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157.恩送り~師匠のおかげです~

「恩送り」という言葉があります。
「恩返し」じゃなくて、「恩送り」。


襲名のおはなしを頂いてから、その準備期間も入れると、
すでに二年近くになるわけですが、
日々「恩送り」を感じずにはいられませんでした。

落語家の諸先輩方のもとへ挨拶に伺うと、よく耳にしたのが、
「春蝶兄さんには、ずいぶん世話になったんや」というお言葉。

春蝶、立ち切れ、縮小版
故・二代目桂春蝶(1995年1月4日没、享年51)


東京の国立演芸場での御披露目。
笑福亭鶴瓶師匠は、すでに決まっていたスケジュールを、
方々に頭を下げてまで、こちらの予定に合わせて下さったのです。
そればかりか、動員が思うように進んでいないのを知った鶴瓶師匠は、
わざわざ自身のラジオ番組にぼくをゲストとして呼んでくれて、
おおいに宣伝に務めてくださいました。
おまけにポケットマネーで新幹線代と、別にご祝儀まで。

「こいつ、わざわざ大阪から祝儀もらいに来よったんや、
 俺はえらい災難や、ガハハ……」。

鶴瓶師匠とツーショット
文化放送「笑福亭鶴瓶のそれ」収録現場にて


そのラジオ番組のなかでこんな一コマがありました。

「俺が春蝶兄さんとこの一番弟子みたいなもんや」
「???」
「俺が春蝶兄さんにずっとついてたんはお前も知ってるやろ?」
「はい、それはもう、よく知ってます」
「俺は春蝶兄さんにずいぶん可愛がってもうたんや。恩義があんねん」


国立、手打ち
左から、桂春雨、桂春之輔、ぼく、笑福亭鶴瓶、柳亭市馬(落語協会会長)



また、池田アゼリアホールでは桂文枝師匠にも並んで頂き、
そのあと、ぼくは、桂文枝師匠率いる、
上方落語プルメリアボーイズの一員にも加えて頂きました。
ハワイアンのバンドです。
その練習の打ち上げの席でした。
文枝師匠が「ぼくの隣に坐り」とおっしゃって下さいました。

「ぼくは入門する時、春蝶兄さんについてきてもうたんや。
 高校の先輩やし、まず春蝶兄さんに相談してな。
 ……入門してからも、ようお叱りの電話をもろてな」

それは、ぼくも師匠の家に住み込みの頃、憶えがあります。
文枝師匠のところに電話を掛けたことがありました。
「おい、蝶六、三枝のとこに電話せい!」
ぼくがダイヤルを回しました。
文枝師匠が電話に出られると、ぼくは師匠に受話器を渡しました。



「今のぼくがあるのは春蝶兄さんのおかげや」


その打ち上げが終わって、
帰り間際に文枝師匠はぼくにこうおっしゃいました。

「今度はぼくの番やね」


つい先日、文枝師匠からご自身の創作落語を三つほど薦めていただきました。
「君にはこれが合うと思うねん」。
今、必死に台詞を身体に放り込んでいるところです。


花團治襲名披露口上
左から桂春之輔、桂福團治、ぼく、桂文枝、桂ざこば


プルメリアボーイズ
桂文枝と上方落語プルメリアボーイズ


これまでもそうですが、特にこの2年、
「恩送り」を感じなかった日はありません。
落語家の諸先輩方や関係者の皆さま、お客様方。
本当にたくさんの「恩送り」を頂きました。

ご贔屓さん方のこんな言葉が心に残っています。

「わしな、昔、にっちもさっちもいかなんだ時に、
 助けてくれた人がおんねん」

「若いとき、よう人の世話になったわ」

「ぼくの顔見たら、食ってるか、ちゅうて、
 必ず飯をおごってくれる人がおってな」


ぼくが今、
こうして落語家を続けていられるのは、
この「恩送り」のおかげ。
ぼくもまた、これはもう義務です。




ところで、海外にも「恩送り」に似た考え方があります。

「Pay it forward(ペイ・イット・フォワード)」
「善意を他人へ回す」という考え方です。


映画「ペイ・フォワード(原題:Pay it forward)」(2000年制作)
教師から「世界を変える方法を考え、
それを実行してみよう」という課題を与えられた中学生が始めたのは、
「自分が受けた思いやりや善意を、その相手に返すのではなく、
別の3人の相手に渡す」というものでした。

波紋は着実に広がり、彼の努力が報われていきました。
この映画の原作になったのは、原題と同名の小説。
その小説が生まれたきっかけは、
作者の車が治安の悪い町でエンストしたとき、
見知らぬ男二人が快く修理してくれたことだったそうです。


上についての詳しくは、無印良品のブログにありました。ここをクリックしてみてください。



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スキャン_20160221 (2)
◆ 3月12日(土)・13日(日)に
写真家・相原正明先生とのジョイントトークを行います。
詳しくは、ここをクリック!!!





らくごカフェ0324チラシ最新

◆ らくごカフェ公演についての詳細は、こちらをクリック!!!



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◆写真家・相原正明の
つれづれフォトブログは
ここをクリック!!!








156.池田市・タスマニア州ローンセストン市・姉妹都市提携50周年記念~相原正明写真展~

1962年(昭和37年)といえば、ぼくの生まれた年です。
当時、池田市民だった男子高校生がラジオの英会話を通じて、
オーストラリア・タスマニア州の女子学生と文通を開始。
それがきっかけで、
1953年(昭和40年)、ローンセストン市と池田市が
姉妹都市になりました。

池田市・五月山動物園のウォンバットやワラビーは、
実はローンセストン市からの寄贈だそうです。

ウォンバット

池田市・五月山動物園のサイトはここをクリック!


ところで、
ぼくの襲名行事を追いかけてくださっている相原正明先生。
「タスマニア親善大使」の称号をお持ちだということは、
初めて会ったその日に伺いましたが、
「池田市とタスマニアのローンセストン市が姉妹都市」
ということをぼくが知ったのは、
それから1年5か月近く経ってから。
確か襲名披露の前々日ぐらいだったと思います。

奇しくもぼくの襲名披露も池田市・アゼリアホール。
相原先生を交えての会食中、
アゼリアホールの関係者の方が、
「へぇ!相原先生って、タスマニア親善大使!?」
と異常に興奮されていたのを覚えています。

そのとき、ぼくは
「へえ、偶然にしてはよくできた話だなぁ」
ぐらいに思っていたのですが、なんと今年が
「池田市・ローンセストン市姉妹都市提携50周年」
という絶妙なタイミング!!!

そんなわけで、このたび相原先生の写真展が
池田市で開かれることになりました。

ご縁がつながっていくって嬉しいですね。


今から思えば、相原先生との出会いは偶然ではなく、
必然だったのかも知れません。



相原正明写真展「タスマニア」
「阪急池田」駅の改札を出て左へ70メートル「ギャラリーVEGA」

池田での写真展の模様は是非「相原正明フォトブログ」からご覧くださいませ。ここをクリック!


相原正明先生20140101
たまたま写真展の前を通りかかったのが2013年1月1日のこと。
「落語を撮らせていただけませんか?」「ええ是非。実は襲名が決まったところなんで、そのメイキングも撮っていただけたら……」というところからお付き合いが始まりました。



相原正明先生ツーショット高岡
先日、富山県高岡で開かれた写真展にて。相原正明先生とのツーショット。

相原正明先生と対談、高岡
写真展にて相原正明先生とのトークショー。



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相原正明「タスマニア」写真展
1月20日(水)~2月1日(月)
10時~18時(最終日は16時まで)

相原正明「桂花團治襲名記念」写真展
3月9日(水)~3月21日(月・祝)
10時~18時(最終日は16時まで)


※ 3月12日と13日は、
ぼくもトークショーで参加する予定です。
詳細が決まり次第、
HPやFBでもご案内させて頂きます。

国立、楽屋、鶴瓶師匠
撮影:相原正明


春之輔師のお小言
撮影:相原正明


船乗り込み、小春團治
撮影:相原正明


船乗り込み、後ろ姿
撮影:相原正明


襲名口上前、集合写真
撮影:相原正明


「桂花團治公式サイト」はここをクリック!


「相原正明つれづれフォトグラフ」はここをクリック!

155.春團治師匠のサプライズ~いたずら小僧の真骨頂~

                                             桂花團治公式サイトはここをクリック!


地下鉄の車内で
ばったりお会いすることが何度かあった。
ぼくが椅子に掛けて、下を向いて本を読んでいると、

「あのう……ひょっとして蝶六師匠と違いますか?」


お客さんかと思い、ふと顔を上げると、
そこには大きなマスク姿の春團治師匠。

「あ、どうもおはようございます」と慌てるぼく。

そんな時の春團治師匠は、
肩を少しすくめるように、
まるでいたずら小僧のような笑顔でした。

相手を驚かせたり、
サプライズが人一倍好きな方でした。




「今日はな、仕事やないさかい、無料の敬老パスやねん」

逆に、仕事の移動では、
決して、地下鉄無料パスを使わないという律義な方でもありました。



春團治師匠とツーショット
2015年4月25日・春團治法要(池田・受楽寺にて)  撮影:相原正明



ところで、それは2015年6月21日(日)のことでした。
住吉区民センターで行われた「春團治一門会」。
その日は「花團治襲名記念」と銘打っての開催でした。

ほろよい寄席・花團治襲名記念

トリの高座が終わって、ぼくが頭を下げていると、
「おじか~ん!」という鳴り出すはずの
追い出し太鼓が聞こえてきません。
代わりに現・春蝶くんがご陽気に飛び出してきました。

「今日は、兄さんの襲名記念ということで、
サプライズゲストにお越しいただきました!!!」

春蝶とツーショット
ぼくと、現・春蝶くん(右)


彼のことは、ぼくが入門して以来、小学1年の頃から知っている。
なにかよからぬいたずらでも仕掛けてくるんやないやろか?
ぼくは少し身構えた。
とその時、下座から流れてきたのは「野崎」。
春團治師匠の出囃子でした。


体調が思わしくないのに、
それを押してわざわざ
ぼくの襲名記念公演に駆け付けて下さった春團治師匠。
ぼくを驚かせようと、ぼくの出番が始まるまで
駐車場の車の中にずっと潜んでおられたそうです。
でも、そんなことなど露にも知らないぼくは、
出番前にネタを繰りにフラリ駐車場に。

その時のことを春團治師匠は振り返ってこうおっしゃいました。

「あん時はお前に見つかったらあかんと思て、
慌てて隠れたんやで」。



そう言って笑う春團治師匠は、
まるでやんちゃな少年そのまま。
「してやったり!」の笑顔でした。


ぼくに見つかるまいと
車の中で小さく丸くなって隠れておられた師匠の姿を想像すると、
今も笑みがこぼれてしまいます。


春團治師匠舞台挨拶
司会を務めた春蝶くんが、舞台上でマイク片手にスマホで撮ってくれた貴重な一枚です。

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こちらも撮影は春蝶くん。


花束を抱えて登場された春團治師匠の姿を見た時、
ぼくは思わず泣いてしまいました。

残念なことですが、この挨拶が、
公の前に顔を出した最後の舞台になってしまいました。


体調不調からぼくの襲名披露公演の口上に並べなかったこと。
それを春團治師匠はずっと気にされていました。
ご自宅へ伺うたび、
何度も何度もそのことを口にされました。
「蝶六、すまんなぁ」
ぼくはその一言だけで十分すぎるぐらい十分でした。

そんないきさつがあって、この花束贈呈でした。


あとで伺ったのですが、
襲名披露会場になったアゼリアホールにも、
春團治師匠から直々に電話があったそうです。
「蝶六の襲名をよろしゅう頼む」って。
「口上に並べなくてすまん」って。

襲名の挨拶まわりは、春團治師匠宅からの出発でした。
「ホンマはわしが行かんならんねやけどなあ、福團治!お前はわしの代行や!!しっかり頼むで・・・・・・
皆にな、文枝くんにも、ざこばくんにも、鶴瓶くんにも、くれぐれもよろしゅうにな」
そう言って、送り出してくださいました。
去年の3月でした。


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撮影:相原正明


春團治師匠宅
春團治師匠の向かいに座る女性は、初代花團治のひ孫・山田りこさんです。撮影:相原正明


春團治師匠宅表札
撮影:相原正明



……春團治師匠、
本当に、本当にありがとうございました。




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154.正月なので獅子舞について考えてみた~チンドン屋の流儀~

 「ちんどん通信社」は実に居心地がいい。


お正月の仕事始めといえば、
ここ数年「チンドン通信社」と現場が一緒である。
今年もやっぱり現れた。それも「獅子舞」として。
ぼくにとって、新春の寿ぎはあの篠笛の音色と共にある。

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上の一枚目が「ホテルニューオオタニ大阪」、二枚目が尼崎「ショッピングセンターつかしん」にて。元旦は「ホテルニューオータニ大阪」で落語、二日は「つかしん」で狂言でした。三枚目は、二枚目と同じく「つかしん」にて、金久寛章さんと狂言を演じているところ。

ブログ:金久寛章の狂言教室はこちらから


ところで、この獅子のモデルはライオンとされている。
メソポタミアや古代エジプトの前身にあたる古代アッシリアでは、
ライオンは権力や王の象徴であった。
そう言えばエジプトに見られるスフィンクスの身体がライオンである。

それがインドを経て中国に伝わり、
空想上の動物として獅子が生まれた。
日本には仏教と共に紹介されたというのが定説になっている。

先日、知人から獅子舞の身体の柄について問われたが、
見慣れているはずなのにぼくは全く思い出すことができなかった。
「唐草ではなかったか」と確認してみれば全く違っていた。
正解は渦巻きである。
これもライオンの名残だそうで、
若いライオンに一時的に現れるつむじを文様化しているらしい。

また、ライオンを元に空想から生まれたこの獅子は
邪気を食べてくれるというので、
いつもその前には親子連れの長い行列ができる。
ついでに申し上げると、文殊菩薩の乗っているのが獅子である。
獅子は文殊の使い。「三人寄れば文殊の知恵」という諺もある。
「獅子に噛んでもらうと賢くなる」というのはそういう所以からだろう。

また、獅子舞の胴体が緑色なのは文殊の乗る獅子が青毛獅子だからである。
昔は緑色のことを青色といった。

……薀蓄の羅列はこれぐらいに。

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さて、この獅子舞部隊であるが、「ちんどん通信社」だけで5チームもあるらしい。
毎年チンドン屋ならぬ「獅子舞部隊」がその日の仕事を終え、
事務所に戻って来たところで毎年恒例の大宴会が始まる。
いつしかぼくもその宴に参加させてもらうのが毎年の恒例である。

いつもここはとても居心地がいい。


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なかなか皆が帰りたがらないいつもの宴会。林幸治郎代表の「ぼちぼち寝ますわ」が御披楽喜の合図。


ところで、「ちんどん通信社」は
自他ともに認める練り歩きのプロである。


チンドンであれ獅子舞であれ、
その舞台の多くが劇場など演技するための専門空間ではなく、
人々が行き交う共有空間であるということだ。

座長の林幸治郎は著書『チンドン屋!幸治郎』のなかでこう述べる。

「路上で何かやるにあたっては、様々なテリトリーの境界とか、その隙間とかを手掛かりにしながら、周辺に対して注意深く手順を踏まえてコミュニケーションをとっていくことが大事です」。


例えばホテルのロビーや商店街など周囲に応じて音を大きくしたり落としたり……

あくまで「憚りながら」という基本姿勢。

獅子だからといって威張っているわけにはいかない。
獅子の顔に驚いて泣きそうな子がいれば、
獅子の使い手はニコニコ顔で近寄り徐々に慣らしてから頭を噛む。

依頼主はショッピングセンターであっても
そこに来るお客さん方にとってはまるで予期せぬ存在である。
植木等のように「お呼びでない、こりゃまた失礼しました」も十分在り得る。


日常という空間のなかに突如割って入ってくる
非日常的な存在ならではの流儀は常に相手側の気持ちを意識することから始まる。

……と、ここまで書いて、
「ちんどん通信社」の集りが
なぜ心地良いかという理由が今はっきり分かったような気がする。


ぼくはずいぶん彼らに気を遣わせているんだなぁ。

今回の原稿は、懇意にさせてもらっている熊本の転職支援・紹介派遣の会社「リフティングブレーン」社さんの社報誌「リフブレ通信」の連載コラムのために書き下ろしたものです。いつも考えるきっかけを与えて下さって心より感謝です。
株式会社リフティングブレーンのサイト

花團治の公式サイトはこちらから

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153.病いはことばから~看護と狂言~

「これまでぼくはなんて独りよがりだったんでしょう」


最後に彼は自身の半生をポツリポツリと語りだした。
大阪青山大学での特別授業でのことだ。
それまでの笑いが渦巻いた雰囲気とはうって変わり、
一言一言を聞き漏らすまいという
学生たちの真剣な眼差しが印象に残った。

「ぼくは入院して良かったと思います」


ちなみにここにいる学生の多くは未来の看護師さんたちだ。

看護学科5

看護学科1

看護学科2



狂言師・金久寛章。

高校生の頃、演劇に出会った。
たいして興味もなかったが友人に誘われてその座に加わった。
ようやく自身を表現する場に出会えたと思った。
大阪芸術大学の舞台芸術学科に入学。
卒業後は「劇団四季」に入団したものの、
すぐに緑内障を患い、三か月の入院を余儀なくされた。

「医者は安静にしてなさいとおっしゃるけど、身体はピンピンしているんです」

暇を持て余すうち、彼の耳に飛び込んできたのは、
看護師さんと患者の会話だった。

「言葉の掛け方ひとつで患者の様子が変わるんです。
演劇人の一人として、いかに言葉が大事か、思い知らされましたね」


来る日も来る日も、その看護師さんの言葉に耳を傾けた。
言葉のトーン、温度、色合い、香り……
まるで味わうように、耳を澄ませた。

そんな入院生活のなかで、俳優を辞めようとさえ思う衝撃が走った。


「本当に小柄な看護師さんがね、大きな男性を全身で支えるようにして用をさせている場面を見てしまったんですよ。ぼくはね、人に感動を与えたいと思って舞台俳優になった。人を元気づけたいと思ってこの世界に飛び込んだ。けど、本当に元気づけたい人は見にも来れないんだなあって。困っている人に身も心もぶつかって働きかけていく看護師さんの姿を見ているうちに、ぼくはなんて独りよがりなんだろうって、ぼくはただ自分のしたいことを追いかけているだけじゃないかって……」

金久は無事退院したものの劇団に戻ることを諦めた。
そんな時、思い出したのが大学で教わった狂言の謡だった。

事故に遭わないように。
病気にならないように。
怪我をしないように。

そんな願いや祈りが芸能の原点であることを彼は師に学んだ。
そのことを思い出した。


春ごとに君を祝いて若菜摘む
我が衣手に降る雪を受くる袖の雪
拂わじ拂わでそのままに
運び重ね雪山を
千代に降れと作らん雪山を
千代に降れと作らん

看護学科4

看護学科3



狂言の稽古場で出会って以来、
かれこれ15年の付き合いになるが、
これほど自分のことをしっかりと語る金久寛章をぼくは初めてみた。
講義を終えた金久は実に清々しい表情だった。

おそらく彼女ら学生たちの眼差しがそうさせたのであろう。
そこにいるのはもう立派な看護師だった。

金久がぼくにこう言った。
「心根の優しい子たちですね」

大須狂言、金久&花團治、やい聞くか!



