96.1000人の謡い SARUGAKU祭2
「私の稽古場でやってもいいんですけどね、
ここでお稽古していると、
お蕎麦を食べに来られた方が
ちょいちょい覗きに来られる。
それから稽古人になられる方も多いんですよ」
そう言って、水田先生は悪戯っぽい笑顔を浮かべられた。
JR東西線・鴫野の駅から3分ほど。
ちょっと奥まったところに手打ち蕎麦のお店がある。
かなり大きなお屋敷だ。
手入れの行き届いた庭を眺めながら食べるお蕎麦は絶品である。
ぼくが通されたのは、
その屋敷の一番奥にある蔵のような小部屋であった。
水田先生とぼくは向かい合って腰掛けた。


少し前まで、ぼくはかなり不真面目ながらも、
狂言の稽古を20年ほどちょっとだけかじらせてもらっていた。
所々の事情からそこを離れることになってしまったが、
今もこういうお稽古ごとには大層未練がある。
そんなこともあって、今回の「お謡い」は、
ぼくにとって、ずっと待ち望んでいたことだった。
生の声の力。
豊かな声がこの屋敷の風情にとてもよく似合っていた。
蕎麦をすする音ともマッチする。
その心地よさは、まず聞いてもらうに限るが。
先生のお稽古は、一言で申し上げるなら、
「痒いところに手が届く」といった感じだった。
「そうそう、そこんところ、
思わずそう行っちゃうでしょ。
だから、そこを我慢して、こんな具合に・・・・・・
そう、アを足してみる」
こちらがやりにくいなと思った箇所での的確なアドバイス。
ひょっとして、この先生自身が元々不器用で
これまでかなり苦労されて来られたのか知らんと
ついそんな失礼なことまで想像してしまった。
ぼくがこの稽古場に来たのは、地元の催しがきっかけだった。
『SARUGAKU祭』というものに出演することになったのだ。
シンガーソングライターのリピート山中さんもゲストとして招かれていた。
ぼくの出番は、シテ方観世流準職分・水田雄晤先生の
前座を勤めさせて頂く形で決まった。

まだゲラの段階ですが・・・・・・
さて、SARUGAKU「猿楽」についても少し触れておきたい。
奈良時代、中国から様々な民間芸能が流れ込んできた。
軽業・曲芸、奇術、幻術、人形まわし、踊り・・・・・・
これらを総称して「散楽」と言い、
日本の芸能のうち、演芸など大衆芸能的なものの起源とされている。
「猿楽」は、その「散楽」に端を発している。
「散楽」が「日本古来の芸能」と混ざり合って「猿楽」が生まれ、
さらには、鎌倉時代に入って、
農耕儀礼から生まれた「田楽」や、
寺院芸能である「延年」などとも混ざり合い、
室町時代に入り、「観阿弥、世阿弥」の手によって「能」が完成された。
「散楽」→「猿楽」→「能」
その日本芸能のルーツともいうべき「猿楽」の一座が、
遠く鎌倉時代、ここ「城東区」に存在した。
『榎並猿楽座』である。
住吉大社の御田植神事に奉仕するなど
丹波猿楽の樂頭として活躍したという史実もしっかり残っている。
つまり、『SARUGAKU祭』とは、
このことにあやからせてもらっている。

去年、一回目が行われた『SARUGAKU祭』
50近いサークルが並んでいる。
稽古のあと、ぼくは先生とこの祭の展望について語り合った。
ぼく「城東区の第九もすっかり定着してこの町の名物になっていますよね」
先生「ふふっ・・・先日、で1000人近くが一斉に謡いを謡うという企画がありましてね、
実は私、それをちょっと手伝いに行ってきたんですよ」
ぼく「ああ、それそれ。それを是非・・・・・・」
先生「城東区でもやれるといいですねえ」
日本の芸能のルーツともいうべき「猿楽」。
その「猿楽」の故郷でもある、この「城東区」に、
1000人の「謡い」の声が響くことは
きっと、そう遠い将来ではない。
ああ、考えただけでワクワクしてきた。
いきなり「謡い」のお稽古に、ではなくとも。
とりあえず蕎麦を食べにいらして「謡い」に触れてみるのはいかがでしょうか。
きっとあなたも虜になる。
「蕎麦に来てくれる、だけでいい」
蝶六のホームページはここをクリック
ここでお稽古していると、
お蕎麦を食べに来られた方が
ちょいちょい覗きに来られる。
それから稽古人になられる方も多いんですよ」
そう言って、水田先生は悪戯っぽい笑顔を浮かべられた。
JR東西線・鴫野の駅から3分ほど。
ちょっと奥まったところに手打ち蕎麦のお店がある。
かなり大きなお屋敷だ。
手入れの行き届いた庭を眺めながら食べるお蕎麦は絶品である。
ぼくが通されたのは、
その屋敷の一番奥にある蔵のような小部屋であった。
水田先生とぼくは向かい合って腰掛けた。


