
情けなくもあり、切なくもあり……心の吐露。
故・二代目春蝶落語の真骨頂はこんなところにあった。

ところで、冒頭の「脱ぐ・吐く・こぼれる」は、
川柳作家・高鶴礼子先生から教わった。
「川柳における三つの大事」である。
「川柳界の与謝野晶子」時実新子に学んでいる。
川柳会を指導する傍ら、男女共同参画や人権フォーラムの講師、
忙しい毎日を送っておられる。

高鶴礼子先生と、海外クルーズの船中にて
「脱ぐ」とは、自分を晒け出す、本音を晒すということ。
「吐く」とは、素材を生のまま並べるのではなく、
書こうとする対象をいったん呑み込み、
よく消化して吐き戻すということ。
呑み込みが浅いと浅い句しか生まれない。
深く呑めば呑むほど深い句が生まれる。
「こぼれる」とは、心の中に貯まった感情が
何かのきっかけでこぼれ始めるのを捕まえて書く、
机の上の捉え事ではなく心を動かして書くということ。
高鶴礼子先生の発行する『ノエマ・ノエシス』より2作ほど
紹介しておきたい。(解説は、高鶴先生)
「長いことバンザイだけはしなかった 北川弘子」
出征兵士を送るバンザイであろう。
お国のために、と征く兵隊さんを
何の疑いもなくバンザイと見送った日の記憶が
作者の中に忸怩たる思いを残している。
世相ゆえ、仕方なかったと言おうと思えば
いくらでも言ってしまえそうなところをそうせず、
作者はしっかりと自分を見つめている。
「その人の子どもにあげるカブト虫 近藤ゆかり」
好きになってはいけない人を好きになってしまった女の人の気持ち。
カブト虫を子どもにあげるという何という事もない所作が
「その人の」と切り出すことで切ないドラマを感じさせるものとなる。
自嘲がさそう共感の笑い。省略の美学。
「押し」芸ではなく、「引き」(惹き)芸。
全てを語りきらず、
お客の「気」を呼び込む余地を残すことの大事。
落語の道は、そのまま川柳の道にも通じていた。
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腹に押さえた「憤り」が、
「困り」や「呆れ」といった感情として、
ほろりと男の口からこぼれる。
哀愁から生まれる共感の笑い。
「こぼれるモノ、笑いをつかむ」
桂蝶六のホームページ
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