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152.自分以外はみな先生~夜間高校で学んだこと~

「これからは笑うてる場合やないなぁ」


夜間高校の教壇に上がるようになってはや20年。
ここには10代から70代までの学生が集っている。
70代というのは、
若い頃様々な事情からこれまで教育を受けたくても受けられなかった方々。
夜間中学から進学して来られる方も多い。
年に20コマがぼくの担当だ。


「落語の授業」とはいえ、ちゃんと試験というものがある。
試験を前にして、この日はその練習問題の日だった。

「テストがこないにムツカシイとは思わなんだ」
「授業やちゅうこと、すっかり忘れとったわ」
「落語聞いて笑とったらエライ目に遭うわ」


「笑うてるうちに学べる授業」を目指すぼくにとって、
この言葉は実に複雑。。。。。。
やはり、ぼくの授業はアハハと気軽にお付き合い頂きたい。

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試験の練習問題に励む学生たち


授業内容は、落語を中心に大阪の芸能を紹介していくというもの。
そこから何か考察に結びついていけばいい。


ちなみに先日の授業ではこんなやりとりがあった。

テーマは「戦後70年落語復活」だった。
一面焼野原で闇市が横行した時代に落語会を開こうと決意した当時の落語家の話。
「その頃は皆さん生まれてなかったと思いますが」とぼくが差し向けると、
老婦人の一人が「そんなことあらへん。わたしは当時七つでしてん」と語り始めてくれた。
机にうつ伏せていた10代の男子学生が突然ガバッと起きだして聞き耳を立てだした。
老婦人の話には臨場感があった。
空からバラバラと降ってきた焼夷弾の話。
ここにいる60代や70代の大半は在日韓国人である。
言葉では言い尽くせない苦労をしてきている。
でも、その人生の傍らにはいつも「笑い」の芸能があった。
そして、「ほんの一瞬でも辛いことを忘れて欲しい」と
心底願うばかりの芸人がいた。
ぼくもまた老婦人に教わる。

戦後復活第一回落語会
戦後復活落語会の案内(昭和20年11月21日)


「ブログ:戦後復活落語会」はこちらから


この学校では10代の若者が先生として大活躍だ。
70代のオモニが漢字の読み方を教わる。
「兄ちゃん、その恰好スゴイな」と声を掛けるオモニに対して
「そやねん」とはにかみながらも誇らしげなモヒカン頭の若者。
これらはみんなここでは当たり前の光景だ。

桃谷、授業風景1
黒板の前で説明をする学生

桃谷、授業風景、水田先生
時折、特別ティーチャーをお招きしてお話を伺うことも。
(写真は観世流能シテ方・水田雄悟先生、黒板の落書きは筆者)


またこんなこともあった。
10年近く前にこの高校で担当した学生の一人がぼくの出講する大学に入学してきた。
大学の食堂でばったり出会って、
それから彼とはよく箕面の学舎から大阪までの帰途を共にするようになった。


「なあ先生、先生は、
リストカットしたり登校拒否をする子の気持ちがわかるか?
おれにはよう分かるねん」。


彼は大学のなかでもちょっとした有名人だった。
質問魔として知られていて、
それは机上の空論だと教授に食ってかかることもあったらしい。
「ぼくな、大人は信用でけへんねん。
けど子どもは好きやからなぁ。
ほいでこの学校を選んでん。
ぼくな、学校の先生になろうと思うてんねん」。
彼自身、家庭内のゴタゴタをきっかけに生活が荒れて
前の高校を退学させられた子だった。
ぼくも当初はずいぶん手を焼かされた思い出がある。
でも、彼は少しの間にガラリと表情を変えていった。

……今、彼は中学の教師をやっている。




誰かがこんなことを言っていた。

「自分以外はみんな先生」

国籍も年齢もバラバラだからこそ
やれる授業がここにはある。



そう言えば、ここの先生が
「うちの学校には人権問題などありません」と胸を張っていた。
ぼくにはその意味がよく分かる。


桂花團治の公式サイトはこちらから

151上方落語の復活~戦後70年~

初代花團治は、終戦の3年前、
二代目花團治は、終戦の年に命を落とした。
ゆえに、二人とも「楽語荘」メンバーでありながら、
終戦後初・落語会への出演が叶わなかった。

このたび、終戦後復活落語70周年の企画が持ち上がった。
不肖、この三代目がその記念すべき「11月21日」の前座を務めることになった。

戦前の寄席事情から「楽語荘」誕生、終戦後の落語復活までの軌跡を
ここに記しておこうと思う。

戦後70年落語会



まだテレビ・ラジオのなかった時代、落語は娯楽の王道だった。
戦前は大阪の町のあちらこちらに寄席小屋が存在した。
しかし、ラジオの放送が始まり、
エンタツ・アチャコというスターが誕生したあたりから
寄席の中心も落語から漫才へと移行していった。
落語の出番は当然減っていった。
また、席主の意向により
軽口(漫才)や滑稽踊りへの転向を余儀なくされた落語家も少なからずいた。


初代花團治チラシ
落語家が漫才への転向を余儀なくされ始めた頃。トリに初代花團治(花團次)の名前がある。
(上方芸能研究史家・前田憲司・蔵)


エンタツ・アチャコ
エンタツ・アチャコ

そんななか、「このままでは落語という芸能が滅んでしまう」と
強い危機感を持ったのが五代目笑福亭松鶴師匠だった。
五代目師匠は東成区片江の自宅を『楽語荘』と名付け、
落語研究と新人養成に務めた。

五代目笑福亭松鶴
五代目笑福亭松鶴

楽語荘メンバー
左から、旭堂小南陵(のちの三代目旭堂南陵)、桂あやめ(後の五代目桂文枝、桂米之助、笑福亭枝鶴(のちの六代目笑福亭松鶴)、
前の子どもが和多田勝(当時、笑福亭小つる)


初代花團治は、落語への愛着とこだわりから、
寄席の世界から一旦身を引くことになる。
二代目花團治は、弟弟子の桂金之助と軽口(漫才)のコンビを組まされた。
しかし、五代目師匠の『楽語荘』結成により、
初代も二代目も、落語の世界に返り咲いたのである。

初代花團治500
初代花團治

二代目花團治500
二代目桂花團治


花團治代々について(花團治公式サイト)は
こちらから是非ご覧ください。




『楽語荘』の機関誌『上方はなし』の第一号で
五代目師匠は「巻頭言」としてこのように述べておられる。

「落語界の衰退ということがしきりに云々される。
漫才興隆して落語は凋落すともいわれる。
いわれるばかりでなく、事実が既にこれを雄弁に物語りつつある。
そしてこの事実は落語家自身の罪であるようにいわれることが多い。
なるほど、出てくる人物がいつまでも八つぁん熊さんでは困る。
江戸末期の世帯人物をそのまま踏襲してそれ以上に出ないこと、
それが昭和の御代、1936年の今日まで通用するわけがない。(後略)」。



昭和20年、日本は終戦を迎えた。


大半の寄席や劇場は大阪空襲で焼けてしまってもはや跡形もない。
闇市が横行していた。
市民は生きるだけでも精一杯の時代だった。それでも、


「こんな時だからこそ落語会をやろう」と言いだしたのは
五代目笑福亭松鶴師匠だった。


戦後復活第一回落語会
戦後初の落語会の案内状(上方芸能史家・前田憲司・蔵)

会場には焼野原のなか、ポツンと残された四天王寺の本坊客殿が選ばれた。
終戦の8月15日からわずか3か月、その年の11月21日午後1時、
大阪四天王寺本坊客殿は大勢の客でごった返した。
市民もまた「こんな時だからこそ」笑いを求めた。
そうして一度は滅びかけた落語界も大きく前進し始めた。
しかし、そんな矢先の昭和25年、五代目師匠が脳溢血で倒れ帰らぬ人となってしまった。

次いで昭和26年には立花家花橘師、四代目米團治師、
昭和27年には二代目林家染丸師、
昭和28年には二代目桂春團治師匠と、当時の大看板が相次いで亡くなった。
新聞はこぞって「此れで上方落語は滅びた」と書き立てた。


その頃はまだ若干28歳だった三代目春團治師匠が当時をこう振り返った。
「六代目(松鶴)さんとな、そらわしらが力合わせないかんなあて話をしてな、
それから米朝さんや文枝くん(五代目)もみんなで頑張った」。

ブログ:福團治、ぼく、春團治
右から三代目桂春團治、ぼく、桂福團治

今や落語界は250名を超える大所帯である。
今年は戦後に落語会が復活して70年の節目。
寄席ではその記念企画が予定されている。
ぼくもそのひとつに出演が決まった。
ここに「花團治」という看板を上げていただいた。
誠にありがたいことだと心より感謝している。

戦後70年落語会

文枝事務所
花團治襲名の報告に伺った際の一枚。桂文枝事務所にて。
この時、文枝会長が「君も協力してや」と襲名行事監修の上方芸能史家・前田憲司先生におっしゃった。
手前の大きな背中が前田憲司先生。(撮影:相原正明)


終戦後復活落語70周年落語会の詳細は
こちらの花團治公式サイト「出演情報」から
ご覧いただけます。

150.告別式での万歳三唱~石塚克彦先生、ありがとうございました~

葬儀会場での万歳三唱。
弔辞で語られるエピソードに思わず笑いが漏れた。
隣にいた女性も、その隣の男性も、
泣いた顔で笑っていた。



「前日までお稽古してたのよ」と
昔大変お世話になった女優の一人がぼくにそう言った。
「いっぱいダメ出しもらってさあ、明日も見るからなって、それが私への最期の言葉なの……私、先生に認めてもらおうとたくさん稽古したのに」

ぼくは促されるまま、棺の前に立った。
穏やかな表情が救いだった。


棺が納められた車が会場を後にする際、
自然に拍手が沸き起こった。
「ありがとうございます!」の声が聞こえた。
「お疲れ様でした!」の声も響いた。

ふるきゃら、石塚先生万歳三唱


参列者全員での合唱もあった。
ぼくが客演させてもらったとき、
エンディングもこの曲だった。

山と川と田んぼと海と生きてゆくのさオレたち、私達。
畑耕す愛しさを作物に添え、届けたいのさ、遠くの町へと
人を愛する切なさを山の彼方に叫びたい
川面を渡る川風を遠くの街へ届けたいのさ
胸に応える海鳴りを淋しいアイツに聞かせたい
山に沸き立つあの雲を届けたい、都会のビル谷間に
お前がいて、オレがいて、遠くの町に友達がいる
生きているのさこの町 私達のオレたちの町



みんな、力強く歌っていた。
ぼくも自然に歌詞が口をついて出た。
思わずステップを踏みそうになった。

石塚先生らしい葬儀だった。

会場には、先生が生前描かれた絵コンテが並べられた。

ふるきゃら、石塚先生絵コンテ1

ふるきゃら、石塚先生絵コンテ2

ふるきゃら、石塚先生絵コンテ3

ふるきゃら、石塚先生絵コンテ4

ふるきゃら、石塚先生絵コンテ5



告別式では石塚作品のダイジェスト版も上映された。


ふるきゃら、上映1

ふるきゃら、上映2

ふるきゃら、上映4




ぼくは「パパは家族の用心棒」という作品で舞台に立たせていただいた。

ふるきゃら、パパは家族の台本

ぼくが「ふるさときゃらばん」の舞台に立たせていただいたのは、
わずか一年足らず、50ステージほどである。
みんなで作り上げてきた舞台に突如ぼくが代演として加わることになったのだ。
「ふるきゃら」はミュージカルである。
慣れないダンスに、慣れない芝居、標準語。
ぼくはずっとアタフタしていた。
ぼくが稽古場の隅で一人ダンスの練習をしているとき、
役者たちが入れ替わり立ち替わり、ぼくに指導をしてくれた。
時折、石塚先生もそれをこっそりのぞきに来られた。



旅先で石塚先生が「創作」についてこんなことをおっしゃった。
俺にはさあ、創作能力なんて無いの。俺はね、制作が拾ってきた生の村人の言葉をつなぎ合わせているだけなの」
……「ふるさときゃらばん」で役者の発する言葉にはいつも「共感」があった。


稽古場に石塚先生の声が大きく響いた。
「台詞を喋ってんじゃねえよ!」
「その環境に身体を置けば、身体が反応して、自然に言葉が出てくるんだ!おれの本はそう作ってあるんだよ!」
……怒られるのはいつもボブと呼ばれる役者に決まっていた。でも、石塚先生は同じことをぼくにもっと言いたかったに違いない。けれども、ぼくは落語家で客演の身の上。だから、先生は代わりにボブにたくさんダメ出しをぶつけた。ぼくはそう思っている。それは、かつてぼくがざこば師匠につけてもらった「台詞をなぞらない稽古」とも符合していた。


ぼくの声はあまりに届かなかった。石塚先生は会場となった小学校の体育館の一番後ろに陣取って、ぼくにこうおっしゃった。
「蝶六よお、おれに言ってみなよ、その台詞。ちゃんと俺にさあ、届けておくれよ」
……石塚先生は決して「声を大きく!」なんてことは一言もおっしゃらなかった。
「大きな声を出す」ことと、「言葉を届ける」の違いをぼくは石塚先生から学んだ。

ふるきゃら、石塚先生遺影



1995年(平成7年)に発行された「応援談」。
そのなかに僕の拙文もそこに寄稿させてもらったことがある。
読み返してみれば何とも青臭い文章ではあるが、
今もその思いは変わらない。

ふるきゃら、応援談目次

ふるきゃら、応援談記事

 今からおよそ400年前、元禄頃、大阪の生国魂神社の境内において米沢彦八というお方がよしず張りの小屋を張り、落語を演じた。これが大阪における生業としての落語家の祖と言われている。いわゆる大道。見台を前に置き、それを小拍子と張り扇でもって音を鳴らしながら演じた。道行く人の足を止めるためである。発祥から上方落語は庶民のもん。生活者のポジションに立っていた。
 今は亡き我が師匠、桂春蝶に尋ねたことがある。
「何で大阪に真打ち制度おまへんねやろか」
「要らんやろ。ええか悪いか、そん時どきのお客が決めはるがな。その高座で、お前がお客を納得させられたら、そん時の真打はお前や」
さらに付け加えて
「たまには高座で俺をびびらさんかい」
「ふるきゃら」との出逢いは二年前、福島県のとある農村。小学校の体育館内には定式幕が張りめぐらされ、さながら時代劇に出てくる芝居小屋の様であった。どしゃ降りの雨の中、座布団持参の老若男女、千数百名、ぎっしり。終了してすぐ、劇団の大内代表に促されて会場前に出た。そこに居並ぶ役者の姿。その各々の前には握手を求めてお客の列。「ありがとう」の言葉が飛びかう。「よかった」を通り越して「ありがとう」。腰の曲がったお婆さんが涙で顔をぐしゃぐしゃにしている姿が印象的であった。
 「ふるきゃら」の魅力はこの言葉に集約されている。「私の言いたかったことをよくぞ言ってくれて、ありがとう」「元気にしてくれて、ありがとう」
 「裸になったサラリーマン」も然り。「ふるきゃら」は常に生活者の味方。「我々同様」。そしていつも真打ち。
 私は常に庶民の視点でモノを見ていきたい。「ふるきゃら」を見ると何故か今は亡き、春蝶のことを思い出すのである。

