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246.戦時下を生きた芸能~”笑い”という名の毒を飲む~

襲名をして以来、毎年6月になるたび
どうしても戦争のことが頭をよぎってしまう。
先代の二代目花團治が1945年(昭和20年)6月15日に
大阪空襲の犠牲になっているからだ。
遺族によると、防空壕の入り口で亡くなっていたらしい。
しかも、襲名してわずか一年後のこと。どれほど無念だったろう。


二代目花月ピクニック400
後列左から三人目が二代目花團治(写真提供:前田憲司)


あれは今から35年ほど前、
落語家に入門して3年ほどだったぼくが、
地方のある敬老会に招かれたときのことだった。

その一座の大トリ(一番最後の出演者)を務めたのは浪曲の師匠で、
演目は定かではないが
日露戦争で戦った兵士を讃えた作品だったことだけはよく覚えている。
客席のお年寄りはこの英雄伝に涙し、
「天皇陛下万歳!」という声が会場に響き渡った。

今にも戦争が始まるんじゃないかという戦慄が走った。
戦争を知らないぼくにとって、それはあまりに異様で衝撃的な出来事だった。

あれ以来、この作品を耳にすることはなかったが、
資料を紐解くと、戦時下に演じられた浪曲として
「杉野兵曹長の妻」「愛国千人針」「血染めの軍旗」といったタイトルが並んでいる。

花團治、どないしてくれんねん
筆者:桂花團治(撮影:坂東剛志)


日中戦争が勃発した翌年の1938年(昭和13年)、
陸軍省新聞班の清水盛明中佐は内閣情報部主催の思想講習会で、
当時人気の高かった古川緑破の喜劇一座を例にこんな発言をしている。

「民衆は笑いながら見ている間に
不知不識のなかに支那事変
(当時は日中戦争のことをこう呼んだ)の
意義を教えられることになるのであります」


これを受けて、東京の落語家・三代目三遊亭金馬も
「緊(し)めろ銃後」という落語を演じている。
銃後とは兵士を除く日本国民のことで、
戦争の前線と呼応させてこう呼んだのである。
日本と良好な関係だった中国の蒋介石も
国民党軍のリーダーに説き伏せられ、
これからいわゆる日中戦争が始まり太平洋戦争へと繋がった。

蒋介石は「重慶」に首都を移して徹底抗戦したのは
世間の誰もが知るニュースだった。
そんな背景をもとにこの作品は描かれた。

「銃後はいま一段の緊張が必要だ。国策違反は反逆罪と認めるべきだ」
「国賊は日本人とは認められない。蒋介石の間者(スパイ)と同じ。日本から追いはらえ」
「国外追放か。で、どこがいい?」
「そういう奴は重刑(重慶)がいい」


戦時下の演芸場では、
戦意高揚の妨げになると判断されれば演じることすらできなかった。
客席の一番後ろに設けられた臨監席に座る係の警察官が目を光らせ、
検閲済みの台本と舞台の内容が違うと「中止!」という声を発し、
公演自体をストップさせ始末書を書かせた。
その一方で、当局は
先に紹介したようないわゆる「国策浪曲」「国策落語」の上演を要請した。


花團治の初代も二代目も戦時下を生きた落語家だった。
先に紹介したような「国策落語」を演じることはなかったと思われるが、
芸人が芸人として生きにくい、モノが言い難い時代だったことは確かである。

※「代々花團治について」はここをクリック!

初代花團治チラシ
初代花團治が出演した寄席チラシ(資料提供:前田憲司)



二代目喜劇民謡座400
二代目花團治は喜劇役者としても活躍した。(資料提供:前田憲司)


今、世の中はコロナ禍に見舞われ、
先行きが見えない不安に覆われている。
この現状を戦時中に似ているという人がいる。

「自由に芸能を演じる場が制限された」という点においては
確かにその通りだが、現在は
「お上の意向に沿った芸能をしなければならない」という制約などない。
これがどれほど尊く重たいことか。

けれども、その一方で清水盛明が画策したように
芸能は大衆を導くこともできるのである。

笑いは「気の薬」としての役割も果たすが、
薬はときに毒にもなり得る。

笑いを生業として扱う我々はいわば薬剤師のようなものだ。
そのことを決して忘れてはならない。

今、二代目花團治の時代の資料を集め、
創作落語「防空壕」を制作中だ。
お披露目は6月26日の独演会。
きっと客席の後ろには警察官ならぬ代々花團治が控えているに違いない。(了)


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



2021hanadanjinokai (2)


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245.澤田隆治先生ありがとうございました。

澤田先生が、澤田隆治先生が逝ってしまった。
ぼくが「澤田隆治」という名を知ったのは高校生の頃。
当時、「花王名人劇場」という番組が流行っていて
毎週欠かさず見たものである。

その番組タイトルの肩には「澤田隆治プロデュース」とあって、
このとき「プロデュースとは何ぞや?」という興味がわき、
澤田先生が「スチャラカ社員」「てなもんや三度笠」「新婚さんいらっしゃい」などなど
伝説の人気番組を手掛けた人だということを知った。

澤田隆治先生とツーショット
澤田隆治先生(右)と花團治(撮影:相原正明)


落語家になる前、ぼくは大阪芸術大学の芸術計画学科に入学した。
その頃から落語家になりたいという思いはあったが、
同時に、制作スタッフやプロデューサーという職への憧れが強かったのは、
やはり澤田隆治先生の影響だった。

当学科のパンフレットにはドーンと「君も未来のプロデューサーに!」と記されていた。
この学科は1970年の大阪万博をきっかけに設立された、
いわゆる総合プロデュースできる人材を育成する学科。

結局、ぼくは学費が払えず一年で中退したが、
落語家になってからもイベントプロデュースに精を出したのは、
このときの思いからきていた。

だから、「放送芸術学院」の講師に決まったとき、
その学校顧問(現在は校長)に澤田隆治先生の名を見つけ、
ぼくは思わず小躍りした。あれからおよそ25年、
ぼくは入学式や卒業式での先生の祝辞を毎年楽しみにしていた。

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澤田先生が校長を務める「放送芸術学院専門学校」
帝国ホテル大阪の並び。




ある年の入学式で澤田先生が述べられた一節が強く印象に残っている。

「みんなは、ぼくが『藤田まこと』を育てあげたというけど、
ぼくは彼の存在をただ見つけただけ。
一度世に出たら、あとは周りが放っておきませんし、
色んな人がどんどんついてくる。

……だいたい、ぼくはもう売れてしまっている人は
あまり興味がないんです。
埋もれている逸材を見つけてきては世に出す。
これがぼくの生きがいなんです」




ところで、襲名する際、関係者やご贔屓さんに配る
「三点セット」というものがある。

扇子と手拭、そして挨拶状。

治門くん三点セット
挨拶回りには桂治門(写真)に同行してもらった。
お盆の上には、扇子・手拭・挨拶状。それに袱紗を被せる。(撮影:相原正明)



6年前の襲名時、その挨拶文を誰にお願いするかを考えたとき、
真っ先に思い浮かんだのは澤田隆治先生だった。
学校のスタッフのはからいで対面を果たした際、

「そうか。君は春蝶くんの弟子かいなぁ。
“花王名人劇場”が始まったとき、
ぼくは大阪のいろんな芸人に声を掛けた。
けど、君の師匠はぼくの依頼を断りよったんや。
何でも“箱根を超えると魔物がおるとか、
わけのわからんこと言うてな。

春蝶くんだけや。
ぼくの依頼を断ったのは。


それだけやない。他にもなぁ…」。



何かと自分に逆らううちの師匠のことを
実に懐かしそうに嬉しそうに語ってくれた。

「なかなか骨のある奴やったなぁ」。

当初は5分だけでもということで取り付けたアポだったが、
漫才作家の秋田實先生のことや、戦前戦後の上方落語のはなしなど、
気がつけば1時間以上も経っていた。


澤田先生からのお花


襲名の祝辞も、最初から快諾してくれたわけではなかった。
実ははじめはずいぶん固辞されていた。
それはぼくに対する気遣いだった。

「ぼくかて、
業界には味方ばっかりやないぞ。
ぼくがここへ名を連ねることで、
君のことを避ける者もおるやろ。
それは覚悟しいや」

「ありがとうございます!」




「このたび 桂 蝶六さんが、戦後途絶えていた 桂 花團治の名跡を七十年ぶりに復活されることになりました。声に出してみるとわかりますが、こんな華やかないい名跡が埋もれていたのが信じられない思いです。このたびの襲名披露は、上方落語界のためにも喜ばしく、誠におめでたいイベントであります。

蝶六さんは、二代目 桂春蝶さんの最後の弟子で、春蝶師とは私が朝日放送のテレビプロデューサーだった四十年前、上方落語の若手を売り出すための番組づくりで毎週顔を合わせ、共に苦労した仲でした。師は特に時代感覚が鋭くて、私が東京で笑いの番組づくりを手がけた時、何度か出演を要請したのですが、「箱根から東には魔物がいるので」とのことで、最後まで大阪にこだわられていました。かつて春蝶師に入れこんだことのある私としては、その弟子である蝶六さんと春團治一門のご活躍はこの上なくうれしいことです。

加えて蝶六さんには、いま私が校長をしている放送芸術学院専門学校の講師として、十八年もの間、学生の面倒をみてもらっている恩義があるのです。大きな名前をいただいたことで、ますます大物感のある落語家になってほしいという期待をこめて、蝶六から花團治になるこれからに声援を贈り続けたいと思います。」  メディア・プロデューサー 澤 田 隆 治




文枝、澤田、花畑、ぼく300
左から、六代桂文枝、大学の同級生・花畑秀人(現・ミルキーウェイ代表取締役)、澤田隆治、桂花團治
国立演芸場(東京)の楽屋にて(撮影:相原正明)




……東京での独演会では、毎回のように駆けつけてくださった。
その翌日には、電話でアドバイスというよりお叱りに近いお言葉まで頂戴した。
おそらくうちの師匠のぶんまで入っていたのだと思う。

どうか先生、あの世でうちの師匠と
丁々発止を楽しんでください。合掌。

2021年5月16日没、享年88.


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244.ツラくとも、クサれども~それでも笑いが必要~

大阪商人の間には
今も「泣いてる暇があったら笑ろてこまそ」
という言葉が残っている。

例えば、店が大赤字で困っているときにも商売仲間との会話では、
「おたくの店、商売は順調でっか?」「赤子(赤ん坊)の行水ですわ」
「何でんねん」「タライで(足りなくて)泣いてます」と
笑いを誘う洒落を交えた。

この「笑い精神」は大阪に限ったことではない。
商売人というのはすべからくそうだ。

憔悴する姿は同情を誘いこそすれお客や取引先がついて来ない。


コロナ禍で自粛を余儀なくされた店主は
もっと怒りをあらわに泣きわめいていいと思うが、

多くの商人はグッと堪えている。ぼくの行きつけのあるお店でも、
「笑ろてなしゃあない」とばかり笑みまで浮かべ応対してくれる。


花團治、待ってくれ
筆者(撮影:坂東剛志)


上方落語の定席小屋「天満天神繁昌亭」の舞台には、
桂米朝師匠による「楽」という文字が掲げられている。

これは明治時代の寄席「幾代亭」の額の字「薬」に由来していて、
漢文学者・白川静によれば、
「楽」という文字は舞楽に用いる柄のついた手鈴の形で、
古代にはシャーマン(巫女)がこれを振りながら神を楽しませ、
神がかりの状態になって人々の病を治したという。

「楽」と「薬」の字の成り立ちは深く繋がっている。


梅十三門弟繁昌亭400
上方落語協会・西川梅十三門弟会・繁昌亭にて
後列中央が筆者




オーストリアの精神科医・ヴィクトール・E・フランクルが著した『夜と霧』には、
世界大戦におけるナチスの強制収容所での様子が描かれている。

過酷な労働と劣悪な環境で次々と仲間が死んでいく極限状況のなか、
収容された人々は即席の演芸会や音楽会を開いた。

笑いに「気の薬」としての効用を求めたのである。
このことからみても、寄席に「薬」の額というのは実に理に適っている。

夜と霧200

日本の戦時下において全ての娯楽は国の監視下に置かれていた。
国策に合わぬ台本は書き換えなくてはならない。

客席の一番後ろに設けられた臨監席に陣取った警察官が、
検閲済みの台本と舞台の芸を照らし合わせ、
ひとつでも異なる箇所があれば即刻中止を命じた。

そんななかでも奮闘し続けた芸人たち。
『戦争と漫才』(新風書房)という冊子には、
「防空戦」「節約第一」「空襲」といった、
いわゆる国策漫才と呼ばれる当時の漫才台本が収められている。


戦争と漫才300

たとえば、「兵隊さんありがとう」という作品。

「欧州では、やれ空襲やと夜もおちおち寝られんのに我が国ではどうです。
これも皆、第一線で働いて下さる兵隊さんのお陰です(中略)
暑いというても内地とは暑さが違う。屋根の上を猫が通るでしょう。
それが猫はよう歩かん。足の裏、火傷しよる。
瓦が焼けてるから。そこへ鼠が出てくる。
猫がパッと鼠を噛んだ拍子に舌を火傷しよる。
猫舌やから。
豚なんか生きた奴をスポッと切ったらそのまま焼き豚になってる。
これほど暑いとこで苦労してはるねや」

「ホンマに兵隊さんのご苦労は、
銃後の我々がおろそかに思たら罰が当たる」

「君、ちっと兵隊さんの爪の垢でも煎じて呑め。
この非常時には君みたいな怠け者には持って来いや。
戦時薬言うて」「そら煎じ薬や」


今NHKで放映中の朝の連続ドラマ小説「おちょやん」
にも登場する花菱アチャコと、
その相方である千歳家今男にあてて書かれた台本だ。
作者は漫才作家・秋田實




エンタツ・アチャコ



二代目花月ピクニック3-400
中央にアチャコの姿。その手前、女性を一人挟んで、お猪口を手にした先代花團治。

二代目花月ピクニック2-400


「わらわし隊の記録」(早坂隆著・中公文庫)のなかに、
実娘・藤田富美恵さんの言葉があった。

「当時のことを振り返って
『漫才師たちもみんなで戦争に協力していた』と悪く言う人もいます。
しかし、私の父は兵隊さんや銃後の国民に、
ただ笑いを届けたかっただけだと思います」


わらわし隊表紙



コロナ禍において、ぼくも大打撃を被っている。
高座の機会を失うのみならず、
お客さんへのおわびやチケット代の返金。

「ええい、ままよ」と
全てを放りだしてしまいたくなる衝動に
襲われることもしばしば。

でも、こんな時こそ芸能だと確信している。
今ほど「笑い」という気の薬が求められる時代はないのだから。
シンドイ時こそ「笑い」に頼って欲しい。

きっとワクチンよりも効きまっせ。(了)


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。


2021年6月26日(土)朝10時30分~
繁昌亭にて「第7回・花團治の会」を開催します。


先代(二代目)花團治は襲名してたった一年で、1945年(昭和20年)
大阪空襲の犠牲となりました。
その追悼の意も込めた創作落語を披露します。


詳細は近日発表。

二代目花月ピクニック400

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243.つぶれない店のヒミツ~こうしてぼくはズブズブになった~

誰にだってあまり他人に教えたくない店のひとつやふたつあるだろう。
そっと隠れ家にしておきたいバーとか、
めちゃくちゃ美味なのに穴場のような焼き鳥屋さんとか…。

もしも大勢の目に触れて流行りだしたがために
気軽に行けなくなってしまうと嫌だけど、
絶対につぶれて欲しくない。ぼくにとってそんな店がまたひとつ現れた。

花團治、そういうことやね


その酒屋はある知人が紹介してくれた。
「そう言えば、あんたの近所にはとても良い店がある。
ここで買うとまず間違いがない。
地味な店なので気をつけてない探さないと通り過ごしてしまうけどな」

なるほどそこはぼくがよく通っている道沿いにあった。
やはり見過ごしていたのだ。
どこの町にもある昔ながらの小さな店構え。
目立った看板があるわけでもない。
ガラス張りの引き戸をガラガラと開けて入ると
薄暗い店内の左手に日本酒専用の大きな冷蔵庫。
それだけ。そう、ここは日本酒専門の店なのだ。


木村酒店外景
木村酒店(大阪市東成区中道3-9-28)