少し前まで、ぼくはかなり不真面目ながらも、
狂言の稽古を20年ほどちょっとだけかじらせてもらっていた。
所々の事情からそこを離れることになってしまったが、
今もこういうお稽古ごとには大層未練がある。
そんなこともあって、今回の「お謡い」は、
ぼくにとって、ずっと待ち望んでいたことだった。
生の声の力。
豊かな声がこの屋敷の風情にとてもよく似合っていた。
蕎麦をすする音ともマッチする。
その心地よさは、まず聞いてもらうに限るが。
先生のお稽古は、一言で申し上げるなら、
「痒いところに手が届く」といった感じだった。
「そうそう、そこんところ、
思わずそう行っちゃうでしょ。
だから、そこを我慢して、こんな具合に・・・・・・
そう、アを足してみる」
こちらがやりにくいなと思った箇所での的確なアドバイス。
ひょっとして、この先生自身が元々不器用で
これまでかなり苦労されて来られたのか知らんと
ついそんな失礼なことまで想像してしまった。
ぼくがこの稽古場に来たのは、地元の催しがきっかけだった。
『SARUGAKU祭』というものに出演することになったのだ。
シンガーソングライターのリピート山中さんもゲストとして招かれていた。
ぼくの出番は、シテ方観世流準職分・水田雄晤先生の
前座を勤めさせて頂く形で決まった。

まだゲラの段階ですが・・・・・・
さて、SARUGAKU「猿楽」についても少し触れておきたい。
奈良時代、中国から様々な民間芸能が流れ込んできた。
軽業・曲芸、奇術、幻術、人形まわし、踊り・・・・・・
これらを総称して「散楽」と言い、
日本の芸能のうち、演芸など大衆芸能的なものの起源とされている。
「猿楽」は、その「散楽」に端を発している。
「散楽」が「日本古来の芸能」と混ざり合って「猿楽」が生まれ、
さらには、鎌倉時代に入って、
農耕儀礼から生まれた「田楽」や、
寺院芸能である「延年」などとも混ざり合い、
室町時代に入り、「観阿弥、世阿弥」の手によって「能」が完成された。
「散楽」→「猿楽」→「能」
その日本芸能のルーツともいうべき「猿楽」の一座が、
遠く鎌倉時代、ここ「城東区」に存在した。
『榎並猿楽座』である。
住吉大社の御田植神事に奉仕するなど
丹波猿楽の樂頭として活躍したという史実もしっかり残っている。
つまり、『SARUGAKU祭』とは、
このことにあやからせてもらっている。

去年、一回目が行われた『SARUGAKU祭』
50近いサークルが並んでいる。
稽古のあと、ぼくは先生とこの祭の展望について語り合った。
ぼく「城東区の第九もすっかり定着してこの町の名物になっていますよね」
先生「ふふっ・・・先日、で1000人近くが一斉に謡いを謡うという企画がありましてね、
実は私、それをちょっと手伝いに行ってきたんですよ」
ぼく「ああ、それそれ。それを是非・・・・・・」
先生「城東区でもやれるといいですねえ」
日本の芸能のルーツともいうべき「猿楽」。
その「猿楽」の故郷でもある、この「城東区」に、
1000人の「謡い」の声が響くことは
きっと、そう遠い将来ではない。
ああ、考えただけでワクワクしてきた。
いきなり「謡い」のお稽古に、ではなくとも。
とりあえず蕎麦を食べにいらして「謡い」に触れてみるのはいかがでしょうか。
きっとあなたも虜になる。
「蕎麦に来てくれる、だけでいい」
蝶六のホームページはここをクリック
- 関連記事
-
- 268.パワハラマンション~壁に耳あり、近所にヒヤリ~ (2023/02/17)
- 253.学校のいごこち~彼らがいたからぼくは不登校にならずにすんだ~ (2021/11/15)
- 122.風になりたい~町おこしとしての芸能~ (2014/12/29)
- 104.福井の町づくり、人おこし、こけら落とし (2014/01/13)
- 96.1000人の謡い SARUGAKU祭2 (2013/09/11)
- 95.わが町の誇り SARUGAKU祭1 (2013/09/10)
- 57.ふるきゃらとガチ袋 (2013/04/23)
- 42.妄想福井 (2013/03/19)
- 36.種を運ぶ (2013/03/08)
- 13.照らされて (2012/08/17)