桂蝶六(1995年・応援談より)






襲名が決まったとき、ぼくは石塚先生からそのパンフレットに掲載する祝辞をいただいた。
劇団からこんな素敵な文章が送られてきた。

蝶六さんが花團治

桂蝶六さんが三代目花團治を襲名したという。
十年程前になるが、ふるきゃらが大阪で公演したとき、ミュージカルなのに笑いを取っていると評判になり、三枝 (現文枝) さんや春團治さんなど大阪の笑いの達人たちが観に来てくれた。その頃、若き蝶六さんもよく顔を出していた。気がついて見れば、蝶六さんはふるきゃらの旅公演に付いて来て、キャストの一員として舞台にも乗って芝居をしていた。いくら芸熱心だからと言って、落語家が急にミュージカル俳優に変身できる訳もなく、情け容赦も無い私の演出にジタバタしていた。だが蝶六さんは皆んなに好かれた。それは舞台に立つ人間の最も大切な要素かも知れない。蝶六さんは狂言の修業もしたという。ふるきゃらも一時(いっとき) 狂言を学んだことがあった。笑いの舞台を求めるものは、皆んな狂言にすがろうとする時期があるようだ。笑いは簡単に生み出せないから。その蝶六さんが花團治となった。花團治という名は耳馴れないが、蝶六さんが花團治という名を売り出してくれることだろう。ふるきゃらの劇団員は、花團治となった蝶六さんの芸をみんな見たいと思っている。大阪に行くことのたのしみが増えた。

                                         ふるきゃら 脚本・演出家  石塚克彦




石塚先生、ありがとうございました。
お世話になりました。お疲れ様でした。

先生にあれほど教えていただいたのに、
今だ思うほど成長できずにいる自分が歯がゆいです。
落語会にお招きできなかったことが心残りです。

これからも石塚先生に教えていただいたことをしっかりと
胸に刻んで歩んでいきます。

どうか安らかに……合掌。

ふるきゃら、石塚先生葬儀会場

ふるきゃら、石塚先生樒

一番はじめに、山田洋次監督の名前があった。
山田洋次監督は、『ふるさときゃらばん』の前身である『統一劇場』を映画にされた。
それを見れば、『ふるさときゃらばん』がどういう劇団なのかがよく分かる。
◆山田洋次監督・映画『同胞』予告編



◆「ふるさときゃらばん」関連のブログ記事



◆桂花團治公式サイトはこちらです

149.弟子の決断・師匠の覚悟(新聞コラム版)

当時、奥様は35歳。
小学1年生の男の子と幼稚園に通い出したばかりの女の子。
そんな平穏な家庭にどこの骨とも分からぬ20歳の男がいきなり転がり込み、
奇妙な共同生活が始まった。

ヘマばかりを繰り返す男。
それでも奥様は嫌な顔ひとつ見せず、行儀や礼儀作法の一から教え始めた。
この「男」とは、つまりぼくのこと。
師匠と一つ屋根の暮らしは緊張の連続だったが、
傍にずっといられるという喜びでいっぱいだった。

スキャン_20151015
師匠(先代桂春蝶)の右手に長男(現・桂春蝶)、その後ろにぼく


今なら分かる。

本当に緊張を強いられていたのは師匠や奥様、
そして子どもたちではなかったか。

家族団らんの場を奪い、ぼくが原因で夫婦喧嘩が引き起こされることも度々。
「ちょっと聞いてよ、今日、蝶六さんったら」と憤る奥さん。
「まあまあ……」となだめにかかる師匠。
逆に師匠の機嫌を損ねた時にはいつも奥さんがぼくを庇ってくれた。

内弟子の年季が明けた後、腹が減って死にそうなときは決まって師匠宅へ。
「あら、蝶六さん、どうしたの?」「あ、奥さん。今日はちょっと御礼奉公に」。
庭掃除と窓ガラス拭きに掛かるのがいつもの決まり。
そうしてぼくは久しぶりのご馳走にありついた。
「これタクシー代や。ええから、今日はタクシーで帰り」。
もちろんぼくはタクシーなど使わず、来た道を歩いて帰った。

師匠は全てお見通しだった。

飯を食わせて、商売の種である咄を授け、
たまには小遣いを渡したり・・・・・・師匠には見返りもない。

「わしも師匠の春団治(三代目)にそうしてもうた。お前もいずれせなあかん」。

春蝶、立ち切れ、縮小版


最近、師匠の息子の三代目桂春蝶くんと会話する機会が増えた
。「君が小さい頃、寝小便布団を干すのがぼくの日課やった」
「蝶六兄さんも隠れて煙草吸ってましたよね」

……あの頃、ぼくはずいぶん泣いた。でも、今となってはその全てが笑い話。


師匠と出会わなかったら、
ぼくはいったいどうなっていただろう。


師匠の年齢を超えた今も、師匠や奥さんの覚悟には到底及ばない。(了)


大阪日日新聞コラム「澪標」より
2014年11月

恋雅亭用、春蝶と。
春蝶くん(濱田大助)とぼく

○繁昌亭の楽屋、春蝶と花團治の談笑
襲名披露落語会の楽屋風景(撮影:相原正明)



桂花團治公式サイトはこちらから

148.憧れの恋雅亭~花團治襲名記念公演~

神戸「もとまち寄席」はぼくにとって特に思い出ぶかい落語会のひとつ。
内弟子の頃、師匠の鞄持ちとして何度も何度も通いました。

また、若手の間ではなかなか出番を割ってもらえない会として通っていて、
初めて番組に名前が名前が並んだときには、
「ああ、これでやっと落語家の端くれとして認めてもらえた!」と
祝杯を挙げたことをよく覚えています。

恋雅亭用、2
入り口には出演者の赤提灯が並びます。


そんな特別の寄席に
今回はトリで出演できるという喜びを今噛みしめています。


第447回 神戸恋雅亭「もとまち寄席」
蝶六 改め 三代目桂 花團治襲名記念公演

平成27年11月10日(火) 開場:午後5時30分 開演:午後6時30分
桂そうば  桂春蝶  月亭文都  桂ざこば (仲入) 
襲名記念口上  桂春若  桂花團治


詳細は、もとまち寄席のサイトをご覧くださいませ↓↓↓
神戸もとまち恋雅亭公式サイト


ぼくが内弟子だったあの頃、
ざこば師匠はうちの師匠(故・先代春蝶)とレギュラー番組をされていて
師匠宅にもよく遊びに来られていました。

そのたびに熱く語り合っておられたのをよく覚えています。
半ば喧嘩でした。
それを横手で聞きながら水割りを作るのがぼくの役目。

今の春蝶くんは今は亡き師匠の長男ですので、
彼もあのときのやり取りを二階の部屋でずっと耳にしていたはずです。
その彼が今、「もとまち寄席」の出番割を任されています。


襲名披露、ざこば師匠と。
撮影:山田りこ(初代花團治ひ孫)池田アゼリアホール花團治襲名披露にて

ざこば師匠の笑顔
襲名の報告に伺うと、体調不良にも関わらず、わざわざネクタイをしめて出迎えて下さいました。

恋雅亭用、春蝶と。
ぼくと三代目春蝶(濱田大助)

春若兄貴は親分肌で一門のなかでもご意見番のような存在。
襲名が決まって右往左往しているとき、
「なんか困ったときは一本電話おくれや」と言ってくださいました。
この一言がどれほど励みになったことやら。
・・・・・・ああ、なんや泣けてきた。

当日、どんな口上を述べてくれはるんやろ。

恋雅亭用、春若師匠
いなせでとにかく恰好ええんですわ。(高座を下りて来られた春若師匠。


今回の寄席では、春蝶くんが間に入り、
ぼくの希望を聞きながら
ずいぶん骨折りしながらもホントに良い番組を作ってくれました。

でも、心配事がひとつ。月亭文都さんです。
以前、「もとまち寄席」での彼の襲名披露の際には、
ぼくも口上に並ばせていただいたのですが、
彼の私生活をついついぼくが赤裸々に暴露してしまいました。
それはそれで微笑ましいエピソードだと自負しているのですが、

今度は文都さんの逆襲が怖い~
ちなみに、襲名口上の際、
当の本人は、黙って頭を下げたままというのがルールです。

その時の模様を世話人さんがレポートにまとめて下さいました。↓↓↓
七代目月亭文都襲名記念落語会レポート

……文都師匠、どうかお手柔らかに。



春蝶、立ち切れ、縮小版
先代桂春蝶


師匠、
師匠のせがれの大助が、あの「恋雅亭」の世話人になって、
それでぼくに電話をしてきました。
「恋雅亭」の出番の依頼でした。
初めてここでトリを取らせていただきます。


花團治公式サイトはこちらをクリック

147.大須大道町人祭~投げ銭の嬉しさ~

街が大道芸の舞台になる。

今年で38回目を迎えた「大須大道町人祭」。
15か所以上の特設ステージを含む会場では、
朝から晩までパフォーマンスが繰り広げられました。

大須17

大須16
林幸治郎率いる「ちんどん通信社」は「大道町人祭」草創期からの参加。この祭りをずっと支えてきました。

大須15
乙女文楽の吉田光華師匠。たった一人で操る文楽人形ですが、光華師の手にかかると何とも表情豊かです。

大須5
琵琶の音色と川村旭芳さんの語りに皆がうっとり。

大須6
何とも不思議なアングラ舞踊。思わず魅入ってしまいました。

大須3
ポールダンス。きれいなお姉ちゃんやった💛 もう釘づけです。

大須7
レパートリーは300曲以上。人間ジュークボックス。

大須14
プロレスも大人気でした。

大須11
当日のパンフレットにはスケジュールと各パフォーマーの紹介がびっしりと。パンフレットに紹介されている芸人だけでも48組。ステージ以外でのゲリラパフォーマーも加えれば、もっともっとたくさんおられたんじゃないかと思います。


ぼくは今年、初めてここに参加させて頂きました。
落語ではなく、狂言を演じました。

大須8
舞台袖の窓ガラスに映った相方の金久寛章をパチリ。

大須9

投げ銭というのも、ぼくにとって初めての体験でしたが、
思いのほか、たくさん入って驚きました。
あえてマイクを断って地声で勝負したのも良かったのかもしれません。
お客もすごく集中してくださいました。
何も知らずたまたま通りかかった通行人に
お喋りを止めるよう促す観客もおられました。
感謝、感謝です。


思えば、落語も大道芸からの出発でした。
元禄の頃に活躍された米沢彦八は今の谷町九丁目にある生国魂神社の境内において「辻咄」を演じました。

米沢彦八、境内の図
よしず張りの小屋のなかで辻咄を演じた米沢彦八。


それを記念して開催する落語ファン感謝デーが彦八まつり
毎年9月の第一土曜日曜に開催。今年で25年目を迎えました。
当初は生前より彦八の記念碑を強く望まれた六代目笑福亭松鶴
の命日9月5日
に合わせて第一回が催されました。


彦八まつり神社入り口


「狂言」もルーツをたどれば元々は屋外で演じたものでしょう。
「能楽堂」の背景「鏡板」に描かれている老松も
春日大社の「影向の松」がモデルとされています。
歌舞伎のルーツとされる出雲阿国も四条の河原で「かぶき踊り」を舞いました。



今回は「ちんどん通信社」さんのお力添えでこちらでの上演が叶いました。
それぞれ違うジャンルの芸人が集った楽屋。芸の話題でも盛り上がりました。

大須12
左から金久寛章(狂言)、吉田光華師匠(乙女文楽)、三輪さん(乙女文楽)、ぼく(狂言)

大須13
ちんどん通信社さんは楽屋でも新曲のお稽古。素敵な音色のご相伴に与れて大満足でした。

大須18
夜はガラリ変わって下世話な話で大盛り上がり。もちろんアカデミックで発展的なお話も。メインはこれからの展望についてでした。


いつもは「とったらもぎとり」という
前金制、返金お断りの世界にいるぼくにとって、
今回の体験はすごく大きなものでした。

お客との手応えが
そのまま目の前の現金に変わります。



もちろん寄席の世界も毎回がプレゼンのようなものですが、
よりダイレクトに反応が返ってくる体験に
多くを教わったような気がします。

今回は、狂言での参加とはいえ、
落語家の祖・米沢彦八に少し近づけたような、
そんな二日間でした。

お客様、関係者の皆さま、ちんどん通信社さん、
みなさんホントにありがとうございました。


さて、今日もこれから高座がありますのでブログはこのへんで。
昨日とはちょっと違う自分で臨んでみたいと思います。



ブログ:狂言のある生活

◆桂花團治の公式サイト

146.師匠自慢~繁昌亭落語家入門講座~

                     花團治公式サイトはここをクリック!


「うちの師匠はね、
ここんところの形がめっちゃ恰好ええのよ」

「うちの師匠はね、
ここんところをこう持っていくの」


「うちの師匠はね」と繰り返すのは主任講師の露の都師匠。


繁昌亭落語家入門講座の光景。
これが伝承芸能の楽しさかもしれない。

都師匠とおっちゃん2
受講生を高座に上げて指導する露の都師匠(手前)

「稽古」とは古(いにしえ)を稽(かんが)ふる。
古きものから学ぶということ。


「繁昌亭落語家入門講座」では、
皆が同一の演目をお稽古する。
皆が同じ台詞なのに各々違ってくる。
これがオモシロイところ。

「個性」は作るものではなく、にじみ出るもの。
つくづくそう思う。



入門講座16発表会16、リレー
修了式では受講生によるリレー落語


入門講座、芸名もらって集合写真
修了式では、桂文枝師匠命名による芸名が全員に手渡される。

入門講座、右露の都、左ぼく
謝恩会にて(左:露の都師匠、右:ぼく)

入門講座、打ち上げ終わりの集合写真
「繁昌亭落語家入門講座17期生」謝恩会の終わりに。


思えば、うちの師匠(先代春蝶)からも、
「春團治(師匠の師匠)にわしはこう教わった」とか
「今日は春團治に教わったとおりにやってみるさかいな」とか
そんな言葉をよく聞かされた。

ぼくもまた稽古をつけるときなど、うちの塾生に言わせれば
「うちの師匠はね」がどうやら口癖らしい。

愚か塾、稽古場
「愚か塾」の稽古場では師匠や先代・先々代の花團治が見守る。


ある日、師匠はぼくにこうおっしゃった。
「蝶六、お前は何でそこがそないになんねん?」
「師匠、ぼくは師匠と同じようにやってるんですが…」
「……そうか、わしはそんなに下手くそなんや」


それからしばらく、
師匠がぼくに稽古をつけてくれることはなかった。


繁昌亭でのお稽古では、
都師匠から時折こんな言葉が飛び出す。
「あんたのそこの言い回し、ええなあ。うちも使わせてもらお」
言われている本人は、懸命に真似ているだけ。
でも自然ににじみ出る。それが「個性」だ。

愚か塾、打ち上げ
ぼくの主宰する「愚か塾」もまさに老若男女。
稽古は素直さが一番。素直な方ほど確実に上達が早い。
しかし、なかには「でも、別の師匠はこうやってましたよ」とか、
「けど、こういうやり方もありじゃないですか」とか、「けど」や「でも」が口癖な方も過去には見受けられた。
こちらも仕方なく「じゃあ、それで」と引き下がるうち、
上達が見られないまま、その方は顔を見せなくなった。
稽古は議論する場ではない。教えてくれる相手を一旦全部受け入れるのが稽古の基本だと思う。



さて、この10月から「繁昌亭落語家入門講座」18期の開講。また、都師匠による「うちの師匠がね~」が始まる。落語家が唯一許される自慢ばなし。それは「師匠自慢」かも知れない。


都師匠の言葉に、
露乃五郎兵衛師匠や、
そのまた師匠である先代春團治を感じていただければと思います。




◆お稽古風景はこんな感じです。↓↓↓
繁昌亭入門講座16期の稽古風景

◆詳しくは↓↓↓をクリック
18期の開講は10月7日(水)朝9時30分からです。


◆狂言教室をご希望の方は↓↓↓をクリック
心と身体に狂言エクササイズ



◆花團治の公式サイトは↓↓↓をクリック
蝶のはなみち



入門講座、講師の会
「繁昌亭落語家入門講座・講師の会」主任講師:露の都、サブ講師:桂花團治(初級)、林家花丸(中級)、笑福亭鶴二(上級)

入門講座、都師匠、毎日新聞
「繁昌亭落語家入門講座」は時折、新聞にも取り上げてもらっています。


145.心と身体に古典芸能(狂言エクササイズ)

月に一度のリフレッシュタイムはいかが?
~狂言じゃ、狂言じゃ~


◆「最近、身体がなまっているな」と感じておられる方
◆「喉が詰まって声が出にくいな」と感じておられる方
◆ストレスがたまってきたなと感じておられる方
◆教養と健康を同時に手に入れたい方
◆新しく仕事のスキルを身につけたい方
◆何か新しく習い事を始めてみたい方
◆演劇や古典に興味のある方
◆習い事はお金が掛かると躊躇されている方
◆暇を持て余している方

・・・・・・そんな方々に朗報です!!!


大須狂言、金久&花團治、やい聞くか!