 
取り扱っている酒蔵は現在15蔵ほど。
決して多いとは言えない品揃えだが、
「幻の銘酒」がフツーに並んでいたりする。

「へぇぇ、このお酒も置いてるんですね」と問いかけると、
初老の店主は照れくさそうに
「えぇ、まだこれほど有名になる前からのお付き合いでして」。

すべて問屋を通さず直接買い付けていて、
仕入れさせてもらうのに造り酒屋に通い続け
10年掛かったという酒も置いてあったりする。


木村酒店冷蔵庫


酒蔵はどの酒屋にも卸すわけではなく、
信用がなければおいそれと分けてはくれない。
冷蔵庫に保管すべき酒を常温で放置したためにマズい酒として売られ、
評判を落としてしまうことになっては杜氏の苦労も水の泡だからだ。

「今も10年ほど通い続けてるところがあって…、
そのうちきっと入れさせてもらおうと思ってます」

ここで扱っているのは、全て店主自身が「イイ!」と思ったものだけ。
いわば日本酒のセレクトショップなのだ。

しかし、そんな店にもワインが一種類だけ置いてあった。
理由を尋ねると、
「いやぁお客さんがどうしても仕入れて欲しいって言うので
取り寄せてみたんですがイケたんですよね」

この柔軟性もまた店の魅力のひとつかもしれない

「これ、日本ワインですねん」
「日本ワイン?」
「ええ、国産ワインではなくて日本ワイン。
海外から輸入したブドウを使用して日本で作るワインが国産ワインで、
国産ブドウ100%で国内製造されたのが日本ワインです」

その特徴やワイナリーのこだわりを訥々と喋り出した。
決して饒舌ではないが誠実に、しかもひとつひとつの酒を、
まるで我が子のように語る店主との時間はとても心地よく、
ついつい財布の紐が緩んでしまう。
おそらく同じようなファンが多いのだろう
「これは次回に取っておこう」なんて買わずにいると、
次に来たときには別の顔が並んでいる。

木村酒店店主
木村酒店の店主・木村眞左夫さん(左)と筆者

 
この酒屋もかつてはビールから焼酎まで
いろんな酒を一手に扱う普通の酒屋さんだった。

創業80年ほどだが日本酒専門になったのはかれこれ20年ぐらい前。
三代目の今の店主の代になってガラリとやり方を変えた。
安売り競争となっている酒屋業界において、
このままでは体力が持たないし、
量販店につぶされてしまうと一念発起した。

先日、この店の写真をSNSにアップした。
近所にある「隠れ過ぎた名店」を自慢したい気持ちが、
他人に教えたくないという思いに勝ってしまったのだ。

すると、有名ホテルでシェフをしていた友人など
酒にうるさい連中からすぐに質問攻めにされた

「スゴイ目利きの店主ですね。
冷蔵庫を見ただけで充分わかる。どこにあるか教えて?」

そんなお店だが、コロナ禍での「緊急事態宣言」
そして「まん延防止等重点措置」で飲食店の営業時間が短縮されたことが
売り上げにもダイレクトに響いているという。

個人消費で少しでも役に立てれば…と精を出すぼく。

「こっちの家計の方が先につぶれてしまうわ…」
と嫁はんに嘆かれながら、店主の目利きに酔いしれている。



木村酒店地図



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。






いけだ春團治まつり2021チラシ
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242.良縁のススメ~今日、運命の人に出会えるかもしれないじゃない~

コロナ禍で人と集まる機会がめっきり減ったためか、
「出逢いがなくて」とぼやく声を最近よく耳にするようになった。
50すぎのオッサンであるぼくには何のアドバイスもできないが、
最近読んだ『ラブホ上野さんの恋愛相談』(KADOKAWA)という本の一章に
我が意を得たりと思う内容があった。

出逢いが少なくて困っているという女性からのお悩みに対し、
相談された“上野さん”が語る。

「私は男なので化粧品に興味がないが、
よくデパートの化粧品売り場に足を運びます。
接客、店舗の構造、案内の流れ、立地など、
様々な点を観察しているのですが、
そのなかでも特に重要視しているのは
お客がいないときのスタッフの姿。
最悪なのは、おしゃべりをするスタッフ。
最高なのは、近くを通るお客様に気を配りながら
店舗近くの整頓を行うスタッフ…
そのあと、機転をきかせて一人のスタッフが
『プレゼントですか?』と声をかけてくれました」



接客中はどのスタッフも気を張っているので
そんなに差は生まれないだろうが、
お客のいないときにこそ差が出るもの。
別に店員でなくとも、好きな人の前では良い顔を見せ、
そうでないときは不貞腐れた態度を取るのは
男性女性問わずよく見かける。

その“普段の姿”にこそ、
その人の本性が垣間見えるというのが
“上野さん”のアドバイスだった。

なるほど飲食店の店員に
エラそうな態度をとる男とはつきあうなという
巷の定説にも通じるところがある。


▶「ラブホ上野さんの相談室」はこちらをクリック!


花團治、どないしてくれんねん
筆者(撮影:坂東剛志)



ずいぶん前になるが、
ぼくはとあるバーで雑貨チェーンの人事部長だという人と
隣り合わせになった。

ちょうど全国展開している最中で、
彼は毎週のようにアルバイト面接のために
北へ南へと駆けずり回っていた。
毎回、結構な数の女子高生たちが面接のために列をなすという。

酒の勢いもあってか、彼は饒舌にその面接方法を語ってくれた。

「正直に言うとね、面接そのものはあんまり重視してないんですわ」
「ほな、容姿でっか?」
「それもないとはいえないけど、決め手は面接の後でんな」

面接の後、と聞いてひょっとコイツは立場を利用して
良からぬことをしているのではないかと、
ぼくは彼のことを少し疑った。

しかし、彼曰くこういうことだった。

「いえね、面接って誰もが緊張しますねん。
気が張ってますわな。そんななかでいろいろ質問して、
最後に『面接は以上です。結果は後日お知らせします。
お疲れ様』って送り出しますねん。

で、上着着て、鞄下げて部屋を出る間際に
『今日はこれからどこか遊びに行くの?』とか、
まぁ相手の雰囲気によって言葉は変えますけど、
できるだけフレンドリーに声を掛けるんですわ。

つまり、
気がちょっと緩んだ瞬間に声掛けて
どんな反応をするかを見てますねん。


そのときにそのとき
、『このオッサン、何を考えてんねん』と構えた態度を取る子もいれば、
にこやかに丁寧な応対をしてくれる子もいる。

うちの店にはいろんなお客さんがいらっしゃる。
棚卸しの作業で夢中になってる時に
ふいに声を掛けられりすることもある。
そんなときにその子がどんな態度を取るかということを
観察しますんねん」。



 「どこで誰が見ているかわからない」は
聞き飽きたフレーズかもしれないが、
冒頭の上野さんは最後に
ココ・シャネルのこんな言葉を紹介して回答を締めくくった。

「その日、ひょっとしたら
運命の人に
出会えるかもしれないじゃない。
その運命のためにも、
できるだけかわいくあるべきだわ」



「好みの男性がいない」と気を抜いたときに
出逢いの機会を逃してきたかもしれないし、
自分には関係のなさそうなオッサンでも、
そのオッサン繋がりでどんな良いご縁が転がってこないとも限らない。

ちなみに、ぼくは今のヨメはんと仕事の場で出会ったのだが、
ぼくの第一印象は「無愛想+ダサいファッション」と散々なものだったため、
そこからなかなか進展することがなかった。
これが良縁だったかどうか…?

ホンマ気を抜いたらあきまへん。




※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



なちゅらドン・キホーテ公演チラシ


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241.「かわいそう」という名のナイフ

その女性が児童養護施設で職員として働くようになったのは、
高校時代、かねてより好意を寄せていた同級生の男の子に
告白したことがきっかけだった。

彼からの返事は

「住む世界が違うから
付き合えない」
 というひと言。

このときはじめて彼が児童養護施設の子だということを知った。

彼女は彼に寄り添うつもりで応えた。

「わたしはそんなこと気にしないよ」


すると彼は

「ほらな。
やっぱり住む世界が違うんだ」


わたしと彼と、どう世界が違うのだろうか?
それを確かめるために児童養護施設の職員を目指した。

……とこれは、
有川浩『明日の子供たち』という小説のなかのひとくだり。


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ぼくがこの小説を手にしたのは大学での特別講義がきっかけだった。
そのとき、ぼくは落語の歴史や演じ方だけではなく、
自身のコンプレックスやそこからくる落語観なども話した。

その講義を聞いていた教授が
「今の話をぜひうちの子どもたちの前でも」という。

「うちの子どもたちの前」とは
児童養護施設を退所した人たちの集いの場だった。
児童養護施設には親からの虐待や
不適切な養育を受けた子どもたちが暮らしているが、
高校を卒業すると同時に退所する決まりだ。

その後の生活については、
もちろん職員たちが相談に乗ることもあるが、
人手が足りずなかなかそこまで手が回らない。

そこで児童養護施設とは別に、
彼らのその後をサポートする居場所事業というものが生まれた。

教授の主宰する団体もそれに該当するもので、
月に一度退所者たちが集まって食事をしている。

前述の『明日の子供たち』にはこんなやりとりがあった。

「上司の家族が亡くなったとしようか。女子社員は明日の葬儀を手伝ってくださいってなったとき、君はどんな服装で行けばいいかとか、何を用意しとけばいいかとか、一人ですぐわかる?」「ネットとかで調べたら……」「ネットは君に特化した答えは見つからないだろ」。実家の母親など身近に頼れる大人がいれば「ちょっと教えて~」と一本電話すれば済む話だがそうはいかない者も多い。

そのための「居場所事業」でもある。

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京都芸術大学教授・浦田雅夫氏と。


浦田教授の主宰する居場所事業についての動画↓
下記をクリックください。

京都の居場所事業
「アフターケアの会・メヌエット」



さて、教授の主宰する会合に招かれた当日、
彼らを前にどう話を持っていこうか、ぼくはギリギリまで悩んでいた。
相手の顔を見てから話の内容を決めるというのはいつものことだが、
10名ほどの若者が集う、その部屋のドアを開けた瞬間、
ぼくは少し拍子抜けしてしまった。
どこにでもいる普通の活発な若者たちではないか。

『明日の子供たち』の女性職員がかつてそうだったように、
彼らを「特別な人たち」と思い込んでいたぼくもまた
色眼鏡(偏見)の持ち主だった。

先述の「わたしはそんなこと気にしないよ」と応えた彼女の心底には
「かわいそう」「哀れ」「惨め」という思いがあったろうが、
彼女が職員となってわかったことは、
自分と彼との世界に違いはなかったということ。
世界が違うのではなく、
同じ世界に住まう人にもいろんな事情があるということだった。



そう言えば、ぼくも「かわいそう」と言われて育ってきた子だった。
ぼくを生んでくれた母親は、
産後の肥立ちが悪くぼくが3歳のときに亡くなり、継母に育てられた。

当時のことはほとんど覚えていないが、
小中学生の頃、事情を知る周囲の大人たちが
「この子は小さい時にお母さんに死なれてしもて、
ホンマかわいそうな子やねん」などと話すのを聞いた。

そのたびぼくの心はなんだかモヤモヤッとした。

「ぼくってかわいそうな子なんか?」


幼き日のぼくと弟
幼き日の筆者(右)と弟


……今回の訪問から一冊の本を通して、
ぼくが小中生の頃に抱いたあのモヤモヤの正体が少し見えて来た。


ぼくに「かわいそう」という言葉を投げつける人の背後に

「自分はそうでなくて良かった」
という優越感
と、

ぼくを見下ろす視線を無意識にうちに感じ取ったからではないだろうか。

言葉ってほんまムズカシイしオソロシイ。

それでも一見優しい言葉
日々傷つけられている人がいうことを忘れてはいけないと思う。

勝手な同情によってつけられた傷は、
時が経ってもなかなか癒えない。



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。





なちゅらドン・キホーテ公演チラシ

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240.うちのムスメは何でも食らう~優しい文化を召し上がれ~

近頃はコロナ禍の影響もあって
自宅で過ごすことがずいぶん増えた。
我が家はヨメはんと2歳半になる娘との3人家族。
娘はぼくのことをよく観察しているのかすぐに真似をしたがる。

例えば、稽古場の高座に座って落語の真似事。
まるでルーティンワークのように「寿限無」の文句に始まり、
落語らしき文言を唱え出すようになった。
ひとしきりそれが終わると、今度はぼくに向かって
「(次は)おとーしゃん、(稽古を)どうぞ~」と言って場所を譲ってくれる。

稽古嫌いなぼくが少しは稽古をするようになったのは、
これはもうムスメのおかげと言うほかない。

また、彼女はテレビが好きでこれもぼくの影響を受けている。
実は寿限無の文言もぼくからではなく、
Eテレの番組で覚えてしまった。

それにしてもEテレの番組クオリティの高さには驚かされる。
つい先日見た幼児向け番組のなかで将来の夢を語る場面。
女の子には「パイロットでも科学者でもなれる」と
年輩のキャラクターが語り掛ける。
これまでならさしずめ「保母さんでも看護師さんでも」と
言っていたところだろう。
のろまな性格に悩む男の子には「ゆっくり成長していけばいい」。

男はこうあるべき、女は…といった
ステレオタイプで偏った考えにならないよう細かいところまで配慮されている。

うちの娘は、靴下の履き方、歯の磨き方、手の洗い方等々…、

みんなテレビで教わった。


詩の稽古
落語の稽古に興じる我がムスメ


しかし、ぼくのテレビ好きの影響はいいことばかりではなさそうだ。
先日、テレビアニメ「鬼滅の刃」で主人公が人を殺めるシーンに
固唾を飲んでのめり込んでいるムスメを見たとき、ぼくは思わずぞっとした。

考えすぎだと言われるかも知れないが、
「上方芸能」の元編集長・木津川計先生のこんな言葉が胸に沁みる。

子どもは文化を食べながら成長し、
おとなは文化をつくりながら
子どもを支配するのです。
ですが、
おとなたちの支配や満足のために
子どもの成長を
損なっていいものでしょうか。
優しさとしての文化、
その擁護者になるには、
子どもの頃からできるだけ
優しい文化を食べることなのです


(上方芸能と文化、NHK出版)

木津川先生と (2)
向かって左が木津川計先生、右が筆者。



12年程前だったか、
大阪シナリオ学校で事務局長を務めていた
井上満寿男氏からはこんな話を聞いた。

「私が子供の頃、
映画館も演芸場もどこか怖いイメージがありましたな。
いわゆる悪所でね、女・子どもは行ったらいかんて言われました。
演芸場かて卑猥で猥雑な内容ばっかりでね、

娯楽場って呼んでましたわ。
”娯楽”ってどう書きます?
…そう、女が呉れたら楽しい

つまり”女の話をして呉れたら楽しい”。
いわゆるエログロというやつです」


そんなエログロな演芸場を改革したのが、
後にこの大阪シナリオ学校を立ち上げた秋田實先生だった。
ラジオ局の開局に伴い、
番組案として浮かんできたのが漫才だった。
しかし、先に述べたように当時の漫才はエログロで
とても公共の電波に耐えうるものではなかった。

そこで秋田實先生が
「小さな子供から
お年寄りまでが
安心して笑える漫才」
を書き、

横山エンタツ・花菱アチャコといった漫才師たちが演じるようになった。
これがお茶の間の笑いへと繋がっていったのだ。

何を笑うかでその人の性格がわかるというが、
その逆も然り。
どういう笑いを食べるかで
その人格が形成されていく。




詩の駐車禁止


はたしてぼくの興味の赴くままに
様々な番組を子どもの目に触れさせていいものか。
うちのムスメはことのほか雑食だ。
どんな文化も、どんな笑いも、
目の前にあるものは何でも摂取していく。

もちろんぼくの落語も変な癖も。

いっそのこと、反面教師と開き直ろうか
…というわけにもいくまい。

今日もムスメは稽古場から漏れてくるぼくの落語を聴いている。


どうか胃もたれしませんように。(了)



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。




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239.それしかないわけないでしょう~大人はけっこう間違える~

ホテルのフロントに一本の電話が入った。
「ホテルのバーはいつ開くか」という問い合わせだった。
それに対し、ボーイは「午前10時でございます」と応えた。
すると、その1時間後に同じ客から全く同じ問い合わせ。
当然ボーイは「午前10時でございます」と同じように応えた。
しかしそれからまた1時間経って全く同じやりとり。
とうとう我慢に達したボーイは
「10時までお客様をお入れすることはできません!」と
強い口調でどなってしまった。すると、電話の主はこう応えた。