狂言 寝音曲 舞う金久


このたび、大阪福島から徒歩5分のところに
「狂言教室」が誕生します。

会場は、月亭八方師匠が席亭を務める
「八聖亭」の4階にある「稽古屋」です。

福島区・八聖亭の4階「稽古屋」


講師は、金久寛章先生。
日本の公立高校のなかでも数少ない「演劇科」があることでも知られる
「市立咲くやこの花高校」で、開校以来ずっと狂言指導を続けています。
また、ぼくの出講する「大阪青山大学」でも度々特別授業をしてもらっています。

大阪芸術大学舞台芸術学科を卒業後、
劇団四季研究所を経て、大蔵流狂言師のもとで10年間の修行を積んだ。
その後、故あってそこを離れることになったが、
バレエやそれまでの演技スキルを生かした指導を認められ、
『大阪市立咲くやこの花高校演劇科』開校以来、
狂言指導にあたっている。
また、役者としての評価も高く、
先日『兵庫芸術文化センター』で行われた舞台公演『お家さん』では
主役である竹下景子さん(お家さん)の後見人役として登場、
その狂言的演技でおおいにその存在感を表した。
第12回古典伝統国際演劇フェスティバルにおいては名誉ディプロマ賞を受賞。



青山狂言、木登


青山狂言、構える


青山狂言、金久近くから


内容は、
1)日本最古の喜劇「狂言」のお稽古
2)しなやかな体幹を育てる「狂言小舞」のお稽古
3)不思議と声の出る「スクワット」
4)笑いと教養に満ちた雑談


ぼくもこの教室の稽古人第一号として参加することになりました。
近いうち、「落語と狂言の会」も予定しています。



◆「話が聞き取りやすくなった」と職場で言われた。
◆姿勢が良くなったせいか、身体の調子がいい。
◆大声を出すせいか、ストレス解消につながっている。
◆人の目を見て話せるようになった。
◆階段の上り下りが楽になった。
◆好奇心が増して、本代がかさむようになった。


といった声が受講者から寄せられています。


スタートは2015年11月13日(金)!!!
開講予定日/毎月第2・4金曜日
19:00~20:30

稽古場/福島区・八聖亭の4階「稽古屋」
(JR大阪駅から一駅です)

受講料/1回2500円(2回共のご参加がお薦めです)
用意するもの/動きやすい服装、足袋

参加資格は少しでも「ご興味のある方」。
初心者ほど大歓迎です。


※お問い合わせは、下記アドレス(金久寛章)まで。
glaucoma@xj9.so-net.ne.jp


関連ブログ:落語と狂言の会
関連ブログ:声のちから

144.バッハと落語~関西室内楽教会の皆さんとともに~

「落語とは業の肯定である」とおっしゃったのは、
東京の故・立川談志師匠でした。

「人間っていうものは、
酒にしろ女にしろダメだって頭で分かっていてもついやっちまうもん。
それを描いたものが落語なんだ」という主張です。


先日、ぼくはクラシックの演奏会に語り部として参加させて頂きました。

コーヒーカンタータ、演奏
関西室内楽協会の皆さんとのコラボ。天満教会にて。

さて、所変われば品変わるものです。

その昔、トルコから発展したコーヒーは
17世紀頃になってヨーロッパに上陸、
ベネチアからフランス、オランダ、イギリス、ドイツ、オーストリアと
広まっていったそうです。

イギリスのコーヒー店ではコーヒーを提供するのみならず
様々な議論がなされるようになり歴史や文化をつくる場となっていきますが、
一方で、そういったコーヒーハウスに入り浸る亭主族への抗議から、
「コーヒーハウス反対運動」や「コーヒー有害論」にまで発展したと言います。


さて、イギリスに遅れること20年、ドイツでもコーヒー騒動が起こります。
「女性はコーヒーを飲むべきではない」とされ、
コーヒーハウスはもちろん女人禁制。


そんなコーヒーハウスで演奏していたのがバッハ。
バッハはビガンダーという詩人の歌に曲をつけました。

厳格な父シュレンドリアンと奔放な娘リースフェンのやりとり。
家父長制が当たり前だった時代、「コーヒーカンタータ」という曲です。


「コーヒーは素晴らしい」と歌い上げる娘に対して、
「コーヒーをやめないなら結婚はさせない」という父。
さすがの娘も「コーヒーをやめるわ」ととうとう根負け。
しかしこれは娘の作戦でした。結婚を直前にした娘は父に対してこう言います。
「お婿さんになる人に結婚契約書を書いて欲しいの」。

その契約書にはこんな文言が。

「妻が望んだら
いつでもコーヒーを飲ませるように」。


おあとがよろしいようで。
最後は、こんな三重唱で「コーヒーカンタータ」の幕が下ります。

「おばあちゃんも、お母さんも、
娘たちも、みんなコーヒーが大好き。
誰が何と言おうと
そんなに簡単にやめられるものではないわ」



威張ってる者が言い負かされて幕が下りる。
これ、喜劇の鉄則ですな。


コーヒーカンタータ、直前の楽屋
ぼくはずっと思い悩んでいました。
「ぼくの喋りが演奏の邪魔にならないだろうか」
「どこまでギャグが許されるか」
直前まで何度も手直し。
で、本番はいつもの「ええい、ままよ」



コーヒーカンタータ、カーテンコール1

コーヒーカンタータ、カーテンコール2

カーテンコールではぼくの出囃子「井出の山吹」をサプライズ演奏して下さいました。
三味線の音を洋楽器で拾うのは大変だったろうと思う。




落語の「業の肯定」に重ねつつ語らせていただいた今回の「コーヒーカンタータ」。
次回は、「農民カンタータ」なんてどうだろう。

村娘と農夫のやりとりなんてオモシロそう。
ちょっとセクハラまがいかもしれませんが。


近いうち、必ずまたコラボさせていただきたいと思います。
「関西室内楽協会」の皆さん、ありがとうございました!!!


バッハで「業の肯定」を叫ぶど!!!

コーヒーカンタータ、打ち上げ
打ち上げでは、次の構想について喧々諤々の皆さん。

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次に呼んでいただけることを心待ちにしています。



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143.大須大道町人まつりに出演します~相方の狂言指導について~

大須大道町人まつりに、花團治が
「辻ばなし」「辻狂言」で出演します!!!


今年で38年目を迎える大道芸のお祭りです。

今年(2015年)は、10月10日(土)・11日(日)
大須大道町人まつりのサイトはここをクリック↓↓↓
大須大道町人まつり公式サイト

ちんどん、大須大道町人
「大須大道町人まつり」浅間神社で演じる「ちんどん通信社」。




狂言の相方は、いつものように金久寛章さん。
そんなわけで、今回は相方のお稽古風景について紹介してみたいと思います。

狂言 寝音曲 二人絡み
狂言を演じる金久寛章とぼく(撮影:相原正明)


青山狂言、金久近くから
学生に指導する金久寛章(撮影:桂花團治)


立つということ。
声を響かせるということ。
緊張しつつリラックスした身体を保つということ。

狂言ほどこれらを意識させてくれる芸能はない。

ぼくが狂言を始めたきっかけも、
声の不味さを克服するためでした。


ところで、この日は待ちに待った「狂言実習」の日。
学生の大半は将来、保育士や小学校の先生です。

特別講師として現れたのは、金久寛章。
ぼくにとって、金久は狂言稽古を共にする仲間であり師範。

彼は今、咲くやこの花高校の演劇コースの講師をしている。
公立高校で演劇コースを設けている学校は全国でも珍しい。


青山狂言、構える
きれいに構える・立つ。これが意外にムツカシイ。(撮影:桂花團治)

青山狂言、木登
桶の上に昇って木の上を表現する。柿を食べる山伏。(撮影:桂花團治)

青山狂言、木の上に
木の上に山伏を見つける畑主(撮影:桂花團治)



どうすれば「らしく」見えるか?
「型」とは、先人の知恵の結晶。



「声を出す」というより「息を吐く」。


彼の狂言稽古には、ときおりストレッチが加わる。
ちょっとした柔軟体操で発声が格段に変わることも彼から学んだ。

青山狂言、えいえいやっとな
えいえいやっとな(撮影:桂花團治)

青山狂言、笑う学生
学生たちから笑みがこぼれる(撮影:桂花團治)

青山狂言、教授と
見学に来られた教授もついに参加し始めた。(撮影:桂花團治)

青山狂言、教授と打ち上げ
左から、住岡英毅教授(滋賀大学名誉教授・教育社会学)、ぼく、金久寛章




金久寛章
大阪芸術大学舞台芸術学科を卒業後、劇団四季研究所。
その後、大蔵流狂言方に師事しながら多くの狂言舞台に立ってきた。
第12回古典伝統国際演劇フェスティバルにおいて名誉ディプロマ賞を受賞。
現在は、大阪府立咲くやこの花高校講師の他、舞台を中心に役者として活躍。

現在、「まっちゃまち」と「大和小泉」に稽古場を持つ。

金久寛章さんとのツーショット
一昨年の公演『お家さん』(兵庫芸術文化センター)でのぼくとのツーショット。
竹下景子さんとの絡みなど、かなり見応えがありました。






・・・・・・さて、話は戻りますが、
10月10日(土)、11日(日)は「大須大道町人まつり」に出演します。
一日2回公演の予定です。

奇しくも10月10日はぼくの53回目のバースディー。
どうぞお祝いを片手にいらしてください。


大須大道町人まつりサイトはここをクリック



★自分でも狂言を演ってみたい方は↓↓↓


運動不足で身体がこわばっていると感じたら、
声を吐いてストレス発散したいなと感じたら、
正しい姿勢を身につけたいと思ったら、
演劇スキルを高めたいと思ったら、
日本の古典芸能に触れてみたいと思ったら、
人前に立つ自信をつけたいと思ったら、
何か新しいことを始めてみたいと思ったら、
金久寛章に会ってみたいと思ったら、


狂言を始めるチャンスです。
その思いを生かしてみませんか。
体験だけでも是非。


毎月・第2・4金曜日の19時からは、
「まっちゃまち教室」

毎月・第2・第4火曜日の19時からは、
大和小泉教室



直接会場か、もしくはこちらへお問い合わせください。
桂花團治へのお問い合わせメール


こちらに関連ブログをまとめてみました。↓↓↓
落語・狂言「体験講座」の記録




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142.生まれ故郷~負の思い出より~

とよなかエッセーカラー【400】
イラスト:「広報とよなか」より

ぼくが生まれ育った町の広報課からエッセイの依頼。
故郷について語って欲しいという。
二つ返事で引き受けたものの、はたしてぼくは困ってしまった。

というのは、その町にあまりいい思い出がなかったからだ。

思い出すのは、苛められたことや自分のコンプレックスに関することばかり。
夜尿症にチックにパニック障害。
……からかわれてついカッとなったぼくは
その級友の腕に噛みついたことが一度や二度ではない。
勉強もからきしダメで掛け算の九九が覚えられずにいつも居残りさせられ、
おまけにちょっと勉強を続けただけでトイレに駆け込んでは吐いていた。
「普通の子になりたい」というのが当時のぼくの夢だった。

……パソコンを前にいざ執筆しようとすればネガティブなことばかりが蘇ってきた。


ぼくは無意識のうちにずっとこの町のことを避けていた。

ぼくは思い切って故郷を訪れてみることにした。
何かの用事で来て以来、およそ二十数年ぶりのことだった。

ぼくがこの町を離れたのは、落語家の二代目桂春蝶のもとに入門し、
師匠宅での内弟子生活を始めたからだ。
二年半の年季が明けた時分には両親は別の町へ越していたため、
以来、この町に帰ることはなくなった。


とよなか庄内駅前【400】
阪急庄内駅前。時計台も昔のまま。

……久しぶりの最寄り駅だった。
来てはいけないところへ来てしまったんじゃなかろうか。
ふとそんな気持ちに苛まれた。
しかし、それはすぐに払拭された。

駅前の時計台やコロッケの行列に並んだお肉屋さんも、
横断歩道を見下ろすパン屋の二階の喫茶店も小さな書店も、
駅前のお気に入りは全く変わりなかった。

とよなか喫茶店【400】
パン屋の二階の喫茶店がぼくのお気に入りだった。高校生の頃によく利用した。

とよなか書店【400】
高校時代に愛読した筒井康隆も、星新一も、かんべむさしも、大藪春彦も、みんなこの書店だった。
書店のおじさんに「ぼくは本好きやね」と言われて得意げになった。



地元の人なら誰もが当たり前に使っている細い路地も銭湯も然り。
確かに様相が変わったところもあるが、複雑な道は身体が覚えていた。
初恋の子の家や馴染みの駄菓子屋などは跡形もなくなっていたが、

角を曲がればやっぱり公園。

思わず笑みがこぼれた。

とよなか路地【400】


とよなか公園【400】



なかでも一番嬉しかったのは、
川沿いの土手がほとんど手入れもされずそのまま残っていたことだった。
あの頃、ぼくはこの土手を往復1時間ほどかけて毎日のように走ったものだった。
確か中学2年生の頃だった。丸一年はしっかりジョギングを続けたという記憶がある。

「俺は変わる、俺は変われる」
と、お題目のように呟きながら走った。



たとえ苦しくても「これを続けたらきっとぼくは変われる」という
何故かそんな思い込みがぼくのなかにあった。

それが功を奏したのか、いつしか勉強も好きになっていた。
夢や希望も生まれた。

とよなか天竺川(400)
ぼくが走った天竺川。


……そうか、あの頃からぼくは変わっていったんだ。
自尊心の芽生えだった。

 やがてぼくは当時通っていた小学校の前にたどり着いた。
おそらく夏祭りの準備なのだろう。
地元の大人たちが集まって何か作業を始めていた。
「地域の子どもたちのために」という思いがその様子から伝わってくる。
真っ黒に日焼けしたその笑顔を見てぼくはそう思った。

とよなか小学校【400】
ぼくの母校。豊中市立豊南小学校。
同級生に久高友男(故人)というサッカー選手がいた。ずっと練習ばかりしていた姿が懐かしい。



とよなか風呂屋【400】
湯船のなかで浪曲を唸るおっちゃんが懐かしい。
今も変わらず営業を続けているのが嬉しい。




そう言えば、あの頃ぼくが泣きじゃくっていれば
必ず声を掛けてくる大人がいた。

おもらしをして帰りづらくなって町を彷徨っていたこともあった。
苛められてこのまま帰るときっと待ち伏せされて、
また苛められるかも知れないと物陰に潜んでいたこともあった。

そんな「消えてなくなりたい」とさえ思った少年期を救ってくれたのは
紛れもなくこの町の大人たちだった。
ぼくは何度も自宅に送り届けてもらった。
「地域の子どもを見守る」という、そんな町ぐるみの伝承が今もしっかり受け継がれているのだろう。


負の思い出と共に
この町をしまい込んでいた自分が、
なんだか恥ずかしく思えてきた。
「ああ、ほおな~ん、しょお、があっこお~♪」。
校歌のサビが口をついて出た。




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字数制限に合わせ、こんな感じにまとめてみました。


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141.「襲名披露イン国立演芸場」後記

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8月2日(日)東京・国立演芸場。炎天下。
真夏日が続く、一年で最も暑いなかでの襲名披露公演。

国立、番組


このたびの襲名公演は熱中症との闘いでもありました。
ご足労いただいた方々には本当に暑い中ありがとうございました。
遠く大阪から、奈良から、わざわざ休みをとって来られた方もおられました。

ぼく自身、慣れない土地での公演ということもあり、
いろいろ大変なこともございました。
でも、周囲の助けもあり、何とか無事に終えることができました。

これもひとえに、
ご来場のみなさま、関係者やスタッフの皆様、
快くゲスト出演を引き受けてくださった師匠方のおかげです。

このたびは写真を眺めつつ、
当日を振り返ってみたいと思います。



国立、楽屋、鶴瓶師匠
(撮影:相原正明)

当日の楽屋風景。ラジオの生放送を終えて鶴瓶師匠が駆けつけてくれました。
毎日新聞の油井記者(襖越し)によると、
番組中、鶴瓶師匠はこの公演について4回も言ってくれたそうです。
これにより当日のお客様にも多数ご来場いただきました。

ぼく(手前左)の横には、三遊亭圓丸師匠(手前右)。
東京の三遊亭小遊三師匠のお弟子さんです。
彼とは32年ぶりに会いました。積もるはなしが山ほどあります。

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国立、ロビー
(撮影:相原正明)

本番30分前、賑やかなロビーです。



国立、治門
(撮影:相原正明)

開口一番は桂治門くんの登場です。
彼はこのたびの襲名に際して、挨拶周りでは、
運転手兼付き人も務めてくれました。
行儀に厳しい師匠についていたおかげか、
楽屋でも本当に如才なく動き回ってくれます。
そのときの様子はこのブログでもぜひご覧ください。

花團治ブログ~挨拶まわり~


国立、米輝
(撮影:相原正明)

おそらく今、若手の間では彼が一番笛の名手かもしれません。
今回は笛の係としてお願いしましたが、
当日になって急きょお茶子もお願いしました。
だって、下座だけに置いておくにはもったいないオイシイ風貌だもの。

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国立、春雨

国立、春雨とぼく
(撮影:相原正明)

そして、桂春雨師匠。東京・小石川高校出身の上方落語家。
このたびは奥様の中田まなみさんと二人、ご夫婦でぼくの襲名を助けてくれました。
キャリアはぼくより一年下ですが、稽古はぼくがつけてもらっているという、
心のなかではいつも後輩ではなく、「春雨兄さん」です。
虚弱体型・体質を武器に見事にお客の心をわしづかみです。

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国立、春之輔

国立、春之輔、楽屋
(撮影:相原正明)

続いて、桂春之輔師匠の登場。上方落語協会副会長です。
亡き師匠の弟弟子である春之輔師匠は、ぼくにとって叔父貴であり、
また高校の大先輩でもあります。
襲名ばなしをぼくにもってきたのは、実はこの春之輔師匠。

ゲストに関して、もちろん直接ぼくがお願いに上がるわけですが、その前に、
「すんまへん、出たげとくなはれ」とまず頭を下げにいったのもこの師匠。
「わしは春蝶兄さんにはホンマ世話になったんやで」と春之輔師匠。

「恩は上に返すのでなく、下へ下へが基本」は、
春之輔師匠をはじめ、多くの師匠方が口にされることです。

ぼくにとって、この晴れの門出に選んだ咄は、
「死ぬなら今」という一席でした。

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国立、市馬
(撮影:相原正明)

人柄といい、芸風といい、ホントほれぼれします。
会えば会うほど、ぼくはもうゾッコンです。
若くして落語協会会長というのもうなづけます。

そんな市馬師匠が、よくぼくにおっしゃるのは、
「そんな気を遣わなくたって、同世代じゃないですか?」
そのたびぼくはちょっと落ち込んでしまいます。

一体この差は何なんだ!