……「俺は(バーから)出たいんだ」。


これは定番ジョークのひとつ。
聴き手の多くは「この客はホテルの部屋から掛けているのだろう」という
思い込みにとらわれる。
それを裏切ることでオチが成立する。
つまり、このように「相手が思い込みをするように誘導しておいて、
それを裏切る」のがジョークである。

落語もまた同様だ。

落語家と詐欺師は紙一重、
裏切ったあとに笑えるかどうかの違い。



花團治、頼んまっさ (2)
筆者(撮影:坂東剛志)



思考は、大きく「垂直思考」(ラジカルシンキング)と
「水平思考」(ラテラルシンキング)
の二つに分けられる。

物事を深く彫り上げて考えるのが「垂直思考」なら、
物事を違った角度から見るのが「水平思考」。


どちらも大事だが、「こうあらねばならない」と強い信念をもった者ほど
「垂直思考」に偏り、他人の言うことに耳を傾けない傾向にある。
そういう方ほど落語がお薦め。
落語やジョークは「水平思考」の宝庫なのだ。



主宰する落語教室「愚か塾」には
何かしらコンプレックスをもって入塾される方が多いが、
それはおそらくぼく自身が
自身の協調性や吃音に悩んでいたということもあるのだろう。

つい先日も「上司から”お前は頭が固いから落語でも聴け”と言われたのがきっかけです」
という方が入られた。
ぼくも中学生の頃に級友から「お前はなんでそんなに視野が狭いねん」と
言われたことがあるが、
それが落語を演じるようになった遠因であることは否めない。

「咄家殺すに刃物は要らぬ、あくびひとつで即死する」という
都々逸の文句があるが、
あくび以上に「お前は視野が狭い」とか
「頭が固い」という言葉の方がぼくには余程堪える。



そんなぼくが最近はまっているのがヨシタケシンスケの絵本。
子どもに読み聞かせる本を探していてたまたま出会ったのだが、
今話題の絵本作家らしい。
なかでもお気に入りが「それしかないわけないでしょう」という一冊。


それしかないでしょう表紙


 「おとうさんは晴れるっていってたけど、
大人のいうことはけっこうはずれるな」と
窓の外をにらみながらプンプンする女の子。
そこへ小学生のお兄ちゃんが帰ってくる。「ねえねえ知ってる?
未来はたいへんなんだぜ。食べ物がなくなったり、
病気がはやったり、戦争がおきたり、宇宙人がせめてきたり…」。
それにショックを受けた女の子はおばあちゃんの元へ。
「おばあちゃん、未来がたいへんなの?」。

すると、おばあちゃんは
「未来がどうなるかなんて、だれにもわからないから。
大変なことだけじゃなくて、
楽しいことやおもしろいこともたーくさんあるんだから」。

それから、いろんな未来を妄想する女の子。
「毎日ウインナーの未来、一日中パジャマでもいい未来、
毎日土曜日はクリスマスの未来…」。

そして、女の子の思考は新たな境地へと踏み出していく。

「”好きか嫌いか”とか、
”良いか悪いか”とか、
”敵か味方か“とか聞かれるけど、
どっちかしかないわけないわよねー」

(本のなかではすべて平仮名表記)。

いやはや参った。

「大阪市存続か、廃止か」
「命か、経済か」
を連呼する我々大人こそ読まねばならない絵本ではないか。


これまでの常識が常識であり続けるとは限らない。
その傾向がますます加速し続けている今日。
だからこその水平思考、やわらかアタマ。
ぜひヨシタケシンスケの絵本を開いてみて欲しい、
そしてあわよくば落語会に足を運んでもらいたい、
と切に願っている。




※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。




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238.あめあめふれふれ父さんが…

唱歌における父親はどうも肩身が狭い。
日本の唱歌に登場する親は母親ばかり。

「あめあめふれふれ母さんが…」(あめふり)
「かあさんが夜なべをして…」(かあさんの歌)
「かあさん、お肩を叩きましょう」(肩たたき)
「ぞうさん、ぞうさん、お鼻が長いのね、そうよ母さんも長いのよ」(ぞうさん)……


もちろん父さんが出てくる唱歌もあるにはあるが、
『グッドバイグッドバイ、グッドバイバイ…』(グッドバイ)と
家におらずお出掛けしまう。

……とこれは、高校の先輩でもある、今は亡き笑福亭仁勇兄のネタだ。
唱歌とは学校教育で定められた歌のこと。


仁勇兄と
笑福亭仁勇兄と筆者(左)。


唱歌に母親が多く登場するということは、
それだけ母親と子どもの結びつきが強いということだろうが、
同時に「育児は母親のもの」という考えを反映しているとみるのは
うがった見方だろうか。

江戸時代の浮世絵で群衆を描いたものを調べると、
子連れの男女比はほぼ1対1になるという。

ジョージ秋山の描いた漫画「浮浪雲」には
子どもを連れて歩く男性が頻繁に登場する。
江戸時代の男性は仕事を終えると、
夕飯の支度が整うまで子どもと散歩するというのが
日常だった
ようだ。

幕末に来日した外国人の記録にも「江戸の町を歩くと
子どもを抱っこした父親によく出くわす」という内容が見られる。

また、江戸時代中期に林子平が著した武家における父親向けの育児書「父兄訓」には
「女性たるもの者は胎教を知らなくてはならないが、
その胎教を女子に教えるのは父兄の役割である」とある。
「家」の存続が父親の責務という事情もあったが、
江戸時代の父親は
子育てに無関心であることが
許されなかった。


日本で「専業主婦」という言葉が使われだしたのは大正時代から。

農業から工業への産業転換によってサラリーマンという生き方が生まれ、
そのサラリーマンの妻が「専業主婦」となった。

「育児は母親のもの」が当たり前のようになっていった背景にはそんな事情がある。

また、戦争ということも育児に大きな影響を与えたであろう。
男は「家族のために仕事に専念する」「お国のために働く」
というのが当時の価値観だった。

冒頭に紹介した唱歌が発表されたのは、
「あめふり」大正12年、「かあさんの歌」大正14年、
「グッドバイ」昭和12年、「ぞうさん」昭和26年のことだ。


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筆者(撮影:坂東剛志)

現在58歳のぼくには2歳半の娘がいる。
可愛くてしょうがない娘のためにできるだけ家事も育児も分担するようにしている。
炊事や洗濯、簡単な料理ぐらいであれば
内弟子生活の時にずいぶん仕込んでもらったので苦にならない。
(落語家の修行がこんなときに役立つとは思わなかった)が、
このコロナ禍においてその頻度が増した。

それに育児の楽しいこと。
ことば数が増えたといっては喜び、
子どもの描く絵の画風が変わったといっては驚き、
ゆるゆるウンチが固まったといっては安堵し…、


そんな泣き笑いが今は嬉しい
(実はぼくは三度目の結婚だが、前は家事も育児も妻に任せきりだった)。

詩と本読み


最近は保育園の送り迎えも当たり前になった。
今は父親による送り迎えも珍しくない。
2013年からはNHKでも「おかあさんといっしょ」ならぬ
「おとうさんといっしょ」という番組が不定期ながらスタートしている。
それでも江戸時代の1対1には程遠い。
オムツ交換台のある男性トイレもまだまだ少ないが、
この先きっと当たり前になる。

今は「あめあめふれふれ父さんが…」と娘と替え歌しながら歌っているが、
そのうち父さんが出てくる童謡が増えることを切に願っている。(了)





※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。






ヴィヴァルディと比較しながら、
日本の唱歌の世界をご案内します↓

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237.賛否両論バンザイ!~大阪万博2025ロゴマークに寄せて~

先日、大阪万博2025のロゴマークが発表された。
ネット上では「怖い」「気持ち悪い」といったコメントが飛び交っている。
なかには「これはコロナウイルスを模している」といった意見まで。
ぼく自身も最初にこれを見たとき、
思わず「何じゃ、こりゃ⁈」と口にし、
そのあと「わしは松田優作か」と一人ツッコミ。
けれども、今ではこのロゴがすっかり気に入ってしまった。
今にも動き出しそうで、生命そのものに見えてくる。
愛らしいこと、この上ない。


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ロゴを作った大阪のデザイン事務所の代表は、
その発表の場で
「岡本太郎さんのようなオリジナリティのある作品を作ってみたかった」
とコメントしている。聞くところによると、作者は1965年大阪生まれの55歳、
1970年に開かれた万博の時は幼稚園児ということになる。

ぼくはあの頃小学2年生で、「月の石」を観るために
アメリカ館の前に2時間以上も行列に並んだ一人。
とりわけ岡本太郎・作「太陽の塔」の印象は強烈だった。
ロゴデザイナーもぼくもきっと同じ風景を見ていた。

太陽の塔400
現在の「太陽の塔」


ところで、パリにいた岡本太郎が
日本に帰国したのは戦争勃発が理由だった。
ドイツとフランスの関係が悪化したのだ。
岡本にとっておよそ10年のヨーロッパ生活はピカソとの出会いもあり、
とても充実していたが、帰国した岡本を待ち受けたものは
「伝統」とレッテルの貼られた日本文化の弱々しさやその陰性だった。
岡本はこれにひどく失望している。

そんな折、
目に飛び込んできたのが縄文土器だった。


「弥生土器は農耕生活と共に作られているが、
縄文土器はそれよりも以前、
狩猟時代に作られている。
カレンダーによる周到な計算と
忍耐づよい勤勉が良しとされた農耕生活とは違い、

狩猟生活は獲物を求めて
常に移動せねばならず、未知の世界への探検。
また、縄文土器はそんな社会的背景が生んだのだ

(『日本の伝統』光文社知恵の森文庫)と岡本はいう。

岡本太郎400
東京・南青山「岡本太郎記念館」


縄文土器には不協和のバランスがあり、
知能的にも技術的にも幼稚だった石器時代に、
これほどまでにあざやかにするどく、
完璧に空間が把握されている。
それは、獲物を察知し、
的確に位置を確かめ掴む必要があったからこそ
こうした感覚を育むことができた、と岡本は主張している。

1970年に岡本太郎が「太陽の塔」を制作したとき、
万博のテーマは「人類の進歩と調和」だった。

岡本いわく
「調和とは
お互いがぶつかり合うことだ」


まさに縄文土器そのものだった。


岡本太郎アトリエ400
東京・南青山「岡本太郎記念館」岡本太郎のアトリエ



一方、今回の万博のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」。
作者はロゴのコンセプトについてこう述べている。

「踊っている。跳ねている。
弾んでいる。だから生きている
(以下略)」。


どちらも生命体の躍動するさまが連想される。
お行儀よく収まってはいない。
しかし、ちゃんと調和がとれている。
これもまた縄文土器だった。


花團治、黒紋付き、横から300
筆者(撮影:坂東剛志)




 岡本太郎が「太陽の塔」を発表したときも、
世間の多くが「変だ」「気持ち悪い」と反応した。

けれども、あの塔が70年万博の象徴となり、
今や堂々たるランドマークになっている。
今回もまた世間の反応は徐々に変わってくるのだろう。
ぼくも思わず「何じゃ、こりゃ⁉」と声にした一人だが、
作者の意図からすればそういったことも十分に想定していたはず。
はたしてこのロゴが世間のなかでどう育っていくのか。

賛否両論が巻き起こる作品には「力」がある。

……とここまで書いて、師匠(先代桂春蝶)の言葉を思い出した。

「嫌われもせん奴は好かれもせん」。
“太郎イズム”バンザイ!




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236.ヴィバルディの”虫のこえ”~さて鈴虫は何と鳴く?~

小学一年生の頃、
ぼくは福岡県那珂川にある岩戸小学校に通っていた。
親の転勤ですぐに大阪に越してしまったが、
ぼくのなかで日本の原風景は
今もこのときの想い出のなかにある。
ぬかるんだ田んぼのあぜ道を歩いたり、
夏場はカチコチに乾いた肥溜めの上を
根性試しと称して踏んでみたり…、
確かに春の小川はさらさら流れていた。

あれ松虫が鳴いている チンチロ チンチロ チンチロリン
あれ鈴虫も泣き出した リンリン リンリン リーンリン
秋の夜長を鳴きとおす ああおもしろい虫の声



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筆者(撮影:坂東剛志)


 「『虫のこえ』ほど日本らしい唱歌はない」という話を聞いた。
「虫の鳴き声を声と聴くのは
日本人だけ」
 らしい。

いろいろ調べてみると
東京医科歯科大学の角田忠信教授の著書『日本人の脳』に詳しかった。
角田教授によると、その原因は日本人と西洋人の脳の役割の違いにあるという。

人間の右脳は「音楽脳」とも呼ばれ、
音楽や機械音、雑音を処理するのに対し、

左脳は「言語脳」と呼ばれ、
人間の話す声の理解など論理的知的な処理する。

…と、ここまでは日本人も西洋人も一緒だが、

日本人が「言語脳」で
虫の声を聴くのに対し、

西洋人はこれを
「音楽脳」で処理している。


それで西洋人には松虫のチンチロリンが分からず、
ただの雑音にしか聞こえないのだという。



また、虫の声を言語脳で聴くのは
ハワイやニューギニアに多く住むポリネシア民族にもみられるらしく、
「使用言語に子音で終わる単語がない」という点においても
彼らと日本人は一致している。

そういえば、ウクレレ教室のオーナーをやっている知人が
「ハワイアンの歌はカタカナ表記しやすい」と言っていた。


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ところで今、ヴィバルディの「四季」を聴きながらこの原稿を書いている。
実はこの秋に開催される「日本とヴィバルディの四季」というコンサートで、
ぼくはそのナビゲータをすることになったのだ。

しかし正直なところ、ぼくにとってクラシック音楽は全くの門外漢。

ヴィバルディの「四季」だって
冒頭のチャ―チャーチャーチャララ~♪ぐらいしか印象になく、
改めて全編通して聴いたヴィバルディの「四季」はかなり衝撃的だった。

春は穏やかな光景から一変していきなりの豪雨。
夏はいきなり雹から始まり、
ジメジメした小屋のなかでブヨやハエが飛び交う様子。
秋は収穫祭の賑わいから狩りの場面。
命からがら逃げ回る獲物とそれを追う犬。
冬は暖炉が鎮座する暖かい部屋から一歩外へ出ると極寒の様相。
辺り一面スケートリンクと化し、
少しでも油断すると足を滑らせ骨折しかねない。

穏やかな光景は嵐の前の静けさ。
ヴィバルディ「四季」はまさに自然の脅威そのものだった。

日本唱歌の「ピチピチチャプチャプ、ランランラン♪」とは程遠い。

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嵐吹きて雲は落ち 時雨降りて日は落ちぬ
もし燈火の漏れ来ずば それと分かじ野辺の里



これは唱歌「冬景色」の三番の歌詞。
嵐のあとの氷雨まじりの陰鬱な空が
人家の灯りの温かさを際立たせている。
この曲から浮かび上がるのは
嵐の凄まじさではなく家庭団らんの幸せ。

もちろん日本人が自然の脅威を知らないわけではなく、
台風や地震、豪雨…イヤというほど身に沁みている。
それでも日本人はとかく自然を愛でようとする。

日本の「八百万の神」信仰と無関係ではなかろう。


ステレオタイプに過ぎるかもしれないが、
農耕民族で自然と共存する日本人と、
遊牧民族で自然と対峙する
ヨーロッパ人の感性の違いかもしれない。



冒頭に「西洋人には虫の声もただの騒音」という話を紹介したが、
ヴィバルディの「四季」においては
この“騒音”が良いアクセントになっている。

汚いブヨやハエの羽音や吹き荒れる雹、犬が泣き叫ぶ様を
ヴァイオリンやヴィオラといった弦楽器が激しく表現する。



日本の唱歌が描く自然とも対比しつつ聴けば、
ヴィバルディの「四季」は
音楽脳のみならず言語脳もいたく刺激してくれる。

自由な外出が制限され、“自然の声”が聞きとりにくい今、
音楽のなかで季節を愛でるのも一興ではなかろうか。



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
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235.リメンバー・ミー~思うことは活きること~

遅ればせながら、今頃になって
ディズニー映画「リメンバー・ミー」(2017)を観た。
死者の国では「死者の日」だけ
現世の家族に会いに行けるという決まりだ。
日本でいうお盆のようなものである。
ただし、それは自宅の祭壇に
先祖の遺影が飾られた者だけに限られていて、
そうでない死者は死者の国を出ることができない。