国立、手打ち
(撮影:相原正明)

同じく協会副会長の鶴瓶師匠の一席が終わり、
中入り休憩をはさんでいよいよ口上です。
春雨師の機転で、一分間だけ撮影タイムが設けられました。

「彼も二回の離婚など、いろいろ苦労積んできてます」と春之輔師匠。

「わし、こいつに二回も結婚祝いに出て祝儀まで渡したんや。
そやのに、東京までわしの番組に来てまた祝儀を持っていきよんねん。

ホンマ迷惑な話や」と鶴瓶師匠。

・・・・・・ぼくは口上の間、ずっと頭を下げていなければならなくて、
ただただ聞くばかり。エライ言われようでしたが、
市馬師匠がきれいにまとめて下さいました。
最後は相撲甚句の見事な美声で決めてくださいました。

手打ちの音頭は鶴瓶師匠。
このときも鶴瓶&春之輔の協会副会長同士の見事な掛け合いで
会場をおおいに沸かせてくれました。

愛情たっぷりの口上にただただ感謝です。
これをどうやって返していこうか知らん。

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国立、囃子座
(撮影:相原正明)

ちんどん通信社の林幸治郎さんとはもう30年来のお付き合い。
当営業担当の猪俣はじめさんとは、大学の先輩後輩。
ずいぶんお世話になっています。

このたびもちんどんのおかげで、
こんなにも大きく記事が取り上げられました。

チンドン、国立演芸場へ

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国立、花團治高座
(撮影:相原正明)

トリは、ぼくの「皿屋敷」。

本当に多くの心配をおかけしました。
口演中もきっとハラハラさせたことだろうと思います。

高座に上がったときのあの時の鳴りやまぬ拍手、
今思い出しただけでも涙が出そうです。

東京公演は来年もやります。
是非、国立演芸場でと思っています。

だからこそ、大阪を軸にしながらも、
東京という地でも地道に活動を続けていきたいと思います。

・・・と、そんなことを書いていたら、
東京の瀧川鯉朝師より出演依頼のオファーがありました。

新宿末広亭 9月21日、22日の夜席。
詳細が分かり次第、花團治公式サイトでもご案内いたします。



追伸:
公演中は、写真家の相原正明先生が、
FUJIFILMが開発したシャッター音のしない一眼レフを持って、
楽屋から客席から素晴らしいショットを撮ってくださいました。
実はこのカメラ、ぼくの襲名ばなしが持ち上がったときには、
「ちょうど開発途中」で企業秘密の段階でした。
相原先生は、そのカメラのテスト撮影を兼ねながら
ぼくの襲名過程を追ってくれたのです。
それが4月の襲名直前にようやく発表となったわけですが、
こんな偶然もぼくにとって非常にラッキーでした。
そのときのことを相原先生が自身のブログに綴って下さってます。

相原正明のつれづれフォトブログ



なお、この公演の模様を『日本カメラ』という写真誌のなかで
特集を組んでくださるそうです。
こちらも詳細が分かり次第、公式サイトのなかでご案内いたします。



◆大和郡山公演へも是非ご来場ください◆
スキャン_20150807
大和郡山公演の詳細はここをクリック





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140.蝶六改め、三代目桂花團治襲名披露・東京公演ゲスト

8月2日(日)18時~ 東京・国立演芸場にて 5000円

花團治襲名披露チケットのお求めはここをクリック


花團治公式サイトもご覧ください(クリック)



笑福亭鶴瓶

以前から「出たるでぇ」とはおっしゃって下さってましたが、
いかんせんスケジュールが全く取れませんでした。
ぼくのなかでは、東京の披露目はまず鶴瓶師匠と勝手に決めてはいたものの、
半ば諦めていました。
そんなある日、鶴瓶師匠からお電話をいただきました。

「東京のゲストは決まったんかいな?」
「まだですねん」
「もう決めなあかんやろ?」
「はい」
「・・・わし、もういっぺんスケジュール調整してみるわ」
「え?本当ですか!?」
「ちょっとだけ時間くれるか?」

あくる日、鶴瓶師匠から、あの声で再度お電話。

「わし、出るでぇ~」

ぼくはその場で小躍りしてました。

神と(400)




柳亭市馬

歌手としても忙しい柳亭市馬師匠。
「落語協会」の会長さんであらせられます。

若くして会長になられたわけですが、
じかにお会いすると、本当に納得であります。
ぼくは市馬師匠の前で、文字通りフニャッとなりました。

芸も人柄もホントほれぼれします。


市馬師と、繁昌亭にて【400】



桂春之輔

春之輔師匠とぼくは、高校の先輩と後輩にあたります。

このたびのぼくの襲名に際し、
一番骨を折ってくださったのが、春之輔師匠。

襲名は多くの方々に頭を下げてまわるものですが、
ぼく以上に頭を下げて下さいました。

「こいつはね、師匠も亡くなって、大きな事務所に入っているわけでもない。
本当に不憫な奴ですねん。どうかコイツを助けたってください」


そう言って、大きな背中を丸める春之輔師匠の姿が目に焼き付いています。
おかげで、大阪での披露目は1200人を超す超満員となりました。

ぼくの襲名は、半ば「泣き落としと二人連れ」であります。

ブログ:春之輔師匠と

写真家・相原正明の見た桂春之輔はここをクリック



桂春雨

東京都の名門・小石川高校の出身。
奥さんは高校の同級生で、
今回も下座三味線を弾いて下さる中田まなみさんです。

かつて大阪の落語界で「虚弱体質」を売りにしていたのは、
ぼくの師匠、先代桂春蝶ですが、
今や、彼の代名詞となりました。

日舞、三味線、お茶、バレエの心得があるだけあって、
身のこなしに何ともいえぬ気品が漂います。

彼はぼくより一年後輩ですが、
お稽古をつけてもらったりしてます。

心の中では「春雨兄さん」と呼んでいます。


春雨(400)
撮影:相原正明

写真家・相原正明の見た桂春雨はここをクリック



桂治門

襲名に際し、各師匠方のもとへ挨拶をして回るのですが、
彼は、その運転手兼付き人役を務めてくれました。

桂小春團治師匠のお弟子さんです。

教師への内定がほぼ決まっていたのですが、
それを蹴っての弟子入りでした。

教育実習の際、大学の先輩から
「教師は人前で話す仕事やから、落語で喋りを勉強すると良いよ」と、
教えられたそうです。
根が真面目な彼は、それから落語を生まれて初めて聞き始めたのです。
それですっかり落語の虜になり、とうとう落語家になってしまいました。

治門くん三点セット



囃子座(ちんどん通信社)
全国ちんどんコンクールでは10回の優勝歴を誇る日本一のチンドン屋。
かつてNHKドラマ「青空にチンドン」のモデルにもなりました。

襲名事務局になっているのは、こちらの事務所、「東西屋」です。

で、このたびは萬歳での登場。

それに加えて、ある珍芸をぼくよりリクエストさせていただきました。
乞うご期待!

船乗り込み、笛と太鼓
撮影:相原正明
下記をクリックしてYouTubeを是非ごらんください。


囃子座による萬歳


また、なんと申しましても、
襲名披露といえば「口上」がつきものですが、
当人は針のむしろであります。

何を暴露されるか分からない、いうなれば大喜利トークショーのようなものです。

花團治襲名披露口上
撮影:相原正明


終演予定は21時です。

0608_チラシ東京公演

チケットのお求めはこちらをクリック

写真家・相原正明の見た花團治船乗り込み

花團治公式サイトもご覧ください(クリック)















139.襲名秘話~サプライズゲスト~



ブログ:福團治、ぼく、春團治
左から桂福團治師匠、ぼく、三代目桂春團治師匠 (撮影:相原正明)


・・・・・・つい先日のことでした。
大阪市住吉区民ホールにおいて開かれた
「三代目春團治を囲む会」主催の「ほろ酔い寄席」。

このたびは「新・花團治襲名記念」ということで、
大先輩を前に、トリを務めさせていただきました。


下げを言い終わって頭を下げると、
そこにマイクを手に現れたのが、ひょうきん者の当代桂春蝶。
彼は、ぼくの師匠の息子にあたる。

蝶六ファイナル(左から、小春團治、春蝶、ぼく、一蝶)
写真は、蝶六フィナーレの対談風景・池田市アゼリアホールにて
左から、桂小春團治、春蝶、ぼく、一蝶 (撮影:相原正明)



「あのね、今日はお兄さんが襲名記念ということで、
特別にサプライズゲストにお越しいただいてます」
「サプライズゲスト?」
「ええ、花束を持って、すぐそこまで」

ぼくは誰だろうといろいろ思いを巡らせたが、
すぐには思いつかなかった。
ただひとつ考えたのは、
「春蝶のことやから、きっととんでもないオチが待っているに違いない」
ちょっと嫌な予感さえ抱いていた。


するとその時、聞こえてきたのが、春團治師匠の出囃子「野崎」。

春團治師匠は、ぼくの亡くなった師匠の師匠。つまり大師匠。
実は今、春團治師匠は病気療養中。
この二年半、高座にも上がられていない。
その春團治師匠が?まさか?

そのまさかが現実になった瞬間でした。

実は、大師匠と握手を交わすのは、このときが初めて。しかも、舞台上で。



春團治師匠と、舞台挨拶(400)
春團治師匠とぼく 撮影:桂春蝶(司会を務めながらの撮影)


実は、ぼくの大阪での襲名披露のときは、あいにく病気療養中ということもあって、
大師匠には、口上に並んでいただくことが叶わなかった。

襲名してからも、何度もいろいろ報告をしに大師匠宅を訪れた。
そのたび、大師匠は
「わしがいかなあかんところをすまんな」と何度も頭を下げられた。
もったいないはなしである。


さて、今回のサプライズの一件だが、
スタッフや他の出演者全員、このことを事前に知っていたらしい。
知らぬはぼくだけだった。

春團治師匠は、それまでぼくと顔を合わせないようにと、
じっと車のなかで潜んでおられたことも後から知らされた。

また、今回の首謀者は梅團治兄だったことも後で聞いた。

「おやっさん、君の襲名口上に並ぶことできへんかったことを、
ずいぶん気にしてはったんや。あいつはわしの孫やしなぁちゅうて。
ほいで、もしこの日、体調が良かったらちゅうことでな……」




本当に素敵な一日になりました。
ありがとうございます、春團治師匠!!
ありがとうございます、主催者のみなさん!!
ありがとうございます、一門のみなさん!!
ありがとうございます、お客様!!



春團治師匠宅
襲名前の挨拶周りの直前、福團治師匠と共に春團治師匠宅を訪れた。
「文枝さんにもな、ざこばさんにもな、よろしゅう言うといてや」と大師匠。 (撮影:相原正明)


ざこば師匠の笑顔
ざこば師匠宅にて (撮影:相原正明)

文枝事務所
文枝会長の事務所にて (撮影:相原正明)

襲名披露口上(400)
襲名披露口上:左から、春之輔師匠、福團治師匠、ぼく、文枝会長、ざこば師匠 (撮影:相原正明)


というわけで、いよいよ東京公演が近づいてまいりました。

0608_チラシ東京公演


8月2日(日)午後6時開演
東京・国立演芸場 地下鉄「永田町」から徒歩5分
柳亭市馬(落語協会会長)、桂春之輔(上方落語協会副会長)、笑福亭鶴瓶(同協会副会長)、
桂春雨、桂治門、囃子座(滑稽音曲)、桂花團治
前売5000円(売り切れの節はご容赦ください)
整理番号付き自由席
(チケットに記載された整理番号順にお呼びし、ご入場いただきます。)
※6月23日チケット発売開始!
・チケットぴあ 0570-02-9999(Pコード444-994)
問い合わせ:06-6764-1984 桂花團治の会


神と蝶六繁昌亭の楽屋にて、鶴瓶師匠と


ブログ:春之輔師匠と
池田市アゼリアホールの楽屋前にて、春之輔師匠と(撮影:相原正明)


市馬師と、繁昌亭にて【400】
繁昌亭の楽屋にて、「落語協会」柳亭市馬会長と


東京・国立演芸場まで、
ぜひ足をお運びくださいませ。

チケットの購入について(花團治サイト)


写真家・相原正明が見た舞台裏








138.襲名秘話~東京公演に向けて~

露草のつゆ、身に光るものを持たず

露草のつゆは自ら光っているのではない。
我々咄家は、周囲に照らされてこそキラリ輝る露草のようなもの。
先代の春團治師匠の御夫人に教えてもらって以来、
ぼくが色紙に好んでよく書く言葉です。

ぼくの襲名披露公演はまさにこの言葉通りでした。

ブログ:アゼリアホール前の列
襲名披露の皮切りとなった池田アゼリアホール。撮影:相原正明


ぼくの新しい出囃子は、亡き師匠・先代春蝶が使っていたものです。

「井出の山吹」

兄弟子らは「そら、お前が使ったらええがな」と言って下さり、
現・春蝶くんは「兄さんにぴったりやと思います」と言ってくれ、
お恐れながら、不肖花團治が使わせていただくことになりました。

師匠の鞄持ちとして何度も聞いた旋律です。
出囃子がなり始めた瞬間、そこに先代春蝶の姿が浮かびました。

丸坊主の青年は、師匠のボストンバッグを肩に
前のめりになりながらもただ後を追うという毎日でした。

走馬灯のようにとは、まさにこのことでした。


でも、感傷に浸っている場合ではありません。

大勢の先輩や仲間、後輩が集まってくださいました。


ブログ:春之輔師匠と

ブログ:合田先生

一番ぼくを多く叱ってくれた方が、一番後ろ盾になってくださいました。
楽屋には、ゴッドハンドの合田先生が常駐してくださいました。
(撮影:相原正明)


襲名披露、ざこば師匠と。
「おい、花團治!わしと記念写真を撮ってくれ!!」とざこば師匠。(撮影:初代花團治ひ孫の山田りこ)


ブログ:花團治ご遺族の方々と
初代花團治のご遺族の方々と。(撮影:相原正明)

ブログ:藤井百々、春野恵子
プロジェクトの制作担当の藤井百々さん。
企業研修のお仕事をいただいて以来、ずっとアドバイザーとしてサポートしてもらってます。
手前は、浪曲師の春野恵子さん。


ブログ:皆様からいただいた花

ブログ:澤田隆治先生の花
ロビーを埋め尽くしたスタンド花。
かつて演芸プロデューサーに憧れ、大阪芸大に入学しました。そのきっかけとなったのが、澤田隆治先生でした。
撮影:相原正明

ブログ:金久寛章さん
ぼくの着物のしわ取りに没頭する狂言師・金久寛章さん。撮影:相原正明


ブログ:先導を務める小春團治、梅團治
襲名のプレイベント「船乗り込み」では兄弟子らがぼくの船を引っ張ってくださいました。
船は、放送芸術学院専門学校の学生たちが製作しました。
(撮影:相原正明)



一時は腐りそうになりながらも咄家を続けて良かった。

ずっと支えてくれてありがとうございます。
あの時、叱ってくれてありがとうございます。
ぼくを弟子にくれてありがとうございます。
ぼくを花團治に選んでくれてありがとうございます。

それぞれの方に、それぞれ積もる思いが多々あります。


翌日、文枝会長にお電話をしました。

「これで終わったらあかんで」

励ましのお言葉をいただきました。


それからひと月ほど経って、会長の弟子の三金くんがぼくを見つけて言いました。

「うちの師匠から伝言を預かってます。今度、ウクレレバンドを作ろうと思うんやけど、花團治くんはどうかなって?」
ええ、もちろん、入れてください!ってお返事しました。

足手まといにならないように、こちらも頑張ります。




……あれ以来、今もなお、なんだか気忙しい毎日を送らせて頂いてます。
まだちゃんとお礼のご挨拶すら差し上げていない方も多く、
本当に申し訳なく思っております。

「不義理なやっちゃ」とお思いの方も多いと思いますが、
今しばし、どうかご容赦を願います。



先日、会場に出向き東京公演の打ち合わせを済ませたところです。


今は某新聞社の事業部長を務める大学の同級生が一役も二役も買ってくれました。
ぼくは大学を一年で中退しましたが、彼は卒業以来、持ち前の明るさで着々と実績を重ねてきました。
「声を掛けてくれるのを待ってたんやで!」って。何でも相談できる相手です。


また、大阪からも大勢で駆けつけてくださるそうです。
ホンマ、ありがたい!!!