ひょんなことからミゲルという少年は
死者の国に迷い込んでしまい、
紆余曲折の末ようやく
自分の高祖父にあたるヘクターに出会うことができた。
しかし、ヘクターは死者の世界でも葬り去られる寸前。
生の世界で誰も知る者がいなくなると、
死者は二度目の死を迎える
という決まりだった。

ヘクターはある行き違いによって祭壇から遺影が抹殺されていた。
しかも、生きている者のなかで唯一彼の存在を知る
実の娘・ココ(現世ではかなりの老婆だが)の命が風前の灯。
彼女が亡くなるとヘクターは二度目の死を遂げることになる。
そこからミゲルの奮闘が始まった。


花團治
筆者(撮影:坂東剛志)


映画を観終わって、
師匠(先代桂春蝶)のことに想いを馳せずにはいられなかった。
ぼくの自宅稽古場には師匠の大きな遺影を飾っている。
それは師匠を思ってというよりも、自身のためと言ってよい。

ネタを繰っていると、嫌でも師匠と目が合う。
これがいいのだ。もう少し頑張ろうという気になることもあれば、
怒られているような心持ちになることも。

また、兄弟子とささいなことで揉めた時、
「お前とはもう二度と口を聞かん!」などと言われたところで全く応えないが、
「師匠が生きてたら、お前なんか破門やで」と言われたら本気で悩んでしまう。

亡くなった今も師匠は絶対的な存在なのだ。
師匠の遺影を飾るというのは、
成仏して欲しいという思いより、
自身を律したり、奮い立たせたりといった
意味合いの方がはるかに大きい。


稽古場には、先代春蝶の遺影のほかに、
初代と二代目の花團治の遺影も掲げてあるが、これも同様の理由からだ。

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稽古場風景、遺影400
稽古場の高座から見た風景(向かって左手に二代目春蝶、右手に初代・二代目花團治の遺影) 
高座の前には、コロナ対策としてスクリーンを張っています



ところで、花團治襲名の際、
ぼくは三代目春團治師匠のお宅を何度も訪ねている。

襲名の準備に向けてのお伺いや報告もあるが、
一番の目的はなんとか披露口上に並んでもらえないかというお願いだった。

その頃の春團治師匠は体調不良が続いていて
3年近く高座に上がっていなかった。
そこを押して並んでもらおうというのは何とも無謀なことだったが、
ぼくは無理を承知で頭を下げ続けた。

その時、春團治師匠がおっしゃった言葉がとても印象に残っている。

「申し訳ない。ぼくは春團治だから」

つまり、正座すらままならない状態で舞台に上がることは
師匠自身にとって許されないことだった。

「春團治」という名前の重みを誰よりも強く感じておられたのだ。

結局、口上に並んでいただくことは叶わなかったが、
「花團治襲名記念落語会」には病気を押して駆けつけてくれ、
ぼくがトリで一席終えると舞台袖から大きな花束を抱えて現れた。
それが三代目春團治師匠にとって最後の”公の場”となった。

春團治師匠舞台挨拶
2015年6月21日、住吉区民センター「ほろ酔い寄席」にて
これが三代目春團治が公の舞台に立った最後になった。
(三代目桂春蝶が司会を務めながらスマホで撮影した)



あのときのことを思い出すと、今も目頭が熱くなる。
ぼくは三代目師匠の足下にも及ばないが、
それでも襲名した以上、「花團治」の名前は肩にずっしりとくる。

初代と二代目の遺影が
「お前はわしらの名前を継いだんやで」
と語り掛けてくる。

意識すればするほど、
先人方の存在は大きくなるのだ。

そう考えると、
現世で知る者がいなくなれば死者の世界でも消えてしまうという
「リメンバー・ミー」での設定も合点がいく。


初代花團治500
初代桂花團治


二代目花月ピクニック400
後列向かって左から3人目が二代目花團治


花團治代々について、芸能史研究家の前田憲司氏が詳しく書いてくださってます。↓
☞花團治代々について




先人を思うことは、自分がどう生きるべきかを考えることでもある。
ひょっとして先人が反面教師になることもあるだろうがそれでもいい。

この原稿を書いている今は、
ちょうどお盆であり終戦記念日。
師匠方は「死者の国」からどんな思いでぼくを見ているだろうか。


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



春蝶生誕祭2020500

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234.当たり前の向こう側~そして、彼女はオッサンになった~

混み合う車内に、棚に並ぶマスクやトイレットペーパー…。
そんな他愛もない光景がやけにまぶしく映った。
この日は久しぶりの出前寄席。
県をまたいでの移動はおよそ4か月ぶりのことだった。
自粛解除とはいえ手放しで安心するには程遠い状況ゆえ、
お客様のなかには家族から嫌味のひとつも言われた方もおられよう。
それでもわざわざ集まってくれた。
こちらもずっと休業状態で巣ごもりしてきた身。
喋る場が与えられただけでもありがたいとつくづく感じた。

イシス、その道中の


大阪に「天満天神繁昌亭」という
落語専門の定席小屋ができてかれこれ14年。
以来、上方落語が全国に認知されるようになり、
大阪の落語家も少しずつ仕事が増えていった。

メディアに出ていないぼくも毎日のようにどこかで一席というのが、
ごく「当たり前」になった。
それが今回のコロナ禍でほとんどの仕事はキャンセルになり、
「天満天神繁昌亭」も3か月の休館を余儀なくされた。

花團治の会3、繁昌亭正面


この自粛でさぞかし落語家は
暇を持て余していたことだろうと思われるかも知れないが、
周囲の話を聞けば意外に充実した巣ごもりを送っていた者の多いこと。
連日のようにテレワーク落語など新しい発信を模索する若手や、
一日にひとつのペースで新作落語を創ることを自身に課した猛者もいる。

かくいうぼくはかなりサボり組の方だが、
それでも持ちネタを増やすのは勿論のこと、
積ん読状態だった本や資料を読み漁ったり…
連日の夜更かしが続いている。

時間はいくらあっても足りない。
やりたいことが山ほどあるということもあるが、
それ以上に、世の中が落ち着いたときにお客様から
「お前は有り余る時間に何をしていたんだ!」と呆れられるに違いないといった、
強迫観念がぼくを追い込んでいる。


とはいえ、やはり落語家は外で喋ってナンボ。
ステイホームではただのうるさいオッサンである。
家族にはさぞ迷惑なことだろう。

つい先日も嫁はんからクレームを受けた。
あまりにぼくが家にいることが多いので、
2歳の娘の言葉遣いが変わったという。

例えば、それまで「これなぁに?」とモノの名前を可愛く尋ねていたのが、
ぼくの自宅待機が始まって以来「これなんや?」といった
大阪弁丸出しの口調になってしまったというのだ。
「家の中に小っこいオッサンが一人増えたみたいや」と
嫁はんのぼやくことしきり。

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このところずっと収入がなく肩身が狭い立場で、言い返すこともできない。
しかし、ある深夜のこと、パソコン仕事の合間にふと寝室の前に立つと、
寝入りばなの娘に語る嫁の声が聞こえてきた。

「お父さんはエライね。ああやって遅くまで頑張ってお仕事してるんやで。お父さんのおかげでご飯が食べられるんやで。こんな可愛い服も着られるんやで」

このときばかりは、思わず扉の向こうの嫁はんに手を合わせた。


前述の県またぎの落語会では、当日も消毒作業に余念がなかった。
そればかりか会場入りしたぼくに
「お客様を大勢入れることができなくてすみません」と何度も頭を下げられた。

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ぼくの主宰する落語塾では、一回当たりの人数制限に加え、
高座の前にスクリーンを置くようになった。



ある人に言わせると、「感謝」の反対は「当たり前」だという。
4か月ぶりの高座はぼくにとってとても充実したものだった。
これまでこれほど「感謝」を思った高座があったろうか。

マスク越しの笑い声は温もりに溢れていた。
帰りの車中、久しぶりの高座に燃焼しきったぼくはずっと爆睡のままだった。

最寄り駅に下り立つと居酒屋の赤ちょうちんが誘惑したが、
この日ばかりは目もくれず自宅に直行した。

家に近づくと二歳の娘が出迎えてくれる姿が見えてきた。

その満面の笑顔の向こうにある、
「お父さんはエライね」という嫁の言葉
を思い出した。
周囲のさりげない日常がぼくを支えている。

そんな日常を「当たり前」と思わないようにという戒め、
それはコロナからの贈り物かもしれない。


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。




花團治6500


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233.神様・仏様・アマビエ様~よくもわるくも妖怪のせい~

「トイレの神様」という歌がヒットしたのはちょうど10年前のこと。

「トイレには、それはキレイな女神様がいるんやで。
だから毎日キレイにしたら別嬪さんになれるんやで」

という歌詞は今もふと口ずさんでしまう。

この曲がヒットしている頃、
ぼくは講師を務める夜間高校での授業のなかでこれを話題にした。
「神事と芸能」を講義するうえでこれほどタイムリーなツカミはなかった。
しかし、このとき一人の女子学生がふっと笑みを浮かべながら
ぼくにこう言った。

「先生、その考えはクレージーね。
神様は一人に決まってるじゃないですか」

彼女はフィリピン人で敬虔なキリスト教信者だった。
もちろん同じキリスト教でも宗派によって考え方はいろいろあろうが、
彼女の信仰からすれば
世の中のあらゆるものに神が宿っているという
「八百万(やおよろず)の神」といった考え方は受け入れがたいものだった。

このとき、ぼくは
「国や宗教によって文化や思想が異なる」
ということを改めて感じ入った。

桃谷400
ぼくの出講する夜間高校には、10代から70代、国籍も様々な学生たちが集っている。
授業はいつも対話で進めていくのが基本だ。もう20年以上も続けさせてもらっている。



世の中のあらゆるものに神を感じ奉るのは
日本の信仰心のあつさだと誇る向きもあろうが、
その半面、日本人は
人知を超えた災害の責任を
神に押し付けてきた。


神であれば祀る対象だが、
時にはその役割を恐ろしく醜い妖怪に押し付け、忌避の対象にしてきた。

河川の反乱は河童のせいだし、
平安時代に起こった天変地異は
非業の死を遂げた菅原道真の怨霊の祟りだと決めつけた。
また、幼い頃にぼくは
「夜に口笛を吹くと蛇のお化けが出る」と親に脅かされた。


最近になって知ったことだが、
これはかつて日本で人身売買が行われていたことに由来している。
夜中の口笛が売人を招くことから、
お化けに濡れ衣を着せて子供の行為を阻止した。

「ゲゲゲの鬼太郎」の作者としても知られる水木しげる先生は、
『日本妖怪大全』という本のなかで
「加牟波理入道」(かんぱりにゅうどう)という妖怪を
便所の神として紹介している。


カンパリ400


水木先生は子どもの頃、
「便所には神様がいるから、帽子をかぶって入ってはいけない」と言われた。
ただ、当時はどこもいわゆるボットン便所で、
下を向いた時に帽子を落としかねない。
妖怪云々関係なしに、帽子をかぶって入るべきではなかったであろう。

妖怪やお化けは
道徳やマナーを守らせるため、
あるいは警告のためのツールでもあった。



水木本400



今、一番脚光を浴びている妖怪といえばご存じ「アマビエ」
「アマビエ」という妖怪をイラストや人形やアニメ、ダンス、和菓子など
様々にアレンジして発信するという「アマビエチャレンジ」が流行っている。

つんと尖った口元、長い髪の毛、鱗が胴を覆っているこの妖怪は
江戸時代の文献に残っている。

肥後国では夜ごと海に光りものが現れるというので、
役人が出向いたところ、
「アマビエ」と名乗る妖怪が出現してこのように告げた。

「当年より6年間、
諸国では豊作が続くであろう。
しかし同時に疫病が流行するから、
私の姿を描き写した絵を
人々に早々に見せよ」



アマビエ江戸400



サイトで「アマビエチャレンジ」と検索すると、
驚くほど多くのアマビエにお目にかかれる。

おどろおどろしい作品もあるがその多くは見ていて楽しい。
多くの人は「アマビエ」がコロナウイルスを終息させてくれるとは思っていないだろうが、
人々の不安をほんの少しかも知れないが和らげてくれていることは確かだ。

こんな使われ方ならアマビエも大歓迎だろう。
神様、仏様、アマビエ様、どうか早くコロナ禍を鎮めてください…おっと、
何にでも節操なく頼るのも日本人の特性だ。(了)

アマビエ400
熊本に住む友人が送ってくれたアマビエ様(イラスト:飯川晃章)


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
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232.祝うて三度でご出棺~別れの言葉はサヨナラじゃなくて~

亡くなる十日ほど前だったか、
がん患者によく見られる皮膚の突起が
義父の額の真ん中にもくっきりと表れるようになった。
義父は自身のそれを指しながら
「お釈迦さんみたいやろ」
と子どもみたく笑った———。


コロナ騒ぎの緊急事態宣言により、全てに自粛が叫ばれるなか、
女房の父が静かにあの世へ旅立った。
葬儀は三密を避けるため、ごく身内だけで執り行うことになった。

その通夜を済ませた夜に女房の兄貴・つまり義兄が
電話でぼくにこんな提案を持ち掛けてきた。

「親父を陽気に送り出してやりたいと思いますねん。
それで、出棺の時に兄さん(ぼくの方が年上なのでお互いに兄さんと呼び合うようになった)
大阪締めの音頭をとってもらえませんか?」。

大阪締めとは、天神祭りの船渡御のとき、
船が行き交う際に行う手打ちである。

「打ちま~ひょ(パンパン)、もひとつせ(パンパン)、祝うて三度(パパン、パン)!」。


いくらなんでも葬儀に「祝うて三度」というのはどうかとぼくは躊躇した。
しかし、義兄は「親父を送り出すに、その方がきっと相応しい、親父も喜んでくれる」
と言って譲らなかった。


義父と400
リノベーション工事中の自宅を眺めながら、義父とのツーショット。



義兄とのそんなやりとりのなかで脳裏に浮かんできたのは、
闘病中にも関わらず、長期入院を拒み一時帰宅しては
パソコンの前に坐る義父の姿であった。

公認会計士であり、会社経営も担っていた義父は
後に残された者が困らないようにとずっとキーボードを打ち続けていた。

そればかりか、「(自分が生きている間に)
あいつには何をしてやったらええかなぁ
」と
他人のことばかり気遣っていた。

ぼくに遺してくれたのは稽古場だ。

義父は若くして独立したが、
自宅長屋のひと部屋を事務所に置いたものだから
電話応対中に赤ん坊の泣き声が響いて困ったのだという。

「これではプロとしての仕事はできまい」と一念発起した義父は
別に事務所を借り、後年は一階を事務所にした三階建て家屋を構えた。

このことから、ぼくにも
稽古や仕事に集中できる場を持つべきと考えてくれていたようだ。

昨年に閉所した一階の会計事務所スペースを貸すので、
ぼくたち家族の住居兼稽古場にリノベーションしてはどうか、というのは
義父からの提案だった。
ステージ4の癌で余命一年の宣告を受けた直後のことだ。

リノベーションが終わり、
引っ越しが完了したのは義父の亡くなる三日前。

寝たきりになった義父に稽古場で落語を聴いてもらう夢は叶わなかったが、
義父は苦しい息のなかで
「(死ぬまでに)間に合うて良かった」と何度も口にしたという。




地鎮祭400
リノベーションは大阪天満の「シンプルハウス」さんにお願いした。その地鎮祭にて。
車椅子に座ってピースサインをしているのが義父。



思い起こせば、義父は家の設計図を前に
ぼくにこんなことを言っていた。

「このスペースやったら落語会もできるわな。
30人は入るやろか。色んな人が集うサロンみたいになったらええな。
完成したら紅白の幕を吊って、
チンドン屋を呼んで…」。

またこんなことも。
「これはあくまでひとつのステップや。
ここで終わったらあかん。いずれここから飛び立ってもらいたい」



花團治新居400
新しくなった外壁。手前が稽古場で、奥が住居。



自分の死を目前に、常に冷静に、己のことより周囲の者に気を配る。


……見事な生き様、死に様だった。
親父さんは人生を全うした。
きっとええとこへ行きはる。
あの世への良き門出やんか、祝って送り出してやったらええやん。

…そんな思いがふつと沸いてきた。

「兄さん、やっぱり大阪締めやね」


「祝うて三度」の手打ちが葬儀会場に響いた。
義父を乗せた車が静かに動き出した。


花團治、黒紋付き、横から300
筆者(撮影:坂東剛志)



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
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231.黒子に魅せられて~家とブロマイドとぼく~

歌舞伎の「黒子」は、役者の後ろの方で、
姿勢を低くして目立たぬように早変わりのサポートをしたり、
小道具を渡したり…。
全身を黒で包んで現れているものは、
「存在しないことにする」という約束事。
客も「見えていないもの」として見ている。

一昨年からぼくの落語教室に通ってくるある男性は、
45歳前後だろうか、ぼくより確か一回りほど年下である。
飄々とした雰囲気で、演じる落語も可笑しみに溢れている。
「笑わせてやろう」とか「聞かせてやろう」という
押し付けや我欲がまるでなく、
その油の抜けた感が彼の魅力に繋がっている。
聞けば、彼は数名のスタッフを抱える写真スタジオの経営者で、
彼自身カメラマンだという。


坂東さんスタジオ400
ブロマイド撮影現場


ぼくのなかで写真家といえば、
土門拳、篠山紀信、荒木経惟…といった
個性的な面々を思い浮かべてしまうが、
彼はそのどれにも当てはまらなかった。

ある時、ぼくは彼に
「“どんな写真を撮りたい”とかある?」
と聞いてみると、
彼はやはりいつものように飄々と
「いやぁそれがあんまりないんですよ」と応えた。
ぼくのなかで彼と、
彼の作品に対する興味がますます膨れ上がり、
去年の暮れ、
年賀状に使うぼくのブロマイド写真の撮影を依頼した。

その打ち合わせの段になって、
初めて彼は自分が撮影したという数冊の写真集を見せてくれた。
しかし、その表紙に彼の名前はなく
冊子の末尾に撮影スタッフとして小さく名前が記されているだけ。
その被写体は日本中の誰もが知っている劇団の女優だった。
そんな彼はぼくと打ち合わせをしながら、
「花團治は人からどう見られたいのか」
「どう撮ればこの人は活きるのか」を探っていた。

彼が言った
「どういう写真を撮りたいとか、あんまりないんですよ」
と言った言葉の真意が見えたような気がした。
彼は写真家として黒子に徹していた。


2020年賀300
今年の年賀状



ところで、ぼくはこのたび
女房の実家の一階を間借りして住むことになった。
元々事務所として使用していたスペースだったので、
住居用にリノベーションする必要があった。
それでいくつか施工会社を当たってみて、
これはと思うところを選んだ。
決めた理由は納期の問題も大きかったが、
その会社のオフィスのセンスや
そこで働くスタッフの雰囲気や応対が決め手だった。
特に最初のヒアリングを担当してくれた代表の方など、
着ているものから持ち物、
爪の先まで存在自体がおもてなしのような人だった。

現場は若いスタッフに引き継がれることになったが、
彼らも一貫して代表同様、聴き上手、相槌上手で
「寄り添ってくれてるなぁ」という印象を持った。
もちろん言いなりで動いているわけではなく、
こちらの想像を超えた多くの提案もしてくれた。

門灯400
「こういうのもあるんですが…」とさりげなく示された門灯は、
ぼくの一門の紋である「花菱」だった。




写真家もリノベーション会社もプロとしての黒子だった。
自身の主義や主張にとらわれるあまり、
クライアントの思いとかけ離れてしまう職人や
業者をたくさん見てきたが、
このたびは両者とも見事に寄り添ってくれて心より感謝している。

だからだろうか、最近は歌舞伎を観ながら
「黒子」にばかり目がいってしまうぼくである。

花團治新居400
この春から女房の実家の一階を間借りして、マスオさんすることになりました。


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
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230.コロナ狂騒曲~ぼやきたいのはやまやまですが…~

この原稿を書いている今(3月5日現在)、
世間ではコロナウイルスの話題で持ち切りだ。
今回の件で天満天神繁昌亭もなんばグランド花月も
二週間ほどの休館を決定した。
ぼくのところへもキャンセルの電話があとを引かない。
この状況がいつまで続くのやら…ぼくとしては不安で仕方がない。
同業者も連日SNSでぼやいている。
「毒性はさほど強くなく致死率は低い」という報道もたびたび目にする。
ぼくも「騒ぎすぎちゃうか⁉」と感じている。

しかし、がん闘病中の身内を持つ者としては、
今複雑な心境でいる。
免疫力が低下した者にとってコロナウイルスはまさに死活問題である。

先日、見舞いに行った際も、
もしぼくが知らないうちに
コロナウイルスの運び屋になっていたら
どうしよう?
という不安がよぎった。


花團治、黒紋付き正面、300
筆者(撮影:坂東剛志)


このたびのウイルスで一番怖いのは、
陽性であっても反応がほとんど出ず、
罹患に気づかず出歩く者の存在だという。
「もしコロナウイルスに罹っていても別に死ぬわけじゃなし」と、
どこ吹く風で出掛ける者も結構多いと聞くが、
それはぼく自身にも言えることだった。

しかし、がんと必死に闘っている身内を前にそんな自分を恥じた。

所詮、「別に死ぬわけじゃなし」は自分目線でしかなかった。
「自己責任」という言葉もよく聞くが、
他人にうつしてしまっては「自己責任」とは言えまい。
ましてや、すでに重篤な病人にうつしたなら尚更だ。
休校やイベント自粛に関して、
政府の説明不足や方法についてモノ言いたいところだが、
結論としては致し方ないと思っている。
経済にも大きな打撃を与えているが、
されど今回の自粛要請で救われた人もきっといる。


「自分の窮状ばかりを口にする」
「自身のおかれた立場でしかモノを言わない」。

ぼくだって同じ輩の一人。

反省の意味を込めてささやかながら、
キャンセル続きには決してぼやくまいと決めた。
それぞれの主催者の判断に敬意を表したいと思う。

その代わり、演じられる場があれば粛々と高座に上がるつもりだ。
もちろん体調に異変を少しでも感じたときは早々と辞退する。

暗い話を続けてしまったが、ぼくはこの騒動のなかで
市井の人々のたくましさや強さを感じる場面にも出会った。

たとえば、
キャンセル多発覚悟で開催した先日の落語会は思いのほか大入り。
他の寄席でもいつも以上の動員だった。
自粛ムードのなか居場所を失った方が来場してくれたのだろうか。
また、ぼくの知人が営む高級食材専門のECサイトでは
いま注文が殺到しているのだという。
これは、自宅におこもり状態になった人々が
せめて食事だけでも豊かにしたいという気持ちの表れかもしれない。
いろんなところでそれぞれの光景。


……このたびのコロナウイルス問題に際し、
正義・正論は
それぞれの立ち位置によって様々

だということを改めて思い知った。



文華ツーショット300
コロナウイルスが騒がれ始めた頃、開催した落語会では補助席も埋まる大盛況をいただきました。
(向かって左:桂文華、左:ぼく)





◆以下の会を、予定通り開催させていただきます。
  体調が少しでも不安な方は無理をなさらずにお願いします。


愚か塾20200314400

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229.左利きが抱えるもの~”甘夏とオリオン”の世界にたゆたう~

かつて左利きは縁起が悪いとされ、
矯正するべきという考え方が当たり前だった。
今もご年輩のなかには左利きの者に対して
「何で親は治さなかったのか」と
半ば憐れむような言い方をする人がいる。

かくいうぼくも元は左利きだった。
ぼくの母は血を見るのが
何よりも怖かったぼくの左手の甲にヨードチンキを塗りつけ、
なるべくぼくに左手を使わせないようにした。
その結果、ぼくはペンやお箸を持つ手は右利きになった。
しかし、消しゴムを使うのはなぜか左手でないと消せないし、
何か新しいことを始めるときも自然と左利きになってしまう。
例えば初めて野球のバッターボックスに立ったときがそうだった。
級友から「お前、ひょっとしてぎっちょ(左利き)か?」と
からかわれたことを覚えている。あまり良い気はしなかった。

今では身体的特徴を揶揄しているという理由から
「ぎっちょ」という言葉は放送禁止用語である。
しかし、左利きは日本では今もマイノリティ(社会的少数者)だ。
自動販売機や自動改札、トイレ…
街で見かけるあらゆるものが右利き用にできている。


花團治、黒紋付き、横から300
筆者(撮影:坂東剛志)




最近刊行された本で『甘夏とオリオン』という小説がある。
女性落語家が女性ゆえにその偏見と闘いながら成長していく物語だ。

甘夏とオリオン400


この小説ではいくつかの落語がモチーフとして使われていて、
そのひとつに『一文笛』という咄がある。

スリの腕前だけでなく、弁でも騙し上手な秀は
仲間内からも一目置かれている。
貧乏長屋の駄菓子屋で子どもたちが
一文笛を買い求めてはしゃいでいるなか、
それすら買えない男の子を不憫に思った秀は、
その姿に自分の幼い頃を重ね、
思わずその一文笛を駄菓子屋からくすねて
男の子の懐に入れてやった。

それが元でその子は泥棒と間違えられ、
ついには井戸に身を投げ意識不明の重体。
責任を感じた秀は「スリを廃業しよう」と
右手の人差し指と薬指を匕首で切断してしまう。

後日、寝たきりの子どもを助けるには大金が必要と聞いた秀は、
医者から財布を抜き取って兄貴分のもとへ。
「兄貴、この金を使ってくれ」
「スリにとって大事な指を落としながら、よくもそれだけの仕事ができたな」
「わい、ぎっちょやねん」。

……子どもの左利きを矯正することが当たり前だった時代に、
親から何ら治されることもなかった秀の「ぎっちょ」。
それは彼が底辺の世界にいたということを示している、
と著者の増山実氏は主人公の甘夏に言わせている。

増山氏と400
『甘夏とオリオン』著者の増山実氏(右)とぼく


これはぼくの勝手な推測だが、
秀はその「ぎっちょ」ゆえにスリ名人になれたのかも知れない。
着物の形状からいっても左利きの方が有利だ。
それに、秀という男は言葉巧みに人を操る名人。

最下層の民から芸能が生まれたように、
世間一般から少し外れたところにいるからこそ人と違った見方が生まれ、
洞察力にも長けていったのではないだろうか。
もちろん「スリ名人」は褒められたものではないが、
過酷な出自を乗り越えて、したたかに、しなやかに生きる秀の姿に、
数ある上方落語の中でも
ひときわ魅力あるキャラクターになっているように思われるのは、
ぼくが「ぎっちょ仲間」だからだろうか。

ぼくの娘は現在1歳8か月で、最近になっていたずら描きをするようになった。
その手がいつも左利きだ。

さて、これは矯正するべきか。今、本気で悩んでいる。

もりうた、大阪城で走る400
大阪城公園を走るわが愛娘


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。

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毎日新聞、笑われるから500




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228.あの娘を好きになったワケ~態は口ほどにモノを言う~

ずいぶん前の話になるが、俳優スクールで授業をしていた時のこと。
マンツーマンではなく大勢を相手に
落語の台詞を口移しで稽古をつけていた。
その時、ぼくはある一人の女子学生の佇まいが
気になって仕方がなかった。

全員正坐をしていたのだが、
彼女の様子はまるでコンビニの前で深夜たむろしているような、
ぼくの目にはかなりダラしない姿に映った。
腰骨も後ろに倒れ、しかも身体が横に歪んでいるような恰好だった。
「やる気のなさを身体で表現してみよ」と言われれば
きっとこうなるであろう。
愛らしい顔立ちなのにもったいないと感じたぼくは、
彼女に腰骨を立てて正坐するよう指導した
(よく『背筋を伸ばせ』という人がいるがあれはどうもいただけない。
肩など余計なところに力が入り不自然な姿勢になるからだ)。

腰骨を立て、顎を少し引き気味にした彼女は
それだけでずいぶん印象が変わった。
一番驚いていたのは周囲にいた学生たちで、
特に男子がどよめいた。

以来、彼女は自信をつけたのか
日を追うごとに変化していった。


後日、「アドバイスのおかげでオーデションに受かりました」という
嬉しい言葉をもらった。

放送芸術学院授業風景
声優スクールでの授業風景



落語はご承知の通り、一人で
何人もの登場人物を描き分けてストーリーを展開していくが、
人物の描き分けは台詞の言い回しに限ったことではなく、
ちょっとした姿勢や所作がモノを言う。

武士であれば、腰骨を立てた状態で
両手を正坐した足の付け根に近いところに横に向けて置く。
そうすることで肘を張った形になり、
ちょっと威張ったような感じになる。
出入りの職人さんなら、膝頭のあたりで
足と足の間に手を滑り込ませるように置けば、
自然と前屈みになりいかにも木股を履いた感じに見える。
丁稚なれば身体を前に倒し、手慰みをしながら上目遣いで相手を見る。
商家の御寮人は腰骨を立てた方が凛と映って「らしく」なる。

落語というものはステレオタイプとデフォルメ
で成り立っているのだ。


はづかし小学校1
小学校で落語体験講座


落語家の多くが日本舞踊を習うのは、
こういった「態」の感覚を身につけるためでもある。
例えば、女性の演じる方ひとつ取っても
「相手に胸を当てにいくように歩いてごらん」というアドバイスひとつで
うんと色っぽく化けたりもする。

梅十三門弟繁昌亭400
上方落語協会「西川梅十三門弟会」繁昌亭にて
後列中央がぼく



また、気持ち穏やかな時とそうでない時の態の違い。
中身がないのに態度ばかりデカい人の態。
ファッションや身だしなみ以外の外見を落語は「態」によって表現していく。
高座では見られる側の我々落語家も、
客席のお客の表情や姿をしっかり観察している。

大勢のなかにそこだけポッと灯りが灯ったように見えるのは、
決まって姿勢の美しい女性だ。
なかには自宅のリビングでくつろいでいるような、
椅子から少しはみ出してだらけているおじさんも目につくが、
そういうのはこちらのモチベーションが下がりそうなので
そこは出来るだけ見ないようにしている(とはいえ、
実は気になって仕方がないのだが)。

花團治戎橋をわたり20181108国立
東京・国立演芸場にて(撮影:相原正明)


ぼくが今の女房に惹かれたのは、
ある仕事で共に電車移動している時だった。
何気に腰掛ける姿勢の美しさに惚れたのだ。

聞けば、彼女も以前はだらけて座っていたらしいが、
ある時、目の前に座る女性の姿勢のだらしなさが目について、
ふと自身はどうかと振り返ったのだという。
よくぞ気がついた!



「人は見かけによらない」という言葉は、
言い換えれば「人は見かけで判断している」ということ。
見かけは顔かたちや髪型、服装に限らない。
時には顔より雄弁になる“態”。
ぼくの態は周りに何を語っているだろうか。
知りたいような、怖いような……。


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
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ねやがわ語楽舞500
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梅十三一門会500
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文華二人会500
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227.初高座の想い出~師匠のペップトーク~

失敗はむしろ喜ばないかん。
失敗したということは
それだけ広い道を
歩くことになるんやから。



誰が言ったか忘れたがそんな言葉を覚えている。
ぼくもうちの師匠(先代桂春蝶)から
「失敗するな」という言い方をされたことがなかった。
「あれはダメ」「これはするな」と言われたことも記憶がない。
その代わりよく言われたのは
「常にアクションをせい!」だった。


花團治20181108春蝶パネルと
先代春蝶の写真を挟んで、左が現・春蝶、右がぼく。(撮影:相原正明)


ぼくの初高座は弟子入りしてわずか半年後のこと。
ほとんどの咄家は50名も入ればいっぱいになるような
小さな会場で初高座を迎えているが、
ぼくの場合は師匠の判断であえて1000人は入ろうかという
大ホールでのデビューとなった。師匠の独演会である。

それまで味わったことのない拍手の波に挑むように、
ぼくはその大舞台に立った。座布団に座ってふと顔を上げた時、
ぼくの目に飛び込んできたのは高座を照らす大きなライトの光。
おかげで目の前は真っ黄色。ようやくその照明に目が慣れた頃、
ぼくの目に映ったのはいかにもつまらなさそうに
ぼくを見つめる男性の顔だったことは今でも忘れられない。
後でこの時の音源を聞いてみると、お世辞にも上手いとは言えないが、
初高座にしてはなかなか堂々とした話しぶりだった。


坂東愚か塾花團治2
桂花團治(撮影:坂東剛志)


高座を終えて楽屋に戻ってきた時、
師匠のマネージャーのO氏が師匠にこう言った。
「初高座をこんな大舞台で堂々と演るなんて、
こいつは心臓に毛が生えてますな」。
しかし、これには伏線があって、ぼくの初高座に対し
最後まで反対していたのはこのO氏だった。

「まだ高座にも上がってない奴が、
師匠の大切な大舞台に出てコケ(失敗)たらどないすんねん。
師匠のことを大事と思うなら、君の方から断らんかい!」。

ぼくもO氏の言うことは尤もだと一旦は辞退を申し出たのだが、
師匠は「わしが決めたことやから堂々と出たらいい」と言ってくれた。
そんな経緯があったものだから、
当日はできるだけO氏と目を合わせないようにしていた。
ただでさえ大舞台のプレッシャーに潰されそうになっているというのに、
O氏の「お前、大丈夫か」「ホンマに出る気か」という視線が冷たく突き刺さった。
ちなみに、この時チラシにぼくの名前は記載されておらず、
もしその時出演を取りやめたとしても何の障りもなかった。

坂東愚か塾花團治1
桂花團治(撮影:坂東剛志)

いよいよ出番というその直前、師匠がぼくの耳元でこうささやいた。

あのな、ウケようとか
上手にやろうなんて考えるなよ。
・・・かわいい奴やなぁでも、
元気な奴やなぁでも、
何でもかめへん。
何か印象をひとつだけ残せたら、
今日はそれで良しや!