どうか東京公演もよろしくお願いします。


0608_チラシ東京公演

「三代目桂花團治襲名披露・東京公演」
8月2日(日)午後6時開演
東京・国立演芸場 地下鉄「永田町」から徒歩5分
出演:柳亭市馬(落語協会会長)、桂春之輔(上方落語協会副会長)、
笑福亭鶴瓶(同協会副会長)、桂春雨、桂治門、囃子座(滑稽音曲)、桂花團治
前売5000円、当日5500円(売り切れの節はご容赦ください)
整理番号付き自由席(お早めにご購入ください)※6月23日チケット発売開始
チケットぴあ0570-02-9999(pコード444-994)


サイトが新しくなりました↓↓↓
花團治の公式サイト


137.実演販売~マーフィー岡田氏に遭遇した~

花團治襲名披露、暖簾から花團治



先日、百貨店で買い物をしていると実演販売の声が聞こえてきた。
商売柄、こういうことにはいたって興味がある。
駆けつけてみたがすでにそこは人だかり。
販売士のエプロンには大きく「マーフィー岡田」と刺繍が施されていた。
おそらく今、日本で一番有名な実演販売士であろう。

ちなみに「マーフィー」の名づけ親は、上岡龍太郎師匠である。

マーフィー岡田実演中

お決まりの「見て!見て!見て!見て!」のフレーズも聞けました!

マーフィー岡田氏の実演販売(YouTube)

マーフィー岡田、ピーラー
商品は万能ピーラーにおろし器、レモン絞り器。ぼくはピーラーとおろし器を購入。モノがいいのは勿論のこと、半分以上は素晴らしい芸を聞かせてもらったお代として。


七五調の口上が実に心地いい。
「ユズ・橙・ネーブル・ポンカン・夏蜜柑・オレンジ・八朔・グレープフルーツ・ザボンでつくればザボンのジュース。中からジュースがザボンざぼん」「お刺身を活かす殺すもツマ次第」「ここまできれいなキャベツの千切り」「固くて細くて切りにくい」「あとは勇気と努力と決断力!」「見て、見て見て見て」


同じ喋る商売でも落語家とは大違い。
まずお客がすべて通行人。
歩く人の足を止めさせ、笑わせたり感心させたり、
お代はすべて口上のあと。

ちょっとでも飽きられればお客は通り過ぎていき商売はあがったり。
落語のように先にお金(入場料)を頂戴するということはあり得ない。
我々のように「取ったらもぎ取り」とはわけが違う。
実演販売は命懸けだ。


「マーフィーの売れる法則」という一冊のなかで氏は強調されていること。

「相手の感情を優先させ、相手より一歩下がること」

「お客様との位置関係も、お客様から見て私のほうがちょっと下。これぐらいでちょうどバランスがいいし、私も商品が売りやすい」


自分の論理で相手をねじ伏せたり、相手の考え方を変えようとすると必ず抵抗にあう。

マーフィー岡田の本表紙

マーフィー岡田「売れる法則」アマゾン


以前、懇意にさせてもらっているちんどん屋さんの林幸治郎さんが
ぼくにこんなことをおっしゃった。

「ちんどんの音楽は上手く演奏して感心させてしまってもいけない。あれぐらいやったら私にもできるって思わせる。これも手なんですよ」。

船乗り込み4

船乗り込み、小春團治

ちんどん通信社の林幸治郎。ぼくの襲名では「船乗り込み」の先導を務めてくださった。(撮影:相原正明)


確かにちんどん音楽は聞くものをほんわかさせ、「親近感」さえ抱かせる。
かつてこのちんどん屋には、今や世界的にも有名なギタリストが
食えない時分にアルバイト先としてここを頼っていた。

「彼はねえ、あまりに上手すぎてちんどんには向いてなかったですね。音を外すということはプライドが許さない。つい聞きこませてしまうんですよね」と林氏。

褒めているんだかけなしているんだか。いや、もちろん誉めている。
同じ音楽家でもアーティストと商売人では流儀が違う。

ちんどんの目的は音楽を聞かせるということよりも、いかに宣伝するか。
上手く演れたうえで少々下手に見せるという実に奥の深い芸なのだ。


 ところで、桂勢朝という親愛なるぼくの先輩。
この方は南京玉すだれの名手としても定評がある。
寄席通のなかでは周知のことだが失敗するところがいつも同じ。
つまり、これはわざとそうしている。
なかなか上手くいかないと見せかけておいて最後には必ず成功させる。ハラハラドキドキと笑いが交錯するこの芸は何度見ても面白い。
お約束ごとながら予定調和に見せない。
わざと失敗できるのも「確実にこなせる」からこそできる芸当。

南京玉すだれという芸を上手く見せることより、
いかに楽しんでもらうかが最優先なのだ。

桂勢朝、玉すだれ
玉すだれを披露する桂勢朝師(池田アゼリアホールにて) 撮影:相原正明


すべてのプロには、
それぞれプロとしての流儀と理屈があるもんです。



というわけで、
最後にマーフィー岡田さんの本のなかからこんな言葉を紹介しておきたい。

「好きなことを好きなだけやるのがアマチュア。それに引き換え、好きなことが嫌で嫌でたまらなくなるまでやって、それが鼻につくまでやってみて、そこからスタートするのがプロ」

「プロとは何かを犠牲にしてそれを乗り越え、しかも当人はそのことをおくびにも出さず、誰にも気づかれずさらっと仕事をしています。それがプロの鏡。アマチュアは一つのことをなすために、努力はしても犠牲にするものがありません」

「トラブルが起きたとき、アマチュアは上手に誤魔化そうとします。これに対して、上手に謝るのがプロフェッショナルであります」。



……嗚呼、うさぎのとんぼり返り!耳の痛~いことをおっしゃいます!!




熊本「リフティングブレーン社」の社誌「リフブレ通信」で連載中の「落語の教え」という拙文を、
加筆のうえ、ここに掲載させていただきました。



船乗り込み、後ろ姿
襲名成功祈願のため、呉服神社へ向かう春團治一門。感謝感謝。(撮影:相原正明)


写真家・相原正明のつれづれフォトブログはこちらから


桂花團治公式サイトはこちらから
東京公演に備えてただいまリニューアル工事を急いでいる最中です。
情報が少々古いですが、ぜひこちらもご覧ください。



ちんどん通信社のサイトはこちらから







136.襲名秘話~後ろ幕の革命~

「革命ですよね」


電話の向こうで、とある新聞記者がおっしゃった。
確かにこれまでの後ろ幕は、古典柄が一般的で、
このようなものは、ぼくも見たことがない。

ある関係者の一人は、事前にこのデザインを見て、
「こういうものは何か決まりのようなものがあるのでは?」
「大丈夫ですか?」とも言った。

でも、ぼくはどうしても西口先生に描いてもらいたかったし、
今までにないものを期待していた。
前例がない方がいいに決まっている。

結果、先生にお願いして大正解だった。

花團治襲名披露口上
左から、桂春之輔、桂福團治、ぼく、桂文枝、桂ざこば


西口司郎の絵を見る師匠方

絵:西口司郎、寄席文字:橘右一郎(撮影:相原正明)



先生との出会いはかれこれ22年前ぐらい前。
うちの師匠(二代目桂春蝶)が亡くなってしばらく経った頃。


ちょうどその頃、ぼくは師匠の一周忌追善公演の準備に追われていた。
そんな最中、知人に「会わせたい人がいる」と言われ、ライブに連れていかれた。
ぼくはてっきりそのミュージシャンかと思っていたら、
そうではなく、イラストレーターの先生だった。


「先生のイラスト、是非見せてください!」

知人が鞄から高村薫『マークスの山』を取り出した。

「うわあ、これ、先生が描かれたんですかぁ!確かこれ、書店で平積みされてますよね」

西口司郎、ブラックジャック

ブラックジャックも先生の作品。

それからすぐにライブが始まったので、お互いそちらに集中した。
飲み会があって別れ際、先生は名刺を出しながらおっしゃった。


「何かぼくで役立つことがあれば、いつでもいらっしゃい」

その翌日、ぼくは西口先生のアトリエを訪ねた。

師匠が亡くなったこと、どうしても追善を成功させなければならないこと。
自分でも本当によく喋ったと思う。


ぼくが思いを一気に語ったところで先生がポツリとおっしゃった。

「じゃあ、その追善のチラシをぼくが担当すればいいかな?」

「あ、ありがとうございます!!!」


今、思えばずいぶん無鉄砲なことだった。
当たり前ならちゃんとアポを取らなければなかなか会えない方。
「いつでも~」と言われたにせよ、本当に無礼な話だった。

若気のいたりも良いことがある。

でも、それ以来、チラシのことのみならず、
いろんな芸術家と引き合わせてくれた。

そんな付き合いから、
ぼくはミュージカル劇団『ふるさときゃらばん』のステージに立てたし、
狂言の稽古を始めるようにもなった。
ぼくが異物の交流というイベントを手がけるようになったのもここからである。

ちなみに、人形劇団『クラルテ』代表の高平和子さんは先生の奥様。

スキャン_20150522
司郎先生のまわりには、いろんな芸術家や芸人、パフォーマーが集まった。そんな仲間をきっかけに月1回「異物の交流」という催しを始めた。気がつけば、かなりな大所帯になっていた。それを記念して開催したのが「浪花コラボレ祭り」だった。



・・・・・・今から12年前、
20周年記念の落語会には、先生からこんな祝辞をいただいた。

木を描いているのに「木」を見せない。
水を描いているのに「水」を見せない。
絵描きも落語も、表現者としての心は同じです。
年月を経て、初めて見えてくる風景があります。
六つの蝶が乱舞するであろう会を楽しみにしています。
おめでとうございます。(イラストレーター・西口司郎)


西口先生とツーショット
ぼく(左)と、西口司郎先生 (この包みのなかに、後ろ幕の原画)

ところで、まるで写真のようなリアルさが先生の絵の特徴だが、
後ろ幕を近くでよく見ると、さほどリアルではない。
これは、遠目に見ることを計算されて描かれたとのこと。
また、描いたものをプリントするのでその辺りも計算されている。

ともあれ、ぼくはこの後ろ幕をとてもとても気に入っている。

西口司郎の絵の前で花團治
撮影:相原正明



さて、次回この後ろ幕が御開帳となるのは8月2日の東京公演。

国立演芸場にて。
まもなくチラシが上がります。
(出来次第、ブログにもアップさせていただきます)

東京ゲストはこの方 ↓↓↓

神と蝶六
ぜひ、後ろ幕も併せて、お楽しみください。
ご来場をお待ちしております。


相原正明が見た落語の世界はこちらから

135.襲名秘話~写真家との出会い~

春之輔師のお小言


ざこば師匠の笑顔

染丸師匠の笑顔



○繁昌亭の楽屋、春蝶と花團治の談笑


「高座を撮らせてもらえませんか?」と相原先生。
「是非!!……ただシャッター音が出ないようにして頂けますか?」とぼく。


構造上、一眼レフにとってカシャッという音は避けられない。

メカに疎いぼくはそんなことなどまるで眼中になかった。



相原先生は少し困った顔をされた。
それでも、「分かりました」とにこやかに応え、
「近日中に連絡をしますので」とおっしゃって、その日は別れた。


それからしばらく経ったある日のこと、
意気揚々とした声で先生からの電話。

「喜んでください!!音の件、何とかなりそうですよ!!」

正直に申せば、その時も内心「何のこっちゃ!?」という感じだった。


「今ちょうど、そういうカメラをフジフイルムが開発中でしてね、
それを使わせてくれることになったんですよ!!!」


つまり、ぼくが被写体としてのモニターになるということだった。

「来春に発表予定なので絶対に秘密ですよ!!!」

XT1について相原正明


そもそも相原先生との出会いは去年の元旦。
ホテルニューオオタニ大阪の新春企画でぼくはそこを訪れていた。

2回公演のその合間にたまたま通りかかったホテル内での写真展。
入り口から覗くと、飛び込んできたのがダイナミックな自然の姿。
次に目に入ったのが、まぎれもない富士山。

「まぎれもない」というのは、
確かに富士山には違いないが、
一般的なそれとはイメージが大きくかけ離れていたからだ。


どんよりと雲が重くのしかかった富士山。
雲の切れ目からチョコットだけ太陽が覗いていた。


小さな希望がこれからサーっと広がっていくような、
暗いトーンだけど、明るい兆しを感じさせる一枚だった。



そういえば、相原先生の著のなかにこんな記述があった。


周りの写真仲間が、今日の天候はダメだな、そこのエリアはつまらないよといったら、そこはもしかしたら、独自の世界が撮れる特等席かも知れないと思ってください。

ランドスケープの極意の表紙





その日、ぼくと相原先生は1時間以上も話し込んだ。

芸のこと、写真のこと……

そこから冒頭の言葉に至った。

○繁昌亭の楽屋、春雨と花團治の談笑


○繁昌亭の楽屋、福矢と花團治の談笑



襲名に向けて行事が目白押しだったこと。
フジフイルムがシャッター音のしないカメラを開発中だったこと。
先生とぼくがたまたま出会ったこと。



これらの偶然の重なりが、今回の作品群につながった。


このカメラが、楽屋のいろんな表情をも切り取った。
このことが見る人の「落語」への興味・関心に繋がっていくだろう。
ぼくはそう確信している。

福團治師と車中


相原正明のつれづれフォトブログ

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134.襲名秘話~船乗り込み3~

花團治襲名披露、暖簾から花團治



(前号からの続き)



「くるしまたけひこ、ですかぁ?」
「そう、久留島武彦!」


「くるしまたけひこ」という名前は初耳だった。


大和郡山の上田市長は話を続けられた。


大和郡山は
古事記の編纂者、
語り部のルーツ「稗田阿礼」の出身地であること。
「阿礼祭」を始められたのは
「久留島武彦」先生であること。



ぼくは市長が持参した「こをろこをろ」に酔いしれながら、
「くるしまたけひこ」という文字を
ぐるんぐるんになりながらも手帳に残した。


「こおろこおろ」は地元の中谷酒造が造った酒で、
名前は「古事記」の一節に由来している。

日本の国ができる前イザナギ、イザナミの二人が
長い矛で海をかきまわすと
「こをろこをろ」としたたり落ちた塩が積み重なり、
ひとつの島ができました。(古事記より)


こをろこをろ

自宅に戻ったぼくはネットを探り始めた。
列車のなかで爆睡したせいか、
意外にそのときはギンギンに目が冴えていた。


「久留島武彦」

大分県玖珠町の出身。
日本全国を口演童話(童話の読み聞かせ)をして回った。
デンマークにあるアンデルセンの墓が荒れ放題だったのに心を痛め、
行く先々でアンデルセンの復権を訴えたことから、
デンマークの人々が「日本のアンデルセン」と呼ぶようになった。


頼まれればどんな所へも「口演童話」に出かけた。
たった14~15人に話すために伝馬船に乗って瀬戸内海の小島に渡ったこともあった。


久留島武彦は、「アンデルセン」に匹敵する「咄の神様」
「稗田阿礼」が最もふさわしいと提唱。

昭和5年(1930年)大和郡山・売太神社にて
「阿礼祭」が始まった。


以来、それは今も毎年8月16日に行われている。

子どもに語る久留島武彦
口演童話を語る久留島武彦先生


さて、上田市長と呑んだ翌日、
たまたまぼくは、淀屋橋界隈をうろうろしていた。

どこかで一杯やってから帰ろう。

ふと思いついたのが老松町の店だった。
一度だけ、競馬実況アナの吉田勝彦先生に連れてもらった店「矢乃」。

ぼくのなかでは、なぜか久留島武彦のことが大きく残っていた。

「確かあのマスターも大分出身だったよなあ」
「あのマスターは聞き上手だし・・・・・・」
ぼくは引き込まれるように、その店の暖簾をくぐった。

吉田先生と矢乃にて
吉田勝彦先生と「矢乃」にて。
ちなみに先生は実況回数においてギネス世界記録に認定されておられる。



「あの、マスターは確か大分出身ですよね」
「ええ、私は大分の人間です」
「あの、久留島武彦っていう人をご存じですか?」

その言葉の瞬間、マスターの顔色がサッと変わった。
何か悪いことを言ってしまったのだろうかと思った。


次に、マスターは姿勢を正してこうおっしゃった。

「久留島先生は、我が玖珠町の誇りであります!」

ぼくはその言い方が軍隊調であまりに可笑しかったので、
プッと笑いそうになった。


しかし、その時カウンターに居合わせた5~6人のお客全員もまた、
はっきりとぼくの方を向いていた。(『睨んでいた』かもしれない)


「師匠、なんでまた久留島先生の話を?」


ぼくは、前日に市長から伺ったことをそのまま話した。


「そうでしたか。師匠ね、私ら玖珠町の人間で、
久留島先生を知らん者は誰もおらんとです。
もし、知らなかったらモグリです」


さっきまで店の外に出ていた女性が隣に戻ってきた。
彼女は携帯電話をかけるため、途中から席を外していた。

坐るなり、彼女はぼくにこう言った。
「師匠ね、さっき久留島先生の音源が欲しいって言ったでしょ。おそらく来週ぐらいには手に入るから」
「え?どこに電話してはったんですか?」