ぼくは師匠のこの言葉に救われた。
もし、あの時「台詞を間違うなよ」とか、
「ちゃんと笑いを取らなあかんで」などと言われてたら、
余計にガチガチになって高座の上できっと絶句していただろう。


こいけなおこ喜楽館1
桂花團治(撮影:こいけなおこ)


……そんな思い出を行きつけのバーで
カウンター越しのマスターに語っていたところ、
たまたま隣に居合わせたお客から
「それはまさにペップトークですな」
という言葉が返ってきた。

ペップトークとはスポーツの試合前に監督やコーチが
選手を励ますために行う短い激励のスピーチ。
Pepとは英語で、元気・活気・活力という意味がある。

その男性の趣味は草野球だという。
例えば、バッターボックスに向かう選手に
「低めに手を出すな」と伝えるのと
「好きな球を狙っていけ」というのでは結果がまるで違ってくる。
当然、良い結果を生み出すのは後者だ。

「ミスしてはいけない」という気持ちが
かえって失敗に繋がってしまうことは、ぼくも実感としてよくわかる。

「ミスするな」の代わりに「丁寧にいこう」
「逃げるな」ではなく「前に進め」


というのがペップトークの流儀。

ひょっとしてうちの師匠もペップトークを意識していたのだろうか。
なかでも究極は、ぼくが同期に先に越されて
ひどく落ち込んでいた時にかけてくれたこの言葉。

ヒーローちゅうもんはな、
最初必ず挫折しよんねん。

▶過去ブログ「ヒーローの条件」


おかげでぼくは広い道を歩きつつ、
落語家を辞めずにいる。そして、今もヒーローを夢見ている。




※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。




※花團治公式サイトはこちらをクリック!

226.注文の多い落語塾~「愚か塾」の扉を叩く前に~

花團治が主宰している落語塾「愚か塾」。
個人宅での小さな小さな私塾ですが、
おかげさまでここ2、3年は常に定員オーバーで、
欠員待ちも15名前後、という状況です。
それだけ多くの方が落語に魅力を感じてくださっているのは
嬉しいかぎりですし、現塾生のほとんどが2年以上続けて
熱心に通ってくださっていることに
花團治は心から感謝しております。

だからこそ、新たに「愚か塾」に興味をもってくださった方にお尋ねします。
「花團治の落語を生で聞かれたことがありますか?」
「花團治がブログなどで表明している考え方・姿勢に共感できますか?」

芸事を学ぶ際は、師匠に対するリスペクトが必須です。
師匠によって、教える方法や内容が全く異なるからです。

愚か塾稽古風景1-500
「愚か塾」稽古場・師匠が見守っています。


「『落語教室・大阪』で検索したらヒットしたから」
「他に落語教室が見つからなかったから」
という方は、まずは花團治の落語を生で聞いてから、
入塾申し込みをするかどうか検討してください。

「落語談義をしたいから」
「いずれはアマチュア落語家として活動したいから」
という方は、他の落語教室をお探しください。

多くの落語家がそうであるように、
花團治も意地とプライドを持って落語と接しています。
「@@師匠のあのネタをやりたい」
「オチなど、ところどころ創作したい」
という方に指導する時間は持ち合わせておりません。

「落語家のくせに、エラそうに。単なるお稽古事の教室なんだから、
基本的なことや小咄をチャチャっと教えてくれたらそれでいいのに」
そうかもしれません。

花團治は、とても不器用な落語家です。

愚か塾、大喜利2
「愚か塾」発表会・恒例の大喜利


自身が落語によって救われたという実感を持っており、
落語の奥深さやおもしろさを塾生の皆さんと共有し、
一緒に学びを深めていきたいとの思いから愚か塾を開いています。

・ 人前に立つ自信を得たい
・ 声を出す機会を持ちたい
・ 自分を変えてみたい、新しいことをはじめたい
・ 吃音や上がり症で悩んでいる。
・ プレゼンテーションが上手くなりたい
・ 落語の稽古を通じて、日々の活動や仕事・生活を
より有意義なものにしていきたい

と言った声に応えるべく、覚悟を持って取り組んでいます。

この思いの熱さを、セーブすることができません。
指導に熱が入るあまり、終了時間が23時近くになることも
しばしばあります。
(もちろん、途中でお帰りいただいて大丈夫です)

お伝えできることは花團治自身が学び、感じ、納得したことのみです。
花團治が演じないネタや、他師匠のやり方のネタを教えることはできません。

「落語コンテストやライブでウケる演目を習いたい」
「創作落語をチェックしてほしい」
「普段のお稽古はあまりでられないが、発表会だけは出たい」
というリクエストもお応えできません。

数年習ったらアマチュア落語家として活動したい、という方の
サポートもできません。
アマチュアでも、落語を公の場でする際には
落語家としての行儀作法の習得が必要です。
しかし、愚か塾ではそこまでお教えすることができないからです。
その行儀作法を知らないまま高座に上がることを、
花團治は認める事ができません。


花團治宣材400





「三代目花團治」襲名後、おかげさまで多くのご依頼をいただくようになり、
月4回の愚か塾稽古日を確保することも難しくなってきました。
だからこそ、貴重なこのお稽古日を、
一緒に学びあえる方々とのみ共有したい。
「チャチャっと教えてくれたらそれでいい」という方に
心を乱されたくないのです。

落語の敷居は限りなく低く広く、誰でも楽しめる芸能です。
それは間違いありません。
ただ、花團治の落語塾の門は決して「誰でもOK」ではない。
そこを間違えないでいただければ幸いです。


・・・長々とすみませんでした。

ここまでお読みいただき、
「花團治の落語が好きで、習いたい」という稀有な方は、
ぜひ下記に目を通した上で、「花團治公式サイト」の
お問合せフォームより「体験入塾希望」とご連絡ください。
※ 体験稽古にご参加いただき、
ご自身に合うかどうかをお確かめいただいた上での入塾となります。
体験稽古の場での入塾勧誘などは一切行いませんので、
じっくりご検討の上、メールにて入塾するかどうかの返答をいただければ結構です。

愚か塾集合写真2019400
「愚か塾」塾生たちと共に



◆「愚か塾」稽古について◆

花團治の落語観に基づいて稽古を進めていきます。
また、稽古は花團治による口移しを基本とします。
塾生全員、まず「東の旅」の発端の叩きの部分と
「明礬丁稚」をマスターした後、個々の稽古に入ります。
個々の稽古は、基本として一人10分程度です。
年に1〜2回、発表会を予定しています。

[月 謝] 5,000円(月2回)
[稽古日] 月に4回、設けますので、そのうちから2回をお選びください。
      (原則として月・水曜日。一回つき最大15名)
[時 間] 19時〜 (玄関開錠18時50分、21時半終了予定)
[必要なもの]録音機器
[禁止事項]
・ 裸足での入室
・ 宗教や政治団体などへの勧誘
・ 商品等のセールス
・ 他の稽古人の中傷・批判行為
・ 他の落語教室・落語サークルに同時所属
・ 無断でのコンクール・落語イベント参加

【注意事項】
・ 稽古日のご連絡は前月の20日前後となります。
・ 3か月以上の無断欠席が続く場合、もしくは4ヶ月以上お休みとなる場合は、一旦退塾とさせていただきます。
・ 愚か塾からの連絡事項はすべてメールで行い、稽古日選択はネットサービス(「調整さん」サイト)を使用します。
(メール発信元:info@hanadanji.jp)
電話での対応は基本的には行いませんので、メールおよびネット環境をご準備ください。
・ お稽古日は各日最大人数15名に設定します。希望日が集中した場合は申し込み先着順とします。
・ 風邪等、体調不良の場合は、他人へうつる可能性がありますので、
なるべく参加をご遠慮ください。(その場合、同月内の他のお稽古日に振替可能です)
・ 愚か塾は個人宅での私塾なので、カルチャーセンターのような設備や対応はもちろん不可能です。子どもの声や生活音・生活臭などが気になるかもしれませんが、花團治家族の最大限の協力によって塾を続けることができていることを、どうかご理解ください。

【卒業制度について】
前述のとおり、愚か塾では「アマチュア落語家として活動したい」という方の入塾を基本的にお断りしております。
しかしながら、長年お稽古に励まれた上で、もっと自由に落語を楽しみたい!という思いを抱かれた場合、それを否定する気持ちは全くありません。
「お稽古した落語に創作を加えて発表してみたい」
「ボランティア活動で老人ホームなどで披露したい」
「落語仲間と自主公演をしたい」
という方に関しては、入塾3年以上であれば退塾ではなく「卒業」という形で喜んで送り出し、あらたな屋号で色々な活動をしてほしい、というのが花團治の願いです。
ただ、「愚家」など花團治と直結する屋号での活動には花團治の責任が伴いますので、花團治がすべてのチェックをする余裕が無い以上、「愚か塾」の屋号で
自主活動することを容認・サポートできない旨、ご理解ください。


フレイムハウス外景2の400
「愚か塾」の前に、まずこちらの教室にお越しになりませんか。「一回完結型」。
こちらはどなた様もお気軽にご参加いただけます。  ↓
※北浜「フレイムハウス」落語講座の詳細はここをクリック!





春蝶生誕祭2019500
※「二代目春蝶生誕祭」の詳細はここをクリック!


米蔵寄席2019400
※「米蔵寄席」詳細はここをクリック!



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225.揺れる~大人ブランコのススメ~

昭和37年、ある日の夕方。駅近くの児童公園。
それまで元気に走り回っていた子どもたちの姿は
もうそこにはなかった。
そんな公園の片隅に一人ポツンとブランコに揺られながら
じっと遠くを見つめる青年がいた。
それにしても誰もいない公園で大人の一人ブランコは
何とも孤独である。

青年はこの界隈ではちょっとした有名人で
公園でのこの行動がよく目撃されていた。
「落語家さんのお弟子さんらしいで」という情報も
知れ渡っていた。「修行って厳しいんやろな」と皆が噂しあった。
「彼は涙をこぼしていた」と証言する人もいた。


やがて青年はブラウン管に登場し、
この界隈だけでなく多くの世間が知ることになる。
この青年こそ、後にぼくの師匠となる二代目桂春蝶であった。

ぼくはこの師匠の若かりし頃の話を、
近所で和菓子屋を営む女将から聞いた。

ブランコセピア400



ブランコと言えば、黒沢明監督の映画『生きる』を思い出す。
『生きる』とは胃がんを宣告された役所勤めの主人公が
様々な困難と闘いつつも目的を成就させたのちに死んでいくという物語。
この映画の冒頭は胃カメラの写真と共にこんなナレーションから始まる。

「これはこの物語の主人公の胃袋である。幽門部に胃ガンの兆候が見えるが、本人はまだそれを知らない。……これがこの物語の主人公である。しかし今この男について語るのは退屈なだけだ。何故なら彼は時間を潰しているだけだからだ。彼には生きた時間がない。つまり彼は生きているとは言えないからである」



このあと、彼は意を決してある決断をする。
それが元となって良からぬ連中に命を狙われたりもする。
「命がいらねえのか」と凄まれる場面でニヤッと笑い返す主人公は
何とも不気味で格好良い。
ブランコのシーンが出てくるのは終盤近くだ。
主人公演じる志村喬がブランコに乗りながら「ゴンドラの歌」を口ずさんでいる。

いのち短し恋せよ乙女
あかき唇あせぬ間に
熱き血潮の冷えぬ間に
明日の月日はないものを


志村喬生きる400


『生きる』の上映は昭和27年。
映画好きの春蝶のこととて当然この映画も観ていたに違いない。

20歳になって咄家に入門した師匠は
ブランコに乗りながら自身を主人公になぞらえ、
「どう生きるべきか」を問い続けていたのだろうか。

そう言えば、志村喬の風貌はどことなく師匠とも似ている。


志村喬400
志村喬


春蝶、立ち切れ、縮小版
二代目桂春蝶(撮影:後藤清)



一説によると
「ブランコはかつて幼児だった自分に
やすらぎを与えてくれたゆりかごの代わり」
ということらしい。

だから、大人ブランコは漕ぐというよりもただ揺られるだけなのだという。

今も子どもの姿が見えない日が暮れ前か早朝の時間帯、
スーツ姿の男性を見かけることがある。
あるいは夜中の若い女性。失恋なのか、
夫婦喧嘩でもしたのだろうか。
ある日、ぼくも試しに子どもたちがはけた近所の公園のブランコに腰掛けてみた。
キーコキーコという鉄の触れ合う音が妙に心地良い。

サビ鉄の匂いも何故だか脳を刺激するようだった。
いつしかただ揺られるではなく強く漕ぎ出していた。

なんだか無心になっていた。
びっくりするぐらい空が高く見えた。

以来、ぼくは考えに行き詰るたび公園に通うようになった。

すっかりブランコのお得意さんになった。

「いのち短し恋せよ乙女
あかき唇あせぬ間に
熱き血潮の冷えぬ間に
明日の月日はないものを」の鼻歌も忘れない。

二代目春蝶が若かりし頃、師匠宅をそっと抜け出しては
ブランコに揺られていた意味が少しわかったような気がした。





※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。





花團治の会5チラシ
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春蝶生誕祭2019500
▶チケット発売開始は2019年8月5日(月)です(全席指定)


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224.すべてはアフターのために~神管寄席後記~

興奮と感動からの学びは
子どもの目の色を変える。

先日、その瞬間を目の当たりにする機会に恵まれた。
神戸でクラシックの演奏会があって、
ぼくはその語り部として参加させてもらった。
曲の合間に作品の時代背景や
その曲の風景を落語風に紹介していくのだが、
公演を無事に終え、ホッとしながら楽屋で着替えをしていると
モニターに小学生10余名と楽団員らの姿が映し出された。
気になって舞台に駆け付けると、
それぞれの奏者が子どもたちにマンツーマンで教えている光景があった。

神管寄席ナビゲーター

神管寄席400
神戸市室内管弦楽団の演奏するムソルグスキー「展覧会の絵」のナビゲートを務めさせて頂いた。


初めて楽器に触れるのか、
おそるおそるといった表情の子どもたちもいて、
彼女らは高揚しつつバイオリンやヴィオラの弦に弓を当てていた。
チラシにはワークショップがあるとは一行も書かれていなかったが、
お客様をお見送りする際の呼び掛けで
興味を持った子どもたちが自発的に参加しているらしい。

今回の演奏会は「子どものための~」と銘打っているわけでも何でもないが、
休日の昼間ということもあって親子連れがちらほら見受けられた。
言うまでもなく楽団の演奏はとても素晴らしいものだった。
それに感動した子どもたちがその直後に初めて楽器に触れ、
しかもその演奏家からじかに手取り足取り教えてもらえるのである。
興奮して当たり前である。当初は鳴らすことさえ困難だった楽器が、
わずかの時間に簡単な演奏ができるぐらいにまでなった。
関係者の一人がぼくにこう耳打ちした。
「この試みはね、楽団員たちが自発的に始めたものらしいですよ」

神管寄席カーテンコール
いつもなら下げを言い終わってすぐに引っ込むが、クラシックではカーテンコールがつきもの。
これは何度やっても気恥ずかしい。こればかりは慣れるまで時間がかかりそうだ。



落語にとって偏った先入観ほど余計なものはない。
小学校に出向いて落語を聴いてもらうという活動はずいぶん前からあるが、
おそらく落語初体験であろう彼らに対して
それなりの緊張感と責任をもって臨むべしということは、
ぼくも肝に銘じているつもりだ。
これまでに数えきれないぐらいの体験学習をやらせてもらったが、
いつも気にかかるのは担当の先生による前説だ。
「落語は江戸時代に発祥した芸で日本の古典芸能のひとつ。
昔、生國魂神社の境内において…」云々。
たいていは5分以内で終わってくれるが、なかには15分以上のことも。
それが落語への良いツカミになってくれるならいいが必ずしもそうとは限らない。
ますま子どもたちから落語が遠かる結果を招くこともある。

ぼくが登場する頃には「どれほど難しくて高尚な芸能か」と
すっかり身構えた子どもたちの姿。
そうなると、まずその気持ちをほぐす行程から入ることになる。
「先ほど先生からオチという説明があったよね。
オチはクイズの答えのようなもんです」
いくつかのトンチクイズで「なるほど」とか「そんなアホな」という感覚を
じゅうぶんに堪能してもらったところで、
「さて、次はどんな答えでしょう?」とようやく落語に入ることになる。

はづかし小学校1
小学校での落語ワークショップ




薀蓄を語るなら落語の楽しさを満喫してもらってからに限る。

同じ情報や知識を伝えるにも編集や構成次第。

落語のみならず、
講師を務める大学の授業でもぼくはそれを怠り、
ずいぶん苦い目に遭ってきた。
その点、冒頭に紹介した管弦楽団の取り組みは
クラシックのすそ野を拡げるということにおいても申し分のない試みだった。

「ひょっとしてこの日の演奏は
すべてこの瞬間のために
あったのではないか」
とさえ思えてきたのだった。



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。




さて、次はヴィヴァルディ!
関西チェンバーオーケストラとヴィバルディ
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花團治の会5チラシ
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神管寄席記事




223.壁に耳あり障子に目あり、弟子の背後に師匠あり~師匠はいつだって見守ってくれていた~

ぼくが落語家の世界へ入門した頃は
携帯電話やスマートフォンなど存在せず、
ポケットベル登場よりも以前のこと。

師匠(先代春蝶)の鞄持ちをしていると、
その立ち居振る舞いについて
師匠のマネージャーからいろいろ指導を受けた。

師匠が公衆電話の前に立つときはメモと筆記用具を携え、
十円玉をたんまり用意してさりげなく後方に控える。
あくまでさりげなくというのが基本だった。

師匠が楽屋にいるときは
呼ばれてすぐに走ることのできる場所を確保した。
師匠の目に入り過ぎても良くない。
かといって、目の届かない場所では用を為さない。

いかにも「私は仕事をしています」といった
アピールも師匠は嫌がった。
その代わり、いつもぼくの行動を見ていないようで見ていた。

三代目桂春團治一門口上400
二代目桂春團治三十三回忌追善興行(厚生年金会館)
前列右端が先代桂春蝶、一番後列の右から三人目がぼく。
(蔵:前田憲司)



ぼくが初めてラジオのパーソナリティーを務めたのは
入門してわずか半年後のことだった。
月曜日から金曜日までそれぞれ違う若手がスタジオに入ったが、
その半年後に番組が打ち切りになった。
ところが、その時の若手陣は皆が次のレギュラーにありついた
…たった一人を除いては。その一人がぼくだった。

とても悔しかったのを今でも覚えている。
ぼくは師匠の家に住み込みだったので、
何食わぬ顔で内弟子としての用事をこなしていた。


そんな時、ぼくが部屋で一人落ち込んでいると
師匠が階下からトントンと二階に上がってきて、
扉の向こうから声を掛けてきた。

「あのなぁ、ヒーローちゅうもんはな、
最初は必ず挫折しよんねん」


これだけ言うと、師匠はまた下に戻っていった。

師匠はぼくを
いつも見守ってくれている


胸がいっぱいになり、涙が止まらなかった。


花團治20181108春蝶パネルと
師匠の写真を挟んで、左が三代目春蝶、右がぼく。
(撮影:相原正明)




弟子を見守っていたのは、何もぼくの師匠に限ったことではない。
例えば、桂小春團治師匠。
小春團治師匠はぼくの師匠の弟弟子で、
落語家の家系図でいえばぼくの「おじさん」ということになる。

落語家初のブロードウェイ公演を成功させたり、
Newsweek日本版の特集で「世界が尊敬する日本人100」にも選ばれたりするなど
華々しい経歴の持ち主。
上方落語界きっての知性派で創作落語の雄としても知られている。

そんな小春團治師匠のもとに治門という弟子が入ってすぐの頃のこと。
一座に加えてもらったぼくがお寺での落語会に同行して
太鼓など鳴り物の準備をしようとした矢先、
小春團治師匠がぼくにこう言った。

「蝶六(当時のぼくの芸名)、
お前は動かんでええ!
…君らがやってしまうと
いつまで経っても彼(治門)が
仕事を覚えられへんやないか」


そう言って小春團治師匠は彼の視界に入らぬよう廊下の隅にへばりつき、
まるで忍者のように姿を隠して彼の仕事をじっと見守っていた。
その不審きわまりない姿にぼくは笑いをこらえるのに必死だった。
いつもクールでダンディな師匠だから余計に可笑しかった。

「あいつはな、歳がいってからこの世界に飛び込んだから時間がないねん」

その時、限られた内弟子生活のなかで
必ず彼を一人前にしてやろうという師の強い親心を感じた。


小春團治、2018国立演芸場400
桂小春團治(撮影:相原正明)


我が師匠の先代春蝶が亡くなって早や28年を迎えようとしているが、
兄弟子と会話をしていると今だふと口にする言葉がある。

「そんなことしてたら師匠にどやされるで」

「どこで師匠が見てるかわからへんがな」


師匠はもうこの世にはいないのだが、本当にそんな気がするのである。
でも、大きく道を踏み外すこともなく今日に至っているのは
この意識があればこそかも知れない。

師匠の目は永遠。

「見張る」でなく「見守る」


うちの師匠はいつもこうだった。




※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



神管寄席500
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賑わい座2019-500
落語と利き酒2019500
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※写真家・相原正明のつれづれフォトブログは
こちらをクリック!



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222.初めてあぐらをかいた日~師匠からのお免状~

師匠(先代桂春蝶)のもとに入門して、
まもなく10年を迎えようかという頃だった。
ぼくはその日、師匠の家で晩酌のお相手をしていた。
当然、師匠の前ではしっかり正座の姿勢である。
とその時、師匠がおもむろに切り出した。
「蝶六(ぼくの前名)はうちに来てどれぐらいになる?」
「かれこれ10年近くになります」

「そうか・・・足を崩したらどないや」

ぼくは一瞬耳を疑った。
これまで師匠の前で足など崩したことがない。
躊躇していると、もう一度師匠は繰り返した。
「ええから、足を崩さんかい」
「は、はい。ありがとうございます」

もしこれがドッキリカメラだったらどうしよう…などと考えながら、
ぼくはまず姉さん坐りになった。
「遠慮せんとあぐらかいたらええねん!」

そのあと、ぼくはしっかりあぐらをかかせてもらい、
「まぁ呑みぃな」と差し出された師匠の盃を
なんともぎこちなく受けたのであった。


春蝶の家族と共に
師匠の家に住み込み時代(中央が先代春蝶、その右隣に現・春蝶)


入門してからのぼくは三年間、師匠の家に住み込みをしていたが、
その頃、よく兄弟子らが師匠のご機嫌伺いにやって来た。
兄弟子らは一線を超えない程度に
タメ口混じりに師匠と談笑するのが常であった。
それは師弟を超えて本当の親子のようで、
ぼくには羨ましくてしょうがなかった。

ぼくはといえば、年季が明けてからも師匠の前ではいつもガチガチ。
「いつかあんな感じで師匠と話ができたらいいな」という思いは
ずっと心の片隅にあった。
そんなぼくにとって師匠の言いだした「足を崩さんかい」は
大きな免状であり、
弟子としてようやく正式に認められたような心持ちになったのだ。

これを機に師匠との新しい付き合い方が始まるのではとおおいに期待をした。

でも、その翌年に師匠は他界した。

20181108二代三代春蝶とぼく
先代春蝶の遺影を挟んで、左が現・春蝶、右がぼく(撮影:相原正明)



内弟子生活には様々な規制があった。
酒や煙草の禁止はもちろん、
外での用事を済ませたら真っすぐに帰って来なければならない。
それでいて休みは年に二日程度。師匠はぼくにこう言った。

「ツライやろ。けど、今はバネを巻く時期や。
ここを出たら目いっぱいに弾けたらええんや」

しかし、意外にぼくはその生活にさほど辛さを感じなかった。
朝のご飯の支度や犬の散歩などはルーティンワークにしてしまえば
ツライという気持ちなどさらさらなく当たり前の範疇だった。
二十歳過ぎの若者にとって、見るもの聴くもの全てが新鮮で毎日が刺激的だった。
弾け損ないのぼくはどうやらバネがユルユルのまま年季明けしてしまったらしい。


20181108三代春蝶と対談
先代春蝶の想い出ばなしに花を咲かせる現・春蝶(左)とぼく(撮影:相原正明)


師匠の言うことは時を経て変わっていく。
前に言っていたことと全く正反対のことを言われるなどざらにある。
例えば、入門時に「どんどん声を前に出せ」と言われていたのが、
ある時期を境に「そんなに声を張る奴があるかい!」となる。
当初は「わしの真似をせぇ」が、
途中から「わしの真似をしてどうするねん!」となったり……。

でも、それは師匠がぼくのことを
ずっと見てくれていたということに他ならない。

芸能玉手箱201801花團治
(撮影:相原正明)


最近になって、昔はとても怖くモノも言えなかった落語家のある先輩と
二人で酒を酌み交わすことが増えた。
気がつけばぼくも芸歴36年。昔とは違った付き合い方がある。
「兄さん、それはおかしいのと違いますか?」なんてことを
あの頃は口が裂けても言えなかったが、今なら少しは突っ込める。
もちろん、そこにはわきまえなければならない結界というものがある。
それを間違うと「お前が言うな!」と叱られるが
畏まり過ぎるのもかえって相手に気を遣わせることになる。
時間を掛けながら関係の距離を詰めていく過程が
人間関係の面白さであり難しさかもしれない。

もし今、師匠が生きていたら、
ぼくは師匠とどんな会話をしただろうか。

「親父、酒の飲みすぎはあきまへんで!」

一度ぐらいは師匠をたしなめたかったなぁ。





※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



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神管寄席500
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落語と利き酒2019500
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221.勘違いな「コミュ力」~お喋りにご用心~

聴衆のなかには必ず相槌上手な人がいるものだ。
「ほぉ」「なるほど」「そんなあほな」
……黙っていてもそういうシグナルを適確に送ってくれる人がいる。
話し手にとってこれほどありがたい存在はない。
なかには腕組みの姿勢で口をへの字に不貞腐れたような態度で臨む聴衆もいるが、
そういう人に限って終演後に名刺を携えて寄ってくるから始末に負えない。
つい「壇上からも見えているんですよ」
ということを言いたくなる。
それにしても相槌というものは頃加減がムツカシイ。


イシス、扇子と膝


先日、落語を習いたいと相談に来られた男性と話していた時のこと。
その方は過剰に相槌を打つ方だった。
おそらく相手に返事を返さねばという意識が強いのであろう。
相槌だけでなく、そこへ絶えず持論を挟み込んでくるので話がなかなか前に進まない。
その方曰く「職業柄、人前で喋ることには慣れてるんです」。
具体的な仕事までは聞かなかったが、
おそらく落語でそのスキルを高めようと思ったのであろう。
お喋り上手を自負する人ほど
得てして聞くのが下手だ。


イシス、これでもか



「笑いは緊張の緩和である」と言ったのは
古くはドイツの哲学者カントであった。
人は笑うとき=すなわち緩和されたときに息を吐くものである。
逆に緊張したときに息を詰める(吸う)。

例えばこんな小咄。
JRのとある駅に置かれていた投書箱に向かって叫んでいる男性を見かけた。
不審に思ってその理由を聞いてみた。「だってこの投書箱に書いてあるから」。
その投書箱にはこう書かれていた。「あなたの声をお聞かせください」。
ジョークとしてオモシロイかどうかはさておき、
この小咄を演じるときの咄家の呼吸はこうである。
「こう書かれていた」と言って軽く息を吸う、
次に「あなたの声を~」では息を吐きながら言う。
一方、聴き手はどうだろう。
「こう書かれていた」で「何と書かれていたのか」を考えつつ息を詰め(緊張)、
「あなたの声を~」を聴いて
「あぁなんだ、そういうことか」と息を吐きつつ笑う(緩和)のである。
つまり、話し手と聴き手の「吸う」「吐く」がぴったり一致してこそ笑いが生まれる。
「イキが合う」とはまさにこのことだ。


イシス、大久保さんと


落語家としてよく質問されるのが
「どうすればコミュニケーション力を高められるか」という悩み。
むしろこちらが教えて欲しいぐらいだが、
多くのセミナー講師が口にする
「話し上手は聴き上手」というのはもっともなことだと思う。
相手に寄り添う気持ちがなければ会話が一方通行だ。

また、「どうすれば人前で緊張せずに話せるか」という質問も多いが、
そういう時には「深呼吸」というのも理にかなっている。
「意識しながら深呼吸すれば「気」の塊のようなものが
ドンと肚の底に落ちるのが実感できるだろう。

舞い上がっている人や興奮してがなり散らしている人を見れば
「肩から上」で喋っているのが見て取れるように、
落ち着いている人は「肚の底」で喋っている印象がある。
落ち着きのある人はすべからく「イキが深い」。
例えは悪いが、大親分とチンピラの違い。

「イキが深い」人は
「イキの浅い」人にも合わせることができるが、

その逆はどう考えても在り得ない。
そう考えると「イキが合う」云々の前に、
まずは「イキを深く」持って相手の話を「聴く」ことが大事だなぁと思う。



イシス、その道中の



さて、冒頭に紹介したくだんの男性だが
持論をひけらかせるだけひけらかして帰られた。
それほど自信があるにも関わらず、
なぜぼくのもとに相談に来たのか未だ謎が残るが、
彼には全く悪気はなく、ひと言で言うなら「聞く耳を持たない」人ということだろう。

ぼくは相槌さえ打たせてもらえなかった。




※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」に連載中のコラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。

※今回の写真は、イシス編集学校で講演を行った際のものを使わせていただきました。



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220.独りよがりなお喋り~”習う”って、羽に白いと書くんやで~

少し前の話だが、家人の治療のことである病院を紹介され、
そこで手続きに関する説明を受けることになった。
小部屋に通されるとずいぶん慣れた調子で担当の看護師が喋り始めた。
もう毎度のことなんだろうか、かなりの早口である。質問を挟む余地もない。
こちらに息を継ぐ暇も与えない。何か質問をしようものなら、
咎められるようなバリアさえ感じた。
何より彼女の語り口の独特な抑揚はひどく耳障りだった。
何とか話についていこうと努めるも全くの無駄で、
気がついた時には説明が一通り終わっていた。
「ご理解いただけましたか?」の問いかけにさすがに「はい」とは言えず、
「もう少し噛んで含むようにゆっくり言ってもらえないか」とお願いをした。
結果は同じことだった。
幸いにも看護師が喋った内容がそのままプリントされたものがあったので、
それを自宅に持ち帰って読むことにした。

看護師にとってはルーティンワークでも、ぼくにとっては人生初のこと。
もっと寄り添ってくれてもいいのではとぼくの憤りは増すばかり。
でもよくよく考えると、ぼくも人に同じようなことをしていないかと心配になってきた。

花團治、芸能玉手箱1-500
筆者・桂花團治(撮影:相原正明)



ぼくは落研(落語研究会)出身者である。高校生になって落語と出会い、
それからカセットテープの音源を元に見よう見まねで落語を演じてきた。
まず身につけたのがいわゆる落語口調。
独特の節回しに身を委ねるように来る日も来る日も同じ台詞を繰り返した。
発表会を観に来た級友たちは褒めてくれたものの、
感想は皆一様に「よくあれだけ長い台詞を覚えたなぁ」とか、
「まるで落語家みたいやなぁ」といった内容だった。
落語の内容に関することは誰一人として口にしない。
「オモシロイ!」や「また聴きたい」に及んでは皆無に近かった。
ぼくは次の日からまた同じように落語口調に身を委ねたが、
実はこの我流がかえって良くない結果に繋がっていたことを、
その時はまだ知るよしもなかった。