「小学校のときのわたしの担任。『久留島武彦記念館』の館長してらしたから」


そのとき店内にいたお客の大半が、
たまたま大分県玖珠町の出身だった。


何という奇遇だろう。


みなが「久留島武彦」を語り始めた。




以来、稗田阿礼、久留島武彦の名は、
「咄の神様」として、ぼくの脳裏に刻み込まれた。



そのときのことをぼくはブログにも記している。

久留島武彦に関すること

かたりべの里の碑の前で

………

あれから二年経ち、襲名の話が持ち上がった。
「船乗り込み」の話になった。
行事が終わったあとの「船」の置き場所について話し合った。
いくつか候補が上がった。
ふと思いついたのが「大和郡山」だった。

あそこは何といっても「かたりべの町」。

「あの人に相談したら何とかしてくれるかもしれない」


その日は大和郡山での「狂言稽古」の日。
もちろん、ぼくもその教室に参加していた。

主宰の三川美恵子さんは落語会も主催して下さっている。


「三川さん、船を、”落語のまち”池田から、”かたりべの里”大和郡山へというのはどうやろ?」
「ちょっと待ってや」


それから三川さんはあちらこちらへ電話をかけ始めた。
わずか30分ほどして、

「まあ、あとは返事を待つだけ。何とかなるでしょ」


三川さんの働きで、

稗田阿礼ゆかりの「売太神社」での「奉納落語」。
「船」は大和郡山城ホールのロビーに展示することに。
大和郡山城ホールでも襲名披露公演を開催することに。


「船」の搬入日には、市長や宮司さんが手厚く出迎えて下さった。


売太神社、社の前で船
左から、上田市長、ぼく、宮司夫妻、三川美恵子さん
郡山城ホールに展示された船
左から、上田市長、ぼく、三川美恵子さん

言い忘れたが、最初に上田市長に出会わせてくれたのも、
三川美恵子さんだった。

三川さんとは「浄土真宗・親鸞聖人遠忌」の催しでご一緒して以来、
ずっとお世話になっている。



「落語のまち・いけだ」から
「かたりべの里・大和郡山」へ。


奈良新聞、船寄贈


もし、市長のあの一言のおかげで、
ぼくは思わぬ拾い物をしたと思っている。


「点」から「線」へ。
次の「点」へ繋いでいきたい。



襲名の大和郡山公演では、
入門直後から親しくさせてもらっているタージンも、
口上の司会として参加してくれる。
タージンは当地で「金魚すくい」の司会を長年担当している。
タージンの嫁さんは、大和郡山のご出身。
タージンと小春團治兄は、高校の後輩と先輩。


なんや楽しい会になりそうやなぁ。
そうそう、襲名の監修をしてくださっている芸能史研究家・前田憲司先生によると、
先生のご出身・四日市と大和郡山も歴史的に深いつながりがあるそうな。



金魚の泳ぐ城下町


9月11日(金)18時30分~
大和郡山城小ホール

三川美恵子社中(箏曲)
桂小梅
桂小春團治
桂福團治
中入り
口上(司会:タージン)
囃子座(滑稽音曲)
桂花團治




桂花團治公式サイト





133.襲名秘話~船乗り込み2~

(前号からの続き)

船乗り込み、祈祷風景
襲名公演成功を祈願して、池田「呉服神社」にてご祈祷の模様。 撮影:相原正明


心配事は山積みだった。

さて、商店街でお練りをするとなると、
安全面は大丈夫かとか、
商店主の了解を得られるかとか、
はたして道幅の狭いところを船が通れるかとか、
雨の場合はどうするかとか、
警察の許可が下りるかとか、
人が集まってくれるのかとか、
どういうルートにするかとか、
船を動かす要員、食事、トラックの手配……


商店会の全面協力なくして実現できない。


その日は「春團治まつり実行委員会」の会合だった。

ぼくの隣には実行委員長の桂春之輔師。
商店会の主だったメンバー、市役所の担当者、ホールの責任者、
当日、商店街や公園で店を出す方々の代表、
春團治法要を営むお寺の御住職……


「春團治まつり」は町あげてのお祭り。

船乗り込み、石橋駅前、スタッフの奮闘
船を動かすには、動力のみならず交通整理や誘導が肝心だ。 撮影:相原正明


船乗り込み、石橋駅前、見物のみなさん
あいにくの雨にも関わらず、大勢の方々が出迎えてくださった。(石橋駅前) 撮影:相原正明





会議のさなか、かつて全国を客演としてご一緒させていただいたことのある
ふるさときゃらばんという劇団を思い出していた。
劇団の行くところ、どの会場も「お祭り騒ぎ」だった小学校の体育館で催せば、校庭には屋台がずらり並んでいた。
「男はつらいよ」でも有名な山田洋次監督は、
この劇団の前身である「統一劇場」を映画にしている。

山田洋次監督「同胞」(はらから)


芝居の上演そのものが「町おこし」だった。

あの頃、大変お世話になった演出家の先生が襲名パンフレットにこんな一文を寄せてくださっている。


 桂蝶六さんが三代目花團治を襲名したという。十年程前になるが、ふるきゃらが大阪で公演したとき、ミュージカルなのに笑いを撮っていると評判になり、三枝(現文枝)さんや春團治さんなど大阪の笑いの達人たちが観に来てくれた。その頃、若き蝶六さんもよく顔を出していた。
 気がついて見れば、蝶六さんはふるきゃらの旅公演に付いて来て、キャストの一員として舞台にも乗って芝居をしていた。
 いくら芸熱心だからと言って、落語家が急にミュージカル俳優に変身できる訳もなく、情け容赦も無い私の演出にジタバタしていた。だが蝶六さんは皆んなに好かれた。それは舞台に立つ人間の最も大切な要素かも知れない。
蝶六さんは狂言の修行もしたという。ふるきゃらも一時狂言を学んだことがあった。笑いの舞台を求めるものは、皆んな狂言にすがろうとする時期があるようだ。笑いは簡単に生み出せないから。
 その蝶六さんが花團治となった。花團治という名は耳慣れないが、蝶六さんが花團治という名を売り出してくれることだろう。ふるきゃらの劇団員は、花團治となった蝶六さんの芸をみんな見たいと思っている。大阪に行くことのたのしみが増えた。  (ふるきゃら 脚本・演出家 石塚克彦)


パパは家族の用心棒
当時の台本



「春團治まつり」なのだから、落語会のみならず、
町ぐるみの襲名公演にしてもらえたらいいなあ。


そんな思いもあっての「船乗り込み」だった。

ぼくも襲名で「ふるきゃら」がしたい。





・・・・・・・・・
「もうちょっと詳しゅう聞かせてもらえまへんか?」と商店会会長。

ぼくは内心焦っていた。
船の幅や高さに関して、
ぼくの手元にはまだおおまかなことだけで
具体的な資料など、まだ整っていなかった。


春之輔師匠が横から心配そうに見つめている。


しかし、それでも話はどんどん前向きに進んでいった。


「ただ練り歩くだけやったら盛り上がらんのとちゃうか?」
「商店街としても、何か宣伝になるようなことをせんとあかんなあ」
「抽選会をして人を集めるとか」
「船の上から何か撒くっちゅうのはどうやろ」



くどくど言うよりも、
どうやったら開催できるか、
どうすれば盛り上がるか、


商人の心意気。前向き。


「泣いてる暇があったら笑うてこまして生きよやないか」


お練りに欠かせない幟は、
石橋の居酒屋「ちりとてちん」の大将が段取りしてくれることになった。

「芸大(大阪芸術大学)の落研OBに声を掛けてみるわ」

ぼくが芸大に通ったのはたった一年。
そんな中退の身の上にも手を差し伸べてくれるという。

高校の同級生も幟の寄贈を申し出てくれた。

地元の情報誌「クレハ」縮小
地元の情報誌「クレハ」も巻頭記事で盛り上げてくれた。



みんなが手を差し伸べてくれた。

ぼくも頭を下げたけど、周囲はもっと頭を下げた。

「何とか、手を貸したってください」と深々と春之輔師匠。

「よっしゃ、何とかするがな」と商店会の会長。
実際、会長はずいぶん方々に頭を下げてまわったらしい。


「長」という字は、頭を下げるってことなんだな。

「長」の重みって、すごいな。

春之輔、ぼく、前田先生(400)
左から、桂春之輔師匠(上方落語協会副会長・春團治まつり実行委員長)、ぼく、
前田憲司先生(芸能史研究科・春團治まつりの構成・監修) 撮影:相原正明



一緒に練り歩いてもらう咄家だが、
これはなかなかに力仕事なので、
若手を中心に頼むつもりでいた。

しかし。

「いや、オレも参加するで」と小春團治兄。
「何やオモシロそうやな」と梅團治兄。
「わたし、チラシ配るぐらいやったらでけるかも」と都姉。

気がつけば春團治一門の中堅、若手のほぼ全員が、
集まってくれることになった。

あとでこのことを大師匠の春團治に伝えると、
おおいに喜んでくださった。

いざとなれば
春團治一門の結束は固い。


船乗り込み、スタッフ共に集合写真
撮影:相原正明

船乗り込み、食事風景 
撮影:相原正明


今、そのときの船は、
大和郡山城ホールのロビーに展示されている。

郡山城ホールに展示された船
左から、上田市長、ぼく、三川美恵子さん(伝統文化を継承する会代表) 撮影:藤井百々



大和郡山は「かたりべの里」。



古事記を編纂した稗田阿礼の出身地。
稗田阿礼は、日本における「口承芸能」の元祖。



舞台は「落語のまち」から「かたりべの里」へ。

9月11日(金)18時30分~
大和郡山城小ホール

三川美恵子社中(箏曲)
桂小梅
桂小春團治
桂福團治
中入り
口上(司会:タージン)
囃子座(滑稽音曲)
桂花團治



・・・・・・ぼくに稗田阿礼のことを教えてくださったのは、大和郡山の上田市長だった。
それは「蝶六さん、久留島武彦っていう方をご存じですか?」という問いかけから始まった。


あれは3年ほど前のこと。
ぼくの「大和郡山」に対するこだわりは、実はこの一言から始まりました。


……続きは次号で。



ずっと追いかけてくださっている写真家の先生です。
相原正明つれづれフォトブログ

ただいま工事中ではありますが。
桂花團治公式サイト











132.襲名秘話~船乗り込み1~

その日はたまたま戎橋松竹のことに話が及んだ。
ぼくは時折、先代春團治夫人のもとを訪ねては昔のことを伺っている。

二代目さんと
(左から、二代目春團治夫人、ぼく、桂治門くん(襲名の三日前、撮影:藤井百々)



戦後、大阪が焼野原になって寄席小屋も無くなった。
芸人の活躍する場が限られていた。
そこで、もともとあった映画館を改装して寄席小屋にすることが決まった。


今から68年前のことである。


その成功を祈願して催されたのが、この「船乗り込み」だった。

「あれは(花月亭)九里丸さんが考えはったんや」
「……船を路上で、ですか?」
「船というたかて、電車ごっこみたいにすんねん」
「電車ごっこ?」
「あんたら知らんか?子どもらが段ボールをこう両脇に抱えて……」

「お母はん、そのへんのところ、もうちょっと詳しゅう教えてもらえませんか?」


襲名まであと半年足らず。
にも関わらず、
ぼくの頭のなかは「電車ごっこ」でいっぱいになった。



襲名興行の監修をお願いしている芸能史研究家・前田憲司先生に相談した。

「先生、当時の写真が残ってまへんやろか?」

ほどなく先生から一枚の写真が送られてきた。
前田先生に言えば、大抵のものは出てくる。
それが下の写真。

船乗り込み400
68年前の船乗り込み


「戎橋松竹」オープンを記念して行われた「船乗り込み」。
外で人が肩に担ぐ形で船を持ち上げている。
まさに「電車ごっこ」だ。


次に、襲名事務局を担当してくれているちんどん通信社を訪ねた。

チンドン通信社看板

林氏もまた、全日本チンドンコンクールで10回以上の優勝歴、
NHKドラマ青空にちんどんのモデルにもなっている。


この成り行きに、何か因縁めいたものを感じずにはいられなかった。


歌舞伎で、一座または俳優が興行する劇場へ到着して交わす行事を「船乗り込み」と言い、江戸時代、江戸や京都の俳優が、大阪で興行をする時は、飾りたてた船に乗って、道頓堀から劇場へ派手な「船乗り込み」が行われた。一度はこの風習も途切れたが、現在も襲名披露公演や七月歌舞伎の前などに行われている。
昭和22年9月11日。戦後大阪初の寄席として「戎橋松竹」が開場した。こけら落とし公演は出演者一同がこの伝統を真似て「船乗り込み」で劇場入りした。とはいっても、はりぼての船を電車ゴッコのようにして、お囃子を演奏しながら路上を練り歩くというもの。漫談家の花月亭九里丸(この時は故あって丹波家九里丸を名乗る)が発案した寄席芸人らしい趣向に、観衆からは喝采がわき起こり、練り歩いた五代目松鶴、二代目林家染丸、四代目桂米團治ら落語家たちは感極まり、目に涙を浮かべていたという。
今回、三代目桂花團治襲名にあたり、これにならって4月20日に池田市石橋商店街で「船乗り込み」を行った。船は放送芸術学院専門学校のみなさんの協力を得て制作。参考にした船の写真は、今回の船乗り込みでお囃子を担当した、ちんどん屋を営まれる東西屋からの提供。68年前に陸上船乗り込みを発案した花月亭九里丸の実父は、東西屋九里丸を名乗ったちんどん屋の先駆けであり、何か不思議な縁を感じさせる。(襲名パンフレットより:前田憲司)




「林さん、電話で言うてた船乗り込みの話なんやけど……」
「うん、うちにこういう資料があるんや」

そう言って、代表の林幸治郎氏が差し出したのが下の写真。

人力車400

屋形船400
林氏がある方から寄贈された。詳細は不明である。


ぼくが講師を勤める「放送芸術学院専門学校」にもお願いに上がった。
「何とか学校で製作してもらえまへんやろか?」
反応は早かった。教務課から連絡があった。

「山添先生が”是非やらしてくれ!”って言うてくれてはります」

山添先生は、文楽劇場で大道具を担当されている。
ちなみに「杉本文楽」の舞台監督を務められたのも山添先生だ。

「これをぜひ授業に取り入れましょう」

山添先生が監修して、学生たちが製作に取り掛かった。

ただ、製作に要する時間はあまりなかった。
授業とはいえ、学生らは夜を徹しての作業となった。
監修する山添先生もまた忙しい最中にあった。
折しも、二代目吉田玉男襲名を目前にしていた。

「玉男さんの初日が開けたら、ぼくもちょっと落ち着きますから」

船の制作1

その頃、ぼくは船乗り込み会場となる「石橋商店街」からもせっつかれていた。
「いろいろ解決せないかん問題もあるから、まず現物を見せてほしい」
当然のことである。


ぼくは内心焦りながらも、少し誇らしい気持ちでいた。
「かたや玉男さん、かたや花團治かあ……」

文楽の一大イベント「吉田玉男襲名」にあやかれそうな気がした。

その傍らで、襲名披露も含め「落語ウィーク」の制作を担当しているアゼリアホールの畑正広さん、
ぼくのプロデュースやマネージメント業務を担当してくれている藤井百々さん、
その他大勢の方々が、ぼくの思いや大風呂敷に振り回されていた。


藤井百々女史
藤井百々さんと、桂治門くん(撮影:相原正明)

「すんまへん」「ごめんなさい」がぼくの口癖になった。

課題はまだまだ山積みだった。



・・・・・・続きは次号で。


船乗り込み、小春團治と梅團治が引く

小春團治兄と梅團治兄が前の手綱を引いてくれた。(撮影:相原正明)


船乗り込み、林幸治郎の足さばき

船の先導する「ちんどん通信社」(東西屋)の林幸治郎氏。(撮影:相原正明)

船乗り込み、笛と太鼓

船の上で演奏するジャージ川口氏(太鼓)と、小林信之介氏(太鼓)


郡山城ホールに展示された船

「船乗り込み」に使われた船は、現在、大和郡山城ホールに展示されている。
左から、上田市長、ぼく、「芸能文化を伝承する会」代表の三川美恵子さん(撮影:藤井百々)





ただいま工事中ですが
桂花團治公式サイト


いつも追いかけてもらっています。
相原正明つれづれフォトブログ




131.船乗り込み~穀雨と共に~

(撮影:相原正明)


それはまさに奇跡でした。

天気予報では終日の「雨」。
当日は雨に備えて
古い黒紋付を引っ張り出しての巡行でした。

さて当日。
天気予報は見事に当たって、
やはりあいにくの雨。

でも、船がアーケードを巡行する間は土砂降りなのに、
アーケードのないところではしっかりと止んでくれました。

アーケード内に入った途端、またザァーという雨音。

ぼくはついている。

船乗り込み、出航前

船乗り込み、運行



商店街ではたくさんの「おめでとう!」の言葉を頂きました。

見物の皆さんが「三代目!」と声を張り上げ、
船乗り込みをおおいに盛り上げてくれました。

さすが「いけだ」は落語のまちです。



ちょっと離れたところには、
これまでずっと落語会を主催してくれたご贔屓さんの姿。

ぼくの主催では「つばなれ」しない会もありました。
でも、そんな会でも懲りずにずっと通ってくれたお客様。
(お客様が十名以上入ることを楽屋用語で”つばなれ”と言います。
ひとつ、ふたつ、みっつ………ここのつ、とお)