いっちょもみざくら
高校の落研時代



春蝶(先代)のもとに入門してしばらく経ったある日のこと。
師匠に稽古してもらう様子を横で聞いていた兄弟子の一人がぽつりとぼくにこう言った。
「お前、落研出身か?」。
褒められたとばかり思ったぼくはすかさず「はい、そうです!」と快活に応えた。
「やっぱり!…口調が落研やもん」。
そのときはあまり気にも留めなかったがこれはぼくを暗に批判していた。

師匠からは「“習う”ってどう書くか、知ってるか?
……そうや。“羽が白い”と書くねん」
という言葉をもらっている。

つまり、ぼくは師匠を忠実に真似ないばかりか、
学生の頃から身に沁みついた落語口調に寄りかかっていた。
それにそうした方が台詞自体は覚えやすく喋っていて気持ちも良かった。
落語を演るというより、”落語家のモノマネ”芸をしていたに過ぎなかった。
このことに気がついたのは、
ぼくが他人に落語の稽古をつけるようになってからのことだ。

春蝶、立ち切れ、縮小版
二代目(先代)桂春蝶(撮影:後藤清)



今、ぼくはとある公民館で落語サークルの指導を行っている。
ここに来るまで見よう見まねで覚えてきた人も多く、これが意外に苦労する。

かつて師匠はぼくに対し同じように思ったであろう。
沁みついた口調に寄りかかって大きな声を出していれば確かに気持ちが良い。
時折カラオケなどで自分の声に酔いしれる人を見かけるがあれによく似ている。
それを聴く者が心地良いかというとそうとは限らない。
本人の気持ち良さと反比例することがほとんどである。
あの看護師の独特の口調はいったい何だったのだろう。
きっと何度も同じ言葉を繰り返すうち、
それが独特のメロディとなって本人の身に沁みついたのだろう。

メロディを伴いながら物ごとを暗記するというのは決して悪いことではないが、
相手に伝える場合は別だ。自身の楽章を作ったはいいが、
そこに相手の気が入る隙間を一切作らなかった。

あのとき感じたバリアはそこから来ていた。
言うまでもなく、落語もまた聴き手ありきの芸である。
一方通行になってはいないか。独りよがりになってはいないか。

まずは自身の落語音源のチェックからだ。

愚か塾稽古風景1-500
筆者が主宰する落語教室「愚か塾」の稽古風景。いつも師匠が見守ってくれています。

※「愚か塾」についてのサイトはこちらから
(現在、定員を超えているためキャンセル待ちです)



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」の連載コラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



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219.繊細なコロス~2018M-1グランプリより~

 テレビで『M-1グランプリ』を観た。
結成15年までの漫才師のなかから日本一を決めるコンテストである。
現在の世相が色濃く反映されていてとても興味深いものであった。

今、パワハラやセクハラといった言葉を聞かない日はない。
それだけ世間は「言葉」というものに敏感である。
例えば、相方に対して「お前はハーフ顔やな」と持ち上げるように言いながら、
そのあと「東南アジア系のハーフやけどな」と落とすやり方。
以前ならドッと笑いが起きたかも知れないが、おそらく何割かのお客は引いたであろう。
自らのハゲやデブといった容姿を笑いにするといった自虐も諸刃の剣である。
過剰な自虐に対して審査員の一人も苦言を呈した。


花團治戎橋をわたり20181108国立
2018年11月8日、国立演芸場『花團治の宴』(撮影:相原正明)



人種や容姿、性といった話題は世間のみならず「取り扱い注意」である。
「笑い」の向こうには
少なからず傷つく者がいる。


一方、「殺す」という笑いにそぐわない言葉を使いながらも
嫌悪感を感じさせることなく高得点を獲得したコンビもいた。
何を言っても品があるのだ。世相に対する読みの深さゆえなんだろう。
トーンも含めたニュアンスなど言葉の扱いが実に丁寧で配慮に富んでいた。
個人的には、オシッコやウンコを持ち出しても
決して汚く感じさせることのなかった故・三代目春團治師匠を思い出した。


ブログ:福團治、ぼく、春團治
左から、福團治師匠、ぼく、三代目春團治師匠(撮影:相原正明)


『持参金』という咄がある。
出世を前にした商家の番頭が女中に手を出してはらませてしまったというので、
それを金物屋の佐助さんという人に相談したところ、
「こんなことが旦那さんの耳に入るとよくないので、
その女性をすぐにでも宿下がり(奉公人を故郷元へ帰すこと)させてしまいなさい。
持参金をつけてやれば誰かがもらってくれるでしょう」というヒドイ話。

ぼくも若手の頃に覚えたものの、
かなり後味悪くひとつ間違えばクスリともしない時も多々あった。
東京のある寄席では禁演落語のひとつとされているらしい。
そのことを耳にしたぼくは、最近あえて東京の別の寄席でそれを試みることにした。
ただし、覚えたての頃には考えてもみなかった問題意識が今は少なからずあるつもりだ。
当然、演じ方だって違う。

番頭が女性を引き受けてくれる男性に対して
「傷のこと(お腹に子どもがいること)は承知かい?」と問いかけるのだが、
それに対して「男の腹に子どもがおったら傷でっせ。
女の腹のなかに子どもがおって何が傷でんねん」

以前のやり方よりかなり憤ってみせた。

「出戻り」「シングルマザー」といった、
世間が一見あまり良しとしないようなことに対して
「それの何が悪いねん!」
としっかり居直ってみせるのも落語の役目である。

東京での反応はすこぶるイイものであった。
「何故この演目が禁演なんでしょうか?」という言葉も頂いた。
手前味噌で申し訳ないが、どのスタンスに立つかで
作品はおおいに変わるということを示せたように思う。


花團治見台20181108国立
2018年11月8日、国立演芸場『花團治の宴』(撮影:相原正明)


八百屋の店先で見られるような、
「おっちゃん、これ何ぼ?」「ほな500万両貰っときまひょか?」というような
つまらなくともほのぼのとした、相手と自分をつなぐ
平行(ヨコ)につなぐ
コミュニケーションの笑い
もあるが、
「笑い」の多くは
どちらかが優位に立つ垂直(タテ)の笑いである。

笑うことで心身ともに元気になれるがときに傷つくこともある。
「毒にも薬にもならない」という言葉があるように、
この手の「笑い」は常に毒のリスクを伴う。


花團治横顔20181108国立
2018年11月8日、国立演芸場『花團治の宴』(撮影:相原正明)


歴史を紐解けば、「芸能者」は社会という組織からはみ出さざるを得なかった、
落ちこぼれの民から生まれたという史実に突き当たる。
はみ出しているがゆえに大衆を外から客観的に見ることができた。
同時に彼らはその立ち位置ゆえに繊細であった。


「昔の漫才の方がおもしろかった」というご年配も多いだろうが、
こと言葉への意識という点において、
若手の漫才は年々「繊細にパワーアップ」して感心させられっぱなしである。




※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」の連載コラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



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218.思いやりの破門~死に際に見せた師匠の流儀~


「お前ら三人ともみんな出ていけ!
わしは弟子なんかいらん」

それまでにも何度か「破門」をくらっていたが、
この時ばかりはこれまでとは違う何かしら重みを感じた。


師匠(先代桂春蝶)の芸にはどこか哀愁みたいなものがあって、
「これでもか」と押して笑いを獲りにいくのではなく、
フッと零れ落ちるさりげないひと言に可笑しみがあった。
いわゆる浪花の代名詞のようなコテコテとは対極で、
ある評論家は師匠のそれを指して「引きの芸」と称した。

また、師匠の生前の咄のマクラ(本題へ導入するための世間ばなしや小咄)には
自虐的ともとれる内容が多々見受けられた。


20181108二代三代春蝶とぼく
東京・国立演芸場にて、当代春蝶とともに先代春蝶について語らせていただきました。
2018年11月8日、花團治の宴にて (撮影:相原正明)


「この間、弟子に稽古つけましてな。口移ししますねん。
わたしと同じように喋ってもらいますねんけど、
わたし、弟子に言いましてん。
『お前は何でそんなに下手くそやねん』。
そしたら弟子が『わたし、師匠の通りにやってますねん」

…それを語る師匠の何ともいえない表情が聴衆の笑いを誘った。
ちなみに、この弟子とはぼくのことである。

また、こんなマクラも印象に残っている。
「(客人の前で)あんまり弟子が無口なもんやから、
ちょっとぐらい何か喋ったらどうやと言うたら
『わたし人前で喋るの好きやないんです』。
それで弟子入りの理由を聞いたら、
口下手が解消できたらいいなぁと思いまして。
…なんやうちをカルチャーセンターみたいに思うてる」

ここでも弟子を馬鹿にするのではなく自虐的な笑いだった。

20181108三代春蝶と対談
当代春蝶の言いたい放題に場内大爆笑。彼と舞台上で対談するのは初めて。(撮影:相原正明)



春蝶の家族と共に
後列左端が内弟子時代のぼく、その前が三代目桂春蝶。
二代目春蝶のご家族と共に。


自身に起こったちょっとした不幸や残念、災難を
あたかも第三者のように見立て笑い飛ばすことを
「当事者離れの笑い」というが、
師匠はこれに長けた人だった。
不摂生がたたったのか、師匠は51の若さであの世に旅立ってしまった。


亡くなる半年前には大阪ミナミの繁華街でその姿があちらこちらで目撃されている。
「うちの店にフラッと入って来ましてな、
ずいぶん久しぶりでこちらもびっくりしたんやけど、
『マスター、えらい世話になったなぁ』と言うて、
チップだけ置いて出ていかはりましてん」

思えば、弟子全員が理不尽ともいえる冒頭の「破門」をくらったのもこの頃だった。
このとき感じた違和感は、「破門」を言い渡した後の師匠の言葉からもきていた。

「どうしても咄家を続けたいと
いうのやったら、(三代目)春團治に
預かってもらえるように、わしから頼んだる」



三代目春團治は師匠の師匠にあたる人だ。
師匠は我々が路頭に迷わぬように考えてくれていたのだろう。
それでも結局、弟子三人は今まで通り師匠の弟子として残ることになったが、
その頃すでに師匠は自分の残りわずかな時間と懸命に向き合っていたのである。
そのうえで、自分の家族や周囲の行く末ばかりを案じていたのであろう。

余名いくばくもない女性がフィアンセの将来を憂いて
別れを切り出すという展開が映画にもあったが、これにも符合している。


20181108国立楽屋
手前から、桂小春團治、三代目春蝶、ぼく、柳家花ごめ(撮影:相原正明)

先述した「当事者離れ」は自身を客観的に見つめることにも繋がっているが、
師匠は自分の死期すら客観的に見つめていた。
「自分を笑う」ということは、自分を相手より低い位置に持ってくることであり、
同時に弱者の立場に立つということでもある。

少なくとも「相手を笑う」ばかり考える輩にはできない芸当だ。
加えて、自分を離れたところから客観的に眺めるということ。
だからこそ、師匠は自分の死に向き合いながらも
周囲の行く末を案じずにはいられなかったのだろう。
今になって師匠の優しさが身に染みてよく分かる。
昨今は自身の主張を通せる者がデキル人として持てはやされる風潮だが、
自身を「阿呆だ、馬鹿だ」と笑い飛ばせる、相手よりへりくだれる人を
もっと評価していいのではないだろうか。
こういう人ほど物ごとを客観的に見ている。

「前へ前へ」の気持ちで歩むということも大事だが、
「一歩引いて」俯瞰的に見るということ
大事なんじゃないか。

あの頃、師匠はどんなことを考えていたのだろう。
師匠の見た風景が気になっている。

20181108国立幕
『第3回・花團治の会』終演、東京・国立演芸場にて(撮影:相原正明)


20181108柳亭市若お茶子

お茶子を務めてくれたのは、柳亭市若くん、市馬師匠のお弟子さんです。



※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
月刊「リフブレ通信」の連載コラム「落語の教え」のために書き下ろしたものです。



西川梅十三門弟会2018500


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217.顧客ファースト~まずは目の前のお客様から~

先日、うちの家内が意気揚々と帰ってきた。
家内はいわゆる「美容室ジプシー」というやつで、
『ホットペッパービューティー』というサイトを見ながら
色んな美容室を渡り歩いている。

初来店のときはクーポンが使えても
二回目以降は使えず値段が高くなるということがほとんどらしく、
そんなことも彼女を「美容室ジプシー」化させる要因の
ひとつになっているらしい。
しかし、今度ばかりはこれまでと少し様子が違っていた。
帰ってくるなり第一声が「今度からずっとここにするわ」。
確かに他所に比べてあか抜けているような気もする。
ちなみにこのお店は美容室の激戦区にも関わらず、
近隣の他の店に比べて少し割高である。
しかもクーポンによる値引きもほとんどしていない。
彼女はそんな強気なところが気になって店の門をくぐった。
その点について店主は、こんなふうに応えたという。

「クーポンで新規のお客さんを開拓することはできるけど、
それをするぐらいなら、今ファンでいてくれるお客さんの方を大事にして、
むしろこちらへ還元すべきだと思うんですよ」


ぼくはふと新聞勧誘のおじさんを思い出した。
新規客にはいろんなサービスをチラつけて購読をせまってくるが、
従来の顧客はほったらかしという印象がある。


敦賀、花團治
撮影:相原正明(敦賀落語の会にて)


ところで、寄席の楽屋に「つ離れ」という符丁がある。
これはお客が十名を超えた状態のことで、
「一つ二つ…」と数えて九つまでは”つ”の字がつくが、
それ以降はつかないところからこう呼ぶようになった。
ぼくが若手の頃は毎度のようにこの言葉を耳にした。
それほど一部を除いて落語会は客入れに苦心していたのである。
ぼくの場合、お客さんがたった一人ということもあった。


……三年前の春、ぼくは池田にあるアゼリアホールの舞台にいた。
蝶六から花團治への襲名だった。
ざこば師匠や文枝師匠も駆けつけてくれたこともあって会場はおおいに盛り上がった。
会場は1200名を優に超していた。
ホールの担当者が以前建具屋さんだった経験を活かして席を増設してくれていた。
もちろん、ぼくにとってこれほどの晴れ舞台は初めてだった。
お茶子さんがぼくの名ビラを返しただけで場内はどよめいた。
この時、ぼくの脳裏に浮かび上がってきたのは
まさしくあの頃「つ離れ」しない客席にいた方々の顔だった。
駆け出しのころからお付き合いのあるご贔屓さんの顔が浮かび上がってきた。
なかでもマンツーマンで落語をさせてもらった時のお客様だけは忘れられない。
そのお客様とは今も懇意にさせてもらっているが、その時がぼくとの出会いだった。

「あの時はホンマに辛かったでぇ、
(会場を)出るに出られへんしな」

そのお客様はどういう気持ちでいてくれているのだろうか?喜んでくれているだろうか?
そんなことばかりが脳裏をよぎった。
この襲名披露の日、この方はずいぶん大勢の友人に声を掛けてくれ、
その後、その友人らと共に祝賀会と称して大宴会を楽しんだのだという。

襲名会場20150426

花團治襲名披露口上
撮影:相原正明(2015年4月26日、花團治襲名披露公演、池田アゼリアホール)



さて冒頭の美容院の話から家内はこう続けた。

「あの(花團治)襲名でこれまで支えてくれてた人たち、
きっと最高に嬉しかったと思うわ。
あの方々のためにも襲名して良かったんと違う?
……今一番大事なことは、次にどんな喜びをファンに
提供するかということじゃないかしらん?」

ほんの少しの躍進とて
まるで自分ごとのように喜んでくれるご贔屓様の存在は本当にありがたい。
それぞれのご贔屓さん方が落語会に自分の知人や友人を引き連れて来てくれるし、
場合によっては自らが落語会を主催してくれたりした。
俗に「口コミ」というが、
この効果は新聞の広告やチラシ一万枚配るよりも絶大であろう。
これまで落語家を続けて来られたのもこういう方々がいればこそであった。
新規開拓ももちろん大事だが、まずは目の前のお客様を大切に

…一軒の美容室がとても大事なことを思い出させてくれた。


※この原稿は、熊本の(株)リフティングブレーンが発行する
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花團治の宴3-500

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朝日、二代目春蝶生誕祭
朝日新聞に、先日開催された「二代目春蝶生誕祭」の模様が掲載されました。








プロフィール

蝶六改メ三代目桂花團治

Author:蝶六改メ三代目桂花團治
落語家・蝶六改め、三代目桂花團治です。「ホームページ「桂花團治~蝶のはなみち~」も併せてご覧ください。

http://hanadanji.net/

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