15回続いた「蝶六の会」に御尽力くださったお客様も。
このたびの襲名にはこの落語会の全会満席への評価がありました。

それに異芸種交流の会「異物の交流」のメンバー。


そんな長年のご贔屓さんや芸能仲間の多くも見守ってくれていました。
目と目で挨拶を交わすうち、目頭が熱く・・・・・・


うだつの上がらないぼくをずっと支え続けて下さった方々は、
本当に奇特な人々です。

船乗り込み、小春團治&梅團治


商店街の方々が誘導や交通整理をしてくれました。
ちんどん通信社の林幸治郎さんが先導を務め、
同じくちんどんの小林さん、川口さんが笛、太鼓。
先頭の綱を、桂小春團治兄と桂梅團治兄が引き、
露の都姉は一所懸命にビラ配り。
多くの一門の先輩、同期や後輩たちが一緒に練り歩いてくれました。
気がつけば、池田の小南市長も一緒に歩いてくれてました。
襲名会場となるアゼリアホールのスタッフはみんなに頭を下げてました。
多くのカメラも一緒に同行してくれてました。

ぜひこちらの動画をご覧ください↓↓↓
NHKほっと関西


船乗り込み、スタッフ共に集合写真


故・二代目春蝶に入門して32年分の思い出。
それが一挙に蘇ってきました。

船乗り込み、神社
池田「呉服神社」では、ご祈祷をしていただきました。



田畑の準備が整って、それに合わせて降る春の雨。
穀物の成長を助ける雨のことを「穀雨」というそうです。
この日の雨がまさにそう。

いい「花」が咲くよう、精進に勤めます。



ありがとうございます。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
ありがとうございます。

どうかこれからもご贔屓に願います。



今回も同行してくださった写真家・相原正明先生の写真ブログ↓↓↓
相原正明のつれづれフォトブログ

ただいま工事中ですが↓↓↓
桂花團治公式サイト

130.襲名挨拶まわり

襲名に際し各師匠方を順にご挨拶にまわるのがこの世界の習わし。
漆の盆には、扇子、手ぬぐい、挨拶状の三点セット。
黒紋付きの羽織、袴に身を包み、
各師匠方、新聞社を順にご挨拶してまわります。

治門くん三点セット

今回、付き人を務めてくれたのが、小春團治兄の弟子、治門くん。
お盆もまた、小春團治兄からの借りもんです。



このたびは春團治師匠の代行として、
一門筆頭の福團治師匠に同行していただきました。

福團治師と車中

まず、朝一番は春團治師匠宅に集合。

春團治師匠宅表札

春團治師匠宅

「ほんまはわしが行かんならんとこやが、
この通り、身体が思うように動かんさかい、福團治、頼んだで。
皆にくれぐれもよろしゅう言うといてや」と春團治師匠。

ハッと、頭を垂れる福團治師匠。


春團治師匠は、ぼくにとって、
師匠(故・先代春蝶)の師匠、つまり大師匠にあたる。

福團治師匠は、師匠の兄弟子。

この両師匠のやりとりに
ぼくの緊張はどんどん高まるばかりだ。

ぼくより先に襲名したある後輩がぼくにこう言った。
「兄さん、襲名するって、頭下げてまわることでっせ」

確かにそうだ。

けれど、それ以上に、

周囲の先輩方に頭を下げてもらうことでもある。

現に、福團治師匠がそうだし、
うちの師匠のすぐ下の弟弟子にあたる春之輔師匠なんか、
襲名が決まるまでの間、どんだけ頭を下げたことやら。

なんだか、とても申し訳ない。

文枝事務所
文枝会長の事務所にお邪魔しました。そこには、きん枝師匠の姿も。

ざこば師匠宅

ざこば師匠の笑顔

この日、体調がすぐれないながらもざこば師匠。
「じゅうぶんなおもてなしができずスマン」と恐縮がりながらも、ずいぶんねぎらってくださいました。


染丸師匠宅

染丸師匠の笑顔
ぼくがよく演じさせてもらっている「豊竹屋」は、こちらで稽古をつけていただきました。

八方師匠NGK
「狭いとこでごめんな」と八方師匠。NGKの出番終わりにお邪魔しました。


今回の制作を担当してくれている藤井百々女史が、
挨拶まわりにも同行。こんなコメントを寄せてくれた。

独特の作法、
師匠方や新聞各社から掛けられる期待のお言葉、
春團治師匠の代理として
後見人を務められた福團治師匠の男気溢れる姿、
そして、日を追って顔つきが変わっていく蝶六さん。
「襲名」とは「名跡をもらう」ことではなくて、
「名跡に恥じない姿になっていく」ための仕組みであり
儀式であるのだとあらためて思いました。


藤井百々女史
手前が藤井百々さん。パンフレットや挨拶状の編集・校正やデザイナーとのやり取り、

関係者同士の打ち合わせの日程調整や、ぼくのスケジュール管理まで、制作の多くを現在委託している。




前田憲司先生、紋をかくす仕草

芸能史家の前田憲司先生は、文枝会長はじめ、文都、文之助、菊丸・・・・・・
と襲名の監修を一手に引き受けている。
上方では唯一の「襲名請負人」でもある。そんな先生の語るエピソードに談笑する場面。



ところで、ぼくにはかつて「成人式」で苦い思い出がある。
二十歳のぼくは師匠の家に住み込みだったので、
いつものように着古して毛玉だらけのセーターにエプロンをかけて、
黙々と家の用事をこなしていた。
師匠の奥さんが、テレビのニュースを見ながらぼくに言った。
「あら、蝶六さん、今日ひょっとして成人式とちゃうのん?」
「ええ、まあ、そうですけど」
「家の用事なんかええから、早よ行っといで」

ぼくは一番こましな服を着て成人式の会場に駆け付けた。
テカテカに光ったヨレヨレのスーツだった。
会場にいる同世代の者が光って見えた。
とてもその恰好でそのなかに入っていく勇気はなかった。

キラキラ輝く同級生を柱の陰から眺めていた。

豊中市民会館だった。

「どうせまだ内弟子で半人前にも満たない身。
成人式なんて、まだ出るべきやないんや」

自分にそう言い聞かせて、会場を後にした。

師匠の家に戻ると、奥さんがいた。
「あれ、蝶六さん、えらい早いんやねえ」
「ええ、ぼくはまだ子どもですから」

わけの分からん返事。
けど、その時、それがぼくにとって精一杯の強がりだった。


新聞社まわりをした時、記者の一人がぼくにおっしゃった。

「確か師匠がお亡くなりになったのが51歳でしたよね」
「ええ、そうです」
「蝶六さんが…」

「今、52歳です。年齢だけは師匠を越えました」

師匠の生きたぶんだけ生きて、今回の襲名。

襲名が内定したとき、思い出したのがかつてのあの成人式。
それでまず思ったのが、

「黒紋付を新調しなくっちゃ」

その黒紋付も挨拶まわりでなかばヨレヨレになりつつあるが、
当日はこれを着て口上に並びます。

その日がぼくの成人式です。


そしてトリの高座は、この日のためにこしらえた色紋付。
ちょっと遊び心で「替え紋」にしてみました。

春團治一門の紋は、「花菱」。

花菱 中陰

名前から師匠からいただいた「蝶」の一字はなくなりますが、
今回、「花菱」にそっと「蝶」を忍ばせてみました。
ちょっとした遊び=替え紋です。

林家染雀くんが「こんなんありますよ」と教えてくれました。
花菱蝶

襲名当日まであと半月。
どうかこれまでに変わらぬお引き立てのほど、
よろしくお願い申し上げます。

○NDF_0067


蝶六公式サイト「蝶の花道」はこちらから

相原正明のフォトグラフはこちらから

↑↑↑ 今回の挨拶まわりに同行してくださった相原正明先生の写真ブログ。
     ほかにも、たくさんぼくの写真を撮ってくださってます。




東西屋からいざ出陣

襲名挨拶隊、桜の下で

左から前田憲司先生(芸能史研究家)、山田りこさん(初代花團治ひ孫)、ぼく、福團治師匠、桂治門くん、今井三紗子さん(福團治師匠マネージャー)、藤井百々さん(制作スタッフ)、金久寛章さん(狂言師)、花田雅史さん(ちんどん通信社)













129.露の都の育て上手・教え好き~繁昌亭入門講座16期・後記~

「いやあ、あんた着物を着るのがずいぶん上手になったやん」

「そうそう、前髪上げたらええ感じやで。その方があんた男前。表情もようわかってええで」

「わたしもがんばるから、みんな、私についてきてや。信じて!この都を!!」



「繁昌亭落語家入門講座」新・主任講師、露の都師匠。
まずはこんなやり取りから。これで一気に場が和む。

会場をぐるり見渡して、欠席者のチェックも一瞬に行う。


「あら、和尚さんは?……ああ、そこにおったん?…おっちゃんは?……病気やてかいな。大丈夫なん?」
「あら、あの子、今日も休んでるんとちゃう?……誰かつながってる?音源を届けたってほしいねんわぁ…ああそう、ほな悪いけど、頼むわな」



まるでお茶の間。

しかし、それも稽古が始まると一転。


「うちの師匠(故・露乃五郎兵衛)は芝居が好きやから、こういうときの所作なんかすごいきれいねん。……この形、これを目に焼き付けといてな」

しかし、そのとき、一人の男性がずっとよそ見をしていた。

「おっちゃん、あんた、私がここ見といてって、見てなかったやろ?……ほな、おっちゃんだけ特別レッスン。ちょっとこっちに上がっといで」

都師匠とおっちゃん1


都師匠とおっちゃん2

おっちゃんとあだ名された男性と都師匠のそれはまるで夫婦漫才。

おっちゃんも照れくさそうだが、嬉しそうでもあった。

こんなお稽古が半年間。
この初級コースを終えた受講生たちは、中級コースへと進級する者、あるいは、もう一度初級を志願する者、他のサークルに入って活動を始める者……みなそれぞれだ。でも、受講者の多くは進級という選択を取る。



この日は、「繁昌亭落語家入門講座・初級コース16期生」の修了式&発表会が開かれた。
都師匠にとっては、この講座で初めて受け持った受講生たち。
いわゆる「都チルドレン」第一号も面々だ。

朝の9時半から一階席のほぼ全席が埋まるという盛況ぶりだった。
しかも、お客のノリがいい。

入門講座16発表会16、リレー


入門講座16発表会、後ろから


ぼくのここでのサブ講師歴は13期からなのでかれこれ2年ということになる。

今回から大きく変わったのはまず主任講師の交代であった。
15期までは桂米朝師匠門下の桂米輔師が7年以上にわたって勤められた。

今期から、露の都師匠が受け持つことに。

昭和49年、露の五郎兵衛(故)に入門。
東西通じて、女流落語家第一号である。
主婦ならではの身辺雑記「みやこばなし」などで人気を博す。
平成22年文化庁芸術祭優秀賞。



「わたし、どう進めていったらいいかわからんから、蝶六くん、教えてや」
「お姉さんが主任やから、お姉さんの思うようにやらはったら」



もちろん、前任の米輔師匠も厳しさと丁寧さにおいて定評があった。
これまでぼく自身が先輩方につけてもらったことのないような細かな指導で、
ずいぶん勉強になった。


しかし、前例は前例。

都師は、ここ以外にも合計8か所の教室で指導されている。
すでに講師としての実績もじゅうぶんにお持ちである。

「全12回で、最後は発表会やね……ということは11回の稽古日」
「そういうことになります」
「で、発表は選ばれた人だけ」
「そうです」
「全員、上げたらあかんの?」
「ぜ、全員ですか?……20名近くになりますよ」
「これまでも、一席を3名でリレーしてたんでしょ。そやから、それを全員で」



都師の案で、稽古する演目をこれまでの2席から1席に減らして、
しかもそれを全員で演じることになった。
当日は転勤や病気などで欠席される方を除いて14名のリレー落語である。


「蝶六くん、わたしね、引き受けるのを最初はちょっと躊躇してたけど、
やらしてもうて良かったと思うわ」


繁昌亭入門講座と、都師が他に持たれている教室との違いは、
回数が決まっているか否かということである。

繁昌亭講座では、決められた枠のなかで、
確実に達成してもらわなければならない。
講師にとって、これが意外にプレッシャー。

ぼくも自宅の稽古場で『愚か塾』というのを開いているが、
こちらは、仕上げなければならない時間が特に決まっておらず、
ずいぶんのんびり進めさせてもらっている。


繁昌亭主任講師のプレッシャーはきっと相当なもん。
米輔師匠も、7年間、よく頑張られたなあ。



さて、発表会を終えて、都師とぼくと繁昌亭支配人、寄席文字の橘右一郎師は
謝恩会に招かれた。

締めには、お花と共に「仰げば尊し」の合唱をプレゼントしてもらった。
色紙も嬉しかった。

入門講座16謝恩会、集合写真

入門講座16、色紙




……受講生の発表が終わって都師がふと漏らした一言をぼくは忘れない。

「蝶六くん、この人らがウケてるって、
自分がウケるより、なんか、めっちゃ嬉しいわあ」


そういえば、弟子の紫ちゃんが「繁昌亭大賞輝き賞」をもらったときも、
都師匠はずいぶんご満悦だった。

都師匠はきっと、
「育てる」「教える」のが根っから性に合っているんだろうなあ。


次回の募集は、もうすでに始まっています。
興味を持たれた方は、下をクリックしてみてください。

繁昌亭入門講座17期生募集中


いかに、相手の心を一瞬にしてつかむか、
それを学びたい方はぜひ!

都師匠が目の前で実践して教えてくださいます。




桂蝶六の新公式サイト「蝶の花道」はこちらから



128.襲名披露成功祈願”船乗り込み”石橋商店街にて

蝶六改め、三代目桂花團治 
襲名披露にさきがけての船乗り込み。


4月20日(月)
石橋商店街"赤い橋"を朝11時に出発


ということになりました。


商店街あげての催しとなりました。
ぜひ大勢の方々にお集りいただきたく思います。

いしばし商店街入り口



石橋商店街、赤い橋400


船乗り込みは、大坂の夏の風物詩として江戸時代から続いている伝統行事。
興行の成功祈願である。
大正13年に途絶えたが、昭和54年に十七代目勘三郎丈が復活して今に至っている。


ただし、今回行うのは、歌舞伎のそれとは違って、
芸人ならではのパロディー=趣向である。


金の不足がアイデアを生む。

昭和22年、戎橋松竹が映画館から演芸場に改装されてオープンした際、
漫談家・花月亭久里丸師の発案によって行われた。

このときは、道頓堀ではなく、御堂筋を練り歩いた。
船の造りは、ちょうど「電車ごっこ」のようなもので、
船を模した枠のなかに芸人が入り、そのなかで芸人自らが歩いたという。



船乗り込み400
戎橋松竹の船乗り込みの模様・芸能史研究家・前田憲司 蔵

思えば、初代花團治も、二代目花團治も、
五代目笑福亭松鶴に誘われて、『楽語荘』のメンバーでしたが、
初代は昭和19年、二代目は昭和20年に
それぞれお亡くなりになりました。


スキャン_20150308
当時戎橋松竹で行われていた若手の会「戎松日曜会」の集合写真。
後列右が六代目笑福亭松鶴(当時光鶴または枝鶴)。
左に三代目米之助、五代目文枝(当時あやめ)、旭堂南陵(当時二代目小南陵)。
子供は和多田勝(当時小つる)

初代もあと3年、二代目もあと2年、
長く生きておられたなら、ここに並んでいたはずです。


初代が、二代が、参加できなかったこの「船乗り込み」。

不肖ながら、
この三代目が乗り込ませていただきます。



どうか、この公演が成功に導かれますよう、ご祈願ください。

初代花團治500
初代花團治


二代目花團治500
二代目花團治


戎橋松竹の「船乗り込み」から68年。

実は、今回もぼくは「電車ごっこ」のつもりでいた。
「でも、今回は襲名披露やから、
ちゃんとしたものを作りましょう」と言ってくれた。

製作するのは「放送芸術学院専門学校」美術コースの学生たち。
指導にあたるのは、文楽劇場で大道具係として活躍している講師の先生。


『ちんどん通信社』(東西屋)の面々によるお囃子とともに、
出航いたします。


まあ、本当に賑やかで立派なものになりそうで楽しみです。
これを書いている今も、学生たちが昼夜問わず、
船の制作に取り掛かっているはずです。
どうか仕上がりをお楽しみに。

船の制作1


船の制作2

(船の制作風景)


また、『石橋商店会』もおおいに盛り上がってます。
ぜひぜひいらしてくださいね。


ちなみに、下の写真は東西屋『ちんどん通信社」所有のものです。
今回、これらをおおいに参考にさせていただきました。

屋形船400

人力車400


花團治襲名披露・アゼリアホールのサイト

プロフィール

蝶六改メ三代目桂花團治

Author:蝶六改メ三代目桂花團治
落語家・蝶六改め、三代目桂花團治です。「ホームページ「桂花團治~蝶のはなみち~」も併せてご覧ください。

http://hanadanji.net/

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